テーマ:「下條さん講演会2006.11」
書き込み期間:2006/11/12〜2006/11/20
要旨:
下條さん主催の講演会に行ってきました。テーマは「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」、特に悪の側面に焦点を当てようという主旨です。
最初に紹介されたのは、何とボスに挨拶しないチンパンジーがリンチに遭う話、そしてさらに衝撃的なことに、子供を殺して食べているチンパンジーの画像でした。
新しいボスが群れの中に入ると、前のボスの子供を殺し、母親までもが一緒になって食べるのです。これは種の保存の法則からは説明がつかないそうです。
よく、同じ種を殺すのは人間だけだと言われていますが、とんでもありません。動物の世界でも、同じ種を殺すのは一般的なのです
。 私は悪/善というテーマに対して、「快楽」という視点から斬り込む質問をしました。つまり、食べる側の大人チンパンジーも、食べられる側の子供チンパンジーも、その時に何らかの快を感じているのではないか、また、ある衝動を抑える時にも、自制する方に快を感じているのではないか・・・と。
この仮説が正しいとすれば、理性は手出しが出来ないのです。
永井均教授という人は、社会的に悪と見なされる行為も、本人にとっては善(快適な、利益になる)行為である、という話をしました。
これは面白い視点です。この話からいけば、悪は善であり、人間は善の行為しか出来ないことになります。
さらに永井教授は、「利今主義」という言葉を出しました。これは、今だけの快を追求することの意味です。しかし、未来の受験を想定して勉強しているような時も、その想定はあくまで「今」がしている行為であって正確な未来ではないので、人間が未来のために行う行為も含めて全て「利今主義」だというのです。
これは講演会での話ではないのですが、もし未来を正確に知っていれば、今ではなく未来の視点から行動の選択をするようになるのではないでしょうか。そしてこの状態が一番「今を生きる」状態に近いのではないかと思います。

犯罪者の精神鑑定を行っている人は、犯罪を起こす要因を人間の内面から見つけることは難しく、環境によって決定される部分が多いという話をしました。
環境が人の行動を決定するという仮説は、下條さんの説とも合致しています。下條さんは吊り橋の実験(吊り橋の上でドキドキしている最中に名刺を渡されると、その相手に恋心を抱きやすくなるというもの)を行ったこともあります。
これを拡大解釈していけば、全ての感情も行為も外からの産物だということになります。なので、悪や犯罪などの問題を追求するには、もっと深い議論が必要になります。
環境が人を決定するという説に対して、「それでは殺人を犯しても本人には何の責任も無いことになるのではないか」という反論もありました。
ここで下條さんは、「私は自由意志は幻想だと思っています」と言いました。続いて「幻想があまりにも強いので、自由意志を無視することが出来ないのです」とも言いました。
興味深い視点や深い話もあり、とても面白い講演会でした。
目次
○子供「なぜ人を殺しちゃいけないの?」、母「同じ種を殺したりするのは人間だけだからよ・・」
○快
○理性はお手上げ
○悪は善である
○利今主義
○悪はむき出し、善は抽象的
○いつ誰が、犯罪者になるのか
○殺人を認めると、商売を失う人が多い
○「幻想があまりにも強いので、自由意志を無視することが出来ないのです」
子供「なぜ人を殺しちゃいけないの?」、母「同じ種を殺したりするのは人間だけだからよ・・」

