テーマ:「六爻占術2002.06」
書き込み期間:2002/06/01〜2002/06/30
要旨:
「運命は決まっている」と言うと、抵抗を示す人が大変多いです。
しかし私は運命が決まっていたとしても一向に構わないのです。それよりも時空の仕組みを知りたいです。
運命を変えると言いますが、それも運命が決まっているということが前提になります。未来を知ることが出来なければ、未来を変えることも出来ません。
運命が決まっていることの根拠は、六爻占術が極めて高い的中率で当たるという事実もその一つですが、もう一つは、この宇宙に物理方程式が存在するように、時間上にも方程式が存在し、運命もその方程式によって計算されていると考えるからです。
それでも、ではなぜこの時空には方程式が存在するのか・・という疑問が残ります。
しかし、科学者は方程式を発見して科学的に証明できたらそこで終わります。
「上の世界ではエネルギーが多くなくなればなるほどスピードが落ち、逆にエネルギーを少なくすればするほどスピードは上がり、エネルギーがゼロになったとき、無限大になる」という佐佐木氏の説から考えれば、意志や願望を強く持つよりも、逆に運命を受け入れるほど自由度が上がると言えるのではないかと思います。
自分を変えたり未来を変えたりすることが本当の自由ではないと思います。それなのに変えることにこだわる人が多いです。
道教の老子は「無為」を説きました。チベットの高僧は「空とは変化に身を任せることである」と説きました。どちらも自分でコントロールすることの逆を言っています。
自由意志とは何でしょうか。自由意志は自分のものでしょうか。
私たちは常に快楽の方向を選択します。その逆の嫌なことは絶対に選択しません。
しかもその「快」「不快」の基準を決めているのは「私」ではないのです。この基準は年齢を重ねてもほとんど変わることはありません。
この観点からも、「運命は決まっている」ということが見えてくるのではないでしょうか。
自由意志は法則を超えているでしょうか。超えているように思っている人は多いですが、そう考えるのはかなりエゴ的であると言えます。自分がこの世界の主人公だと思うようなものだからです。
もし自由意志が時空の法則を超えて自由であるのだとしたら運命を変えることもできますが、実は自由意志すらも法則に内包されているとすれば、想いさえも折り込み済みで、運命を変えることは難しいと思います。
目次
○六爻占術で当てる最大のノウハウ
○「宝くじ」と「シュレディンガーの猫」
○六爻占術と死
○運がゼロ
○運や意識
○時間と空間
○運命が決まっている・・ということのドキドキ感
○母の腸閉塞
○トラさんのテキスト第二巻より
○風水
○トラさんと一般の人との違い
○対価―六爻占術の場合
○宗教の先人達
○科学者の不思議
○自由意志と快
○変化と相合と冲
○りんごの会の私の報告
○運命と方程式
○知りたいという欲求
○工学と理学
○自由意志は超法的か
○財運の法則
○友達に当たった宝くじ
○ループ
○ブラックボックスからオープンボックス化へ
六爻占術で当てる最大のノウハウ

 コインとお盆を各部屋に置いているのです。ただそれだけです。
 トラさんは天気を当てるとき、天気予報を見た後に振ったというのが第2冊のテキストにありました。私も同様です。
 私は場を積極的に作り出さなくなっています。
 その「場」に入ったとき、すぐに振れるようにしておきます。目はメモして後からソフトに入れます。
 これからワールドカップの予想をやる人が多くなると思いますが、ニュース等で話題が向こうからきている時が良いかと思います。
 そのためには手の届く所にコインを置く必要があります。だから赤いりんごのケースが全部屋にあります。
 これが、六爻占術がよく当たるようになった最大のノウハウです。

「宝くじ」と「シュレディンガーの猫」

 今、トラさんから毎日くる宿題は「宝くじ」です。
 で・・すごい気づきに出会いそうです。
 宝くじは、「シュレディンガーの猫」なのかも知れません・・
 この問題は宝くじだけではありません。全てに言えそうです。
 原因と結果は結びついていると思っていました。しかし、そうではなさそうです。
 先入観でガチガチの私は、今まで気づきませんでした。
 りんごの会の3次会では、貧乏人はどうしてなかなか貧乏から抜け出せないか・・というテーマが出ました。
 それを解くカギとして、貧乏人は貧乏にマッチングを取っているという話が出ました。
 それは正しいかも知れません。
 しかしマッチングを取る先が問題ではないかというのが今回の気づきです。
 猫を箱に入れる「前」にマッチングするか、箱の蓋を開けた「後」にマッチングするかという問題です。
 私は実験を始めようと思います。株、為替のあとは宝くじです。

 私たちを取り巻いている「運」の波動・・
 そこに一つの方程式があろうなどとは思ってもいなかったです。
 私たちは「運」というものに支配されています。
 運が良ければ儲かるし、運が悪ければ損をする・・。
 『運を味方に付ける方法』という本を前回の中国には持って行きました。
 ところが今日の気づきによれば、運は味方にも敵にもなりません。
 運は運の波動を持っていて、私たちがそれにマッチングすればいいのです。
 貧乏人が貧乏から抜け出せないのは、マッチングの仕方に問題があったのです。
 運の波動はコインで出ます。自分の波動もコインで出ます。
 しかし、問題がありそうなのです。シュレディンガーの猫の問題です。
 結果は「当たるか当たらないか」で出ます。しかし蓋を開けるまでは確率の問題です。
 宝くじを買う場合、猫は私たち自身です。私たちが確率論という箱に入るのです。
 宝くじの発表日、すなわち箱を開けた日に生還できれば「当たった」ことになります。

 では、どうすれば生還できるでしょうか・・
 コインを振れば墓だの、月破だの、空亡だのが出ます。
 私は買うときの財運のみを見ていました。
 ニッセンほどの卦が出たら宝くじを買おうと思っていましたが、なかなか出ませんでした。
 しかし今日気づきました。買う日のみではダメなのです。
 私たちは箱に入る猫なのです。蓋が開いたときに生還しなければなりません。
 「運」は波動方程式でした。
 さて、生還するためには・・
 私の仮説はまだ言いません。だってまだ結果が出ていないから・・。
 仙台での話は、私に大きなヒントをくれました。シュレディンガーの猫・・。
 株の銘柄を乗り換えるように、私たちは運を乗り換えることが出来るかも知れません。
 私にはこの世界そのものが「猫」に思えてきたのです。

