靴下のボールこそポリバレント(多様性)の原点
オシムは次のように言いました。
「サッカーを始めたきっかけなどという上等なものはない。それ以外にやることがなかったからだ。貧乏な家庭だったし、他のスポーツは金がかかった。ボールは靴下の丸めたものだった。それをまた別の靴下に入れて、どんどん重ね合わせてから上から縫いつけた。テニスボールで普通に試合をやったこともあるよ。おかげですごい技術と感覚が身に付いたよ。まあ、サッカーをやるのは時間つぶしでもあったんだ。本もないし、ラジオだって10軒に一軒の家庭にしかない。そんな中でボール一個で三時間はリフティングをやっていた。サラエボ。あの複雑な歴史に塗られた地域で・・」
私はスポーツが嫌いでした。なんでわざわざ苦しいことをしなければならないのか・・。
主に私がしていた(させられていた)のが剣道だったからかも知れません。正座をさせられたり、素振りをさせられたり・・。
しかしオシムの言葉を読んで、そういう接し方もあるんだ・・と思いました。
時間つぶしならば、面白いかも知れません。そして精神論を言う先生がいないことも良かったのだと思いました。
靴下のボールとか、テニスボールとか、そういうものでプレーすること自体がポリバレント(多様性)だと思いました。
[ オシムの過去 ]
2007年05月15日 10:37 | 投稿者:森田 健(もりけん)
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今日の試合を見てなぜか心臓が震えた気がしました。
オシムはカードをきるだけで、選手は自分がどんなカードなのか
オシムの気持ち、みんなの気持ち、
全体のことを瞬時に感じて、飛び出して行く気がしました
オシムのきったカードと、なるべく同じになるように
自分を誰にでもしていかなければだめな気がしました。
その時は、なんでこんなにしんどいことをしなければならないのかなどとは思う暇もない感じがしました。
何故、走らなければならないのかそんなことを
考える時間がないと
悲壮感もなくなるのかもしれないと感じました。
もう、二度と同じものは何もないけれど
一回きりだけれど、
苦しいことの意味つけなどしなくても
選手はオシムのもとにならば、全力で走り、相手のために
理由もなく、走り続けることができる気がしました。
ダンスしつづけることができる気がしました。
投稿者:なんしぃ | 2007年06月05日 22:27
ブラジルの様にみんながサッカーボールを蹴っているサッカー愛国の環境とはわけが違い、やることがなかった、貧しかった、暇つぶしに靴下のボールとかでリフティングをしていた。オシムは環境の結果、サッカーで遊ぶしかなかったかの様な感じです。しかし、同じサッカーで遊ぶブラジルの子供たちとかってがちがう。ボールが与えられている、サッカー王国、目指す英雄、それらが何にひとつ無い地域でこそ、代替可能な靴下のボールやテニスボールの多様性が生まれたのだと想います。何も無い中で何でデモできるようにオシムは問いかけていたかのようです。
投稿者:じんのり | 2007年05月31日 16:35
サラエボといわれると、もう、とりわけ90年代の悲惨なイメージしか、
私は思いつきません。
そして、サラエボの人もサッカーをやっていたんだな・・と。
サッカーはすごいです。
どこでもやれるのがサッカーなのだと思いました。
精神論など入り込む隙間の無いような日常で、
毎日、周囲で誰かが死んでいるような場所でも、
なにかを丸めれば、きっと子供たちはサッカーができるのだと思います。
それは、今戦場になっているような地域でもたぶんそうではないかと思います。
どんなに形を変えたとしても、
サッカーがサッカーだとすれば、
衣類を丸めたものの方が、新品のサッカーボールよりも、
もっとサッカー的なのではないかとすら思います。
投稿者:LB | 2007年05月31日 00:56
靴下を丸めたものやテニスボールでサッカーをすることは、どんなにかやりづらいたいへんなことかと思います。
