個人主義から全体主義へ
まずは本家のブラックホールにアップされた記事をまとめてみました。
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07年の初戦。初招集した中村が2得点に絡んだ。高原がゴールを決めた。6万大観衆が快勝に酔いしれた。だからこそ驚かされた。試合後の指揮官は不満しか口にしなかった。
「中村の改善すべき点はプレースピードを上げること。特別なことをしようという重圧もあったのかもしれない。1本1本すべてナイスパスを出そうとしていた。そんな選手は世界にもいない。天才ぶりは何回かに1回でいい。いつも天才ぶりを発揮しようとすれば無残になる」
同じ欧州組でも高原に対しては得点だけでなく体を張ったドリブル、周囲を生かした動きを評価。「ブンデスリーガでプレーできていることが偶然ではないことが分かった」と絶賛した。さらに終盤に投入した水野、家長、藤本の若手について「1タッチが増えアイデア、エスプリ(機転)の利いたプレーが増えた。これが日本の目指す路線」。まるでこの日の中村とは180度違うと言いたげだった。
その意味は数字に表れた。前半のシュートは、わずかに3本。中盤でミスが多く、ボールは回らない。人は動かない。後半残り5分間のシュート数は4本(前後半で10本)。相手が疲れたとはいえ、「特に若い選手3人(藤本、家長、矢野)を入れた後はスピードが上がり、ワンタッチのプレーが多くなり、エスプリの利いたプレーが見られた」と絶賛した。
欧州組が合流したから勝った、という見方をオシム監督はあっさりと否定した。終了間際5分のサッカー、つまり俊輔、高原を下げ若手を入れた後こそが「日本のサッカーが目指すのもの。理想だ」と強調した。
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相手が疲れたからエスプリの効いたプレイが出来たとすれば、日本は永遠にダメでしょう。
疲れを理由にしてしまえば、オシムがいくら何を言っても無駄でしょう。
私はテレビを観戦しているとき、背番号などほとんど気にしていたくありません。ゴールしたあとその選手が××だったと言われて、初めて気が付きます。
オシムが監督になって以来、そういう観戦の仕方に余計に快楽を感じるようになりました。
誰もが個を主張することなく、ひとつの大きな波のように攻撃を繰り返す・・。
個人主義から全体主義へ・・。
これは今の歴史の流れに逆行しています。
ベルリンの壁が崩壊して、今世界は「個」を際だたせることに躍起になっています。
アメリカが「自由を守るために戦う」と言えば、誰も反対出来ません。
私は今回の中国紀行で、安倍晴明の文献を渡されました。それを編集したのは占いの達人達でした。彼らは夕食の席を設けて、日本的なものの良さを私の喋りました。
そして最後に私に振りました。
「森田さんのスピーチが聞きたい」
私は中国発の占いが世界に広まる事で、個人主義が崩壊するのではないか・・と言いました。
目線は自分ではなく、周囲に向けなければならない・・とも言いました。
実はこれは、オシムがやろうとしているサッカーと共通するものがあると思うのです。
[ 私は誰? ]
2007年04月03日 16:49 | 投稿者:森田 健(もりけん)
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07年の初戦の、終了5分前に若手3人が入った時には、日本の勝ちが濃厚になったから若い3人に試合を経験させようとして入れたのかなと思いました。
でもそんな5分間ではなかったです。あれよという間にボールが繋がっていった…という感じがしてビックリしました。だから誰から誰に繋がったという見方をしている暇はなかったです。
あの5分間のプレーが試合全体に置き換わったら、カメラはズームで選手とボールを追うのは難しくなるんじゃないかと思いました。
> 個人主義から全体主義へ・・。
一人一人が個を発揮すれば、刺激的で活発な世の中になるようなイメージがあります。
でも、衝突も増えそうな気がします。衝突はエネルギッシュかもしれないけど、でもエネルギーのロスという感じもします。
全体主義は、個人に目を向けていたら地味でつまらなく感じるかもしれません。
でも全体で起こっていることは、つまらないどころか目で追おうとしたって追いつけないほど早くて勢いもあって、何のロスも感じないんじゃないかと思いました。
投稿者:ぷく | 2007年04月13日 08:47
