テーマ:映画「ザ・キッズ」「恋はデジャブ」
書き込み期間:2001/04/29〜2001/04/30 及び 2001/08/12
要旨:
 映画『ザ・キッズ』は、40歳の主人公がタイムスリップでやって来た8歳の自分に出くわします。8歳の主人公は夢を持っていて、40歳の主人公がそれを実現していないことを知って失望します。そこへ8歳と40歳の夢と願望をを全て実現した70歳の主人公が現れます。
この映画は、私に多くの事を考えさせてくれました。
まず考えたのは、勝ち負けとは何かということです。夢が叶えば勝ちで叶わなければ負けだと単純に言えるものでしょうか。
何が勝ちで何が負けかは、見た目では判断できません。当の本人ですら分からないかも知れません。
勝ち負けの評価は視点や解釈の違いでどうにでも変わると思います。
『ザ・キッズ』と並行して、以前モンロー研究所で観た映画『恋はデジャブ』をもう一度見直しました。
映画『恋はデジャブ』では、主人公が毎日毎日同じ日が繰り返される状態に入ります。同じ毎日がループする世界の中で、主人公は次第に過去の蓄積も未来の夢も捨てて一瞬一瞬の状態を生きるようになっていきます。
お互いに対照的な二つの映画を併せて観たことで、私により多くの気付きを与えてくれました。
ループ的な人生は、どちらかと言うと女性的だと思います。
男性ははっきりとした目的や夢を持つのに対して、女性はその点が曖昧です。
女性は達成することよりも過程や状態を楽しむ傾向が強いと思います。
私は高校の頃からずっと、神への問いを持って生きてきました。何を達成したかということよりも、神への追究に向かっている状態にあるかということを問題にしています。
『ザ・キッズ』を観たのをきっかけに、自分の8歳の頃の写真を見て少し人生を振り返ってみました。そうして、古いアイデンティティを脱ぎ捨てることが出来ました。
目次
○『ザ・キッズ』のストーリー
○勝ち負け
○『ザ・キッズ』と『恋はデジャブ』1
○『ザ・キッズ』と『恋はデジャブ』2
○アイデンティティ
○女性性
『ザ・キッズ』のストーリー

 ウオルト・ディズニー社製作『ザ・キッズ』をビデオで観ました。主演はブルース・ウイルスです。 
 映画の中で彼はイメージ・コンサルタントという仕事をしています。
 マスコミ等に売り出す人のイメージをコンサルティングしてあげるのが彼の仕事です。
 知事やニュースキャスター、株式公開をする社長などがその顧客です。
 彼は大抵はお客に向かって「そのままではダメです。あなた自身をこう変えなさい」と指示します。
 その仕事は大当たりをして、彼は大邸宅に住んでいます。
 しかし、あるがままを良しとしない職業柄でしょうか、40歳にもなるというのに彼には友達も少なく、恋人もいません。孤独な日々を過ごしています。
 そんなある日、理由は分かりませんが、時空の裂け目のようなものが出来て、8歳のときの自分がそのままタイムスリップしてきます。
 8歳の時の彼も、いったい何が起こったか分かりません。もちろん40歳の彼も同様です。
 まず40歳の彼は、不法侵入で警察に電話しようとします。でも8歳の彼も同じ状況だと知り、電話はしません。
 翌日、8歳の彼を家に届けようとしますが、それは40歳の彼の生まれた家でした(その実家は既に引っ越して家には別の家族が住んでいましたが)。
 そこで初めて二人は気付きます。お互いが自分自身だということを・・・
 