その代替ボールを長時間リフティングするなど思うように動かすには、ボールと対話する必要があるのだと思います。
その対話の相手は、もの言わぬ代替ボールなのではなくて、実は時空だったのではと思います。
自分がこう出るとボールはこう来るという繰り返しは、そこに時空が介在してこそかなえられるもので、何時間もリフティングしながらオシム監督は、時空の感触、時空の多様性を得ていたと言えるかも知れません。
オシム監督は、そうして長い間時空と密談し続けてこられたのだと思います。
それは、サッカーにおける戦術や選手など固定的な考えは一切必要ないと知り、常に新たなそのときを用意することだと思います。
試合に臨む際こちらがやるべきことは、納得のいくデータをそろえるだけということでもありそうです。
対戦相手に関するものや日本代表選手のコンディションはもちろんのこと、宿泊先やピッチの条件まで、可能な限りデータを押さえて試合に臨むオシム監督に唯一残されるのは、化学変化とも言えるような時空の演算なのだと思います。
オシム監督は、それさえも見えているのではと思います。
投稿者:ゆくえ | 2007年05月27日 09:15
時間つぶしで、しかもちゃんとしたサッカーボール
じゃなくて、靴下を丸めたものや、テニスボール、
何でもサッカーボールにして遊んでいたのかなと
思います。しかもきっと、そうゆう子が大勢いて
なにもないとこで、皆でできる遊びがサッカー
だったのかなと思います。
元々のボールすらない・・
こんなものボールでもない・・とゆう奴なんかいなくって、
そこでは、靴下で丸めたボールがボールだったんだ
と思います。
こんなんじゃ上手くなれない・・とか、
ボールがないからできないとか、
これじゃなきゃいけない・・ってゆうのは
靴下のボールの前であるのだろうか・・と
思います。
色んな理由をつけて、これは無理だ・・ってゆうのは
監督には通用しない気がしました。
監督が生まれ育った場所の詳しいことはわからない
けれど、監督は、靴下だってボールにできる、
小さいテニスボールだってボールになるし、
かっこうの練習材料なんだと思います。
監督は選手に無理を言っているわけではなく
「ほんとにそれは、そうだろうか・・」と考えさせるんだと
思います。
投稿者:こはな | 2007年05月21日 22:20
オシムの人生は、サッカー一色のように見えます。
今は、祖国のほかの国で、ナショナルチームの監督をしています。
オシムの運命と、サッカーはすごく密接なんだと思います。
ラジオも本もなくて、でも、サッカーボールしかないのだったら、
朝から晩までサッカーをやってるだったら、環境ができていたとも
思えるのですが、テニスボールや靴下であっても、サッカーをやった
というのが、面白いです。
テニスボールしかなかったら、キャッチボールばかりやってても、
よかったかもしれないと、思いました。(あ、球とれないか、、、)
オシムとサッカーの運命的な縁は、テニスボールとラケットの縁や、
靴下とそれを履く足との縁よりも、強力だったんだと、思いました。
投稿者:テクノン | 2007年05月19日 21:05
何かを始めるときに、先生がいないということは、
おおもとの部分を自分の発想で形作っていけるという点で多様性に繋がる可能性が高いと思いました。
サッカーのスター選手のプレーを目で見ていても、
自分で再現しようとすれば、いろんな方法を試してみると思います。
どこに力を入れたらうまくいくか、目線をどこにおけばコントロールしやすいか、などなど10人いたら10人とも違う方向から迫って考えると思います。
サッカーボールが手に入らなかったことで、さらに扱いづらいものをどう扱うかも自分で編み出すしかなく、
不自由なことがどんどん多様性に繋がっていったのではないかと思います。
その現状を満足して受け入れて、その中でいろんな視点からサッカーに接していったオシムだからこそ、靴下のボールを生かせることが出来たのだと思います。
投稿者:よねこ | 2007年05月19日 00:25
意識は、無意識に0.5秒遅れるそうですが、オシム監督がやっていたことは、意識を無意識に通すことだったのではないかと言う気がしてきました。
