テーマ:「ミーム論」
書き込み期間:2000/12/29〜2001/01/15
要旨:
『ミーム・マシーンとしての私』という本を読みました。大変示唆に富んで面白かったです。
ミームとは、社会的遺伝子または精神的遺伝子とも言えるものです。それは、神の遺伝子とさえ言えるかも知れません。
そして、個の人間はミームを伝播させるために動かされている、というのがミーム論の考え方です。
これが本当だとすれば、私達の主体性はほとんどないことになります。
ミームの本で面白かった内容の一つは、人間の脳が巨大化した理由についてです。それは模倣をするためだといいます。ミームを伝播させるためには、模倣する能力が最も重要だからです。
さらに面白かったのは、人間の言語機能が発達した理由が、噂話をするためだというところです。噂話なんて付録のようなものだと思っていましたが、実はそれが根幹だったのです。
全ての要素は模倣であり、厳密な意味での創造行為というものはない、というのが著者の主張です。
最後の章は、読んでいて特にシビれました。ワダチ論や時間系など私が言ってきたのと同じ事が、形を変えて述べられているようでした。
 
ただし、私は全面的にミーム論に賛同したわけではありません。
ミーム論は全て過去に属しています。しかし私は未来からのミームというのもあるはずだと考えました。これは本の著者は考えなかった事です。
例えば私がHPに書き込みをしたり本を書いたりする時、それは単なる情報ではなく感情が込められています。感情はミームではありません。
また、中国の松林の写真をHPにアップした時に共有したかった「風」など・・どうしてもミームだとは思えないものもあります。
それでも、ミーム論にはこのまま引けないものがあります。種族保存とは直接関係ない「女装」などがシンプルに説明できてまう点には、特に注目しました。
それに、ミームというシステムの目的がまだ分かっていません。
ミーム論に関しては、引き続き考えてみたいと思っています。
目次
○ミームとは
○脳が巨大化した理由
○ミームと配偶者
○ミームの本を読み終えました
○模倣プール
○私達を取り巻く環境
○ミーム論の切り口
○馴染まなかった所、良かった所
○原型との関連
○空間的自己
○ミーム戦略に乗らない道教
ミームとは

 10年ほど前に読んだ本にミームという単語が出ていました。
 ミーム・・それは社会的遺伝子だったと思います。
 個の生きる意味は、この社会的遺伝子を保存し、成長させるためにある・・だったと思います。
 私達の個は死んでも、その生きた意味はどこかに社会的遺伝子として残る・・つまり「場」を成長させるために我々は存在している・・いつか良い社会を作るために・・
 その動機は、肉体的遺伝子が作るのではなく、精神的遺伝子ミームが作る。
 こう考えると、我々が社会に対して何かをやろうとする動機、あるいは「子供達のために良い社会にしよう」という動機も分からないではありません。
 そしてこのミームは、神の遺伝子とさえ考えることが出来そうです。
 遺伝子というものには、方向性を感じさせます。優先度です。
 物質的な遺伝子は「種の存続」という方向性です。個の存続よりも種の存続です。
 しかしミーム(精神的遺伝子、社会的遺伝子)があるとすれば、そこにも方向性がありそうです。それは・・たぶん、神の領域に入りそうです。
 神の方向性・・それはミーム。
 人間の個に成長はないでしょう。成長していると思っている人は、それだけで後退しているはずです。成長という囚われに入っているからです。
 時間系に入ることが成長ならば、「それはもともとあった」と言えます。もともとあったものを取り戻すのが、成長でしょうか・・
 否・・
 さて、そうだとすれば、我々は何のために時空に存在されられたのでしょうか?
 これに対する最もユニークな答えがミームです。
 神はミームそのものなのです。ミームの存続と成長が、すなわち神の成長です。
『ミーム・マシーンとしての私(草思社)』スーザン・ブラックモア著(上下巻)
 上記の本を買いました。以下はその抜粋です。
自然淘汰で生き残る条件(ダーウィン)
1.すべての生物が同一でないような変異がなければならない
2.すべての生物が生き延びることはできず、ある種の変異体が他の変異体よりもうまくやっていける様な環境がなければならない
3.子が親の特性を受け継ぐような何らかの過程がなければならない
この三つが揃っていれば、いかなるものであれ、増加する。一部しか生き残らないような不完全なコピーしか作れない自己複製子が存在したとしても、それでも進化は起こる。
 本の抜粋は以上です。ここで私が注目したのは、「変異」です。変異は、偶然かも知れません。
 何でも良いのですが、「レールから外れる」という冒険者、あるいは脱落者の存在しない種は滅びるのです。極端な例ですが、登校拒否がゼロになると、人類は滅びるかも知れません。
 この本によると、100匹目の猿現象は、厳密な意味でのミームではないと言います。
 なぜなら、猿は100%模倣したわけではなく、一匹一匹の創造的行為が入っているからだそうです・・。
 ミームというのは、ほとんど無意識に出てしまうものを言うらしいのです。

