テーマ:「性差とアイデンティティ(1)」
書き込み期間:2001/02/09〜2001/02/26
要旨:
私は神を知りたくて女装をしています。その時、弱さを出せない自分に「こんちくしょう」と心の中で呟くことが何度もあります。私は最近、神は弱い方向に向かっているという気付きを得ました。なのに人は強くあろうとします。
私は自由と弱さへ向かうことが真の意味の成長だと考えています。これは一般的な成長とは反対です。そしてその方向へ行くのは一歩ずつ登っていくことしかないと思います。ステップ・バイ・ステップです。
 
神は何も為さないために私達を創ったのではないかと思います。強く立ち向かって何かを成し遂げている時よりも、負けて撤退していく時にこそ、神は一緒なのです。
「為さないこと」に関連して、選択についての気付きもありました。選択したものではなく、選択できなかったものに焦点を当てるようになったのです。洋服を選んで買う時にも、私が選択しているというよりも、場によって選択させられているという感じがします。
私達は何かを選択して実現したと言いますが、それは他の全て(359度)を切り落としたということでもあります。ですが、為さなかった事、選択しなかった物もまた、とても味わい深く重要なものだと思えるようになりました。
女性の洋服選びをしている時に、「受身的」ということを感じました。女性の服装は「私はこういう人だ」というメッセージを出すという役割が大きいのです。男性の場合は、服装にメッセージを出すよりも行動での勝負を重視します。
能動的に人生を切り開こうとするのが男性性なら、受身的に待っているのが女性性です。私は女装して、受身的な女性性にホッとするような良さと価値を知りました。
「これからは女性の時代だ」と言われますが、これは女性が男性社会に進出するということよりも、むしろ男性の方が女性性に近付くことを意味しているのではないかと思います。
目次
○神との遭遇
○ワダチの成長
○初めてのお化粧の感想
○何も為さないために
○プレッシャー
○為すことと為さないこと
○359度
○紙一重
○何か面白い事
○基準と変化
○この世界は固いか柔らかいか
○受身的ということ
○秋葉原への外出風景
○「これからは女性の時代」・・・でしょうか?
○ずっと疑問が・・
○人は無能になるまで登り詰める
○脱工業化社会と精神健康
○サラリーマン終焉後の情報操作労働における失調
○妥協労働の付加
○妥協労働の付加(続き)
○ゼロ歩(完結編)
○為さず
神との遭遇

 ある学園でミニミニ講演のようなことをやりました。
 そして最後に学長が私に訊きました。「森田さんはなぜこんな調査をやるのですか?」
 私は答えました。「神を引きずり出したいからです。言い換えれば神はなぜ我々を作ったのかを知りたいからです。」
 盛り上がった場所でこれを言うと、結構白けます。
 私は神との遭遇しか興味ないと言ってもよいくらいです。女装も、神を知りたいからです。
 神はなぜ男と女を作ったのか・・ なぜ一回の転生で一個の性しか経験できないのか・・
 お陰様という概念はあったにせよ、神がもっともっと弱いものに向かっているという発想は、シンセンの旅で得たものでした。
 なのになぜ人は強くあろうとするのか・・。
 社員20人をかかえる中、社長がスカートで出勤して良いものかどうか・・その責任はどうするのか・・。
 昨夜、狭間という単語を使いました。スターウオーズの一番最初のヤツで、最後に敵の惑星の溝に、小型戦闘機が飛び込むシーンがあります。あれが狭間です。
 飛び込んだら、行くしかないのです。まさにワダチ・・・。
 今の私は本当にバカなことをしようとしているのかも知れません。でも、私は神を知りたいのです。
「自由へ」とサインしながら、スカートすら履けない私を自由にしたいのです。でもそんなくだらない自由の向こうに、神はいるのでしょうか? 
 時々「こんちくしょう」と心の中で言います。
 それは強い自分に言うのではないのです。弱さを出せない自分に言うのです。
 社会的に認められた目標があり、それに邁進しているときは「こんちくしょう」などと言いません。
 でも、社会に認められていないことをするとき、・・いや、それが出来ないとき「こんちくしょう」なのです。
 そんなに自分を守りたいのか・・そんなに自分が可愛いのか・・
 私は誰でもない・・だったら関係無いじゃないの・・。何したっていいじゃないの・・
 でも「私はやはり私です」という私がいるんです。

ワダチの成長

 私はいわゆる成長論者ではありません。成長はエゴだとすら言います。
 そのときの成長とは、自分で方向性を持ち、自分で向かうところの成長です。それは真の意味の成長ではなく、大義名分の為の成長だと思います。
 たとえば「ひとかどの人間になりたい」という具合にです。自己満足のためです。
 真の意味の成長とは何でしょうか・・
 私には仮説があります。それは「ワダチでの成長」です。
 これは真の成長なのではないかと思います。つまり意識せずにしてしまった成長です。
「ワダチでの成長」は一生を通じて起こると思います。
「ワダチでの成長」とは何かと言うと・・いや、これは最大の問題ですね・・。
 それは・・自由の方向へ少し広がる・・弱さを出せる方向に少し広がる・・だと思います。
 一般的に言うところの「律して、愛する人間になる」とは正反対なのです。
 自由の方向に、弱さの方向に広がっても、狭間は相変わらず狭間だと思います。どこまで行っても、その人の選択肢は狭いのです。
 ナチの兵隊の選択肢も狭ければ、コルベ神父の選択肢も狭いのと同じです。
 人は自由になると不自由を選択しなくなるからです。
 しかし、自由の方向、弱さの方向にどうやったら行けるのか・・その変化はまさにステップ・バイ・ステップだと思います。
「あるがまま」に「なる」ことは出来ると思います。
 努力したらあまがままじゃないじゃない・・と言う人がいますが、リラックスに「なる」ことは出来ると思います。
 しかしちょっと前まではこうは思っていませんでした。努力してあるがままになることは、嘘のあるがままだと思っていました。
 しかし、努力の見返りはあるのです(どひゃ〜、言っていることが正反対じゃん)。
 
 何故こんなことを言い出したかというと、対極ファッションの成果なのです。
 一歩登ると、次のステップがあるのです。一気に変わることはありません。一歩上がると、環境にも影響を与えます。
 誰かがここで成長すると、それはみんなに波及する効果があると思います(ある意味ではミーム効果かも知れません)。
 22年前、ドアまで這っていく歴史が無いと、2月14日に0.00001秒で辞表を出す歴史も無いのです。
 今の一歩は、必ず何かしらの良い影響を残すはずです。長いスパンで見れば、成長していない人間なんていないのです。だからどんな事も、良い影響として残るはずなのです。 
 歴史を見ても、それは分かると思います。
「ないがままになる」「あるがままになる」ということはあり得るし、そうしかならないと思います(これは神のレベルの話なのでまた別の機会にしたいです)。
 でも「ワダチの成長」を得るためには、ワダチ以外の成長を手放す必要があると思います。 
 成長を意識せず、今、ここを生きるのです。今、ここの弱さを感じるのです。
 すると、それは結果的にその人を自由の方向に広げていくと思うのです。

