もりけん語録
テーマ:「マインド・タイム」
書き込み期間:2005/12/22〜2005/12/30
要旨:
『マインド・タイム』という本を読みました。
その本によれば、あらゆる行動はそれが起こってから0.5秒後に意識に上るといいます。つまり意識してから行動を起こしているのではなく、意識で気付いた時には既に行動は起こっているのです。
だとすれば、意識は行動の内容を決定したり参画することは出来ません。
感情についても同様です。感情は無意識が勝手に作っていて、意識は遅れてそれに気付きます。
さらに、意識には、0.5以上持続しない刺激は知覚できないという性質があります。しかし無意識の方はちゃんと知っています。
無意識に比べて、意識はとても鈍くさいのです。

この本の著者であるベンジャミン・リベット氏の実験結果を押し進めると、脳科学の側面から「私は結果」の仮説が導き出されることになります。
ところがそれにも関わらず、著書では一転して自由意志を賛美する論説が展開されます。モーゼの十戒の話を出し、これを肯定的に書いています。
著者はこう述べています。確かに私達の意識は自発的な行為を起動してはいない、しかし無意識が起動した行動に対して意識はこれを止めることが出来る・・と。
そして最後に、「行動すべきか否かの選択について、人は意識的に責任を負うことができる」「人類が受け取った最も偉大な贈り物とは、選択の自由です」と結んでいます。

リベット氏の最後の結論に関しては、実験データが提示されていません。意識で制御する実験が実際に出来ないからです。それまでコンマ数秒単位で自由意志の測定をしてきたリベット氏も、「自由意志は全く無い」と結論づけることに耐えられなかったのでしょう。
「私は結果」を受け入れることは、それほど大変なことなのです。
リベット氏は意識的な制御に自由意志を見出しました。ですが私は、むしろ意識の制御を取り払っている方です。全ての抑制を取っ払ったときに本当の自由が出現する可能性があるとさえ思っています。
目次
○ 指の事故での数日の空白・・書いてみないと自分が何を言いたいのか、自分でも分からない
○ 感情は0.5秒の間に、無意識が勝手に作っている
○ 意識はとても「鈍くさい」
○ 自由意志教
○ 自由意志を計測する
○ 意識的な拒否
○ 「人類が受け取った最も偉大な贈り物とは、選択の自由です」
○ 全ての抑制を取っ払ったとき、本当の自由が出現する可能性だってあるような気がします
○ リベット博士への反論の続き(最終回)
指の事故での数日の空白・・書いてみないと自分が何を言いたいのか、自分でも分からない

指の事故が起こり、医者に行きました。すると「3日間は絶対にキーボードを打ってはいけない」と言われました。初日はおとなしくしていましたが、翌日からは左手で打ち始めました。
私は表出することが本来、好きなのではないかと思いました。ということで、「表出」というのは何かのキーになるのではないかと思いました。
ところで「愛とは何か?」と訊かれたとき(笑)、「それは表出である」と答えます。これに関してはフロムの考えと、未だに同じです。愛は相手を思いやることではなく、相手に表出することだ・・と。
表出するというのは、生きている証拠です。自分の中で生きているものを、相手に表出するのです。

さて、私はなぜ表出したいのかについて、ある本を読んだときに考えました。その本は、ベンジャミン・リベット著『マインド・タイム』です。この本を訳したのはカリフォルニア工科大学の下條さんです。
リベットさんは脳の現象に対して、「時間差を測る」という視点から迫りました。その結果、とても面白いことが分かりました。
人間は全て0.5秒ずつ遅れて意識しているのです。あらゆる行動は無意識に始まり、それが0.5秒してから意識に上るのです。
例えば私が何かを喋ったとしましょう。自分では喋る内容を「あらかじめ意識で構成して」喋っていると思っています。しかしそれは「あらかじめ無意識の領域が勝手に構成して」その0.5秒後に意識に上ります。
つまり意識は喋る内容の「創作」に参画することは出来ません。
要するに、喋ってみないと自分が何を言いたいのか、自分でも分からないのです。私が何かを書くときも同様です。書いてみないと分からないのです。
ということは、何かを表現しない限り、自分が何者かは分からないと言えると思います。
「私は結果」で生きていますが、どういう結果を生きているのかすら、実際にやってみて初めて分かるのです。
「表出」というのはおそらく三次元の世界が得意な分野です。三次元の世界が存在するのは、時空が「私は誰?」を知るためかも知れません。
こうして考えると、私が表出好きなのも理解出来てきます。
感情は0.5秒の間に、無意識が勝手に作っている

