もりけん語録
テーマ:「ハワイ紀行2000.08(後編)」
書き込み期間:2000/08/11〜2000/08/24
要旨:
ハワイでユングの本を読んでいました。
特に感動したのは、「私とは世界に向かって投げられた問いなのである」という箇所です。さらには、その問いは個人を越えていること、カルマさえ突き詰めれば問いだということまで言っています。
ユングがフロイトと決別したのも、仏教よりも道教に惹かれたのも、「私とは誰か?」という問いを捨てずに持ち続けたのが原因だったのではないでしょうか。
神は答えを持った存在だとずっと思っていました。ですが、私達が問いなら神も問いである可能性もあるのではないかと思いました。だとしたら、神とは何と素敵なのでしょうか・・・。
ユングは元型という言葉を使っています。元型にアクセスするには、強い意識を持ったり外からの情報を取り入れたりしない方が良いようです。
ユングの文章に「服従する」という言葉が出てきますが、これはワダチに身を任せることにも関係していると思いました。それはすべてをやり尽くして手放すことでもあると思います。
私はユングの元型論の中で、「個人を越えている」という部分に注目しました。個人を越えているということは、死を越えているということをも意味します。
元型は個人が消えたところに入り込みます。しかしこれは決して動物と同じになることではありません。全てを計算し尽くした上で、瞬間に行動することです。
個人も問いも、元型が作り出したものだと考えられます。元型が人間を通して「私は誰?」と問うているのです。
私はなんて素晴らしいのかと思いました。ユングもきっと、無意識や元型の凄さに圧倒され、惚れていたのでしょう。

孫さん達は元型のことを「High Intelegent Information Processing」、別名「時空の情報センター」と呼んでいます。孫さんが念写をする時は、そこにアクセスするのだそうです。
元型の領域は、因果律に従っていないと考えられます。位相がずれているから、空間上の端末とマッチングが取れるのです。空間次元と時間次元とのマッチングが取れ出すと、因果律を破る現象が随所に現れるようになります。
因果律が無視され結果と原因が同時に起こるのが、元型の世界のようです。
元型はエネルギーの塊ではなく、場であるという気付きを得ました。時間系に属し、実体を持たない、すなわち無です。
そこにアクセスするには、一つは無為に生きること、もう一つは、一瞬だけ発信したらあとは心を静かにして受信体勢になることです。

元型は、生命の集合体のような気がしました。孫さんが元型にアクセスして蘇生を行えるのは、そこが生命の源だからではないでしょうか。
道教のタオも、元型と同じだと思いました。車が右に曲がったのは右にワダチがあったから・・これは言い換えれば「私の生命が選択した」とも言えるかも知れません。生命が生命としてありたいためにです。
タオに従うとは、生命に選択を委ねることです。そうすると、より全体に近い生命が、生命としてより生きる方向を選択するのだと思います。
生命から見れば、私達の身体や意識は従属的なものだと思います。孫さんはピーナッツやエビの身体が破損していても完全な状態に蘇生することが出来ます。
孫さんに生命をコントロールされることも、あるいは生命のもくろみなのかも知れません。

目次
○ 問いは流れ(2000/08/11)
○ きっと面白いことがある(2000/08/11)
○ ユング・・・両親の結婚(2000/08/12)
○ ラインVSユング(2000/08/12)
○ 元型(2000/08/12)
○ 元型への服従(2000/08/12)
○ 動かされるもの(2000/08/12)
○ 瞬間を生きるために(2000/08/13)
○ 元型は言いました「私は誰?」(2000/08/13)
○ 集合無意識と共時性(2000/08/13)
○ High Intelegent Information Processing(2000/08/14)
○ 個性(2000/08/14)
○ なぜ心を静かにしないと受信できないか(2000/08/15)
○ イルカとエコー(2000/08/15)
○ 子供と大人(2000/08/16)
○ 宇宙のインフォメションセンター(2000/08/16)
○ 意識と無意識のコンビネーション(2000/08/16)
○ 元型は過去の情報に関しては、ROMのみ(2000/08/17)
○ 生命(2000/08/18)
○ もりけん流ナンパ法(2000/08/19)
○ 遊び遊ばれ・・、人生は遊び・・・(2000/08/20)
○ それ以上 more than(2000/08/20)
○ 私達は全体の一部か?(2000/08/21)
○ ハワイコーナー最後の書き込み(2000/08/24)
問いは流れ(2000/08/11)

 ハワイで読んだユングの本に付いての抜粋です。

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 ユングはさらに、カルマと再生についても考えている。再生の観念はカルマの考え方と切り離せない。ここで決定的な問題は、カルマは個人的なものかどうかということである。言い換えれば、個人という観点から再生について考えることは正しいかどうかということである。この問いは生命が私に対して問いを投げかけてきたことを意味する。別な言い方をすれば、私とは世界に向かって投げられた問いなのである。私はそれに答えなくてはならない。もし答えなければ、世界が答えるのに依存してしまうことになる。
  ―中略―
 筆者の考えるところでは、それは要するに「私とは一体何なのか」という問いである。仏教にはそんなものはないと答えたのだが、私の意識は、ここに生きている私の存在の真の根拠は何なのかと問わずにはいられない。私の心は生命とともにある。言い換えれば、私とは宇宙発生以来の巨大な生命の流れによってこの世界へと投げられた一つの問いそのものなのである。
 もし私がそれに答えようとしないのなら、現実の世界が与える答に従うほかはない。
 ユングは考える。私が祖先の生命の結果として感じたり、前世の個人の生が獲得したカも知れない。あるいは、1人の人間の仕事を通して一つの問いがこの世界に持ち込まれ、彼はそれに対する答を準備しなくてはならないのだ、と考えてみることもできる。たとえば、私の問いの提出のしかたもその一つである。答は不十分かもしれない。そうなれば、誰か私のカルマを持った人か、私自身かが、より完全な答を得るために再生しなくてはならないだろう。
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 さて、私が感動した部分は幾つもあります。
 まず、「私とは世界に向かって投げられた問いなのである」というくだりです。
 私達は往々にして答の世界に生きてしまっています。答を持っていなくても持っているふりをしています。
 「私とは誰か、世界はどこに向かっているか・・そんなことを考えたって答が出るわけはないでしょう・・」そう言って問いを放棄しています。
 または「偉い科学者が日夜研究して、そのうちに答を出してくれる」という他力本願的に問いを放棄しています。
 でも、ユングは言います。「私とは世界に向かって投げられた問いなのである」・・・・。
 彼は純粋科学者としてのフロイトを離れ、失意に落ちますが、それは問いを捨てなかったのが原因だと思います。
 もう一つは、その問いは個人を越えていること。カルマさえ個人を越えているというくだりも、凄いと思いました。そのカルマでさえ、突き詰めれば問いだというところの凄さ・・

 上の一節に仏教の話も出ています。仏教には「私とは何か?」という問いは無いと言っています。
 ユングはインドも旅をしています。仏教にも相当触れたはずでした。
 しかし、なぜ仏教ではなく、道教に惹かれたのでしょうか・・。
 それは「私とは誰か?」の問いが存在し続けたことにあるのではないでしょうか?
 仏教の悟りには安定感があります。迷いが無くなる感じがします。
 しかしハワイコーナーで目幸さんという人の道教についてのコメントを載せたことがありました。もう一度載せましょう。
 「仏というのは悟った人のことです。英語で言うと"One who is awakend" 「目覚めた人」という事です。英語では、やはり目覚めている人と目覚めていない人を区別しているように見えます。しかし私はそうは思いません。なぜかと言うと、「目覚める」というのは、いっぺん目覚めたら絶対にとまらない、常に次の目覚めへと移っていくものです。だから目覚めているということは、目覚めていないということと一緒なのです。覚と不覚、悟りと迷いは常に同居をしています。そうでなければなりません。」
 これもユングがなぜ道教に惹かれたのかを説明しています。道教の動的な部分に惹かれたのではないでしょうか・・。仏教には無い「混沌の世界」に惹かれたのではないでしょうか。

 また、次のくだりも感動ものでした。
「あるいは、1人の人間の仕事を通して一つの問いがこの世界に持ち込まれ、彼はそれに対する答を準備しなくてはならないのだ、と考えてみることもできる。」
 私達は別々の仕事をしています。それは一つ一つが問いなのですね、ユングに言わせれば・・。
 私は不思議研究所という仕事を通して問いを発し、答を準備する。みなさんは、みなさんの仕事を通して問いを発し、答を準備する。
 だとすると神は「問い」なのかも知れません。だとすると、なんて素晴らしいのでしょうか・・・。
 私は神は「答え」だとばかり思っていました。死んで神に採点してもらう。だって神は答を持っているから・・。
 しかし神が問いだとすれば・・私の答を見て、「う〜ん」と唸る・・
 ああ、そんな神だったら素敵です。でも、その可能性は充分にアリです。
 だって私達は神だと言われるし、ユングは「私は問いだ」というし、両方を合体すれば「神は問いだ」・・。
 問いだとすれば、神には意図などあり得るはずはありません。
 ましてや『神との対話』に出てくるように、私たちに答を提示するはずはありません。 神に問いを発すれば、やはり神も「う〜ん」だからです(笑)。

 「私とは問い」・・・このくだりを読んだ時、目の前ではイルカがジャンプし、その上には椰子の木が風に揺れていました。
 イルカも、椰子の木も、風も、みんなそれぞれの形で問いを楽しんでいるのだと思いました。
 問い続ける世界には流れがある。答はよどみます。
 だから悟ったら、すぐに捨てることです。覚醒などしたら、すぐに捨てるこです。
 そう思うと、科学だって素晴らしい。芸術だって素晴らしい。経済だって素晴らしい。経営だって素晴らしい。限られた自分の仕事・・これだって素晴らしい。
 みんな問いの世界だからです。
 真面目に生きているあなた・・それだって素晴らしい。だって問いをしているんだから・・
 不倫をしているあなた・・それだって素晴らしい。だって問いをしているんだから・・
 仕事のトラブルに苦しんでいるあなた・・それだって素晴らしい。だって問いをしているんだから・・
 ルノアールの外を通る綺麗なおネエちゃんのお尻を見るあなた(これは私)・・それだって素晴らしい。だって問いをしているんだから・・
 問いの中へ、流れの中へ。

きっと面白いことがある(2000/08/11)

13の数字が出た時、4が何度も出た時、不吉な夢を見た時、私達はどう思うでしょうか?
 ユングのお父さんは科学者でした。医師であり、ある大学の学長でもありました。
 しかしお母さんは霊能者でした。皆を集めて降霊会までやっていたくらいです。
 ユングはそういう環境だったからこそ、科学と超科学の狭間に生きることに、何の躊躇もなかったのかも知れません。
 さて、お母さんは霊が見えるし、霊とコンタクトが取れるし、霊から予知まで聞き出すことが出来ました。
 私達はこういう能力にひれ伏してしまうことが多いと思います。
 ある日、ユングとお母さんの目の前で、テーブルが真っ二つに割れました。続いて包丁が真っ二つに割れました。
 お母さんは暗い表情で言いました。「これは悪い前兆だ。悪い未来しか見えない・・」と。
 しかしユングはこの時言ったのです。「そんなことはない、きっと面白いことがある。」
 そして彼は何と、この出来事を分析して博士号を取るのです(笑)。