 以下は、このHPを見ている人が書き込んでくれた、シュレディンガーの猫の解説です。
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<シュレーディンガーの猫>
 まず、鉄の箱の中に放射性物質、放射線の検出装置、検出装置に連動した毒ガス発生装置、生きた猫を入れます。
 放射性物質が原子核崩壊を起こすと放射線を出し、放射線検出装置に検出されます。
 そして、検出装置は毒ガス発生装置に信号を送り、毒ガスが発生します。
 放射性物質が崩壊して放射線を出せば毒ガスが発生し、哀れ猫は死んでしまいます。
 放射性物質が崩壊しなければ、猫は生きたままです。
 さて、箱の蓋を閉じてしまうと中の様子は知ることは出来ません。
 1時間経ったとき中の猫は生きているのか?死んでいるのか?
 これがこの実験の内容です。実験といっても実際に行われたものではなく思考実験です。
 蓋を開ければ当然猫の生死はすぐにわかります。
 問題なのは蓋を開ける前の猫の状態をどう考えるかです。
 前提として量子論では観測前の状態を「重ね合わせ」と考えます。
 この実験の場合、放射性物質が1時間以内に崩壊する確立を50%とすると、量子論では観測前の放射性物質の状態について「原子核崩壊を起こした状態」と「原子核崩壊を起こしていない状態」が半分ずつ重ね合わさっていると考えます。
 観測すれば原子核崩壊の有無は判明しますが、観測前の状態は「重ね合わせになっている」というのが量子論の考え方です。
 そして、この実験のみそはミクロで起こる原子核崩壊をマクロで起こる猫の生死に結びつけたところで、放射性物質の状態が重ね合わせになっている以上、量子論に基づけば猫の状態も重ね合わせになっていなければならないのです。
 間違えていけないのは、箱を開けるまで私たちは猫の生死は確率的にしか推定できないということではないのです。
 量子論では観測前の猫の生死を「実は一方に決まっているが、私たち(箱の外の観測者)はそれを知らない」のではなく、「生と死の状態が重ね合わせになっていて、どちらか一方に決まっているわけではない」と考えます。
 そして、観測したとたん放射性物質の原子核崩壊の有無が決まり、急に猫の生死も決まります。
 量子論を信じるならこんなありえない話も受け入れなければなりません。
 このパラドックスに対し、どんな物理学者も納得できる説明を出来ていません。
 シュレーディンガーも量子論を受け入れられずにこのパラドックスを考えました。アインシュタインも最後まで量子論を受け入れませんでした。
 しかし、最近の科学の進歩は量子論に負うところが多く、いろいろな実験結果も量子論を肯定する結果ばかりで、否定するような結果は皆無であるそうです。

(参考:「量子論」を楽しむ本 監修 佐藤勝彦)

六爻占術と死

 さて、六爻占術の病気に関する事例を見ると、死ぬのか死なないのかは、なかなか卦には出てきません。
 重い病気は卦に出ていますが、何も死ななくても良いのではないかと思うときがあります。
 だから卦を判断する際に、死んでいる確率××%と答えたくなります。
 でも実際にはゼロかイチかの世界です。
 これはシュレディンガーの猫の思考実験そのものだと思います。
 つまり六爻占術では死を定義することが難しい様子なのです。
 だから「今、雨が降ってきたからお子さんは助かるでしょう」という状態が起こるのかも知れません。

 勝負を占うときも同様なのではないでしょうか・・
 サッカーの勝敗を多くの人が占っていますが、当たる確率のほうが高いですね。
 しかしみなさん、世爻と応爻の強さを比較する上では、非常に悩んでいます。
 決勝トーナメントに入れば、引き分けはないのだから・・つまりイチかゼロの状態なのですから、もっとはっきりした卦が出ても良さそうなのに、卦は大抵微妙です。
 つまり勝負事ですら、シュレディンガーの猫状態ではないでしょうか・・

運がゼロ

 運命を変えるとか、自由を得たいとかいう願望・・
 はっきり言って、私にはどちらでも良いのです。
 私はそんなものには固執しているのではないのです。
 私は単に知りたいのです。どちらなのかを・・
 昔、ある占い師から言われました。
 「あなたは44歳で全ての運を無くす。その時からあなたの運はゼロになる。」
 私は44歳の誕生日に家族を集めました。
 指示書も書いて、自分が死んでからどうやって食べていけば良いかを告げました。
 家族は泣きました(まだ死んでもいないのに・・(笑))。
 本格的に不思議な調査にのめり込むのも44歳でした。
 私もその年に死ぬのだと思い・・でも何故か吹っ切れました。
 運が無いものは、任せても任せなくても、ゼロはゼロです。
 私は自分の運命など、どうでも良いのです。決まっていようと、いまいとも・・
 知りたいのは、「奴」の手中です。
 みなさんが運命が決まっているとかいないとかに翻弄されているのが、なぜかとても新鮮です(失礼)。
 知りたいのは真実、あるいは事実です。
 対処は、それからでも良いのではないでしょうか・・

 「未来を知ることが出来ないで、変えることは出来ないでしょう?」
 トラさんが言った一言です。確かにその通りです。
 私たちは未来を知らないから、変えるとか、変えないとかの領域に住んでいないのです。
 未来が分かって初めて「変える」ということが出てきます。
 その未来すら自由意志で作り出しているかも知れないのにです・・。
 何を言いたいかと言うと、コインの威力です。
 コインは、自由意志すら「表現」することが出来るかも知れないのです。
 でも、それを私は「運命は決まっている」という風に表現しています。

 神坂さんからは毎週、手紙やファックスが来ます。トラさんからは毎日宿題が来ます。
 私は誰よりも先にテキスト第2巻を読んでいます。
 偶然に面白い本を手にします。
 コインを振る卦には、誰も気が付かない上昇銘柄が出ます。そういう銘柄だけを買います。
 運を限りなくゼロにして宝くじを当てようとしています。
 私は今、最先端を走っています。バイクでも、いつも先頭に出ます。先頭は楽しいです。
 夢なんて、必要ありません。私はこの状態が全てです。
 ハンドルは離してもOKです。離せば「奴」が握ってくれます。
 夢があれば「私」が握ってしまいます。
 私は「奴」が好きなのです。だから「奴」にハンドルを握って欲しいのです。
 それに、「奴」に握ってもらわないと、「奴」の目指すところが分かりません・・

運や意識

 (私の仮説が正しいかどうかは別として)私たちの運命は決まっています。
 ですから運が良いというのは、起こった出来事を自分にとって良かったか悪かったかを評価しているだけです。
 私は父の借金でその時点の財産を全て失いましたが、その代わり「自由」を得ました。
 (自由に見えるだけですがその議論は置いておきます)。
 バイクの事故で手を折りましたが、ドクターフリッツの手術を受けられました。
 運が良かったか悪かったかは分かりません。
 最近、株で億万長者になりましたが、たぶん嫉妬を買っているはずです。
 運は起こったことの自己評価にすぎません。
 意識も同様です。起こったできごとのつじつま合わせをしているだけです。
 意志は言い訳、運も言い訳です。

 私は毎日、毎日、考え続けました。運命について・・です。
 私たちの運命は決まっているのかいないのか・・
 そして、ほぼ「運命は決まっている」という仮説に達しました。
 「運命は決まっている」という前提に立つ人は、意外に珍しいのではないでしょうか・・
 私はこれを言う人を知りません。
 私にとっては、革命的な仮説です。ずっと「自由」を求めてきたからです。しかし・・
 運命は決まっている・・実は、このフレーズにワクワクした私がいたのです。
 いや、そうじゃない・・という人は、よほどハンドルを握りたいのでしょうか・・。
 そりゃあ、そうですよね・・自由が欲しいですから・・
 しかし、運命が決まっていることには抵抗感がある様子の人が多いです。
 運命を変えたという話題の書き込みもありました。
 さらに、運命を決めたのは、生まれる前だという意見もあります。これは英語で言えば「バースビジョン」です。
 生まれる前に「選択」したのだと・・そして、大半の人は、そのビジョンを忘れたのだと・・
 でも六爻占術によれば、前世も来世も出すことができます。
 さらに生まれ変わりの村の情報の中には、「生まれる前の選択」に関する情報はありません。