 8歳の彼は40歳の彼に言います。
「僕たちは犬も飼っていないの?パイロットにもなっていないの?」
 40歳の彼は「仕事が忙しくて犬なんて飼っている暇はない。パイロットになって何が面白い? 今の仕事のほうがよほど儲かる」と言います。
 8歳の彼は「じゃあ家族はいないの? 恋人はいないの?」と訊きます。
 40歳は少し寂しそうに「いないんだ・・」と言います。
 すると8歳は「今、何やっているの?」と彼の職業を訊きます。
「イメージ・コンサルティングだ・・」そして40歳の彼はその仕事について喋ります。
 すると8歳からは「それって、人に嘘つきになれってことだよね。嘘つきを勧めることが僕の将来の仕事か・・」とガッカリされます。
 つまりイメージ・コンサルタントとは、「外から見て魅力的なアイデンティティ作り」のことなのです(実はアメリカではこれが流行っています)。
 さて、夢が何も叶っていなかったことを知り、落ち込む8歳の彼。
 その姿を見て、やはり何となく落ち込んでしまう40歳の彼・・・。
 これが現実に起こったら、どうでしょうか?8歳の自分にガッカリされない自信はあるでしょうか?
 これを書くに当たって、先ほど8歳のときの私の写真を眺めてきました。
 そこにはアイデンティティの少ない私がいました。
 自分がどう見えているか、あまり気にしていないポーズをしています。
 自分が変わるというのは、今までのアイデンティティが過去のものになってしまうということだと思います。ちょうどそれが経験できました。
 8歳の私は50歳の私に言いました。「そんなことをも手放せないの?僕の未来はそんなもの?」
 私は8歳の写真を眺めながら、ある一線を突破できました。写真を眺めて良かったです。
 そして最近の写真を見ました。
 カメラを向けると笑顔の私・・それなりにイメージ作りをしている私・・
 かなりアイデンティティ作りに励んでいる私・・
 嘘つきでない私になれているでしょうか?夢は捨てていないでしょうか?
 『ザ・キッズ』という映画はとても考えさせられます。
 この話は、あるところからは、8歳の自分と40歳の自分が協力して人生を変えていくという話なのです。
 彼らにはトラウマがありました。8歳の頃にいじめられたことです。
 40歳の彼は言いました。「そのときから俺たちの負けの人生が始まったんだ・・。良い方法がある。俺の顧客にボクサーがいる。そいつにボクシングを習い、いじめっ子をやっつけよう。」
 こうして8歳の彼はボクサーからパンチを出す方法を教えてもらいます。
 そして翌日、車を飛ばしていると赤いセスナ機が上空を舞い、気がつくと彼らは32年前に戻っていました。
 そうです。赤いセスナ機は映画の最初にも登場しました。これがきっかけとなり8歳の彼が現れたのです。
 さて場面は幼稚園です(アメリカでは8歳でも幼稚園なのでしょうかね)。
 いじめっ子たちが登場です。
 8歳の彼は習ったとおりのパンチを食らわして、いじめっ子を撃退します。
 しかし最初にいじめっ子から食らった一撃で怪我をしてしまいます。
 そこに幼稚園から連絡を受けたお母さんが来ます。
 40歳の彼はそれを見ていてつぶやきます。「ああ、事態は改善しなかった・・・」
 お母さんは実はその日、不治の病にかかっていたことが分かるのですが、それを知っているのはお父さんだけです。
 さて、家に着くとお父さんがいて8歳の彼に言います。
「お母さんは不治の病になったんだぞ。それをおまえは何だ・・。わざわざお母さんに負担をかけるようなことをして・・。死んだらおまえのせいだぞ・・」
 外に立ち尽くす8歳の彼・・・
 40歳の彼が近づいてきて言います。
「おまえのせいじゃない。お母さんは元々病気だった。幼稚園に呼び出されて病気になったわけじゃない・・」
 8歳の彼は訊きます。「お母さんは死ぬの?」
「ああ、おまえの9歳の誕生日の前にな・・。でも今分かった。おやじは気持ちの持って行き場がなかったんだ。お母さんが死ぬのはお前のせいじゃない。」
 実はこのお父さんから言われたことがきっかけとなり、彼は「あるがまま」でいることができなくなっていたのです。
 
