テーマ:「チベット紀行(3)」
要旨:
チベットでは人が死ぬと鳥葬を行います。チベット人は肉体を衣服として捉えているので、死体を鳥に食べさせることに全く抵抗がなく、それどころか栄誉のあることとされています。
しかし私達は「肉体は衣服である」という考え方に共感したとしても、自分の家族などが死んで体を鳥に食われる場面を想像しただけで平気ではいられないのではないでしょうか。私は抵抗を感じました。
高僧から聞いた話によると、人間は粗い風(ルン)と微細な風(ルン)で出来ていて、粗い風(ルン)がゼロになる時が人の死ぬときであると考えられています。死の世界にまで残るのは微細な風(ルン)と意識であり、微細な風(ルン)は弱いどころか非常に堅いと言われています。
高僧は、特別に瞑想などをしていなくても、日常生活の中で空の境地に至ることは充分に可能だと言いました。
私がチベットの中で得た「空の概念」についての気付きは、「人の内部に実体はない」ということでした。内部に実体があると思うから嫉妬や怒りなどの感情を悪いと見なして止めようとしますが、それは執着であって空の概念からは外れるのです。逆に「人の内部に実体はない」と思えれば、嫉妬などは自動消滅すると思うのです。
私は「空」とは何かについて考えていますが、「空」になることが目的なのではありません。不思議のおおもとを探るためなのです。
私が女装を始めたのも実験でした。「空」もまた私の実験です。私は自分の実体験によって本当の世界をどうしても知りたいのです。

空の方程式のインスピレーションを得ました。「空性=(今のあなた)−(あなたの身体)」というものです。
アイデンティティは全て肉体に起因するものであって、体という衣服を脱げば何も残らないのです。
しかし私達は、肉体を超えた何かがあると信じています。しかし霊性や魂の成長など、肉体以上の何かが残るとすれば、空にはなれないということなのです。
本来私達の魂は無色透明で、だからこそ肉体に入った時にそのアイデンティティになり切ることが出来るのです。
神の意図は、何かを作るという目的ではなく、生命の燃焼にあるのではないでしょうか。
ちょうど神の意図について考えている時、精霊と思われる二人の女性に遭遇しました。そして精霊が消えた後には虹のトンネルが現れたのです。
その美しさと生命感に触れて、神の意図は生命の表現にあるのではないかというインスピレーションを得たのでした。
目次
○肉体は衣服か(2001/07/05)
○死と風(ルン)(2001/07/05)
○空の概念(2001/07/05)
○尼寺でのお経(2001/07/06)
○あれもこれも・・(2001/07/06)
○変化(2001/07/07)
○エネルギーの竜巻(2001/07/10)
○標高が世界最高のお寺へ(2001/07/10)
○精霊(2001/07/13)
○空の方程式(2001/07/13)
○空性(2001/07/13)

肉体は衣服か(2001/07/05)

 ミラレパの第二の聖地の場所に行く許可を当局に申請しました。ネパール国境です。
 政府と軍の両方の許可が必要なのですが、許可が下りる確率は50%だそうです。

 前回の書き込みまでで、肉体は衣服だという考え方が何度か出てきました。
 みなさんの中には「そうだ!!」という風に考える人もたくさん出たのではないでしょうか・・
 私は女装の時からその考え方だったので、ここチベットに来てからは確認しただけでした。
 しかしです・・これから書き込む内容は、まさに「踏絵」です。肉体が衣服か・・本当にそうだと思えるのか・・かなりショッキングな書き込みになるかも知れません。
 では、いきます。
 車で走っていると通訳が小高い丘を指差して「あれが鳥葬の丘です」と言いました。以下、その説明です。
 チベット人は死ぬとその体を鳥に食べさせるのだそうです。チベットに住む人の大半はチベット密教を信仰しています。
 チベット密教では肉体は衣服だとしています。肉体と魂は全く別物なのです。だから鳥葬が何の抵抗もなく出来るのです。
 魂が抜けた肉体は服と同じだから、もしもそれを食べてくれる生き物がいたら、それに供した方が良い・・という考え方です。
 まるで物なのです。物をリサイクルに出すのと同じです。

 みなさん、ここまで読んで、何の抵抗も無かったでしょうか?私はありました。
 まず、「あれが鳥葬の丘です」と言われて、私はカメラを向けることが出来ませんでした。
 さらに心の中で念仏を唱えました。
 ここまでで、既に私は死体を物として捉えてはいないのです。
 さらに私の家族、知人・・そんな人が鳥に食べられると思っただけで身の毛がよだつ思いがしました。
 そんな葬式をするとすれば、みんなが帰った後、一人で丘に登り、鳥達を追っ払い、少なくとも死体を土葬にすると思います。しかし、土葬はなんと一番ランクが低いのです。
 超高僧はミイラのように保管されます。これが第一ランクです。
 しかしこれにあずかれるのは最低でも活仏である必要があり、その中でも優れた業績がなければなりません。
 ですのでラマ層を含め、大抵の市民は鳥葬となります。これはとても栄誉のあることなのです。
 鳥が食べなければ、「あの人は今生の行いが良くなかったから、鳥すらも食べないんだ」と思われます。
 第三ランクが水葬です。これは身寄りの無い人などが対象です。
 最後のランクが土葬です。これは病気の人が対象です。鳥が食べて病気になってはいけないからです。
 鳥に食べさせるのが嫌で土葬にしたとすれば「お前は故人に対してなんて事をするんだ」と言われるでしょう。
 しかしあなたの家族が鳥に食べられるのを、あなたは何でもありませんか?死体を鳥葬の丘に放置し、そのまま帰ることが出来ますか?
 肉体は単なる衣服に過ぎない・・私達は本当にこう思っているでしょうか・・