初めてのお化粧の感想

 妻が言うには、「男性は普通、お化粧しないで済むのだから羨ましい。なのに何故わざわざお化粧するの?女性は全くしないと、女を捨てているみたいだからしょうがなくてやっている人が多いんじゃないかな・・」
 何故わざわざ・・と訊かれると、何故わざわざ私はスカートに挑戦したいのかという疑問にもぶち当たります。
 ナチュラルに男として生きていけばいいじゃないの・・
 しかし食べることだけに満足していれば、不思議研などを始めていません。
 神は、何故わざわざ宇宙を存在させたのか・・
 神は元々あったとすれば、宇宙など作らずにそのままノホホンとして暮らしていれば良かったじゃないの・・何故この三次元だのの世界を作ったの?
 これはなぜ今、私はお化粧するのか・・という疑問に似ています。意味ないじゃん・・なのかも知れません。
 でも今は、意味が無いことを知るだけでも意味があるのです。
 私は色々経験したいんです。色々な自分になってみたいんです。神もひょっとしたら、同様かと思ったりもするのです。
 ステップ・バイ・ステップです。
 初めてのお化粧があるから、いつかは「究極の私自身のお化粧」があるのです。
 しかし誰にも迷惑をかけることはないのに、何故こんなに勇気が必要なのでしょうか・・。
 何故こんなにドキドキするのでしょうか・・・
 お化粧品のパッケージを一つ一つ開けながら、私の中で新しいドアが開こうとしています。口紅を塗りながら、ちょっとしたエクスタシーに浸るのが分かります。
 私はこれから、もう戻って来られない世界に行ってしまおうとしているのかしら・・・

何も為さないために

 サイババは言いました。「私達はみんな神だ。なのに貴方達は神であることを忘れている。私は神(の分身)であることを知っているから物質化現象ができる。」
 私はこの言葉に疑問を持っていました。
 しかし最近サイババがトリックをしていたという話(そういう本が出たという話)を聞き、逆にサイババが好きになりました。トリックをする人なら、彼は神なのです。
 人が出来ない事(たとえば物質化現象とか)をすることが神の証でしょうか?私はそうは思いません。何も出来ない時、人は神なのです。
 もう進めない・・と躊躇する一瞬・・そこで帰ってきても良いのです。
 チャレンジすることだけが神ではありません。むしろ、撤退する時こそ神そのものだと思います。撤退する時、人は孤独だからです。
 撤退する時は勇敢ではありません。人からも、運からも見捨てられています。でも、その時こそ神は一緒なのです。
 チャレンジして行く時は、神は一緒にいる必要はないのです。あなたは強いからです。
 もう進めない・・こういう状態を今まで何度味わったでしょうか・・
 なんて私は意気地なしなんだ・・何度こう思ったでしょうか・・。
 つまづき、倒れ、進めず・・神はそのとき一緒なのですが、やはり私達に何も出来ないのです。
 サイババが疲れ、きょうはダメだと思い、トリックをする・・その時、彼は本当に神の分身だと思います。私の中での神は、こういう性質なのです。
 自分自身で初めてのお化粧をしてランチに行こうと言ったら、家族から断られました。
 その後、私は自分の写真をアップするために屋根裏部屋の書斎に行きました。
 そのとき妻は思ったのだそうです。「断ったのでガッカリして自分の部屋に引きこもってしまった」・・と。
 でもそれほどガッカリはしていません。出て行こうという気になっただけでも、自分を評価しています。
 ところが私はまだスカートで外出できません。意気地なしだと思います。そういう時、私は神を感じるのです。
 何かができない時・・非難され、撤退する時・・神を感じます。何かが出来て・・チャレンジしている時よりも・・。
 
 神は、何かを為すためにこの世を作ったのではないのではないかと思います。為さないために作ったのです。
 だとすると、目標を持ってそれを実現した人よりも、実現できなかった人の方が神に近いとも言えるのです。
 ひょっとすると実現してしまった人の方が、カルマを残すのではないでしょうか?
 だってよく考えてみれば、「実現した」などと言うのは、エゴを大義名分化したにすぎません。
 何を「実現した」と言うのでしょうか?あなたの欲望ですか?
 老子は言いました。「役立たずの人間になりなさい。」
 これは実現しない人間になりなさいという意味ではないでしょうか・・。
 負けて撤退する時、神は一緒なのです。チャレンジしてできない時、神は一緒なのです。
 神は完全ですか?完全だとすれば、「出来ない」、「弱い」ということで完全なのです。
 チャレンジしている時、目標に邁進している時、人はハンドルを握っています。
 しかし、壁にぶち当たり、「もう、これ以上、無理だ・・」と思った時、人はハンドルを離しています。
 しかし助けてあげたいと思った神も、やはりハンドルを掴めません。
 でも、その時あなたは神と一体です。撤退するのですが、神と一緒のワダチなのです。
 商売がうまくいかない時・・試験に落ちた時・・人間関係がうまくいかない時・・すべてに言えます。
 老子はさらに言っています。「成功ほどの失敗は無い」・・と。
 神はこの宇宙を、何も為さないために作ったのです。

プレッシャー

  
 プレッシャーは何かと言うと・・
 『「不思議の友」5』を印刷屋に入稿しました。
 その時点で、最終ページが一ページだけ余ってしまうことが判明したのです。それを書かないといけないのです。
 プレッシャーって、たったそれだけです。な〜んだ・・と思うでしょう。
 しかし最終ページというのはとっても書きにくいのです。
 しかも隣には、孫さんが滝のところで両手を広げている写真のある「癒しのページ」なのです。さらに本文にはあとがきがあります。
 だから自分としてはもう終わったつもりだったのです。
 しかもです、今の私にはポジティブなものの見方というのが出来ないのです。
 だったら正直に思ったことを書けばいい・・と言うでしょうか?
 人が思った事を出来ないという理由の大半は、他人の目を気にするからではないでしょうか。スカートを履いて出勤できないのも、そのためです。
 さらに、人が思った事が出来ないのは、その後のことを意識するからです。大半の精神世界は、ここからの脱却に焦点が合わさっています。
 出来ることが出来るようになる・・ために。言い換えると願望が実現できる自分になれるように・・。
 でも私の考え方は変わりつつあります。やろうとしても出来ない事に、焦点が当たりつつあるのです。
 パンを与えたコルベ神父よりも、パンを盗んだ側に神はいたのではないかと思うようになったのです。 
 今までの私なら、プレッシャーなどとは言いませんでした。むしろ、そういうものにチャレンジしているというところに価値を感じていました。
 最終ページの孫さんを見ながら思いました。孫さんは出来なかった時の方が多いのです。
 そして出来なかった時にこそ、マスター(指導霊)は付いていたのではないかと思います。
 出来た事を成功と言い、出来なかった事を失敗と言います。でも、それはそうでしょうか?
 私達は成功するために生きているのでしょうか?達成するために生きているのでしょうか?(そういう世界に生きている人にとっては、何の役にも立たない私の意見です。)

為すことと為さないこと

 『「不思議の友」5』について、印刷所から指示が来ました。
「1ページ余ってしまいました。最後のページに何か埋めてください」
 これがプレッシャーを引き起こしました。何故かというと、1ページ埋めるという目的が生じたからです。
 その目的は外部から来ました。これが途中ページならそれほどのプレッシャーにはなりません。しかし最後のページは別です。
 おまけに印刷会社に入れたという虚脱感(終わったという安心感)も味わった後でした。
 さらにここ連日「為さざる事」について書いているのも原因です。
「やりたくなきゃあ、やらなきゃいいじゃないか・・」こういう声が聞こえました。
 そのとき気が付きました。ページは対になっているので、どこかで1ページをカットすれば書く必要は無いのです。
 しかし今までの私ならこういう選択はしません。書くペースがあれば何が何でも書きます。でも昨日はその気がなくなったのです。そう決めて寝ました。
 ところが翌日の夕方、猛然とその気が起こったのです。題名は「今の私」です。
 一度書き込みしたことがあるテレビドラマから今の私を書きました。今、まさにここでやっているテーマについて書きました。神は為さざる側に付いている・・と。
 もしもこのテーマを、ページを埋めろという外部の目的のために書いたらどうでしょうか・・
 矛盾しているのです。為さざるというテーマを為すための道具として使うからです。
 人は生まれる前にビジョンを持っていたということを精神世界の人は言います。
 そして我々はそれを忘れているのが問題だと・・。それを思い出しなさい・と言います。
 でも、それはやはり為すことですよね。
 もしもバースビジョン(生まれる前のビジョン)を持ったとしても、それを忘れて何がいけないのでしょうか?
 それをやらないと死んだとき神様から「お前は全然関係ない事をやってきたではないか」と怒られるのでしょうか・・まるで宿題をしなかった夏休み明けの様に・・。
 今を生きるとき、昔の計画などどうでも良いはずです。
 バースビジョンは、「1ページ埋めなさい」と言うのと似ているのです。
 先にスペースありきの人生では無いのです。スペースは今、この瞬間に作られ、作られた瞬間に埋められるのです。
 私が最後の1ページを書けたのは、一度諦めたのが原因だと思います。