 因果応報と言います。ものには原因があり、結果があると・・。
 しかしユングは同時に起こっていると言います。因果同報だったのです。
 共時性のことを「意味のある一致」と言われますが、これは精神世界では別の意味に解釈されていると思われます。意味の意味がです。
 ユングがかなり分かっていたのではないかと言うのは、凄い霊能力のある母親の発言でさえ「そんなことはない。きっと面白いことがある」と言ってしまうところだと思います。
 一部の文献では、ユングは暗い性格だったように描かれていますが、私が最近読んだ幾つかの文献では、そんなことは少なかった様子です。むしろとても明るく、社交的だったとのことです。
 その最大の性格が、この、未来をも変える発言にあるのではないでしょうか・・。
 彼は母親の発言をしっかりとキャンセルし、未来を良い方向に変えてしまったのだと思います。
「きっと面白いことがある。」この言葉は時空を信頼し、ハンドルを手放せないと、なかなか出てくる言葉ではありません。
 きっと面白いことがある・・きっと面白いことがある。

ユング・・・両親の結婚(2000/08/12

 ユングはある時、父の夢を見ました。父が死んでから26年間、一度も父の夢を見たことはありませんでした。
 父は若返っていました。ユングは喜んで書斎に案内し、自分のその後や家族の事や、自分が書いた本の事などを話そうとしました。
 しかし父は「心理学者であるおまえに、結婚の心理について相談したい」と言いました。
 そこで彼が講義を始めようとしたら、夢から醒めました。
 その四ヶ月後、ユングは恐ろしい夢を見ます。
 暗いジャングルの中で、巨大な猟犬が口を開けて飛び出してきたのです。それはゲルマンの神話の神が、猟犬に人間の魂を取ってくるように命じたためだと判ります。
 翌朝、母の死の知らせが届きます。彼は深い悲しみで母の故郷に向かいます。
 でも、その汽車の中で奇妙なことに、ウエディングマーチに続いて、ダンスや音楽や陽気な笑い声が聞こえてきたのです。
 ユングは思いました。「私という自我から見れば死は残虐である。悲しい。しかし永遠の観点から見れば、死は喜ばしいことであるとも言える。」
 ユングの両親にとっては幸福な結婚生活ではなかったと言います。
 ユングの父は母と死別して26年後、再び結婚関係を持つにあたっての心構えを聞きたかったのだと・・・ユングは思いました。

ラインVSユング(2000/08/12)

 デューク大学にJ・B・ライン教授という人がいます。
 彼は超能力の存在を証明しようとして、透視やテレパシーを統計処理しました。その結果、ある意識を持った時、その意識が対象物に与える影響があることを証明したのです。
 たとえば板の上からサイコロを転がす時、右に行けと念じれば、右に行く確率が増えるのです。つまり意識は物体の進路をも変えるエネルギーであると言えます。
 どうですか、ここまでは常識でしょう・・か???
 私はユングは本当に凄いと思いました。この常識に「か?」を投じたのです。
 ラインの研究の基本的目的は、超心理現象は一定の条件下で偶然期待値を超えた頻度で起こり得るということを実験的に証明することにありました。
 ラインの仕事の価値は学会でも承認されるようになりますが、ユングはこれに異論を唱えるようになります。
 実験科学的方法によって考える限り、われわれは超心理現象が発生するメカニズムについて、因果律を基本として考えなければならないから、主体の側に原因となる能力(いわゆるサイ能力)を仮定し、対象の状態をその結果と見なします。
 従ってたとえば主体から対象へ何らかのエネルギー作用が伝達されて、因果的に現象が発生したというような考え方になります。
 この素晴らしい仮説に、ユングは異論を唱えるのです。
 気を送るのだの、送られるのだの・・もちろんこういうことにも異論があるわけです。

元型(2000/08/12)

 ユングは元型という言葉を使います。元型とは道教で言うところの「一なる世界」に似ています。では、その部分の抜粋を載せましょう。

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 ユングが元型の考え方に至った一つの出発点は、無意識の内部には、意識の作用に対する補償(COMPENSATION)のはたらきが潜在しているということであった。
 重要な夢が示しているように、元型は補償的効果を持っている。
 元型のはたらきは偏在しているものであるから、その本姓上、直接に関係ある個人ばかりでなく、他の人間、あるいは同時に何人もの人間において現れることができる。
 たとえば、同じ夢を複数の人が見るとか、サイ現象と考えられるような"伝達"などは、そういう例である。
 こういう事例についてユングは次のように言う。
 「私は、超常的能力を有し、それを自由に用いることができるように見える人たちを観察し、時には分析もしてみました。しかし一見したところ超常的能力とみえるものは、彼らがすでに、あるいは意志的に、元型的配置に対応した状態の中に身を置いていることにあります。彼らは一般的に彼らの"術"を利己的な目的に使うことはできません。このことは、彼らの能力が自我の意志に服従するものではなく、無意識の圧倒的な支配に負っているということを証明しています。ですからサイ現象というのは、まず何よりも、おのずと起こる事実なのであって、意志が引き起こした超常性と考えない方が良いと思います」
 ユングはこうも言っています。
 「サイ現象は心的水準の低下によって引き起こります。意識が高いレベルにあるときは受信できません」
 さらにこうも言っています。
 「心と物とは分離しているものではなく、同一の実在する存在の(二つの)性質であろう」
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 難しい表現が続きましたが、先ほどのラインの実験から出てくるような、人から物への意識の伝達ではないと言っているのです。元型によって起こるのです。
 これは精神世界で言うところの「私達は一つなのよ」というのと似ています。でも、「一つだから愛しなさい」ではないのです。
 「一つだから愛しなさい」というのは、ユングの元型から外れるのです。愛するという行為、あるいは伝達という視点が加わるからです。
 おのずから起こる・・という表現は、道教が言うところの「為さずして為す」に似ています。
 意識が高いレベルあるとき受信できない・・というのは、瞬間からの信号は微弱だという私の表現と似ています。

元型への服従(2000/08/12)

 元型についての別の記述です。ただ、重複して説明している箇所も出てきます。

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 物理学は核の内部で起こる過程を直接観察することはできないが、それと同様に、無意識の内容も直接に観察することはできない。
 それはただ、自然のはたらきが残した効果から推測できるだけである。
 たとえば素粒子の軌道は、ウイルソンの霧箱の中に残す痕跡によって目に見えるようになるので、それによって推察できるたけである。
 われわれが元型のはたらきが残した痕跡を夢などで見ることができる。しかしそのはたらきは客観的具体的に、物理的事実としても現れるのである。
 この場合には直感、ビジョンといった心の内面のイメージが観察されるばかりでなく、外的な対象が元型に対応した思考によって引き起こされたかのような状態になるわけである。
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 ここで私、もりけんの解説を入れます。
 ユングは、サイ現象は意識(あるいは意志)によって起こるのではないと言っているのです。
 「意識が世界を変える」だの「プラス思考でいきなさい」と言われますが、実際にそれはその通りの効果を生むものなのでしょうか?
 私は逆の仮説さえとります。変えるための元の世界は悪く、プラス思考できない今は悪いという視点を持っているからです。
 新聞を読まなくなり、テレビのニュースを見なくなって久しいですが、そのために私はとても解放され、瞬間からの信号を受信しやすくなったのではないかと思います。
 これはノンフィクションライターの沢木耕太郎がそうだと知り、びっくりして私も真似たのが始まりでした。
 沢木さんは政治家やスポーツ選手を追って記事を書いたりするのが仕事です。それでも新聞などの情報はない方が良いと言うのです。
 きっと元型にアクセスしているのではないでしょうか。

 さて、ユングの話に戻りましょう。彼自身は次のように言っています。

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 私はわれわれの本能(すなわち元型)は生物学的事実であると考えていますので、共時性(あるいはサイ的)現象が(心の)超常的能力によって起こるとは信じません。
 それらは、空間・時間・因果性が必然的でなく統計上の真理であるとした場合に、一定の条件下で起こらざるを得ないものであると考えられます。
 それらは自然発生的に起こるものなのであって、われわれにそういう現象を知覚する特殊な能力があると考えるために起こるわけではありません。
 したがって私は、"テレパシー"、"予知"、"念力"といった用語によって考えたりはしないのです。
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 以下は、本の解説者の一節です。

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 元型のはたらきは、意志によって(つまりそれが原因で)働くわけではない。それはいわば、向こうからおのずと現れてくるはたらきなのである。
 経験の教えるところでは、それは、元型のはたらきが意識の作用を補償する必要があるような場合に、個人の意志から独立して現れてくるのである。
 これは自然発生的な元型のはたらきの介入と言ってもいい。
 宗教的な問題領域とのつながりは、おそらくここにあるであろう。
 この種の状況は、たとえば生命の危険とか重病などの場合に見られる。そういう状況下におちいったとき、意識はどう対処してよいかわからない。そういう場面では、信仰などを持たない人であっても祈りたくなるであろう。
 "神聖な助け手"である元型の力は、彼らがそのように服従することによって布置され、期待されなかった力の流入とともに、時として介入してくる。あるいは脅かされた状況下で、最後の瞬間に、予見されなかった救いの衝撃が生まれ、それが奇蹟のように感じられる。
 人間の歴史にはそういう事例は無数にある。それは理性が挫折したときにはたらく本能の「自然」の力である。
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 さて、以下は私の文章です。
 私がお陰様のことを書いたとき、それは弱い神様だと書きました。強い神は救わず、弱い神様が救ってくれる・・。
 元型というのは、まさにお陰様なのではないでしょうか。
 上記の文章で面白いのは、「服従する」という単語です。これは本当に服従なのでしょうか・・・
 ワダチに身を任せることも服従と関係しますが、これは周囲の状況に受け身になることではありません。
 上の例にでもあるように、すべてをやり尽くした時の「手放し感」にあるのではないでしょうか。
 すべてをやり尽くす・・これはコーヒーを美味しく飲むことだって「すべてをやり尽くして」いるのです。
 「人事を尽くして、天命を待つ」これはユングに言わせると、下のようになると思います。
 「人事と天命は同時に起こる。待つことはあり得ない。」
 さて、この元型というものに対しては、多くの興味をそそられます。
 元型には生死があるのでしょうか?元型には意志はあるのでしょうか?元型の神の関係は何でしょうか?元型は、「神との対話」のように「語る」のでしょうか?
 しかし、今までこの「元型論」に触れたことはありませんでした。
 無意識とか共時性で有名なユングですが、私は今回のハワイで知った、この「元型」が最も面白いと思います。

動かされるもの(2000/08/12)

