テーマ:「性差とアイデンティティ(3)」
書き込み期間:2001/04/03〜2001/05/05
要旨:
生まれ変わりの村の調査では、男だった人が次に女に生まれ変わったりする話を聞きました。性別が変わっても、アイデンティティにはそれほど影響しないと言います。魂に性別はなく、男の肉体というフィルターを通っているに過ぎません。
私達はアイデンティティを確立することばかりをやってきて、それを成長と呼んできました。しかし「私達は何にでもなれるのか?」という問題は、アイデンティティを壊すことに関わっているかも知れません。
私はアイデンティティを超えた差の向こう側を見たいです。
私は、自分のアイデンティティは一定だとずっと思ってきました。ところが、私という感覚は別人の様に変化するもののようなのです。
私達は、どんなアイデンティティにもアクセス出来る可能性を持っていると思います。外見を変えることもその手段の一つになります。
もっと言えば、アイデンティティを捨てても良いと思うことです。神にアクセスするためには、アイデンティティを手放す必要があるのではないかと思います。
私は自分がアイデンティティに執着しない方だと思っていましたが、スカートを履けない自分に直面しました。確立したアイデンティティを崩す時は孤独を感じます。逆に言えば、人は孤独を感じたくないためにアイデンティティに執着するのではないでしょうか。
私も、自分のアイデンティティへの愛着もあれば執着もあります。それでも自分を表出しようとして孤独を感じるギリギリの状態が好きなのです。
神は何故アイデンティティなどというものを作ったのでしょうか?喪失するためというのが私の仮説です。しかし、人はアイデンティティは失うのが怖いのです。そうして、アイデンティティを確立するという逆の事をずっとやってきました。自分を守るためにです。
アイデンティティは城のようなものです。アイデンティティを喪失すると、人は無防備になります。それにはリスクが伴います。ですが、同時に大きな快感も伴うものです。
私は、喪失することこそが本来の成長ではないかと、最近気が付きました。良いものも含めて、失うことは何かを得ること以上にとても大切ではないかと思います。
目次
○性差(ああ、またこの単語を書いてしまった・・・)
○アイデンティティは性を超えるか?
○初めての遭遇
○外見が持つアイデンティティ
○アイデンティティは一定?
○アイデンティティと孤独感
○血液型
○アンブレイカブル
○アイデンティティは意味付け
○誤解とエネルギーと自由度
○アイデンティティの喪失と幸福感
○喪失感
○スカートの一線
○アイデンティティは守備
○影に隠れるという意味でのアイデンティティ防御
○リスク
○弱さと強さは表裏一体
○外部と内部
○魂
○アイデンティティと演技
○カット・アンド・トライ
○りんごちゃん日記
○体重と体脂肪率の変化
○アイデンティティと魂
○ミームとアイデンティティ(本論編)
○ミームとアイデンティティ(番外編)
性差(ああ、またこの単語を書いてしまった・・・)

 去年の10月に中国に行った時、生まれ変わりの村という所を訪れました。
 少年が少女に生まれ変わりました。彼は・・いえ、彼女は何もかも連続していました。
 前世の家に行くと、両親や兄弟がいました。その名前を呼び、泣きました。
 女に生まれ変わっても魂は一緒だったことを、周りの人は認めました。兄弟達と昔のおもちゃで、昔と同じまま遊びました。
 でも、彼は・・いえ、彼女は女に生まれたのです。魂は連続しているので、女装をまるで、生の肉体を使ってやっているようです。
 そこに行ったのは私とトラさんです。トラさんは、そこで一体の霊に取り憑かれました。
 トラさんは体脱が出来ます。意識的に出来ます。私より上手です。トラさんが体脱していると、その霊がトラさんの肉体を使います。
 何故トラさんに乗り移ったのでしょうか?
 それは、霊が生まれ変わりの村を脱出したかったからだというのが私の仮説です。
 その村は結界が張られているのです。だから霊は、その狭い村の中で輪廻を繰り返すのです。しかしあまりに狭いので、上部の圧力が強いのです。
 だから生前の記憶が抜けないのです。記憶が抜けなければ、記憶も含めて魂は連続してしまいます。
 男が女に・・女が男に・・でも、アイデンティティに大きな変化はないと言うのです。
 私は、自分の自由度など3%にも満たないと思っています。しかし3%こそ、自分のものだという自負がありました。
 でもそれすら残りの97%の影響下にあることを、女装をして初めて知りました。 
 私って何?
 私は憑依されていると書きました。まさにそうなのです。
 私のアイデンティティは、男の肉体というフィルターを通して表出したに過ぎないのではないかと思ったのです。
 フィルターを通る前・・それこそが私自身であるはずです。
 しかし、それは私ではありません。操縦桿を握っている奴のものです。