オシム監督のつくる日本代表の選手たちは、ほとんど知らない
人ばかりなのに、なぜだか試合が面白いです。
以前はスター選手個人ばかりに目が行きましたが
今は誰がというよりはチーム全体として見てる気がします。
俊輔に対しても他の選手に対しても、一本一本すべて
ナイスパスを出すということは今までなら当然のことのように
求められたのではないかと思います。
だからこそ、ナイスパスを多く出せる人に注目が集まった・・。
そんな天才ぶりよりもプレースピードを上げることというのは
俊輔という個人のプレーが必要なわけではないことを
いっているんだと思いました。
全体主義・・オシムは徹底している気がします。
投稿者:まる | 2007年04月08日 22:46
この場合の全体主義は、個を押し殺してガマンして・・・の全体主義ではないと思いました。
個を押し殺しての全体主義は、おそらくみな心の中に不満があるのではないかと思います。
でもそれを隠して、全体にムリムリあわすような・・
そういう全体主義だったらこれまでもあったように思います。
でも、もりけんさんの言う全体主義、オシムサッカーは、個人の中に不満がないと思いました。
「満足に満ち溢れた」中での全体主義・・という感じがします。
個を出していてはそれはないと思いました。
もりけんさんのスピーチの内容はそういうものだったのですね。。
この話を聞いた方々は、内容もさることながら、その発信源が中国の占いだということで、とてもうれしかったのではないかと思いました。
そして実際、中国発の六爻、盲師派、面相占術などの占いは、視点を自分に向けていてはできない・・と思いました。
投稿者:みっく | 2007年04月05日 14:17
日本代表は、長いこと、決定力がないと言われてきました。
中盤で器用にパスをまわせる選手は、たくさん現れたけれど、ストライカーと呼べるような選手はいませんでした。
ここで、スラダンを引き合いに出すのが適当かどうか、わかりません。しかし、リョータのように、すばやくて、やわらかくて、小兵で、センスの良いプレーヤーは、結構いると思います。中村俊輔、憲剛もその系譜に連なります。
しかしルカワのような、ゴール前の唯我独尊ぶりを発揮する点取り屋は、かつての釜本くらいしか思い浮かびません。
しかし、高原は・・という思いがあります。私は、そんなにサッカーに熱心ではないけれど、ゴール前で、「よろしくお願い」し合っている日本の「ストライカー」を見るにつけ、自分のことのように歯がゆい思いは積もっていました。
ドイツに行ってからの高原は、点の取れない時期が長く続いています。あの大男と思えた高原も、テレビで見ると、ドイツ人にはさまれてまるで華奢に見え、「やっぱりアジアのストライカーでは通じないのかな・・」と思ったりしました。
このあいだのゴールには、ドイツでの日々が凝縮されていたと思います。
私はこれまで、サッカーを見るときは「私は原因」で見てきました。たとえどれほどアイデアが豊富でも、ゴールが決まらなければしょうがないと思って見ています。そして、日本サッカーが長年、喉から手が出るほどほしがってきたあの「決定力」を、高原がひっさげて帰ってきて、ゴールを決めたとき、吼えました。
海外に活路を求めた日本人ストライカーは、高原以外みんなそれから落ち目になっています。
もちろん、たとえ高原でも、ドイツには通じても、ワールドカップには通じないのでしょう。
そして下位の問いにも、通じないのでしょう。
それでも、あのゴールはよかったと思います。
後半の三人にはエスプリがあったかもしれませんが、決定力はなかったと思います。
高原に注目して、試合を見るというのは、もりけんさんだけに注目して不思議研HPを見るようなものです。
もりけんさんは、たしかにやわらかく、女性性を感じさせるところもありますが、それでも、決定力があると思います。
決定力という言葉が、言外に意味しているのは、「サッカーは確率ではない」ということです。
いくらアイデアが湧いてきても、ゴールネットを揺らせるとは限らないし、まったくつまらないところからでも、ネットをゆらす人は揺らします。
そういう百発百中みたいな感じが決定力だと思います。しかし、本当は、百発百中ではなくて、目に見えない無数の外れたシュートが、一本の決定力を支えていると思います。
では、後半の三人が見せた怒涛の波状攻撃があれば、決定力はいらないのか、それとも、波状攻撃こそが決定力なのでしょうか。
決定力のあるストライカーにボールがわたったときには、まるでスローモーションみたいに感じます。