死と風(ルン)(2001/07/05)

 死の話を続けざまにしましょう。
 さて昨日の高僧から聞いた話です(彼は『チベット死者の書』を時々見ながら話していました)。
 人間は粗い風(ルン)と微細な風(ルン)から出来ていると言われています。
 粗い風(ルン)があるうちは人間は死ぬことはありません。
 しかし粗い風(ルン)がゼロになると人は死の世界に旅立ちます。
 ということは粗い風(ルン)は、生命エネルギーそのものかも知れません。
 ですから銀河運動装置から出るエネルギーと同じように見えたのでしょう。
 さらに粗いからこそ、私も三次元にいながら見えるのでしょう。
 死の世界に旅立つのは微細な風(ルン)と意識です。
 ここで高僧は面白い事を言いました。
「微細だからと言って小さいわけではありません。弱いわけではありません。微細な風(ルン)から成る第二の身体は、ダイヤモンドでも壊せないほど硬いのです。」
 う〜ん・・この記述は神坂氏の言った「高次の世界はとても堅い」という表現を思い出させます。
 微細な風(ルン)と意識は、中有の世界に入ります。中有の世界とは生と死の中間帯です。モンロー研究所の定義に寄ればフォーカス21以降の世界です。
 その世界で涅槃に行くか、再び輪廻してこの世界に入るかは、執着があるかどうかだと言いました。
 執着とは、自分にとって利益のあるものを、前世も来世も同じように好ましいというような、不変のものとして欲してしまうことを言うのだそうです。
 不変なものは無いとする考え方、すわなち空性を悟ったものは、微細な風(ルン)ももっと清らかなものになるだそうです。

 ここで高僧は面白いことを言いました。空性の悟り方です。
 仏陀の様に瞑想から直感的に悟ってしまうのを等引智(とういんち)と言うのだそうです。しかしこれは仏陀でさえも言葉で表現することは出来ない境地だそうです。
 でも等引智はほとんど一瞬です。瞑想から醒めて三次元に戻るとまた現実が待っています。でも違うのは後得智(ごとくち)というのを得ているのだそうです。
 彼は喩え話をしました。手品を見た後その種明かしを知って、再び手品を見るようなものだそうです。
 すべてのものが実体がなくそれ自体の力では存在するものではないということを強烈に体験した後に実体があるように見える様々なものを見ても、それを実体があるものとして執着するような心は起きないというのです。
 この高僧は未だ瞑想したことがないと言いました。
 瞑想でなくても空の境地を理解し、微細な風(ルン)を浄化することは可能だと言いました。それは日常生活でいくらでも可能だと言いました。
 逆に出家して瞑想修行しなければ空の境地に入れないとすれば、その事こそおかしいと言いました。

空の概念(2001/07/05)

 今回の私の気付きは、チベット密教そのもののようです。
 そりゃあそうです。ミラレパは師マルパからその方法を伝授され、自分でも探した人ですから・・。
 今回の「空の概念」は、今までの私自身の精神世界を一歩深く入ったような気がします。
 何故かと言うと、嫉妬をなくしましょうとよく言いますが、嫉妬は悪い・・だからやめようというのは執着にあたるわけです。
 一つの理由は「悪い」というのは不変のものとしています。
 二つ目の理由は、「やめる」というのは「する」というのと同じなのです。どちらも行為です。
「人の内部に実体はない」と思えれば、嫉妬は自動消滅すると思います。怒りも同様だと思います。
 私達は内部に実体があると思い込んできました。だから自分から出る嫉妬や怒りも内部の実体から出ていると思い込んできました。
 だからこそ「なんて自分はダメな人間なんだろう・・」と思い続けてきたのです。
 その反動として、「自分の価値に気付こう」「自分はやれば出来る人間なんだ」という方向性が出てきました。
 そして・・それに到達できずにまた別のルールを求めてきました。