ポリバレントの意味が良く分かっていませんが、ボールが靴下になったり、テニスボールになったりしたとき、それをどうやってうまく扱うかを考え、試行錯誤することは、ボールの変化に合わせて自分を変えると言うよりも、もっと、本質的な感じがしました。
本質が分かってしまえば、ボールが変わったときそれに対する対応が変わったように見えても、同じことをやっているという事になるのだと思います・・。
ボールが、人間になっても、同じことなのだと思いました。
1対1で、相手が変わったとき、相手によって態度が変わるという事は、ポリバレントとはいえないのかもしれないという気がしました・・・。
無意識と言うのが、全ての人にとって共通しているとすれば、意識を使って無意識に通すことによって、0.5秒の差をなくすことが出来るのではないかという感じがします。
以前は分かりませんでしたが、「ふたを開けなければ分からない」という試合が、意識を使っていると言うのは、こういう理由があるのかもしれないと思いました。
投稿者:独楽 | 2007年05月18日 21:53
学生の運動部に入っていた頃、身体を鍛えながら精神を鍛えるみたいな話をよく聞かされました。
それに呼応するように、よくありがちな先輩の無茶な特訓とかあり、その時は鵜呑みにしていましたが、今から思うとただ単に我慢強くなっただけでした。
精神論があると意味づけがよくされます。
これを行うのはこういう意味があるからだとスポーツのスキル自体ではなく、精神を鍛える一面があるのだといわれたりします。
そうやって、自分が高尚なものでもやっているように錯覚していく気がしました。
世のスポーツをやって名を上げたりいる人の多くは、もしかしたら自分が高尚なことをやっているように思っているのかもしれません。
意味づけを強化して自分のやっていることの価値を自動的に上げている気がしたからです。
靴下を丸めてボールとして使うとかテニスボールでゲームをするというのは、意味づけの逆サイドを行くように思います。
そこに意味とかなく、それしかないから仕方ないという諦めから出発している気がするのです。
でも結果的にポリパレントに対する視点ができました。
意味づけはポリパレントを阻害しているのだと思いました。
投稿者:でるた | 2007年05月18日 20:18
暇つぶしには何の目的もなかったのだと思いました。
それしかすることがなく、それが楽しかった・・ただそれだけ。
それは、環境がサッカーをさせたという感じで、とても受身だと思いました。
そして、手元にあるものだけで何かをしようとするとき、多様性というものが自然に出てくるのかもしれないと思いました。
冷蔵庫の中身で勝負・・みたいです。
そういえば・・オシム監督は、日本という冷蔵庫の中身だけで勝負しようとしてるのかなと思いました。
中身は決まっているので、それらに多様性を持たせることで、おいしい料理ができるのかもしれません。
投稿者:みっく | 2007年05月18日 12:10
環境である外側が個に与える影響を受けて、それにどう対応できるかということによってポリバレントは育まれるのだと思いました。工夫をすることだと思いました。靴下やテニスボールでする、人がいなけりゃリフティングをする、そこにはやわらかい視点があるように思いました。
こうでなければならないという視点ではなく、とりあえずこうしようという状況を冷静に見つめてどうにかするという発想があるように思いました。
投稿者:yk | 2007年05月18日 07:39
子供は何もなくても、そこらへんに落ちているもので工夫して遊ぶものだと思います。だから、転がっていた靴下を丸めて蹴って、それが意外と面白くて、靴下をさらに補強してボールのようにして蹴っていたのだろうと思いました。テニスボールが手に入っても、ラケットがないから、テニスボールでサッカーをやっていたのでしょう・・