 下條さんが主幹するセミナーに行ってきました。
 題は「悪/善 人はなぜ人を殺すのか」です。
 スピーカーの一人として、京都大学霊長類研究所の人が来ました。
 ヤバイ、「百匹目の猿」の報告かと思いました(笑)。「みなさんもお猿さんのように善行を積んで、アセンションを乗り切りましょう」などと言うのかと、心配しました(笑)。
 しかし・・です。最初は、ボスチンパンジーに挨拶をしなかったためにリンチに遭うチンパンジーの話です(笑)。
 ゲッ、チンパンジーの世界も、義理人情・盆暮れ挨拶が必要だったのか(笑)。でもそれは、ほんのイントロに過ぎません。
 京大霊長類の人は、いよいよ本題に入りました。
 スライドに大写しになったのは、なんと、子供のチンパンジーを食べているオスチンパンジーの姿です。
 そういえば始まる前に下條さんが言いました。「気の弱い方は、画像を見ないように」・・と。
 ムシャムシャと食べます。そのうちオスだけでなく、メスチンパンジーも、自分の子供なのに、それを食べ始めます。
 画像はこれでもか、これでもかと続きます。私自身、気持ちが悪くなりました。
 最後は、食べ終わったあとの頭だけが、無造作に地面に置かれていました。もちろんまだ顔も健在です。顔や頭は固くて食べられなかったのです。自分の子供の顔と頭だけ、転がっていました。
 今回、下條さんがテーマに掲げたのは、「善/悪」ではありません。「悪/善」です。悪の部分に焦点を当てよう・・となったのです。
 京大霊長類研の人は言いました。
「研究者は、自分の研究している対象(チンパンジーなど)をよく見てもらおうという気持ちがあります。なので悪の部分を隠す傾向にありました。良いところだけを見せよう・・と。でも今回はテーマが悪なので、さらけ出すことにしました。」
 私達は動物と比較されて、次のように言われることが多いです。
「同じ種を殺すのは人間だけです。動物の世界は、同じ種を殺したりはしません。」
 猿の善行ぶりは、幸島の猿では有名です。芋を洗い、競争もせず、みんなと分け合って・・ほんとかよ??
 とんでもありません。挨拶しない無礼な猿は、みんなで取り囲んでリンチ(袋叩き)です(笑)。
 そして極めつけは、子殺しです。もちろん大人の猿を殺すこともあります。

 なぜ子供を殺すのか・・
 チンパンジーの群れの中に、新しいボスが来ると、そのボスは前のボスから出来た子供を殺すのだそうです。そして殺した後はなんと母親まで一緒になり、その子供を食べるそうです。
 子供を食べ終わると、母はまた新しい子供が欲しくなり、発情してそのオスとヤリます。新しい子供は自分の子供なので、殺しません。
 しかし新しいボス猿とて、何も前の子供を殺すことまでしなくても良いでしょう??
 何故か・・。生かしておくと競争相手が増えるから・・という理由も考えられるそうですが、本当のところは分かっていません。種の保存の法則からは、説明がつかないそうです。
 以前、自分の子供が死んだのに、そのミイラをずっとくわえていたチンパンジーの映像がテレビで報道されていました。しかしそれは、ほんの一部の話です。
 本当は、子殺しが一般的なのです。
 種が増えすぎたからとか、食っていけないからとか・・の理由ではないのです。前カレの子供がいると気分が悪いから、殺すのです。
 自然界は、同じ種を殺すことは、一般的なのです。



 講演者の一人に、裁判にかけられた犯人の精神鑑定をする司法精神鑑定医がいました。
 彼は講演の最初に言いました。
「ここに果物が載っている机がありますが、今これをひっくり返してみたい衝動と戦っています。」
 もちろんジョークです。
 さてここからが本題です。
 全ての講演が終わったところで、下條さんが質問を受け付けてくれました。私はいの一番に手を挙げました(笑)。
 下條さんは言いました。
「おお、もう手が上がった(笑)」
 私は指名してもらい、質問を始めました。
「悪・善と快感・快楽の関係を聞きたいのです。最初の先生は果物が載っている机をひっくり返したい衝動にかられていると言いました。それはひっくり返すことの快感を予感したからだと思います。しかしひっくり返しませんでした。それはたぶん自制することの方に快感を感じたのだと思います。カマキリのオスは産卵が終わったメスに食べられますが、その瞬間、オスの脳からは快感を刺激する分泌物が出ていると言われています。つまり食べられることに快感を感じているからです。さて、京大霊長類研究所の人に質問です。食べられる赤ちゃんチンパンジーはその時、何らかの快感を感じているのではないでしょうか? 同様に食べる側の大人チンパンジーも快感を感じているのではないでしょうか?」
 京大霊長類研究所の人は答えました。
「その視点からは調査をしていません。チンパンジーのお肉は美味しいので、確かに快感は感じているかも知れませんが・・」
 今日はこれにて・・