 さてもうすぐ満月ですので、私がこちらでやっているミラレパ瞑想を少しだけ書きます。
 まず自分を肉体、精神共にバラバラにして下さい。その後に一体何が残るのでしょうか・・何か確固としたものが残りますか?よーく点検して下さい。
 つまり自分がどこにあるのか、ほんとうに自分というものが存在するのかを探すのです。
 妄想さえも固定することはありません。どんどん後ろに流れます。出てきては消え、出てきては消え・・
 ゾクチェンの教えは言います。妄想が出てきたのは海面が澄んできたからだ・・と。
 そう、あなたの頭は妄想ばかりではありませんか?(笑)妄想に実体はありますか?
 内部に・・内部に入っていれば、そこに確固たるあなたがいましたか?
 生まれた瞬間を想像して下さい。あなたは確固たる自分を持って生まれてきましたか?
 死ぬ瞬間を想像して下さい。あなたは確固たる自分を持って死んでいきますか?
 あなたがあなたである唯一の由縁・・それはあなたの身体ではありませんか?
 あなたの由縁・・それはDNAかも知れません。
 あなたに馴染みのある身体を衣服だと思えますか?それを脱ぎ去ることが出来ますか?
 でもそれを脱ぎ去ったあとに残るのは・・微細な風(ルン)・・だけ。
 瞑想中にこのような言葉を思い浮かべることは出来ません。ですからあくまでイメージだけでやります。
 私自身はチベットに来て、5000メートルを超える祠で、さらにミラレパの弟子の祠でこの瞑想法を聞いて以来、ずっとやってきています。
 僧から聞いた断片を繋ぎ合わせての瞑想です。
 満月の日に雲が出てきて満月が見えなくても差し支えありません。
 銀河運動装置に与える影響は月の位置関係が最も重要です。
 下の写真は私のホテルの部屋の窓からジョウガン寺と月を撮ったものです。少し明るい建物がジョウガン寺です。


尼寺でのお経(2001/07/06)

 昨日は朝早く起きて尼寺にお経を聞きに行きました。写真の一番上がそれです。



 見ての通り、真っ暗です。フラッシュを焚くのは失礼なので暗いまま撮りました。
 でもこの方が雰囲気を伝えられると思います。
 尼寺は男性のジョウガン寺とは違いました。
 ジョウガン寺にはたくさんの観光客が見ていました。たくさんの信者がマニ車を回していました。
 僧侶も回りの雰囲気に負けないようにしていた感じがありました(僧侶もけっこうキョロキョロしながらお経を上げるのです)。
 でも尼寺に観光客は私とトラさんだけでした。だから私も椅子にちょこんと腰をかけて聞いていました。
 お経は決してリズミカルではありませんでした。第一、小声なのです。よく聞こえません(笑)。目をエネルギーモードにしても、風(ルン)はほとんど見えません。
 彼女達はまるで、自分達のためにだけ読経している風でした(たぶんそうだと思います)。
 一章節のようなところが終わり、全員の声が止みました。
 どこからともなくヤカンを持った僧侶が現れてみんなの席に置いてある茶碗にバター茶を注いでいます。
 それを飲みながらお喋りを始めました。その声の方が大きいのです(笑)。
 私達の存在に気が付いた僧が手を振りました。すると一昨日会った僧達がみんな私に手を振りました。私も笑顔で手を振りました。

 ヤカンを持った僧が近付いてきました。それは一昨日館内を案内してくれた女性でした(写真の左に写っていた二丁目レズ風女性)。
 私の所に来ると、「今日はお経を聞きに来てくれたんだね。たっぷり聞いていっておくれ」と言いました。
 ガヤガヤ・・ワイワイ・・しばらく談笑が続きます。
 するとリーダーらしき僧がお経を読み始めました。それに合わせて全員の読経が再開されました。
「空とは何か・・」こういう議論をここでふっかける気は、全く起きません。
 そういう議論をすること自体が空から外れる・・そんなことを無言のうちに言われているような気になりました。
 帰り道、ジョウガン寺の境内の朝市でりんごを買いました(写真二枚目)。後ろに見えるのが私のホテルです。
 写真の三枚目は私のホテルの部屋の窓から見た景色です。
 これは夜の20時半に撮ったものです。まだ太陽は出ています。
 窓からこんなに青空が見えるものだから、室内でも日焼け止めを塗っています。

 私の女性名である「りんご」は、アダムとイブが食べたりんごから取りました。
 性差はそこから始まったと思われるからです。
 でも、聖書の書かれた中近東にどうしてりんごがキーとして出てくるのだろうと不思議に思っていました。
 しかし少なくともチベットではりんごが名産なのです。
 これを書いている今、電話が入りました。ミラレパ第二の聖地への旅の許可が下りました。関係各省庁を回って書類の手続きをすれば、明日の旅立ちとなります。
 さて、私は「空」になるのが目的ではありません。「空」になるのは手段なのです。
 私が今チベットに来て色々なインスピレーションを得ているのは、その昔りんごを食べたことに関係しています。
 神はなぜりんごをそこに植えておいたのでしょうか・・そしてりんごの中になぜ意識の種を入れておいたのでしょうか・・。
 それを食べたがために数多くの苦しみが生まれました。その苦しみを解くものとして幾つもの宗教が生まれました。
 私は不思議の科学にも興味はありますが、不思議の宗教にも興味があります。
 どちらもそのおおもとを探れると思うからです。
 道教は私を相当ぐらつかせました。タオの考え方はとても新鮮でした。
 でもタオの世界にとって自分の実体があるか無いかは問題外でした。ワダチの世界に入ってしまえば実体があっても無いと同じになるからでした。
 でも人はワダチにばかり乗ってはいられません。りんごを食べてしまったからです。
 それによって意識が登場し、「自分はこれで良いのか・・」などと考えるようになりました。
 そして私はと言えば、女装をしたり多くの実体験をすることによって「自分は宇宙と同じ大きさだ。1+1=1だ」などと『「不思議の友」6』には書きました。
 それを書いたばかりなのに、1はゼロだったという世界に来てしまったのです。
 でもみなさん、チベットでの私の書き込みを読んで、「そういう世界も成り立ちうる・・」
 と思わなかったでしょうか・・。
 私は本当にそう思うようになっています。チベット密教はかなりイケていると思います。
 でも私は自分が涅槃に行ってもしようがないのです。
 涅槃などという場所をつくった存在・・すなわちもともと楽園にりんごを植えた神を知りたいのです。
 ですので「空」は私の実験にすぎません。でも私の実験はとことん実験しないと気が済まないのです。本当の空の世界をどうしても知りたいと思っています。
 明日から始まるチベット奥地への旅・・それは私の「空」にどういう影響を与えるのでしょうか・・。
 超高僧は言いました。「人生は楽しむためじゃ・・」私もその口です。
 あてども無い旅・・宙ぶらりんのまま・・