脳が巨大化した理由

 脳は何故こんなにでかいのか?私はこの疑問をずっと持ち続けていました。
(私は同様の質問を多くの人にしてきました。しかしそれなりの答が返ってきたことはありません。まるであの文学博士のようです。)
 さらに今まで読んだどこの本にもこの問題を扱っているものはありませんでした。
 今、ミームの本でそれがテーマとなっている章があり、まさに今それを読もうとしています。この問題を扱ってくれただけで嬉しい・・・。スーザン・ブラックモアさん、素敵。
 以下、本の抜粋です。
ミームが脳の巨大化を駆動したのか?
 私(スーザン)はこれから、ミーム学に基づくまったく新しい理論を提案するつもりである。要約すればこうなる。私たちの進化的な歴史におけるターニングポイントは、お互いが模倣を始めたときだった。この時点以降、第二の自己複製子すなわちミームが活動をし始めたのだ。ミームは遺伝子が自然淘汰を受ける環境を変え、変化の方向はミーム淘汰の結果によって決定された。それゆえ、脳の大きさの膨大な増加を生み出した淘汰圧はミームによって始められ、駆動された。
 遺伝子からの指令「最良の模倣者を模倣せよ・・」
 ミームの環境変化についていけない遺伝子に出来ることはこれだけなのです。
 スーザンさんによれば、模倣のために脳は肥大したと言うのです。
 昔、石器時代に氷河期に襲われました。
 その時、石器を使って肉を切り裂き、土器に貯蔵し、火を使ってそれを食べられるまでに再生する技術は、模倣によってどんどん広がりました。
 それはミームの伝搬なのです。ミームは短時間の変化に対応できるのです。
 しかし、世代が交代しないと進化しない他の動物は、氷河期にどんどん衰退しました。
 模倣が人類をこれまでにしたと言うのです。
 私たちは模倣を当たり前のように考え、過小評価しています。前頭葉は「創造的な脳」だとされています。とんでもございません・・というのがスーザンさんの主張です。
 模倣する能力が最も重要だったのではないか・・
 出産の際、危険を冒してまで大きな脳を生むのは、ミームのため・・すなわち模倣をするためなのです・・ということらしいです。
 ミームの本には、すごい事が書いてあります。
 言語機能がなぜ発達したか・・それはなんと・・噂話をするためなんですって・・
 原始時代に他の動物を捕獲したり食べ物を貯蔵したりするのには、言語はさほど必要ないのだそうです。同じ様な事は、他の動物が非言語の鳴き声等を使ってやっているのです。
 で、人間はと言えば・・かなりの時間を噂話のために使っているらしいです・・
 いえ、その実際のデータがどうというのではありません。
 噂話なんて、言語の能力の無駄使いだと思っていました。しかし、それがホンチャンだったのです。
 目的を持っている内容がホンチャンだと思いましたか?それは付随的な付録だったのです。