理性はお手上げ

 悪と善の問題を論じるとき、「生命体はそれを選択できるのか?」という問題があると思います。私自身の講演会なら、運命の問題をキーとして斬り込むでしょう。
 しかし下條さん達に、その話題は向きません(笑)。
 では何をキーに切り込めばよいか・・と考えたとき、「快楽」がそれに代わるキーになると思ったのです。
 果物の載った机をひっくり返さないのは、理性が選択しているわけではなく、無意識の領域が「快感」で選択しているのだ・・と。
 つまり「理性」は手出しが出来ない状態なのだ・・と。
 そうなると、悪と善の問題がもっと根源的になるはずです。なぜなら、悪とか善として表出したときは、もう遅いからです。それを議論しても始まらないのです。
 なので私は、「運命が決まっている」ということを「快楽」というキーから斬り込んだつもりでした。そして下條さんは次のように切り返してきました。
「認知科学では『罰の回避』という呼び名があります。机をひっくり返したら受けるだろう罰を、あらかじめ予測して回避することです。それを感知する脳の部分も、机をひっくり返したときに得られる快感の部分と同じ所なのです。」
 やはりそうでしょう・・。
 生命体は、快感がキーとなって、行動を決めているのです(決めるのは無意識です)。理性はお手上げなのです。

 さて、ここから脱線です。
 私は質問などする気はありませんでした。
 私は一番前の席に陣取り、妻は後ろの方で、下條さんのときのクラスの仲間といました。
 休憩の時にロビーに出ると、妻のクラスの仲間の一人が私に言いました。
「きょうも、森田さんの質問が楽しみです(笑)。のど飴あげます、はい(笑)。」
 私はのど飴を貰いながら「今日は質問しませんよ(笑)」と言いました。
 で、私が質問したら、みんなで言ったそうです。「ほら、質問した(笑)。」
 妻のクラスの友達の中には、私の本を偶然に読み、やみつきになって数冊も読んだ人がいます(笑)。その著者がクラスメイトの夫だと知ったのは、去年の下條さんの講演会での二次会です(笑)。
 去年、妻はその人から「森田健さんは家でも女装しているの?」と訊かれたそうです(笑)。
 その人も今回のセミナーに来ていました(笑)。私に軽く挨拶しにきました。
 数日後、下條さんを入れて、みんなで飲みに行くそうです。私はフェルルと留守番です。
 ところで、講演会にクラスメイトが来るなんて、とても珍しいと思いました。
 中学・高校のとき、下條さんの発言はやはり、「意外的」に鋭かったそうです(笑)。

悪は善である

 千葉大学の永井均教授という人がスピーカーとなって話しました。彼は『人はなぜ人を殺してはならないか』という本を書いています。
 彼は、「悪は善である」という趣旨を次のように説明しました。
*******************
「悪」には二つの対立する意味がある。「悪い天候」という場合の「悪」と「悪い行為」という場合の「悪」である。しかしこの対立は意外と見抜かれにくく、意外に知られていない。「悪天候」の「悪」は、「嫌な」「不快な」という意味で、その天候自体がそれを体験する人にとって「嫌だ」「不快だ」ということである。これは、それ自体としての悪、直接的な悪である。それに対して、「悪い行為」の「悪」は、「嫌な」「不快な」という意味があるとしても、それは行為を受ける側であって、行為をする側ではない。行為をする側にとっては、それはむしろ「好い」「快適な」「利益になる」ような事項であることが多い。多いどころか、すべての場合にそうだとも言える。なぜなら、そうでなければやらないであろうから。したがってこれは間接的に悪であっても、直接的には善であると言える。これが「道徳的な悪」の意味である。道徳的な悪は必然的に間接的である。
********************
 以上です。
 本人にとっては「善」のことが、相手や社会にとっては「悪」となるので、彼は「悪は善である」と言ったのです。これはとても面白い視点だと思います。
 本来人間は、「善」しか出来ない・・ということになります(笑)。それを「悪」と決めつけるのは、周囲なのです。

利今主義

 世の中には「利己主義」という言葉があります。しかし昨日紹介した千葉大教授は、今だけの快を追求することを「利今主義」と名付けました。「りこんしゅぎ」と読みます。 動物は大抵、「今」しか眼中にありません。なので多くは「利今主義」で生きています。
 しかし例えば、人間の受験生は半年後に試験があることを知っていて、それで勉強します。これを「利己主義」と言います(笑)。
 でも時々、勉強をさぼって「利今主義」に戻ります(笑)。
 さて、この話の展開の最後は面白いことになりました。
 普通の人間は未来を正確に知るわけではありません。つまり未来を知っているつもりになっているわけです。
 受験生にとって来年の受験は、何らかの事故で受けられないかもしれないのです。
 つまり、想定できる未来に関して対処しているだけのです。しかし想定するのは「今」がしている行為です。
 ということは、人間とて全て「利今主義」で生きているというのです。