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 以下は、ユングが友達に書いた手紙を元に、著者(湯浅泰雄)が解説をしたものです。
 「集合的たましいには、その外側はありません。われわれは普通の心においては、われわれの空間と時間の世界の中にいて、別々に分かれた個別的たましいの中にいます。元型の状態の中では、われわれは集合的たましいの内部にいます。その世界のシステムの中では空間−時間のカテゴリーは、相対的あるいは絶対的に消滅します。」
 このような超越的次元から見れば、感覚的世界における個々の主体はもはや主体ではない。
 「われわれの知的道具は元型的経験までしかとどきませんが、その領域の内部ではわれわれは動かすものmotorsではなくて動かされるものmoved objectなのです。従って普通の意味での実験は不可能です。われわれはただ、時として起こる観察を望むことができるだけなのです。」
 こうして自我意識の主体としての人間は、逆に超越的次元からのはたらきの客体になる。
 この視点の転換は、筆者には空海の向上門と向下門の関係を連想させる。
 ここでは、人は超越的次元から流出する作用を受け取るだけである。
 この個人を越えた次元は、道教で言う「一なる世界」である。
 「この一なる世界では、いわゆる物質と、いわゆるたましいの区別はありません。人はここで深い水の中に入ります。(しかし)少なくとも私は、自分がこの深淵の深みをさぐったというには程遠いということを告白しなくてはなりません。私はこのような謎を解くにはあまりに年を取りすぎたようです。私は若い人がこの挑戦を続けられるよう希望しております。」
 ユングはこの時、82歳でした。
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 以下は私、もりけんの文章です。
 私は上の文章の中では「こうして自我意識の主体としての人間は、逆に超越的次元からのはたらきの客体になる」という部分がとても気に入りました。
 本当にこれを知っている人間は、どれほどいるでしょうか・・これが出来る人間がどれほどいるでしょうか・・。
 私達は自我意識としての主体のみを主人公だとしています。
 想えばすべてが変わる。想いがすべてを造り出している。決心した瞬間にすべてが変わる。確かにその一面はあります。
 そしてユングは言いました。「人はここで深い水の中に入ります。」
 水の中・・そうです。イルカを思い出しませんか?あの、瞬間に反応するイルカを・・・。
 ハワイでこれを読んだのは、まさにイルカのいるラグーンでした。
 無邪気に笑いかけるイルカは、私達に「あなな達も、早く手放しなさいよ〜」と言っているようでした。
 そうなのです。手放すことは、客体となることを意味します。
 選択をしない・・責任をとらない・・・だから瞬間に反応できる。
 0.0000001秒の世界・・「一なる世界」。

 そして最後にユングは言います。
 「私はこのような謎を解くにはあまりに年を取りすぎたようです。私は若い人がこの挑戦を続けられるよう希望しております。」
 これは私が六歳の時(1957年)に書かれた文章でした。
 これを読んでいる皆さんは、まだ生まれていない人が多いのではないでしょうか。
 ユングは天国からみなさんのディスプレイを微笑みながらのぞいているかも知れません。
 彼の問いは、カルマとなり私達に引き継がれています。
 そういうカルマ(問い)なら、どんどん引き受けようではありませんか。
 カルマは悪いものだという価値判断は、誰が付けたのでしょうか・・・・。
 ユングさんよ、私はあなたがこれを書いた年齢の、約半分の年です。まだまだ若いです。
 今、あなたの書いた情報に出会うことが出来ました。ありがとう。

瞬間を生きるために(2000/08/13)

 私の本への批判の中にこういうのがありました。
 「森田さんの本にはストーリーというものがない。ストーリーとは読者に何かを伝えるためにはとても大事です。」
 『不思議エネルギーの世界』シリーズを書いているときにも、編集者の一人からこんな事を言われたことがありました。
 「森田さん、旅行記を書くときは、普通行く前にほとんど書けてなければなりません。それが本当のプロです。」
 ものを理解するのに、大きく分けると二つの方法があると思います。一つは歴史を知ることです。
 例えば道教を知りたければ、道教の本を読み、中国四千年の歴史を調べ、その中で道教がどういう風に発生し、どういう風に変化したか・・。
 あるいは老子の「道徳経」を勉強し、その言わんとする事を調べる。
 行く前にほとんど書ける・・というのは、それを言っています。ジャーナリストの多くはそれをやっているはずです。
 編集者は言いました。「現地に行くのは、それを確認する作業です」・・と。
 ここまで書いて、ジャーナリストの沢木耕太郎がなぜ新聞を読まないかが分かりました。なぜ彼の本が面白いのかが分かりました。
 沢木がある人をインタビューしている時、田中角栄が逮捕されたというニュースが飛び込んで来ました。
 インタビューされている彼が言いました。「これからあなたも忙しくなりますね。」
 沢木はしばらく呆気にとられ、「マスコミがどんなに騒いでいても、私自身がピンとこなければ、それは起こっていないのと同じなのです」と答えたそうです。
 隣のコーナーでは、本物議論がありました。本物かどうかを歴史の中で議論しようとしています。
 別のコーナーでは、不倫議論が始まっています。不倫を、責任問題、家族の問題として議論している人も多くいます。
 このコーナーでは、少し前にイルカの議論がありました。私が泊まったホテルのイルカの、歴史やその背景の情報が飛び交いました。
 しかしです。この手の情報は、ちょうど沢木にとっての新聞のような役割を果たしませんか?私にとっての、他の本からの情報のような役割を果たしませんか?
 少しだけ話は飛びますが、孫さんは不倫関係の話が大好きです。
 駅で電車を待っていると、「若い子、いっぱいいるじゃない。森田さんならどれにする?」ときます。
 他の超能力者のビデオを見せている、その能力者が女性なら、「う〜ん。何故このポーズでやるか、分かりますか?」と訊きます。
 私は「やっぱ潜在意識を操作するんだから、リラックスできるポーズをとるんでしょう」と答えます。
 孫さんは「違いますよ、分かりませんか? 森田さんに自分の脚が見えるようにですよ・・。彼女、脚線に自身がありますから、座る方向をちゃんと考えているんです」ときます。
 で、最後に言います。「森田さん、こんな女に引っかかっちゃあ、だめよ」・・と(笑)。
 そしてもっといい子を紹介してくれると言いながら、まだ紹介してくれません。(笑)

 このHPでよく「画像、画像」と言う人がいます(笑)。
 画像の持つ説得力は、明らかに文章を上回る時が多いです。説明文を付けた途端に、その写真の持つ生命力が死ぬときさえあります。
 画像は瞬間、文章は歴史の時が多いからです。
 歴史を知るという行為、背景を知るという行為は、主体が私達にあります。
 しかし写真を見ている時は、主体は写真にあると思うのです。
 でも、その一つの写真を見るためには、主体が動いて見なければなりません。
 大きな流れは、もちろん主体が作っていると思います。
 しかし、私に関して言えば、主体を交代したくて主体的に動いているのです。
 歴史や背景は、ない方がいいのです。
 このHPにしてもそうです。書き込む人の背景など、知らない方が良いのです。
 どこの大学を出て何をやっている・・そんな事は知る必要がありません。
 男と女さえ間違う時がありますが、それでいいのだと思います。
 私達は全てを知っていると言います。だからどこにも行く必要はないと・・。本を読めば全部分かると・・。これは主体を中心とした考え方です。
 ユングは「少なくとも私は、自分がこの深淵の深みをさぐったというには程遠いということを告白しなくてはなりません」と言っています。
 ハワイからの直接の書き込みでは、「意識は、それがたとえどんな広大なものであっても、常に無意識という大きな円の小さな円たるにとどまる。つまりそれは無意識という海に囲まれた一つの島なのである。そして海と同じように、無意識は、それ自らを絶えず新たに補充してやまない、無数の豊富な生命を産むものであり、我々がその底を測ることはできない、無限の宝庫なのである。」
 また、「自分は現にここに働いている"より優れた可能性"の中に身を置いているという不安にたえずおののいている」とも言っています。
 彼は無意識あるいは元型の凄さに圧倒され、そして惚れていたのではないかと思います。
 ほとんどすべてと言っていい精神世界では、因果関係を主体にしています。
 意味を探そうとするからです。意味があったか・・あれば安心するわけです。
 しかし元型は意味を越えていると思います。意味付けした瞬間、主体が自分に戻ります。
 歴史や背景が目に見えてきて、瞬間を取り逃がします。

元型は言いました「私は誰?」(2000/08/13)

 さっそくユングの手紙から始めましょう。

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 「ラインの研究はたしかに最良の結果を生み出しましたが、(私の)特別な興味がある観点からみるとまだ不十分です。それは共時的現象が期待されるような心理的条件は何なのかという問いに関わっています。ラインの研究結果は、被験者が(テストに対して)生き生きとした感心を持っていることが非常に重要だということを示しました。被験者が慣れてしまうと結果はたちまち下がっているからです。
――中略――
 私は個人的に、かなり多くの共時的な出来事を観察してきましたし、そこに潜在する元型の性質を明らかにしました。元型それ自身(元型的表象ではないことに注意)は類心的、つまり超越的であり、従って相対的に数、空間、時間のカテゴリーを越えています。このことはそれが一体性onenessと普遍性に近づいてくることを意味しています。意識のカテゴリーから解放されることによって、元型は意味のある一致の基礎になることができます。」
 (著者の意見)
 ユングの考えるところでは、共時性に影響すると思われる情動的要因の基礎には、個人を越えた集合的無意識の領域に潜在する元型の力が働いている。
 その領域では感覚的経験にもとづく日常的経験の世界を支配している空間や時間の制約はなくなり、すべてのものが一つであるとともに、変化という現象もないような次元へとしだいに近づくのではないか。このような元型的領域は、物質と精神の区別もない「類心的」性質を示している、と彼は考える。
 共時性の根拠はそのような超越的次元との関係から考えなくてはならない、というのがユングの意見です。
 実験的観点から共時性にアプローチする企てに対しては、ユングは賛成しながらも、自分の考え方のラインとの違いについて次のように述べています。
 「私は共時性の問題を実験的手段によってあつかうことが不可能であるとは言いません。ラインの方法はその反対であることを示しています。しかしラインを一歩でもこえると、確率の問題が事情を複雑にし、それに応じて扱いにくくなるでしょう。これに対して心理学の側からのアプローチはわれわれの科学的思考態度の全面的な革命を要求しています。言い換えれば、統計学によって排除されてしまった偶然あるいはランダムなすべての材料、すなわち、あなたが統計原理を適用するときにテーブルの下にこぼれてしまう事項について、認知する必要があるからです。」
 「私はどんな水準で、あるいはどんな世界で、空間と時間は妥当性を失うのだろうと問いたいです。われわれの三次元の世界では、それらはたしかに何と言われようと客観的に存在しています。しかしわれわれは時としてーーたぶんある条件下で――それかあたかも主観的なものにすぎないように、つまり相対的に見て客観的なものではないという、決定的な体験を持っています。われわれはこの相対性がどれほど遠くまで及ぶかわかりませんから、空間と時間が全く消滅するような水準あるいは世界があるかどうか、知りません。しかしわれわれは、時間・空間の外見上の客観性を相対的にしてしまうのは、たましいであるという事実を受け入れるときも、なお人間経験の内部にとどまっています。私の経験に照らせば、この結論はかなり確かです。われわれは、たましいが予知することができるのは、時間・空間の作用であると考える理由は、何もありません。」
 (著者の意見)
 予知は空間的エネルギー現象ではあり得ません。意識はまだ存在しないものを認知することはできないからである。
 (モリケンの解説)
 ユングはアインシュタインと同じ大学でしたので、よく一緒に食事をしながら議論したと言います。ふたりとも30代で、アインシュタインがまだ一般相対性理論を作る前でした。そのときこんな手紙を書いています。
 「たましいの中には空間・時間の法則に従わない要因があって、逆にそれらをある程度押さえることができると期待しなくてはなりません。この要因は、無時間と無空間、すなわち"永遠"と"遍在"という性質を示すと期待されるわけです。心理学的経験は、そういう要因を知っています。それは私が元型と呼ぶもので、空間と時間の中に遍在します。むろん、相対的に言ってのことですが、それはたましいの構造的要素であって、われわれはそれをどこでも、またいつでも見出します。」
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 以下はすべて私、もりけんの文章です。やっと元型の出だしに辿り着きました。
 私は上記の文章のなかでは「個人を越えている」という点に注目しました。当たり前の表現ですが、当たり前でないのです。
 なぜかと言うと、個人を越えているという事は、われわれ個人の死を越えているという意味でもあるからです。
 元型は、私達の「個人」が消えた時に入り込みます。それは生きている時の消滅です。ワダチ現象です。
 「個人が消えた時」・・・それは動物と同じでしょうか?
 夜行寝台が取れず、自由席の前方に向かって走り出す導師は、私の目から見ると個人が消えていました。私を、「判断を許さない目」で0.0000001秒だけ見ました。
 そして列車に飛び込み、笑いました。これは動物と同じでしょうか?
 ある意味では導師は、全てを計算し尽くして行動しています。しっかりとしたジャッジメントがされています。
 その後、車掌と公安に100元を渡すところ(公安は受け取らなかった)も、ジャッジメントされています。
 しかしそこには元型が顔を出しているような気がしてなりません。
 ユングは輪廻を肯定しています。カルマが残るから輪廻すると言っています。しかし彼にとってのカルマとは「問い」でした。
 でも、「私は、私が作り出したわけではない」とも言っています。ということは、「個人」すら元型が作り出したと思うのです。
 では、「問い」は誰が作り出したのでしょうか?これすら元型だというほかはありません。
 元型が人間をして「私って、誰?」と問うているのです。
 あーーーーーーーーなんて素晴らしいのでしょうか・・・元型に恋をしそうです。