359度

 これからまた、一連の「為さず」の延長にある書き込みをします。選択についてです。
 精神世界では「今選択することが大事です」などと言います。私達の大半も選択が全てだと思っています。
 しかしです。私は今日も、女性服の買い物に行きました。
 そこで思いました。選択したのではなく、選択できなかったということを・・
 服を見ていく時、「これは着られない」というのばかりなのです。
 色が派手だったり、超ミニだったり、はたまたオバサン風だったり・・。
 そして結局今日もワンピースを二着買いました。何故ワンピースかと言うと、下にパンツ(ズボン)が履けるからです。
 実際に家で着てみると、パンツを履いても脱いでも、似合いました。
 これから女装で街を歩くという方、是非ワンピースがお勧めです。まずは下にパンツを履いて挑戦すれば良いのです。ミニのワンピースにパンツはよく似合います。
 そこへ行くと、スカートが分かれているタイプのは下にパンツを履けません。
 
 話を戻します。最後に買ったワンピースは消去法で残った選択肢だったのです。
 私は選択しているのではなく、選択させられているのです。主人公は「場」なのです。
 場・・それは常識とか、世間の目とかです。無難な物を選ばされているのです。
 こうして考えると、最後に選択したものが重要ではなく、選択できなかった多くの要素も重要なのです。
 選択出来なかった多くの要素と、私達は会話していたはずなのです。
 物だけではありません。人生における選択肢も同様です。
 あの時点でああいう選択を積極的にしたのではなく、他の359度の選択肢を切り落としたことがそのときの選択なのです。
 359度は「為さざること」だったのです。
 しかしよく考えてみると、その為さざる事は、とても味わい深いのです。
 ああすれば良かった、こうすれば良かった・・
 人生はこういう連続ですが、選択できなかったことに本当の意味があるような気がします。
 今私は、今日買えなかった服を一つ一つ思い浮かべてみました。
 どれも私を変身させる物ばかりでした。でも出来ませんでした。
 こうして人は、自分というものを保ってしまうのです。
 自分を保つから出来ないのです。でも自分を保つこともとても重要なのです。
 選択より、非選択に神が宿ると思うのは、こういう対話を発生させるからだと思うのです。
「思えば何でも実現するという路線」で行くか・・、「実現しなかったところに思いを馳せる路線」で行くか・・、どちらも同じ価値があるような気がします。
 昔、出来なかったことを思い浮かべるのは嫌なものでした。
 しかしこういう考えに移行しつつある今、少し苦笑しながら今日一日のことを思い出す・・。
 そのとき、神とワインでも飲みたくなる心境に駆られました。
 うまくいかなかった人間関係・・うまくいかなかった仕事・・どれも359度を捨てた結果でした。
 359度の中に、許しがあるような気もします。

紙一重

 選択という行為は普通、無意識に行われているような気がします。
 毎度、自由意志を行使して選択をしていれば、疲れてしまいますし・・。
 そして選択した結果が初めて意識に登るのではないでしょうか・・
 昨日の女性服選びの時にそうだと思いました。
 私はざっと店内を見渡し、あるコーナーにだけに歩いていきました。その時、他のコーナーを切り捨てたのです。
 理由・・?そんなものはいちいち考えていません。そして辿り着いたコーナーで、商品を詳細に吟味します。
 その結果、二つに絞られました。どちらがいいか・・
 その時点でも実は意識では考えていません。あらゆる要素が頭の中をぐるぐる回ります。
 このとき店員から「こちらの服の方が似合いますよ。だって××だから・・」と言われると、意識が無意識に働きかけ、勝利を収めるときが多いです。
 買った後はもっとそうです。
 服は安いのでそれほどでもありませんが、車を買った日には大変です。いつも街を走っている車と勝負します。
 そして「やはり俺の車の方がいい」なんて理由を探します。
 選択そのものは無意識の領域で行われると思うのです。選択した後の理由付けが意識の仕事です。
 だとすると、自由意志による選択というのは本当にあるのでしょうか?
 物を買うというような事に以外にも選択はあります。
 例えば工場の施工式の日、どうしてもこのまま工場建設をゴーしてはならないというインスピレーションが湧いた時・・その社長はどういう選択をすべきか・・。
 サンリオの社長は「その時に中止に出来る社長でなければならない」と言いました。
 じっと地面を見つめる社長・・すると進行役の部下が来ます。
「社長、施工式の挨拶をお願いします」と言われ・・「やはり、工場施工は中止しよう・・」
 こう言った途端、「ここまで来てそれはないでしょう。まずいですよ、記者も来ていますよ。どう言えばいいんですか・・」
『パーフェクトストーム』という映画でもそうでした。大漁の魚を捨てないと嵐から逃れられないのです。
 船員は言います。「俺の勘では、何かヤバイ・・。だから魚は捨てて全速力で帰ろう・・」
 しかし船長は言います。「それでも海の男か・・」
 こういう場面で、私達は道を変える選択を出来ないときの方が多いのです。「このまま行く」方が大義名分があるからです。
 工場施工はすでに決まった事・・俺は海の男・・
『パーフェクトストーム』では死という致命傷を負います。しかし我々の日常ではそこまではいきません。
 でも私達は選択を出来ない場面は非常に多いのです。思っていながら選択出来ないのです。この「思っていながら」というのが重要です。
 世の中には「俺は思った事はすべて実現してきた」と言う人がいます。
 しかし導師は言いました。「アイアム、ベリー、スモール・・」
 そして「山頂に登ってはいけない」とも言いました。
 工場施工を考えてみれば、施工式の挨拶をすることはインスピレーションを実現できなかった(選択できなかった)ことを意味します。
 インスピレーションに従うことは、施工式を実現できなかったこと(選択できなかった)ことを意味します。
 どちらも必ず実現できない一方を持っているのです。
 大漁の魚を捨てることは、インスピレーションは実現しますが、男を捨てることを意味します。
 大漁の魚を捨てないことは、男は捨てないのですが、インスピレーションは捨てます。
 つまり何の疑問もなしに実現している状況というのは無いと思うのです。実現したと言い切るのは、切り捨てた側を全然見ていないのです。
 生きていくことはこういう連続だと思うのです。実現しないかするかは、紙一重なのてす。一方を選択すれば、一方は捨てるのです。その価値は紙一重なのです。
 なのに、全て実現したと何故言えるのでしょうか?
 実現しなかったこと(選択しなかったこと)を無意識に切り落としているたけだと思うのです。
 為さないことは、為したことと同じくらいの深さを持っていると思います。
 となると神が一方の善に向かっているとは思えないのです。もしもそうなら、なんて薄っぺらい神だということになります。
 神は私達を通じて、紙一重の深さを味わっているのではないでしょうか。
 紙一重の深さを味わうためには、私達はエデンを出る必要があったわけです。
 そして今でも、より孤立した個として放り出されつつあるのではないでしょうか・・

何か面白い事

 23年前の昨日(2月14日)、辞表を出しました。そして23年前の今日(2月15日)は、会社を無断欠勤しました。もう行く気など無かったのです。
 23年前の今日も、快晴でした。
 私は六畳一間のアパートに住んでいたのですが、お昼を食べるために一度だけ外出しました。
 そのとき眩しい太陽を見てふと思ったのです。「太陽も生きているのかなぁ」って。
 別に理由は無いのです。それまで一度としてそんな風に思ったことはありませんでした。
 私はずっと何かに組み込まれている生活を送ってきたからでした。
 子供のころは子供なりに・・学生時代は学生なりに・・社会人は社会人なりに・・
 全く何の役割も失った状態は初めてでした。常に何かの中で、それなりに主人公の私だったのです。落胆したり、満足したり・・
 しかしその日は違いました。太陽に生命のようなものを、ふと感じたのです。
 そして「これから何か面白い事があるかも知れない」と思いました。
 