 なぜ「運命は決まっている」と思ったのか・・その理由は二つあります。
 まず一つは、六爻占術が当たりすぎるのです。トラさんは95%と言っています。
「決まって」いなければ当たりようがありません。
 もう一つの理由は、物理方程式の概念です。
 私は高校の時、物理の方程式が宇宙の隅々まで浸透しているのを知って、初めて「神」を想いました。
 私が今勉強している方程式は、この狭い東京地域だけに通用するのではないと思ったときです。それは空間上の広がりでした。
 だとすれば、時間上の広がりがあってもおかしくはないと思ったのです。

時間と空間

 以下は、りんごの会での私のレジュメです。

<六爻占術の仕組み>
・運動方程式のように、運命にも方程式がある。
・ロケット噴射に例えれば、私たちは時空を飛んでいる
・コースを決めるのは「私たち」ではない
・自由意志は軌道に折り込まれている
・軌道を変えるには内部の変化を持ってしては無理。内部の変化も折り込まれているから。

 ロケットを無重力空間で飛ばすと、初動でどこまでも飛んでいきます。
 パイオニア××号は、太陽系を離れて、どんどん探査を続けますが、燃料は不要です。
 でも時々「曲がり」ます。空間が曲がっているからです。
 太陽に隠れて見えないはずの星が観察されるのは、日食のときに有名な現象です。太陽の質量で、光もねじ曲がるからです。
 物理方程式が空間に満ちているから、ロケットはどこまでも飛びます。
 さて、時間上にも方程式があったらどうでしょうか・・それは運命を司る方程式です。
 空間にあれば、時間にもあって不思議はありません。
 私たちは時間上の方程式上に乗って、動いています。つまり、運命に乗っています。
 それは全てが「計算」されねばなりません。
 空間上の方程式の中に「自由」は許されません。
 この地域だけ物が落ちるスピードを変えることができません。
 ある物体だけ落ちるスピードを変えることが出来ません。
 それはガリレオがピサの斜塔で実験済みです。
 そこに私たちの「自由」はありません。
 方程式を利用出来ても、方程式は変えることができません。

 空間を飛ぶロケットは、噴射をすれば方向を変えることができます。
 私たちが「意志」を持って行動することはそれに該当すると思われていました。
 しかし私の感触では、噴射しても、作用と反作用が起こらないのが時間の中なのです。
 私たちのロケットは、自分自身の噴射では軌道が変わらないのです。
 しかし、自分で軌道が変わるという前提でも考えてみました。
 ロケットの軌道を変えるには、噴射をする必要があります。
 噴射装置が無ければどうでしょうか。
 宇宙空間にただよっている状態だとすれば、自分が持っている物を投げれば軌道が変わります。
 つまり自分を切り捨てて、軽くなることによってしか、変わりません。
 ましてや何かを身につけようという生き方をしていれば、自分の質量が重くなる一方で、どんどん変わりにくくなります。
 佐佐木さんによると、上の世界ではエネルギーが多くなくなればなるほどスピードが落ちます。逆にエネルギーを少なくすればするほどスピードは上がります。
 そして、エネルギーがゼロになったとき、無限大になります。
「空」を悟ると生まれ変わらなくなるのは、自由度が無限大になるからかも知れません。
 つまり意志を持ったり願望を持ったりすることはエネルギーを増す方向にある様子です。
 運命とは、ワダチのことでしょう。
 エネルギーが多いときは、ワダチの側もガードを堅くして、ワダチを狭くしてきそうです。
 しかしエネルギーを少なくすれば、ワダチも緩慢になり、ワダチの幅が広がるのではないでしょうか・・。
 ワダチの幅が無限大に広がったら、そこにはワダチが無いようなものです。
 つまり運命を受け入れれば受け入れるほどワダチの幅は広くなり、自由度が上がるのではないでしょうか。
 ワダチの幅を、縦時間と言い換えることも出来そうです。

運命が決まっている・・ということのドキドキ感

 株で儲けたときも、六爻占術で占わなかったら、ドキドキ感は少なかったと思います。
 映画などで未来の情報を入手した人間が大儲けをする話などがあります。
 『バック・トウ・ザ・フューチャー』然り・・『オーロラの彼方へ』然り・・
 科学者が真理を追究していく過程で、「まさか」ということが起こったとき、「あってはいけない」ことが起こったとき、ドキドキしないでしょうか・・
 私は運命をリサーチする中で、初めて体験した出来事なのです。しかも欲が絡んでいます(笑)。
 私はいつもクールにドキドキして、生きています(笑)。
 運命が決まっているということを感じたときもドキドキしました。
 運命が決まっていないなら、「奴」は、たいしたことないと思っていました。
 だって、普通じゃん・・(笑)
 運命が決まっているなら、「奴」は、すごい奴だと思いました。
 再度書きますが、私は運命が決まっていても、いいのです。
 運命が決まっていることを承認しても、私の「自由」は揺らぎませんでした。
 本当の自由とは、自分を変えたり、未来を変えたりする世界には、無いのです。
 なぜそんなに変えたいのですか?

母の腸閉塞

 母が腸閉塞で入院しました。コインを振りました。
[症状]
 巽宮なので腸の関係・・
 父母が三爻なので腹痛、下痢、空気の流れが良くない。
 妻財が二爻なので肛門の病気、大便の病気、食事による病気。
 以上は第二巻の情報ですが、ピッタリです。
[吉凶]
 用神(父母)は日より生じられていますが、原神は月日とはバランス。
 忌神は空亡、仇神は発動していますが、回頭剋。
 六合卦で慢性の病気は吉。
 なんとか、大丈夫でしょう・・
 取りあえず、手術は不要だとコインに出ています。
 用神には、痛いという意味と、食べ物という意味の青竜が臨んでいます。
 ピッタシカンカンの卦です。
 …その後病院から連絡があり、手術はしないで済みそうです。
 母は姉の家に二世帯住宅で住んでいます。私が母に会ったのは、お正月以来です。
 入院した日はコインだけ振って、私は病院に行きませんでした(笑)。

 以前、山西省で母の体の状態を占いました。
 月日からも生じられず、かといって剋されもせず、「細々とした卦」でした。
 トラさんはそれを見て言いました。
 「高齢の方は、この様な卦の方が良いのです。生じられすぎると返って危険です。」
 逆に私の卦はいつも「細々」ではなく、「図太い」卦が多いです(笑)。

トラさんのテキスト第二巻より

一生運占い
 われわれの人間はこの世に生を受けてから運命があるでしょうか。もしあれば運命が決められているのか、それとも運命が決まっていなくて変えることができるのでしょうか。これはほとんどの人が関心を寄せている話題です。もし運命の本質を知らなければ、運命を知ることはもちろん、変えることも不可能です。
 男女縁占いの章に私はもう指摘しましたが、人間は運命を持っています。