集合無意識と共時性(2000/08/13)

 さっそく本の抜粋です。

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 77歳になったユングは、重い病気にかかり、一時は死を危ぶまれたほどであった。彼にはやりかけた仕事がたくさんあった。
 奇跡的に回復した彼は、共時性についての著作を始めようとするが、死の二年ほど前、弟子の女性に「自分はもうこの仕事はできないから宜しく頼む」と言って草稿を託した。
 共時性をめぐって晩年ユングが取り組み始めた思索は、このようにして未完成に終わった。
 著者の考えるところでは、共時性の理論は、基本的に二つの問題に関わっている。一つは集合無意識の考え方に対して、これまでとはまったく別な角度からアプローチするという問題である。
 彼の言う集合無意識は、心的遺伝の形式を通して個体の出生以前の祖先にさかのぼり、さらに種族や人種を経て、ヒト以前の生命体の動物的根底に分け入り、最後には心的生命の巨大な流れとしてのカルマの次元にまで及ぶものであった。
 いわばそれは、太古以来の生命進化の過程を、心的イメージの世界を通して逆にさかのぼっていく試みであると言えよう。
 言い換えればここでは、集合無意識の世界は、時間に即して過去へ過去へとさかのぼり、ついには神秘な無時間的次元に達してしまうのである。
 これに対して共時性仮説は、集合的無意識を空間に即して実験的に検証しようとする意図に立っている。
 集合的無意識が個体の存在制約(つまり個体の心身の限界)を越えた深さと広がりを持つ超個体的な存在領域であるとすれば、それは空間的にも無限に広がったものでなくてはならないであろう。
 第二に共時性仮説は、デカルト以来の近代哲学がよりどころにしてきた物心二元論と、ガリレイ、ニュートン以来の近代科学がよりどころにしてきた因果性の原理の二つに挑戦し、近代的人間観と世界観にとって代わるべき新しい理論的パラダイムを求めようとする企てである。
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 以上で本の抜粋を中心にした記述を終わります。ご静聴ありがとうございました。
 今回ハワイで読んだ本は、特にユングの晩年に関するものでした。
 「もう自分はこれ以上できそうにない・・」と言って手放す寸前のものでした。
 だから彼自身の書いた著作としては残っていないのです。手紙が主な情報源でした。
 ですので「元型」という、聞いたこともない言葉が登場しました。
 ユングは神を信じていたのでしょうか?彼の本の中に出てくる神は、必ず意志を持っています。
 神とは意志を持った集合無意識だというのがユングの仮説だと推察できます。で、そういうものはいないので、「元型」になったのだと思います。
 この「元型」は仙道の「潜在的妙々冥々的無形的主宰力」を思わせます。
 私はこの元型から、意識がプレゼントされたことを嬉しく思います。
 だってそれでなければ、「元型って何?」という問いすら発することが出来ません。
 ところでユングクラブが出している会報誌に面白いエピソードがありました。そこにはお孫さんの講演の事が書いてあるのです。
 おじいちゃん(ユング)は、とても料理が好きだったそうです。で、厨房に入り、炒め物をするとします。
 その時、フライパンを出すとそれに向かって「おい、今日はお前の出番だ。よろしく頼むぞ。楽しくやろうな」などと言ったそうなのです。
 元型はフライパンにも偏在することを、理屈抜きで知っていたのではないでしょうか。
 著作を読むと、彼は微弱な信号にほとんど従っていたと考えられます。
 ある意味では、彼の本は自分の体験集ではないかとさえ、思います。
 自分の感覚をどこまでも大切に・・・。
High Intelegent Information Processing(2000/08/14)

 フナイオープンワールド(FOW)で孫さん達が喋る原稿が届きました。
 それによると、元型に近い考え方をしています。
 ただし、マザーコンピュータを一つとは考えていないみたいです・・。
 孫さん達の原稿は今手元にありますが、一度ワープロに入れます。
 それをFOWの前に(一部ではあっても)知っておくことは、大変に理解度を増すと思います。
 孫さん達は元型のことを「High Intelegent Information Processing」と名付けています。
 孫さん達は、これを別名「時空の情報センター」と呼んでいます。
 孫さんは、念写をする際、そこにアクセスするらしいのです。
 「元型」もしくは「High Intelegent Information Processing」の領域というのはどこにあるのか?別名マザーコンピュータ(略してマザコン)でしたね。
 さて、マザコンはどこにあるか・・・それは「無い」と表現したいのが、私の仮説です。
 どこに「無い」のか・・「空間」に「無い」のです。だってそう考えるより他にない。
 でも、「時間」に「有る」のです。
 あ〜あ・・これでは『不思議の科学3』や『「不思議の友」4』になってしまう・・。でも、しようが無いのです。

 理由は・・・マザコンは、因果律に従っていないからです。因果律とは、時系列のことですよね。
 原因があり結果がある。それが時間上で矛盾無く並んでいなければならないのが因果律です。
 マザコンが空間上にあり(宇宙のどこか・・)、われわれと同じ時間型を経験しているとすれば、われわれと同じ因果律に従っていなければなりません。
 ですので、マザコンはホストコンピュータか端末かという議論の前に、同じ時空上にはないと言ったほうが良いのです。
 つまり、マザコンは位相がずれているのです。ずれているから、空間上の端末とマッチングが取れるのです。
 分布定数回路でマッチングを取った時、電圧は最大で電流はゼロだという話をしたことがあります。
 時間上にあるマザコンと空間上にある端末とのマッチングこそ、「微弱な通信」の共振なのです。たぶん・・・

 私達の世界は、「因果律に従っているという前提にしよう」という暗黙の了解(デフォルト)があるような気がします。
 で、そのデフォルトに従わないと科学の仲間に、なかなか入れてもらえない・・
 しかし・・・随所で因果律破りが出てきた現状の意味するところは・・
 そうです。ヤツ(マザコン)とのマッチングが取れだしたのです。
 この次元(空間次元)と向こうの次元(時間次元)がマッチしつつあるのです。
 空間と空間では、マッチング出来ないのです・・男と男みたいで(笑)。
 つまり、意識が空間系で無意識が時間系なのは、もともとマッチングが前提となっているのです。
 男が意識(空間)だとすれば、女は無意識(時間)。両者が必要なのです、もともと・・
 無意識が無限だと言われる由縁は、時間系にあったからなのです。 
 ということは、意識も無意識も「波動」でなければなりません。
 「波動」でないと、分布定数回路の式が使えない、「波動」でないと、マッチング出来ない・・
 マッチングは普通、私達の側で出来てしまうのです。アンテナの場合、マッチングは室内の手元で出来ます。いちいち屋根に上がらなくても出来ます。
 ということは、私たちの身体、あるいは心、あるいは天目で出来るはずです。

個性(2000/08/14)

 マッチングがかかった場合、電圧と電流は90°位相がずれます。しかしマッチしないと、90°以下になります。
 つまり、一方が最大で一方がゼロといった大きな「差異」ができた状態がマッチングしていると言うのです。
 つまり、男はできるだけ男になり、女は女になる。同化じゃないんです。
 ひょっとすると、「合わせよう」としていませんでしたか?
 ここで、もう一つ言いたいことがあります。それは「位置角」ということです。
 マッチングすると送信側と受信側の「位置角」というものが同じになるのです。
 位置角とは、回転している周期のようなものです。これがピタリと一致します。 
 で、その位置角はアンテナの形状や状態によって変わります。
 しかし、それが違っていても、マッチングしていると言います。
 これはもしかすると我々の「個性」なのかも知れません。たぶん、位置角は全員が違うのです。
 ですから、マザコン(元型)から引き出す位置角(情報かも知れない)は、全員が違うのです。
 合わせる方法は、相手を「位相の違う存在」だと気付けば、ほとんど可能だと思います。
 位置角の差は、多分、無限にあります。だから一人一人の個性が必要になった・・・。
 マザコンが時間系にあるとすれば、それは未来も過去も持っています。

なぜ心を静かにしないと受信できないか(2000/08/15)

 レーダーは、ものすごい強力なパルス信号を発射した後、ゼロの状態になります。そのゼロの状態は、発射した時間の10倍以上です。
 つまり、レーダーはほとんど受信状態なのです。
 で、レーダーが発信し続けていると、出した電波が反射して帰ってくるのを受信している暇がありません。
 これは、あのイルカと同じです。発信した後、無の状態が続くのです。
 レーダーは無の状態が10倍以上持てるから、ああして画面に情報が写るのです。
 だとすると、発信(ポジティブ)ばかりしていると、せっかく来た信号を取ることが出来ない・・・。
 こちら(端末)がゼロになれば、向こう(マザコン)からは最大の電流が来るのです。
 でも、発信はできるだけ短く・・がポイントかも知れません(レーダーやイルカの例だと)。
 私はマザコンとのマッチングを話題にしていますが、マザコン経由で人と人とも結ばれていると思うので、同じかも知れません。
 ということは・・やはりイルカは三次元の位置だけでなく、高次からの情報を受信する方法が、とてもうまいと言えそうです。だっていつも通りにやればいいんだから・・・。

