テーマ:「ハワイ紀行2001.8」
書き込み期間:2001/8/1〜2001/8/7
要旨:
ハワイに来て、『サブリミナル・マインド(下条信輔著)』という本を読んでいました。著者は私の妻の同級生で、心理学者でもあります(私は彼を「下條君」と呼んでいます)。
彼は「自分の中には本当の自分など何も無い」という研究をして本に書いています。
吊り橋の実験が代表的で、吊り橋に揺られてドキドキしている最中に女性から声をかけられると、高い確率で恋に落ちるというものです。
彼の説によれば、感情を決定するのはほとんどが身体の反応や環境であり、そこに魂や自由意志の介入する余地はほとんどないということです。
私がチベットで気付き得た空性方程式を、心理学的な切り口で説明したとも言えます。
しかし私はチベットで、生き生きとした生命エネルギーを感じました。
横の時間に対してはがんじがらめの私達ですが、生命が躍動する縦の時間というものもあるのではないでしょうか。
もう一つ面白かったのは、「1ドルの報酬」の実験です。報酬が低いほど仕事への魅力と満足度が高くなるという結果が出たのです。
「褒美の隠れたコスト」という実験でも、子供に報酬を与えて絵を描かせると、かえって子供の自発性と喜びを損なうという結果が出ています。
これを輪廻転生に置き換えると、死後に神様から認められて良い来世に生まれ変わりたいがために、今世で善行に励むようなものです。
しかし自分の趣味に生きている人は、報酬の有無に関わらず生き生きとしています。私の女装もそういう感じです。空性をゼロにして縦時間に生きている状態です。
チベット紀行での出来事です。
帰路を急いでいる際に、ランドクルーザーが故障し、直るのを待つしかない状況になりました。その時、お馬の親子が目の前を通り過ぎて行きました。それだけなのですが、この時私にすごい気付きが降りたのです。
次に生まれ変わるのは馬かも知れない・・・。生まれ変わりの村では、一度牛に生まれ変わったという人がいました。
魂は性差どころか動物差もなく生まれ変わっているのです。本当に何にでもなれます。
生まれ変わりを繰り返すのは成長するためでしょうか・・体験するためでしょうか・・私にはどうしてもそうは思えません。
ミラレパの洞窟で瞑想をしている時、「私の身体以外に私は存在しない」というインスピレーションが降りました。
感情を出して生きるのも良いことですが、一つの感情を抜き出して「これが本当の私だ」とは決め込まないことだと思います。
そして逆説的ですが、感情が自分のものではないと知ってからは、今まで以上に感情が好きになり、もっと自由に感情を表現してもいいと思えるようになりました。
目次
○吊り橋の実験(2001/08/01)
○縦時間の服(2001/08/02)
○1ドルの報酬(2001/08/02)
○お馬の親子はトコトコと歩く・・(2001/08/03)
○感情は風(ルン)のエネルギー(2001/08/03)
○空の方程式とゾクチェンの教え(2001/08/04)
○夢がなければ何でも叶う(2001/08/05)
○刹那(せつな)の認識(2001/08/05)
○感情は自分のものではない(2001/08/05)
○ハワイ最後の長編書き込み(2001/08/06)
○「気ばたらき」(機内の書き込み)(2001/08/07)
○波長(2001/08/07)
吊り橋の実験(2001/08/01)

 下の写真はミラレパが実際に空の瞑想をしたとされる洞窟がある場所です。
 今は祠となっています。とても良い環境にあると思いませんか?
 ミラレパと言えば、苦行者というイメージがあったのですが、実際に行ってみるとそんなことはありません。水があり、緑があります。こういう環境で彼は空を悟ったのでした。



