テーマ:「性差とアイデンティティ(2)」
書き込み期間:2001/03/03〜2001/04/02
要旨:
私は女装していますが、どんなに女装しても本当に性差を無くすことは出来ないことも感じています。男性という性の束縛がいかに強いか、「誰でもない私」になることがどんなに大変なことか・・・。
そかしそれでも、私は女装を続けます。男としての自分だけを生きることに満足しなくなってしまったからです。出来るだけ性差を脱ぎ捨てた私と対面してみたいのです。
性差は本来微弱なものだと思います。それを強固なものにしているのがアイデンティティです。
何故アイデンティティを確立するのでしょうか。それは、人は安定を求めるものだからだと思います。もう一つは、自分が自分である拠り所を失う時に出てくる寂しさを感じないようにするためだと思います。
しかしアイデンティティに固執していると神には対面できない気がします。寂しさと不安定の中にこそ神と「生」が潜んでいるような気がするのです。
人はその場に合わせて自分を演じている、という気付きに出会いました。私が今までずっと男性として生きてきたのも、男性を演じていたに過ぎなかったのです。そして今は女装して女性を演じています。自分をテスターとして、両方の性を演じることと私に起きる変化を楽しんでいます。
私に起きた変化の一つとして、ただ存在するだけで良いと思えるようになりました。それまでは行動することに価値を置いていました。
女性は基本的に自分の存在そのものを肯定しています。逆に男性は否定から入る傾向が強いです。
このことは、服装の分類テストにも表れています。男性はピンクの色を選びません。男性はスカートを履きません。「〜でないもの」によって成り立っているのが男性であるとも言えます。
社会的な分類に中性は存在しません。必ず男性か女性かの選択を迫られます。でも社会的には中性でいられなくても、誰でもない自分に戻ることはとても大切だと思います。
私は女装してみて、外見を変えると中身まで変化することを実感しました。別の人格が表出してくるのです。今までの演技を脱ぎ捨てると、そこからどんな自分でも再選択して何でも演技することが出来るようになりそうです。
私達は努力して変わらない自分であろうとしています。だから別の人格に憑依されることを恐れます。しかし憑依されている時こそが本当の自分で、憑依こそが神ではないかと思うのです。
目次
○最近変わってきたこと
○不安・・これでいいのか?
○役割束縛圏
○梯子を降りる
○同窓会
○性差・・それはアイデンティティの源
○マニアの世界
○「閉じる」ということ
○見えるものはすべて自分の中にある
○女装による初めての遠出
○感覚に身を任す
○中井氏の文章(小樽のレジュメに使ったもの)
○存在すること
○中井氏の労働の分類
○白樺湖国際スキー場
○成長したのか?
○性差と演技
○演技と憑依
○どうしたらシステムを変えられるか
○ただの体験
○女性的な地雷の落とし方に変化したい
一線

 落ち込みやすくなったこと。
 しかし以前のような瞬間的落ち込みではなく、潜在的落ち込みの状態です。
 地雷を爆発させなくなった代わりに、落ち込むのです。
 肌がツルツルになってきたこと。
 ひょっとして女性ホルモンが増えているのでしょうか・・
 かといって男性ホルモンが減っているとも思えませんが。
 女性を見る目が変わったこと。
 異性としてだけではなく、同性としての視点が加わりました。
 ムラッと来ること少なくなりました。
 その代わり、潜在的な「ムラッ」が長続きするようになりました。

不安・・これでいいのか?

 私は会社で時間があっても、マジカキコが出来ません。それだから、本を書くときはホテルにまで泊り込みました。
 会社でマジカキコができないのは、不安だからです。「これでいいのか・・」という不安です。
 何も、経営に不安があるのが原因ではありません。たとえあったとしてもその不安はどこにいても出るものです。ホテルに缶詰になっても同じです。
 ではその不安とは何なのでしょうか?たぶん、「流れ」なのではないかと思います。
 会社は一つの流れを持っています。そこは個よりも全体の流れを優先する場です。
 私はそこで個の流れに乗ることが出来ません。流れから外れる不安は、経営者とて同じです。
 男性が通常スカートを履けないのは勇気がないのではなく、不安があるからだと思います(勇気は人生の邪魔だとさえ思っています)。流れから外れる不安です。
 では、不安はマイナス要因でしょうか・・
 そんなことはありません。不安が「個」なのですから・・。

役割束縛圏

 これが本当に強い束縛なのです。もう、諦めました。男性という性の束縛からは、逃れられない・・。
 実は、明日私は会社で宣言をします。女社長になることを・・
 正確には、性別の無い社長ですが・・
「私は誰でもない」この状態を実現するのが、いかに大変なことか・・・
 人は誰でもない状態になることは、不可能なのではないかと思います。
 あなたの職業、あなたの名前・・・
 しかしあなたの性を無くすことは出来ますか?出来ませんよ・・・
 私はいくら女装したって、身体的に女性になれるわけではありません。
 精神的には近付けるでしょう。しかし近付いて、どうだと言うのでしょう・・
 でも、どうだとは思いません。既に多くの気付きに出会っているからです。
 社会的な性差の問題など、どうでも良いのです。問題は「神」です。
 神は、このままずっと性差を保持し続けるのか・・・
 もしも未来において保持しないのなら、私はそれを体験したい・・
 それは「私達はどこに向かっているか」の答えかも知れないから・・

女社長宣言

 反応・・最初、シーン・・(笑)。
 そして数分後、経理の責任者から、「あの〜、外部に見せるための説明書を作ってもらえませんか?」と言われ、簡単なものを作りました。 
 最近私が変な服を着ているという噂が、既に立っていると言うのです。
 以下が、私が作った説明書です。
 中国での仙人調査の中で、仙人たちが性差を超えていることが分かってきました。
 自らの体験を記するというのが前提の私なので、私も性差を超えることにチャレンジしたいと思い始めました。
 私は女性の世界そのものに行ってしまうことにはそれほどの興味がありません(少しはありますが・・)。
 ニューハーフなどは、向こう側に行っだけで、やはり性差を超えていないと思います。
 さてこれからは、自己体験の一環としてまったく正真正銘の女装をするときもあろうかと思います。
 ご協力のほど、よろしくお願いします。
 というものです。やはり三次元は、大義名分が必要です。
 正真正銘の女装には午後、挑戦します。あの黄色いスーツを社内で着ます。