それはたぶん、彼らがとても覚めているからではないかと思います。どれだけ混雑するゴール前でも、まるで原っぱで練習しているみたいに、冷静にトラップをして、空いているコースにボールを入れます。
あの三人は、集団で数を打ちました。もし、かれら一人ひとりが高原くらい覚めていれば、高原の何倍ものゴールを入れられたのではないかと思います。
しかし、そういう決定力がいらないのが、オシムのサッカーなのかもしれません。
そういうサッカーがもし在るとすれば、それは未来のサッカーだと思います。
投稿者:L.B. | 2007年04月05日 02:01
>目線は自分ではなく、周囲に向けなければならない・・とも言いました。
目線を周囲に向けたとき、互いにパスを回しあう状態になる。。と思いました。
この状態というのは、6次元の図のように、
ネットワークでつながった状態だと思いました。
投稿者:あかり | 2007年04月04日 21:39
オシムのサッカーは南米の個人技でもなくヨーロッパの組織的サッカーでもないような感じがします。南米も、ヨーロッパもファンタジスタ的な選手が必ずいます。しかし、オシムは限りなくその個を際立てるようなプレーを批判します。全体に溶け込んだあるいは周囲を生かした、選手が誰が誰だかわからないボールが選手が速いスピードで動いているサッカーのようです。私は俊輔だと言ってしまえばそれでワンマークされます。まるでアメリカは自由だと言っているかのようです。、しかし、中国の占いが世界に広まれば。。。私は俊輔だアメリカは自由だとは言えません。全て運命は決まっているのですから。。。
投稿者:じんのり | 2007年04月04日 20:13
オシムのサッカーは南米の個人技でもなくヨーロッパの組織的サッカーでもないような感じがします。南米も、ヨーロッパもファンタジスタ的な選手が必ずいます。しかし、オシムは限りなくその個を際立てるようなプレーを批判します。全体に溶け込んだあるいは周囲を生かした、選手が誰が誰だかわからないボールが選手が速いスピードで動いているサッカーのようです。私は俊輔だと言ってしまえばそれでワンマークされます。まるでアメリカは自由だと言っているかのようです。、しかし、中国の占いが世界に広まれば。。。私は俊輔だアメリカは自由だとは言えません。全て運命は決まっているのですから。。。
投稿者:じんのり | 2007年04月04日 20:12
時空は運命を決めているから、自分という個は外側が作っていることになります。
当たり前かも知れませんが、自分ひとりでできることなぞ、ほんの一つまみ程度であると思います。
だからなおさら自分の努力で積み上げていって、人生を成功させるという概念が時空的には矛盾していることになります。
オシム監督のサッカーもいわば時空的と言えるのだと思います。
まわりからは天才と評されている選手であれ、その選手がグラウンドに入り天才を主張してしまえば、その主張でエネルギーを漏らされてしまうのかと思います。
イキイキとしたサッカーを展開させるには、主役を設けてはいけないということなのだと思います。
むしろ設けるとすれば、グラウンドの中の場(波)なのだろうと思います。
その場には個が強い選手は一人もいらないということなのだと思います。
自分は間違っても一人で生きているわけではありません。
外側により形成されています。
それは時空がもたらした結果です。
オシム監督のサッカーと言うのはイキイキとした場を生み出すサッカーをされておられるのだと思います。
投稿者:しん | 2007年04月04日 19:16
最後の5分で起こったことは、個が個へと意識が向ったのではなく、全員が全体を意識し見渡してプレーを出来た為に、それぞれを生かし合うことが出来て、生き生きとしたプレーができたのではないかと思いました。
それは、その瞬間に誰がボールをさわるのか、それを次は誰にパスをつなぐのか、パスを出す側と受ける側の意志の疎通が全体で円滑にできていたからのような気がしました。そうでなければ、オシムをして、エスプリの利いたなどという言葉はでないような気がしました。個が個にこだわるより、全員で全体をみわたせれば、お互いを理解しやすいようなプレーができるような気がしました。
投稿者:YK | 2007年04月04日 10:35
もりけんさんが伝えようとされていることが透明な雲となって包み込んでくるような気がします。
理解しきれない大きさ深さが感じられて頭がぐぁ~んぼぉ~っとします・・