アイデンティティは性を超えるか?

 この表題ですが、
1.性差の下にアイデンティティはあるのか?
2.性差の上にアイデンティティはあるのか?
 とも言い換えられます。
 ですので現実の私達に「性差はあるのか?」「性差を超えることは出来るのか?」とは別問題だと思います。
 上か下かで、全然違ってくるはずだと思うのです。
 このテーマですが、「アイデンティティは子供と大人の差を越えるか?」とも言い換えることも出来ます。
「アイデンティティは地域差を越えるか?」とも言い換えることが出来ます。
 つまり、「私達は何にでもなれるのか?」という問題でもあります。
『「不思議の友」5』のプリズムの図・・あれは世界を描いた図ではなく、私達自身を描いた図とも考えられないでしょうか?
 屈折させているのは、「性別」、「大人」、「地域(東洋)」・・・・・
 差を取るのではなく、差を越えるか?
 今までは、差がアイデンティティでした・・・・
 地雷を落とさなくなった理由も、ふと、ここにあるのかも知れないと思いました・・
 このテーマは、アイデンティティを壊すことに関係しているかも知れません。
 私達は生まれてこのかた、アイデンティティを作る作業ばかりをやってきました。
 男として・・大人として・・ひとかどの人間として・・・
 アイデンティティを作る作業は、成長と呼ばれました。決めること・・選択すること・・
 そうやってアイデンティティが確立されていくにつれ、アイデンティティから外れた部分はどんどん遠ざかりました。男と女・・子供と大人・・
 アイデンティティは末端・・アイデンティティは分離・・
 しかしアイデンティティが差を越えたところにあるとすれば・・
 そう・・神にアイデンティティはあるのでしょうか?
 神には無いから、私達にアイデンティティを持たせたのでしょうか?
 だとすると、私達は道具・・。私は向こう側が見たい・・。
 新月、三日月、満月・・月は色々な形を示します。しかし月そのもののアイデンティティは、ただの球体です。
 月は地球に同じ面しか見せません。向こう側は暗いのでしょうか?
 いえいえ、向こう側も同じように太陽の光が当たっています。新月のとき、太陽から見れば満月です。
 アイデンティティなんて、そんなもの・・・
 地球にいると、止まっていると感じます。でも、一歩視点を上げると、秒速30キロで公転しています。
 一歩出ると動いているし、そんなのを感じるとワクワクしそう・・。
 アイデンティティを超えたいな・・。