 さて今私はハワイでこれを書いています。ベランダの下はラグーンになっていてそこにはイルカが泳いでいます。その向こうには椰子の木があります。
 聞いた話ですが・・あるときビジネスマンが南国の島を訪れました。
 椰子の木の下には現地の人がゴロゴロと寝ていました。ビジネスマンは彼に訊きました。
「見ればきょう一日中ぐうたらと寝ているじゃないか・・君は努力というものを知らないのか?」
 ぐうたら男は逆に訊きました。
「あなたずいぶん努力家に見えるますが、何が目的でそんなに努力するのですか?」
 ビジネスマンは答えます。
「それはな、一生懸命に働いて、こういうところでのんびりするためさ。」
 グウタラ男は言いました。
「なら俺が毎日やっていることじゃないですか・・」
 ゾクチェンの教えを再び書きます。
「一切はすでに成熟しているのですから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地にとどまることです。
 すべては始まりから、自分は既に自分が到達したいと思っている場所にいるのだということが、直接明らかになります。」
 チベットと南洋の島・・そこに何か共通点がありはしないでしょうか?
 さて、空の概念に関して書き込みます。
 今、手元に一冊の本があります。『サブリミナル・マインド(下条信輔著)中公新書』
 ハワイに来るときの飛行機の中で読みました。この本を読むのは二回目です。
 一度目は、ほとんど何の感銘もありませんでした。
 だからみなさんの中でも同様かも知れません。これを読んでも面白くないかと思います。
 ではなぜもう一度読みたくなったのでしょう・・それはチベットに行ったからです。
 私の価値体系がそこでかなり変わったからです。
 著者である下條信輔のことを私は下條君と呼びます。なぜなら彼は妻の同級生なのです。妻が下條君と呼んでいるので私もそう呼ばせてもらっています。
 下條君は心理学者です。
 長いことアメリカの大学で研究していて最近日本に戻り、東大の助教授になりました。
 教壇に立ったとき、自分には何も教えるものがないことに気付き、狼狽したそうです。
 なぜなら彼は、「自分の中には本当の自分など何も無い」という研究をやってきたからです。
 本の冒頭にはこう書いてあります。『自分のことは自分が一番良く知っている・・・と、そう信じて、みなさんは暮らしています。しかし本当でしょうか?』
 なんか私の文章に似ています(笑)。
 妻は私の『不思議の科学』を彼にあげています(でも彼の本の方が先に出ていますが・・)。
 彼は続けます。『人は自分で思っているほど、自らの行動の本当の理由を知ってはいない・・。ここで「本当の理由」というときの「本当の」という言葉に引っかかった人も多いかも知れません。たとえばある女性が「私があの人に会いたいのはあの人を愛しているからよ」と言ったとしましょうか。そこで親しい友人が「そうじゃないわ、あなたはあの人の名誉と財産を利用しようとしているだけよ」と反論したとしましょう。さて、どちらが正しいかを誰がどうやって判定したらよいでしょうか。』
 次の章では「悲しいのはどうしてか?」という命題に挑戦しています。
 幾つかの実験から、表情に出さない悲しさよりも、表情に出した悲しさの方が、より悲しいという結果を出します。
 心の中の感情が先なのではなく、あくまでも身体の変化が先という結論を出します。
 この説には多くの反論があったと言います。
「身体に変化が起こる前に、端的に悲しいのではないか。」
「悲しみを感じてから、それをこらえきれなくなって涙があふれる。順序はこうだ。」
「怒りをこらえて、ついにこらえきれなくなって手を振り上げた。この表現のどこが嘘なのか。」
 しかし下條君は時間的因果関係は逆だと言います。
 有名な「吊り橋の実験」も出てきます。
 吊り橋を渡る前に女性に声をかけられた時と、渡っている最中に声をかけられた時を実験します。
 女性は男性に電話番号を渡すのですが、渡っている最中に電話番号の紙を渡した時の人の方が、圧倒的に電話をかけてくるのです。それは彼女に恋をしたからなのです。
 あらゆる感情に対して、持ち上がる生命エネルギーの素は、同じなのではないかと言います。
 それが何に変化するかは、ほとんど環境が決めると言うのです。そこに個々の魂が介入する余地はほとんど無いと言うのです。
 軽い犯罪(ここではカンニング)も実験しています。それすら、魂が介入できる要素は少ないのです。起こるべくして起こるのです、何事も・・・。
 ある意味、全体の業なのです。
 自由意志の介入はほとんど無いのではないかと彼は主張しています。
 私は最初にこれを読んだ時、気持ちが悪くなりました。人間がまるでロボットの様に思えてきました。
 神は「自由」を実現するために人間を作ったのではないか・・そう思う私に反論しているのです。自由など無いと・・・。
 しかしチベットに行って、私の感性はひっくり返りました。
 時間の流れを横軸に捉えた場合、それを横時間と呼びたいと思いますが、横時間に私の魂は存在し得ないと思えたのです。
 それまで感情だけは自分のものだと信じていました。しかし下條君に言わせるとそうではありません。悲しみや愛すらも、自分のものではないのです。
 吊り橋で感じたドキドキする感情・・それは恋心ではなく恐怖心だったのです。
 下條君はすべて「自分」に責任はないと言います。
 犯罪もそれに含まれます。「故意の犯罪」をする「主体」など、無いのです。
 そうなると私たちは全体の業の中で生きているのです。
 全体の業・・それは神の意図かも知れません。
 再び空性方程式・・空性=今のあなた−身体
 まさに下條君はこれを心理学の切り口から証明したのです。
 しかし見逃している点があります。感情表現の素(もと)になっている生命エネルギーです。生命エネルギーとは何でしょうか・・・
 それが引き出され、時には喜びに変わり、時には悲しみに変わり、時には恐怖心に変わり、時には恐怖心ではなく恋心に変わり・・たとえ何に変わっても素(もと)は素(もと)ではないでしょうか・・。
 私はミラレパの瞑想洞窟に行くとき、精霊に出会いました。彼女達は生命エネルギーに満ち満ちていました。
 もしもそれが無かったら、空性方程式はなんて味気ないものになったでしょうか・・。
 ミラレパが冒頭の写真のような良い場所で瞑想して空を悟ったのも、これに関係していると思います。
 そういう意味では下條君の本は、あの精霊とセットにして感じる必要があるのではないでしょうか・・。
 最近二丁目で会った女装子・・とても美しかったのですが
「このまま私の未来はどうなっちゃうのでしょう・・・」と未来のことを考えて憂鬱になってしまうこともあるそうです。
 しかし私たちと話してくれている彼女は、まさに後も先もなく、その時の生を謳歌しているようで、とても活き活きと輝いていました。
 横の時間に対しては、がんじがらめの私達・・
 しかし・・縦の時間というものはないのでしょうか・・
 縦の時間・・それは生命の時間です。生命が躍動する時間です。
 生命が躍動する時間を横軸に引き延ばしてしまうと、それは死に向かってしまいます。
 縦軸のまま延ばせば、それは生そのものです。
 ほとんどは全体の業として縛られていても、3%くらいの自由度は残っているはずです。その3%をあなたは何に使うのでしょうか・・
 横軸のために使うのでしょうか、縦軸のために使うのでしょうか・・・。
 私が時々女装をするのは、溌剌とした躍動感を感じられるからです。
 しなやかさ・・優雅さ・・イルカの様に素早く動き、そして戯れる・・。
 吊り橋の例が出ましたが、私ならずっと吊り橋の上にいたいと思います。



 かなり揺らしているのですが、しゃがんだところが撮れてしまいました。これで恋に落ちるのでしょうか??(笑)

縦時間の服(2001/08/02)

 今日は同じ著者の別の本からです。
『意識とは何だろうか(下条信輔著)講談社現代新書』です。
 この本は昨日紹介した本よりも面白くないです(笑)。
 妻は言いました。
「下条君は学生時代から変わっていた。人の意見の逆を行くようなところがあった・・」
 これってどこか、私に似ているような気もします(笑)。
 さて今日の「意識とは何だろうか」という本のテーマもやはり「空」に関係しています。
 脈略を飛ばして本の抜粋を書きましょう。
「脳を内部に攻めていくと、能動性、自発性、意図、主体が蒸発するのです。」
「皮肉なことに、感覚や感情の主観的体験という、もっともプライベートに見えることが、実は他人が自分を他人として見るときの記述を倣い、自己を他人として見るということによってはじめて成り立つのです。」
「心はどの場所に存在するのでしょうか。脳の中にという答えが現代人なら一般的でしょう。けれども意外に聞こえるかも知れませんが、他人に、という答えもじゅうぶん可能だと思うのです。」
「逆説的に聞こえるでしょうが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分においては、心は無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと、限りなく漏れ出すのです。」
 このように著者の世界観はだいぶ変わっています。
 感覚や感情といった「個人」の領域ですら自分のものではないと言う点では前著『サブリミナル・マインド』と同じですが、今回の「意識とは何だろう」の方がもっと先を行っています。
 ですので、「自分を大切にしたい・・」とか「霊的成長をしたい・・」などという魂胆のある人は、頭をガンガン石で叩かれる気分になると思います。誠に気分が悪くなります。
 決して「良い本を読んだ・・気付きが多かった」という風にはならないと思います。
 しかし「得るものとしての空性」ではなく、「失うものとしての空性」に興味があるのなら、彼の本はそれなりに役に立ちます。
『意識とは何だろうか』という本の中で、最初に「雪が白いのはどうしてか」という問題が出てきます。
 スキーをするときゴーグルをつけますが、あれにはオレンジとか黄色の色がついています。
 ゴーグルをつけたとたん、世界はオレンジに変わります。
 しかし時間が経つにつれて雪は白く見えるようになります。これは視覚が順応したからです。
 彼は言います。「結局色は決して「物に帰属される性質」といった固定的で単純なものではありません」・・と。
 彼は視覚、聴覚、温度といった感覚を点検して次のように言います。
「何が「正しい」知覚なのかは、単に環境の変化と順応期間の長さの問題だ・・という気がしてきませんか?」
 ここでちょっと神坂さんのことを考えてみました。
 彼はニュートンの第三法則はおかしいという考えから、天然エネルギーの測定器を作りました。
 それは地震予知に繋がり、阪神大震災の前日には針は振り切ったと言います。
 今でも測定を続けていますが、公的機関から「それを発表したりしないでくれ」と言われるそうです。
 これは社会全体がある色のゴーグルを掛けているからだと言えないでしょうか・・
 それで安定しているのに、別の色のゴーグルを持って来られては困るのです。
 だから神坂さんは、発表すればするほど孤立するのだと思います。
 ガリレオでさえ自説を曲げました。
 裁判でガリレオは「私は間違いでした。太陽が回っています」と言い、火炙りの刑を免れました。
「それでも地球は回っている」と言ったのは、みんなの前ではありません。牢屋を出る時の呟きでした。
 さて、私達は「自分がある」と思っています。そして「自分を大切にしよう」などと言います(笑)。でも自分が無いのに、大切にしようとは・・矛盾します。
 下条君もこの路線を驀進(ばくしん)します(笑)。
 オリンピックなどで薬物の使用をすると問題が起こります。
 そこには「天性、あるいは自然の状態で勝負すべきだ」という暗黙の正義感があります。
 しかし下條君は言います。「自分自身のものなど何もないのに・・」
「化粧はいいけど、整形はちょっと・・」「親からもらった顔なのに・・」
 こういう反応が起こるのも、「本来の健全な姿」から離れるのは良くないという色眼鏡があるからではないでしょうか・・。
 ましてや女装することなど・・・ましてや性を変えることなど・・・
 しかし外的なものを変えただけで世界が変わると彼は言います。
 縦縞(たてじま)だけの部屋で育てられた猫は、新しい部屋の床に置かれた材木につまづきます。横縞の部屋で育てられた猫は、立っている柱にぶつかります。
 この二匹は同じ部屋にいるのに、見える世界が違うのです。
 しかしこの二匹も学習していき、障害物部屋のある部屋に次第に慣れていきます。
 私達は今の環境に順応する方向にしか行かないのです。
 変わった人を排除しようとする動きも、社会全体の「順応」の一環だと思います。
 では私達は環境のなすがままでしょうか・・
 私は3%の自由くらいはあるような気がします。
 その3%の自由を行使して反逆を企てることは出来ないでしょうか・・
 もしもこの世界が三次元の縞だとすれば、三次元縞の猫の様な状態です。三次元の縞しか見えないのです。
「縦時間て何? 縦時間などというものが存在するわけは無い。だってこの世界には縦横高さと水平の時間しか無いでしょう?」ということになります。
 猫は物体がそこにあったからつまづきました。でもそれがエネルギーならつまづくことも出来ません。知覚することは難しくなります。
「無いものは無い」と言うしかありません。
 しかし、私がエネルギーモードに入るとき、この三次元だけを見ている感じは無いのです。銀河運動装置から風(ルン)のようなものが見えます。
 神坂さんの自宅にはミステリーサークルができますが、これは風(ルン)の渦が強いとき、三次元の運動も引き起こすからでしょう。但し、これらは非常に微弱です。
 イギリスのミステリーサークルに神坂さんのエネルギー測定器を持っていったら、何か解明できるかも知れません。
 何もわざわざ宇宙人のアセンションメッセージまで持ち出さなくても良さそうです。
 ところで縦縞の部屋で育った猫が横縞の服を着ていたらどうでしょうか?
 その猫には横の障害物も見えるような気がします。
 自分を変えるには、視点を変える必要があります。その視点を変えるのは、環境なのです。環境には自分の身体も服装も含まれます。
 しかし「縦時間の服」というのはあるのでしょうか(笑)。
 服は無くても、新しい概念が服の代わりをすると思います。
 新しい概念・・それは別の色をしているメガネかも知れません。