昨日の書き込みでは、意識は常に0.5秒遅れていることを書きました。今日もその話の続きです。
「意識」は遅くても、「無意識」はとても速いのです。そしてほぼ即座に反応できます。
例えば車を運転している時、子供が飛び出したとしましょう。ドライバーは0.15秒でブレーキを踏めるのです。でも意識が子供に「気づく」のは、子供が飛び出してから、0.5秒後なのです。
つまり意識できた時は、事は全て終わっているのです。
しかし私達はリアルタイムに行動していると思っています。これは脳が「主観的な前戻し」という操作を行っているからなのです。
実際には0.5秒も過去の世界に生きているのに、まるで「誤差のない今」を生きているような錯覚を起こしているのです。
ところでイチローや松井は、凄いことをやっています。なぜならピッチャーが投げたボールがバッターに届くまで0.45秒なのです。つまりバッターは意識の世界では、打つことが出来ないのです。
ピッチャーの投げたボールは、イチローや松井の「無意識」と勝負するのです。
ところで彼らの無意識の脳がバットを打つ腕に指令を出してから実際に打つまで、0.15秒かかります。これは子供が飛び出したときにブレーキを踏むドライバーと同じ反応速度です。そしてボールが到着するまで0.45秒かかります。
イチローや松井は時間をフルに使います。つまり、0.3秒ほど待ちます。そして打つかどうかを決定します。
下手なバッターは0.2秒くらいで決定してしまい、そのボールがその後カーブしてくると空振りします。
つまり彼らは0.1秒の差の世界で生きているのです。
しかもそれらの結果が意識に上るのは、ボールが彼らのバットの芯に当たった後なのです。

次は凡人の話をしなければなりません(笑)。
被験者に異性の裸の写真を見せたとします。それらにどう反応するか・・それは意識に登る0.5秒の間に決められているのです。
恥ずかしがるか・・コーフンするか・・(笑)怒り出すか・・(笑)
感情は0.5秒の間に、無意識が勝手に作っているのです。「あなたの意識」はそれに参加することは出来ません。
彼氏に別の女の裸体を見せたとき彼氏がコーフンしても、それは彼のせいではありません(笑)。

『マインド・タイム』という本は、脳科学の側面から「私は結果」を言おうとしている本なのです。
訳者の下條さんは、「自分のオリジナルな仕事に全力を注ぐため、翻訳の仕事はしない」というポリシーがあったそうです。
しかし下條さんはあとがきで「この本にまとめられている著者の業績は、歴史に長く残るランドマークとなるはずです」と書いています。それをどうしても日本に知らせたくて訳したのだそうです。
でもこの本は、とても難しい本です。私の書き込みで読む方が楽しいはずです(笑)。
意識はとても「鈍くさい」