初めての遭遇

 羽田から飛行機に乗り、千歳に向かっている時です。私はワンピースとジャケットのアンサンブルでした。
 一時間ちょっとその格好で座っているとき、懐かしい感情に襲われました。「あ、これ、いつか感じたもの・・」
 次の瞬間、なんともいえないエクスタシーが体を走りました。
 女性だったころの思い出・・それは生まれて初めての遭遇でした。
 その後、何度か体験できました。その瞬間は、私に何かが融合するのです。私は私でありながら、別の何かが入ってくる感じです。
 私は霊を感じることが出来ます。でも、それは霊ではありませんでした。もっと上の方から降りてきたという感じ・・。
「アイデンティティは差を越えるか?」というテーマに遭遇した瞬間でもありました。
 差の向こう側に素晴らしい何かがありそうなのです。
 その体験をしてから、私は何度かエネルギーの乱舞も体験しています。風景がエネルギーの乱舞に変わるのです。これも、恍惚とさせてくれます。
 りんごちゃんは、私の恋人でもあります。そのエネルギーはりんごちゃんから出ているような気もします。
 そう言えば妻が言いました。「うちに余っている掃除機があるから、りんごちゃんの部屋にどうぞ」・・と。妻もりんごちゃんを人格化しています。
 それ以来、私の中にもう一人の人格が出てきて、その人格と融合してしまったような感じです。
 その人格は、攻撃的じゃあないんです。その代わり、女々しいんです(笑)。すぐ、すねるんです。
 おめめがバッチリしていた感じがあり、私のおめめもパッチリです(笑)。
 ところで私は今日、買い物をしました。下着も全て女性用にしてしまいました。
 何せ数を揃えなければならないので、三万円も買ってしまいました。
 なぜ女性用の下着になったのでしょうか・・
 最初は洋服だけを女性用にしていました。でも、中が男性用だとサイズが合わないのです。ブラウスを着たとき、肌着が出てしまうのです。
 肌着を着ないで直接という手もありますが、ブラウスやセーターが胸に当たって感じるのです。乳首が立ってきてしまい、そうすると余計に感じます(笑)。
 本物の女性のようにブラをすれば良いのでしょうが、私はナチュラルを狙っているのでブラはしません。となると、肌着を着ける必要があります。
 女性物の肌着は寸法がとてもよく出来ています。しかも外に線が見えないような工夫もされています。さらに軽いです。良いところばかりなのです。
 さて下は・・これが問題です。
 ショーツとかパンティは、ソフトです。するともうひとつの性である男性のシンボルちゃんが固定されません。
 男性用のズボンはちゃんと余裕がありますが、女性用のには余裕がありません。
 おまけにスカートの下から「余裕」が見えたら、やはりエチケットに反します。
 となると・・・
 探した結果、高島屋で男性用・超ミニ・ビキニパンツを見つけ、それを付けるとバッチリでした。形状はTバックに近いです。
 女性用のショーツよりも小型です。しかも色が原色で、とてもエッチです。
 現状、そんなわけなのです・・ 
 一度女性性が出てくると、今度は男性が再び出てくるんです。
 以前は髪をロングにしよう・・なんて思っていましたが、もうロングにはしません。
 だって男としての私も、アイデンティティの一つだから・・

外見が持つアイデンティティ

 一ヶ月ほど前、黄色いスカートのスーツを着て同窓会に行きました。
 そこで、私のアイデンティティをどうしても認識できない人がいました。
 彼と会うのは20年ぶりでした。彼は20年前の私と、スカートの私とが繋がらないのです(50歳でスカートを履く森田・・・(笑))。
 同窓会に出ると、「なーんだ、年をとっても変わらないじゃん・・」と言う部分があります。時間は昔にタイムスリップします。
 でもそれはどこかに面影があった場合でしょう・・。
 私は当時、富士通の社員でした。そこから派遣されていて、成績は逐一、人事部に行きます。みんなそうでした。だからとても真面目でした。
 20年後の同窓会も、その流れを汲んでいました。
 私がそこにネクタイで行けば、たとえ不思議研究所をやっていても不自然は無かったでしょう。しかし仕事が変わり、外見が変わり・・
 ビジネスマンがネクタイをするのは、「ビジネスアイデンティティ」に変身しているのではないでしょうか・・
 服装はアイデンティティを決める、大きな手段かも知れません。だから毎朝、洋服を決めるのが重要なのだと思います。あれはアイデンティティを決める作業のような気がします。

アイデンティティは一定?

