テーマ:「シンセン紀行2000.12」
要旨:
シンセン行きの機内でスチュワーデスを見た時、「神は何故男女差を作ったのか」という疑問が浮かびました。男性から見た女性は、あまりにも掛け離れて見えるからです。
一般的には差を楽しむためとか、合一を体験するために分離したなどと言われますが、私はそうではないと考えています。私はむしろ、分離を味わうために仮の合一があるのではないかと思っています。
しかし、合一と分離も、境界線とボーダレスも、静と動も、どちらも「一方」なのです。宇宙はこれら両方を包含しながら、ダイナミックに拡大を続けているような気がするのです。
導師から「悟り功法」について聞きました。これは瞬間的に判断してワダチに乗るという方法です。そのためには必要なのが能量(エネルギー)だといいます。
長生きして楽しむ、それも意図的に楽しもうとするのではなく、楽しむことが自動的に起こる、それが悟りの功法にある様子なのです。
ところでこのエネルギーについてですが、自分の思い通りに物事を運ぶためのエネルギーではないのです。たとえどんな最悪な状況であっても、その中に飛び込むということなのです。
不完全を完全にする力ではなく、不完全を不完全なままに認めて肯定する力です。
仙道で養われるエネルギー、その瞬間に身を委ねる能力は、微弱で内的です。でも、これこそが本来のエネルギーではないでしょうか。そして、未来を変えたり願望を実現する強い力よりも、ずっと価値のあるものではないかと思うのです。
目次
○分離(2000/12/11)
○ボーダレスも分離も、どちらも「一方」(2000/12/12)
○悟りの功法(2000/12/13)
○エネルギーについて(2000/12/14)
一線

 忘年会までには帰ってきますので、本当に短い旅です。
 タオ、すなわち時間系に生きるとき、対極にあるものはどうなっているのでしょうか。
 この状態の時は、自動的に対極にアクセスしていると思います。道教のタオは無為です。
 ワダチに乗るということを肯定した道教は、やはりすごいと思います。
 意識をメインとせず、無意識をメインとしたのです。
 機内で書いた事をアップします。
 中国旅行でスッチーを撮ったのはこれが初めてです。神とは何か、時空はどこに向かっているか・・スッチーはこんな疑問にヒントを与えてくれるでしょうか?
 
 彼女は普段、髪が長いのでしょう。仕事に差し支えないように、ちゃんと結んであります。
 白のブラウスにエプロンスタイルですが、エプロンの背中は開いています。だからちゃんとブラの線が見えるようになっています。
 白のブラウスだから白のピアスです。よく似合います。後ろ姿からも清楚な感じが漂います。


 
 クリスマスが近いので、機内にはリースが飾ってあります。その前にいる彼女も、リースに負けていません。


 
 白のブラウスと薄いベージュのエプロンの組み合わせは、とてもシックな感じをただよわせています。さすがJALです。


 
 とうとう彼女が私の席の列に来ました。
 この彼女、他のスッチーに比べると薄化粧です。他のスッチーはアイシャドウが濃くて、なおかつ口紅も濃いのにです。この写真では赤いルージュに見えますが、実際はもっと薄いのです。
 私たち男性が女装すると、薄化粧で勝負することが難しくなります。やはり肌の質が違うからかも知れません。