ミームと配偶者

 本の抜粋です。カッコの中は私の補足です。
 社会生物学的(従来の遺伝子論)に従えば、私たちの配偶者選択、および誰を魅力的と見なすべきかは、究極的には遺伝子の有利さに帰着する。
 しかしミーム学に従えば、配偶者選択は遺伝的な有利さだけでなくミーム的な有利さによって影響される。
 自然淘汰は最良の模倣者あるいは最良のミームの使用者ないし普及者とつれあいになることを選ぶ。
 ――中略――
 狩猟採取社会では、最高の道具を作る、一番素敵な歌を唄う、もっとも素敵な衣装やボディーペインティングを身につけている、あるいは魔力や治癒力をもっているとみせかけることなどが含まれる。
(これにより現代社会においてファッションが重要であり、妙なメイク(アフロメイク、パンタメイク)をすることが理解できると思います)
 ――中略――
 前に論じたように雌のほうが雄よりも配偶者をより厳しく選考する必要があり、一般に性淘汰は雌の選択によって駆動される。
 しかし現代社会のように男女共に同等にミームを広めることができるようになると、配偶者選択にも(配偶者以外の愛人も含めて)多くの変化が起こると予想することができる。
 今やミームはかつてないほど遠くまで、しかも素早く広がりつつあり(こういう意味ではミームの環境適応力はすごいものがある)、そのことがセックスを含めて私たちの生活のあらゆる事項に協力に影響をおよぼしている。

ミームの本を読み終えました

 何か今、感動に浸っています。
 最後の章「私とは誰か?」まるで自分の本を読んでいるような錯覚に捕らわれました。
 私のミニミニツアーが形を変えて出現しているようでした。
 完璧な科学の本なのに、最後に辿り着いたのは、無為あるいは時間系の世界なのです。
 以下は、その最後の章で私が気に入って線を引いた部分の抜粋です(カッコ内はもりけんのコメント)。
私は何なのか?
 もし私があなたは誰ですかと問えば、あなたはあなたの名前、あなたの職業、あなたのほかの人間との関係(職業とか)をもって答えにするだろう。
 こうした自己描写のすべてはあなたの言語の習熟、他人との相互関係、そしてあなたが暮らしている会話の世界から生まれる。
 これらはどれも特定の状況では有益であるが、私たちが探し求めている内なる自己のたぐいを描写することはない。
 それらは持続する意識的な実体については何も描写しない。それらはたえず変化し続ける社会的な動物に貼るラベルにすぎない。
 それらはあなたがどこにいて、誰と一緒にいるかによって決まる。そのような構成物がどのように作られるかについては、私たちはたくさんのことを見つけることができるが、このやり方では意識的な自己は見つからない。
 内なる「私」はとてもとらえどころがないもののように見える。
 私たちは自分自身のことを(誤って)「私たちの」生活をコントロールしている自己として描きたいという途方もなく大きな願望を持っているように見える。
 ブッダは僧たちに「行為もその結果も存在するが、それを行った人物は存在しない」と言った。
 ミームそれ自体はほかの人間に由来するものであり、私たちがコミュニケーションをすればさらに多くの人に入り続けるだろう。私たちはこうしたすべての自己複製子(ミーム)の一時的な集合体なのである。
「私」はこの自己複合体の中にうまく入り込むことに成功したすべてのミームの産物である。
 意識は何の力も持たない。自由意志の観念を発明する必要もない。自由意志はそれを「持つ」自己と同様に、錯覚である。このような思考は恐ろしいもののように思えるかも知れないが、それが真実なのだと私は言いたい。
 自己は行為の開始者ではなく、意識を「もって」はおらず、熟考したことを「おこなう」ことはない。私の身体の内部にあって体と意識を制御する内なる自己という観念には何の真実もない。これが誤りであるからには、私の意識的な自己が自由意志を持つという観念もまた偽りである。
 私は意識が何事もなし得ないことを強調したい。
 進化論についての真の要点は、それを方向付けるものを誰も必要としないことであり、なかでも意識的な方向付けをもっとも必要としないのである。
 意識を持っている限り、どのようにして私たちは偉大な音楽、心を奮い立たせる大聖堂、魂を揺さぶる詩、驚くほど美しい絵を作ることができるのだ?−−と人々は問うだろう。
 この創造性の見方は、自己との意識についての誤りの理論だ。
 もしあなたが、頭の中に住んで作戦を指揮している「あなた」を信じているのなら、創造的行為は「あなた」がなした事項のとりわけうまい実例とみなすことができる。
 しかしすでに見たように、自己についてのこの見方は支持を得られない。
 内部で仕事をしている者など存在しない・・一塊のミームのほかには。
(もりけんはここでしびれましたぁぁぁ)
 