 中国で一生の運を占うにはたくさんの占術があります。私の知っている限りでは「四柱推命」(命理、子平法、八字ともいう)、「鉄板神数」(鉄算盤とも)、「邵子神数」、「紫微斗数」、「星相学」、「南極神数」、「北極神数」、「河落理数」などがあり、豊かな運命学の資料となっています。これらの占術はそれぞれ独自の推断方法を持っていますが、目的は一つで人の運命を解明するためです。

風水

 テキスト第二巻に出てくる話です。
 ある人が運を良くしようとして、風水師に頼みました。
 風水師はある置物(寅の置物)を置くように指示しました。
 しかし・・年月が経ち、不幸が起こるようになりました。
 トラさんの噂を聞いて、訪ねてきました。その振った卦には・・
 私が見ても分かるのです。その置物が原因だということが・・
 その運命は、決まっていたのでしょうか・・。
 寅の置物は、おそらく別の年に置けば吉だったと思います。
 風水は、空間的な問題だけとらえていると、とても危険です。
 時間的に見なければなりません。

トラさんと一般の人との違い

 トラさんは、運命を知ろうとするところから入ります。
 一般の人は、運命を自分の方向にするところから入ります。
 私は思いました。運命の議論ほど「願望」が入ってしまうものは無い・・と。
 それとも、真実を知るのが恐いからですか?
 しかしトラさんも、最初は運命があるなどとは思っていなかったようです。
 実は私もそうです。未来はフリーだと思っていました。
 半年でひっくり返ったのです。
 トラさんは古文書を集めました。中には一般の人が持っているものもありました。
 それは世界に一つしか無い物もありました。そういう時、相手の人はふっかけたと言います。
 しかしトラさんは、買いました。それしか、入手する方法が無かったからです。
 それでも購入後によく読めば、既に入手した情報と同じだったりするケースもありました。
 トラさんのすごいところは、事例を全て記録している点です。
 みなさんもコインを振って占っていると思いますが、当たったとか当たらなかったとかの結果のみを重要視して、原因と結果をデータとして蓄積している人は少ないのではないでしょうか。
 ガリレオやケプラーは観測をして、データを集めました。
 確か木星の月が逆行することから地動説を導き出したと思います。
 今やっている問題は、地動説くらいのインパクトのある事項だと思います。

対価―六爻占術の場合

 中国の場合、テキスト一巻は本屋さんで買えました。
 しかし第二巻以降は、トラさんの弟子になるしかありません。
 対価は年収分です。
 しかも、トラさんがコインを振り、良い卦が出ないと弟子になれません。
 私は六爻占術を勉強したいと思いました。
 しかし私は中国人ではないので、トラさんの弟子になり、身近に教えてもらうことはできません。
 私にとって、六爻占術の価格は「無限大」でした。
 しかし一見、対価を払わずに入手しているようにも見えます。
 株の場合、一社(つまり一銘柄)が発行する株数は一定です。
 価値が上がろうと予測されれば欲しい人が増えて、対価(株価)が上がります。
 オークション(市場)で決まるからです。
 六爻占術のテキストが2冊しか無くて、コピーが完全に禁止されていたら、価格はどこまで上がるでしょうか・・
 私が一冊は持ちますから、残りの一冊がオークションにかけられます。
 私はトラさんから、たった一冊を手に入れたと同じなのです。
 つまりトラさんは、私にそれを渡す必要など、まったく無かったのですから・・
 イチかゼロかの世界です。
 それは、6年間という期間が作り出した価値によって保証されたから、出来たのです。
 みなさんの誰にもそのルートはありません。
 六爻占術のテキストは量産されました。10万円で買うことができます。
 誰でもが買うことが出来ます。それはまるで権利のようになっています。
 買えるか、買えないか・・という議論はありません。
 私の権利・・所有権と、使用権
 買った人の権利・・使用権
 ビルで言えば、私は所有者、買った人はテナントです。
 「買った」と言っても、権利の所有者ではありません。
 昔、「持てる者と持たざる者」という言葉がはやりました。何を持つかというと、資本や土地です。
 資本や土地を持っている者と持っていない者の格差がどんどん広がった時期があったのです。
 資本や土地を得るのは容易ではありません。生まれた家にも関係します。
 しかし今の私は、何を持つかというと、六爻占術だと思います。
 これを知るか知らないかで、格差が来る世の中になります。
 資本や土地はハードウエアでした。六爻占術は、ソフトウエアです。
 ソフトウエアに高い対価を払うことには、慣れていません。
 本は一万円以下が常識です。PCソフトも通常、一般の人が使うものは3万円以下です。
 ではなぜ価格を10万円に付けたのか・・それはコインが自分で決めました。
 コインはなぜ自分をそんなに高くしたのか・・
 たぶん、世の中に多く普及する気はないのです。いえ、普及出来ないのです。
 もっと言えば、普及されては困るのではないかと思います。
 六爻占術は、利権なのです。利権とは、利益を得る権利です。
 私の不思議グッズの中では異端児です。他に利権グッズはありませんから・・
 持てる者と持たざる者・・それは未来を知ることの道具を持てる者になったのです。
 未来を知れる者は、資本を持つものなど、敵ではありません。
 いくら資本があっても、ニッセンの上がる日を知ることは難しいです。
 未来を知れるソフトウエアの価値は、どれほどでしょうか?
 もしも相手(森田)の側ではなく、自分の側で価値をつけるとすれば、幾らにしますか?
 (ちなみにトラさんの弟子になるには年収分です。)
 私は「なぜ?」と思い続けていることがあります。
 それは空海を代表とする日本の高僧達が勉学にいそしんだ寺が、廃れてしまっていることです。
 仏教はソフトウエアでした。その対価はいかほどでしょうか・・
 人を救うのが目的なら、タダでも良いのでしょうか?
 空海は誰に教わったのか・・その名前を私は知りません。
 五台山には空海よりもすごい日本の僧がいました。
 彼は中国語はもちろん、サンスクリット語も出来ました。
 だから天竺から運ばれた資料を、彼はスラスラと読むことも出来ました。
 修行も真面目にやり、大きな悟りを得たと言います。
 しかしそのまま日本に帰すと、全てが持って行かれると思われ、彼は暗殺されました。
 そこでの対価は、無限大だったかも知れません。
 ところで、私はパートナーを裏切らないタイプです。
 会社設立直後からいる共同経営者は、大学時代のクラブの先輩です。
 パートナーとはうまくいかないという人が多い中で、20年にも渡り、仲良くやっています。中国の人とも同様です。
 ある時若山さんが言いました。「森田さんは偉い。中国の人に日本人としての報酬を与えている」・・と。それは重要な要素らしいです。
 日本人の中には、現地の国の通貨の価値と、物価から比較して、現地の側で「妥当」な価格を与える人が多いです。
 しかし私は違います。現地の「価値」で与えれば、対等ではありません。
 価値は、向こう側から見た価値ではなく、私から見た価値だからです。
 その価値の基点の置き方で、パートナーとの信頼関係が決まると思います。