P.S.
 宙ぶらりんでいることが最も難しいのが人間関係かも知れません。
 例えば子育て・・子供はどんどん変わるのに親がイメージを固定したままなので宙ぶらりんになれない。
 例えば男女関係・・宙ぶらりんでいることが出来ないから別れる・・という話になるのですよね。
 しかし男女関係というのはなぜこうも排他的なのでしょう。
 性差・・それは排他性を作る為に出来たのかも知れません。

 ところでジープでチベットを走るのって、ホントに楽しいんですよ。
 だってとこでも走るんですから・・アンナとこも、コンナとこも・・。
 アンナとこを走る時は天井に頭をぶつけるくらい揺れるんですけど・・それが快感。
 コンナとこを走る時は、車内で足を上げるんです。だって水が入ってきそうだから・・。
 草原に入ると100キロくらい出してしまうんです。もしも前に車が走っていると砂ぼこりで何にも見えなくなるのです。
 ですから頑張って抜きます。すると抜かれた方は、また抜き返す・・。
 地平線しか見えない草原のど真ん中で、たった二台がデッドヒート(笑)・・これもあるがまま?。
 では、カレシュ。

あれもこれも・・(2001/07/06)

 私は『「不思議の友」6』に「あれかこれか・・ではなく、あれもこれも」と書きました。これは結構難しいと思います。
 例えば男女関係で「あれもこれも」をすれば非難されませんか?
 今の世の中ではあることを「決めて」それを「維持」することが良しとされます。
 維持せずに次々に変わることも「あれもこれも」です。
 しかし隣のコーナーで盛り上がっている「空」という概念は、「あれかこれか」とか「あれもこれも」という概念を超えていますよね。
 だって「変化にどれだけ乗れるか・・」という概念には、自己という感覚があまりないのです。
 しかも選択肢は一つや二つではなく、無限大ですよね。不定形のアメーバーみたいです。
 人間関係がこうなったら本当に素晴らしいと思いますが、いかがでしょうか?
 でもそこには約束なんて存在しません。
 一寸先は闇か光・・いえ、無色透明の何かが乱舞するかも知れませんが・・
 異性間は愛情で、同性間は友情という仕分けも変だと思いました。
 愛情って何でしょう?友情って何でしょう?
 私達は衣服であるはずの身体にいったいどれほど縛られているのでしょうか・・。

 話は飛びますが、ここをROMしている(見るだけの)人は、「あれかこれか」だと思います。
 自分という視点をどこかに置いて、あの意見はいい、この意見はまあまあ・・と見ているような・・。
 書き込むというのは、手放さないと出来ないですよね。
 仏陀やキリストはよく喋った人だという感じがあります。
 彼らは世の中に対してROMではいられなかったのですね。
 愛とか慈悲とか言いますが、あの行為そのものがそれだと思います。
 強かったからあれが出来たのではなく、弱かったからあれが出来たと思います。
 私も本当に強ければ、あのまま辞表を出さずにやっていたと思いますから・・。
 超高僧にしても高僧にしても尼僧にしても、ありのままだという感じがしました。
 男の寺で瞑想洞窟を女性禁制の場所にしているのは、そういうコトがあるからでしょう・・。
 イスラムの食堂で肉を食べるラマ層も「あれもこれも」なのでしょう。
 私が今追っているミラレパなんて、若い頃何十人も人を殺していますからね・・。日本でなら凶悪犯でしょう。
 あれもこれもというのは、結構大変なことかも知れません。
 あれもこれも・・してみたい・・アンナことも、コンナことも・・してみたい(笑)。

変化(2001/07/07)