 元型の正体がもしも時間系なら、エネルギーも無いかも知れません。
 だってエネルギーが出てくるのは、空間系だから・・・
 エネルギーがあるということは、質量に変換されるから・・・
 で、元型は・・そう、「場」なのです。ただの・・。場だとすれば、実体はない・・・
 元型はエナジーの塊か何かだと思っていたので、「場」と気が付いただけでも良いのです。
 電波がもっともよく伝わるのは真空中です。何もないからです。
 無・・・場は、無なのです。だから我々が無になると元型の信号を受信しやすくなるのです。
 でも無とは、空間には何もない・・という意味です。で、ブッダは空間系の無を狙いました。
 しかし、もう一つアクセスする方法がありました。それは無為です。
 無為の方法により、直接時間系の場に飛び込むのです。ワダチに乗れば良いのは、このためです。道教はこれを狙いました。

イルカとエコー(2000/08/15)

 大胆な仮説ですが、元型が「場」だとすると、元型からの信号は自分の出したエコーだとも言えます。まるでイルカが自分の位置を知るように・・そう、まるでレーダー・・
 イルカの生態から何かが学べるかも知れないと思いました。ちょっと挑戦してみましょう。
 イルカはもともと陸地に住んでいました。ラクダと同じ偶蹄類という種類でした。6000年前のことです。
 そしてその1000年後、彼らはもう一度海に戻りました。一方はラクダとして砂漠に行き、もう一方は海に入ったのです。何といういさぎの良さでしょうか・・・。
 そして4000年前に、ドルドン科として正式に分類されます。
 ドルトン科は、なぜ再び海に戻ったのでしょうか・・・(そして陸地派は、なぜ砂漠に行ったのでしょうか・・)
 海中では陸地ほど視界が利きません。同様に嗅覚も利きません。それで発達したのが聴覚でした。
 さらにイルカは受け身的に音を聞くだけでなく、能動的に発信して、そのエコーで判断するようになりました。
 音を発信する部分は、ちょうど我々の天目の位置にあたります。そこから指向性を持たせて発信します。
 相手に当たって反射してきた音は、下あごでキャッチして耳に入ります。
 さて、私は発射から受信までの間隔が知りたく、たくさんの情報を調べたのですが載っていません。
 「これらについては詳しいことは分かっていない」と書いてある本もありました。
 それで推察することにしました。文献には「クリック音」だと書いてあります。
 そうだとすると、パルス信号に近いのではないでしょうか・・。
 私は学生時代、研究室にレーダーがあってそれをいじったりしていました。あれはイルカのシステムを真似たのではないかと思います。
 アンテナからパルスの電波を発射して、その反射を受け、ブラウン管に地図を描くのです。
 電波を発射する時間はマイクロセカンド級です。ものすごく短いのです。でもものすごく強力です。
 しかしパルスですからある意味ではデジタルです。だからほとんど電力は使いません。
 で、一発発射するとその10倍、あるいは100倍も待ちます。
 どこかに当たって帰ってくるエコーをじっと黙って聞いているのです。それが雲であってもちゃんと反射します。
 気象情報で「富士山レーダー」が時々登場しますが、あれはこの原理です。日本全国に一瞬だけ電波を発射し、その返りを耳を澄ませて待つのです。
 さて、イルカの身の動きがとても早いことを以前書きました。ほぼ一瞬で車の速度(50〜60Km)に達するそうです。これは真っ暗な夜でもそうなのです。
 蛇足ですが、イルカは昼間寝るのです。だからハワイで見かけた「やる気の無いイルカ」は本当に寝てたのかも知れません。
 他の魚と違い、自らに発信器を備えたイルカは、夜こそが優位に立てるのです。視界ゼロでも、一瞬で加速します。
 そしてイルカは人を癒します。

 高次元の生物だと言われる由縁は何でしょうか・・以下は私なりの考察です。
 ユングは超能力がアクセスする先は、元型と呼ばれる領域だと言いました。
 元型・・それは宇宙に浮かんでいる雲のような存在なのでしょうか・・。
 元型の世界では因果律は無視されるようです。結果と原因が同時に起こる。
 誰かが、「それは日本人はよく理解しているのではないでしょうか。なぜなら、終始一貫と言うでしょう。終わりが最初にくるのですから・・」と言いましたが、当たっているかも知れません。
 では、元型とは何でしょうか・・。
 東京タワーから電波が発射されていますが、あれは電子が発射されているわけではありません。
 イルカの眉間から超音波が発射されますが、あれは音玉のような物質は発射されていません。
 振動を伝える媒体が中間にあるだけです。電波は何もない真空中を伝わります。
 伝わるから、何かがあるのではないかという仮説があります。
 しかし、「何もない」こそが元型の性質なのではないでしょうか・・。
 もう一つは、「一瞬、発射する」ということの意味です。
 発射するというのは、意志かも知れません。それは左脳の領域です。
 でも、発射しないとイルカは自分の位置が取れないのです。
 彼らは100%受け身的な「無」になって瞬間行動をしているわけではありません。強いて言うなら、1%の能動と99%の受動ではないでしょうか。
 私が泊まったホテルには何頭かのイルカがいて、出番の時にはお客にサービスします。
 いえ、サービスというのは語弊があります。一緒に生きる時間を共有するのです。
 でも、彼らは100%従うわけではありません。イヤイヤをするのもいるのです。
 私のベランダからはその一部始終が見えたのですが、意外にも子供のグループに対してイヤイヤをするのです。イヤイヤをして近寄らないのです。
 大人のグループにはイヤイヤはありません。ほぼ100%近寄ってきて、撫でてもらいます。実に気持ちよさそうに・・・。
 私の時は、三頭のイルカと接することが出来ました。
 インストラクターが「水に頭を突っ込んで音を聞いてご覧なさい」と言うのでやってみました。すると「カリカリ」という断続音が聞こえました。
 0.2秒鳴らしては2秒の間を置く・・そういうタイミングでした。私には、待つ時間が10倍という風に感じられました。
 イルカが高次とのやりとりをしているとすれば、このシステムをそのまま使っている可能性があります。
「あの大人のグループに行ってもOK?」という信号を高次(元型)に発信します。
 そして受信信号を待ちます。でも、その受信信号は、なんとエコーなのです。
 彼は無意識の世界で答えも同時に発信したのです。それを意識で受けるのが「微弱信号の受信」なのです。
 人間は思考をする時・・特にインスピレーションを受けようとする時、目が左右に素早く動きます。
 あれは発信と受信を繰り返しているのではないでしょうか・・。
 そして受ける微弱信号はエコーだというのが私の仮説です。
 私のおばあちゃんの口癖がありました。
 それは「人は鏡だよ。自分が怒れば相手も怒る。自分が笑えば相手も笑う。」
 色々なものは、エコーなのかも知れません。

子供と大人(2000/08/16)

子供と大人の件ですが、大人にしてもイルカに癒されたという気持ちは少ないと思いました。
 見ていて「可愛〜い」を連発するのは、大人です。「可愛い」という波動をビンビン送るのは大人です。
 私も幾つかのイルカの本を読みましたが、イルカはストレスを発散する時しか、ショーや芸やサービスはしないらしいのです。
 つまり、イルカにしても自分のためにしか、やっていないらしいのです。
 となると、子供相手の方がストレスが残る・・のかも知れません。まあ、これも推測でありますが・・・
。  以前、導師の所で還童功をした時、「還童功ではエナジーアップしかしませんよ」と言われたのを思い出しました。
「天人合一(私の解釈では時間系に乗る)するには、子供以前に帰らなければなりません」と言われました。
 それと、意識という問題もあるかも知れません。私達大人は、だてに意識を持ったわけではないと・・。
 0.000001秒の意識の送信パルスが、イルカにとっては心地良いのかも知れません。
 子供がすべて「OK」なら、神様は大人という過程を作らないかも知れませんよね。
大人の方が芸術に対する感動度が高くなるようですよね。イルカとの共鳴も、関係しないでしょうか・・

宇宙のインフォメションセンター(2000/08/16)

 孫さんの場合、「忘我、無為」「無為而無不為」の状態に入り、宇宙のインフォメションセンター(HIIPC)に繋がらない限り、自身の超能力を発揮することは出来ないです。
 これは孫さんがFOWで喋る内容の原文です。書き言葉ですので、これをしゃべり言葉に変えますが、原文もなかなかのものです。だって孫さん自身が書いたのですから・・・。
 孫さんは確かに先天性の能力を持っていますが、大人になってからの方が強くなります。宇宙からのマスターが付くのも、大人になってからです。
 宇宙のインフォメションセンター(HIIPC)とは、ユングの元型に近いものだと思います。
 孫さんも念写する場合、「その対象物に波動を合わせる」という表現を使わず、宇宙のインフォメションセンター(HIIPC)に繋げるというのが面白い点だと思います。
 現在の念写だけではなく、過去や未来の念写もしたいと言っています。
 未来の情報を画像で得て、それによって未来を変えたら、それの因果関係はどうなるのだろう・・なんて考えるのは楽しいです。

意識と無意識のコンビネーション(2000/08/16)

 以下は、今年のFOWでの孫さんの原稿です。
 この原稿を事前に検討できるのは、FOWに参加する人にとってはとても意義があるし、参加しない人にとってはそのエキスを吸収できると思います。

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<念写の方法>
 深層意識状態に入るまで待ちます。
 すると、天目の所に、テレビのスクリーンのような幕が見えて来ます。
 一旦このスクリーンを感じましたら、色々な図形、情報、映像などを宇宙のインフォメションセンターから受け取ることが出来ます。
 そして、多くの情報から、今、自分が一番欲しい情報を強く意識し、瞑想します。
 すると、その物がますますはっきり見えるようになって来ます。
 そして、私自身のエネルギーと宇宙から集めたエネルギーの力、二つを一つに合一させ、スクリーンに現れた映像を印画紙に写します。映像が完全に印画紙に移ったという感覚がしましたら実験は終了です。
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 たったこれだけなのですが、とても大切な情報が入っています
。  まず深層意識状態とは、いわゆる瞑想状態です。
 孫さんがよく「状態に入る」というのは、正確には深層意識状態なのですね。
 それはワダチの状態でもありましょう・・
 すると宇宙のインフォメーションセンターから情報が受信できるようになります。
 次が面白い点だと思います。
 それは「多くの情報から、今、自分が一番欲しい情報を強く意識し・・」というくだりです。
 これはイルカで言えば、強いパルスを眉間から発射することと似ています。意識の世界でもあります。
 一番欲しい・・という表現は、選択を意味しています。我々はこの時点で多くの情報から選択をするのです。
 すると「その物がますますはっきり見えるようになって来ます」となります。
 これはイルカで言えば、反射波により、真っ暗でも見えるようになることを意味していると思います。
 そして最後が面白い記述です。
 「私自身のエネルギーと宇宙から集めたエネルギーの力、二つを一つに合一させ・・」です。
 私自身のエネルギーとは意識の世界ではないでしょうか・・。
 宇宙から集めたエネルギーというのは、元型、もしくは集合無意識の世界ではないでしょうか・・。
 そして「映像が完全に印画紙に移ったという感覚がしましたら実験は終了です」というのは、まるでコピーの世界ですよね。
 以上の記述でとても印象的なのは、意識(本人の意思)と無意識(宇宙のインフォメーションセンター)との交信がバンバンと行われているという点です。  決して全てが無になっているわけではありません。
 さらに、「ええええええーーーーーい」という感じで力んでいるわけではありません。
 孫さんの念写風景を見ると、力んでいる状態は全くありません。
 それであっても一瞬の意識のパルスのようなものを宇宙のインフォメーションセンターに送っています。まるでイルカが一瞬のパルスを発射するように・・・。