今日も0.5秒の話です。人間は0.5秒以上刺激が続かないと、その刺激を無視するという話です。被験者を0.4秒間つねっても、無かったことになるのです(笑)。
しかし無意識は、「知っている」のです。よく話題になるところの「サブリミナル効果」などがそれです。動く画像に0.5秒未満の砂漠の画面を挿入しても、人は知覚できません。しかしそれを見ている人は、次第にコーラが飲みたくなります(笑)。
映画館でこの手法を使えばコーラが沢山売れます(笑)。なのでこの手法は禁止になりました。でも砂漠の画像は、意識の世界に上ってきません。
そして意識に上るか上らないかは、「オール・オア・ナッシング」だそうです。
本には次のように書かれています。「つまり適切な精神活動が、実際のアウェアネスに必要な500ミリ秒間のほぼ90%の長さの時間持続したとしても、そこにはその事象についての報告可能な意識的アウェイアネスは出現しません。」
500ミリ秒、刺激がフルに続いたとき、初めて意識に上るのです。
何故こんな機能が働いているのでしょうか・・著者は推測しました。
「もしもあなたがすべての感覚入力に気づくようになったとしたら、意識事象の無意味な騒音を抱え込みすぎることになるでしょう。」
さらに次のようにも言っています。
「おそらくある種の精神障害は、アウェイアネスに必要な脳活動の持続時間の異常な減少によって、このようなフィルターメカニズムが適切に働かないことを反映しているのでしょう。」
つまり全ての事を意識で知覚するようになると、頭がおかしくなってしまうのです。
これを読んだとき、意識は会社組織で言えば、エラそうな社長ではないかと思いました。
細かな現場の声は上がってこないで、しかも上がってくるときは遅れて来るのです(笑)。
車に喩えれば、メチャクチャ「あそび」が多いハンドルです。
私はハンドルの遊びが嫌いでした(笑)学生時代に乗っていた車(スプリンター(笑))は、あそびをゼロに設定していました。路面の動きを感じていたいからでした。
でも、この本を読んで諦めました。意識はとても「鈍くさい」のです。
鈍くさい人って好きじゃないけど・・(笑)、その事実を認めるところから始めるしかありません。
お互いに頑張りましょう(何を?(笑))。
自由意志教

意識は全てにおいて0.5秒遅れます。言いたいことや書きたいことは、意識が「創造」しているわけではありません。私達は無意識の世界に「動かされている」というわけです。
『マインド・タイム』という本は、ここまでは素晴らしい本です(笑)。しかし一転します(泣)。起承転結の「転」が、これから待っています。
一般的精神世界で言われていることに「あなたの意識で世界を変えよう」というのがあります。意識が主人公となるのです。これを「自由意志教」と呼びます(笑)。
でもよーく考えて下さい。科学者の大半も「自由意志教」の信者です。だって占いを相手にしません。
『マインド・タイム』の著者とて、同様でした(大泣)。なんと「自由意志教」の信者でした。それも熱烈な信者でした。
この後の章には次のフレーズが出てきます。

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自由意志のこうした役割の種類は実際に、一般的に受け入れられている宗教や、倫理的価値観と一致します。多くの信心深い哲学者たちは、人間は自分の行為に責任があると考え、「自らの行為をコントロール」するようにと唱えます。モーゼの十戒の多くは「してはいけない」ことの規定でした。
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こういうフレーズを肯定的に書いているのです。ハッキリ言って精神世界以上に重病です(笑)。
もちろん人のことは言えません。六爻占術のやっている多くの人は、運命の変更が主たる目的です。それと「自由意志」は大差がないと思っています。
そして私とて同様です。メルマガには、上位の問いを刺激する文章をバシバシ書きますから・・(笑)。
リベット氏がどんな展開で自由意志を賛美してモーゼの十戒にまで辿り着くのか、それは見物です(笑)。これからのお楽しみです。
自由意志を計測する

さて『マインドタイム』という本も、いよいよ「転」に入ります。
本の題名の通り、リベット博士(なぜか外人だと「博士」が付く(笑))は、脳の時間差を追いかけています。
博士は、正確に計りました。何を?なんと「自由意志」の時間を計ったのです。
(今までは外からの刺激を測っていたのです。それは簡単でした。刺激を与えるのも博士の側から出来たからです。でも自由意志は測るのが大変です。なぜなら、それは自由なので(笑)、「その意志をいつ持ったか」を計測する必要があるからです。そこで博士は改造した時計を考えました。)
被験者の前に普通よりも25倍も早く回る時計を置きます。そして被験者に「あなたの自由意志で手を挙げて下さい。そして手を挙げようと思った瞬間の時刻を教えてください」と依頼します。
普通の時計なら鈍くさくて(笑)正確な時刻は分かりません。しかし秒針が25倍で進んでいるので、コンマ1秒単位で認知できます。被験者には、各所に電極が付いています。
そして分かりました。
(ここでは時間を正確に表すために、ミリ単位を使います。1000ミリ秒が1秒です。)
手を挙げようと意識で「思った」時間よりも、400ミリ秒(0.4秒)早く、脳は指令を出していたのです。そしてその150ミリ秒あとに、実際に手が動きます。
著者は次のように書いています。