 しかし創造性に関するかぎり、自己は益よりも害をなすことが多い。なぜなら、創造的な行為は無我の状態、あるいは自己意識が消滅して自己が邪魔にならなくなったように思えたときに出現することが多いからである。
 芸術家、作家、ランナーたちは、自然に体が動き、自己意識がないときがベストの状態であるとしばしば言う。従って自己は、意識的な創造性に影響は与えはするけれども、それを開始させるものではない。
 それなら、私は何をしているのか? 
 私はあたかも選択を迫られている――私の科学的な理解に照らし合わせて私はどのような生き方をすべきか決めなければならない――かのように感じている。
 もし選択の余地がないなら、どのように私は選べばいいのだ?
 いかにして「私」はまるで私が存在しないかのように生きることができ、いったい誰がそのように選択するのだろう。
(ここで著者は私が天人合一のときにやった瞑想と同じ方法を推薦しています。外の音に集中して自分と外部を一体化させるという方法です。二ページにも渡ってますのでカットします)
 
 もし私が自由意志を持ち、意識的で故意の選択を行う「私」が内部に存在しないと心から信じるのであれば、私は何をどうするかをどのように決めるのだろう?
 答は、ミーム学的な見方を信じ、遺伝子とミームの淘汰が行動を決定するだろうし、それにかかわる余分な「私」の必要はないということを受け入れることである。
 正直に生きるためには、私はその道から脱出し、おのずから決断がなされるようにまかさなければならない。
 私は家に帰るのに、メインロードの道路と、楽しいけれど時間のかかる通りの二つのルートのどちらかを使うことにしていた。
 交差点にさしかかったとき、私はしばしば優柔不断に悩まされた。
 どうすれば私は最良の決断ができるのだろうか
 どちらを私はいちばん喜ぶだろうか
 どれが最善だろうか
 ある日私は突然「私」が決めなくてもいいのだということに気がついた。
 信号が変わり、足がアクセルを踏み、手がギアをチェンジする。そして・・
 私がどちらの道を行こうともそれでいいのだ。
 時間がたつにつれ、ますます私は、決断とはこういうものだと気付くようになった。
 それほど多くの決断をあるがままに任せることは、大きな自由の感覚をもたらしてくれる。(ワダチだ!!!)
 欲望、希望はもっと扱いが難しい。
 私は高齢まで生き、金持ちで有名になることを願っている(著者は正直だ)。こうした希望や欲望は幸福であり続けたいという観念だ。
 もしも自己がなければ、存在しない誰かのために物事を期待したり願ったりしても無意味である。こういったものはすべて、今ではなく、別の瞬間のものである。
 人生は本当は希望なしでも可能なのである。
 