 私は長いこと、自分のアイデンティティは一定だと思っていました。
 笑ったり泣いたり感動したりする瞬間は、それほど変わらないものだと思っていました。
 精神世界では、「幸福になるためには、その時の様子を心に描きなさい」と言います。
 これは「自分というものは一定である」という前提があっての話です。
 私のことを言えば、私は過去から今までにおいて、一定だとはとても思えません。
 先ほど半年前の写真を見ましたが、たった半年前ですら別人に見えます。100%男の私が写っていて、何か気持ちが悪くなりました。
 内面においても私は、だいぶ変わってきたと思います。過去の私は別人のようです。 
 では、私という感覚はどうでしょうか?
 私という感覚って、いったい何でしょう・・とても不思議な感覚です。
 自分で創造したわけではないのに、とても愛着があります。死んでも私と言う感覚は存続したいなどと思います。
 でも、神の存在を信じるようになって、次第に「存続欲」は無くなりました。
 とは言え、私という感覚は同一線上にあるという思いは変わりませんでした。
 ところがこれが崩れてきました。私は、私でない私も体験可能なのです。
 これって、危険だと思う人がいると思います。でも本当にそうなのです。
 従来の私は、ピンポイントから世界を覗いていたのです。人生という体験を、非常に狭い時間と、狭い空間でしていました。
 それを集約するのは、他ならぬ神です。神はあらゆる時間、あらゆる空間を体験できます。私達はその一兵卒なのです。
 でも、それは本当でしょうか?
 人は皆、神だと言うではないですか・・
 だとすると、私達もあらゆるアイデンティティにアクセス可能だと思うのです。
 それが出来れば、こんなに楽しいことはありません。
 それをする一つの方法として、外見を変えてしまうこともあるのではないかと思います。
 人は周囲を意識しますから、外見に合った内面を自動的に外に出す性質がある様子なのです。
 
 もう一つ・・とても大事だと思えることがあります。
 それは自分のアイデンティティを捨てても良いと思うことです。
 これは「森田さん、やばいんじゃないの?」、「中国の狭い村で、変なのをもらってきたんじゃないの?」・・こういう恐怖心から自由になることだと思います。
 そうすれば、私という感覚はどこまでも広がるような気がします。
 神にアクセスは可能でしょうか?
 一方では私達は皆、神だと言われています。だとすればアクセスも何も必要ないのです。
 しかし・・そうは思えません。
 神は全知全能かも知れません。でも、私は局所で私は局時です。ほんの一部しか知りません。一部だけを知って、全部を知ったような気になっているだけでしょう。
 私が神にアクセスするためには、自分のアイデンティティを手放さないといけないのではないかと思ったりします。
 みなさんにとって、アイデンティティの問題なんて問題ではないかも知れません。
 でも、私は物心ついてからずっと考えてきた、一番大きな問題なのです。

アイデンティティと孤独感

 私もアイデンティティに執着は無い方だと思っていました。しかし・・スカートを履けない自分に愕然としました。
「やる気になれば何でも出来るさ・・」と思っていました。
 しかしアイデンティティが邪魔をするのです。「私は男で、しかも社会人だ・・」
 誰でもない自分になれば、スカートくらい履けるはずでした。でも、なかなか出来ませんでした。
 女性にとっては水着で街を歩くようなものかも知れません。アイデンティティに執着しなければ、問題なく出来るでしょう・・。
 でも私がスカートを履いた途端、向こう側のアイデンティティが流れ込んできたのです。
 アイデンティティが無くなった、あるいは執着しなかったからではないのです。
 アイデンティティは、失うとか差がなくなるとかではなく、そのとき別のものが流れ込んでくる・・つまり融合(あるいは合一)ではないかと思いました。
 悪く言えば憑依に近いのです。
 だから私の頭から「すべては演技である」という言葉が離れないのです。
 私にとっての今年、とりあえず最大の気付きなのです。
 