宗教の先人達

 宗教の先人達の中に「運命は決まっていないから、頑張って生きようね」と言った人がいるでしょうか?いたら、教えてほしいです。
 道教の老子が言った言葉は「無為」でした。
 無為とは「為」が無いということです。為とは意識、目的・・
 為を持ったとたんに道(タオ)から外れます・・。
 不思議の科学3は、無為についての概念を述べました。
 「楽になった」というリアクションを沢山受けました。
 この「無為」の中には、意識を持って運命を切り開いていくという考え方は無いどころか、そういうものを否定しています。
 老子は分かっていたのではないでしょうか・・運命が決まっていることを・・
 本当に無為を理解していれば、運命に何の抵抗も無いはずです。

 過去のチベットでの書き込みを再掲します。
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 私は「空について教えて下さい」と言いました。
 高僧は答えます。「空を誤解している人は大変に多いです。空は何も無いことではありません。空を一言で言おうとすれば絶え間ない変化ということです。物でも人間でも一定ということは無いのです。常に変化をし続けています。だから実体として掴まえようとしたとたんにそれは変化します。実体として捉える事は不可能なのです。では変化する枠としてとらえればいいではないかと言う人がいますが、枠を設定しても変化はそれを飛び越えるかも知れません。過去がこうだからと言ってそれで未来を考えることはできません。今を生きるというのも違います。意識して今を生きることなどできませんから・・。絶え間ない変化にどれだけ身を任すことができるかがポイントです。」
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 さて、ここで言う「変化に身を任す」というのは、どういうことでしょうか・・
 変化を作り出せば、それは運命を変えることでしょう。
 変化に身を任すとは、運命に身を任すと言い換えても良いのではないでしょうか・・
 この高僧の話は、多くの人にウケました。
 しかし変化に身を任す「自分」が別途にいて、「そうでないときもある」と言ってはいませんでしたか?
 変化に身を任すことと、運命を肯定することは、決して矛盾することではないと思います。
 なのに・・・なぜこれほどの抵抗があるのでしょうか・・
 道教もチベット密教も、「自分主導」という点を戒めてはいないでしょうか・・
 なぜこの心境に至れないのでしょうか
 それは、自分を成長させようとしているからではないでしょうか・・
 変化に乗れる自分に成長させているのです。
 だから、成長しようとしている人にウケたのです。

 私が「運命は決まっている」という言葉を聞いたのは、チベットでした。
 ランクルの後部座席に乗っていたのは、トラさんと私でした。
 六爻占術の話になり、トラさんは言いました。「運命は決まっています」
 6000メートルにはルンが舞っていました。
 その言葉は私を通り過ぎました。私が運命を信じるようになった第一歩でした。
 ルンの流れは、運命の鉛の流れと矛盾することはありませんでした。

科学者の不思議

 科学者は方程式を出すことで納得します。
 この三次元空間の物事の成り立ちが偶然ではなく、方程式に則っていることで納得します。
 偶然でない理由を見つけて「ほら、科学で証明できたでしょう?」と言います。
 しかし私は思います。
 なぜ方程式に則ってこの三次元は運行しなければならないのか・・
 偶然であってはいけないのか・・
 科学者の考え方は次の通りです。
 偶然に起こること・・科学の範疇ではなく、いずれ偶然でないことが見つかるはずである。
 偶然ではないこと・・科学的である。
 では、未来(時間)については、なぜその考え方を適用しないのでしょうか?
 全く逆の考えを適用するのでしょうか・・?
 科学者は方程式を見つけて「終わり」ます。私はそこから始まると思っています。
 なぜなら、その方程式が存在するのは、「何故か」を問いたいからです。
 科学者の多くは言います。「その方程式が出来た理由?偶然でしょう?」
 偶然か必然かの境は、科学か宗教の境でもあります。
 必然・・すなわち宗教の世界・・でも私は、科学の領域から迫ってみたい・・
 科学から迫るための条件は、世界はこうあってほしい・・という願望を捨てることです。
 それはむしろ、宗教の世界です。
 この時点で「奴」とかを出すと、科学的ではないと思います。
 「奴」は全ての疑問を吸収できるからです。宗教はみんなそうしています。

自由意志と快


 何人もの人がサッカーワールドカップの勝敗予想を載せてくれました。
 7割以上の確率で当たっていたと思います。
 日本戦も当たっていました(思い入れが入りやすいのに・・)。
 生き甲斐論に走る人は3割に自由がある言い、時空を研究するトラさんは、3割は占いミス(判断ミス)だと言って、卦を見直して原因を追求します。
 サッカーは瞬間のスポーツです。敵の一瞬のスキをついてゴールを決めます。
 しかしその一瞬すら、あらかじめ決まっているのです。そう思いませんか?
 私たちがどう生きるかという問題は、置いといて・・です。
 「一瞬のスキをついてゴールに入れる」ことについて、どんな解釈をするでしょうか。
A「選手は何かにあやつられるようにゴールさせられた。」
B「選手は自由意志でゴールするように決まっていた。」
C「元々運命は決まっていない。だって22人の選手の動きが予定されているわけはない。」
 私の考えはBです。Bだとすれば・・自由意志すら、「私のもの」ではないのです。
 自由意志は、なぜ自分のものでは無いのでしょうか?
 この単語は自由と意志に分解できますが、自由でない意志があるのでしょうか・・
 あるから、わざわざこの単語があるのですよね・・
 自由とは、超自然的という意味でしょう?私たちの中に、超自然的という部分がありますか?

 私たちは、イヤなことを選択するでしょうか?絶対にしませんよね・・
 イヤなことを選択した経験のある人がいたら、教えて下さい。
 人は広い意味で、快楽の方向しか、選択しない・・
 言い換えれば、それしか選択できない。不快なものを選択することは、0%・・
 イヤなことを選択できないで、何が自由ですか・・
 しかし、人は言い訳が上手です。「あなたのために、苦労している」・・と。
 でも、それ以外のことを選択するのが、イヤだっただけです。
 自由意志が自分のものではない理由が見えてきませんか?
 「快」か「不快」か・・これは「私」が「決めて」いるわけではないのです。
 しかし選択の基準は、「快」か「不快」です。
 「イヤなことは絶対に選択しない」これは方程式とさえ言えます。
 バシャールは言いました。「ワクワク生きなさい。」
 人類の100%は、そうやって生きています。
 言われるまでもないのです。だってそれが方程式ですから・・

 選択の基準としての「快楽」は、残念ながら「私」が起源ではありません。
 サッカーワールドカップの選手も「快楽」に向かって行動しました。
 「私」は、快楽を選択するマシーンなのです。
 もう一度言います。不快を選択できれば、あなたは自由です。
 自分を変えることで快、不快感をリセットすれば自由を得られるか・・
 否・・新しい基準に則って、快の方向を選ぶだけです。
 だから選択の幅は、極めて狭いのです。
 あなたの「自由意志」は「快はどちらか」を選んでいるに過ぎません。
 つまり360度広がった可能性の中から、どれが最も「快」かを選んでいるわけです。
 その視点からすれば、「不快」なものも選択肢の中に入っているわけです。
 「私」とは、選択肢を選ぶ時点ではないのです。
 選択肢を選ぶ時点では、やっていることは上皿天秤にかけているだけです。
 やっていることは、センサーです。
 何を計っているのでしょうか・・どちらが「快」かを、計っているのです。
 計っているのは、「私」でしょうか・・計っているのが「私」なら、問題はないのです。
 さて、ここでミームに登場してもらいます
 ミームは言います。「私の情報のほうが快だよ〜」
 そうなのです。ミームは、はびこるだけではダメなのです。
 ミームは、宿主が「快」を感じる選択肢にならないといけないのです。
 ミームは遺伝子と同じように考えられ、暗黙のうちに私たちを動かそうと思われていますが、そうではないと思います。情報である以上、選択肢の一つなのです。