同窓会

  
 あの格好(黄色ミニスカ)で同窓会に行ってきました。寒い道を初めてスカートでたくさん歩きました。
 そこで知ったのは、スカートの中って結構気持ちがいいのです。
 涼しいんです。でも寒いという感じではありません。
 あれは夏に履くと、もっと気持ちが良いのではないでしょうか・・・。
 最初、部屋に入ってきて慌てて出て行く人がいました。
 だってこの同窓会のメンバーには女性はいないから・・
 全く女性だと思った人がかなりいました。
 評判は、「綺麗」「肌がツルツル」「生き生きしている」「目からウロコ・・ショックだ」「なんか、怒りまでこみ上げてきた・・(私にではなく)」
 みんな、ほとんど私と同じ年です。偉い人ばかり・・
 しかし、みんな不思議な事は信じていません。死ねば無に帰ると思っています。
 みんな不思議な事には全く興味が無い・・私だってそうです。
 もしも科学で答えが出るなら・・私がなぜ生まれたのか・・を。
 どうしても不思議な事に行ってしまうのは、その答えがそこに隠されているような気がするのです。
 死んで無に帰るのなら、なぜ誕生したのでしょう・・ 
 
 この同窓会の写真は、私が幹事として最後の閉めの挨拶をしているところです。
「私は人が好きです。留学を含め、一年間を共に過ごした人たちがバラバラになってしまうのは嫌です。あれから23年が経ち、こうして定期的に集まれるのは幸せです。私は趣味で幹事をさせてもらっています。みなさんありがとう」と言っているところです。


性差・・それはアイデンティティの源

 どうして私たち男(女)は男(女)の格好をしているのでしょうか?
 確かに女性は子供を産み、男は産みません。しかし女性だって子供を産まない人生を送ることが出来ます。科学の力で、試験管で作ることも出来るでしょう。
 なのに私達は、何故これほどまで性差にしがみ付くのでしょうか・・。
 こんな事を考えていたら、ふと湧いたインスピレーション・・
 この質問が、自分に向かってくるということです。社会に対して性の差別を問うた時、それは確実に自分に来ます。どのように向かってくるのでしょうか・・・
 人は自分のアンデンティティから性差を取り除いたことはありません。
 精神世界ではよく言います「あなたは生まれるときに男性(女性)を選んだ・・」
 本当にそうでしょうか?この表現は、その性であることを強調しています。
 私は何も否定した方が良いと言っているのではありません。性差は「微弱」だと思ったのです。ところが世間で、性差は「強力」なのです。
「微弱」を「強力」に押し上げているもの・・それがアイデンティティだと思います。
 アイデンティティは、強いほど良いという誤解があるからです。
 自分とは何か・・・自分は男だ・・自分は女だ・・それで満足しますか?私はしなくなってしまったのです。
 自分史の中では未踏の地・・出来るだけ裸の自分に近付きたくなったのです。
 神に性差はありますか?私には無いように思えてきたのです。
 自分の中の神に対面するとき、私は男という鎧をかなぐり捨てたいと思いました。でもこれは精神世界の話です。
 私にはちゃんとペニスが付いています。それを落としたところで神に近付けるでしょうか?
 否だと思います。ペニスを付けた理由はちゃんと知りたいのです。
 しかし、そのペニスを自分のアンデンティティの100%にまで持っていきたくはありません。
 私は、出来るだけ「誰でもない自分」と対面してみたい・・・
 誰でもない私・・すなわち剥き出しの私と対面することは、本当に怖いことかも知れません。怖いからこそ世間は、性差に逃げ込むのではないでしょうか?
 
 女装者の就職先は限られると言います。それは女性への性差別よりも激しいでしょう。
 何故そんなことが起こるのかと言えば、社会のアイデンティティが関係しているような気がするのです。
 自分とは何かを拡大したものが社会だからです。
 社会はあらゆるものを二つに分けてきます。言語ですら分けてしまう国があります。太陽は、月は、地球は、火星は・・
 最初フランス語を習ったとき、本当に戸惑いました。
 世界は一つ・・ワンネスと言いながら、男の役割、女の役割を分けます。
 アイデンティティ・・それは末端だと思います。分化した先です。アイデンティティに固執して、神に会えますか?
 西洋の神は男性的です。お蔭様は、どちらかと言うと女性的です。
 しかし精神的な性別がある限り、神にはなれないような気がします。一部ではあっても・・です。
 それはアイデンティティに固執しているからだというのが私の仮説です。
 私は宗教に興味があるのも、科学に興味があるのも、神について興味があるからなのです。
 神はなぜ世界を存在させたのか・・私という人間を存在させたのか・・存在するなどという面倒なことをしたのか・・
 女性性だの女装だのに興味があるのも、このためです。しかし・・面白くてしようがないのです。
 だからこそ、宗教を信じないのです。宗教を信じてしまうと、その楽しみの多くが失われると思うからです。
 私が悟りに興味があるのも同様です。悟って、安定した自分になりたいからなのではなく、悟りを通じて神を知りたいからなのです。