 さて、以下は今年7月に導師と一緒に山の中に修行に行った時に書き込んだものです。もう一度出したいと思います。

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 夢のパノラマショーを観察していると、これは無意識の側から意識の側へのアクセスであることが分かります。
 無意識の側が何かの「意図」で意識の側に情報を送ろうとしているのです。
 意図にカッコをつけたのには意味があります。それは意識も無意識も、バックアップだという意味です。
 無意識で「意図」するものは何か・・・それは今のところ、不明です。
 朝の瞑想中に降りてきたインスピレーションですが・・・「意識と無意識は双方向通信をしているのです。」
 当たり前の話のようですが、私にとってはちょっとした発見なのです。
 「通信」というからには離れている存在なのです。これも当たり前かも知れませんが・・・。
 精神世界はどちらかと言えば、意識の世界を追っています。意識を高めるのが主な目的です。
 それに対して私は導師と出会うことによって、無意識の素晴らしさを強調してきました。
 為さずして為す・・ワダチに生きる・・等々。
 24時間・・云々の書き込みを読んだ時、「ふ〜う」とため息をついた人がいるのではないでしょうか。私が努力とか強い意識の世界の話をしたからです。
 でも今、私は再び意識の世界に帰ることが出来ました。
 意識を左手に繋ぎ、無意識を右手に繋ぎ、やっと二つを対等に見られるようになりました。
 それは「パノラマショー」や、「意識が無意識に降りる」というインスピレーションが発端でした。無意識に降りるのは、意識のセンサーだったのです。
 人間が人間としてあるのは、意識があるからです。ワダチ=無意識だけで生きていけば動物と同じです。
 ここでもう一度考えてみましょう。ワダチとは何でしょうか・・・
 センサーが無意識の世界からキャッチした情報は意識に登ります。その情報には未来の情報も含まれています。
 しかし意識は過去にも生きています。常識やルールや信念です。それを優先するかセンサーからの情報を優先するかは、やはり意識が決めるのです。たぶん・・・
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 旅行先からの書き込みは以上です。
 既にユングが顔を出していました。バックアップという言葉です。これはユングでは補償という言葉で出てきました。
 孫さんが顔を出していました。通信という概念でです。
 孫さんは宇宙のインフォメーションセンターという言葉を使っています。
 そして私がかいま見た夢のパノラマショーは、ひょっとすると少しだけ宇宙のインフォメーションセンターに繋がったのかも知れません。

 さて、私達は超能力者になる必要はありません。もちろんマニアは別ですが(笑)。
 私達はやはり、宇宙のインフォメーションセンターと繋がれば良いと思います。
 ですので、情報のやりとりをする部分だけが出来ればOKだと思います。孫さんのように物理現象まで起こさなくても良いと思います。
 しかし、その場合であっても孫さんのやり方はとても参考になると思います。
 意識だけでもなく・・無意識状態だけでもなく・・・
 まさにそのコンビネーションが大切であり、その様はまさに通信ネットワークのようなものだと思っています。
 今までこの世界は、「エネルギー」が中心だったと思います。相手にエネルギーを送るの、送られるだの・・・ 
 しかし孫さんのやり方を読むと、情報が中心であることが分かります。念写でさえ「写す」と言わずに「移す」と言うのです。
 この宇宙インフォメーションセンターという概念、そしてそのアクセス方法に関しては、孫さんが来日している間に一生懸命に聞き出そうと思います。
 しかし向こう側の世界が映像で見られるというのは、やはり孫さんならではです。蘇生と同程度に価値があると思います。

元型は過去の情報に関しては、ROMのみ(2000/08/17)

 再び孫さんの原稿です。

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 最近の私の念写能力は、更に高いレベルに達しました。
 今、一枚の印画紙を四つ分けて撮れます。つまり、一枚の印画紙の中に四つの違う内容の念写を同時に撮る事が出来るということです。
 しかも、受け取った多くの情報の中から選択して、意識でカットし、編集して組み合わせをしてから撮れるのです。
 これは言葉で言うのは簡単ですが、実際に実行するのは難しいです。先ず、超能力状態に入るにも、必ず下記の3点をしなければなりません。
  1.「やりたい!」という強い願望を持つこと
  2.喜びの気持ち、のびのびした愉快な気持ちを持つこと。
  3.とてもいい環境の中ですること。
 一番大事なことは、やはり自分の情緒を落ちつかせて、心を静かにさせることです。
 中国語で「心静如水」と言いますがそうなることです。
 完全なリラックスによって、大自然の中に溶け込むことが出来るのです。
 中国語で「忘我、無為」「無為而無不為」とも言います。我を忘れ、自然に任せるという意味です。
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 ここでも重要な言葉が出てきます。まず、「やりたい!」という願望です。これは意識の世界です。
 そして「喜びの気持ち、のびのびした愉快な気持ちを持つこと」です。これは元型と繋がるための精神状態としてとても必要なのでしょう。
 「とてもいい環境の中ですること」
 これは去年の9月に来日した時、柿ピーから21センチの芽を出しました。これは私が孫さんと遊んでいた時に出したものです。
 孫さんは実験室の中に閉じ込められてやる時は、とても気が進まないと言います。それでも頑張るのですが、なかなか成功しません。
 世の中で科学といわれているのは、この実験室の中の現象がほとんどかも知れません。
 さて、私がもっとも興味を持ったのは、前半の部分です。映像は切り貼りが出来るのです・・
 つまり、元型あるいは宇宙のインフォメーションセンターには、切り貼りをする「ワークエリア」がありそうな雰囲気です。
 パソコンで言えば、コピーとペーストという感じですよね。写真ですからフォトショップのようなものがありそうです。
 しかし詳しく聞いていくと、元型に写った画像そのものは変更不可能なのです。フォトショップでは出来ても、天目では出来ないのです。
 過去の画像は変更不可能・・・孫さんは単に出てきた画像を組み合わせているだけなのです。
 つまり、過去の書き換えは出来ない・・・つまり、リードオンリー・・つまりROMしか出来ないのです・・・。
 だから過去についての因果関係を変えることは出来ない・・。
 とは言え、これは孫さんの今のレベルの話です。孫さんはどんどん成長しているので、いつか出来てしまうかも知れません。
 だって蘇生という行為は、因果関係の逆転を思わせますから・・。

 さて、孫さんがやるような超能力が私達には必要ですか?過去の映像を出してどうするのでしょうか・・生きていく上で、これが必要だとはとても思えません。
 それで思うのですが、元型あるいは宇宙インフォメーションセンターは、二つの部分に分かれると思います。
 記憶ディスクを中心とした「過去」の部分と、CPUを中心とした「現在」の部分です。
 教授はこの部分について次のようにコメントしています

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 一応宇宙を高性能なコンピューターネットワークで構成された巨大なシステムと思ってください。
 無限の時空には、数え切れなほどのCPUがあります。私はこれをHighlntelegent Informalion Processing訳して宇宙のインフォメーションセンターと呼んでいます。
 その中には数え切れないのほどのソフトウェアとハードディスクがあいます。さらにそれらをつなげるネットワークがあります。
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 私達が必要なのは、CPUの部分であり、それは「現在」に属する部分でしょう。しかし、これさえも孫さんの念写は参考になります。
 来日した際は、この部分の突っ込みをしたいと思います。
 「私」とは単にこのコンピュータの端末にすぎないのでしょうか・・ 
 この書き込みから何かを結論付けることなど出来ないですが・・・
 私は、自分が端末でも良いと思っています。いえ、端末以下でも良いのです。
 なぜかと言うと、元型に惚れています。惚れているからこんなに追求ができるのだと思っています。
 草木は、端末以下ですよ。端末以下と言うよりも、マザーコンピュータそのものです。
 ユングは、端末(意識)よりも元型(無意識であり、宇宙のインフォメーションセンター)に惚れてしまったのではないでしょうか・・。
 だからそのすごい可能性におののいているフシも感じられます。
 私もむしろ、その巨大な可能性の中に、どうやったら侵入できるのかを考える方が好きです。自分の意志や可能性など、微弱なものだと考えます。
 それからもう一つ、私はもうしばらくの間、結論のない書き込みをしたいと思っています。結論を急ぐ方々、ご静観あれ・・・。

生命(2000/08/18)

この写真は、ハワイで泊まったホテルの運河の様子です。何故こんなところを撮ったのかと言えば・・
 このホテルはあまりに広いため、船で移動するのです。そのために運河が必要になります。
 しかし海面は当然のことながら、ホテルの位置よりずっと低いのです。ですのでこの運河の水は、ポンプで汲み上げています。
 ポンプはモーターで駆動するので、当然、魚が引っかからないように、水の吸い上げ口にはフィルターが着いています。
 しかしです・・。この運河には写真のように熱帯魚がいます。それどころか、マグロくらいの魚が泳いでいます。あいつらが丸ごと吸い上げられたとは、考えられません。
 つまり、この運河の中で何らかの形で生まれたのです。
 さて、私たちの意識で生命は作れるでしょうか?
 アミノ酸までは作ったという話を聞きますが、その試験管から生命が這い出てきたという話は、聞きません。
 生命は、自然が与えた繁殖方法でしか、作ることが出来ないのです。
 とは言え、人間の意識はとても偉そうです。科学で何でも可能・・
 しかしこの運河の中に、魚一匹作ることは出来ないのです。
 元型・・宇宙のインフォメーションセンター・・それは、「生命の集合体」のような気がしませんか?
 私達が何かをリリースするというのは、「生命」をリリースしているのではないでしょうか。
 宇宙のインフォメーションセンターが生命の源だからこそ、孫さんはそこにアクセスして蘇生をしているのではないでしょうか・・。