 どうせみんな、カッコイイことを言っても、快楽しか追求していないのです。
 だったら、もっとどぎつい快楽を追求しようではありませんか・・(笑)
 私なんか、やっている方だと思います。

変化と相合と冲

 私の変化は激しいです。
 まさか運命があるとは思ってもいませんでした。それが三枚のコインに「乗る」などとは・・
 一年前の今日、私はチベットの大地にいました。変化の中そのものでした。
 一年後、「運命は決まっている」などと言い出すとは思ってもいません。
 しかしその兆候はありました。そして、運命とチベットは私の中で矛盾していません。
 ここで問題が出てきます。自分の過去との整合性です。
 過去と整合を取ることは、「相合」と言えそうです。切り離すことは「冲」と言えそうです。
 私は外から見ると、どうでしょうか?
 私自身は相合と冲を速いテンポで螺旋運動させていると思っているのですが・・
 神坂さんからファックスが来ました。私が「運命を司る要素は循環している」と言った件についてです。
 神坂さんは言いました。「地球は自転公転を繰り返すが、同じところには二度と戻らない。」
 私が最もドキドキする部分が「変化と相合と冲」です。
 他の科学者や芸術家も同じではないでしょうか・・
 「神はさいころを振りたまわず」と言って、確率的にしか表現できない量子論を否定しようとしたアインシュタインも同じだったかも知れません。
 自身の中では「神はさいころを振っているのかも知れない」と自問自答していたと思います。
 しかし科学者が最も興奮するのはこの部分ではないかと思います。
 そしてその科学者の真の実力が発揮されるのも、この部分です。
 ぶっちゃけて言えば、新しい変化に飛び込んだとき、過去の情報にとらわれることなく、なおかつ、過去の情報を利用できるかということです。

 以下は、翌日神坂さんに送るファックスです。
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(前略)
 確かに天体は螺旋運動をしていて、恒星をも含めて全ての星は動いているので、二度と同じ場所には来ません。
 六爻占術では、年月日がそれぞれ陰陽五行を持っていて、私たちの人生に影響を与えています。
 日は自転を意味しています。月は、お月様ではなくて、地球の公転です。年は太陽の移動(公転)です。
 この中で一番影響を持つのは地球の自転で、次は地球の公転で、最後は太陽の公転です。
ですから月(公転)は西暦のカレンダーとは関係ありません。春分と秋分を基点として一年を12で割っています。
 つまり六爻占術において吉凶に影響を与えるのは、地球の天体運動なのです。
 日は自転なのですが、一週を12で割っていますので、1単位が2時間です。それは12進数です。
 月は公転で、一年を12で割っていますのでやはり12進数です。
 12というのは、円運動や螺旋運動のキーなのでしょうか・・。
 さてここまでは良いのです。
 銀河の運動が生命に影響を及ぼしているのは神坂さんの銀河運動装置で証明されています。
 不思議なのはあらゆるものは運動しているのに、ほとんどの人間の未来が「決まっている」という点です。
 天体の運動は固定的です。何年の何月何日間時何分だと言えば惑星の位置は分かります。
 それに比較して人間はどうでしょうか・・
 人間は地球の上ならどこへでも行くことが出来まして、その位置を予測することは不可能でしょう。そういう意味で人間は自由です。
 自由な人間の未来がなぜ分かるのか・・とても不思議です。

りんごの会の私の報告

 結局、運命は決まっているかいないか・・という段階で崩壊しました。
 私が長いことそこで踏み止まって、次に行かなかったのもそのためです。
 たぶん多くの人に、抵抗があるのです。
 次は「運命は決まっている」という仮定に立った展開をしないといけません。
 いえ、している段階でした。
 道教やチベット密教は、「運命は決まっている」という仮定に立っても、矛盾していないことを言っていました。
 我々は意志決定をしているのではなく、快感決定をしているのだというのが、次の私の仮説でした。
 ミームは暗動して(暗黙のうちに)我々を動かすのではなく、ミームすら快感の情報提供者の一つなのです・・と言いました。
 次にするべく話題は、運命は変えることが出来るという話題です。
 しかしこれは「運命は決まっている」という前提があってからこそ・・なのです。
 運命が決まっていないのに、「変える」ということは起こらないからです。
 決まっていないときは、「創造」と言います。
 でも「運命は決まっている」という前提を呑み込めないと、「運命を変える」ということが自由意志とごっちゃになるのです。

 「快」と「不快」が何かを選択する基準だと言いました。
 この基準は、人の人生で変わるでしょうか?
 私と知り合った女装子が、傍観者という言葉を使って自分を観察するということをやっています。
 さて、私も今までの人生を振り返ってみました。
 どうも・・何を「快」とし、何を「不快」とするかは、ほとんど変わっていないのです。
 それが変わっていないということは、私が何かを選択する基準というのは変わらないということです。
 「不快」を選択できれば話は別ですが、あらゆる人間にとって、それは不可能なのです。
 運命が決まっているという理由の一つは、この「快感決定システム」にあると思います。
 だって「自分」が決めているのではないからです。「自分」は快についての理由を探しただけです。
 これが、運命が決まっている一つの理由です。
 自由意志?・・私たちにはほど遠いでしょう?

運命と方程式

 高校の時、物理の方程式に神の存在を感じたことは前に書きました。
 それ以来、私にとって一つの疑問がつきまといました。
 「我々は何かにコントロールされているのか」・・という点です。
 それまでは世界は偶然に回っていると思っていました。
 いえ、正確に言えば、それほど「思って」いたわけではありません。そういう話題が出たとき「思った」にすぎません。ですからとても消極的な思考です。
 もっと重要だったのは生活面のほうでした。自分の背はなぜ低いのか・・とかです。
 方程式に神を感じて以来、空に向かって話しかけることが多くなりました(笑)。
 私の勉強部屋は母屋とは離れた一軒家でした。その窓を開けて星を眺めました。
 半径1キロには家がないので、星はとてもよく見えました。私は星空に訊きました。
 「神よ、もしもいるのなら、私を動かしているのでしょうか・・」
 この思いは、消極的ではありません。もう、あらゆる悩みに優先されてきました。
 私は当時、同じ高校の女性徒と交換日記(笑)をしていたのですが、私が書く話題はと言えば、ほとんど「神」の存在の有無に関してです。
 大学はキリスト教系だったので、宗教学のために学校に行っていたようなものです。
 この時点で私は、「神は我々をコントロールしていない」という仮説になりつつありました。
 神はわざわざ自由意志を作ったのに外からコントロールしているのでは、自由意志が無駄じゃないか・・と思っていたからです。