1ドルの報酬(2001/08/02)

 もう一つ書き込みをしたかったのは、下條君の本に関係するからです。
 彼と決着をつけてしまいたいからです(笑)。
 これから書き込むのは昨日紹介した本『サブリミナル・マインド』からです。
 アメリカの心理学者が「1ドルの報酬」という実験をやりました。この実験は心理学界では有名なのです。
 非常に単純な労働をさせて終わったあと、被験者に「楽しかった」と言わせます(笑)。
 労働をさせるグループは二つあり、一つは1ドルしか報酬を与えません。
 もう一方には20ドルの報酬を与えます。
 そしてどちらが本当に「楽しかったか」を別の方法で調べます。
 下條君はこの話を出す前に書いています。「ある仕事に対する報酬が大きくなれば、その仕事の魅力も増すと考えるのが自然でしょう。しかしこれは本当でしょうか?」
 これを読んでいるみなさんとて仕事を持っている人は多いでしょう。
 でも「給料が低くてなぁ。もっと高いところに行きたいな」と思っている人は多いかも知れません。
 ところが・・・この「1ドルの報酬」という有名な実験では、なんと報酬が低いほど仕事の魅力は増したのです。
 報酬が高くなると逆に不満が多くなるのです。常識に反した結果になったのです。
 これを幸せに置き換えれば、給与が高くなると幸せではなくなるのです。
 下条君がこれを学生に教えたら、「自給が安いことをかねがね不満に思いながらマクドナルドでバイトをしていましたが、最近この仕事を妙に楽しんでいる自分に気付き、不思議でした。1ドルの報酬の原理で説明できるのかも知れません」と言ってきたそうです。
 同じような実験もあります。「褒美の隠れたコスト」という実験です。
 子供に絵を描かせるとき、あらかじめ報酬を約束して絵を描かせると、自発的には絵を描かなくなり、絵の出来栄えも落ちてしまうのです。
 報酬とは外的正当化です。それが内的動機付けを抑えてしまうのです。
 絵を描かせるという時、物質(例えば飴玉)を与えるという報酬、誉めるという報酬に分けたとされますが、その両方ともダメになったというのです。
 最も打ち込んで絵を描いたのは、何もしないグループでした
 これをなぜ書いたかと言うと、縦時間なるものを考えるのにちょうど良いと思ったのです。
 お金を貰うにせよ誉められるにせよ、報酬といいうのは横時間を発生させると思います。
 絵を描くという行為に対して、未来に報酬を貰うためだという目的が発生してしまうのです。
 ここで話を輪廻転生に変えます。
 生前に善行をなし、死んで神の前に行った時、神から「よくやったね、では来世はもっと良い場所に生まれさせてあげよう」と言われれば、それは報酬です。
 それは「良い絵を描いたね。これがご褒美です」と言われるのと同じです。
 実験者が「褒美の隠れたコスト」と名づけたのは、まさにそれはコスト(費用)になってしまうからです。面白さそのものを損なってしまうコストになるのです。
「善行を積めば良い世界に行ける・・」「神様は上からお見通しだ・・」
 こういう考え方はコストになるのです。神が出てこなくても同様です。
 私たちはよく「魂を磨く」とか「霊性を上げる」とか言います。
 この時、磨くことや上げることがコストなのです。
 せっかくの面白いことを、それらの価値観が壊していきます。
 空性=あなた−身体
 この方程式は、放っておかれて絵を描く子供にとってはゼロなのです。
 こういう私もゼロではありません。私はチョコマカと動きたくてしようがないのです。
 チョコマカと動いている時、私の空性はゼロです(笑)。
 しかし、男性モードでそれをやると男らしくないという価値観がどこかにあります。
 だからゆっくり歩くのですが、それでも世間から見るとチョコマカに見えるらしいのです。
 しかし20ドル貰っても面白がった人はいるのです。報酬を貰っても没頭して絵を描いた子はいるのです。
 そういう人は趣味に生きていると思います。言い方を変えれば、自分のフェチに生きているのです。
 私の女装は、既に目的は無くなってしまいました。フェチでしているとしか言いようがありません(笑)。
 もうハイヒールは履きません。FOWもズックで出ます。
 それで風の様に飛び回ります。風フェチです。
 縦時間に突入するには、空性をゼロにするしかないと思います。
 空性をゼロにするには霊性をゼロにする必要があると思います。
 霊性とさよなら・・です。魂を捨てて身体に戻らなければなりません。
 しかしそれらを捨てた瞬間、その本当の姿が顔を出すと思います。
 下條君も言っています。
「逆説的に聞こえるでしょうが、意識のもっとも意識らしい頂点の部分においては、心は無意識の領域へ、そして生理、身体、世界へと、限りなく漏れ出すのです。」
 魂とはおそらく個人のものではないのです。
 あなたが磨いている魂には値段が貼ってありませんか?20ドルと・・(笑)。
 高ければ良い魂とは限りません(笑)。
 今、フェルルは訓練師さんの家に泊まっています。
 フェルルの訓練師さんはフェルルに褒美をあげません。
 褒美をあげて訓練すると犬の本質的な生きがいを奪ってしまうと言うのです。
 それをあげると犬はいつも何かを期待するようになります。
 心は今の行為には無く、未来の報酬に行ってしまいます。
 褒美をあげればすぐに訓練は出来ます。褒美をあげないと時間がかかります。
 しかし褒美をあげないで訓練すると、犬は縦時間を生きるようになり、イキイキとしてきます。
 時として主人の言うことを聞かないこともあります。でもそれで良いと言います。
 褒美から無縁のフェルルの行為は瞬間、瞬間において、すべて清算されているのです。
 ところでここのホテルはすごく人工的です。
 今は夜中の0時を過ぎたところですが、いっせいにスプリンクラーが動き、人工の雨が降ります。
 わたしが泊まっている三階のベランダの植物にまでかかります。イルカがいますが、当然飼われています。
 しかし下条君に言わせると、人間の中に自発性を見つけることはほとんど不可能なのです。彼はまったく変わった人です(笑)。
 それが本当だとすれば、人間は全体の業の中で生きています。だとすれば、このホテルのシステムも全体の業です。飼われているイルカも全体の業です。
 ではイルカは幸せなのか不幸せなのか・・たぶん報酬が1ドルなら幸せなのでしょう(笑)。
 人を愛したとして、その見返りが1ドルなら、本当に愛しているのでしょう・・。
 高杉晋作は「人生は三文価値しか無い」と言ったそうです。
 だから彼はあそこまでやれたのではないでしょうか・・。
 1ドルはきっと三文でしょう(笑)。私達は人生の価値を求めすぎているのかも知れません。
 好きなように生きたいですね。
 なぜか突然、厚化粧をして娼婦みたいな格好をしたくなりました(笑)。
 編みタイツを履いて・・ハイヒールを履いて・・そういう格好で街に出たことがありません。
 う〜ん・・風(ルン)が全く見えなくなるか・・どちらかでしょう(笑)。
 どうせ1ドルの人生ですから・・(笑)。