マニアの世界

 秋葉原には30年に渡って通っています。部品を売っている場所は、裏通りであっても知り尽くしています。
 そう、私はマニアだからです。店の店員もマニアです。ですからそこでのやり取りは、マニア同士の憩いの場です。
 コンデンサーとか抵抗とかの部品のことを聞いていると店員から「その値だけど、どうやって出したの?」などと訊かれ、計算式を言うこともしばしばありました。
「なるほど・・。じゃあ、取ってきてあげよう・・」と言い、店員は離れた場所にある倉庫まで、マニアな客のために足を運ぶのでした。
 しかし秋葉原には一般の人も来ます。でもマニアな部品街にはあまり来ません。間違って来た日には大変です。すごく冷たいのです。
 今日、私は定電圧装置の部品を探しに行きました。
 これは銀河駆動装置のモーター部に電気を供給するときに必要なのです。
 外部の電圧変化にも対応し、内部の負荷の変化にも対応させるためです。つまりどんなことがあっても電圧を一定にさせる装置です。
 これを付けないと、自転、公転速度を一定に保つことが出来ません。
 神が自動的に行っている作業を、この装置にさせるためです。
 私はあらかじめ部品をメモしていきました。そしてマニアな店に行き、部品を物色しました。その中で、欲しい部品(IC)が倉庫にあることが分かりました。
 私はこの店に100回以上は来ています。その都度、疎外されたことはありません。ずっと同じマニアとしての囲いの中に入っていました。
 しかし今日、店員はそこにあった別のICを手にして言いました。
「このICでも同じだよ。ちょっと容量がでかいけど、大は小を兼ねるからね・・」
 私は正規のものが欲しかった・・。なぜなら容量が大きいとそれだけ熱を出し、ロスを生じるからです。私はどうしても正規なものが欲しいと、メモを見せながら言いました。
 彼は言いました。「それを書いた人に言えば分かるよ。大きいのでも大丈夫だって・・」 
 私はこの時、初めて気が付きました。
 その時の私の出で立ちは・・
 昨日買った女性物のスーツ、首に赤いスカーフ、白い春モノのコート、小樽の残りで手にはマニキュアまで付き、まつげはパーマ状態・・
 私は買い物を頼まれた人に見えたのでした。
 私は30年間通ったお店で、初めて「マニアの外」に放り出されたことを知りました。
 私は言いました。「これ、私が必要なんです・・」
 彼は言いました。「何に使うの?自分で作れるの?」私は答えました。
「はい、作れます。一応、専門ですから・・。銀河駆動装置の定電圧装置に使います。」
 この時、彼の態度は一変しました。そして倉庫に行きました。
 昔、フィリピンの心霊治療調査で発信機を製作している時もそうでした。私はお腹に手を入れられている写真を見せると態度が一変して、ものすご〜く協力的になったのです。
 彼らマニアは、他のマニアも評価するのです。自分のマニアな領域が他のマニアな領域に役立つことを結構喜ぶのです。
 そのお店でかなりな時間を使い、すべて思い通りの部品を揃えました。その価格の総額はたったの500円です。明日は半田ごてを片手に組み立てます。
 無線マニアが女装マニアになり、さらに銀河マニアに・・・

「閉じる」ということ

 小樽合宿での天地宮さんは、たった一言「閉じる」ということを言うためにいたような気がします。
 肌色部屋に書き込まれた幾つかの変化、あるいは私に来たメールによれば、天地宮さんがあれを言った瞬間に、実際に閉じることの出来た人が大勢いた様子です。
 私達は「開く」あるいは「始める」ということには目が行きますが、「閉じる」ということにはなかなか気が付きません。
 天地宮さんはそれをパソコンに喩えました。
「パソコンだって一杯開きすぎると、動かなくなるでしょう。だからどんどん閉じていけばいいんです。」
 閉じるということに抵抗感を示した人もいました。
 しかし閉じるという行為は、人間の精神生活の中では最も大事なことだと思いました。
 閉じれば、次が自動的に始まるのです。過去へのこだわりを捨てれば、次は自動的に始まるのです。
 これは中井氏の言った「結論を出さないまま放置する能力」とも似ています。
 結論を出さなくたって、閉じればいいんです。清算する必要なんてないんです。
 一度閉じれば、次が自動的に始まり、過去の清算も自動的に行われます。
 天地宮さんはあのとき前に進み出て「これ、分かりますか?分かりますか?」と言いました。
 そして最後は「でもすぐに忘れて下さい」とも言いました。忘れることも閉じることの一つです。
 
 天地宮さんは講演前に私と個人的に喋りました。そのときに言いました。
「閉じるということは、カルマを消すということだと思うのです。カルマは自分で創り出しているのです。普通カルマを消そうとする人は原因を知り、それをキャンセルすること(たとえば成長)をしようとしますが、それはパソコンで言えばどんどんファイルを開いていくようなものです。そんなことをするからカルマは拡大するんです。そうじゃなくて閉じればいいんです。閉じればカルマは消えます。同時に次がスタートします。」
 小樽講演の会場には天地宮さんの書いた絵が10点ほど飾られ、周りを取り囲んでいました。そして受講者は寝転んで聴いてもいいという、リラックスムードでした。
 こういう状態は、実は閉じている状態かも知れません。寝転んで聞いている時、自分を縛るものなど何もありません。おまけに会場を取り囲んだ絵からはエネルギーが出続けています。
 いままで頑張りすぎやしませんでしたか?開くことばかりに夢中になりませんでしたか?結果を出すことに躍起になりませんでしたか?
 帰る日の朝、一時間しか時間が無いのに参加者全員が広間に集まり、全員が意見を発表しました。
 そして最後に「さようならを言うことも、閉じることの一つです」と私が言って、「きょうの日はさようなら」を歌いました。
 きょうの日はさようなら・・これは自分自身にいう「さよなら」かも知れません。
 人はそういう状態になった時、カルマから解放され、自由になるのでしょう。
 閉じるということ・・とても意味は深いと思います。