 この後、二人に変化が訪れ始めます。
 8歳の彼はそのボクサーの結婚式のパーティで、40歳の彼の美人秘書にプロポーズします。「僕たち(笑)はあなたが好きです。僕たちと結婚して下さい。」
 それを見て慌てて飛んできた40歳の彼・・・(この秘書だけは二人が同一人物だと知っています)
 二人で返事を待ちます(笑)。
 しかしプロポーズに対する答えは「考えさせて下さい」でした。
 さて、8歳と40歳と言っても、実はあと数日でその年齢になるのです。その誕生日がとうとう来ました。
 彼らは軽飛行機の飛行場のバーで、ソフトドリンクで乾杯をしました。
 そのとき8歳の彼は聞きます。「ここに至るまでは楽しかった?」
 40歳の彼は言います。「高校まではひどかった・・。冴えなかった・・。でもUCLAに入り、勉強したんだ。トップで出た。そしてこうなったんだ・・」
 8歳の彼はつぶやきます。「そう・・・でも犬は飼っていないし、パイロットにもなっていない・・」
 突然外で犬の鳴き声がします。二人が飛び出すと、そこにはゴールデンレトリーバー犬がいます。
 そしてひげを蓄えたおじいさんが軽飛行機から降りてきます。「やあ・・・」
 そして40歳の彼に言います。「これからの30年だって捨てたものではないぞ。」
 つまり8歳と40歳と70歳が同時にそこに存在しました。
 40歳は言います。「これはすべてあなたの仕業ですね・・」
 70歳は言います。「ふっふっふっ・・」
 笑いながら飛行機に戻ります。犬も乗ります。最後に後に乗ったのは、あの美人秘書でした。
 飛行機が飛び立ちます。それを見送る8歳と40歳・・
「犬も飼い、パイロットにもなったんだ・・」8歳はそう言いました。
「これからも、捨てたもんじゃない・・」40歳がそう言い、振り向くと8歳の彼はもういませんでした(昔に戻ったのです)。
 翌日、子犬を抱えた40歳の彼が、秘書の家を訪れます。
 彼女は微笑みます。そして「カモン・・」と言って家に入れます。
 そこに字幕が登場・・エンディングテーマが流れます。

勝ち負け

 負け犬かどうかは何で判断するのでしょうか?
 この映画では70歳の自分が登場して「人生、捨てたものではない」と救われます。
 これがなかったら救われないのでしょうか?
 まず私が気になったポイントがありました。それはいじめのところです。
 いじめられて立ち向かえないことは、負けなのでしょうか?
 私は小学校五年から二年間、いじめられました。
 校舎の裏に連れて行かれては数名に殴られました。
 私がいじめられて泣いたことがないというのがその理由でした。
 彼らは「泣けよ、泣けばいいんだよ・・」と言いながら殴りました。
 私は泣きたかった・・私は意識の上では泣いていました。
 でも涙も出ず、声も出ず・・つまり泣けないのです。
 で、それは二年も続きました。泣けないまま小学校を卒業し、それは終わりました。
 これは負けなのでしょうか? 
 しかし、春休みにそのボス格のヤツから最後の挑戦を受けました。
 私のほうが10センチも背が低いのに、初めて一対一だという状況で、形勢は逆転し、私は彼の上に馬乗りになって殴りました。
「わかった、わかったよう、もうやめてくれ」と彼は言いました。
 私はそのとき初めて泣いていました。勝っているのにです。
 これは勝ちなのでしょうか?
 
 負け犬って何のことでしょうか?私は別の二人のことが頭に浮かびました。
 一人は『プライベート・ライアン』という戦争映画に出てくる、銃の撃てない兵士です。
 この映画はノルマンディー上陸作戦のことを描いたもので、壮烈な戦争シーンが出てきます。そして銃の撃てない兵士が登場します。
 最後の場面で教会の上に立て篭もりドイツ軍と戦うのですが、塔の上には味方の射撃の名手がいます。そして彼の弾が無くなります。
 銃を撃てない兵士は弾運びをやっていますが、怖くて塔の上まで運べません。
 それが原因で塔の上の兵士は死にます。
 映画を見ている限り、銃を撃てない兵士は「なんて腰抜けなんだろう・・」と思わせます。
 同様のことは銀河運動装置考案者の神坂さんにもあったのではないでしょうか・・
 中学で軍事教練を拒否した神坂さんですが、彼は実際に満州に送られますが、敵と撃ち合いの場面でも彼は撃ちません。
 味方の日本兵は撃っているのに彼は撃ちません。
 これをフィルムで撮影していたらどう写るでしょうか?「撃てない日本兵」と写らないでしょうか?
 逆に言うと、軍事教練に参加しなかったのではなく、参加できなかった・・
 視点の移動でどうにでも解釈できます。
 でも、この差は紙一重のような気がします。
 実は、本人にすらよく分からないのではないでしょうか・・。
 勝ち負けは解釈の違いに過ぎない・・ような気がします。