 そう考えると、意識は「生命」でしょうか?「生命」だと答えるなら、なぜ意識は生命を生み出せないのでしょうか。
 逆に、無意識あるいは元型は、生命だと思いませんか?
 不老不死の仙人・仙女は、元型にマッチングしたからこそ、生命を得たのではないでしょうか・・・。
 そして生命は、過去や未来に存在しているのでしょうか?
 なぜ瞬間に生きるのが良いかというと、そこには生命があるから・・のような気がするのです。
 ワダチの話の時に「車はなぜ右に曲がったか」という設問が出てきました。この答は「右にも道があったから・・」
 しかしひょっとすると「私の生命が選択した」とも言えないでしょうか?
 なぜ生命が選択したのかと言えば、「生命が生命としてありたいために」・・です。
 もちろんこれは、私の問題提起です。
 さらに問題提起は続きます。生命は死んでもあるのでしょうか・・。
 今の社会では生命がとても重んじられます。しかしですよ、肉体が死んでも生命が存続すれば・・・
 生命という概念は、魂とは違いそうです。魂には空間的なイメージが伴います。一生懸命に磨きたくなります。
 しかし、生命は磨けそうにありません。そして生命こそ、時間の中に存在しているような気がします。
 さらに言えば、お陰様は生命そのもののような気がします。生命こそ、「草の蔭」という存在だと思うからです。
 そう言えばフォーカス番号を描いた図は「いのちの世界」と名付けました。あれは、あの世は死の世界ではなく、生の世界だったという理由から付けました。
 向こう側の世界は、生に満ちあふれているのです。
 とすれば、生命のあるところ全ては、あちら側の世界に通じているとも言えないでしょうか。
 人と人、人と自然・・これら生命を通じて、私たちはいつも元型に繋がっているのかも知れません。
もりけん流ナンパ法(2000/08/19)

 久々にアドラー心理学(野田俊作)を読みました。『アドラー心理学と仏教における全体像』(アドラー心理学会報誌より)です。大変に面白かったのでアップします。
 まずは抜粋です。

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 宇宙の一体性を信じている人が人生の困難に出会ったときには、「これは避けがたいことだったのだ」と考える傾向にある。そして努力する勇気を失って「過去世の約束で決まっていたんだ」と言うであろう。
 本当の仏教は決定論ではない。
 古い聖典に三種類の誤った哲学が区別されている。
 第一は無神論的決定論(宿作因説)であり、過去世の行為の結果である業が今生のできごとを支配していると考える理論である。
 第二は神がこの世に起こることを決めているという有神論的決定論(自在化作因説)である。
 第三は偶然主義(無因無縁説)で、因果性を否定し、すべては偶然に起こっているにすぎないと主張する。
 ブッダは最後の説法の中で「すべての存在は移り変わっていく。自分を救済するよう勤勉に努力しなさい」と説いた。
 これは我々から見るに、われわれは「因果の法則はあるにもかかわらず」、自己の未来を決定できるのである。この立場はアドラー心理学のやわらかい決定論に似ている。
 仏教はどのようにして絶対的な全体論を仮定しながら自由意志を考えることができたのだろうか。
 それは仏教の因果律の理論的構造に関係している。そこには四種類の原因が定義されている。すなわち、内的原因・外的原因・同一性の原因・補助的原因である。
 内的原因はライフスタイル(アドラー心理学では性格のことをライフスタイルという)に似ている。
 外的原因は知覚の対象である。同一性の原因は人格の持続である。
 仏教は実体としての自己を認めないで、人格の同一性は努力して維持しなければならないことになる。
 人はいつも無意識に「私は私だ」と考え続けているのである。この自分自身への説得が同一性の原因である。補助的原因は世界に起こるその他すべての出来事である。

 例を一つ挙げよう。ある少年がいて少女が来るのを見たとする。少年の心の中に知覚された少女が外的原因である。
 彼は可愛いガールフレンドがほしいと思っていた。これが内的原因である。
 そこで彼は内的原因と外的原因に従って「あれは少女だ。あの少女は可愛い。私は彼女と友達になりたい。だから行って彼女に話しかけよう」と考えて行動する。
 彼は自分は生まれてから死ぬまで同一人物だと信じている。これが同一性の原因である。
 この少年と少女の出合いはさまざまの補助的原因によって支えられている。この意味で、世界全体が彼らが会うのを助けたのである。補助的原因は世界全体の流れの結果である。
 個人は世界の流れの中にその部分としていつも浮かんでいる。個人は補助的原因を変えることはできない。外的要因も補助的原因の一部なので、変化させることができない。
 個人は、しかし、内的原因を変えることができる。なぜなら、人格の一貫性は刻々と同一性の原因によって決められているからである。
 自分自身をも含む一切が無常であることを理解するとき、人は同じ同一性の原因を自分に与えるのをやめることができる。
 すなわち、人は自分のライフスタイル(性格)を変えることができ、その結果、行動を変えることができるのである。
 ライフスタイル(性格)を変えようとする能動的な努力は効果が無く、同じに留まらないでいる勇気が必要なだけである。
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 さて、ここからが私もりけんの意見です。
 端的に言えば、「私は私だなどという一貫性を手放してしまえばいい」ということでしょう。
 これは一般的精神世界の言うことの逆でしょう。一般的精神世界では「本当の私になること」が目標でした。
 私ですら「私は私自身にしかなれない」という表現を『不思議の科学2』に書きました。
 私達は、「私」にとても愛着があるのです。
 「成長」という単語も同じです。成長ほど私を意識させる言葉はありません。しかも成長には一貫性が要求されます。過去を反省し自分を変える・・そしてステップアップする・・・
 私は私・・という考え方は、私というものに「線」を思わせます。
 「同一性の原因を自分に与えるのをやめる」と言うことは、「点」を思わせます。「点」だからランダムに振れても良いのです。
 しかし、人はここまで自由になれるものでしょうか・・。
 「ガールフレンドが欲しいと思っていたので、その状態を作りたい・・。」
 これは「今まで考えていた夢を実現したい」と言うふうに置き換えることが出来ます。
 想っていた夢の実現の、何が悪いのでしょうか・・。
 それが、やはり悪いのです(笑)。夢は過去だからです。
 少年は自分の行動(ナンパ)への言い訳をしました。「ガールフレンドが欲しかった・・」という・・。
 彼はガールフレンドを獲得しますが、私の勘ではいずれ失いそうです。
 なぜなら、それは「思っていたガールフレンドではなかった」から・・という言い訳が付く可能性が大きいからです。
 しかし、野田俊作氏の挙げた例は、とても難しいです。じゃあ、どうすりゃいいんだと言いたい(笑)。目的無しにナンパするのは、大変です(笑)。
 今までのカッコつけてたやり方を捨て(同一性をやめ)、「ガルルルゥ」と吠えながら可愛い少女に抱きつくか?(笑)

 さて、私ならどうするか・・(もりけん流ナンパ法)
 上記の「同一性の原因を自分に与えるのをやめる」ということも、何かまだ「私」が存在しているような気がします。「やめる」という表現が・・です。
 だって「やめる」というのは意志的行為ですし、やめるのは「私」ですし・・。
 で、どうすれば良いかと言うと・・・タオに従ってしまえばいい・・
 タオなどという単語が出てきましたが、これはやはり元型と同じだと思うのです。
 タオの考え方とユングの元型の考え方からすると、意識も無意識も同じ個人の領域なのです。意識のみが私であるとする考え方はハンドル操作的考え方です。
 ハンドル操作も楽しみながらワダチ乗りも楽しむ・・それがタオ的なのではないでしょうか・・。
 タオでは「初めに一つの気があった」と言います。
 昨日「生命」という題の書き込みをしましたが、気は生命ではないでしょうか・・・。
 リリースとは生命を解き放すこと・・ワダチに乗るということは、選択を生命に委ねること・・。
 少年が生命に委ねると・・・生命として、より生きる方向を選択すると思うのです。それが何かは、少年でないと分かりません。
 いえ、少年という個ではなく、より全体に近い生命でないと分からないかも知れません。
 きっと生命から、一瞬のパルスが少年に流れるのです。それは元型、あるいは宇宙のインフォメーションセンターからです。それは自分の内部からの信号でもあります。
 過去から持っていた夢を実現するため自分自身を駆り立て、「おい、今話しかけないと、チャンスはないぞ」と自分に強いる代わりに・・
 単にドキドキした目で彼女を見るだけかも知れません・・。
 そのとき彼が生きているという感覚を、彼女に表現すればいい・・。
 それは一瞬でいいと思うのです。その瞬間において、結果的には「同一性の自分」なんて無くなっていると思います。
 私はマスター(仙人・仙女)との遭遇話をまだアップしていません。でも、このくだりにとても関係がありそうです。マスターは、とても生き生きしていたのです。
 私が体験したフォーカスの上部の世界は、感情が希薄でした。
 しかし、マスターは私たち以上に生き生きとしていたのです。エネルギー体であるにも関わらず・・です。
 さらに、「エナジーがバンバン出ている」という感じでもないのです。
 そしてその記事にも「一瞬でいい」という表現が出てきます。
 少年は少女と一瞬、生命を共有すればいい。その一瞬が「出合い」だと思うのです。
 私達が永遠の一瞬に留まり、未来から流れてくる時間に身を任せた時・・
 あとは書きません。書くとそれが想いになりそうです。

遊び遊ばれ・・、人生は遊び・・・(2000/08/20)

 今、いつものカフェです。トーストとフレッシュオレンジジュースとコーヒーと・・。
 さて『不思議の科学3』には、「美味しいコーヒーを飲むことがタオです」と書きました。
 今日の、ここのカフェでの出来事を振り返ってみると・・私が「美味しい」と思って飲んだのは、一瞬だけでした。そのあと何をしているかと言えば、思考ばかりです。
 私は普段も、思考ばかりをしています。だから暇だという状態は起こりません。
 本がなくったっていいんです。大抵無いんです・・本なんか・・。
 思考をしていればいいんです。飽きません。でも、思考をして結果が出るのはほんの少し。
 実に無駄な行為をしています。毎日、毎日・・。それが楽しくてしようがないのです。
 しかしこれとて、積極的に思考しているのかと言うと、ちょっと違うみたいです。
 ボーっとしているのです(笑)。う〜む・・。

 さて、前回書き込んだ「少年の彼女論」ですが・・
 彼女を作りたい作りたいと強く願っている男性の所には、女性はなかなか近付けないのではないでしょうか?
 楽しくやっているうちに、結果的に彼女になっていた・・そういう状態の方が、良くはないですか?
 何故こんな事を考えたかというと・・
 私は思考の結論を得たいと強く願っていると、ほぼ100%結論は出ません。思考を楽しんでいる時しか出ないのです。あらゆる事にこれは言えないかと思ったのです。
 だから、男女間にも言えると思うのです。
 彼女を作りたいと願っている男性の所には、なかなか近付けないのではないでしょうか?
 結婚を強く願っている女性の所には、男性はなかなか近付けないのではないでしょうか?
 つまり、遊びの部分が少ないから・・
 だから告白なんて、一番最後にすればいいんです。だって、告白は一種の所有希望宣言ですから・・
 男女関係が遊びだと言うと批判されそうですが、やはり何につけてもそうではないでしょうか・・。思考も遊びから・・男女も遊びから・・・。
 もてる人の所にドッと異性が集まるのは、やはりキーは遊びがあるからだと思うのです。
 遊びだと分かっていながらその人に惹かれるのは、遊びは楽しいからではないでしょうか?
 人はどの世界でも遊びを好み、目的を嫌うのではないでしょうか?
 為さずして為す・・とは、まさに「彼女の作り方」を言っているような気もしました。