 チベット密教では、宇宙には始まりがないといいます。さらに、人の心にも始まりはないといいます。
 始まりもなく、終わりもなく、ただ変化があるのみ・・。
 始まりがなければ、人の出会いというのもないのでしょうか・・
 私達は初めから出会っていた・・だとすると誰もが知り合いです。
 ある時は愛し合い、ある時は敵になり、失敗と反省を繰り返し・・そして成長したのでしょうか?
 何万年かかって土地が隆起し、その土地に種が蒔かれ、菜の花の業(ごう)ではなく、時空の業の中で、この菜の花は咲きました。
 私はこの花に会うのが目的でここを通ったのではありません。ただ偶然に通りかかりました。
 偶然にはそれ以上の意味もそれ以下の意味もないでしょう。ただお互いに、その変化の一瞬に出会っただけ・・
 だからこそ美しいのかも知れないと思いました。


エネルギーの竜巻(2001/07/10)

 今は10ワットの裸電球一つの部屋で書き込んでいます。
 一昨日は満月だったので少し風邪気味でしたが、外に出て瞑想しました。
 澄んだチベットの月光の下・・気持ちが良くて二時間も瞑想してしまいました。
 翌日は(昨日)はラサを9時に出てこの村に着いたのは20時でした。
 車はランドクルーザーを借りることが出来たので、楽チンでした(とは言え、けっこうすごいですけどね・・)。
 私は運転席の後ろでボーっとして外を見ていました。
 すると岩石ばかりの場所に竜巻が起こっているのです。
「竜巻だ」と叫ぶと通訳は「何も見えませんよ・・夢でも見たんじゃないですか」・・と。
 トラさんは隣でウトウト・・
 よく見ると竜巻はジョウガン寺の上で見たようなエネルギーなのでした。
 私はエネルギーが無機物から出るのを見たことはありません。
 それは植物だったり人間だったりしました。ジョウガン寺のも人間の読経がキーでした。
 しかしこのエネルギーの竜巻は大地そのものからでした。
 道路の脇に4,500メートルという標識が見えました。
 ここら一帯はミラレパとかその弟子が修行した場所でした。
 そして遠くの山を見るともっと強烈な竜巻が起こっていました。
 私はカメラを出して撮りました。すると写っているんです(笑)。
 目をエネルギーモードから普通モードに戻しました。するとやっぱり何か雲のようなものが立ち上っています。
 私は車を止めてもらい、そこで撮影しました。それが下の写真です。
 山から雲が立ち上っているでしょう?見えますか?
 ちょうどその場所にエネルギーの竜巻が見えるのです。



 この現象はおそらく風(ルン)が誘発している現象だと思います。
 私の目にはいまだかつてないほどの強烈なエネルギーの竜巻として見えたのです。
 それにつられて三次元の湯気のようなものも上がってしまったのではないでしょうか?
 エネルギーの竜巻は螺旋を描いて上に登っています。
 これほど強烈ではありませんが、道路のすぐ脇に竜巻があったのでそこでも止めてもらい、写真を撮りました。
 でも何も写っていません。エネルギーの量が少なかったのかも知れません。
 しかしその中に飛び込むと・・・何も感じないのです(笑)。
 私は気も少しは感じることが出来ます。ピリピリしたり・・そのあと手に斑点が出来たり・・
 しかし、その竜巻の中では何も感じません。
 ジョウガン寺のエネルギーも見えるだけで何も感じません。
 でも、岩から立ち上るエネルギーの中に入ると・・前日の風邪の後遺症として起こっていた高山病の頭痛がいっぺんで無くなったのです。
 ミラレパたちが修行した地域は、ものすごいエネルギースポットだっのです。ずる〜い・・(笑)。

標高が世界最高のお寺へ(2001/07/10)

 真っ暗なうちに出発しました。目的地は世界最高峰のお寺です。
 車が山を登っていくところで朝日が昇りました・
 4500メートルを超えるあたりからまた風(ルン)が見え始めました。
 その高さだと風(ルン)はやはり竜巻のようにまとまって見えます。
 ところが5000メートルを越えた時点から状況が変わりました。まとまらなくなったのです。
 5200メートルのところで車を止め外に出てみました。するとキラキラと光るエネルギーがまるで風のように舞っています。雪が粉雪になったときのようです。
 私が指を立て、「この指とまれ」という意識を送ると、ちゃんとそこに吸い込まれていきます。
 それはまるで風のようにあたりを流れています。
 ルンを「風」と書くのはまさにこの光景から来ているのではないでしょうか・・。
 でもこの現象が何故5000メートル以上なのでしょう・・
 ランドクルーザーは一度下に降り、今度は川を上がって行きます。
 途中、検問が二箇所ありました。一箇所は公安、もう一箇所は軍です。
 そこでそれぞれ30分も調べられました。書類だけではありません。全員車から降ろされボディチェック、さらに荷物もチェックされました。
 この地域に入るのはなかなか大変な様子です。