 ここでひとつの恐るべき思考が頭を持ち上げる。もし私がこのたぐいの真理を持って生きれば――その行為に対して責任を持つ自己なしに――道徳はどうなるのだ?
 しかし私は決して楽しみだけのために略奪等を始めたりはしない。
 その代わりに、罪の意識、恥、困惑、自信喪失、そして失敗への怖れなどが薄れていき、私は予想とは逆に、よりよき隣人になっていく。
 もし邪魔になる神話的な自己についての感心がなければ、別の人物が何を必要としているとか、あるいは与えられた状況下でどうふるまうかを理解するのは容易である。
 おそらく真の道徳性の大部分は、何か偉大で高貴な行為を引き受けることよりもむしろ、単純に私たちがふつうにしている有害な行為、つまり自己という偽りの感覚をもつことに由来する有害な行為をすべて止めるこであろう。 
 さて、この本は実に科学的です。みなさんが読むと、かなりうんざりすると思います。でも理系の私にはドキドキ、ワクワクでした。
 例えば、知覚して行動を起こすまでに0.5秒もかかるらしいのです。
 水たまりを意識する前に、人は水たまりを跳んでいるらしいのです。
 テニスボールが飛んでくる前に打ち返しているらしいのです。
 意識は常に遅れているから、自分が判断しているというのは科学的にも幻想だと言うのです。こういうアプローチはさすがです。
 著者は宗教を否定します。特にキリスト教をです。しかし仏教や道教といった東洋のものは否定していません。
 東洋のものはミームに乗りにくいと同情しています。なぜなら体験主義だからです。
 私は経験的にワダチ論を言いましたが、著者は自己はすべて他者のミームの複製だと言うのです。
 さて、ミームですから、広まります。それも本などに書くのは、ミームにとっては絶好の場なのだそうです。そういう意味では、私も私の考え方というミームを伝搬させているのです。

模倣プール

 DNAは一生を通じてほとんど変化がないのに対して、ミームは人から人に伝染するので変化が激しいのです。
 しかも、宿主(人)へのミームの侵入の仕方が異なるので、環境が変化した際に、どれかのミームの組み合わせを獲得した宿主が、威力を発揮する時があるらしいのです。
 もちろんその宿主は、変化前では威力を発揮できなかったとしても・・です。
 つまり氷河期到来の時、たまたまその人のミームが火を起こす技術として芽を出すといった感じです。
 そしてそのミームはあっという間に広まります。
 DNAがハードの入れ替えだとすれば、ミームはソフトの入れ替えです。
 DNAは全ての動物が持っているのに対して、ミームは人しか持っていません。
 そういうわけで、ミームは場が変化した時にこそ威力を発揮するという感じなのです。
 私が理解した範囲ですと、「言語」、「石をたたくこと」、「こすると熱くなる」など、何でも良いのですが、ミームプール(複合的なミームの集合体)は、何を作り出すか分からないという点です。
 全ての要素は模倣なのですが、結果として模倣じゃないのが生じる・・。
 で、火を見た人が、たまたま土器の技術(ミーム)がある人で、火に強い土器を作り、湯を沸かす・・といった具合です。
 著者はとにかく、「創造的」というものを否定しているので・・
 新しいミームは、出来ないのです。ミームの組み合わせが変わったという感じです。
 ミームプールの組み合わせが変わると言うのは、理系の人が昔からある物理方程式を組み合わせて何かを作るような・・(それを創造と呼べますが、著者は呼んでいない)
 物理方程式そのものを作ることが著者にとっての「創造」・・
 この部分に関する本のコピーです。
 例えばメロディ、思想、キャッチフレーズ、ファッション、壺の作り方などがそれです。
 脳から脳へ飛び移ることによって受け入れられ、世界中に増殖する科学思想もそうです。宗教などもそうです。
 これらはすべて脳の中に蓄えられ、模倣によって伝えられます。
 しかしこの「模倣」は広い意味で使っています。
 あなたが人の話を聞き、その人の骨子を覚えていて、他の人に話すとき、それも広い意味の模倣です。
 話している言葉は、すべて模倣です。
 それがまるで遺伝子のようにコピーされるので、ミームは自己複製子なのです。
 しかしミームは伝わるときに間違いなく変異を起こします。物語が二度まったく同じように語られることはないし、二つの建造物が絶対的に同じということはないし、あらゆる会話は独特だからです。
 ミームは常に不完全な形でしか伝わりません。
 ミームは淘汰もあります。
 あるミールは伝わらず、別のミームはヒットするという感じです。
 新しいミームはどこからくるのか?それは古いものの異変や組み合わせを通じて現れます。発明、歌、芸術作品、科学理論にも同じことが言えます。