 通常の生活をする上では、孤独感を減らす方向にやっているのではないかと思います。
 見た目に違和感のない服を着るのは、孤独感を感じないようにするためだと思います。
 アメリカ人が列に並ぶのも、孤独感を感じないためでしょう。
 モラルという言葉は、全体の中に自分を溶け込ませるいい訳だと思います。
 私がスカートを履けなかったのも、孤独感が原因です。
 私は孤立したくないのです。笑いものにされて、弾き出されたくないのです。
 しかし、常識という大河の流れの中にいると、人は孤独感をなかなか感じません。
 孤独になるのは、他でもない「自分」を表出している時です。
 それが受け入れられれば良いですが、そうでなかった時は大変に孤独を味わいます。
 ですが、私はそのギリギリの状態が好きです。その状態の時、私は自分のアイデンティティをとても感じます。
 それを愛します。執着もします。だってその時、「それしか」ないのだから・・
 みなさん、アイデンティティに執着しないのが良いですか?孤独を感じない生活が良いですか?
 以前「限界突破」という話題が出ましたが、それはまさにアイデンティティ突破の一つに関係しているように思うのですが・・。
 水着で(大義名分無しに)街を歩けるか・・のような特殊例ではなくても、ここに正直な意見を書くということも、アイデンティティ突破(あるいはアイデンティティそのもの)と関係していると思います。

血液型

 私は大槻教授が始めた『ジャパンスケプティクス(全てを疑ってかかる会)』に入っています。
 そこで血液型に関する講演会がありました。どこかの大学の教授が調べたのです。
 血液型の調査だと言ってやるのと言わないでやるのとでは、全然違う結果が出たのです。
 つまり、血液型の調査だと言うとその先入観で答えてしまい、一般的な血液型の性格が出てしまうのです。血液型の調査だと言わないと、全くバラバラになったのです。
 血液型にこだわるのは、日本人だけだと言われています。血液型という「差」、みなさんはどう思いますか?
 それを発表した教授の話・・・
 アンケートを手伝ったのはその研究室の女子大生ばかりでした。
 彼女達は卒業するときに言ったのです。
「卒業すると、私達も普通の日本人に戻り、血液型による分類を信じたいと思います。」
 アンケートの内容とか、数値を使った分析がとても良かったのに加えて、最後のこの言葉がまたまた意外で、会場は大爆笑。
 でもこの発表を期に、私は血液型の性格判断からさよなら出来ました。だって、本当にきめの細かい調査だったのです。
 それは、ジャパンスケプティクス第二回総会の後のシンポジウムでした。
 題名は『血液型性格診断の真実』
 発表者:大村政男(日本大学教授)、松井豊(聖心女子大学助教授)、木元敏広(「朝日科学」編集者)
 アンケートによる集計なのですが、サンプル数もかなり多かったと思います。
 質問の最初に血液型の性格調査であることを告げると、結果はある偏りが出るのですが、それを告げずに最後に血液型を聞くと、偏りは出なかったのです。
 大槻教授はジャパンスケプティクスの運営委員でしたが、この調査には関係していません(今は運営委員も辞めています)。
 その後のシンポジウムは養老猛司が『脳と実在』という講演をやりました。
「不思議なことを否定するから世の中が行き詰まるのではないでしょうか?」と言っていました。
「自然を求めて郊外に行く必要は無い。都会でも充分です。だって人間はすべて自然の一部です。」と言っていたのが印象的でした。
 血液型別の部隊まで作ったという話は、シンポジウムでも出ていました。でも、予定していた行動に反するパターンが多かったという話も出ていました。
 大槻教授が関係していても、私はこの会が大好きです。