 もう一つは、エーリッヒ・フロムへの出会いでした。
 『自由からの逃走」』をはじめとする彼の著作での自由論は、人間の世界での「前進と後退」をうまく表現していました。
 人間は自由が恐いのです。だから一定レベルの自由を獲得すると、そこから逃げようとするのです。
 常にそのバランスとの戦いなのです。もちろんその戦いは無意識でやっているのですが・・
 そこではもはや、中央でコントロールしている神の存在など考えられなくなっていました。
 フロムの言う・・自由と、自由からの逃走・・の世界を知った私は、自由になりたいと思いました。
 ここで言う自由とは、横時間の中の自由ではありません。「私」という状態の中に存在する自由なのです。
 運命が決められていようがいまいが、関係ない世界なのです。
 いわゆる願望実現型の自由ではないのです。
 子供が親の管理下にありながらも、素晴らしい絵を描いたりするような「自由」なのです。
 だから一瞬で会社を辞めたり、一瞬で不思議研を決意したりは、この「自由」の行使にあったような気がします。

 フロムについてですが、『自由からの逃走』とか『人間にとっての自由』とかいう著作を読んでも、私がゲットしたような「自由感」を得ることは難しいです。
 なぜならば、フロムは、意志や意識の中に自由があると言っているからです。
 「私」を手放すと自由にはなれないと言っています。
 しかし私は逆ではないかと思うようになったのです。
 なぜ私がフロムを越えることができたか・・サラリーマンになったからです(笑)。
 サラリーマンの横時間は会社によって決められています。
 「私」を持つ方向ではなく、「滅私」しないと生きていけません(笑)。まさに滅私奉公です。
 しかし私のサラリーマン生活はかなり充実していました。
 フロムは「資本主義が崩壊しないと本当の自由は来ない」と言っています。
 しかし私が彼の死を知ったのは、会社で読んでいた日経新聞でした。
 その部分を切り抜いていると、部長が来ました(社長の娘と結婚した人です)。
 彼は言いました。「森田君、この心理学者が好きだったんだね・・」
 ビジネスの世界に生きる私は、体制と自由は関係ないと思いました。
 それは高校紛争のときと同じです。
 社会体制を変えても、我々は幸せにはなれないのです。

 不思議研を始めて、私は神を「奴」という呼び名に変えました。
 コントロールする存在から友達のような存在になったのです。
 道教の「無為」、チベット密教の「変化に乗る」は、素晴らしい絵を描く子供の世界そのままでした。ですので、すんなりと入ってきました。
 この感覚は今でもあります。
 横時間のやりくりは親にまかせておいて、自分は楽しんでいればいい・・と。
 ですから、運命に対してなぜそれほど抵抗するのか、運命を変えることになぜそれほど固執するのか・・と思いました。
 しかし今私は大変に興奮しています。
 私が長年に渡り興味を持ち続けたテーマに決着をつけられる可能性があるからです。
 運命はあるのか・・
 このテーマは、「神は我々をコントロールしているのか」とは全然違います。
 神は直接に我々をコントロールしているのではなく、方程式を使ってコントロールしている可能性があるからです。
 直接にコントロールすればそこには目的が生じ、一つ一つコントロールする意味も生じます。
 コントロールされる人とされない人が出そうです。
 神の手助けをする人も出そうです(笑)。神の化身とか言ってです。
 しかし方程式を使っているとすれば、それは平等であり、一つ一つの意味も無くなります。
 方程式を使っているのなら、「コントロールする」とは、言いません。
 神、あるいは「奴」は、方程式に託して、手放し状態であるはずだからです。
 神、あるいは「奴」が直接この世界に切り込むことは出来ません。
 そういう意味で、超法的存在にはなれないのです。
 方程式はあるのでしょうか・・

 私の書き込みを読んでもなおかつ「運命は決まっているのか、変えられるのか」ということに固執するでしょうか?
 それは世界を、自分という視点から見てのことだと思います。
 もちろん自分という視点からしか見ることは出来ません。
 それでももう少し広げてみたいと思うのです。
 私は高校時代、神からコントロールされていても良いと思ってました。
 ただ、それが本当かを知りたいのです。

知りたいという欲求

 運命はあるのか無いかということから私たちの生き方を出すよりも、私は単に知りたいという欲求が強いのです。知ることができるなら、自分の人生もあげちゃいます(笑)。
 超能力の世界を探っているときは、自分の能力が無いためになかなか実験ができませんでした。
 しかし今回は違います。自分でどんどん実験ができるのです。
 しかも分野は、最も興味がある分野・・人生は決まっているのかどうか・・です。
 どれほどの人がどのくらいの興味を持っているかわかりませんが、私は知りたいという欲求がとても強いです。
 もしもこれに興味のない人は、いったい何をしたいのでしょうか?(言い過ぎでしょうか・・)
 もしもこれに興味のない人は、いったい何をしに生まれてきたのでしょうか?(言い過ぎでしょうか・・)
 自分を知れば世界が知れるという人がいますが、今度ばかりは違います。
 「もしも六爻占術とやらが当たる占いだとしても、私は未来を知りたくはないわ。私は未来を知るよりも今を生きたいの・・」
 こういう人を、私は理解しがたいのです。もちろん人それぞれでしょうが・・

工学と理学

 理工系は、理学と工学に分かれます。理学は「なぜ」を研究して、工学は利用方法を研究します。
 私は電気電子工学科を出たので工学です。
 工学は食べていくためにやると言っても過言ではありません。電機メーカーに就職したりします。
 理学で食べていくには研究職にならないといけません。
 それでも社会の要請に合わせて研究するので、工学の要素も強いです。
 六爻占術も、理学と工学の要素があると思います。
 これで株をやって食べていこうとする人は、工学です。占い師そのものになるのも、どちらかと言えば工学です。
 では理学は・・と言うと・・
 トラさんのやっている研究は、理学に近いと思います。「なぜ当たるか」の分野に切り込んでいます。そのためのデータ集めでもあります。
 私は時空の仕組みについて知りたいのです。理学傾向が強いです。
 しかし理学はお金にするのが難しいです。「なぜ」そのものを研究して食べていけません。
 ですので工学の要素が入ってきます。テキストを売ったり、自分で株を運用したりするのです。
 ですが、株で何億円稼いでも、「なぜ」への解答にはなりません。
 「なぜ」・・これは私の本質的な原動力です。生き方など、二の次です。
 「未来を知ることをやめて今に生きる」のも、私から見れば工学なのです(工学が悪いわけではありません)。

自由意志は超法的か

 この三次元の世界は法則に満ちています。
 あらゆるものは科学の法則で説明できます。
 しかし時間の中に存在する法則を、私たちは知りません。
 もしも時間の中に運命をつかさどる法則があったと仮定します。
 そのとき、私たちの自由意志は、超法的なのでしょうか・・
 つまりその法則を越えているのでしょうか・・
 動物は越えていないことがわかります。元々自由意志が無いからです。
 しかし自由意志を持った(と仮定される)我々は、法則を越えているのでしょうか?
 精神世界では「生き物の頂点に立ったと思っている人間は、思い上がっています」などと言います。人間はエゴで環境を壊すからです。
 しかしエゴこそ、自由意志なのです。もちろん愛や調和も自由意志かも知れません。
 しかし自由意志が超法的・・すなわちあらゆる法則から自由であるという発想は、かなりエゴ的ではありませんか?
 私はエゴの擁護派ですから、心配要りません。責めているわけではありません。
 ただ、自由意志は法則の上にあるのか・・と問いたいのです。
 もしも時間をつかさどる法則があり、自由意志がその法則を越えるものなら、運命を変えることができます。
 自由意志すらその法則の内部にあるのなら、運命を変えることは、かなり難しいと思いませんか?
 自由意志は超法的でしょうか?どうなのでしょうか・・