 あれから23年経ちました。
 昨日今日と秘密の調査に行ってきました(相手も秘密にしてくれと言うのでここで発表出来ません。でも小樽でやります。記録されなければOKなのです)。
 そこで太陽が再び浮上しました。さらに実際に今日も快晴でした。
 太陽を見上げると、23年前とほとんど変わらない光を私に降り注いでいました。
「これから何か面白いことがあるかも知れない」また、そう思ったのです。
 実際には多くの事がリンクして「次の事」が始まります。
 りんごちゃんの部屋を持とうというのも、一つの前ぶれかも知れません。
 どこかであの日の「太陽」と関係しているのかも知れません。

基準と変化

 秘密の調査に行ったときのことです。私がそのとき会った人は神坂さんといいます。
 神坂さんは言いました。「深海魚をごらんなさい。彼らの体にはすごい圧力がかかっています。でもスイスイ泳げます。しかもちょっと指で押しただけで逃げるでしょう。」
 つまりものすごい圧力がかかっているにも関わらず、彼らはそれを意識できません。
 神坂さんは、この世界は「ある圧力」で満たされていると言っているのです。深海魚は私達自身なのです。でもその「圧力」に気付いていない・・
 しかしほんの少し(たとえば1グラム)押したとすると、その「1グラム」の方が「すごい圧力」よりも重要なのです。生命体は「変化」が大事なのです。
 スキーのときに付けるゴーグルには、グラスの部分にたいてい色が付いています。紫外線を通さないためです。色は黄色や茶色です。
 黄色のをしたときは、そのときは世界全体が黄色に変わります。しかし、しばらくすると普通の景色に戻ります。
 これはスペクトル分析しても、生態的にそういう風になっているそうなのです。
 薄黄色の世界を、普段の透明な世界の基準にしてしまうのです。つまり基準がずれ、スペクトル全体を補正するのです。
 私が若い頃、ミニスカートが初めて流行りました。その頃は女性でも、ミニをはくのには相当な勇気が必要でした(と思います)。
 しかし基準はずれてきて、ミニは普通になりました。当時の女性は基準のずれを楽しみました。
 人にとって変化が大事なのです。
 
 現代の私達はある基準を持っているはずです。たとえば殺人はいけないという基準です。しかしこれもどうなるかはわかりません。
 生命は何よりも大切だという基準もあると思います。それを言うだけで今は「正義」として通用します。
 しかし基準の大部分は私達自身が作ったものではないと思います。でも私達はそれを「自分の基準」だと思っています。それが「私」を成す部分の基本だと思っています。
 女装に関して、私はかなり多くの基準にぶち当たっています。
 10年程前に私の会社に出向してきていた人が先日ひょこっと来ました。
 彼に『不思議の科学』を見せて、色々な話をしました。彼は「フンフン」と言って聞いていました。
 そして最後に私は「最近、ちょっとした変化があったのです。驚かなければ教えてあげます」と言うと、「冗談じゃないですよ・・。森田さんとは古い仲じゃないですか・・・。それに大抵の事では私は驚きません」と言いました。
 そこで私は女装の写真を見せました。すると驚いた顔をして「やめてよね〜、こういうの・・」と大きな声で言いました。その声は会社中に響きました。
 やめてよね・・は彼の基準でした。
 私にとって、大事なのは「変化」なんです。
 ですから、のべつまくなしに女装するのでは「変化」ではなくなってしまうのです。
 スキーのゴーグルを付けたり外したりしないと基準は分からないのです。
 深海魚は深度を変化させないと自分の位置を把握できないのです。
 幸運にもこの三次元には、自分を変化させる手段がたくさんあります。

この世界は固いか柔らかいか

 縦波の代表格である音は、媒体が硬いほどよく伝わります。
 空気の中では、薄くなるほど伝わりにくくなります。真空中では全く伝わりません。
 この法則が適用されるとすれば、「気」はどうでしょうか?
 気は一般的に、音波などとは比べ物にならないほど届くと言われています。
 気の達人なら、相手が他の惑星にいてもそれは届くかも知れません。
 今まで一般に言われてきた仮説は「気に距離は関係ない」というものでした。しかし・・
「気を伝えるべき媒体がとても硬いから・・」とも言えるのです。
 これは信じられないかも知れません。しかし私達が深海魚だとすれば理解できます。
 私達はものすごい圧力を認識できず、たった1グラムの変化の方に右往左往しているのです。
 おおもとの基準は、想像を超えているかも知れないのに・・です。
 柔らかいものが硬いものを構成しているのかも知れません。鉄の中も原子の世界ではスカスカだからです。
 生命は媒体が硬かったからこそ出来たと言う仮説もできます。
 硬いというのは、一つ上の世界のことかも知れません。物質界がこの世界だけだというのは、とんでもない間違いかも知れません。上の世界は硬く、我々の世界が柔らかいのかも知れません。
 そんなことはないというのが一般常識です。
 この常識を超える実験をりんごちゃんの部屋で開始しようかと思っています。
 硬いものを見るには私達がもっと柔らかくなる必要があるかも知れません。

受身的ということ

 私が女性の洋服選びをする際に気付いた事があります。それは「受身的」ということです。
 男性の場合の基準は「適度に整っていればよい」とか、「清潔ならばよい」というくらいではないでしょうか。なぜなら勝負は行動で付けるからです。
 しかし女性の場合には受身的です。行動での勝負は、もともとあてにならないからです。
 受身であるが故に、女性は微妙なのです。
 受身的であるということは、ファッションで無言のメッセージを出しているのです。
 私はこういう人なのよ・・私はこういう雰囲気なのよ・・そういったメッセージを出しているのです。
 目立ち過ぎてもいけないのですが、メッセージが出なくてはならないのです。
 私も女性の洋服を選ぶ場合、りんご(私の中の女性性)の視点に立ちます。
「私とはどういう人か・・」りんごは考えます。いえ、実はこれを感じるのが実に楽しいのです。
 通販のファッションページをめくりながら、自分とは何かを考えながら取捨選択を繰り返します。
 とりあえず分かった範囲では、りんごは次の自己の雰囲気をメッセージとして送りたいのです。
・軽やかであること
・明るいこと
・自由であること
・聡明であること
・可愛いこと
・多くを許せること
 ここには色気とか上品とかが無いのです。流し目のような雰囲気も無いのです。
 これらの雰囲気は、もりけんの時には主張する形、すなわち能動的に外に出ています。
 しかし女性性では、受身に変わるのです。受身でこれらを主張しようというのです。
 人生を積極的に切り開いていくのが男性性でした。思った事を実現させるのが男性性でした。しかし私の中の女性性は、「待っている」のです。
 
 男性性の時よりも女性性の時の方が嫉妬が起こりやすいのではないかと思います。それは基本的に相手を「待っている」からです。
 もしも「待っている相手」が別の人を選ぼうとすれば、女性は嫉妬するしかありません。だって基本的に受身だからです。
 受身というのは能動よりもランクが下のような感じがありました。特に精神世界ではそうです。
 女性に対して「運命は自分で切り開け」と言います。「思っているからそうなるんだ」と言います。女性に対して変わることを推薦します。
 これって女性性を無視したことだと思いました。
 道教以後の私の考えは、男性でありながら女性性に近いものがあります。
 ワダチ・・しかり、為さずして為す・・しかり、お蔭さま・・しかり。
 ハンドルを握るのは男性性です。ハンドルを離すのは女性性です。
(三次元の世界ではもちろん両方必要なのかも知れませんが・・)
 私は明日、赤い服を着てお出かけします。
 赤い服を着るのはイルカがパルスを出すことに似ています。パルスを出し跳ね返ってくるのをひたすら待っているのです。
 能動的なのは家を出る前までです。外に出ると私(りんご)は受身に回ります。
 男性はこの逆です。家を出るまでは受身です。外に出ると私(モリケン)は能動に変わります。
 でも受身であることに何かホッとするものを感じます。