お馬の親子はトコトコと歩く・・(2001/08/03)

  
 下の写真ですが、みなさんには何が見えますか?
「おお、すごい空だ〜。エネルギーが見えるぅぅ」という人もいるかも知れません。
 それはそれで良いのですが・・
 この写真はお馬の親子を撮ったのです。
 それは写真の中に山が見えると思いますが、その左下をトコトコ歩いています。
 私のようにスタコラではありません(笑)。



 この写真はチベット紀行のヤマなのです(笑)。この一枚のためにチベットに行ったとさえ言えます。
 しかしこの書き込みは感覚的です。右脳で読んで下さい(笑)。
 この写真を撮った日はとても長い一日でした。
 海抜6000メートルで精霊に出くわしました。
 その後、ミラレパの瞑想洞窟に行きました。そこで瞑想しました。
 その時点で既に夕暮れでした。私達は帰路を急いでいました。
 その時、私達のランドクルーザーが故障したのです。
 故障はよくあります。砂がガソリンに混入したり、水が入ったりするのです。
 タフガイはボンネットを開けてエンジンを直し始めました。それは思いのほか重症でした。
 タフガイはフロートという部品の交換に挑戦し始めました。
 私達はしばらく外で見ていましたが、ため息と共に車内に戻りました。
 ふと見ると私達の目の前をお馬の親子が通り過ぎて行きます。
 トコトコ・・トコトコ・・トコトコ・・
 私達の横を通り過ぎるとき、二頭はチラッとこちらを見ました。
 それでも、トコトコ・・トコトコ・・トコトコ・・
 それを見ていたトラさんが呟きました。「馬は自分で家に帰るのです・・・」
 トコトコ・・トコトコ・・トコトコ・・
 現象としてはこれだけです。
 でも私はお馬の親子が豆粒のように小さくなった時、気付きました。
 まるで電流が流れたようでした・・
 私は次に馬に生まれ変わるかも知れない・・
 精霊に会わなければ気が付かなかったかも知れません。
 虹のトンネルをくぐらないと気が付かなかったかも知れません。
 ミラレパの瞑想をしなければ気が付かなかったのかも知れません。
 車が故障しないと気が付かなかったかも知れません。
 孫さんは言いました。「フェルルの前世は人間でした。」
 さらに孫さんは言いました。「約二割の人の前世は動物です。」
 さらに孫さんは言いました。「私の前世は猫だったみたいです。」
 私は生まれ変わりの村で牛に生まれ変わり、さらに人間に生まれた人に会っています。
 彼の話によれば、牛に生まれ変わったのは全くの偶然だったと言っていました。
 カルマの様な法則は無かったと言います。
 下條君が本の中で、コウモリになるという思考実験をしています。
 そのとき言います。「コウモリを体験してみることは出来ません。なぜならコウモリになったときは人間の思考も記憶も無く、コウモリそのものになり切るからです。」
 他の動物になるのは「体験を積みたい」からでしょうか?
 もしもコウモリになったとき、人間だった記憶を持っているとそれはコウモリではありません。
(宙ぶらりんでいて下さい。生まれ変わりの村はどうして?などという質問は無しです。)
 人は皆、違うのです。同じ色の眼鏡を掛けていたら、別の人間である必要はありません。
 しかし、それは「体験する」ためでしょうか?
 馬に生まれ変わって、それが体験とは・・どうしても思えません。
 下條君は言います。「私たちに自主性は無い・・」
 しかしこれは横時間の話です。
 お馬の親子は幸せそうにトコトコと通り過ぎました。

感情は風(ルン)のエネルギー(2001/08/03)

 あなたの悩みって、いったい何でしょうか・・
 人と人の違いですか?でも馬と人間ほどではないでしょう・・(笑)。
 あなたが所有する物って何ですか?でも馬はもっと持っていないでしょう・・
 あなたは成長していないと言います。でも馬ほどではないでしょう・・
(これをトラさんに言ったら、「馬もほんの少し成長しているでしょう」と言いました。)
 魂には性差が無い・・それどころの話ではありません。魂には動物差も無かったのです。
 無色透明な風(ルン)は何にでもなれます。
 吊り橋の揺れ・・それは振動なのです。振動が恋を作ります。素敵ではないですか?
 時間は振動です(物質も振動ですが・・)。振動には横振動と縦振動があります。
 横振動で育った私たちは横の振動しか感じにくいのです。
 吊り橋の縦の振動のようなものは感じられないのです(象徴表現です)。
 しかし、それは恋となって現れます。
 下条君によれば、感情すらも自分のものではないのです。
 恐怖心も自分のものではないのです。悲しい気持ちも自分のものではないのです。
 それを感情だけは自分のもの・・感情だけは本当のもの・・そう言ってきた私達・・。
 平地では恋をしない相手に、吊り橋で恋をしました。
 でもずっと揺れていればそれでいいじゃないですか・・
 縦の振動を感じられるようになったら、もうそれは止まりません。
 馬になっても・・・人間になっても・・
 だからこそ私は、その時の気持ちを大事にしたいのです。それは神の気持ちだからです。
 この肉体でもっと感じ、もっと表現したい・・
 下條君に言わせると、感情は風(ルン)のエネルギーのようなものです。
 吊り橋を一人で渡っていると恐怖心として出ます。
 向こうから異性が歩いてくると恋心として出ます。
 何にでも変わる風(ルン)・・無色透明な風(ルン)・・風(ルン)は感情の素・・
 でもこれを知って、私はなんだか感情が好きになりました。