 
 神は一体、何故このような男女差を作ったのでしょうか・・
 先日、女装雑誌を読んでいたらこんなことが書いてありました。
「女性が一生の間に出す女性ホルモンは、物理的な量に換算すると耳かき一杯なのです。たった耳かき一杯でこれだけの差が出るのです。」
 もちろん女装雑誌なので、データの信憑性はありません。
 耳かき一杯ではないかも知れませんが、とにかく少ないことは確かでしょう。
 逆に言えば、耳かき一杯の男性ホルモンで、男になるのです。
 男女の差・・
 神は世界を楽しむために作ったのでしょうか・・。
 でも私は「楽しむため」というのがピンと来ません。なぜなら、本当に楽しんでいる時は楽しんでいるという感覚すらないからです。
 これはタオの考え方でもあります。時間系に入ると、楽しみも苦しみも同等になるのです。だから楽しみという部分だけを抽出するとタオから抜け出てしまいます。
 しかしです。このスッチーと私は、同等なのでしょうか??????同等と言うには、あまりに遠すぎます。
 逆に言うと、遠い存在だからこそ恋が生まれ、愛が生まれると思うのです。
 小学生の頃一緒に遊んでいた女の子が、中学の頃に突然遠く離れた存在になりました。
 小学生の頃には両者の間には何もなかったのに、いつか知らないうちにベールが被さりました。
 そして男性から見ると女性達は、あらゆることを解決してくれる存在に見えてきました。
 好きな女の子は、まるで天使のような存在でした。ほんの少し話をするだけで、心臓は破裂しそうになったものです。
 そう、彼女達は対極の性になったのです。
 離れること・・これは神の仕業です。なぜなら私達がやったわけではないからです。
 
 さて、「合一するために離れた」という人がいます。果たしてそうでしょうか?
 今までの人生を振り返って、本当に合一できたという瞬間を持っている人はいるでしょうか?私はどうも、「そう思い込んでいる」という風に思えます。
 合一できたと言うのは、豪言ではないでしょうか・・。自己満足の思い込み・・・
 合一とは、どこまで行ってもバーチャルなのです、たぶん・・・
 人と人はどこまで行っても、完璧に合一することは無いような気がします。だから「合一するため」という目的は、渇愛を生むような気がするのです。今度こそ、今度こそ・・
 さて、もう一度訊きます。合一することが目的ですか????
 私はむしろ、離れていることを確認するための、仮の合一のような気がするのです。
 中学になったとき「あの鼻垂れ娘なんであんなに綺麗になったんだろう・・」と子供心にも感動した覚えがあります。この時、離れているということにトキメキを覚えたのです。
 結婚生活に入っても、「一緒だ」という時よりも「自分とは違う」ということを発見した時の方が感動します。
 ワンネス(私達は一つだ)という考え方は精神世界の主流であり、世界は一つに向かうという運動の方が説得力があります。平和を達成するためには一つになる必要があると・・
 しかし、一つの世界に私達は感動を覚えるのでしょうか?
 そして世界は合一に向かっているのでしょうか・・なんか、逆のような気がするのです。
 離婚は失敗でしょうか・・失恋は失敗でしょうか・・意志疎通の少ない関係は、まずいでしょうか・・
 我々はますますエデンから出ています。分離が進行中です。
 合一するために分離するというのは、正しいのでしょうか?
 より分離するために合一すると言っては、いけないでしょうか?
 友達と楽しく喋った後、家に帰ってひとりでコーヒーを飲む。この瞬間は、友達と楽しく一緒にいた時間よりも好きです。
 これを味わいたくて私は人間と付き合っているとも言えるのです。しかしこれを愛と呼べるでしょうか?
 人間性が高い・・精神性が高い・・魂のレベルか高い・・
 こういった「高い」に象徴される生き方よりも、私は「深い」という単語に象徴される瞬間の方が好きです。
 深いという単語は、分離から生まれるような気がします。合一には深さという要素は少ないのです。
 合一は過ぎゆくもの・・・深さは降り積もるもの・・
 恋は合一、愛は深さ、惚れるも深さ・・
 でも、分離を味わうためには合一が必要なのです。だから天人合一ですら「一方」にすぎないと思うのです。
 悪を深く理解する人が善を深く理解できる、合一を深く理解する人が分離も深く理解できる・・。
 ふと見ると、彼女が制服に着替えてコーヒーをサービスしているではないですか・・。私はすかさずシャッターを切りました。
 で、結局彼女と話したのは二言三言・・・。でもその瞬間にあらゆる妄想を送り込み、バーチャルな合一を達成しました。
 そして私は、彼女が入れてくれたコーヒーを深く味わいながら飲みました。
 彼女との分離感に酔いながら・・これも自己満足でしょうか・・