秋葉原への外出風景

 下の写真のような格好で外出しました。
 秋葉原に行き、デジタル回転数計のキットというのを3500円でゲットしました。
 秋葉原は私が部品探しをするとき、いつも行っている場所です。30年にもわたって通っています。
 学生の頃は財布の残りを計算しながら安い店を探して歩いたものでした。
 秋葉原の電気部品街に来る人達はみんな電気マニアです。着るものなど気にせず、部品をメモした紙を片手に物色します。服は皆ダサいです。
 でもそこにはマニアしか分からない一つの美学がありました。女性はほとんどいません。
 女性を連れている人がいるとすれば、20代の若者がたまたま彼女を連れて来てしまったのです。
 白いコートを着てスカーフを身に付けた彼女は、そこでは別世界の生き物でした。
 そういう世界とは無縁なのがアキバ美学のなのです。
 私が物色したかったのは、モーターとギアと回転計でした。
 私は電気が専門ですが、モーターには縁遠い人間でした。アマチュア無線にモーターはあまり使わないからです。
 屋根のてっぺんにはアンテナを回すモーターがありますが、あれは既製品を買ってきたものでした。
 しかし今回は全て自作しないといけません。
 いろいろ探した末、あの「マブチモーター」に出くわしました。
 マブチモーターと言えば、小学生のころに作ったプラモデルに入っていたものでした。
 しかし最近はとても進歩していました。ひょっとすると実験はこれでイケルかもしれません。それに合うギアを探すと、割と自由自在に歯車の比が変える事のできる品物が売っていました。
 今回は買う必要はなく、物があるというのを確認すればよいのです。
 次は回転数計を探しました。これもありました。
 デジタルで回転数が計れる品物です。ストロボを出して相手に触れずに計ることの出来る機械です。
 しかしキットなので配線図を元に組み立てなければなりませんが・・
 これは大事なものなので、売り切れるのを恐れてすぐに買ってしまいました。とはいえ3500円だったのでとても安いのです。
 その間、私は赤のスーツに女性もののコートを羽織り、先が尖ったヒールを履いていました。
 買い終わってから気が付いたのですが、姿を時々見られていました。
 ファッショナブルな格好であのアキバ美学の世界に行ったのですから仕方がありません。
 でも熱中している最中は私は何も意識しないのです。
 今から思えば、その姿は相当凛々しいものだったに違いありません。
 女性ものを着て、ビット数がどうの・・サンプル測定時間がどうの・・という質問を浴びせていたのですから・・。
 でもいつかやってみたい究極のパターンは、HPの女性のどなたかが男装し、私が女装して何も分からない顔をして「彼、早く終わらないかしら・・」という感じで佇んでいる姿でしょう・・か。
 それにしても赤のスーツで外出したのは初めてです。気持ちの良いものですね。


「これからは女性の時代」・・・でしょうか?

 これからは女性の時代だと言われます。しかし本当でしょうか?
 これは言う人によってずいぶんとニュアンスが違うと思います。
 女性の社会進出のことを言う人もいます。
 労働基準法がどんどん改正され、社会ではあらゆる面で男女が同権となりつつあります。
 その点でも確かに女性の時代だと思います。しかし私は、そういう意味で考えていません。
 今までは社会に出ないと人に影響を与えることは出来ませんでした。
 男性は外に出て初めて何がしかの「価値」が出ました。社会との接点は家を一歩出ることから始まったのでした。
 給料を貰うためでもありますが、自己を実現するためでもありました。
 自己を実現するということは、自分の考えを社会に示し、その影響を与え、フィードバックを得ることでした。それは社会使命とも言い換えられました。
「私はこれを通じて××に貢献している」と言えないといけなかったのです。
 そのフィードバックは給与であり、地位であり、お客様からのお礼の言葉でもありました。そうして男性は、社会との接点を持ってきました。
 しかしその社会は垂直系でもありました。上司と部下、メーカーとディーラー、お店とお客・・お金の流れに従って上下関係が作られました。
 しかし私流に言わせると・・世の中はシステム的になってきたのです。
 システム的とは、がんじがらめの機械の仕組みという意味ではありません。
 個と個が有機的に結びついていることを・・私流には「システム的」というのです。
 一個の固体の変化が確実に他に影響を及ぼすから、「システム的」なのです。
 
 そういう世の中になるとどういうことが起こるでしょうか。
 まずシステム的の特徴として、垂直から水平へ・・という流れがあるのです。
 お金の流れで上下が決まっていたものが、無くなってくるのです。
 もう一つは、肉体の領域を越えて伝わるのです(ミームの戦略そのものです)。
 何も外に出て行かなくても良くなったのです。このインターネットが良い例です。
 ここでは男女が同権です。外に出て行かなくても、与える影響力は凄いものがあります。地位にも関係ありません。体力にも関係ありません。
 今までは、主婦であることはハンディでした。主婦であるだけで社会的な影響度からは度外視されていました。「家庭に入っていた」からです。
 しかしこのHPの中でも主婦はいますが、その影響力は仕事をしている男性以上です。学生だってそうです。非社会人なのに・・、凄い影響力があります。
 実は、私がりんごちゃんの部屋を借りたいと思った理由の一つはこれなのです。
 私は昼間、マジな書き込みが出来ません。なぜかと言うと、私は会社の中では、組み込まれている歯車のような働きをしているからです。
 しかし今日行った秋葉原で見つけたものは、自由に歯車を変えることのできる物でした。
 世の中はこういう方向に変化しているのです。
 ハードボイルドに仕事の世界に生きるのは、もしかすると時代遅れになるかも知れません。
 私は本を書く時ホテルに泊り込みました。それでもその間、会社はやっていけたのです。 
 なぜならネットワークが整備されてきたからです。
 会社はいつでも私にメールで相談できます。メールは縦横無尽に飛び交います。副社長から私に・・なぞぷーから私に・・経理から私に・・ 
 私はどこにいてもいいのです。私は「主婦」になってもいいのです。「りんご」になってもいいのです。
 社長室に鎮座して命令を出している時代は終わりつつあるのです。
 その「立派な空間」で出す影響よりも、「粗末なキッチンの脇」でここに書き込みした方が、よっぽど影響力は大きいのです。
 
「これからは女性の時代だ」
 これは女性が男性の領域に近付くのではなく、男性が女性の領域に近付かなければならないということです。
 忙しく飛び回っている男性の世界に、何か残るものはあるでしょうか?(しかし何かを残そうとして飛び回っているのが男性です。)
 女性は意識して何かを残そうとは思わないのではないでしょうか・・。
 存在そのものが存在すればそれでいい・・そう思っているのではないでしょうか。
 残すことよりも、その瞬間の何か(例えば愛)に触れていたいと思うのではないでしょうか。
 男性は「行こう」としました。女性は「待って」いました。
 そして女性のもとに、時代の方が近付いてきつつあるのではないでしょうか。