見えるものはすべて自分の中にある

 このセリフは天地宮さんが言ったものです。まず星の例が上げられました。
「星が見えるのは、あの情報がすべて自分の中にあるからなんですね・・」
 このことを理解するのは大変です。
 銀河駆動装置の考案者である神坂氏も似たようなことを言いました。
「星が見えるというのは、人間の能力があそこまで届くということなんだねえ」
 私はここ一ヶ月ほど前から、いじけるようになりました(笑)。そして地雷がなかなか落とせなくなりました。地雷を落とす代わりに、いじけるのです(笑)。
 その大きな理由の一つが、性差という問題に気が付いたからです。
 自分の中の女性性に出会ったとき、人を批判するひとかけらも持ち合わせていないことを知ったのです。
 でも私としての意見は言います。しかし地雷として成長しません(笑)。
 今後もしも地雷が出現した時は、男性であるモリケンが100%になってしまった時です。
 そう・・私は生まれてこのかた、男性性が「100%の自分」だと思っていたのです。
 天地宮さんは最終日の集まり時、みんなの発表が始まる前、自分の気付きとして次のようなことを言いました。
「私は今まで寂しがりやの人が大嫌いだったんだよ。でも昨日から今日にかけて気付かせてもらいました。私自身が寂しがりやだったからだということを・・・。寂しがりやでもいいんですよね。みなさんありがとう。」
 この言葉の意味は結構深いと思います。
 自分のアイデンティティ・・すなわち自分が拠り所にしていたものが取れていくと、寂しさはどんどん感じてくるものだと思います。
 逆に言うと、寂しさを感じないために「らしさ」というアイデンティティを背負っているのではないかと思います。
 私はこの寂しさの中に神が潜んでいるとさえ思います。
 だから、ああしなさい、こうしなさい・・という神が、神であるわけないと思います。
 だってそこには寂しさが感じられないから・・。
 私達はもともと持っているのです。しかしそれに気付かないと抑圧します。
 抑圧すると次は怒りや嫉妬が生まれます。
 チベット密教の有名な言葉「すべては始まりにあった」
 自分に無いものだと思えば相手に投影します。無いものだと思えば「持とうと」します。「なろう」とします。
 しかしあるとかないとかいう判断を下す私自身は、いったいなんでしょうか?
 私は少なくとも「男のふりをしている私」に気づきました。
 人としてのアイデンティティなど、多くの「ふり」を取り去っていけば、無いに近いのです。
 人に対して怒りの感情が出るのは、それを自分でも持ちながら抑圧してしまっているからでしょう。
 寂しがり屋の自分に気づいた天地宮さん・・この先彼女はどんな存在に出会うのでしょ うか・・・。
 今、私の前には綺麗な花が咲いています(花屋さん経営の喫茶店だから)。
 この綺麗な花も、綺麗だと思えるのは、私の中にこの「綺麗」があるのでしょう。
 同様にモーツアルトを聞いて感動するのも、自分の中にそれがあるからでしょう。
 他者との触れ合いは、まさに自分自身に気付く旅だと思いました。

女装による初めての遠出

 小樽合宿には女装で行きました。女装をするためにはエネルギーを必要とします。
 めげていたり落ち込んでいたりする時にすると、余計に落ち込みます。しかしエネルギーがあるときに女装をするとさらにエネルギーアップをします。
 つまり女装をすることは、より不安定な状態に入るのです。
 でも不安定というのは、否定的なことなのでしょうか?私はそうでもないと思うようになりました。
 もしも真我などと呼べるものがあるとすれば、それはとても不安定なのではないでしょうか。細い綱の上を渡っているような感じがします。
 そんな細い綱の上で、バランスとアンバランスにヒヤヒヤしながら生きているのが本来の「生」ではないでしょうか・・・。
 私はずっと長いこと、男を演じてきました。だから小樽に行くその日は、女性を演じることにしました。演じるとは言え、私の場合は無意識に任せます。
 無意識に任せることを本当に「演じる」と呼べるかどうかは疑問です。
 場によって、人は場に合った自分を演じている、言い方を変えれば場に合った自分を表出している・・と言えないでしょうか・・。
 当日は9時に会社に行きましたのでメイクが終わるまでに社員も全員出勤してきました。
 私の「女性変装完成体」をみんなに見せると、「あら、結構イケるじゃない」という感想が返ってきました。
 大義名分を言った経理の女性は、「夏になって素肌をもっと見せるようになったらどうするのかしら・・」などと心配までしてくれました。
 羽田に行き、みんなと合流しました。そこで小樽合宿の出し物であるベリーダンスの練習をしました。



 そして羽田の手荷物検査で私のバックを「この中には何が入っているの?」と訊かれました。
「パソコンです」と普通の男の声で答えました。その時、そこにいた係の人が全員振り返りました。
 女性の係員はチラッと見てちょっと笑っただけでしたが、男性の係員はずっと私を見ていました。
 飛行機は飛び立ち、札幌に着きました。
 そこまで私はトイレに行っていません。トイレに行ったのは交流会会場でした。
 私はできることなら女子トイレに入りたかった。でもそれは、基本的に罪となるらしいのです。
 私のDNAは男性です。女性になろうとしてペニスを手術したとしても、それはあくまで外見です。DNAレベルでの身体はあくまで男性です。
 しかしです。私はずっと精神的な男を演じてきたのです。これは女装をして初めて知ったことでした。
 スカートを履くと、自然に動きが柔らかくなります。奇妙な「性」になります。内側が男性で、外側が女性・・
 でも、これは本当でしょうか?内側が男性というのは、DNAと性器止まりではないでしょうか・・。
 それから外側は、社会という舞台という場によって作られた演技なのではないでしょうか・・。
 なぜ人は演技をするのでしょう。それは「安定のため」だと思います。
 演技をうまくこなさないと不安定になり、社会との接点にずれを起こすのです。
 社会とは何でしょう?社会は人が作っています。
 人は安定に向かいたいという欲求と同時に、「生」を生きたいという欲求があると思います。
 今の私は、自分をテスターとしたこの「場」の変化が楽しいです。
 女性物を着たりお化粧をしたりして気付いたのですが、女性たちはまさに生きるためにそれをしているのではないかと思います。
 男に媚びを売るためだとずっと思っていた私・・しかしそれは大きな間違いだったのかも知れません。
 もしも男性が自由に女性店に入って自由に服が選べたら、もっと楽しくなると思いませんか?
 男性のアーティストなどに女性的な人が増えました。これを「今の若者は・・」と考えますか?
 性差は増える方向に進化しているのでしょうか?それともその逆でしょうか?
 私は女性を演じることも楽しくてしようがありません。ウキウキします。
 小樽で初めて女装をして舞台に立った道産子のみなさん、どうでしたか?
 物事はやってみた方が楽しいですよね。
 