空の方程式とゾクチェンの教え(2001/08/04)



 この写真はミラレパが空を悟った洞窟です。ここの場所を借りてしばらく瞑想させてもらいました。このとき私の脳裏に一つの式が浮かびました。
 空の方程式:空性=(今のあなた)−(あなたの身体)
 空の状態とは空性がゼロになることです。
 そのためには(今のあなた)と(あなたの身体)が等しくなければなりません。
 私たちは空になるということを悟るなどと言ってきました。悟るとはスタディのことだと思ってきました。
 すなわち悟りとは得ることの一つだと・・・。悟った結果をどこかにプラスするのだと・・・。
 どこにプラスされるのでしょうか・・たぶんあなたの魂でしょう。
 あなたは悟りを「得て」解脱してあの世に行き、輪廻転生を終わる・・最終段階のステップ・・。
 これって横の時間そのものだと思いませんか?
 ミラレパの洞窟で閃いたのは、「私の身体以外に私は存在しない」ということです。
 この瞑想を終わって我に返った時、私は思いました。
「感情だけは私のものではなかったか」・・と。
 でも空性方程式によれば、私の感情すら私のものではないのです。
 我感じる、故に我あり・・
 過去のことを思い出し、あのとき泣いたのは正直な気持ちでした・・
 あのとき笑ったのは本心からでした・・
 でも・・もしかすると・・
 私は主体的にその感情を発生させたのでしょうか?
 決して主体的に発生させてはいませんでした。どこかに何か、違った感覚を持っていました。それらを本心だと主張した時、孤独感に襲われたこともありました。
 瞑想を終えて私達は帰路に着きました。村までは距離があります。
 深夜になることは分かっていました。そのとき車が故障し、イライラが募りました。
 前を通り過ぎる馬の親子に、私は教えられました。生命とは何か・・
 解脱すると輪廻は終わるでしょうか・・私は解脱して馬になっても良いと思いました。
 馬は通り過ぎ、豆粒のようになりました。私達のランクルはやっと直りました。
 そしてその後、深い川にジャンプして飛び込むというシーンに遭遇します。
 飛んでいる時間は止まっていました。飛んでいる時間、私の感情は停止していました。
 水しぶきを上げて飛び込み、沈み始めた車体を見ても、感情は湧きません。
 タフガイが、まるでスローモーションのようにキーを回し、エンジンをかけます。
 そして息を飲む数秒間・・・脱出!!
 そして安堵のため息をついたとき、私に感情が湧きました。
 最初に湧いたのは、「なんだ、またこんな所で時間を食うのか・・」でした。
 自分でも驚きました。すぐにそれを否定する感情が現われました。「良かった・・無事で・・」
 その後、「でも楽しかったじゃないか・・」という感情に切り替わりました(私は元来、ポジティブ志向なのです)。
 しかし、どの感情が「本当」なのでしょうか?
 車は後輪が二つともパンクしていて、その修理のためにみんなで外に出ました。
 外は満天の星でした。そして二匹のウサギが私たちを見ていました。
「パンクしたからこんな風景に出会えたんだ・・パンクして良かった」などという感情も湧きました。
 一つの現象に対して、これほどの感情を持つことが出来るのです。
 どれが本心の感情か・・などと言えるわけがありません。
 あなたに会えて良かったか悪かったか・・そんなことを判定できるわけはありません。
 今の私から今の身体を引けば、ゼロなのです。そこに「良かった」、「悪かった」の評価は残らないのです。その評価が横時間の概念でしょう・・。
 コウモリを体験することは出来ません。なぜなら、コウモリになり切らないといけないからです。
 私がその時の私になり切っていれば、何も残りません。
 失敗も・・成功も・・成長も・・残りません。
 だって、あの馬の親子に何か残ったのでしょうか・・。
 チベットから帰ると、本棚から下條君の本を探し出しました。ありました・・
『サブリミナル・マインド』という本に「悲しいのはどうしてか?」という章があり、そこには「自分とはもう一人の他人である」という論理展開で、感情は自分のものではないと書いてありました。
 自分の感情を信じるのはやめた方が良いとも書いてあります。
 そしてこう結んでいます。「これらの認識が、崩壊する時代の人間観の後に、かろうじて私たちを救う新しい人間像を準備することを願いたいと思います」・・と。
 さらに私はチベット関係の本を読み始めました。
 今読み終わったのが『チベット密教の瞑想法(ナカムイメノルブ著)法蔵館』です。
 この本の副題は「究極の秘法ゾクチェンの思想と修行」です。大変に良く出来ています。
 下條君の本とペアで読むと良いと思います。下條君は科学で、ゾクチェンは宗教だからです。
 なぜ一緒に読むと良いかというと・・下條君の本を読むと、滅入ってくるのです(笑)。
 自分の感情は作り物で嘘だと言われ、その後どうした方が良いという提案が無いからです。
 しかしゾクチェンには感情は嘘だと書いてあっても、その理由がないのです。
 理由は下條君の本が解明してくれます。それからあと、どうすれば良いか・・
 感情などに固執するべきでない・・というところからスタートするのがゾクチェンなのです。
 さて、ゾクチェンの本(チベット密教の瞑想法)の中で私が赤線を引いた部分をそのまま書き出しましょう。
 ゾクチェンとはサンスクリット語のマハーサンデイにあたり、よく「大いなる完成(大円満)」などと翻訳されている。
 大いなる完成とは、原初から清らかであることと自然状態において完成していることである。心の本姓においてこの二つの側面は決して分けることの出来ない一体をなしているのである。
 ゾクチェンにおいては、見解が瞑想の修行よりも重要だと考えられている。見解とはものごとを見る見方である。
 感覚の一切は、さまざまに顕現しているけれども、真実ではなく、形を持っているようだけれど、心の幻術にほかならない。
 心の本姓は、もともと始まりからして空にして実体がない。
 良いカルマがあれば良い顕現が生まれる。
 悪いカルマがあれば悪い顕現が生まれる。
 だがいずれも物質レベルの顕現であって原質の精髄が直接現れたわけではない。
 人生には問題がたくさんある。その根源はどこにあるのかと探していくと、何にせよ、現象が実在すると信じているからだということがわかる。
 ゾクチェンの修行をすれば、自然状態にあるエネルギーの現出を直接に体験することができる。
 日常生活の中で、わたしたちは、ふつう日常的なものの見方の中に入り込んでいる。
 自分はここにいて、向こう側には善悪、美醜の対象があると考えている。
 そして「よい」対象には欲望を、「悪い」対象には怒りを感じる。
 しかしすべての顕現は自分自身の潜在エネルギーの発現した飾りのようなものだということを、まず理解する必要がある。
 私たちの真の本質は鏡のようなものだ。鏡には良いものも悪いものもありのままに映し出される。
 全であれ悪であれ鏡は気にしない。鏡にはすべてを透明に映し出す無限の能力が備わっている。映し出された映像は、鏡に内包されている可能性の表現にほかならないのである。
 いずれにせよ、思考が立ち上がってくる最初の出発点が重要だ。
 たとえば「こうしよう」と思った瞬間は、善悪をはじめどんな判断も働いていない。その瞬間の認識は、二元論的なものの見方に支配されていない。そのあとで判断作用が働き始める。それによって二元論の枠の中に入ってしまうのである。
 このように知覚や思考が生じた瞬間の認識が、「刹那(せつな)の認識」である。
 この「刹那の認識」を見出せば明知を見出したことになる。もしもその状態にとどまりつづけることができれば、永遠にマンタダトラの境域に入ったままでいられる。とはいえこの状態にとどまりつづけることはそんなに簡単なことではないから、「刹那の認識」は、ふつうは一瞬のみで過ぎ去っていく。
 この純粋な叡智は、主体・客体の分裂した両極を越えており、あるがままの存在そのものである。
 以上です。
 これを読んで、「そうか、明日からこうしよう・・」などと思ったでしょうか?
 もしそうだとすれば、あなたは「得ている」と思います。
 ゾクチェンの言うあるがままとは、雲のかからない太陽を見るようなものです。
 そのとき、同時に光の乱舞も見えると書いてあります。
 ここで雲は「得たもの」として考えられます。
 得たものを使って見ること・・それはサングラスで見ることです。
「こういう生き方をしよう」・・というのは、「泣いている私は本当の私だ」・・に似ていると思います。
 私は生命エネルギーに漲った精霊に遭遇しましたが、それを見ると、感情的というのは悪くはないと思いました。
 泣き笑い、感動して人生を生きるのは素晴らしいと思います。
 ただ、一つの状態を抜き出して評価分析しないことです。
 変化に乗るというのは、そういうことだと思います。乗れなくても後悔などしないことです。
 感情や思考への固執から逃れる方法としてゾクチェンは三つのやり方を上げています。
 最初は
●赤裸々に注意を向けることによって解脱する
 これはよく言うところの、第三者のような目でもって自分を観察する方法です。
 しかし本物の自己解脱ではないと書いてあります。自分を観察するということは、まだ少し努力をし、意識的に注意を動かしているということだからです。
 次は
●思考が生じるとともに自己解脱する
 この場合、思考が生じたときに「それに執着しない」と思い出すのです。それによって解脱するので前者よりは自然です。
 次は
●自己解脱そのもの
 これは最終段階の境地です。
 何かを見たり何かを感じたりした瞬間に、それは解き放たれます。何も努力はする必要はない状態です。
 高僧は言いました。「空とは流れに乗ること・・」実に最後の状態だと思います。