ずっと疑問が・・

 どんなに仕事がうまくいっていても、どんなに仕事がうまくいかなくても、どんなに楽しくても、どんなに辛くても・・ずっと疑問があります。
 神とは何なのか・・宇宙とは何なのか・・自分とは誰なのか・・
 物理の法則を見る時、神に完璧さを感じます。
 しかし人間の歴史を見るとき、そこには不完全なものを見ます。でも、歴史は本当に不完全なのでしょうか?
 キリスト教の世界でも、本当に神を追求する人は、「何もしない神」に遭遇するようです。イエスがその代表格ではないかと思えてきました。
 今、セックス(肉体的性)とジェンダー(精神的性)の不一致の問題を持った患者さん達に挑戦している医師たちの話を読んでいます。
 そういう患者さんに対して、「君の嗜好がおかしいのだ」という風には持っていかないのです。
 そういう「病気」は社会が作り出してしまった病気なのでしょう。正常という路線から外れれば、みんな病気になりかねません。
 歴史が不完全なように、人もみんな不完全だと思うのです。だけど、それを不完全と言っていいものかどうか・・
 
 仕事がうまくいって、それが何なのでしょうか?
 いやはや、これは暴言かも知れません。私だって仕事がうまくいくために毎日頑張っているところもあります。
 でもどんなに仕事がうまくいっても、そこに神との遭遇がないと、やっていられないのです。儲かって、ナンボかと思います。
 道教は神が出てこないので、すごいと思いました。
 神と言う言葉を一つも語らずに神を感じさせたのですから・・。
 私のところに最近来るメールやお便りで、目立って増えたのがあります。
「年のせいで神とか不思議に興味が薄れてきた」という内容です。
 こういう人にとっては、生まれてきた意味はいったい何なのでしょうか?
 どんなに美味しいコーヒーを飲んでいようが、どんなに苦しい思いをしていようが、神の問題は私に付きまとってくるのです。
 私を産んだ究極の存在はいったい誰なのか・・事は全てここから始まると思うのです。
 性の悩みを持つ人の話を読んでいます。肉体的性と精神的性の違いに悩む人を対象にした医師の話です。
 ホルモンを注射したり、手術をしたりして両者の性の違いを一致させようとします。
 それが解決されれば、物事は解決するのでしょうか?なぜ神は性差を与えたかという問題が解けるのでしょうか?
 これらは永久に解けない問題だとすれば、この人生は面白おかしく楽しんで生きれば良いのでしょうか?

人は無能になるまで登り詰める

 この言葉は中井久夫氏の言葉です(「登り詰めて無能になる」・・だったかも知れません)。
 昨日読んだ中井氏の本に出てきました。中井氏のことはこのHPの中では何度も登場していますから、知っていると思います。あの「精神健康の基準」を作った人です。
 さて、私は今落ち込んでいるのですが、この原因をと訊かれても答えるのは非常に難しいです。
 ここ毎日、女性物の服しか着ていきません。会社にです。そうすると色々な常識にぶつかります。半分めげてしまう時も多いのです。
 そういう時、自分では一種の張り詰めた状態を経験しています。そんな時、女装を楽しんでいた人の話などを聞くと、いっぺんに落ち込みます。私が弱いのです。
 あとはエネルギーの高い人に出くわすと、それだけで落ち込みます。
 私が感動するのは、したくても出来ないような人の話です。
 隣のコーナーに『祝辞』というテレビドラマの書き込みをしましたが、そんなところに感動してしまうのです。この話は『「不思議の友」5』の最後のページを飾っています。
 だから元気な人の講演会を聴くのは、好きではありません。登り詰めていくからです。
 私が中井氏に共感を持つのは、「為さず」の世界を見ている人だからだと思います。彼に診察を受けた患者さんは、きっとホッとする何かを感じると思います。
 それでも彼は自分の担当している患者さんの中から三人の自殺者を出しています。そのくだりを読んでいるとき涙が出ました。
 中井氏ほどの経験を積んだ先生であっても、ほとんど無力感と裏腹に生きているのです。
 そうそう、この「経験を積んだ」ということがいかに無力なことであるかも書いてありました。この部分はまた書きましょう。
 さて、人はどんどん登り詰めていくのですが、ある時点で無能になってしまうと言うのです。それがその人にとっての限界のようなものになるのです。
 無能とは、落ち込みすらも感じなくなることです。そうやって人は老け込むと言うのです。私など、落ち込みを経験しているうちはまだ若いのです。たぶん・・
 朝のスターバックスのコーヒーは、久しぶりに少しぬるかったです。でもいいのです。今の私の心境そのものだからです。熱く燃えることが出来ません。
 それでも私は、女性ものの服で会社に行きます。無能になるでしょうか?(笑)

脱工業化社会と精神健康

 この表題は精神科医である中井久夫氏が書いた本『中井久夫選集 分裂病の回復と養生』という本の1タイトルです。
<微分回路的認知と積分回路的認知>
 まず数学の用語が出てきます。「微分回路的認知」と「積分回路的認知」です。
 微分回路的認知とは、別名徴候的認知です。積分回路的認知は、蓄積的認知です。
 さてこれから幾つかの労働の種類が出てきますが、これは心理学上の分類だと(森田は)思いました。
<監視労働>
 現代社会においては監視労働という仕事が増えています。
 土木工事現場でさえ、労働者の多くは旗を振ったり、何やかやの監視労働です。
 さて監視労働における微分回路的認知と積分回路的認知の差はどんなものになるのでしょうか。
 中井氏は飛行機のパイロットを例に挙げて説明しています。
 異常が起こるまでは積分的認知、すなわち蓄積的(経験的)認知をしています。
 しかしひとたび事が起これば、リアルタイムに近い時間の範囲内で微分的認知をしなければなりません。
 監視労働には二種類あります。外に対する監視と、内に対する監視です。
 外に対する監視とは、外敵に対する監視です。マーケットリサーチなどもこれに当たるでしょう。
 内に関する監視は、普通の会社では管理職がこれに当たります。人間の逸脱行為への意図を事前に予測する仕事などが含まれます。
<妥協労働>
 営業部の社員、百貨店の店員、外交官、教師、裁判官、牧師、精神科医、売春婦などはみな妥協労働者であります。折り合いをつけるのが仕事だからです。
 その際には、当事者の双方が快楽あるいは利益を得たと感じるような妥協である必要があります。
 この労働は、労働の機械化によって代替されない労働です。
<秩序回復、維持労働>
 あらゆるものは無秩序に向かって散乱しようとしますが、これに対抗するのが秩序回復労働です。清掃、植林、警官などがこれに当たります。
 デザイナーも広い意味ではこれに当たりますが、しかし秩序創造活動という名前が良いかも知れません。
<情報操作活動>
 コンピュータによる予測業務、株式ディーラー、航空管制官、風水師などである。
「情報が権力の尺度である」と言い換えてもいいくらい、この業種は不可欠のものになりつつあります。
 かつての情報操作労働が老人主体だったのに対して、現在のそれは若者主体であります。

サラリーマン終焉後の情報操作労働における失調

 この表題は、中井氏の本のままです。
 彼は、一般的にいうところのサラリーマンという職業は無くなったと言う視点に基づいています。
 キャリアウーマン、ビジネスマン・・という言い方が正しいかどうかは分かりませんが、自己を実現するための仕事という世界に、次第に移行しつつあると言います。
 その結果、中井氏(精神科医)のもとに行かなければならなくなった女性の話をします。
 彼女は航空会社の旅程作成員でした。
 最初、個人日程作成の部署に配属されました。そこで大変な能力を発揮するのです。
 海外旅行の日程を顧客の前で作成することは極度の集中を必要とします。
 スペインのある街のホテルはどこが空いていそうで、この顧客(初対面である)にとってもっとも適当で、満足するか。
 いつ到着し、いつ出発するか。それに合わせての航空便は、その前後の宿泊は・・。
 これは思考の多数分岐と多数回延長を繰り返し、その節々で顧客にフィードバックしつつ整合性と豊富性と妥当性(たとえば同一水準のホテル)を備え、目的に適合した日程を書き上げて費用を計算し、これをまた顧客に相談し、再編成し・・
 この日程作成業務においては、意識は、たえず、確定しつつある外の過程よりも少し先を歩んでいると言います。
 彼女は、いつも少しずつ先を歩んでいる・・。
 中井氏の表現では、「微候優位的な構えであり、微分回路的認知の優位ということになります」と言っています。
 過去の経験の蓄積も無視はできませんが、実際には20歳代前半くらいの若い女性に適した業務であります。
 急速に変化しつつある世界の前では、過去の経験はそれほど生きないからです。
 そして、この業務において、彼女は極めて有能な社員でした。
 しかしそれほど有能でなければ、社内のエリートコースと言われている団体旅行の日程作成の部署に引き抜かれることはありませんでした。そして、それがなければ・・ 
 しかし次の部署でも彼女は有能なのです。それが登りつめていく一歩一歩の階段になってしまうのですが・・。