亡き父が書家だったので実家にはでっかい筆がいくつも天井からつるされていたりします。
私は左利きが入っているからかがさつでこりゃダメだったのか兄弟でも一人だけ習っていないためいっそう思慕があるカモなのですが、書も中国から伝わった文化だと思います。
オシム監督の目指す日本サッカーは一筆書きのイメージではないかと思いました。
ノンストップで流れるようにボールを運びゴールへ持ち込む感じです。
途中で誰かがトメやハネを加えたら、動きが止まりリズムが変わってバランスが崩れるのだと思います。
そうでなく見事な流れが作られたとき、透明の雲の中でプレイしているかの独特の場が発生するのではと思います。
それは相手選手を寄せ付けず、試合終了時には皆が爽快感に包まれるのだと思います。
中国発の占いが世界に広まると、世界の誰もが時空の存在を知って確かに感じられると思います。
人は時空と一体になるかも知れません。
そのときを時空は待っているように思います。
この世がすっかり変わる日が来る・・・
たった一人で始められたもりけんさんを神仏が見守り応援していることに納得いたします。
オシム監督の言われた「すべてナイスパスでなくてもいい」に中村俊輔選手は、「え?ホント?ホントにいいの???」と青天の霹靂のごとく目をパチクリさせているかも知れません。
彼のストーリーが新たな展開を迎えていると思います。
投稿者:ゆくえ | 2007年04月04日 09:47
オシム氏の高原のコメントを読むと、まるで彼は偶然などあり得ないという仮説でも持っているのかと思わせるような発言です。
私達がファンタジスタに望むことは偶然やあり得ない奇跡を作り出して見せてくれることを期待しています。
陰陽五行によって偶然が排除される事例の情報が広まると、「個」に向けられていた視点が全体へ移るのだろうかと思いました。
投稿者:イーキン | 2007年04月03日 23:36
>誰もが個を主張することなく、ひとつの大きな波のように攻撃を繰り返す・・。
日本代表は私みたいなスポーツ知らない奴でもカーッとなります。ルールも頭に入らず、結局試合の事は分からないままなんですが…また見たいって思います。こんなに興奮するスポーツだったのかと思います。ボールが一人の選手に止まらないという事、出したパスを信じていいんだってこと、パスが反射するかのように繋がってく事、なんか書きながらまた興奮してますが…その様がフィールド全体で壮大だなと思います。今まではサッカー知らなくて解説されてる誰かを見つめてなきゃならなかったんだけど…ワンパスで動いてる布陣にそれはないです。ゴールに向かってギャー繋がった〜とか…今の何?とか波を見てます。
占いが広まるとどうなるんだろうと思いました。私の視点はかわるんじゃないかと思いました。今は…解説つきの有名プレイヤーを基準に世界をみてるんじゃないかと思いました。それがなくなってフィールドに立ってると気づいた時…チームを見渡すと思いました。
投稿者:和佳 | 2007年04月03日 23:31
私ははにゅお(羽生選手)が入った時、嬉しくって
(お母さんみたいな気持ちで・・汗)思わず、
行けーーーーーーーーーーー☆となりましたが(汗)
あまりに動きが早くて、また中継が全体の動きを
撮っているシーンが多いので、はにゅーーーーー!と
言ってた選手が違ったり(爆)まあいいのですけれど(笑)
実際、パスがポーンと抜けたりすると、
もう選手どころじゃありません。。。
皆かっこいいし、サッカーのことも、
ただ点を入れるゲームとゆうよりも
綺麗だな・・とか(スポーツなのに)
今まで感じなかったとゆうか、違った見方で
見えてきました。
でもそれは、私の見方が変わったのではなく
監督目指すサッカーサッカーの
(監督が目指すエレガントなサッカー)
片鱗をみているからかもしれないと思います。
監督はサッカーの監督なのに、
監督の言ってることはずんずんと心の中に
響いてきます。
サッカーのことを話しているのに、
私は自分の人生や他のことにも、
重ねて感じている部分があります。
投稿者:こはな | 2007年04月03日 22:10
今までの個人主義というのは、それまでのファシズム的に対するカウンターだったように思います。
だから、個を重視するといいつつ、個と個の関わりよりも個のエゴを優先するような個人主義だったように思います。
それは周囲よりもまず自分を優先させるのは当たり前であるというか、個のエゴとそうでない個人の部分との線引きが曖昧だったような気がします。
しかし、これから来るであろう全体主義というのは、過去のファシズムでもないと思います。