夢がなければ何でも叶う(2001/08/05)

 ちょっと話が外れます。
 私は小さい頃から人生を諦めていました。夢などありませんでした。
 農家に生まれた私は農家を継ぐつもりでした。でもなぜか父は大学にまで行かせてくれました。同窓生60人の中で大学に行ったのは三人しかいません。
 いつか農家を継ぐとしても、腰掛のつもりで会社に就職しました。
 その三年後、家の土地がすべて無くなるということに遭遇しました。
 その翌年、辞表を出し、独立しました。独立するときも、夢などありません。
『「不思議の友」6』に書いた通り、私はベッドから起きられなくなったのです。
 もう限界だと思い、辞表を出しました。
 私に夢はありません。何が私を動かしているのでしょうか?
 テレビのコマーシャルでこんなのがあります。
 父親が「そんな夢みたいなことを言うな」と言うと、息子が「夢を追いかけてなぜ悪い」と言います。
 私は息子の気持ちになれません。
 夢は実現しないと思います。なぜなら、それは横時間だから・・
 息子さん、夢は捨てないと叶いません。
 夢がなければ何でも叶う・・という一節はラサに着いた晩に書き込みました。
 これはゾクチェンの教えそのものだという気がします。
 なぜなら、昨日ゾクチェンの本の抜粋として以下の文章を書きました。
 間違ったものの見方・・「良い」対象には欲望を、「悪い」対象には怒りを感じること。
 夢とは「良い」対象への欲望に他ならないのです。
 これを聞いて反論する人もいると思います。夢は欲望ではないと・・
 でも、欲望とは手に入れたいもの、成し遂げたいものではないでしょうか・・。
 それは固執であり、欲望だと思います。
 という私も夢はあるのですよ。
 バージニア州で「思い出のグリーングラス」を歌うのが夢でした。それはモンロー研究所で叶いました。
 女装を始めた頃、街をウキウキと歩くのが夢でした。それも叶いました。
 あれれ・・、よく考えてみると、夢って後から出来たものなのですね・・。
「私はこれが夢だった」と言う時、たぶん未来に対する夢ではなかったのです。
 間違ったものの見方・・「良い」対象には欲望を、「悪い」対象には怒りを感じる。
「悪い」対象に怒りを感じない方よりも、「良い」対象に欲望を感じない方が、大変そうに思えます。
「良い」対象:夢、希望、愛、友情、親切・・これらとお別れしなければならないからです。
 あるがままで完璧なら、愛を肯定する必要もありません。
 そう言えば、ゾクチェンの教えの中に愛という言葉も、慈悲という言葉も出てきません。
 なんてすごい教えなのでしょうか・・。

刹那(せつな)の認識(2001/08/05)



 この写真は左の女性から私にイルカを手渡してもらっているところです(笑)。
 去年のハワイでイルカの話を出したとき、「そこで飼われているイルカは自然ではないから可愛そうだ」という話が出ました。
 しかし下の写真は我が家のフェルルです。飼われています。



 チベットのお馬の親子も飼われていたのでしょう・・。飼われていると不幸でしょうか?
 フェルルは野犬よりも不要でしょうか?動物に選択権はありません。
 でも、それは動物だけでしょうか・・
 人間だって感情すら、自分のものでないかも知れないのです。
 人は飼われてはいないのでしょうか?神からです。
 しかし飼われていたとしても、私はそれで良しと思うようになりました。
 自由を行使するとは、どういうことでしょうか?未来に対する二者選択を決めることだと思います。そこに自由を行使してどうするのでしょうか・・
 今日読んだ中井久夫の本の中に面白いことが書いてありました。
 登山家が遭難するのは、大抵帰り道だと言うのです。頂上を制覇した後だと言うのです。
 道教でも似たような話がありました。「頂上を目指すな・・」
 頂上を目指すことは、たぶん横時間なのです。
「刹那(せつな)の認識」をもう一度書きます。
 いずれにせよ、思考が立ち上がってくる最初の出発点が重要だ。
 たとえば「こうしよう」と思った瞬間は、善悪をはじめどんな判断も働いていない。その瞬間の認識は、二元論的なものの見方に支配されていない。そのあとで判断作用が働き始める。それによって二元論の枠の中に入ってしまうのである。
 このように知覚や思考が生じた瞬間の認識が、「刹那(せつな)の認識」である。
 この「刹那の認識」を見出せば明知を見出したことになる。もしもその状態にとどまりつづけることができれば、永遠にマンタダトラの境域に入ったままでいられる。とはいえこの状態にとどまりつづけることはそんなに簡単なことではないから、「刹那の認識」は、ふつうは一瞬のみで過ぎ去っていく。
 この純粋な叡智は、主体・客体の分裂した両極を越えており、あるがままの存在そのものである。