『ザ・キッズ』と『恋はデジャブ』1

 人生とは8歳、40歳、70歳といったポイントで捉えることができるのでしょうか?
 さらに言うと、そのときに「何になっているか」によってとらえることができるでしょうか?
 映画ではこのことが「負け犬ではない」ことの判断基準になっているフシがあります。
 大人になったらパイロットになる・・大人になったら犬を飼う・・
 こういう子供の頃の夢を果たしたことが、「負け犬ではない」証拠なのでしょうか?
 最後のシーンでは70歳の彼が、犬と妻と飛行機を引っさげて登場します。余裕の笑いを見せます。
 しかし・・この笑いを余裕の笑いとして見ることはできませんでした。
 昔、モンロー研究所で見た映画(『恋はデジャブ』)がありました。『不思議の友』にも書きました。
 その主人公は、朝起きると、前の日なのです。毎日、毎日、同じ日が繰り返されます。
 同じ人と道でぶつかり、同じ事件が起き、同じ一日を終わります。
 主人公は死のうとしますが、死んでも前の日の朝が来ます(笑)。
 何かを作っても、何かを達成しても、外部に作ったものは全てがキャンセルされて前日の朝に戻ります。
 例えば・・犬を飼い始めたとしても朝起きると犬はいません。
 パイロットになろうと学校に入っても、起きると前日の朝ですから、また一からスタートです。
 女性にプロポーズがうまくいっても、また前日の朝です。始めからやり直しです。
 このループの中に入ってしまった大人の彼に『ザ・キッズ』の8歳の自分がタイムスリップしてきたら、どうでしょうか?
 犬を飼っていないと言うでしょうか?パイロットになっていないと言うでしょうか?
「毎日が同じ人生なんて嫌だ。将来こんな風になるために生まれたんじゃない。どうして僕だけこうなの?」と言うような気がします。
 
 さて、周りは年を取らなくても彼は年を取ります。
 そこに70歳の彼が出てきたら・・そして70歳の彼も、同じループの中だったら・・
 人生最悪でしょうか???
 ところが、『恋はデジャブ』の主人公はあるとき悟ります。
「これは人生そのもの・・いや世界そのものではないか」・・と。
 もちろん直接的にはこのセリフはありません。
 しかし彼の行動が変わります。彼は状態を生きるようになります。
 毎日同じ道でぶつかる人に悪態をつくのをやめ、ちょっとした話をするようになります。
 それだけで状態が変わることを知ります。
 周りの状況はまったく変わらないのに、彼はイキイキし始めます。
 何を達成しても無になるので、作る対象物には意味を見出さず、その過程の状態を大切にするようになります。
 時間進行を直線的に考えられなくなった世界・・ループ。
 しかしザ・キッズは違います。彼らは70歳に夢を託しました。
「人生、捨てたもんじゃない・・・」
 でもループの中に入り込んだ主人公は、ある意味では人生を捨てることからスタートしました。余裕の笑いではなく、瞬間を生きる輝きがありました。
 そして「もうこのままでいい。今までの人生は結果を求めすぎていた。周囲は変わらなくてもいいんだ・・」という状態になったとき、初めて翌日が訪れました。
(もちろん翌日になっても彼はあまり驚きません。)
 『ザ・キッズ』の主人公たちは70歳の彼に救われたのでしょうか?
 ループの中の人間がこのビデオを見たら何を感じるでしょうか?羨ましいと思うでしょうか?