多分バラバラであることをよしとしながら、周囲に対するつながりを重視していくような気がします。
それは迂回して個を大切にすることに繋がっていくように考えています。
全体と個が縦ではなく、水平に繋がっていくイメージがあります。
投稿者:でるた | 2007年04月03日 21:55
>私はテレビを観戦しているとき、背番号などほとんど気にしていたくありません。ゴールしたあとその選手が××だったと言われて、初めて気が付きます。
観戦中、ものすごく「誰?」を気にして見てました。そして、俊輔がキックすると、ああ、やっぱり、などと思ったりしてしまいました。高原のゴールを、さすが高原、と思って見てました。若手が後半出てくると、一生懸命顔を確認してました、でも動きが早くて、目が追いつけませんでした。もう、誰が背番号何番だかぐちゃぐちゃでした。すごいスピード感でした。そう、その最後の5分は、息もつけないくらいの展開にただただ目をこらして全体を見てました。
自分に根強い個人評価の意識があるのと、個を手放して全体で一つの流れになった時のスピード感や湧き上がってくるような大きなエネルギー感がとても気持ちよいのと、両方に気が付きました。
最初から最後まで、どんな有名な選手が出ていても、どこにいるのか何番なのかどんな顔してるか一つも気にせずに観戦できたら、その時こそ、自分の中に全体主義が浸透したと言えると思いました。
>目線は自分ではなく、周囲に向けなければならない・・とも言いました。
トラさんや面相師さんや中国の能力者さんたちの判断は、断定形です。性格も健康も金運も事業運も全てです。事実として運命に書かれているとおりを告げます。そして変更する場合は、個の内側を変えるのではなく、外側を変えます、紐の長さだったり、植物を置く事だったり、誕生日を祝わないことだったりetc・・。個が生まれ持ったものは既に決定事項扱いです。
「人生いいときもあれば悪いときもある」とよく言いますが、その原因は普通は分からずジマイです、それが人生というものだ、と。それでも悪い時が少なければ少ないほど、人生に満足できるので、自分を変えればどうにかなるかもしれない、と思います。自分が回りを変えうる力を有している・・。でも、占いの世界は違います。全ては五行の関係性から生じられたり剋されたり合されたりチュウされたりしている、と言います。全てのものは、互いに互いの周囲であり環境であり影響しあっている、と教えてくれます。自分が変わることで、周囲が変わる、という自分中心の世界感ではありません。
死ぬとき、普通は満足が多ければ多いほど、幸せな最後になる、と思っていると思います。そして、個の内側に目が向いている場合は、例え何度生まれ変わっても、全てに満たされた、ということにはなれないのではないかと思います。でも、占いの世界からすれば、死ぬまで生剋合チュウの世界にあり、そうありながら死に、そして生まれ変わって再びその世界に入ります、回りがあって自分があり、自分も回りにとっての回りであり、互いに間接的に関係しあっている。それが当たり前の世界になれば、不満など持っても仕方ないことなのだと思うようになると思います。
投稿者:ぱらむ | 2007年04月03日 21:14
1人の人が注目され得点を上げていくことより、全体が激しく動き、どういう展開になっていくのかわからないほうが、見ている方としては面白いなと思います。
この前の試合でいえば、最後の方の展開の方が面白かったです。
しかし、やっている本人達だって、その時は精一杯だったはずで、ただ見てるものとしては、どうこうとはいえません。
それでも、言わせてもらえば、オシムのめざすサッカーが実現できた時、とても強いチームになるのではないかと思います。
それは、個人主義ではなく、全体主義ということなのだと思います。それは、日々の生活の中でも言えるのかもしれないと思います。
投稿者:敬子 | 2007年04月03日 18:29
この言葉は、衝撃的です。
押し付けまがしい全体主義から、やっと「個」が解放される方向に向かっているのにです。
ところが、中国紀行からも、少なくとも「個」はネットで繋がっているようです。
これからの全体主義は、バラバラの「個」が如何に自分ではなく、周りを見て、意識的に運命のもともとの繋がりを生かしていくという方向なのではと思いました。
そこには、バラバラの「個」より、豊かな「個」の体験があるかも知れません。
投稿者:yuyu | 2007年04月03日 17:45