 さて、私はこれまで男を演じていると言いました。少なくともそれが分かっただけでも肩の荷が下りました。
 だって男という性は、神から与えられた「客観的場」だと思い込んでいたからです。
 それが自分で創り出している主観的な場ではないかと気付いたのは、つい最近です。
 主観を客観だと誤解する例は山ほどあります。私はそれを破りたくて不思議な調査をしていました。
 しかしです。それを眺めている自分・・言い方を変えれば評価を下してきた自分すら、主観的なものだったのです。色眼鏡を掛けて自分自身を見るようなものです。
 私は私自身を、色眼鏡を掛けて見ていました。そのとき見える色を、自分の色だと思っていました。
 しかし、その色は眼鏡を別のに変えたら、色は変わってしまいました。
「男性」という極めて安定した乗り物・・その乗り物を疑うことはありませんでした。
 私は「生まれる前」に男性という性を選択したと思っていました。しかしその大半の選択は、「生まれた後」にしているのです。
 神はいったい何のために性差を作ったのでしょう・・・。男性を楽しむためでしょうか?
 しかし少なくとも、今の私にとっては両方の性を演じ、本当の自分を探す方が楽しいのです。。

感覚に身を任す

 その昔、フォーカス27で息子の魂に出会い、その時はあまり感じなかったのに、肉体に戻ったら突然涙が溢れたと書きました。
 上の世界は希薄です。喜びや悲しみだけでなく、寂しさすらも希薄です。だから「私という感覚」も希薄になります。
 「私」って一体何でしょうか?行為する主体は「私」でしょうか?
 女装して気付くのですが、それすら危ういという感じがします。
 「私」とは単に「演技者」なのです。成長しようなどと思っている人間は、芸を磨こうと思っているだけに過ぎません。
 死んでから神様に「あなた、芸がうまくなったわね。上手く演じていたじゃないの」と言われるのがオチです。
「我思う故に我あり」と言った人がいました。しかし、「思う」ことすら「演技」だと気付いてしまいました。
 では、私とは一体何でしょうか・・私が思う「私」とは、「感じる」ということだけなのです。
 嬉しい、悲しい、寂しい、ウキウキ・・・何だっていいんです。ボケーと漂っていてもいいんです。
 ボケーと漂っている時、心は安穏とした周波数を感じているからです。幸福感だって不幸感だっていいんです。
 
下の一節は中井氏の文章です。今回の小樽講演のレジュメに使ったものです・
<ハプニングの意義>
 孤立した人にはハプニングが乏しいと言うことができる。
 われわれの上には日々、宇宙線のように偶発事が降り注いでいる。それはわれわれの哀愁のみなもとの大きな部分を占めている。偶発時の活用によって人は豊かになり、変わっていく。
 私(中井)はかつて分裂病経過後の人生の軌跡をたどってみたことがある。するとしばらくは精神医学のマニュアルから隔たっていないが、それをすぎると、まったく事情は変わって、よき友人にめぐり合うとか、母親が亡くなるとか、良し悪しきはともかく、偶然としか言いようのないものをどうつかまえ生かすかによって人生の軌跡が決まると言っても良いくらいであった。
 この一節は、感覚に生きるというようなことを言っているような気がします。

中井氏の文章(小樽のレジュメに使ったもの)

●いい加減で手を打つ能力
 これは複合能力で、意地にならない能力とか、いろいろな角度からものを見る能力、特に相手から見るとものがどう見えるかという仮説を作る能力――相手の身になる能力か――が関連能力である。若干の欲求不満に耐える能力とも関係している。人類はこれらの点で未成熟で戦争を繰り返している。

●一人でいられる能力。また二人でいられる能力も必要である。
 二人でいて満足したら、あんなに長く二人でいることを要求すまい。

●両義性に耐える能力
 母親が同時に父の妻で、世間ではただのオバサンで、生理的にも心理的にも女性であるという認識は、実は相互に矛盾しているところがあって、これに対する耐性が低いと「母が父に抱かれているのは許せない」ことになってしまう。

存在すること

 今日も秋葉原に行きました。最近の私の出で立ちは、下の写真の通りです。
 2月23日に赤いパンツスーツで外出しました。その時はまだ緊張していて笑えませんでした。そしてあれから約一ヶ月が過ぎました。
 もう満面、笑顔がこぼれそうです。あの日以来、私は女性ものしか着ていません。
 毎朝起きたとき「今日は男性物を着よう」と思っても、実際に着て出るのは女性物です。
 下の写真を見ても、女性物というのは本当に軽やかだと思いませんか?
 コートは先日買ったものです。ごく普通の女性物のコートです。


 
 以前の私は過度なおしゃれが好きではありませんでした。「男は行動で示すもの」というのが私のポリシーでした。
 男が過度のおしゃれをしていると「何だ、そんなに女にモテたいか・・」などと思いました。挙句の果てに「女々しい奴め」などと思ったものでした。
 それが今はどうでしょうか・・過度のおしゃれをしています。
 スカーフなど機能的には全く必要がありません。なのにしています。
 しかし女性にモテたいという動機は(ほとんど)ないのです。だって女性物を着ていますから・・(笑)。
 女々しくもありません。だってちゃんと秋葉原に行ってハードな買い物をしてきましたから・・。
 今日の買い物は、充電器の部品です。
 私の銀河駆動装置は、公転と自転が分離して動くようにします(神坂氏のは分離していません)。
 分離させるためには自転系をバッテリーで動かす必要があるのです。でも私の装置には自動車のバッテリーが大きすぎて乗りません。
 そこで小型のものを使うことにしたのですが、そうなると市販の充電器が無いのです。
 
 さて、秋葉原までの道のりをこのスタイルで行きました。
 女性物を着始めたころは、周囲の目が気になって仕方がありませんでした。でも最近は、全く気になりません。と言うか、眼中に無いのです。
 私は少しだけ中性に転じて街を歩きます。
 秋葉原に着くまでの過程がとても軽やかです。空が綺麗です。東京の町並みも綺麗です。
 私が「男だけ」だった頃は、こういう感覚はありませんでした。
 私は何かをする存在でした。何かの意見を言い、何かを主張し、何かを作り上げ、何がしかの結果を出す。そういう「すること」でもって私は私を肯定してきていました。
「私の行動を見ていてくれ」これが私の、世界に対するメッセージでした。しかし今、私は少しずつ変わっている様子です。
 以前、「愛は状態だと思う」と書いたことがありました。となると、「愛は行為ではない」と思うのです。
「私の行動を見ていてくれ」このフレーズに愛はあるのでしょうか?どうもこれはエゴっぽいのです。
 もしも愛が状態であるならば、人は何もする必要はないのかも知れません。
 私は私という存在だけで良いのです。私という存在を、宇宙にマッチングさせれば良いのです。
 