 そして午後の三時、私達は世界最高峰のお寺に着きました。
 そのお寺の名はロンボク寺と言います。標高5000メートルです。
 僧侶が一人か二人で守っているほこらのような場所にはこれより高いところがありますが、僧侶数が30名以上というお寺では最高の標高となります。
 目の前には8848メートルのチョモランマ(世界で一番高い山)が真っ白い雪をいただいてそびえています。
 ここの変わった点は標高だけではありません。男女共学・・いえ、男女の僧侶が一緒にいるのです。男性16名、女性20名ですの混合です。
 読経の時間を聞いて驚きました。16時から22時までぶっ続けでやるのです。
 今まで私が訪れたお寺はせいぜい2時間でした。
 中に入ると男女の僧侶が混ざってお経を上げていました。まるで混声合唱団の様でした。
 風(ルン)がその間を風の如く通り抜けていきます。
 ここは下界からランドクルーザーで川そのものを走って五時間かかります。しばらく前まではジープでさえ登るルートが無かったと言われています。
 標高5000メートルに孤立して立つロンボク寺・・・。
 世間から外れるという意味でもここが最高なのではないでしょうか・・
 私達も今日のうちの下山は無理だと分かり、寺に泊まることになりました。
 しかしこの寺には暖房がありません。これを書き込んでいる午後10時現在、氷点下2度です。
 朝方にはマイナス10度くらいまでは下がるのではないでしょうか・・冬は昼間でさえ氷点下だと聞きます。
 さらに湧き水がありません。雨水を溜めて使うのす。私は洗面器一杯の水を貰い、体を拭きました。
 電気は太陽熱発電で、夜間に二時間だけ使えます(今はそれを利用してパソコンを打っています)。

 彼らは何を求めてこんな所にいるのでしょうか?
 この質問の答えになるかどうか分かりませんが、私は昼間しばらく外で座禅しました。
 目の前にはエベレストが見えます。背後には氷河があります。
 風(ルン)がキラキラと舞っています。
 チベットの5000メートル地帯というのは、修行にとっては世界最高の場所ではないかと思いました。
 目を瞑るとすぐに天目の当たりに映像らしきものが現れます。東京にいる時、こんなことはありませんでした。
 抜群の景色と抜群のエネルギー・・
 これを書き込んでいる今、ちょうど目の前がエベレストです。その上に沢山の星が出てきました。これが同じ地球の上かと思います。
 少し眩暈を感じます。あまりに美しすぎるのです。
 下は昼間、私の部屋の窓から撮った写真です。



 これからこの寺で世を明かします。
 そして明日、電話のあるところまで降りると思いますので、そこで送信します。
 以上で前日の書き込みを終わったのですが、その次の日も送信出来ませんでした。
 その顛末はこれから書きます。

 さて、ロンボク時の夜は最高に寒かったです。
 私は毛布を四つも借りてその中にくるまって、みのむしの様になって寝ました。
 二時過ぎから風が強くなり、私の部屋の窓の一つが壊れているため、そこから進入します。
「そうだ、あれがあった」と思い出し、私は生理用ナプキンをその窓にベタベタ貼りました。すると風の進入はなくなり、知らない間に寝ていました。
 朝は六時に起きて僧侶達の様子を見に行きました。
 すると女性の僧侶が食事の支度をしているのではなく、男性がしています。
 女性は何か、指示をしているふうに見えます。ちょっと怖い感じすらありました(笑)。
 さて私達は七時に出発しました。そこからネパールの国境付近に行きます。
 検問が二箇所ありました。私達はどんどん山の中に入ります。
 目的はミラレパが瞑想したという洞窟です。それも彼の人生の中では後期に入ってからの瞑想洞窟です。空性を悟ったと言われる洞窟です。
 午後の五時を過ぎても見つかりません。ここで車の中で協議がありました。今引き返さないと夜になってしまうというのです。
 しかし運転手はチベット族でした。「俺に任せろ」と言いました。
 彼は赤銅色に焼け、見るからに頼りがいがありそうでした。
 ではそうしよう・・もう少し探そうということになりました。
 そして午後の七時、それは見つかりました。
 山の中腹にあり、下には川が流れています。抜群の環境でした。
 守っている僧侶にカギを開けてもらい、私はその洞窟でしばらく瞑想しました。
 その時の気付きは下に書きます。

 さて、午後八時にそこを出ました。チベットでは九時までは日が出ています。
 近くの村までは三時間です。なんとか帰れると思いました。
 午後10時・・真っ暗です。ランドクルーザーはライトを付けて走ります。
 そこにいきなり機関銃を持った兵士(中国兵)が三人銃をかまえて飛び出してきたのです。びっくりしました。
 でもそのまま我々に近付くと「すぐそこの駐屯地まで乗せていってくれないか」と言うではないですか・・
 五人乗りのランクルに七人が乗って走ります。
 トラさんの目の前に銃口があり、時々トラさんは銃口を彼らの方に指で持っていっていました。
 で、彼らは無事に降りました。
 私達は車の中で「びっくりしたなぁ」とか話していました。
 そして夜の11時・・。調子良く走っていたのですが、突然道が無くなったのです。
 車内は無重力です。つまり落ちているのです(笑)。
「きゃ〜!!!!」という悲鳴のBGMもありました(通訳のです)。下には川が見えます。
 それは二、三秒だったのか・・はっきり分かりません。
 でもそれほどの高さはなかっさたので45度くらいの角度で車は川に・・
 ざぶ〜ん・・ブクブク・・
「きゃ〜、沈むぅ」通訳の女性が叫びます。
 ハッと我に返ったタフガイ運転手・・
 止まってしまったエンジンをスタートさせ、車輪を回転させます。すると進むんです(笑)。
 岸に上がり車を点検しました。何とも無いんです。もちろん我々も何ともありません。
 車は発進しようとしました。しかし・・
 どこでバーストしたか分かりませんが、後輪が二つともパンクしていたのです。
 真っ暗の中で車輪の入れ替えです。
 でも私は鞄の中に高性能の懐中電気を持っていることに気付き、それで照らして作業しました。
 近くでガサガサと音がしました。
 びっくりして電気を向けるとそこには二匹のウサギがちょこんと座ってこちらを見ていました。
 スペアタイヤは一本しかありません。ですので全員が一方方向に寄せ合って走っていきました。
 それでも村に着いたのは二時でした。その村には電気も電話もありません。
 そして今、私達は振り出しの村に着きました。温水シャワーと太陽光線発電のある村です。