 
 しかし最後にちょっとだけ合一するチャンスが訪れました。私は彼女とのツーショット写真を頼んだのです。
 もっと笑顔で笑っていたのですが、シャッターを押すのに手間取り、いつもの顔に戻ったところが撮れてしまいました。


ボーダレスも分離も、どちらも「一方」(2000/12/12)

 昨日ホテルに到着すると、待っていたように導師が訪れてきました。相変わらずの導師です。


 
 そのあと食事に行ったのですが、そのとき面白いビールを飲みました。螺旋藻(らせんそう)から作ったビールです。
 螺旋藻とは、いったい何でしょうか?昆布でしょうか、ワカメでしょうか・・
 でも、このビールの美味しいこと・・。
 これは導師の友達が開発したそうです。これを飲んで酔っぱらった後に修練してもOKなビールなのです。


 
 さて、以下は今日の話になります。
 今回の旅の目的は、来年導師が来日したときの打ち合わせです。来年導師は来日し、中華仙学講座というものを行う予定です。理論と実践の両方を行います。
 仙道を正式な形で外国に出すのは初めてらしいので、こちらサイドでは色々な議論があったようです。しかし許可が降りました。
 テキストは導師のマスターの一人が作ったものになる予定です。
 ひとしきりその打ち合わせが終わると、導師が「遊びに出ましょう。何かリクエストはありますか?」と訊くので、「実は・・」と、女装の事を話しました。
 そしてあのオカマ仙人の写真を見せました。このオカマ仙人は韓湘子(かんしょうし)という人です。


 
 すると導師は「ああ、これは対極(たいち)ファッションですね」と言ったのです。
 そしてすかさず「シンデンシェン、これを作りましょう」と言いました。
 そして自分の弟子がやっている仕立て屋に行きました。下の写真の右側の人が、私の衣装を作ってくれる人です。


 
 まず、下に着るピンクの生地を探しました。


 
 次は上に着る紺の生地を探しました。


 
 そして私の体のサイズの計測です。下の写真は首周りを測ってもらっているところです。


 
 カツラは導師が用意してくれるそうです。
 このファッションはどこで着るかと言うと、日本で導師と一緒にいるときです。
 導師と言う人は、なんて人生を楽しむ人なのでしょうか・・
 明日は、日本で着る私の普段着(女性系)を探してくれます。 
 
 さて、夕食を食べているとき気付いた事を書きます。
 今回は日本語の通訳がアテンドしています。その人は堺屋太一や鈴木健二の本をこちらで翻訳したりしている人で、けっこうインテリです。その人が面白い事を言いました。
「日本語はとても科学的です。形容詞は主観的形容詞と客観的形容詞に分かれています。その区別の方法ですが、“げ”を付けることの出来るのが主観的形容詞なのです。例えば悲しいは主観的形容詞です。悲しげと言えるからです。しかし白いという単語には“げ”が付けられません。だから白いは客観的形容詞なのです。」
 私たちが日本語を喋る時は、全く意識していません。しかし彼らはそうではないのです。文法的ミスを犯さないように、意識でチェックしているのです。
 ちなみに「AはBのように・・」の後はほとんど否定形がくるそうです。「私は彼のようになりたくない」といった具合に・・ 
 その人は、日本の小説を分析したのです。「私は彼のようになりたい」という肯定系はゼロだそうです。「みたいに」とか「らしく」は、肯定系もアリなのだそうです。
 私達が日本語を喋るのはタオの世界です。意識していないからです。自然に流れるままです。時間系です。分離はされていません。
 しかし彼らが喋る時は、分離されているのです。常に「これで正しいのだろうか・・」というチェックが働いているのです。時間系ではなく、空間系です。
 