 ここからはセミナーの話題ではありません。ここのHPだけの話になります。
 もしも高い確率で未来を知っていたらどうでしょうか・・。「今」での選択の仕方が変わってくると思うのです。
 つまり「今」から見て「想定」できる未来ではなく、ほぼ正確な未来を知っているがために、未来の視点から今を見るようなことが出来るのではないかと思います。
 そうなると「利未主義」です(笑)。でも未来をある程度知った私の生き方から言わせれば、この状態が一番「今を生きる」状態のような気がします。

悪はむき出し、善は抽象的

 いよいよ下條さんの話に入ります。とは言っても、彼一人の講演タイムがあったわけではありません。講演が始まるイントロの部分と講演者に対する質疑等から、彼の言葉を抜き出したものです。
 その一つが「悪はむき出し、善は抽象的」ということです。
 悪は「〜してはいけない」というような言葉で書くことが出来ます。しかし善はどうでしょうか? 言葉で明文化することが出来ないのです。
 この発見は、すごいです(笑)。言葉に出来ないということは、何が善か、分からないということです。
 悪は分かるけど、善は分からない・・とても不思議な関係です。
 しかし言葉にしてしまっている人達もいます。それもある意味すごいです。
 あまりにすごすぎて、これ以上書けません。

いつ誰が、犯罪者になるのか

 果物の載った机をひっくり返してみたいと言った人が講演をしました。
 彼は司法精神医学と言って、刑事事件の犯人の精神鑑定を行っている人です。
 彼は言いました。「凶悪な事件を起こした犯人に会うために独房に行くと、そこにはどう考えても普通としか思えない人がいるときの方が多い。」
 彼はパンフレットに次のように書いています。
『重大な犯罪が起こるたびに犯人の人物像にスポットが当てられます。なぜこんな事件が起きたのか。手軽な答えは「犯人が凶悪な人間だから」です。19世紀に発達した犯罪人類学や精神医学では「生来性犯罪者」や「背徳症」、つまり生まれながらにして犯罪へと運命づけられた人間のカテゴリーが存在すると唱えられてきました。これらの学説は過去のものですが、近代北米を中心にポピュラーになっている「サイコパス」は、科学的に洗練されているとはいえ、「邪悪で危険な人間」の現代版とも言えるものです。こうした邪悪さを特殊な人間カテゴリーによって説明する立場の対極にあるものは、ある種の状況に置かれると人は誰でも邪悪になり得る、という仮説です。これは心理実験、戦闘、カルト、人質、強制収容所など、極限の中での人間の心理と行動を手がかりに解明されるでしょう。』
 つまり後半の仮説は、人間は環境によって決定される部分が多く、そうだとすれば、「悪」というのは人間の内面に存在するものではなくなります。
 例えば判決を言い渡す裁判官とて、同じ状況に育ち同じ状況に遭遇すれば、同じ事件を起こしかねないのです。
 今日のタイトルは「いつ誰が、犯罪者になるのか」ですが、彼の講演の題名そのものです。
 条件が整えば誰でもが犯罪者に豹変するとすれば、これは「私は原因」ではありません。「私は結果」なのです。
 司法鑑定の第一線にいる人がこういう考えを持つのは、とても分かるような気がします。犯罪は「彼でなければ起こせなかった理由」は、探しにくいのかも知れません。

殺人を認めると、商売を失う人が多い

 環境が人の行動を決定するという仮説は、下條さんも支持しました。吊り橋の実験などが良い例です。
 吊り橋の向こうから歩いてくる男性に、反対側から歩いてきた女性が、吊り橋の真ん中で名刺を渡します。もう一方では、普通の道で名刺を渡します。
 すると、吊り橋の上で渡された男性の方が、圧倒的にその女性に電話をかけてくるのです。彼女をデートに誘うためです。
「吊り橋」以外のシチュエーションは同じなのに、普通の道で渡された男性は電話をかけないのです。
 吊り橋の上はドキドキします。そのドキドキ感を、恋心だと思うのです。しかし彼女を本当に愛しているわけではありません。
 これを拡大解釈していけば、全ての感情は外からの産物だと言えそうです。つまり人は、外応に反応して動いているだけだ・・と。
 これをさらに拡大解釈していけば、殺人は本人の責任ではなくなります。なので、もっと深い議論が必要なのです。
 でも司法鑑定士は言いました。
「犯罪を調査・判定する第一線の人達は、なぜ人は人を殺してはいけないかということを全く議論しません。それはおそらく、これを考えていくと、商売を失う人が多いからではないかと思います。自分を含めて・・ですが(笑)。」
 原始時代は法律も無いので、警察も裁判所もありませんでした。だからといって現代よりも殺人が多かったとも思えません。