『ザ・キッズ』と『恋はデジャブ』2

 『ザ・キッズ』と『恋はデジャブ』のDVDを借りてきて、立て続けに観ました。
 そこで恋という視点から感想を書きます。
 『ザ・キッズ』では、主人公が秘書の女性に恋をしています。でも勇気が無くてなかなか告白できません。
 そしてラストシーンで70歳の自分が出てきて、同時に秘書の女性が自分の妻だと知ります。
 40歳の彼はその翌日にプロポーズに行きます。もちろんうまくいくのですが・・
 私はそこに縦時間なるもののドキドキ感を感じることができませんでした。恋とはこんなものでしょうか・・
 さて一方は、『恋はデジャブ』の映画です。
 主人公は天気予報のリポーターですが、プロデューサーの女性に恋をしています。
 やがて毎日が同じ日が始まります。ループに入り込んだのです。彼はそれを利用します。
 彼女の嗜好をどんどん取り入れて、彼女を自分のものにしようとします。
 洒落たレストランに誘い、そこで次第に彼女にアタックします。
 あるところで失敗すれば、翌日(実は同日)は失敗の反省をして、それをしないようにします。
 しかしベッドに誘おうとしたとき彼女は言います。「これ、仕組んだのでしょ? わたしはこういうのは大嫌い・・」と言って主人公のホッペを叩きます。
 ここまでは主人公は横時間で生きているのです。目的を持って「横の時間」を利用しようとします。
 しかし、次第に彼は悟ります。縦時間を生きるようになります。
 そしてラストシーン、彼は逆に彼女から誘われます。それは彼が目的を持たなくなったのが原因でした。
 『ザ・キッズ』のようにプロポーズはしません。「今が幸せならばそれでいい」と言います。
 翌日が来ることは前提となってはいません。
 明日(同日)になれば彼女は全てを忘れてしまうという前提の生き方でした。
 横時間における蓄積はない生き方・・毎日、毎日、クリアーされる生き方・・
 
 一方、『ザ・キッズ』では70歳に向けて頑張ります。人生の蓄積をします。
 見ていると、恋の高揚感は圧倒的に『恋はデジャブ』の方です。
 ループの世界では、将来の夢を語っても無駄・・今日しか無い・・。
 それに気付くにつれ、主人公(男性)のギラギラしたものが無くなっていくのが印象的でした。
 彼女をモノにしようという目的が無くなっていくのです。逆に一瞬、一瞬を「モノ」にしようという感じになります。
 でも、それは主体性のようなものを捨てることなのです。彼は流れに身を任せるようになるのです。
 無と空・・この違いは非常に分かりにくいのですが、もしかすると似ているのかも知れません。
 変化に乗ったとき、結果として無になっているのかも知れません(無になるから変化に乗るのではなく・・)。
 『ザ・キッズ』では「別れ」は存在します。だって横時間の世界ですから・・
 別れたくないからプロポーズするのではないかとさえ思います。
 でも『恋はデジャブ』には別れが存在しません。同日しかないからです。
 横時間がループしてしまった世界・・そこでは別の時間を探すしかないのでした・・
 それが縦時間・・
 何度見ても気付きで一杯の映画です。立て続けに見ると、その差が良く分かります。

アイデンティティ

  
 私の人生を少し振り返りました。
 8歳のころの自分がタイムスリップしてきても、今の私は、負けているんだか勝っているんだか、分からないのではないかと思いました(笑)。
 当時、他の惑星を探査する宇宙パイロットになりたい(たぶん科学文明はそこまでいっていると思っていました)などと作文に書いた覚えがありますが、三次元的ではないけれど、これはやっているような気もします。
 しかし世界が怖かったあの頃は、実は、そんなことは夢だと思っていました。
 つまりまったく実現不可能という前提で書いていたような気がします。
 その後は高校時代から神が登場します。
 なぜ神はこの世を作ったのか・・この問いの中で生きるようになります。
 三次元的な達成感があったとしても、この問いが伴わないとダメなのです。
 だから『ザ・キッズ』にはかなり白けました(まあ、映画の設定だからどうしようもないですが・・)。
 私にもしもタイムスリップなどということが起こったなら、自分のトラウマを消すなどということは、ぶっ飛んでいるはずです。
 70歳と40歳と8歳が同時に存在したら、「人生捨てたもんじゃない」どころの騒ぎではありません。
 だってもっとすごいことが起こっているのだから・・
 願望実現形の精神世界の話についていけないのは、どうもここに原因がありそうです。
 自分の願望を実現してどないすんねん・・(突然関西系)
 夢って、なあに?
 