アンブレイカブル

 家族とお台場に映画を観に行ってきました。
 観た映画は主演ブルース・ウィリスの『アンブレイカブル』です。
 この映画には対極の存在が出てきます。不死身の男とガラスのように脆い男です。
 不死身の男をブルース・ウィリスが演じます。
 映画館は8人くらいしか入っていなかったので、たぶんヒット作ではありません。
 不死身の男は最初、自分が不死身であることを認識できません。
 彼はどうして不死身かと言うと、予知ができるのです。人に触れるとその人の未来も予知できます。だから事故からの生還が出来るのです。
 その反対にガラスのような男は、階段を踏み外しただけで30箇所も骨折します。体が弱いのです。
 ガラスの男は自分の対極がいるはずだという仮説のもとに、不死身の男を捜しつづけます。そしてついに二人は出会います。
 数々の試練の後、二人は認識します。お互いが補完するアイデンティティだったということを・・・。
 不死身男は、ガラス男がいないと自分自身がそうであることを認識できなかったのです。 
 なぜなら、ガラス男は数々の事故を創り出し、その中から生還する人を探していたからです。そこに不死身男が引っかかったのです。
 不死身男はそれをきっかけに正義の味方に変身します。事故が起こりそうな現場に行き、人を助けます。不死身男は生き甲斐を持ちました。
 ガラス男も同様でした。彼は不死身男に使命を与えることが存在意義となりました。
 最後に言いました。「I know who I am」
 
 この映画はアイデンティティの映画でした。
 しかしこの映画は、神と人間に喩えられないでしょうか・・
 不死身な神を見つけようとしているのは、ガラス男であるところの人間です。
 でも、逆も言えるのです。ガラス男が神です。
 神は極めて弱い存在です。だから不死身な存在(人間の魂)を創り出したのではないでしょうか・・。
 ガラス男は色々な災害を創り出し、不死身男を試します。それって、この世界そのものかも知れません。
 神イコール人間でしょうか?では神は何故「同じ存在」を作ったのでしょうか?
 それより、神は対極の存在として人間を作ったとは言えないでしょうか?
 神が男だとしたら、男を作るでしょうか?私だったら女を作ります(だってその方が楽しい)。
 とすると、神は自分の無いものとして人間を作ったとは言えないでしょうか?
 アイデンティティの問題は神との問題そのものだという気もしました。
 根拠はないけれど、神は完全ではないと思います。神が完全なら、宇宙を創りはしなかったはず・・・私の勘です。
 なぜなら、私達の外側に神はいないから・・

アイデンティティは意味付け

 他人になりたいと思いますか?
 自分には短所もあります。苦しいときもあります。
 だけど、他人になりたいですか?
 他人にはなりたくない、どうしてでしょう・・
 でも、他のアイデンティティがあったら、合一はしてみたい・・
 アイデンティティは意味付けかも知れません。
 西洋はキリスト教で神の存在があります。
 だから、全知全能の神にアイデンティティを持っていけるわけです。神から生まれ、神に帰る・・。
 血液型などを持ち出す必要はないのです。しかし・・
 日本人は違います。最終的に集約される存在が無いのです。だから他のものに意味付けが発生します。
 科学教、DNA教、血液型教・・
 血液型も宗教の一種ではないでしょうか・・・。
「血液型による性格はバラバラである」というのは、血液型というファクターを考えない時です。ファクターを考えると、途端に出てきます。
「あの人とうまくいかなかったのは、血液型に原因がある・・」
 これは宗教ではないでしょうか?人間関係の原因の一つが血液型だなんて・・。
 しかし、何かのせいにしないと落ち着かないのではないでしょうか・・。
 アイデンティティは存在理由でもあります。
 あの意味は何だろう・・この意味は何だろう・・これは自分に何を教えようとしているのか・・すべて意味付けです。
 人は言葉に縛られ、血液型に縛られ・・。いつになったら自由になれるのでしょうか・・
 いえ、人は自由なんて欲しくない。自由は怖いから・・孤独が待っているから・・