私達を取り巻く環境

●四つの力・・物理法則の源
●DNA・・肉体に付随する利己的遺伝子
●ミーム・・精神に付随する利己的自己再製子
 そして私達の意識は何の力も持ちません。無意識が頼りですが、無意識はコントロール出来ません。
 我々は世界を変えることは出来ないのでしょうか?いえ、きっと出来ます。
 無意識は無意識によって変わる・・これがたぶんキーです。
 ミームの本には、「アメリカではインターネットのサーチエンジンを使って検索すると、何百もの数でミームが検索できる」と書いてあります。しかし日本ではほとんどないです。
 私が初めてミームを知ったのは10年前・・。なのにほとんど本も見かけません。
 なぜ日本では普及しないのか・・きっと主人公がミームだからでしょう。
 100匹目の猿現象が普及したのは、我々が主体を手放さずに済んだからでしょう・・
 良いことは広がる・・臨海点・・社会は変わる・・
 しかしミームはそれとは違います。ミームは我々の上を行きます。
 人間の主体性などクソ食らえと言わんばかりに(私はこれが好きですが)・・
 私がミーム学で感心したのは、同性愛の普及を説明できていることです。DNAの戦略には、同性愛は乗りにくいから・・
 しかし問題は、天下のDNAの淘汰圧より、ミームの圧力の方が強いのか・・
 服装なんて明らかにミームの戦略だと思いませんか?男も女もある領域から出ることが出来ない・・
 今、瞑想中に浮かびました。原型の線で攻めてみます。
 ユングの原型では、因果関係が逆転することが可能だからです。ミームと人間の主従関係をいつでも逆転可能なのです。
 最大の問題は、ミームが人の意志を上回るということ・・。
 DNAなら何故か許せます。それはハードだからです。しかしソフトのミームに対して、どうしてソフトの精神が対抗できないのか・・
 一応、この問題を解決する仮説に達しました。 
 やはり「原型」です。原型の中に入っている情報は、エネルギーを持つのです。だからあたかも主体のように振る舞えるのです。
 私の場合、ミーム論に全く賛成というわけではないのです。
 私はミームが望むところの「本当の自分」さえあるのではないかと思います。
 何故かと言うと、ミームは過去に属しているからです。ミームは複製子・・つまりコピー・・つまり過去です。過去の複製子は道具にしか過ぎないと思います。 
 ミームの侵入、ミームへの発信・・これらのキーは・・あの分布定数回路さえ絡んでいるのではないかと思います。
 未来からのミーム、これだってあるはずなのです。私達は無になってミームと合体するたけがやる事でしょうか?

ミーム論の切り口

 ミーム論には幾つかの切り口があります。
●これは本当でしょうか
 出てきたばかりのミーム論なので、このまま受け入れて良いのでしょうか?
●生き方として得る部分はあるでしょうか
 この視点からすれば、私の抜粋などは役に立つはずです
●神はどうしてミームを作り、作用させているか
 もしもミーム論が本当だとすれば、このテーマが最も興味があります。
●ミーム論が間違いだとしても、他の仮説とコンバイン出来ないか
 それが私が興味ある「原型」とのドッキングです。 
 