「幻想があまりにも強いので、自由意志を無視することが出来ないのです」

 下條さんが「環境が人を決定する」と言ったとき、利今主義という言葉を作った永井氏が反論しました。
「その考え方からすれば、殺人を犯す者に何の責任も無いことになりませんか?」
 このHPでもよく話題になることです。運命が決まっているのなら、私に原因は無い・・と。
 ベンジャミン・リベットという人の本をここで紹介したことがありました。意識は0.5秒遅れるということを実験で証明した人です。その本を翻訳したのは下條さんです。その人のことを話題に出しながら、下條さんは次のように言いました。
「ベンジャミンは最終的には自由を救おうとしました。しかしみじめに失敗したと思います。私は自由意志は幻想だと思っています。」
 永井氏は食らい付きます。「ということは自由意志は無いということですか?」
 ここで下條さんはとても意味深げなことを言いました。
「幻想があまりにも強いので、自由意志を無視することが出来ないのです。」
 このHPでは運命は決まっているという意見が大半です。その側面からしても、自由意志は無いように見えます。
 ところが私達は、毎日「自由に選択して」生きているように感じています。
 下條さんは自由意志は幻想だと言いますが、もしもこの世が幻想ならば、それが本質と言えるのかも知れません。
 最後は煙に巻いたような感じで終わりましたが、とても面白い講演会でした。これで、下條さんの講演会の報告を終わります。

 ところで今日、リベット氏の本の情報をメールで送ってきた人がいますので、以下に載せます。大変に長いです。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
 もりけんさんのHPのメインコーナーとリンクする内容が載っている本がありました。 B.リベットの意識は0.4秒遅れ、という話の続きの仮説もあります。
 この内容は本で7ページほど割いていて、そのままHPにアップするには長すぎるしまずいのでメールしました。もし興味がありましたらご覧ください。
************************************
「心が脳を変える・・・脳科学と心の力」ジェフリー・M・シュウォーツ著
 