誤解とエネルギーと自由度

 去年導師が来日していたとき、私は毎晩導師と一緒に修練をさせてもらいました。
 それは10日間のプログラムでした。四季のパワーというものを私に持たせるのが目的だったようです。
 毎日、時間が出来れば修練でした。大阪でパーティーがあり、深夜の一時過ぎに帰ってきた時も修練でした。
 さて、京都に泊まった晩のことです。
 私はシャワーを浴びていました。部屋は和室なので導師はふすまを開けて入ってきました。私は裸のまま慌てて布団に潜り込みました。
 導師は外に修練に行こうと私を誘いました。しかし私は裸です。たまたま通訳がいなかったので私は状況をどうやって伝えようかと迷いました。
 すると戸惑った私の顔を見て導師は怒って出て行ってしまいました。その晩、私は一人で修練しました。
 翌日、朝食のときに導師は通訳を通じて私に言いました。
「私はガッカリしました。森田さんはもっとやる気のある人だと思っていました・・」
 導師は10分も愚痴を言いました。しかし、私はそこで釈明をしませんでした。
 今回導師が来日したとき、パーティーの3次会でみんなの前でこの事を言いました。
 あの時パンツも履いていなかったと聞いて、導師は大笑いでした。
 しかし続いて導師は言いました。
「あのとき森田さんが釈明をしていると、私はここにいなかったかも知れません。」
 誤解というのは、本当に誤解なのでしょうか・・
 自分が100%の責任を持つというのは、誤解を含んでいるような気がするのです。
 私はあの日から一歩も引けなくなりました。その反動でしょうか、自分でも凄いエネルギーが出ているのを感じました。
 9日目の日にテストが行われました。切花に向かって四季のエネルギーを送るのです。
 春のエネルギーではつぼみが膨らみ、夏は満開になり、秋は色が変わり、冬は枯れました。
 それぞれ一分ほどでそれは起こりました。そして最後にもう一度春に戻しました。
 このエネルギーは、あのとき釈明をしたら出なかったような気がします。
 
 私達は誤解を恐れます。あれをしたのはこういう理由だ・・あんな私ではない・・
 それを言う度にエネルギーは落ちていくと思います。
 誤解を解くのは、次の行動でしかないのではないでしょうか。
 もう一つあります。誤解された人格は本当に別の人格でしょうか?
 誤解がある以上、誤解でない自分がありそうです。
 しかし場によってどんどん変わる自分は、何が誤解でない自分なのか・・分かるのでしょうか?
 単に自分の欠点と称されるものが出ただけではないでしょうか?
 私は女装というのに興味があります。そのときよく言われます。「森田さんてそういう趣味があったのですか?」
「誤解しないで下さい、これは・・」と言った途端にエネルギーが落ちてしまいます。
 人の自由度というのは、誤解を放っておける能力に関係しているような気がします。
 さらに言えば、アイデンティティを単一だと考えていることこそ、大きな誤解だと思うのです。
 その誤解の上に形成された自己は、ほとんど誤解だと言えるでしょう。
 では何が本当でしょうか・・。それはそれらの誤解をすべて肯定したもののような気がします。