 さて、ミラレパの洞窟でのインスピレーションです。
 空の方程式です(笑)。
 方程式などと言うと、それだけで嫌悪感を示す人がいそうですが、まあ読んで下さい。
 空性=(今のあなた)−(あなたの身体)です。
 バカにするなと思うでしょうか?今のあなたから、あなたの身体を引いたらそれが空性なのです。
 あなたの身体とは広い意味があります。DNAの情報もそうです。脳もそうです。
 つまりあなたの身体にまつわる部分すべてです。
 もしもこの式から何かが残るとすれば、それはあなたの空性を邪魔するものだと思いませんか?
 例えば霊性です。霊性は蓄積しますか?それを磨くものですか?
 そういうものがあるとすれば、空になることは出来ません。
 ああ、電話が使える制限時間いっぱいになってしまいました。読み返さずに送信します。
 明日は、ミラレパ第三の聖地に向かいます。

精霊(2001/07/13)

 下の写真は標高5200メートルで風(ルン)を集めているところです。
 指を立てていますが、その指に集まってくるのです。



 標高5000メートル〜5300メートルは何度も通りました。
 前回の書き込みではこの地点だと粉雪が漂っているようだと書きましたが、よ〜く見ると大きな渦になっていました。
 低地よりも回転半径が大きいので渦に見えなかっただけでした。
 前回、雲が上がっているような写真を載せましたが、昨日はその現場の下まで行ってみました。すると赤茶けた岩ばかりでした。
 チベット族の運転手が言うには、その一帯は鉄鉱石が多いのだそうです。
 そしてそこからまた離れて見ると、やはり同じように雲のようなものが立ち上っているのです。あの日だけの天気による影響ではなかった様子です。
 でもこのような「雲立ち上がり現象」はそこだけではなく、チベットではいたるところに見られます。
 チベットは今でも隆起しています。地球のエネルギーが何かしら集まっているのではないでしょうか・・
 さらにその場所のようにチベットには鉱物が多いそうなのです。鉱物は結晶になっているのが多いと聞きます。
 これらが何かしらの作用を起こして沢山のエネルギーを発生させているのではないでしょうか・・。
 そして歴代のチベット密教のグルたちはそれを肌で感じ、高地を選んだのかも知れません。

 今私が書き込んでいる所はブータンの国境の近くです。ミラレパの第三の聖地に辿り着きました。素晴らしい場所です。景色もエネルギーも・・。
 ミラレパは復讐のために何十人も殺したことがあり、それを悔やんで本格的な修行の世界に入る場所が、私が今書き込んでいるところです。
 日本に帰ってから写真を出しますが、決して秘境ではありません。
 私は前回、空の方程式なるものを書き込みました。空の概念というのは本当に深いと思います。
 ところでミラレパの第三の聖地に行く時、おかしなものを見たのです。
 私達はこの旅では一番高い標高を走っていました。海抜6000メートルです。
 細かな岩石ばかりの砂漠です。
 その私達の車の前100メートルのところに女性が二人出てきたのです。
 100メートルの距離とは言え、時速80キロくらいのスピードで走っているのですぐです。
 二人の女性はニコニコしていました。運転手は手でドケドケをしました。すると二人の女性は脇にどきました。
 私達の車は彼女達の横を猛スピードで走りました。

 その瞬間です。トラさんが「あの人達は普通じゃない」と言い、振り返りました。そして叫びました。「いない!!」
 私も振り返りました。「ほんとだ。」通訳もドライバーも振り返りました。
 全員沈黙・・「幽霊かな・・」とドライバーが言いました。
 草原には隠れる場所がありません。なのに二人はいないのです。これは車に乗っていた四人が目撃しました。
 トラさんに言わせると、この現象はチベットでは時々あることなのだそうです。
 さらにこの現象に遭遇すると、とても運が良くなるのだそうです(ほんとかな)。
 この二人の女性は、とても綺麗でした。三十代前半と二十代後半といったところで、二人は姉妹に見えました。ニコニコした笑顔も素敵でした。
 幽霊にしては生(せい)に満ち溢れすぎているのです。まるで私が女装してりんごになった時の様でした。
 しかも二人ともよそ行きの民族衣装を着ていました。
 そういう格好でこんな場所にいること自体、変だったのです。
 チベット語の通訳の女性が「あれは精霊に違いありません」と言いました。
 私は目をエネルギーモードにしてさっきの場所を見ると、風(ルン)の竜巻が見えたのでした。
 その五分後です。今度は私達の目の前に綺麗な虹が現れました。
 しかも虹は大小二つありました。まるで姉妹の様に・・。
 その虹は本当に小さいのです。直径20メートル位です(もちろんこの虹現象は偶然かも知れませんが・・)。
 その虹をくぐると、真下にはミラレパが修行したと言われる地域が出現しました。
 標高5000メートルを超える場所にある湖です。