妥協労働の付加

 団体の日程作成と個人の日程作成はどう違うのでしょうか・・
 個人の日程作成は二者関係であり、相手は個人です。一般的には交渉が不成立になっても良いのです。
 事実、無理を言う客を断ることは、社内でも職務上まったく正しい行為だとされていたのです。
 彼女がここに居続ければどんなにか幸せだったことでしょうか・・。
 しかし、社にとってさらに重要であるところの団体旅行の部門に引き抜かれました。
 この方が易しい面もありました。ある程度ステレオタイプ化した日程で済むことが多いからです。しかし・・
 交渉相手は個人ではなく、旅行代理店となりました。社の取引先であって、個人的に葛藤を起こすことが許されなくなったのです。
 すなわちここに、妥協労働が付加されたのでした。
 しかし彼女にはさし当たってそのことは意識されていません。
 でも旅行代理店と課の忘年会で代理店側の社員がセクハラ行為に出ようとしたのです。
 彼女は手早くはねのけて逃れましたが、衝撃は大きかったのです。
 おまけに彼女は先取り的思考の持ち主なので、この衝撃は長く尾を引いて、失調の最初の基盤になりました。
 しかし彼女は依然有能でした。団体部門で特別賞与まで受けました。
 そしてそれが契機となって次の昇進をします。世界各国のお偉いさんの旅行日程を作成する部門に・・です。
 
 さて、昇進という形で彼女は配置転換しました。
 新しい職場は、14、5人より成り、しばしば重役の肩書きを持つ重要人物の日程作成を会議において決定します。
 顧客とは違った意味で相手を怒らせるわけにはいかず、さまざまな国籍・人種の相手に等しく満足を与えなければなりません。
 また少人数の職場であって人間関係が濃密になりました。
 彼女は会議の一員として主張を通さねば、日程を組む能力を発揮できない環境になりました。
 新しい質の政治労働((妥協労働)が付加されたのでした。
 その後、来日するVIPに付き添って万事が滞りなく進行しているかどうかをチェックする業務が加わりました。監視労働が加わったのです。
 この様に、キャリアをつんでいけば複数の業務をこなしていくのが普通です。
 実際、彼女はいわゆるキャリアウーマンとしての履歴を順調に歩んでいました。
 その中でも彼女は例外的に有能でした。
 彼女の姉によれば、旅行日程の作成にあたって、彼女は両方の耳で別々の客と電話対応しつつ、目の前の客に旅行日程をコンピュータに入力でき、なお、話し掛けてくる職場の人と問答できたのは職場でも彼女一人であったと言います。
 非常に有能な短期記憶力を持っていたことは、姉と共に電車に乗り合わせた向かいの席の客の服装を一人残らずそのあと再生できたといいます。
 しかし中井氏は言います。
「一般に、ひとつの能力に過度に依存することは、短期的には成功を、長期的には、少なくとも潜在的な、脆弱性を準備する傾向がある。」

妥協労働の付加(続き)

 彼女がこの記憶力に任せてその経歴を駆け上がったとするならば、次第に脆弱性が露呈されていくかも知れません。
 例えば会議においては、ある適当な凡長性と緩慢性で合意が熟するのを待つ。彼女はそれにテンポが合わなかったのかも知れません。その他、色々な事が想定されました。
 しかしその脆弱性は全く別の次元の事件によって一挙に露呈されたのでした。父が事故に遭って入院したのです。
 彼女は家事一切を引き受け、病院の父に付き添って、しかもなお、業務を続けました。配置転換されて間もない頃でした。
 今となってはいくさかの回避策が考えられようが、これは私達の後知恵です。
 彼女は日程作成に見せた精密さで父の看護と家事を行いました。それは一見彼女手練(てだれ)のパターンでした。
 それまでの彼女は家庭ではくつろぐ時間を持つことが出来ました。
 今や彼女は24時間緊張し続けるようになったのです。しかもその24時間はいずれも相手の方が優位にあり、それに合わせなければならず、無理をも甘受しなければならないような24時間でした。
 昼間は外人重役の日本における「すりあわせ」の非常に難しい業務が、配置転換されて日の浅い彼女の背に掛かってきました。
 夜間は病院に行かなければなりませんでした。父はいつ治るか分からず、退院後の生活も明るくはありませんでした。そして医療関係者への挨拶なども心理的負担でした。
 中井氏も次のように書いています。
「医療関係者に適切かつ充分で、過剰でもなく不足でもなく、しかも相手を不機嫌にさせないような対応をするのに患者の家族は、私も医師の一員として遺憾なことと思うが、非常に苦慮することが多いのは事実であるし、また、相手次第という、非常に弱い立場にある自分たちであることを味わわされずにはおれない。」
 費用もかさみ、貯金も無くなってきます。
 相談し、協力し、依存する人はいないわけではありませんでしたが、職場の人は同様に多忙で、兄弟は遠方でした。

 このとき、彼女に予想外のミスが多発するようになったのです。
 普段の彼女からは考えられないような単純なミスの連続です。それも一つのパターンを持っているのです。
 通常、痴呆や一時的知能低下では、知的に難しい作業でもごく単純な作業でもほぼ同じ確率で起こるものですが、彼女のは違いました。
 どうも、対人関係においての深読み、勘ぐりが意識の前面を占めて、作業が二の次になるような感じなのです(森田流に言わせれば、その瞬間に没頭できない状態なのでしょう)。
 ここで初めて精神治療を受けます。しかしそれは会社の関係の医療機関でした。
 復帰して元の職場に戻るのですが、ほどなく階段から転げ落ちて骨折し、再び休職に入ります。三度目の休職のときに、中井氏に会いました。
 中井氏は始めての「会社関係以外」の医者でした。これは彼女を、どんなに楽にさせたことでしょうか・・。

ゼロ歩(完結編)