 「運命は変えることができる」という思想は、最初にしてはかなり思い上がっていると思います。
 私は高校の時、初めて神を想ったとき、この発想はありませんでした。
 運命を変えることができるという発想は、この宇宙の主人公になれるということです。
 あり得ますか?
 「運命は無い」という考え方に「想いは実現する」が加わったら、天狗様になってしまいそうです。それはまるで、天動説です。
 「想いが実現する」が折り込み済みだとすれば、滑稽ではないですか?
 なぜ、「方程式は無い」という世界に持っていきたいのでしょうか・・
 精神世界では、偶然だと言えば「必要必然」だと言い、運命だと言えば、「想いで変えることができる」と言います。
 精神世界で、「運命は決まっている」と言っている人または団体、あるいは概念があれば、教えて下さい。私は未だかつて知りません・・

財運の法則

<法則その1:コインは相対的>
 小憎らしいことに、コインはみなさんの「貧乏度」を知っているのです。
 財運を占って振ったとき、貧乏人は少しの儲けで大吉と出ます。金持ちは、小吉と出ます(笑)。
 同じ金額なのに、コインは知っています。「こいつはこの程度だ」・・・と(笑)。
 コインにバカにされていると、思いませんか?
 コインは相対的なのです。
<法則その2:金持ちは、なぜいつも良い卦が出るのか>
 金持ちは、やはり財運については、良い卦が出るそうです。
 法則1を発見したのは、私です。これを発見したとき、とても興奮しました(笑)。
 法則2は、トラさんです。
 「金回りのいい人は、いつ振っても財運がいい」と言いました。

 金持ちが没落する例は沢山あります。
 トラさんのサンプルの中にもありますが、それは「元々が金持ちであった」というケースが多いようです。やはりそういう人が一生運を振ると、財運に見放された卦が出ます。
 ところが一代でのし上がっていくタイプの人は、いつ振っても良いのです。
 そういう人は、いつも財運が増えつつあるのだと思います。
 私は一家離散で食うに困ったこともありますが、自分を貧乏人だと思ったことは、一度もありません。
 私は財運を含めて、自分の運はかなり良いと信じています。
 トラさんからの宿題がある時期、宝くじ偏が続きました。
 その最後に、「宝くじに当たるためには、成金である必要があります」と書いてありました。成金の人とは、一代のし上がり型です。
 つまり財運のカーブを微分した時、正の値になる人です。上昇中の人です。
 みなさんはどうでしょうか?

友達に当たった宝くじ

 トラさんの宿題で宝くじシリーズがありました。大抵は「当たらない」という判断です。
 ところが、ある日の宿題では、財運(妻財)がとても良かったのです。
 用神(妻財)が強く、連続相生で生じられ・・しかも六合卦で吉です。
 でも、用神(妻財)が応爻にあり、世爻が応爻を生じているので、私は「当たっても本人には当たらない」というような、訳の分からない回答をしました(笑)。
 トラさんの正解は、まさにそれだったのです。一緒に行った友達が当たったのです(笑)。
 株は多くの人が儲かったり出来ますが、宝くじは世爻というポイントも大事なのです。
 ですから、宝くじの卦を読むのは少し高度です。
 財運が良いというのは、世爻(自分)と応爻(友達)には関係ない出来事で、それが地上に降りて過程で応爻(友達)に振り分けられた・・
 友達は、その人と行かなければ宝くじをゲットできなかったと思います。
 元々卦を振った時点で、友達と行くことは決まっていました。
 しかし「財運」はひょっとすると友達のではなく、占った本人のものだった・・ような気がします。
 財運側にとっては、世爻か応爻かは、大した問題ではありません。
 なのに私たちは「私」にこだわります・・
 自分が振ったのに、なぜ友達の「当たり」が出たか・・ここには、時空のカギがありそうです。

ループ

 りんごの会の資料の一つが、「ループ」という本の抜粋でした。
 ループというコンピュータソフトの中で生育している主人公は、三次元のこの世界に来ますが、最後はループ世界に帰っていきます。まるで、ループするように・・
 金持ちへの嫉妬が貧乏脱出の原動力になるかも知れないという話がありますが、そうでしょうか・・
 次のステップに行くためには、完結・・すなわちループすることが必要だと思います。
 欲望というのは、それだけでは原動力になりません。
 だから金銭欲や名誉欲を否定すると、ループが完結しなくなるのです。
 変化に乗りなさい・・これを言ったチベットの高僧は、私のラジオのプレゼントに対して、チベット死者の書のDVDを走って取りに行きました。彼はループ(完結)しているのです。
 借金をしないで金持ちになれるでしょうか・・なれないと思います。ループが完成しないからです。
 願望を達成したって、何もループしません。それは直線です。次の願望が出てくるのを待つだけです。
 運命は決まっているかいないか・・ループしながら上がっていく世界に、運命は関係ないとさえ、思います。
 ループ・・それは欲を肯定して、さらにゼロにする働きがあると思います。

ブラックボックスからオープンボックス化へ

 今までは、占いに接するときには、占い師のところに行かないといけませんでした。
 プロとアマチュアの差は大きくて、それが「占い業」を成り立たせていました。
 それは、占いはブラックボックスとしての性格が大きいと思われてきたからでした。
 しかし六爻占術において、その様相が変わると思います。
 いえ、六爻占術が持つ最大のインパクトは「当たる」ということではないかも知れません。
 むしろ「オープンボックス化」にあるのではないでしょうか・・
 占いが受け身から能動になる・・
 それは占いがハードウエア(占い師)から、ソフトウエア(テキストとソフト)に移動したのです。
 プロとアマの境が曖昧になります。我々アマが、プロと渡り合えるようになります。
 プロの占い師とのやりとりというのは、無くなってくるはずです。
 このことは、当たるということよりも革命的なことのように感じます。
 さて、科学の世界では、それなりに基礎を積まないと第一線には行けません。
 お金をかけた設備とかを持った研究機関とかが出来て、科学は進歩しました。
 国も相当な税金をかけています。教育も科学には力を入れています。
 だから発展途上国は、教育から始めなければなりませんし、先進国から技術導入をしないといけません。
 もちろん科学は開かれていますが、それでも一般の人からは遠い存在です。
 コンピュータグラフィックを駆使した科学番組で、宇宙の仕組みに触れたりします。
 オープンではあっても、ブラックボックスに近い世界です。
 ところが六爻占術は、理科系でも文化系でもハンディはありません。
 そういう意味では、六爻占術が方程式化されていないで良かったかも知れません(笑)。
 研究機関や学術機関からではなく、ダイレクトに家庭に入り込む六爻占術は、それこそ世界を変えてしまうかも知れません。「権威」が知らないうちに・・です。

書き込み期間:2002/06/01〜2002/06/30