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明らかな答えは、以下の通りになります。脳はまず最初に、自発的なプロセスを起動します。被験者は次に、脳から生じて記録されたパルスから400ミリあとに行為を促す衝動または願望に意識的に気づきます。9人の被験者にそれぞれ40回の試行の実験を行いましたが、これはそのすべての被験者に当てはまりました。
− 中略 −
これは何を意味しているのでしょうか?まず、自発的な行為につながるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現れるずっと前に脳で起動します。これは、もしも自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します。
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今日はここまでです(笑)。
どこに「自由」があるって?あるんです。「リベット博士にとっての自由」が・・。
計測方法に対する批判も確かにあると思います。しかし私は評価したいです。
ぶんぶん回る時計など、普通はやろうともしないでしょう。
そこから何かが出るかもしれないとすれば、一つつのステップとして偉大なことだと思います。
意識的な拒否

著者のリベット氏は問います。「意識を伴う意志には、何か役割があるのでしょうか?」
彼は自分で答えます。
「意識的な意志は、脳活動の始動より400ミリ秒遅れて後に続くとはいうものの、運動活動の150ミリ秒前には現れます。意識的な意志にもし役割があるということなら、自発的な行為の生成プロセスの最終成果に影響を与えたり、制御したりする可能性があります。150ミリ秒の間隔によって、意識機能が意志プロセスの最終成果に影響を与え得る時間の余裕ができます。」
と言っても50ミリ秒は、筋肉を動かすための神経細胞を活性化させるのに使われるので、実際には100ミリ秒しか使えませんが・・。
そして彼は結論に向かいます。
「こういた結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。行動しようとする衝動の拒否、という経験は、私たちは日頃からよく経験しています。予測される行為が、社会的に受け入れがたいものである場合や、その人の全人格や価値観と合わないものである場合に、これは特によく起こります。」
みなさん、分かったと思います。無意識が勝手に我々を動かしているのに対して、意識はストップをかけることが出来るというわけです。
「神よ、お前の好きにはさせないぞ」と呟いた私に似ています(笑)。
「人類が受け取った最も偉大な贈り物とは、選択の自由です」

『マインド・タイム』という本は、「私たちに自由意志はあるのか?」という章に入ります。
リベット博士は問います。
「私たちは、自然界の法則の決定論的な性質によって完全に支配されているのでしょうか?私たちは本質的に、精巧な機械にすぎないのでしょうか?それとも、既知の自然界の法則に完全に支配されずに選択や行為を成す主体性が私たちにあるのでしょうか?」
彼は、自分で答えます。
「自由意志は意志プロセスを起動しません。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断したりすることで、その結果を制御したりすることができます。」
「責任」についても彼は言っています。
「行動すべきか否かの選択について、人は意識的に責任を負うことができるということが含意されています。」
そして「私たちに自由意志はあるのか?」という章の最後は、次のように書かれています。

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ここで私は偉大な小説家、アイザック・バシェビス・シンガーからの引用で締めくくりたいと思います。
シンガーは、人間には自由意志があるという彼の強い信念について述べています。
インタビューの中で彼はこう答えています。
「人類が受け取った最も偉大な贈り物とは、選択の自由です。選択の自由を行使するということに関して制限があるのは事実です。しかし、ほんのわずかでも私たちが選択の自由を持っているということは素晴らしい贈り物であり、無限の可能性が秘められています。そのため、このことがあるだけでも人生を生きる価値があるのです。」
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本の抜粋は、これで終わりです。明日から、私の考えを入れます。
全ての抑制を取っ払ったとき、本当の自由が出現する可能性だってあるような気がします

『マインド・タイム』の面白さの一つは、訳者の下條さんが「訳注」を使って自分の意見を述べている点です。
例えば「彼(リベット氏)はまだ××氏のことをクダクダと批判している」などと書いています(笑)。訳者からこんなことを言われる著者って・・。
そして「意識的な拒否」のところでは次のように反論しています。
「この最初の衝動と抑制の意志決定を、そんななきれいに切り分けられるか、という疑問も提起する。例えば、ある行為をし続けていて、そろそろ止めようかという抑制の意志決定はどちらに属するのか、議論の余地が残る。」