 以前、このコーナーに中井氏の「労働の分類」というのを書きました。そのとき書かなかったものがあります。それは彼の最後の分類でした。
「存在労働」というものです。存在することが労働と結びついてしまう場合です。
 本来、そうあるべきかも知れないと思います。
「私の行動を見てくれ」と言う代わりに、私は女性ものを着て街を歩くようになりました。 もちろん会社でもこの格好です。
 私はこれで経済活動に参加していますが、今のところ何の支障もありません。むしろ社内が明るくなり、経済効果は上がっているとさえ思います。
 さて、私が持っている絵の説明です。これは天地宮さんが私を書いた絵です。
 天地宮さんはエネルギーを見ることが出来ます。
 エネルギーの目で見ると、私はこういう風に見えるのだそうです。
 しかもこれは1〜7の、全部のチャクラに共鳴するのだそうです。
 そして絵は題が付いています。「天地融合」副題は「開放」「解放」です。
 もちろん私本人は私自身を、全くそんな風には感じていません。この絵は、小樽講演の成功のお礼として送られて来ました。
 この絵に限らず、人は皆、光り輝くエネルギーなのです。
 その周波数を上げるのに、ウキウキする格好というのはマイナスにはならないと思います。
 エネルギーの世界に、二者択一はたぶん無いと思います。融合可能なのです。

中井氏の労働の分類

 これは彼の書いた『分裂病の回復と養生』という本の一部なのです。
 以前紹介した「情報操作労働」というのは、最近の労働の形態だと言っています。
 情報操作労働は、より情報に接近しやすい位置への志向性が生まれ、情報把握度が権力の尺度になると言う。
 しかしこの権力欲は、従来のそれとは異なるものである・・と書いてあります、
「知っている」、「分かっている」というのは一種の権力になるのですね・・
 私のやっている不思議研究所というのも、情報操作労働に近いと思います。出来るだけ情報に接近しやすい場所に行くからです。
 本の最後の方に「存在労働」というのが問題提起されています。具体例は載っていません。
 そのさらに後ろに「リクリエーション業」あるいは「趣味業」というのも載っています。
 芸術や職人芸はこれに当たるらしいのです。
 これは「無くてもいい」という見方もあり、贅沢品の生産ということも言えるのです。
 趣味業・・無くてもいいもの・・ですって(笑)。
 しかし存在労働という業種はすごいと思います。おそらく全ての業種にこの要素はあると思います。
 私は「主婦業」というのは、これに当たるような気がしてなりません。お母さんは、家の中で存在しているだけでいいんです。
 もっと幅を広げれば、私達人間は「すべて存在するだけで意義がある」・・こうなっていくと素晴らしいかも知れません。

白樺湖国際スキー場

 ここには毎年来ています。もう10年以上・・(笑)同じスキー場で、よく飽きないものです。
 ここはとても小さなスキー場です。リフトは四本しかありません。ホテルもたった一つ・・。
 私はスポーツが大嫌いです。スキーも同様です。滑るよりリフトに乗っているときの方が好きです。嫌いだからスキーの技術は毎年落ちてきます。
 このパーティーは娘の幼稚園の頃、つまり10年前からの知り合いで、この時期になると毎年決まってここに集まります。
 10年前と言えば私が不思議研究所をやろうと決めた頃でした。
 その頃、私の決心を喋ると「そんな趣味みたいな生活ができるかしら・・」と半信半疑でした。
 でも、毎年集まるたびに私が変化しているので、だんだん納得してきた感じです。
 滑っているときは無心でした(いつ転ぶか分からないので(笑))。無心というのは、心を洗う感じがします。
 好きなことをすると健康によいと言うのは、好きなことそのものにあるのではなく、無心という状態にあるのかも知れません。
 昔ミームを論じたとき、ミームは人の思考を占有しようとして競合状態にあるというくだりがありました。
 そのミームから逃れる方法の一つが、この無心ではないかと思います。
 無心になるために修行をしたりする人もいます。
 しかし何もしなくても無心になる方法・・それは一つはスポーツでしょう。
 ジョギングをしていてハイになると言われているのも、無心に関係あるのかも知れません。
 子供の頃はずっとそういう状態が続いていました。
 さて、私は二時間ほど滑るとあとはロッジでずっと本を読んでいました。そして左脳で考え事をしていました。
 でもね・・左脳で考えている時も、なんか無心に近いものを感じたのです。
 ロッジで読んでいた本は、三蔵法師に教えを請おうとした弟子の話です。
 スキー場にいながら、私の心は中国の山中に飛んでいました。
 それはミームの支配下でしょうか?(ミームは、いずれ決着をつけようと考え続けている最中です。)

 スキーって、なんでみんなカッコつけたがるのでしょうか?
 私も滑るときは出来るだけ足を揃えて滑ります。しかしオリンピックの選手は、かなりガニマタというか・・足を開いています。
 ゲレンデで足を揃えるのは、「どうだぁ、カッコいいだろう・・」という自慢に他ならないと思うのですが、スキーファンの方はどう思いますか?
 しかし、「格好をつける」という人間の習性が経済を支えているとも思います。
 ファッションだって「格好をつける」ためでしょう。美容院だって「格好をつける」ためでしょう。
 もしもゲレンデに誰もいなかったら、私はこんなにカッコつけて滑りません。もっと大らかに滑るはずです。



 ゲレンデでの恋は、ゲレンデ止まりだと言います。
 ゲレンデで素敵に滑る男性と出会い、都会に帰ってきてデートしたら「何で私はこの人と・・」という思いをする人は多いと聞きます。
 先日「美人ばかりがなぜ得をするのか」という本を読んでいたら、美人は人間性までもが美しいのではないかと思われるらしいのです。美人というだけで性格も美人的に見えるのです。
 同様にゲレンデでカッコ良く滑るのも、「ああ、この人はこの滑りみたいにカッコいい人生を歩んでいるんだわ」と思われたいのではないでしょうか・・。
 ファッションしかり・・髪型しかりです。
 それをどこかで知っているから、無理してでまでカッコつけたがるのではないでしょうか・・。
 そうなのです。人は人を外見で判断してはいないでしょうか?
 だからといって、どうしろと言うわけではありません。
 ところで『美人だけがなぜ得をするか』という本によれば、人を見たときその第一印象は、ずっと見続けた後の印象よりも深く心に刻まれるそうです。
 一目惚れは、えくぼがアバタだったときも持続するそうです。ですから女性がお化粧を気にするのも理解できますね。
 今日はスキー場を後にして、家に帰ります。

成長したのか?