 彼女の治療について書けば、一つの論文になるほだと中井氏は言います。それほど、ある意味では「現代病」なのです。
 治療の過程で彼女は、音が遠くのもののように聞こえ、物がぼんやり見えるといったことが起こりましたが、中井氏に言わせるとこれは「病圧」の急速な減少に伴って起こる良性の、一時的なことらしいのでした。
 その通りでした。
 一般にほぼ順調に進行した治療というものは、単純にひとつの因子に帰し得ないものであるといいます。
 全体として地力がついてきて、安定性が増してきて予想外のことにも動揺が少なくなり、淡い楽観性が生まれてくる。
 そしておいしい料理を味わいに行くとか、音楽会に行くとか、洋菓子を作るとか、この世の楽しみをいつとはなしに始めるようになったら、もう治っていく証拠です。
 中井氏は経済の回復なども同じではないかと言います。
 経済の回復も破綻ほどには明確に一つの因子を指定できないのではないかと言います。
 これを一般に平衡回復と言うらしいのです。
 脱工業化社会として訪れるものに情報化社会があります。
 今まで書いた彼女の例は、単に彼女の頑張りすぎなのでしょうか?
 中井氏はそうでないことを示唆しています。だからこそ最初に微分回路的・・の説明と職業の説明をしました。
 彼女のケースは、我々がこれから迎えようとしている社会を暗示させているのです。
 それは何でしょうか・・。
 最初に「彼女は一歩先を生きている」と書きました。ここが一つのポイントです。
 微細な兆候を先取りして予測する人間の能力・・中井氏が微分回路的認知能力と呼んだもの・・、が、これからの脱工業化社会の、または情報化社会の中での出番なのです。
 極端な場合が株式ディーラーです。常に一歩先を見ていないといけないのです。
 分裂病を病んでいる人の中にも、長年にわたって株の運用をしている人がいると言います。
 そういう人にとっては「これから先はどうなる・・」ということが問題となります。そういうことが書いてある本を読んだり、そういう講演会に出たりします。
 これから先はどうなる・・これからの日本は・・これからの世界は・・
 中井氏が彼女にしたことは「未来」を「現在」に戻すことだったと言えます。
 美味しい食事を食べに行く・・音楽会に行く・・ケーキを作る・・これらは全て「現在」です。
 決して、今までと同様の能力を回復させたのではありませんでした。
 先を読まないで、今を生きること・・だったからです。
 情報化社会の「先読み」には概して「結果」があります。株は近未来に「ある値」をつけます。
 旅行日程もある時点で確定します。それほど選択肢が多いわけではないからです。
 学校のテストでも必ずと言っていいほど「正解」があります。
 しかし、現在という瞬間に焦点を合わせたとき、そこには選択肢は無限にあるのです。
 美味しい食事に行って、どうすると言うのでしょう・・。音楽会に行ってどうするのでしょう。
 どうすることも出来ないのです。どうにもならないのです。
 同時に多数の情報は処理できても、解の無い問題に対応できないのです。答えは無だからです。 
 正解がある問題の場合、あるところで停止し、緊張から開放されます。しかし解が無い場合、宇宙を竹竿で探るようなものです。
 一歩先を歩ける人は、その長所はここで短所となります。
 一歩先を歩ける人は、職歴の初期には周囲から抜きん出た成功者となることが多いのです。しかし次第に昇進して、解の無い問題を処理しなければならなくなると(妥協労働もその一つ)、問題が発生してくるのです。
 
 中井氏の提案する「精神健康の基準」(折りしもこれは『「不思議の友」5』に詳しく出ています)は、解の無い世界への対処の仕方なのです。
 今のところ、この世は「解の無い世界」なのです。
 そこにもってきてあたかも解があるような前提に立ち、一歩先を行き、解を得ようとする・・というのが現代病ではないかと、中井氏は指摘しているような気がします。
「わたしたちはどこから来て、どこに行くのか・・」
 こういう問題は解が無いかも知れません。なぜ解がないのに、そんなに考えるのかと訊かれるときがあります。
 しかし私にとっては近未来の解が存在するような事柄・・円の値段とか株とかよりもこちらの方が興味があるのです。
 次は、私モリケンが唸った個所の話です。
「ひとつの能力に過度に依存することは、短期的には成功を、長期的には、少なくとも潜在的な、脆弱性を準備する傾向がある。」
 なるほどと思いました。
 環境の変化とともに自分を変化させることが出来ないという理由で、いままでどれだけの種が滅びたでしょうか。
 一つの能力で全てをカバーしようとするからです。図体がでかいだけの恐竜は滅びました。
 ある能力を使って成功したら、それは次の日に捨てた方が良いのです。
 となると、長所進展法も問題があるかも知れません。彼女は記憶能力と情報処理能力で全てをやっつけようとしたからです。
 今、彼女は新しい人生を歩み始めている様子です(既に航空会社は退職しています)。
 しかし、お父さんが入院し、自分も階段から転げ落ちた時、いったいどんな気持ちだったでしょうか。
 小さなミスを指摘され、精神病院行きを言われた時、どんな気持ちだったでしょうか・・。
 その時こそ、神様(お蔭様)が付いていたような気がしてなりません。
 それにしても中井氏の洞察力には本当に関心します。
 株で低迷し、先が読めない私達・・それでいいんだよと言っているようなものです。
 一歩先、半歩先と言われますが、まさにゼロ歩(今)が大事なのですね。
(中井氏の本は、ある人がコピーを送ってくれたものです。)

為さず

 今読んでいる中井氏の文献にこれに関係しそうな事が少しだけ書いてありました。
 中井氏は小学校高学年のときに第二次大戦を経験しています。
 彼はあとから読んだ『戦艦大和の最後(吉田満著)』という本にこんなことが書いてあったと書いています。レーダー担当の兵士と機銃砲担当の兵士の話です。
 大和は戦闘の初期においてレーダーを破壊されてしまいました。それ以後、大和は「ただの打たれっぱなし」になるのです。
 レーダー担当の兵士は目の前の惨劇を第三者として眺めている他はありませんでした。
 機銃砲担当の兵士はそんな事は知らず、ただ目の前の敵を撃ち続けます。そして沈む直前に「総員退艦」となります。
 最後まで戦う手段を破壊されなかった機銃砲の兵士はさっと海に飛び込み、次の再起に向かって泳ぎだすことができました(よくは知りませんが、彼らも死ぬのですよね)。
 しかし第三者として眺めていた兵士は、叱咤しても無気力から回復せず、無傷の身体を艦とともに沈めていったらしいのです。
 中井氏は言います。「受動的な観察者は積極的参加者よりも精神的打撃が大きい」・・と。
 人間が弱音を吐くか吐かないかのギリギリの線になると、戦艦大和のレーダー兵のように客観的に観察する立場の人は、非常に弱いと言うのです。
 どうしてこの話が彼の本に出てきたかと言うと、彼自身の問題としてなのです。
 精神科医として自分の中のペシミズムを修正し、自己の士気を維持するにはどうすればよいかと考えたのです。
 彼が精神科を選んだのは、脳外科と神経内科と精神科を見学して、医師が相対的にニヒルではなかったから・・と書いています。
(他の領域においては、医師の仕事は情報化労働と化したと書いています。)
 一般に精神科医は、スキルが邪魔をするケースが多いと言います。
 そのよい例が教科書の問題だと言います。他の医療の分野では教科書(過去のマニュアル)がかなり役に立つのに対して、精神科医はそれを捨てることのほうが多いと言います。
 大学病院では往診をする必要はありません。しかし彼は患者から電話があれば深夜でも駆け付けます。
 高齢となった今でも第一線で診察を続けています(でも新規の患者はもうやらないそうですが・・)。
 私が中井氏に共感を持つのは、主観に生きているからではないでしょうか。
(彼は講演をしません。全て断っているというのですが、その理由もなんとなく分かるような・・)

 中井氏に言わせると、微分回路的認知は疲れるのだそうです。
 株の予測、円の行方・・それらに能力を使っていると、「余力」が無くなるのだそうです。
 そしてそのしわ寄せがどこに来るかというと、対人関係を回避する方向なのだそうです。
 対人関係は妥協労働だからです。人よりも情報・・という具合になるのです。
 そういう分野で活躍している人は、ディスプレイが対面する相手だったりするわけです。
 でもそういう人も次第に昇進していくと、対人関係の業務を与えられていくわけです。
 微分回路的認知・・すなわち近未来の解を予測する仕事から、解の無い世界に入っていくわけです。
 実のところ、このHPは解の無い世界を追っているとは思いますが、精神世界には解があると言う前提にたった考え方もあるわけです。
「想いが世界を作る」・・などはその一つだと思います。
 想いが本当に世界を作るのでしょうか????・・という疑問は、挟めないからです。
 となると「悟り」というのも考えものです。解を得たことが悟りでしょうか?
 だとすると、そういう人にとっての修行は、微分回路的認知を頑張っているのでしょうか?
 また、予知や予測をする人・・この人達は偉いのでしょうか?疲れるに決まっています。
 だとするとやはり、列車に席があるかないかを予知するよりも、着いた満員電車に飛び乗る人生の方が良いかも知れません。
 だとすると「為す」必要も無いのかも知れません。

書き込み期間:2001/02/09〜2001/02/26