 本を読み終えて二日たった今、私のミームに対する解釈は「情報」と化しています。
 私のことを考えれば、私は私の情報を伝えたいという意図があります。何故かは、分かりません。
 それは共有かも知れないし、孤独からの逃避かも知れないし、愛かも知れません。
 理由はどうあれ、私はインターネットで発信行為をして、私というものを広く表出しようとしています。この行為が、ミームの増殖と言われています。
(但し、私は原本を外れている可能性があります。もしも原本に忠実でありたい方は、是非とも原本をお読み下さい。私の解釈とは別の世界が広がるかも知れません。)
 以前にも書きましたが、私は誰もここを見ていなければ書き込みません。ということは、私は誰かとコミュニケーションをしたいのです。
 本を書くといういうことも同様です。私は私の何かを表出したいのです。
 それはミームの為せる業なのでしょうか?ミーム・・それは情報です。
 しかしです。私は無味乾燥な情報を表出したいとは思わないのです。
 私は理系ですが、数式で理解することが好きではありません。数式で理解しても神を理解した気になれないからです。表出したいのは情報プラス感情なのです。
 ブラックモアさんも書いていますが、感情はミームではありません。
 楽しいこと、悲しいこと、悔しいこと・・これらを広く伝搬しても、他の人にとって利用価値はないからです。
 でも私はそういう感情抜きに書き込みたくはありません。
 芸術家が絵を書くのは、単に、情報伝達でしょうか?
 音楽を作るのは、ミームの制作だと書かれていますが、あれは単なる情報ですか?
 みなさんが時々写真をここに載せますが、あれは無味乾燥な情報ですか?
 そうではないでしょう。あれはその瞬間に感じた感情を共有したいからではないですか?
 私は中国から松林の写真をここに出しました。アヒルが遊ぶ池・・導師の清々しい顔・・
 それは「風」を共有したかったのです。「風」という感覚がミームになるのでしょうか?
 人は多くの事を学び、蓄積しながら生きていきます。それは生きていくための道具でもあります。
 私は会社を始める前に簿記学校に行きました。そして商業簿記ということを学びました。
 それはミームかも知れません。そこには感情はありませんでしてから・・。
 物理の方程式・・それもミームかも知れません。
 しかし書いた本がミームだとはどうしても思えないのです。
 私は書きながら泣いてしまう時もあります。そういうものもミームでしょうか?
 泣いた感覚が増殖するのでしょうか・・そんなの、まっぴらです。
 私はこのミームの本を、全面的に受け入れられないのです。何故かと言うと、著者が否定するところの「自己」が受け付けないのです。

馴染まなかった所、良かった所

 ミームの本の中で馴染まなかった所があります。それは一昨日書いた部分、すなわち最後のサビです。あれは、かなり飛んでいると思います。
 途中経過でキリスト教が否定され、そのあと仏教はミームに乗りにくい・・などというくだりがあったので、まだ救われています。
 それがあるので、おそらく著者は東洋の宗教を学んだのだと思います。彼女にとってのミームして・・。
 時間系に生きれば、別に敵がミームで無くても良いのです。無、あるいは無為という中に突入すれば、意識は消滅します。無意識の世界に入ります。
 その時は瞬間に生きていますから、過去の蓄積のミームは関係なくなってしまうわけです。
 ここの部分は、私にとっては、ちっとも新鮮ではありませんでした。
 
 では、何が良かったのか・・
●好感の持てる人のミームは伝わりやすい
 当たり前の話なのですが、感動しました。だってミームって、善も悪もなく、容赦がないのです。増殖にしか興味がないとすれば、悪の根源だって伝わります。
 100匹目の猿の話が、芋を洗って食べるという美談だから救われますが、他の猿をいじめるというのだってあり得るのです。
 99匹目がいじめたら、次は島中の猿がいじめたとか・・
 でも、好感の持てる人のミームが伝わりやすいとすれば、話は違います。好感の持てる人は、いじめる事を伝えないと思うからです。
 私が本から直接得た「良かったこと」はこれだけです。
 さて後は、私のイマジネーションから出てきた「付録」です。付録だってバカに出来ません。私は昔、付録のために少年雑誌を買っていた時期がありました。
●未来からのミーム
 いや、これには自分でも驚きました。
 ブラックモアさんは超常現象を全く信じていないので、私のような思考は出てこないでしょう。それが「未来からのミーム」なのです。
 例えばフォーカス35は、未来も過去も同時に存在しているようなイメージです。
 私達が瞑想で心を澄ませば、そこと通信することが可能です。これはミームプールと直接通信しているとも考えられます。
 別に瞑想していなくても良いのです。微弱な信号を受信できる体制だけにあれば良いのです。それは信念を捨てた状態に近いです。
 その時は、未来からのミームが降ってくる可能性があるのです。まだ起こっていないような事の記憶が降ってくるのです。
 これを考えると、ミームは「模倣」と言い切れなくなるのです。
 アムロファッションやパンダメイクは逃避だと思います。
 ファッションのミームが強いのも、人の逃避傾向に付け込んだものでしょう。
 いえ、この時、ミームを主体に考えるべきでしょうか?
 インターネットを検索していたら「ミームとしての貨幣」というページがありました。伝達するものは、何だってミーム化できるわけです。
 しかし「未来からのミーム」を伝達できますか?