さて、私にも幾つかの反論があります。
イチローや松井は0.1秒が勝負でした。凡人は、ボールがバッターに届くまであと0.2秒あるのにバットを振り出してしまいます。しかしイチローや松井はボールをぐっと引き寄せて、最後の0.1秒で決定します。
0.1秒は100ミリ秒です。これは意識的な拒否の時間と同じです。
イチローや松井が全神経を賭けてバッターボックスに立っている行為を、我々凡人にも適用せよ言うのでしょうか?
ところで私にこれが適用出来たとして、社会的に最も有効に働きそうなのが、夜の独り言です。夜の独り言は、過激になるときが多いからです(笑)。
「おお、こんな一言まで書いていいのかよ」と自問自答しながらやっています(笑)。
しかし0.1秒の「意識の抑制」が効いたためしは、ありません(笑)。
書き終わってから数十日経ったところで、相手が怒っていたりするのがやっと分かります(笑)。
夜の独り言がなければ、船井さんとも浅見さんとも、うまくいっているでしょう・・。
でもそれで、真理の追究が出来るでしょうか?出来ないような気がします。
周囲に笑顔だけ振りまき迎合をしていれば、今の私はありません。

さて、奇妙な大仮説を書くとすれば、多くの人たちは0.1秒の抑制を行っているのかも知れません(笑)。
本当は誰でも真実を知りたいのに、「私は誰?とか言い出せば、頭が変になったと思わそう・・」などと思って抑制しているのかも知れません(笑)。
リベット氏は抑制することに自由があると書きますが、逆かも知れません(笑)。
全ての抑制を取っ払ったとき、本当の自由が出現する可能性だってあるような気がします。
リベット博士への反論の続き(最終回)

ところで彼は人間の行為を二つに分けています。一つは外部に要因がある行為です。もう一つは内部に要因がある行為です。
外部からの要因では、0.5秒以上遅れて意識に上りました。気付いた時は既に遅い状態でした。なので意識が介入することは不可能でした。
内部からの要因では、0.4秒の遅れなので、意識が介入することが可能でした。
本の中で彼は、意識が介入できれば、犯罪も減ると言っています。自己責任でそうすべきだと言っています。でも何か変です。
世の中の大半の刑事事件は、「殺す気は無かった。気がついたら殺していた」とか「カッとなってつい殴ってしまった」とかいうのが多いです。これは全て外部からの要因です。
内部からの要因で人殺しを計画する人は皆無に近いでしょう。なぜなら「恨み」も外部要因と考えられるからです。
こうして見ると、100ミリ秒を使って犯罪を防ぐ場面は、ほとんど無いと思います。
反論はまだあります。
自由意志で手を上げたいと思う時は、本当にそう思っているのです。それをなぜ止めなければならないのか、サッパリ分かりません(笑)。やりたいと思ったことを止める必要など、ないでしょう・・。

さて、最後の反論は厳しいです。
意識で制御するという実験を彼はやっていません。理由は、その実験をすることは出来ないからです。
ブンブン回る時計を前にして、被験者は「手を上げたい」と思い、次の瞬間「止めた」と思います。それをどうやって申告するのでしょうか?
外から検知することも出来ません。なぜなら何も起こらなかったからです(笑)。
つまりリベット博士は、何の実験もしないで、意識で制御する仮説を出しているのです。
それまで彼は、実験の鬼でした。コンマ数秒との戦いをやっていました。斬新なアイディアで自由意志を測定していました。
でも本の結論に至る部分には、何の実験データも示すことが出来ません。
この本が前半で終了していれば、歴史を動かす本になったはずです。しかし自由意志が全く無いという結論そのものに、彼自身が耐えられなかったのだと思います。
「私は結果」、「私は空洞」を受け入れるのは、科学者であっても大変なことなのです。
書き込み期間:2005/12/22〜2005/12/30