試合といっても、整備された広いグラウンドなどなかったでしょうから、路地裏で・・という感じだったのではないかと思いました。映画「GOAL」でも、主人公が路地裏のようなところで試合のようなことをしていて、あんな狭いところで・・?いったいどこにシュートするんだろう・・と思ったのを思い出しました。オシムもそんな感じだったとしたら、ポジションなんかも当然入り乱れていただろうと思います。
オシムにとっては、ポリバレントというのは自分のサッカーの原点というか、ごく自然にやってきたことなのかもしれないと思いました。
投稿者:くるみ | 2007年05月17日 23:32
ものがたくさんあっても、出来ることは1つだけです。
サッカーしかやることにのない環境で、靴下のボールとか、
テニスボールとかでやるしかなくて、でもそれって、
職人さんになるのはとても恵まれた環境だったのでは
ないかと思いました。
そういう環境を意図して作ろうとしたら,今の日本では結構大変だと思います。
物も豊富にあり、おもちゃもいつの間にかどんどん増えていきます。
目移りするものがたくさんあります。
環境があって運命があると思いますが、
今の環境の先には何かがあるのかもしれないと思います。
それをどう感じるかは人の見方によるのかと思います。
また,時期によっても感じ方は違うかもしれません。
今日も自分の道を行くだけなのだろうと思います。
投稿者:敬子 | 2007年05月17日 05:08
比喩的な意味で、きれいに刈られた芝生のグラウンドが無いから、ピカピカの丸いボールが無いから、お金が無いから、時間が無いから、場所が遠いからと言い訳してやらなかったことはいくらでもあります。
しかしやれる時はやれるし、やれない時はやれないのだと思います。
何かをやろうとする時に○○のためと掲げてもその通りにはならないはずだし、いちいち目標を掲げてとりかかるものなんだか違うよなと思います。
どんなに手を伸ばしても届かないことにブツブツ言っているのではなく、すぐ目の前にやることを淡々と続ける、それはその時自分のやりたかったことではなかったかもしれないけれど、それをやることがポリバレントな生き方なのかなと思いました。
投稿者:イーキン | 2007年05月16日 22:49
はだしでボールを蹴っていたとか、他のサッカー選手の子供時代の話でも聞いたことがあるので
靴下のボールは家の中でも、外でも、ひとりでもいつでもできた遊びだったのだと思いました。
厳しい時代に子供ながら外側の状況をいっときでも忘れていられるものだったのかなと思いました。
素材が違えば、力の入れ歩合など、足の力のバランスをとらないとうまくリフティングは続けられないし、なるほど上手になると思いました。
くつしたのボールでもテニスボールでも、自分の身体にその素材のデータを覚えこませること、そしてそのボールを「ボールが生きてるように」運ぶことが多様性として求めてることかなと思いました。
投稿者:935 | 2007年05月16日 21:30
サッカーはボール一つあれば・・・(道具はほとんどいらないというような意味で)とよく聞きます。他のスポーツに比べて・・・確かにそうかもしれません。そうなると、(私は)サッカーにとってその一つのボールが中心で、それは固定されてる・・・みたいに思います。というより、選手は替わってもボールは変わらないでしょ・・・みたいな。
オシムが選手に、天才ではなく代替可能な駒を、ポリバレントを、ということを言っています。
・・・幼少期の、靴下のボールやテニスボールをサッカーボールにしてという実体験から、オシムの言うところの「ポリバレント」にハッとさせられるような・・・感じがしました。選手が駒となって、どんな状況や相手にも適応していく順応していく・・・というような感じだけでなく・・・どんなボール(テニスボールや靴下ボール)にさえも、あわせていける、順応していける・・・そんな深さを感じました。はじめから、サッカーには(決まった)ボールありき・・・のような(私の)発想では、とても持てない感覚というか、視点というか・・・に、幼少期の多民族での内戦・・・や貧しく物がない戦時中・・・といった実体験から得られた感覚、視点・・・に、本当に驚かされます。