 さて、最近の書き込みで私は、ボーダレスの後にすぐ分離を書きました。ボーダレスと分離は、ある意味では相反しています。ボーダレスは境がなく、分離は境があるからです。
 変な質問をします。人は人のことが分からないのでしょうか?
 私は今書き込んでいる時、みなさんに語りかけています。
 私は独り言を書いてはいません。このHPを誰も見なくなったら、私は書き込みません。一人でも読んでいる人がいるから書いています。
 そうすると私の前には人のエネルギーが来ます。そのエネルギー体に向かって語りかけています。そのとき私はあなたのことを理解しているのでしょうか?
 私はHPでもよく人に介入します。介入することは相手のためになっているのでしょうか?つまり人は人が理解できるのでしょうか?
 出来ません。自分のことすら理解できないのに、人のことが理解できるでしょうか・・。
 しかしです。理解できないという前提があったら、あなたは介入しませんか?私はします。なぜなら、私はその時タオに生きているからです。時間系だからです。
 空間系に生きていたら、どうでしょうか?私は考えます。これをすることは相手のためになるのか、ならないのか・・その時、エゴが入ります。
 ボーダレスというのは、時間系での介入が出来て初めて可能なのです。しかし時間系から出てしまうと、ボーダーは再び作られます。そこで分離が発生します。
 人は人を理解できません。自分の考えで人を判断することは出来ません。
 でも、よく考えて下さい。これは奇麗事なのです。いえ、ニヒリズムなのです。
 あなたは、この要素が多くはないですか?
 タオの世界に入っている時、「人は人を理解できるか、できないか」という範疇を越えています。
 この瞬間、対極は自分の中に入っています。ボーダレスは自動的に作られないと、ボーダレスではありません。「相手のため」を意識で考えた時、分離の世界に入ります。
 しかし合一が一方であるように、ボーダレスも分離もそれぞれ一方なのです。
 今まではタオの世界が一段上にいたような感じでしたが、今回の旅でそれが「一方」に落ち着いたのです。
 宇宙はとてもダイナミックだと思います。静も動もどちらも一方なのです。
 宇宙はその両方を包含する形で拡大を続けているような気がします。

悟りの功法(2000/12/13)

 昨日オカマ仙人の写真を見せたとき、「これは対極(たいち)ファッションですね」と導師が言いましたが、対極という意味は、向こう側という意味ではありません。「混ざり合った」という意味です。対極ファッションは、中性ファッションでもあるのです。
 で、今日も対極ファッション選びがありました。今日は私の普段着を選ぶのです。作ってくれる人は、昨日のポッチャリ美人です。
 導師と私はまず店内を物色し、モデルになる洋服を選びました。下の写真がそれです。