感情は自分のものではない(2001/08/05)

 感情は自分のものではない・・こんなに素晴らしい言葉に出会ったのは久しぶりです。
 もちろん狭い意味では、感情は自分のものです。しかし・・
「正直な気持ち・・」などということは、二度と言えなくなりました(笑)。
 正直な気持ちと言うのは存在しないのです。
 あえてそれを言う時は、「これから嘘を言いますが・・」と言っているようなものです。
 ましてや「愛している・・」などという台詞ほどの嘘はないでしょう・・
 でも、相手が故意にも、嘘を欲している場合がありますが・・(笑)。
 泣いていた私は本物だと思っていました。でも思い返すと、そうでもありません。
 私は自分の欲望から泣いていた時の方が多かったと思います。
 笑っている私も本物だと思っていました。でもそれは一瞬で良いのです。
 笑い続けるものではありません(笑)。
 感情が自分のものではないと知った時、とても楽になりました。
 逆説的なことですが、「ああ、これで自由に感情を表現できる」と思ったのです。
 秋頃から運命の実験を始めますが、感情が自分のものではない以上、運命が決まっていようと、どうだろうと、関係ありますか?ないでしょう?
 だって希望が叶って喜んだりする感情は自分のものではないのですから・・。
 不幸が起こって悲しんでも、それは自分のものではないのですから・・
 人から感情を取って、何が残りますか?何も残らないでしょう・・。
 でもね、私は今まで以上に興奮しているのです。吊り橋を自分で揺らし始めています。
 私はもっともっとイキイキと生きられる感じがするからです。
 風(ルン)には色はありません。気は色(意識)が入ります。
 感情って気のようなものですね・・
 起こり得る状態そのものの中にいる時、色付けはありません。
 まさに私のランクルが落ちている瞬間です。
 吊り橋で電話番号を渡される瞬間も、何も色付けはないのではないでしょうね・・。
 後から恋という欲望が表れるのだと思います(笑)。
 私も、ランクルが川に落ちて、初めて感情が発露しました。
 感情は後からの「説明」なのです。色付けなのです。
 その色付けが着く前の状態そのものを保持すること・・実を言えば、それが生命の高揚感のような気がします。「刹那(せつな)の認識」に近いです。
 それは、心の中の風(ルン)かも知れません。その時点では、恐怖心も恋心も同等なのです。

ハワイ最後の長編書き込み(2001/08/06)

 まずはハワイの夕陽をご覧下さい。



 さて、ハワイ最後のテーマは「感情の固執から逃れることとマルチということ」です。
 感情や思考への固執から逃れる方法としてゾクチェンは三つのやり方を上げています。くどいですが、大事なところなのでもう一度書きます。
 最初は
●赤裸々に注意を向けることによって解脱する
 これはよく言うところの、第三者のような目でもって自分を観察する方法です。
 しかし本物の自己解脱ではないと書いてあります。自分を観察するということは、まだ少し努力をし、意識的に注意を動かしているということだからです。
 次は
●思考が生じるとともに自己解脱する
 この場合、思考が生じたときに「それに執着しない」と思い出すのです。それによって解脱するので前者よりは自然です。
 次は
●自己解脱そのもの
 これは最終段階の境地です。
 何かを見たり何かを感じたりした瞬間に、それは解き放たれます。何も努力はする必要はない状態です。
 高僧は言いました。「空とは流れに乗ること・・」実に最後の状態だと思います。
 さて、もしも感情への固執から解き放たれるとどうなるでしょうか・・
 例えばここのホームページには幾つかのコーナーがありますが、全てのコーナーに、別人格で出られるのです(笑)。
 ある一つのコーナーで落ち込んでしまっても、他のコーナーで快活に出られるのです。
 だってそうでしょう・・書き込んだ思考や感情は引きずらないのですから・・
 自分の前に現われる状況にすべてオープンになれるのですから・・。
(ただ周りの人がどう見るかだけが問題です。「あいつは調子いい奴だ」と見るかも知れません。)
 チベットの高僧はとても快活でした。
 私がソーラーラジオをあげると、すーーごく喜びました。そして私へのお返しである「チベット死者の書」のVCDを取りに行くために走って行ってきました。
 その動作はりんご以上のしなやかさでした。
 下の写真は、ある寺の庭で僧達が議論をしているところです。
 チベットの男性僧には修行の一環として議論の時間があるのです。
 そこでは結果として論破した、論破されたの差が生じるのですが、終わった後、何事も無かったかのように引き上げていくのが印象的でした。
 この最後のけじめ(何も残さないこと)をするために議論修行をするのではないかとも思われるくらいです。



 さて次は「マルチ」ということについて書きます。マルチとは「同時に幾つも」・・という意味です。
 シングルが「あれかこれか」なら、マルチは「あれもこれも」です。
 みなさんも自分自身のことを思い出すと、縦時間に生きている時・・すなわち横の時間の流れを忘れている時は、マルチに事が進んでいると思いませんか?
 例えばマラソン選手の高橋尚子が走る時、その時は喜びも悲しみも無く、あらゆる方向に感覚は開かれていると思うのです。
 芸術家が絵を描く時も同様でしょう。絵を描いている時は、一体感のみで喜びも悲しみも無いと思うのです(私がそうでしたから)。
 これは感情に固執しない状態だと思いますが、能面の様になることでしょうか?
 チベットの高僧が私の質問に次々に答えていく時、その目がとても印象的でした。
 どんどん変わるのです。前の質問を引きずっていないのが目で分かるのです。
 引きずっていないどころか、「同時(マルチ)に」という感じすらあるのです。
 高僧は空について次のように答えました。再び書きます。
 空を誤解している人は大変に多いです。空は何も無いことではありません。空を一言で言おうとすれば絶え間ない変化ということです。物でも人間でも一定ということは無いのです。常に変化をし続けています。だから実体として掴まえようとしたとたんにそれは変化します。実体として捉える事は不可能なのです。では変化する枠としてとらえればいいではないかと言う人がいますが、枠を設定しても変化はそれを飛び越えるかも知れません。過去がこうだからと言ってそれで未来を考えることはできません。今を生きるというのも違います。意識して今を生きることなどできませんから・・。絶え間ない変化にどれだけ身を任すことができるかがポイントです。
 絶え間ない変化に乗るためには、感情に引きずられていたら、それが出来るでしょうか?
 ここでみなさんに聞きたいのは、イキイキとすることと感情的とは同じでしょうか?
 無感情は確かに能面的です。しかし逆に感情的というは、重たいものを感じます。
 彼の表現にある「変化に乗る」というのは、感情の振動数のようなものを上げていくことではないでしょうか・・
 感情的であることには変わりはないとは思うのですが・・、感情の向こう側に突き抜けるような感じです・・。
 彼の目は確かに変化そのものでした。イキイキとしていました。
 感情は自分のものでは無いという概念は、果たして人を無感情にするでしょうか?
 むしろ反対なのではないかと思います。
 自分の感情に浸っている間は、外に開かれていないのではないかとも思います。
 以前、ハワイで書き込んだリリースという概念は、まさに空の状態かも知れません。
 恐怖心でさえ恋に変わります。
 その変化に乗った方が楽しいと思うのです。その方が生命的だと思うのです。
 神坂さんは次元は無限だと言っていました。佐々木康二さんもそう言っています。
 それはどこにあるのでしょうか・・
 歴史が横に流れているとすれば、縦の時間があるのではないでしょうか・・
 それは周波数を上げた感情の中にあるような気がします。
 例えば一日前の書き込みに縛られてしまう私達(私も含めて)・・
 きのう言われたことをずっと引きずってしまう私達(私も含めて)・・
 私たちの周波数のレベルは、日にち単位なのです(私も含めて)・・
 数ヶ月前のことを言い出す人もいます。
 もっと短くすることは可能かも知れません。せめて時間単位に・・
 そして、瞬間にすることさえ可能だと思います。
 もしそうなった時、縦時間は姿を現すのではないでしょうか・・。
 それは無限の次元です。同時にマルチで感じることができそうです。
 恐怖心か恋かの選択ではなく、恐怖心と恋を同時に味わうこともできるかも知れません。
 感情的に生きるのなら、同時に味わった方が贅沢だと思います。
 究極に感情的と言える状態ではないでしょうか・・。私はそちらを選びたいです。
 チベットの高僧の顔は、チベットにいるときは他の写真と三枚で一つにして表示しました。ですのでここで初めて、一枚で表示します。
 彼の目・・素晴らしいと思いませんか?