意思が生まれる瞬間をつきとめる P331
 
自由意志の存在が疑われている中で、99年夏に「意識研究ジャーナル」特別号「意志的な脳:自由意志の神経科学に向かって」が発行された。タイトルの「向かって」という言葉は、わたしたちがまだそこに到達していないことを表している。だが「神経科学」と「自由意志」が組み合わせられたことは、自由意志を哲学ではなく科学研究の対称にすることなどできるのか、という姿勢をめぐる潮目の変化を表していた。なかでも自由意志を神経生物学のレーダーにかけることに積極的だったのが、ベンジャミン・リベットだった。リベットの実験は神経科学の分野でも特に物議をかもし、解釈をめぐって激しい論争が展開された。
・・・中略・・・
 リベットは2000年末に昼食時に話してくれた。「一緒に研究していたジョン・エックル氏がある日、コンヒューバーとディーケの実験からすると、行動しようという意志が行動のほぼ1秒前にスタートすることになる、と言った。わたしは、そうかなぁ、そんなことがあるだろうか、と思った。いずれにしても、意志がいつ発生するか、その瞬間を測定するなんてできないだろうと考えたんだよ。ところが、いいアイデアが浮かんだんだ。」
そのアイデアとは、行動したいという意志を認識した瞬間をピンポイントで掴もうと言うものだった。リベットは82年と85年に行った実験で、好きなときに手首を曲げたり延ばしたりしてくれ、と被験者に言った。手首は、リベットの言葉によれば「まったくの気まぐれで外部的な制約はぜんぜんなしに」動かすことになっていた。被験者の頭蓋に取り付けた測定器で、運動の準備に伴うニューロンの変化を示す準備電位を測る。その結果、平均して手首の筋肉が動く550ミリ秒前に準備電位が現われることが分かった。だが、準備電位の後に必ず筋肉の運動が起こるわけではなかった。「脳は明らかに、この自発的運動のプロセスの意志のほうの部分を、運動を起こす筋肉の活性化よりもずっと前に開始していた」とリベットは99年に述べている。つまり、リベットが検出した準備電位から筋肉の運動に直接繋がる筋肉の活性化までには、時間的な開きが相当にあったのである。
では、運動に先立って進むべきルートを調べる斥候のようなこの脳の奇妙な信号は、どんな役割を果たしているのだろう。リベットは被験者に、いつでもその気になったら手首を動かしてくれと指示していた。彼の次の重要な疑問は、動かそうという意識的な意図はいつ生じるのだろうと言うことだった。「意志」とは活動を開始する何ものかである、と言うそれまでの考え方からすれば、「意図する」という感覚は感覚は準備電位の表れより前か、少なくとも同時でなければならない。そうでないと、意志が行動に転じるより前にニューロンの信号という列車が駅を出てしまう。それでは、意志はすでに走り出している行動に、後から同意するだけというだらしのないことになる。だがニューロンの信号からすれば、550ミリ秒は永遠と思えるほどに長い。「意識的な意志が運動の550ミリ秒あまりも前に現われるというのは、直感的に納得できない」とリベットは思った。運動までの時間が長すぎる。それでは、意識的な意志が準備電位の後に生じると言う可能性はあるだろうか?そうなると「自由意志をどう見るかについて、根本的な影響を与える」ことになる。
そこでリベットは、意志が本当はいつ現われるかを実験で確かめようとした。最初は、意志の始まりを測定するのは「不可能」だと思われた。だが、いろいろと考えたあげく、リベットは被験者を椅子に座らせ、動かそうという意志を認識した瞬間の時計の秒針の位置を見てもらった。ここで問題になっているのは一秒よりも短い時間だから、ふつうの秒針では役に立たない。もっと早いものが必要だ。彼は秒針の代わりにオシロスコープの光の点の動きを使うことを思いついた。光の点は秒針のように、だが秒針よりも二十五倍早く回る。オシロスコープの一目盛りは40ミリ秒ということになる。
こんなに早い光の点動きを追うのは難しいかと思われたが、リハーサルをしてみるとリベット自身も含め被験者はかなり正確に目盛りを読み取ることができた。被験者に弱い電気ショックを与えて、光の点はどの目盛りをさしていたかと訪ねると、50ミリ秒以内の誤差で読み取ることができたのだ。「これで準備は整った」とリベットは言う。
リベットの指示に従って、五人の被験者が魂か何かの赴くままに手首を動かした。同時に、動かそうという意志を始めて意識したとき、オシロスコープの光の点が目盛りのどこにあったかを報告した。リベットは被験者自身の報告と、同時に測定していた準備電位とを比較した。四十回の実験結果の解釈は簡単ではなかったにしても、関連性ははっきりとみられた。準備電位は筋肉の動きのほぼ550ミリ秒前に現われた。行動しようという決断が意識されるのは、運動の100ミリ秒から200ミリ秒前−準備電位が現われてから350ミリ秒あとだった。準備電位(無意識)、決断(意識)、行動という順序になる。