原型との関連

 ユングの「原型」は因果律を無視しているところがすごいと思います。因果律とは、原因と結果の関係です。
 ミーム論は、因果律に基づいています。誰かが発信して、それか伝わり、誰かが受信してミーム化するわけです。この因果律が破れたことの一つが、ユングの言う共時性です。
 果たして共時性におけるミームは、どちらが先だったのでしょうか?どちらもどちらのことを知らずに発信しているのです。
 ユングは、念力で物を動かすのはエネルギーではないと言っています(なのに多くの気功師はエネルギーを送ろうとしますが・・)。
 あれは原型に対して指示をしているだけだと言うのです。エネルギーゼロの世界なのです。指示とは言え、テレビラジオのような発信、受信ではないのです。
 その世界との関連を、ミームをヒントに考えてみたくなったのです。
 なぜなら、ハワイ紀行以来、原型は前進していないからです。
 でも、ひょっとすると超常現象のキーが原型にあるのではないかと思います。
 小子化や同性愛の問題は、原型からもアクセス出来るかも知れません。

空間的自己

 ミームの構成する侵略された自己は、偽りだと書いてありました。私はこれを「空間的自己」と名付けています。
 時間系に飛び込めば全て解決することは、『不思議の科学3』の世界です。
 あれはあれでパーフェクトです。道教は一貫して時間系でした。
 しかし、ブラックモアさんの途中までは空間系でした。理屈でものを考える、まさに科学者タイプでした。その人が「私はだあれ」の章で何を書くかが気になりました。
 私は一言・・「ミームはミームで解決して欲しかった・・」です。
 私は今、空間的自己にとても興味があります。いくら時間系に生きろと言われても、ものを考えたりしている時は「美味しいコーヒー」どころではないからです。
 左手でコーヒーのカップを手探りで探し、ミルクと砂糖を間違えて入れるくらいです。美味しいコーヒーに悪いです。
 会社にいるときは瞬間ではなく、未来を考えている時が多いです。これらは人間が三次元で生きる以上、しようがないことです。
 だからこそ、ミームはミームで勝負して欲しかったのです。
 空間的自己・・ここには「私」という感覚があります。それが幻と言われようとも・・。

ミーム戦略に乗らない道教

 プリント物は一切無視し、弟子から弟子の伝達を主とした道教は、ミームを無視、あるいは否定したと言えないでしょうか?
 その思想をブラックモアさんは最後に使っているとは皮肉です。
 ミームに乗ることは果たして正解なのでしょうか?
 本もあまりヒットしすぎると飽きられて、次が売れなくなります。流行もそうでしょう。
 ほどほどに・・が、一番ミームにとっては良いのです。
 しかし、時間の観念がミームにはありません。何故かと言うと、戦略無しなのです。
 ミームが最良の方法を選択したかは、ミーム自身すら予想できません。
 ところ遺伝子は違うのではないでしょうか・・。遺伝子は確実なヒットを狙います。
 ミームに乗らない戦略は、果たしてミームの仕業なのでしょうか?
 それは人間の意志のような気がします。そしてそれは人間の空間的な自己が決定した事なのです。
 私がミームから引けない理由は、例えば種族保存とは直接関係ない「女装」とかが説明できてしまう点です。しかもシンプル・・
 私はミームに侵されていても何でもありません。もともと人間の自由なんてほんの少ししか無いのですから・・
 しかし、ミームというシステムの目的が不明なのです。まさに「意味ないじゃん・・」
 けどミームは空間系です。意味無しでは済まされません。

書き込み期間:2000/12/29〜2001/01/15