 男女間でも「遊び」がキーだと書きました。それは、生命が遊びを欲しているからだと、ふと思いました。
 生命は、仕事が嫌いなんです(笑)。生命は、努力が嫌いなんです(笑)。
 生命が生命であるためには、遊んでいたいのです。だとすると、元型も遊んでいたいのです。
 人も、ずっとこのまま遊び続けたいから、不老不死になるのです。
 とすると、不老不死になっても男女間は残るのかも知れません。
 だって男と暮らすより、女性生と暮らした方が楽しいではないですか・・。
 女性は男性の対極ですから・・
 しかしその世界では、目的意識というのは本当に少なくなるのでしょうね。
 遊びだけのために遊ぶ世界・・。
 それで楽しいのかという問いを発するうちは、その世界にはならないかも知れません。
 あの、八仙の凄まじい遊びの風景は、まさに未来の姿・・性別を変えた二人の仙人は、まさに未来の姿・・。
 すべてが遊び・・で、私はそんなに遊べるか・・。

それ以上 more than(2000/08/20)

 アドラー心理学会報誌に『アドラー心理学の基本前提』という題名の論文がありました。
 そこにちょっと面白い話が載っています。以下の話は抜粋ではなく、私の解説です。
 科学には全体論と還元論があります。
 還元論とは、最小の断片に分化させて対象を理解していく方法です。
 精神分析の多くは、還元論です。
 過去世にまで遡って催眠療法で治療するのも、ある意味では還元療法です。
 それに対して、アドラーやフロム、マズロー等は全体論だそうです。
 全体論では、「全体としての有機体は、各部分の総和よりも大きい」というのがその論旨です。
 還元論は「それでしかない nothing but」、全体論は「それ以上 more than」。
 化学は全体論的視点の一例だそうです。
 各原子はそれぞれ別々の特性を持っています。しかし二つの原子が一つの分子として結び付いた時、分子はそれぞれ別々の原子が持っている特性とは異なった特性をもった化合物になる。
 この属性は、その構成要素である原子の属性を知るだけでは予測することは出来ない。 
 同様な事は、心理学にも言える。例えば「衝動」・・。
 これのみを取り出して議論すると、「衝動で動いてはいけない」などということになる。
 しかし「衝動」は「原子」として捉えることが出来る。
 原子がなければ分子は無い。衝動が無ければ全体(例えば愛)は無い。
 会報誌の中では次のような記述がある。
 「有機体の中にどのような生理的衝動が存在するかを考えるだけでは単純に理解できず、より高い次元(higher order)の組織として考えなければならない」・・と。

 さて、ここで元型に戻ります。
 とろこでアドラーさんは、ユングさんがあまり好きではなさそうです。随所にユング批判をしています。
 どんな批判をしているかというと・・こんな事が書いてあります。
 ある種の心理学は「真の自己」と「偽りの自己」を考える。偽りの自己が真の自己を覆っているので、人間は苦しまなければならない。まわりを覆っている偽りの自己が消えると、真の自己が現れ、苦しみは終わる。たとえばユング心理学がこれに当たる。
 ある一種、私のタマネギの皮理論を批判しているようにも感じます。
 しかし私にとってもユングにとっても、全ては仮説です。ユングも仮説であることを強調しています。
 私はいつでも「真の自己」に興味があります。だから心理学は嫌いではありません。
 さて、元型の話題でしたね。
 全体論を元型、あるいは宇宙のインフォメーションセンターとして考えましょう。
 すると私達は原子である可能性もあります。
 とすると、それらで構成されている奴ら(元型)は、私たちの思考の範囲を完全に超えている可能性もあります。
 うううううぅぅぅぅぅ・・そりゃあないぜ、元型ちゃん・・。原子には(たぶん)意識はないけど、私にゃ、あるんだ。
 そうそう、書く事はもう一つありました。
 それは、全体というものを作り出してしまっているのは、何度も出ている「生命」ではないかと・・
 生命って何でしょうか?生命を研究している科学の分野は、いったい何でしょう?
 生命科学者なんて聞いたことがないし・・。
 医者はどちらかと言うと還元論的感じだし、生命そのものを「それは何だ?」という感じで研究している風に見えないし・・。
 孫さんが蘇生すると、死体(ピーナッツやエビ)が破損していても、関係無いのです。完璧な状態で蘇生します。
 ということは、生命から見ると我々の身体は、本当に従属的なものなのです。
 孫さんに生命をコントロールされることは、生命のもくろみでもあるのでしょうか?

私達は全体の一部か?(2000/08/21)

 元型とか、宇宙のインフォメーションセンターというのは、「組織体」なのかという疑問です。私は、違うという仮説を持ち始めています。
 元型が組織体ならば、我々原子(原子だと仮定)の計り知れないものですが、組織体でなければ・・・
 組織体とは、原子と分子の関係です。全体論の世界です。
 もしも組織体なら、私達は、その組織体の部分になってしまう・・
 全体のために何かをするという・・しかし全体の目的は知らされていない・・
 だとすると、元型は全体論では考えなくてもよい・・いやいや、言い方が優しすぎる・・
 元型が全体論の世界なら、「ふざけんじゃねえ」と、我々原子は反乱を起こささなきゃ・・
 つまり、全体論と還元論を越えるものだと思うのです。全体論にしても還元論にしても、組織として考えているわけです。でも、元型は組織ではないような気がするのです。

 還元論は「それでしかない nothing but」、全体論は「それ以上 more than」。
 私達と神の関係は、この両者しかないのでしょうか?
 神という単語を使いましたが、元型はそろそろ卒業です。たぶん、名前のない存在なのでしょう。
 これは別のコーナーでも書いた、死神の話と似ています。ここにも同じ事を書きましょう。

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 死神の映画

 この間、死神がでてくる映画をやっていた。で、人間が彼に訊いた。「Who are you?」
 死神は「Who am I?」と訊き返す。つまり、神は自分が誰か、知らなかったのです。
 神は、自分を知らない・・
 私達は原子であり、その上部組織体の何かの部品・・そうなのでしょうか?
 私達は神の一部・・本当に一部でしょうか?
 全体(神)は私達を超越しているのでしょうか?
 『リング』という小説がありました。プログラムで作られた生物をブラウン管越しに覗いている時、突然向こうの生物が覗いている人に向かって言います。
 「おい、そこにいるのはわかっているんだ。俺をそちらの世界に連れて行け。」
 小説の中では、この言葉を契機に、彼は外の世界に出ます。
 「神よ、お前の自由にはさせないぞ・・」これは一度、私が言ったセリフです。
 でも誰かが私に言いました。「神をあなどってはいけない。」
 そうでしょうか?神は、あなどれないでしょうか?
 元型、神、生命、宇宙のインフォメーションセンター・・
 多くの呼び名が出てきますが、たぶん、指し示しているのは、同一人物です。
 それは・・神。
 今の私にとっては、輪廻転生をクリアすることなど、何の興味もありません。
 成長して悟って・・解脱して・・それはそういう成長マニアがやればいいのです。
 ただ、今の私は、神は全体論としての別の大きな生物ではないのではないかという予感・・
 「おい、そこにいるのは分かっているんだ」こう言った途端、「Who am I?」が返ってきそうな予感・・
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 みなさんは、神が「Who am I?」と言うシーンは、どうとも思いませんでしたか?
 私は、非常に感動しました。なぜなら、神は全ての解答を用意してあるはずだからです。
 ユングは問いが全てだというようなことを言いました。問いはカルマだと・・問いがあるから、時間が続くのだと・・
 神の問い「私は誰?」ととても関係していると思いました。
 私はずっと神に答を求めていました。しかしですよ・・神も同様に問い続けていることだって、充分にあり得ます。
 だとすると、なんて素敵な神でしょう・・・。

ハワイコーナー最後の書き込み(2000/08/24)

 今年のハワイも、やはりハワイでした。目的を持たずに外国に行くのは、やはり精神健康上、とても良いようです。
 ハワイという島は、どこかに無国籍を思わせます。アメリカであってアメリカではないような・・・。
 ディズニーランドに『イッツ・ア・スモールワールド』というのがありますが、その天然版という感じもします。
 でも、その無国籍の楽園でも、私は問い続けていました。この世界は何だ・・と。私は何だ・・・と。
 「私とは世界に向かって投げられた問いなのである」ユングの言ったこの言葉は、ほんとうにそうだと思います。
 こうだと答える世界は、信念の世界です。信念の世界は、答えの世界です。
 問いは不安定です。答は安定です。問いは動的です。答は静的です。

 ところで昨夜、ローリー・モンローさんからFOWの原稿が届きました。それは素晴らしい原稿でした。
 ローリー・モンローさんは、私が昨年の夏に参加した「ビヨンド35」というプログラムでは、トレーナーでした。
 しかし、トレーナーが自分の意見を言うことは、ほとんどありません。
 今回の原稿を読んで、モンロー研究所が目指しているものの凄さを感じました。
 まず、父親であるロバート・モンローの体脱の話から始まります。
 フォーカス24から26は「信念体系領域」であることを説明しています。
 この領域に入ると、なかなか抜け出られない・・というくだりはショックでした。これは死んでからの話だけではありません。
 生きている私達がはまり込んでしまいます。信念体系領域・・・
 This often happens at a place that is referred to as the belief system territories, Focus 24-26.
 they are unable to free themselves from the ties of physical life. They sometimes remain there for what seems to be a very long time.

 そして講演の最後は、次の詩で終わります。

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THERE IS NO BEGINNING, THERE IS NO END
 THERE IS ONLY CHANGE.

始まりはない、終わりはない、
 ただ変化があるだけ。
  THERE IS NO GOOD, THERE IS NO EVIL,
 THERE IS ONLY EXPRESSION.
  善はない、悪もない、
 ただ表現があるだけ。

THERE IS NO UNION, THERE IS NO SHARING,
 THERE IS ONLY ONE.

結合はない、分割もない、
 ただ一者があるだけ。

THERE IS NO GREATER, THERE IS NO LESSER,
 THERE IS ONLY BALANCE.

優はない、劣もない、
 ただ均衡があるだけ。
   THERE IS NO STASIS, THERE IS NO ENTROPY,
 THERE IS ONLY MOTION.
  静止はない、エントロピーもない
、  ただ運動があるだけ。
   THERE IS NO WAKEFULNESS, THERE IS NO SLEEP,
 THERE IS ONLY BEING.

覚醒はない、眠りもない、
 ただ存在があるだけ。
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 この詩は、実は読んでいると涙すら出ます。
 道教のタオにも通じ・・私の『不思議の科学3』の世界にも通じ・・
 なんか、ハワイの書き込みがこの詩にも表現されていると思います。
 ユングの言いたい事も、この詩に表現されていると思います。
 彼女が送ってきたのはとても長い原稿なので、FOWだけでは喋り切れず、夜のホテル横浜での講演会に持ち越されるでしょう。
 でもこの詩は、FOWで言って欲しいと思います。
 ローリー・モンローさんは、自分がやっている研究について、「体外離脱などは、証拠が取れないのでとても残念です。でも続けていくことが大切だと思っています」と述べています。
 私も問い続けていきたいです。答の向こうには、また問いが出てきても・・・それでもいいんです。
 これでハワイの書き込みを終わります。アロハー、ハワイ。

書き込み期間:2000/8/11〜2000/08/24