選手だけでなく、(中心のような)ボールでさえも代替可能な駒であり、多様性という感覚視点からみているような・・・そんな感じがしました。
投稿者:まりん | 2007年05月16日 01:26
今日はスポーツ店に行ったのですが、とてもカラフルにサッカー用品もそろっていて、大人から子ども用まで種類も豊富にありました。
オシムの時のようにボールもなくて靴下で代用というような
もとでサッカーを始めるというのは、
丸くないし、どこに飛んでいくかもわからないイレギュラーな
それも小さい代用ボールでのサッカーによって
かえって「すごい技術と感覚」がやしなわれたと言わしめる
くらい、今のめぐまれた条件の中でサッカーをする人たちは
恵まれたことを使いこなしていないか、恵まれたことによって
体験しないで通り越してしまうということなのかなと
思いました。
娯楽性の少ない生活のなかでの、時間つぶしともいえる
三時間のリフティングは、
オシムがほんとうにボールとたわむれるのが好きで、
もくもくとボールに集中して同じ動作に没頭することが
心地よかったのではないかなと思いました。
素振りとか同じ動作をしていると、
そういう動いているけど静か・・みたいな
音が氾濫していなかった頃は、
靴下でボールを作るというのはその当時は一般的だったかも
しれないけど、
何でも使っていこうというのは選手が駒だけではなくて
道具のボールでさえも代替可能な駒なんだというふうに
感じました。
時空がサッカーボールと靴下のサッカーボールを区別して
いたかどうかは不明ですが
オシムの中ではサッカーボールだったことは確かなように
思えました。
投稿者:こっこちゃん | 2007年05月15日 23:29
>靴下のボールとか、テニスボールとか、そういうものでプレーすること自体がポリバレント(多様性)だと思いました。
キッカケもなく、○○がなくてはもなく…、それはよこたわる膨大な時間に、そこにあった足が遊ぶように、何もないとこに始まったのだろうかと思いました。「正統」のないサッカーだと思いました。サッカーはルールのある競技だけど、始まりはそういうものだったのかもしれないと思いました。オシムはサッカーの始まりみたいなとこから体験することになってしまったのではないかとも思いました。体と話しながら、ボールになるものと話しながら、ルールを友達と工夫しながら…ポリバレントって役割が変わるだけじゃないんじゃないかと思いました。それは始めに立ち返るような、始めにいるような行為なんじゃないかと思いました。オシムが以前、フリーキックかなんかの話しで「なんでこっから蹴っちゃだめなんだ」みたいなコトを言ってたと思うのですが、オシムは「正統」ができてしまうまえの、始まりのほうに今でもいるんじゃないかと思いました。。
投稿者:和佳 | 2007年05月15日 18:17
「何かやらなきゃ…」ではなく、他にやることがないから何となく始めて、始めたら色々工夫することを思いついて、工夫したからやりやすくなってもっとやるようになって。。。
そうやって始めた事には、頑張らなきゃとか辛さに耐えるとか、そういう事は感じないような気がしました。
オシムの子供の頃とは環境は全く違うけど、自分の子供の頃のことを考えたら、放課後は春も夏も秋も冬も意味なく空き地に集まって、意味のない遊びに熱中していたな…って思いました。
> 靴下のボールとか、テニスボールとか、そういうものでプレー
>すること自体がポリバレント(多様性)だと思いました。
オシムがジェフでの練習で1対1の対戦をさせた時に、他の選手に「なんで助けに行かないんだ」と言ったというのを思い出しました。
ジェフの選手は戸惑ったということだったと思いますが、私もこのエピソードを知った時に「最初にルールを決めたのに何を言い出すんだ?どうすればいいんだ?」って思いました。
練習環境は整っているのが前提で、ルールを守ることが最優先で、、、と、そういう中での多様性と、靴下を丸めてボールを作ることを思いつくような中での多様性は、多様性の幅が大きく違う感じがしました。
投稿者:ぷく | 2007年05月15日 17:40