 私は、自分の8歳の写真を見ました。
 それはたぶん正確には、8歳の写真ではないと思いますが・・でもそれは問題ではありません。
 私が負け犬になるのは、神への追求に一歩退いてしまう時なのです。
 達成されたものではなく、状態そのものが問題なのです。
 私は世界と対面しながら、自分とも対面しています。
 私が神を感じるのは、他の人間を含む「世界」に対面している時と、「自分自身」に対面している時です。
 これは同時に起こっているはずです。そう感じます。
 ループしているとき、それはどちらかと言うと自分自身との対面でそれは起こるでしょう。直線的なとき、世界との対面でそれは起こるでしょう。
 これは両方とも可能だと思います。
 世界と自分・・だからあらゆる場面に神はいて、あらゆる場面で私は変化しているはずです。
 私は今まで、ある一歩が踏み出せませんでした。それはまさに精神的な問題でした。怖くて一歩が出ないのです。
 私は自分が可愛いです。自分が馬鹿にされるのは嫌です。こんなヤツだと思われるのは嫌です。言い訳の出来ない世界に入るのは嫌です。
 でも8歳の自分は49歳の私にこう言いました。「それをしても、私は私で変わらない・・」
 そして私は古いアイデンティティを捨てることが出来ました。アイデンティティは私にとって「ルール」です。あの瞬間、古いルールを越えました。
 それでも私は変わらないと言われて・・それはいったい何なのでしょうか?
 人が負けるか勝つか・・この相手は自分しかいないと思います。自分・・それは神です。
 高校時代と同じように、49歳になっても、その一歩が踏み出せることに、自分自身への愛おしさを感じます。
 『ザ・キッズ』という映画・・それは私に8歳の自分と対話するきっかけを与えてくれました。ありがとう。
 かっこ悪くてもいい・・私は私の人生を歩みたいと思います。
 それがあの頃の自分へのプレゼント・・。
 自分自身は時間を超えて・・もちろん神も時間を超えて・・

女性性

 この主人公が女性だったらどうだろう・・・と考えました。少し変わると思います。
 女性は8歳、40歳、70歳をポイントとして考えるでしょうか?
 考えたとしてもそれらのポイントは、あまり重要ではなくなると思います。
 パイロットや犬は、女性にとって重要でしょうか?
 男性の場合、多くは目的意識があります。人と会うにも目的意識が多いと思います。
 何のためにその人に会い、何のためにそこに行き、何のために時間を使ったか・・
 私は下北沢という街に住んでいます。外のカフェでコーヒーを飲んでいると目の前を人が通り過ぎます。
 一人でブラブラ歩いている人の多くは女性です。ここにはブティックが多いからでしょう。
 しかし男性が一人で、目的無しにブラブラと外出という場面に、あまり出くわしません。
 それは私が女性服を着ているときもそうです。
 女性服を着ていると、ブラブラと新宿を散歩できます。それを楽しめます。
 もちろん男性服でも散歩できますが、たとえばバシッと男性用のスーツを着こなしている人がブラブラとはできません。
 はっきりと目的を持った風に見せるのが男性なのです。
 曖昧なのは、どちらかというと女性っぽいのです。
 これは将来の夢にも言えます。大きな夢を持つのは男性です。
 ハッキリとした夢を持つのは男性です。勝ちか負けかを決めたがるのは男性です。
 それに対して女性は曖昧です。何かを目指す度合いは、女性の方が少ないと思います。
 女性は行き着く先(ポイント)よりも、行き着くまでの道のり(プロセス)を大事にするのではないでしょうか?
 女性ならば8歳の自分は40歳の自分に、まず「今まで幸せだった?」と訊くような気がします。
 ですからループ的な人生は、女性的だと思います。
 愛する人がいれば、人生がループしていてもかまわない・・なんて思うのではないでしょうか。
 さらにもう一つ言いたいのは「保留したままの人生でもいいんじゃない?」ということです。
 保留・・言い換えると「何をした(する)わけでもない」という人生です(笑)。
 人間関係でも同様です。「何をするわけでもない」という関係は、私にとって一番素敵な関係です。
「私のことを好きなの? 嫌いなの?」「恋人なの? 友達なの?」「何が目的なの?」
 こういうのを超えた関係です。
 人生もそうです。パイロットでもない、犬でもない人生のほうがずっと楽しいと思います。
 8歳の主人公さん、いかがでしょうか?夢など、早く捨てることです。

書き込み期間:2001/04/29〜2001/04/30 及び 2001/08/12