 娘の通信簿に自己評価する欄があり、「今学期、自分はどんな点が変化し、どんな点が成長したと思いますか?」と書いてあります。
 私がもしこんなことを訊かれたらどうしよう・・たぶん適当に、あんなこと、こんなことを書くと思います。
 しかし娘は「そんなことは分かりません」とだけ書いてありました。
 私は最近、自分でも少し変わったのではないかと思っています。でも、何がどう変わったのか、分かりません。
 なぜ私は議論を受けて立たなくなったのでしょうか?それは私の女性性と関係がありそうです。しかし、それを言葉にしてここに書くことが出来ません。
 私は外部に対する議論よりも、内部の議論が凄いのです。議論と言っても、それは言葉で行われるのではありません。本当の相手は、自分の中にあったのです。 
 私は成長したのでしょうか?そんなことはありません。
 成長は、社会の尺度があるからです。私の尺度は内部です。

性差と演技

 ある小学校で行われたテストです。色紙を分けるというテストです。
 色紙を「これは男性のみの色、これは女性のみの色、これは両方アリの色・・」と分けるのです。
 ほとんどの色が両方アリに入る中、ピンクだけが女性のみに入ったのです。つまりピンクは両方アリには入らなかったのです。
 次は服装の絵を分類しました。結果、スカートは女性のみに入りました。両方アリには入らなかったのです。
 このテストは非常に興味深いと思います。男性はピンクでないとき、男性なのです。男性はスカートでないとき、男性なのです。
「でないとき・・」
 男性という性を考えたとき、この「でないとき」あるいは「でないもの」を常に頭に入れていると思います。男性は、「女性でない」ことが重要なのです。
 女性はと言えば、全ての色が選択可能であり、全ての服が選択可能だったのです。自由度から言えば、女性の方が高いのです。
 基点は女性にあると言えないでしょうか・・・。
 男性は基点から離れていくことによって成立しているのです(たぶん)。
 男性はずっと「なる」という行為をしているのです。男性になるという行為です。「離れる」という行為です。
 もちろん、この逆もあるでしょう。「女性なんだからもっとおしとやかにしなさい」的なものです。しかし想像するに、男性ほどではないと思います。
「あなた男でしょ?」、「男なんだから・・」これは男性にとってはかなりショックな言葉であり、これにより男性は「あるがまま」から「なる」世界に入ります。
 さて、中性というのは可能でしょうか?
 私は不可能だと思います。それは社会に中性という分類が無いからです。
 自分で作ればいいじゃないかと言う人もいると思います。社会がどうあろうと自分が中性だと思っていればいい・・と。
 しかしそれでは社会の中で暮らすことが出来ません。無人島に行けば別ですが・・。
 性は与えられたものではなく自分で選択するものだとしても、社会はその都度選択を要求してきます。
 中性だと言っても、随所で「再選択」を迫られます。あなたは男なの、女なの?・・と。
 そこで男を再選択したとき、いったい男のどこに価値を置くのでしょうか?
 女も同様です。女を再選択したとき、いったい女のどこに価値を置くのでしょうか?
 これが中性でいられない大きなポイントだと思います。
 誰でもない自分に戻るということは、どんな自分にもなれるということです。
 しかし、もし中性でいるということを選んだら(実際にはこの選択肢は無いと思いますが・・)、どんな自分にもならないと言うことで、存在理由も無くなるような気がします。
 だから誰でもない自分に戻るということは、バーチャルな世界だと思います。でもとても必要なことです。
 そこから出発する選択は、自分にとっての本当の価値を見出した再選択だと思うからです。
 
 さて、自分の事を書きましょう。
 女装というのはやってみると、変わるのは外見ばかりではないのです。
 よく「形から入る」と言いますが、中身も変化するのです。別の人格が表出してきます。それも意識しないのにです。
 禁断の地、すなわちピンクとスカートの地に行くとき、男性というエネルギー体を少しだけ脱ぎ捨てるようです。この変化を私は「演技」だとしました。
 私はかつて男性として生まれるとき、男の森田健として演技することを選んだのです。
 しかしそれは再選択が可能なのです。私はたぶん、何でも演技することが可能です。
 キャラはあまり固定化しない方が良さそうです。善人あり、悪人あり、男あり、女あり・・
 すべてが演技だとすれば、中井久夫氏が「嘘をつく能力が大切だ」というのは納得できます。

演技と憑依

 演技でないものとして「スポーツをする瞬間、イッている瞬間」等を上げた人がいましたが、これすらも変わると思ったので、私はすべて演技だと言い出したのです。
 自分でも気が付かない瞬間が変わるのは、後から気が付くわけなのです。
 だから今、私は自分の性格まで変わってきた様子なのです。性格というのは、笑う瞬間、泣く瞬間も含めてです。
 そういう瞬間を含めて、人はいつも変わらないように努力をしているのではないかと思います。無意識の努力です。
 実はスカートを履いて外に出るまでは、大したことはありませんでした。
 どんな格好をしてもズボンを履いている限り、私は私だと思っていました。根底に流れる私は、変わらないと思っていたのです。
 しかしスカートを履いて外出した瞬間、禁断の地に踏み入れたのが分かりました。自分がスッと入れ替わるのです。
 神が男と女を創り、その見分け方としてのスカート・・。
 それが倒錯したとき、りんごを食べて出たはずのエデンに、少しばかり戻るような感じなのです。それは男として人格形成し始めた前に戻るみたいです。
 人は演技しているに過ぎない・・しかもあらゆる場面でです。無意識の演技だから、演技とは言い難いでしょう。
 しかし俳優が究極の演技をする時、それは演技でしょうか?憑依されたような演技を見ることがありますよね・・
 芸術が作られる時も似たようだと言います。自分で作ったというより、何かに作らされたというような・・
 そうです。人は本当の自分になる時、憑依されているのかも知れません。
 しかし私達はその「憑依」を良しとしないのです。怖いからです。
 怖いから「自我」という幻想を創り出して、玉ねぎの皮にするのではないでしょうか?
 でも、その憑依こそ神かも知れないと思うのです。