 そして生地を選びました。その結果が下の写真です。



 今度シンセンに来る時は、この衣装が出来ているはずです。
 
 さて、話は変わります。下の写真はシンセンの道路です。昨日撮影したので、雨が降っています。


 
 道路はしっかりと整備されていると思いませんか?
 最近アメリカで都市のコンテストがあったと聞きました。そこでシンセンは、100万人都市の一位になったのです。それだけ整備され、住み易いのです。
 その整備されたこの地で、私は道教の混沌を学びました。
 道教や仙道はもっと田舎でないとダメでしょうか?
 しかし「マーケットで悟らないでどうする・・」と言ったのはグランドマスターでした。
 来春、仙道教室が開かれる予定ですが、その講座で目指すものの一つは・・「悟り功法」です。
 何かと言えば、瞬間的に判断するという方法です。これは仙道の世界では悟りそのものだったのです。悟り功法は、マーケットの中で活躍するものです。
 で、基本的には何が必要かと言うと、エネルギーなのです。中国語ではエネルギーのことを能量と言います。能動的に何かをするための量なのです。
 仙道の能量は、多くの効果があります。健康、若返りといった身体的なものの他に、ワダチの展開、楽しく暮らす、そして最後に悟りの功法です。
 能量がないのにワダチに乗ろうとしても、それは受け身的なワダチになると言うのです。
 導師は瞬間に決定することが多いです。そしてその決定は後を引きません。それはエネルギーの為せる業でもあるのです。
 私達は、精神性をアップすれば多くの事が解決すると思っています。
 しかし、仙道における神は「冥冥ミンミン的潜在力」なので、神は潜在能力の中にいます。仙道の神とは、意識の世界ではコミュニケート出来ません。無意識の世界なのです。
 だから意識の世界での精神性をアップしても、しようがないのです。これが仙道の特徴でしょう。
 ではそれをアップするにはどうすれば良いかと言うと、エネルギーなのです。
 このエネルギーという問題は、今までここであまり深く突っ込んで議論されてはいません。しかしエネルギーは悟りの功法に影響を与えてくると言うのです。
 悟りの功法・・それは一瞬においての意志決定と、それを自分のワダチに展開する能力だと言うのです。つまりこの話で、ワダチとは自分で作るプログラムのようなものでもあるのです。
「長生きしても楽しまなきゃあ、意味がないです。仙道のエネルギーはそのために必要です」とも言いました。この台詞は、導師が来日した時も言いました。
 この「楽しむ」という単語は精神世界でもよく使われます。楽しむために人生はある・・・
 しかし、楽しむ方向にハンドルを切ることは出来ないのです。楽しむことは、自動的に起こらないといけないのです。それが悟りの功法にある様子なのです。

エネルギーについて(2000/12/14)

 成田に着きました。以下は機内で書いた事です。
 私は道教龍門派の18代継承人についての本を持っていきました。もちろん導師もその人の事は知っていました。
 彼は幼少より仙道の導師について修行をしています。そしてパフォーマンスにおいてもみんなをあっと驚かすことができます。
 でも導師が言うには、その人よりも私のほうがエネルギーはあると言うのです。(もちろんお世辞半分・・でしょう)
 外に出る形のエネルギーよりも内側のエネルギーのほうが大切だと言います。
 次は私の髪型の話です。
 導師が前回来日したとき私の髪が長くて不評でした。今回も決して短くはありません。
 ちょうど一年前、天人合一の修行のために香港を訪れたときは、道教刈りと呼ばれるほどの短さでした。
 ですので私の中性ファッションの計画などを言うと、導師から否定されるかと思いました。
 私は横浜銀行のイメージガールの髪型が当面の目標です(精神的な目標でなければ目標を持つことはもちろん問題ないのです)。その写真を見せました。


 
 すると「どうせ対極(中性)ファッションを狙うなら、もっと髪を長くしなさい」と言われてしまいました。そして導師は私に、かんざしをプレゼントしてくれました。
 この話がエネルギーに関係あるかって・・?それがありそうなのです。
 私と導師が対極ファッションを物色していると通訳が言いました。
「私は松下電器の専属通訳として随分多くの日本人と接してきました。しかしあなたは結構変わっています。どこが変わっているかと言うと、あなたの興味が現実から飛んでいるのです。40代の日本人と言えば、もっとバリバリのエネルギーがあります。森田さんにはそれがありません。」
 私はエネルギーが無いと言われたのです。
 