 これでハワイからの長編書き込みを終わります。

「気ばたらき」(機内の書き込み)(2001/08/07)

 飛行機の中で『精神科治療の覚書(中井久夫著)』を読みました。
 その中に「気ばたらき文化の力」というタイトルの章で面白い話がありました。
 まず中井はその章の始めに「心は病まない」と言っています。
 日本の社会は働きすぎだと言いますが、中井は「気ばたらき」すぎだと言います。「気ばたらき」が日本社会のいう「はたらき」なのだそうです。
 会社で上司が入室すれば、仕事の手を休めて上司の入室をそれと認めるしぐさをすることが大事であって、他の国ではこれはほとんど無いと言います。
 中井は精神病院の第一線で治療にあたっている先生なのですが、患者の社会復帰に関して、この「気ばたらき」が大きなハードルになると言うのです。
「はたらき」が出来ても「気ばたらき」が出来ないと日本の会社ではやっていけないからです。
 彼は「気ばたらき」のことを「一種の曲芸と言わなくても対人関係におけるたえざる緊張と目ざとさを強いるものである」としています。
 精神病からの回復途上の人にはそれが出来ない・・それはそうすることが回復を妨げるから自然にそうなっているのだそうです。
「気ばたらき」を回避するのは、生命の保護作用なのだそうです。
「気ばたらき」が大変なのは、過ぎれば「世話焼き」、「お節介」、「他人の仕事にくちばしを入れる」、「うるさい」奴に隋する、その微妙な一線をたえず意識していなければならない点にあると言います。
 二方向の努力の調整活動、まさに平衡を絶えず意識する綱渡りなのです。
 病気になる前は反抗を知らない「良い子」であったと言われる人が多いそうです。
 とすれば、幼い子供が、大人の目から見て口を差し挟む隙を与えないほどのパーフェクト・ゲームを演じ続けていたことで、大変な「気ばたらき」をしていたというべきではないだろうか・・と書いてあります。
「病気」になったことでその子は「気ばたらき」から解放されたという解釈も成り立つと言います。
 そして中井は次のように言ってのけています。
「「気ばたらき」は生命にとって有害だと考えたほうが妥当である」・・と。
 そして再度・・「心は病まない」と言います。
 そして・・「気づかい」から「心づかい」に変えたらどうかと言っています。
 風(ルン)に意識が入ると気になります。
 中井氏の話を読んで、こころは、風(ルン)に近いのではないかと思いました。
 下條氏によれば、泣いているときも、心は泣いていないということになっています。
 心は無色透明で、何にでもなれるのではないでしょうか・・。
 気はどちらかと言えば感情に近いもの・・。
 気くばりが相手に合わせているものなら、心くばりは風(ルン)がそのまま表出したものかも知れません。
 さて「心は病まない」から考えたのですが、心が魂に近いものだとすれば、魂も病まないのです。
 病まないとすれば、もちろん治すことも出来ません。同様に成長もありません。
 プラスやマイナスの概念が無いからでしょう。
 心を癒すことや魂を癒すことは出来ないのです。
 心や魂は、もともと完璧に癒されている状態なのです。
 その領域に近付くのがゾクチェンの教えなのではないかとも思えました。
 さて、もしも病気になってしまった場合は、風(ルン)では治せないのではないでしょうか・・。
 気で病気になるのですから、それは気によってしか治せないような気がします。
 感情と心・・気と風(ルン)・・なんて複雑なものを神様は作ったのでしょうか・・。
 もちろん複雑だから探求しがいもありますが・・(笑)。
 ハワイの風(ルン)はあまり見えませんでした。植物の気が強すぎるのです。
 風(ルン)と気の関係も、まだよく分かりません。
「心は病まない」・・精神科医がこれを言うのって、やはりすごいです。
 中井氏は時々「正常な人よりも正常ではないか・・」と思うときがあるそうです。
 二丁目にいると、そっち系の方が正常ではないかという気がしてくるのと、似ていると思います。
 心が病んでいる人など、誰もいない・・。
 しかし「気ばたらき」に象徴されるように、私たちは「心」をそのまま外に出せないのかも知れません。感情という色を付けないと・・・。

波長(2001/08/07)

 中井氏の本をやっと読み終わりました。
 あと数十ページを残して成田に着いてしまったので、残りを今読みました。
 その中に少し面白いところがありました。
 中井氏は「波長」という言葉を使っています。彼はこんな風に書いています。
 精神科医の能力は、相手に波長を合わせて話を効き、筋をたどり、何が問題であり何が決め手なのかを知ろうとするところにある。
ところが実に頻繁に波長を切り替える能力を持った患者がいる。こういう患者にはふしぎに医者を魅了する力まであって、医者はふらふらになる。
 相手に合わせて波長をしょっちゅう切り替えると、どうしても相手に振り回される。
 以上ですが、彼の言う波長というのは、私が昨夜書いた感情の周波数に似ているような気がします。
 この患者さんはたぶん、一つの感情に縛られていないのだと思います。
 それは精神科医さえ魅了するのですね・・
 逆に言えば、私たちもこれを使えば魅力的になれるのです(笑)。
 でも精神科医はそういう患者に巻き込まれては困るのです。それで使うのが言葉の音調なのだそうです。
 感情の変化はその一つとして、言葉の音調になって現われると言います。
 そして中井氏は、頻繁に波長を切り替えてくる患者には、その中から出来るだけ厚く深深とした(彼はビロードじゅうたんの様なと言っています)音調を選ぶのだそうです。
 そういう波長を患者が持っていないときは、アートセラピーの力を借りるしかないと言うのです。
 でも、波長を頻繁に切り替えられる人って、普通でも魅力的ですよね・・

書き込み期間:2001/8/1〜2001/8/7