どうしたらシステムを変えられるか

 演技と憑依の延長としてシステムのことを考えてみると、私達は変わらないように無意識の努力をしていると言えそうです。
 ピンクとスカートを選択しないのが男性でした。その世界(ピンクとスカートの世界)から出来るだけ遠ざかるのが男性でした。
 その無意識の努力を放棄してしまうのは、社会的に見ればやはり異常なのです。なぜ異常扱いにするかと言うと、社会が混乱するからです。
 東京都府中市の青年の家で、フェミニスト(男女同権主義者)の集まりがあったとき、そこには女装、同性愛を含め、数々の趣味の人が集まりました。
 東京都の青年の家には、異性は同室で泊まってはいけないという決まりがあるそうです。
 だから大変に混乱しました。そしてこの集まりのために来た人は、同性であっても同室させなかったのです。
 これは裁判になったようですが、結局フェミニスト側が負けたと聞きます。
 このとき、青年の家の管理側が最初に言い出したのではなく、そこに泊まっている人たちが騒ぎ出したのです。「あの変態グループをどうにかしろ」・・と。
 しかしです。これを変える必要はあるのでしょうか・・
 社会は男と女で安定しているのです。人は変化が嫌いなのです。
「変わりたい・・」「変えたい・・」などと言っている人は、ちっとも変わらないですよね。
 心底そう思えば、その瞬間に変わると思うのです。
 だからシステムも同様です。変えたいと言っている人ほど、変えたくないのではないかと思うのです。
 私は社会を変えたいとは思いません。だってそれほど不満はないから・・。

ただの体験

 女は子供が産めて,男は産めない・・
 女の選択肢は多くて、男は少ない(たとえば男はスカートが履けない)
 では選択肢が多ければいいのでしょうか?私はそう思いません。
 あらゆる事は「体験」に他ならないと思うのです。体験って何でしょうか?
 精神世界では、「人生は体験を積むためだ」と言います。
 ここで言う体験とは、手段です。たぶん成長するための手段なのでしょう。
 だって体験を「積む」と言うではないですか・・・。
 体験は「積ま」ないと意味がないのです。体験蓄積です。
 でも、私は体験を大切にしたいと思っています。
 珍しい現象を耳にすると、体験しに行きます。でもその体験は、蓄積するためではありません。
 選択肢なんて無くてもいいんです。相手は無限大の選択肢・・私は無し・・それでもいいんです。私にとって体験とは、「ただの体験」にしか過ぎないからです。
「女装して何がわかるの?」と多くの人に訊かれました。
 私は何かを得るために女装したわけではなく、「ただの体験」をしたかったのです。
 その結果として「人は演技をしている」というインスピレーションに出会いました。
 しかしこれを得ることを目指してなんかいませんでした。何も結果がなくても良いのです。
 男は子供が産めないから女にはなれない・・。はい、そうですか。
 同性愛は良くないよ・・。はい、そうですか・・(同性愛ではないけれど)。
 外見だけ変えてもしようがないですよ、中身は男なんですから・・。はい、そうですか・・。
 自分の存在理由なんて探しても無駄ですよ、私達は存在させられたんですから・・はい、そうですか・・。 
 しかし、はいそうですかと答えながら、私はそれをやります。
 結果として何かを得たいからではなく、体験の中に没頭したいからです。
 ただの体験でいいんです。
 私はここにきて、男性の要素だけ・・という状態に虚しさを感じています。それが女装へと駆り立てたのだと思います。
 虚しさという感覚は、エデンの中では感じません。りんごを食べたから、虚しさが出現したのです。
 虚しさ・・それは私の基本的事項だと思います。

女性的な地雷の落とし方に変化したい

 私がかつて「男」を演じていたとき、よく地雷を落としました。それは、「男」は「なる」世界に住んでいるからだと思います。 
 男は存在するだけでは存在できないのです。女は存在するだけで存在できそうなのです。
 違いが分かる男・・男は黙ってコーヒーを飲む・・
 このCMには、男が活躍している場面が最初に出てきます。黙って飲んでいるだけではダメなのです。
 男はこの世に存在し「存在的存在」から離れて、「働くおちんちん」になる必要があるのです。
 地雷というのは私の「突っ込み」でした。私はその人のために突っ込んでいたのではありません。自分のためです。自分を確認する作業なのです。
「私はあなたとは違う・・」まさに「違いが分かる・・」をそのままやっていました。
 女性は男性に選択を迫ります。「あなた、決めて頂戴」「どっちか、はっきりしてよ」
 その結果、選択という行為は善となりました。それは精神世界にも波及しました。
「まずは選択をすることです。あなたが未来を決めなければ何も創り出せません」・・と。
 地雷とは、選択の延長なのです。選択とは「差」です。地雷は、あなたと私の差をはっきりさせることなのです。
 でも、それは良い効果も生みました。人は通常、そこまではやらないからです。
「まあまあ・・いいじゃないの。人それぞれなんだから・・」で済ますのが普通です。
 それで済ませないと、ゼロかイチかという現象が起こります。怒って出て行く人と、とても仲良くなって残る人です。
 しかし、どうも私は地雷が落とせなくなったようです。もちろん、自分の意見は意見として表明するのですが・・・
 これは私の女性性と関係しているような気がします。女性は「存在していることでOK」だと思うからです。
 女性の方が自分を肯定してくるのです。悪く言えば、人のせいにするのは女性の方が多くないでしょうか?あれは自分の存在を肯定するためだと思うのです。
 しかしです。男性は「ピンクではなく」「スカートではなく」・・に現れているように、否定から始まっているような気がするのです。
 だから、基本的スタンスとして否定ごころを多く持っているのではないでしょうか・・。
 私は地雷の良さも認識しています。ですから、これからは女性的な地雷の落とし方が出来れば良いな・・と思います。

書き込み期間:2001/03/03〜2001/04/02