 ところでエネルギーが高まると、良い事が増えるのでしょうか?
 瞬間、瞬間に能動的に作られたワダチは、その人にとってラッキーな事ばかりになるのでしょうか?
 ここで導師との旅を思い出して下さい。
 彼女はある駅で決断を迫られました。混雑する列車に飛び込むか、あるいは明日まで待つか・・
 導師はこの日のチケットを寝台にしておくように事前に頼んでありました。その時点でワダチは作られたはずでした。
 導師も私も寝台に乗る予定でした。しかし、アンラッキーにもそれは満席でした。
 エネルギーが高まると、これらの席を確保できるようになるのでしょうか?
 例えば、旅先で雨が上がったりするのでしょうか?(雨を上がらせる能力を自慢する人は多いです)
 こういう操作が出来る人が、この書き込みの最初に紹介した本に出てくる人でした。
 しかし導師は出来ません。私も出来ません。
 その瞬間に出来たことは、最悪の状況の中に飛び込むことだけでした。全力で走って満員列車に飛び込むことだけでした。
 しかし私はこの一連の流れの中にこそ、エネルギーの高さを感じるのです。
 それは何かというと、「エネルギーが高いということは、あるがままを認め、それに飛び込める能量だ」・・・と。
 人は常に完全ではありません。体の中に一つや二つの弱点は持っているでしょう。病気の人もいるでしょう。 生まれつき何かの障害がある人もいるでしょう。
 仕事がうまくいかない人もいるでしょう。人間関係がうまくいかない人もいるでしょう。
 人は常にそういう不完全で一杯です。
 でも、エネルギーが高いということは、そういう不完全な状態をあるがままと認め、それを肯定できる力ではないでしょうか・・・
 不完全な状態を完全に直すことではないのです。
 確かに未来を切り開く力もエネルギーの一つかも知れません。願望実現能力は、それを願う力にも関係していますから・・・。
 しかし次々に起こる出来事をあるがままと認めていく能力は、それを上回ると思うのです。
 
 良くない事が起こると、あなたはこう考えませんか?
「これは試練だ」「これは私に与えられた課題だ」
 もしくはだいぶ時間が経ってから、「あれは次に○○(良いこと)が起こるためには、必要なことだったんだ。」
 でも、これは起こった出来事をあるがままと認めてはいません。「なる」ためのステップとしてしか認めていません。
 この時の時間は、過去から未来に流れています。未来に希望を託している、あるいは未来で精算しようとしています。
 しかし、あるがままを認めることとは、現在その瞬間で精算することです。
 時間が未来から過去に流れるというのは、未来に何も託さないということです。
 さらに、起こった出来事の意味付けをしないことでもあります。意味付けをしないで過去に流すのです。
 時空を信頼するということは、こういうことだと思います。
 あるがままという状態になるには、自分自身はないがままになっている必要があると思います。
 成長しようという意識は「なる」の世界です。その意識がなくなった状態がすなわちないがままです。
 ないがままは「無為」と書きます(仮説ですが・・)。
 導師は満員列車に飛び込み瞬間、「ああありたい、こうありたい」という意識はなかったと思います。
 悟りの功法というのは、その瞬間に身を委ねる能力のような気がします。
 道教の服を着て、車掌に寝台を断られ、最後に走って満員列車に飛び込む様は、外から見るとなんてカッコ悪いのでしょうか・・。
 エネルギーの達人のエピソードからは外されそうな事です。
 でも、私にはこれが本来のエネルギーだと思うのです。
 未来を変えるエネルギーより、あるがままを認めるエネルギーの方がずっと高いのです。
 あるがままを認められないとどうなるでしょうか・・。
 現在の自分に不満を生じ、何かを破壊しようとします。
 それが世間一般に言われているところの悪になるのではないでしょうか。
 嫉妬や競争意識・・これはあるがままではないのです。
 あるがままになったとき、人の魂は自然と外に出ていくと思うのです。
 あるがままというのは、自分を肯定する力なのです。
 これが意外にも、人生で最も価値があることなのです。
 仙道の狙うエネルギーアップのポイントはここにあると思います。
 さて、私は松下電器の社員に比べてエネルギッシュではないと言われました。
 しかし導師からは龍門派の継承人よりエネルギーがあると言われました。
 この差は何なのでしょう・・。
 導師は言いました。
「エネルギーがあるかないかを外から判断することは非常に難しいです。エネルギーというのはとても微弱で内的なのです。男性的か女性的かで判断することは出来ません」
 あるがままを認めるエネルギーは、強いエネルギーではないのです。
 むしろ弱いエネルギーを養うために仙道はあるような気がします。
 そう言えば、松林で感じたエネルギーの風は内側でふいたのです。
 さて、これを書いている最中、窓の外の風景がどんどん変わりました。
 それを出して今回の中国紀行を終わります。