こうしてリベットは、リチャード・グレゴリーの有名な「しないという自由意志」にあたる自由意志の存在を始めて実験的に確かめたのだった。ちょっと考えると、動かそうという意志より前に準備電位が検出されれば、自由意志は葬り去られるのではないか、という気がする。動きにつながる脳の活動は、被験者が動かそうという意志的な決断をしたと思う時点より前に始まっているからだ。この実験結果から考えると、ニューロンの信号という列車はほんとうに駅を出てしまっている。自由意志が存在するとしたら、乗り遅れた客のように、「待ってくれ! 待ってくれ!」と叫びながら線路の脇を走っている状況だろう。
だがリベットは、自由意志は都合のよいフィクションだという説が証明されたとは解釈していない。ひとつには、意志と筋肉の運動との 150ミリ秒前後の間隔は、「意志的なプロセスの最終結果に意識の機能が影響を及ぼすには十分な長さ」だということがある、と彼は指摘する。リベットの実験結果についてはいろいろと激しい議論が交わされたが、実験的な裏づけもある重要な解釈は次のようなものである。「拒否権を発動して意志的なプロセスを妨げ、実際の運動が起こらないようにする」という脳の意識的な活動が存在すると見るのだ。「行動しようという衝動に対する拒否権の発動、それは人が一般に体験している」とリベットは言う。これはもちろん、気づきをベースとしたOCDの治療の核心であり、「ある活動をさしひかえるというものも、活動するのと同様に活動である」と言うシェリントンの洞察にも重なる。
83年に発表された実験は、被験者がまさに起ころうとしている−脳が準備を整えている−運動を「しない」という選択ができること、その選択の前に大きな準備電位が起こっていることを示している。この見方によれば、運動の衝動に伴う物理的な興奮は無意識のうちに起こっているが、意志はその行動に対して拒否権を発動し、「ノー」ということで結果をコントロールできる。
・・・中略・・・
リベットの発見は、自由意志というものが運動を起こそうとする始まりではなくて、運動をそのまま進行させるかおしとどめるという動きをすることを示唆している。「自発的な行動の無意識の始まりは脳の中で『わき起こって』くるとみることができるだろう」とリベット説明する。「次に意識的な意志が、それらの衝動のどれを行動に発展させ、どれには拒否権を発動してやめさせるかを選ぶ。宗教や倫理は『自分をコントロールしなさい』と教える。十戒のほとんどは『するなかれ』という命令だ。
実験結果についてのリベットの考え方の変化は、意志の実在についての神経科学界全体の考え方を反映している。リベットは長い間、自分の実験結果を自由意志と結び付けようとはしなかった。何年も論文に自由意志という言葉を使わなかったし、実験結果から突っ込んだ結論を引き出すことにも抵抗した。だが後年リベットは、自由意志が脳からわき起こる考えに対して門番の役割を果たしているのではないかと考えるようになり、その考え方が倫理的にどんな意味を持つかという問題も避けようとはしなくなった。
・・・中略・・・
ところで、自由意志は門番だと考えると、さらに疑問が起こる。この門番はどうやって、どの考えを通過させてどの考えは押し戻すと決めるのだろう?表現していい考えときっぱりと拒否権を発動する考えをどうやって決めるのか?リベットは、自分が発見した550ミリ秒の間隔が自由意志の働き方のヒントにはなるだろうと認めながらも、これだけでは、意志的な行動が過去と脳のニューロンの状態によって決まるのか、それとも行動しようとする意志は物質的なプロセスに還元されず予測されないという意味で、本当に自由なのかはわからないという。脳にわき起こってくる衝動は個人の過去−記憶や経験や社会に教えられた価値観など−と現在の状況が源になっているのではないか、とリベットは考えている。意志的な行動が厳密に決定されているのなら、そして行動の可能性に対する脳の拒否権が先行するニューロンに厳密に決定されているのなら、また出発点に逆戻りだ。たぶん無意識のニューロンの状態が全てを決めることになるだろう。
だがリベットはそうではないと主張する。「わたしがいっているのは、意識的な拒否権は先行する無意識のプロセスを要件とせず、あるいはその直接的な結果でもない、ということだ。アイデンティティ理論まで含めて心と脳のどんな理論も、論理的に特定のニューロンの活動が機能の意識的なコントロールに先行し、その内容を決定していなければならない、とはみていない。それに、コントロールのプロセスが先行する無意識のプロセスの展開なしに現われる可能性を否定する実験結果もでていない。」
リベットは2001年に85歳になったが、その情熱は今も少しも衰えてはいない。だが彼は人々が耳を傾けるはずはないと諦めているようだ。
私の議論は決定論に反するから、ほとんどの神経科学者はどうにも落ち着かないのだ。
だが物理学の法則は主観的な経験ではなく物理的な対象を研究して発見されたものだ。
脳の何兆モノシナプスのつながりや、脳を形成する回路について完璧な知識を得たとしても、その脳が何をするかは予測できない。
仏教徒もウィリアム・ジェームズの哲学も、意思の解釈では一致している。仏教によれば、気づきあるいは関心が生じる意識の質を決定し、したがって行動(カルマ)を決定する。自分の意志で選択できるのは、ある瞬間の考えに向ける関心の質だけだ。
************************************

書き込み期間:2006/11/12〜2006/11/20