空の方程式(2001/07/13)

 さて、今回のメインテーマ気付きを書いていきますが、これはほんの序の口です。
 空性=(今のあなた)−(あなたの身体)
 前回はこれを書き込みました。
 私はこのインスピレーションを得た時、少しショックでした。
 私というアイデンティティは、身体に関係する情報がすべてだったのですから・・
 私の顔、私の足、私の性格、私の考え方、私の癖、そして私の霊性と思われるものまで・・
 これらは身体からくる情報によって作られただけなのです。
 私はこれまで、魂というものが身体とは別途にあって、その魂が身体に入り込んで色々な経験を積んでいると思っていました。
 特に対外離脱の体験はそれを助長させました。また、生まれ変わりの村の現象もそれを助長させました。
 私達は魂が服を着たもの・・こう解釈していました。
 このチベット紀行の最初の方はその路線でした。いえ、これはこれで正しいのです。
 何が違うと言うと・・
 今存在している私という生きもの=(私の身体)+(身体を超えた何か)
 だと思っていたのです。
 ロバートモンローも言っていました。「私達は肉体以上の存在である」・・と。
 でも肉体以上の存在であるとすれば、私達は空にはなれないのです。
 肉体は衣服だと書きました。しかしそれを脱いだら、本当のあなたになりますか?
 でも空の概念からいけば、服を脱いだ時、そこに何かが残ってはならないのです。

空性(2001/07/13)

 これは少しずつ書きますね。まだ問題提起の段階です。さて、例の方程式です。
 空性=(今のあなた)−(あなたの身体)
 もしも空性がゼロなら、(今のあなた)=(あなたの身体)となります。
 これはいわゆる唯物論に近くなります。でも私がチベットで得た空性はこういうものなのです。あなたの身体以外にあなたのアイデンティティの原因はないのです。
 しかし空性がゼロでないとこうはなりません。生まれ変わりの村の様に、前世を引きずります。体外離脱の様に、出たはずの身体のアイデンティティを引きずります。
 でも実際にはほとんどゼロなのです。もともとゼロなのに、私達はゼロでないと思っているだけなのです。いえ、ゼロでないと思いたいのです。
 だって身体だけが自分自身だと言われては、納得できないでしょう?
 高次の世界に本当の自分があると信じ、それが自分の身体に入っているだけだと・・思いたいのではないでしょうか?
 本当は私達の魂は無色透明なのです。風(ルン)と同じです。
 無色透明だからこそあなたの身体に入ると、全面的にあなたというアイデンティティになることが出来るのです。
 魂がもともと何らかのアイデンティティを持っているとすれば、わざわざ別の身体に入る意味もありませんよね・・。
 だから子供はほぼ完全に親の子供なのです。
 別のアイデンティティが、親が作った子供の肉体という服に入り込むのではないのです。
 無色透明の魂だから、肉体という服を着た瞬間に、その服の持つアイデンティティに変化するのです。
 だからDNAは重要なのです。脳というハードウエアも重要なのです。
 さて、なぜ神はそういうシステムを作ったのか・・・
 標高6000メートルを走っているとき、私は神の意図についてのインスピレーションに触れていました。
 ゼロからゼロへ・・無から無へ・・
 少し虚無を感じていた時、二人の女性(幽霊か精霊)が現れました。その微笑と生命感・・
 神の意図が生命の燃焼だとすれば・・目的など無くても良いのです。
 銀河の動きで生命エネルギーはどんどん補給されます。それもタダで・・(笑)。
 風(ルン)も一つの生命エネルギーです。それはいつも私達の周りを飛び回っています。
 何かを作るのが目的なら、神は初めからそれを作っていました。
 次に現れた虹のトンネルを見て「ああ、これも生命の表現の一つじゃないか・・」と思いました。
 ところで不思議な二人の女性は本当に精霊だったのでしょうか・・。
 あの美しさ・・あの生命エネルギー・・風(ルン)が変化したものなのでしょうか?
 手塚修虫の『火の鳥・未来編』には何にでも変身できるムーピーという生きものが登場します。それは主人公マサトの理想の女性に変身していました。
 何にでも変身できるとすれば、それは無色透明の魂と似ています。
 風(ルン)もその性質を持つのでしょうか・・
 明後日(日曜)は北京に帰ります。翌日(月曜)は日本です。