アイデンティティの喪失と幸福感

 私が私であるという意識、すなわち自分のアイデンティティの基礎の一つとして幸福感が挙げられるのではないでしょうか。
 あることに関して幸福感を感じ続けていた人間が次の日から別のことに幸福を感じるようになったら、それはある意味アイデンティティが変わった(人が変わった)と言えるのではないでしょうか・・。
 だって人は誰しも幸福になりたいという方向で生活していますから・・。
 これから書くことは既に書いたかも知れないし、何度も言ったかも知れないですが、もう一度書きたいと思います。
 私は女性ものの服を着るようになって一つの変化がありました。
 会社で「社長、その服似合いますよ」なんて言われた日には、トイレに行ってじっと自分の服を点検してみたりします。
「な〜るほど、この組み合わせが良かったんだ・・」なんて一人で納得したり・・。
 こういうことは男性服では起こらなかったのです。
 女性服を誉められた時は、一日ウキウキしています。用も無いのに外出したくなります。
 結果的に仕事がうまくいっても、そのこと自体に大した幸福感を感じないのです。
 そこに行くまでの過程がいかにチャーミングにこなせたかが問題なのです。
 しかし男性服のときは逆です。ハードボイルドに仕事をして結果をキメることが幸福なのです。
 もしも女性服のときに災害が起こったとして、私はなりふりかまわず逃げることが出来るでしょうか?
 服装を変えるだけでここまで変化するんです。
 肉体が変わったら・・・そうです、何の抵抗も無く私は女性になってしまうでしょう。
『不思議の科学』では、モンロー研のところで冗談半分に肉体交換の現象を書きました。フィクションでした。
 描写の中で私のアイデンティティは男性でした。男性からのラブシーンに性の壁を感じていました。今私は、あれは嘘だと思います。
 幽体離脱で男女が入れ替わったとしても、私はその瞬間に女性になり、男性とのセックスに疑問を感じないと思います。人は瞬間的に変化する可能性を秘めていると思います。
 やはり、本質的には誰でもないのです。
 さて、誰でも幸福になりたいと思って生きています。そのために多くの投資をしています。
 しかしその幸福感がまるで雲のような存在であったなら・・。私は次第にそれを感じてしまっています。
 タマネギの皮に覆われている私達。その皮とは、ある方向にのみ幸福を感じるということだと思います。
 それを取り去っていくと、幸福感が増えるのではないでしょうか。
 何事にも囚われないのが悟りの世界だとすれば、悟るとかなり幸福になるような気がします。
 その状態になるとアイデンティティはどうなるのでしょうか?かなり希薄になると予想されます。
 では神は何故アイデンティティなどというものを作ったのでしょうか?
 今のところ私は、「それを喪失するため」としか言いようがありません。
 喪失、無くする・・これってエクスタシーだと思いませんか?
 幸福は得ることではなく喪失にあるというのは、極論でしょうか・・

喪失感

 三人の人を思い浮かべました。一人は中井教授です。
 彼は「アイデンティティは人間関係の数だけ存在する」と言っています。
 この言葉を裏返すと、「人と付き合えばそれだけ新しい自分に出会うことになる」ということです。
 しかし一人の人と長く付き合うと、相手がどんどん変わっていきます。その時は、自分も新しい自分に出会っていることになりますね。
 アイデンティティって、本当に深い問題だと思います。
 木村敏という心理学者も『自己・あいだ・時間』という本の中で「自己というのは瞬間、瞬間に作られる。元々あるものではない」と言っています。
 そして私が以前会ったことのある牧師は、「神は人と人との間に存在する」と言っていました。
 人はなぜ人を好きになるのでしょうか・・
 それはひょっとするとその人を好きなだけではなく、その人との間に作られた自分自身を好きになるのかも知れません。
「あの人といる時の私が好き・・」さしずめこんな感じです。
 さて人と接している時、相手を通じて神が感じられる時ってないでしょうか?
 私は、例えばこのHPの中でコミュニケーションを取っている人とは、ほとんど感じられます。
 そういう状態になると、どんな事が起こっても、何があっても最後には100%許せてしまうのです。
 でも実はこれって、上に書いた「喪失」に似ているのです。相手に神を感じられる時は、自分を喪失できているのです。私は私に固執する必要がなくなっているのです。
 ここに書くという行為も「喪失」だと思います。船井さんは私にこう言いました。
「森田さんはホームページに良く書きますねえ。でも森田さん、あれは忘れるために書いているんでしょう?」これは図星です。
 言い方を変えれば喪失するためなのです。文字として固定化させるためではないのです。
 だからROM(読むだけの人)をする人と書き込みをする人は大きく違うと思います。
 私はROMが出来ません。だってROMには喪失感がありませんから・・・。
 相手に神を感じられたら、結婚して何があってもうまくいくのではないでしょうか。
 だって相手は神なのです。こんなに楽しいことはありません。
 神といっても崇高なことばかりするとは限りません。神の失敗・・それもまた楽しいのではないでしょうか・・。
 神は何故アイデンティティを作ったのかという問いに、喪失するエクスタシーのためだと書きました。相手といる時、この喪失感があると良いと思います。
 その逆は積み上げ感です。
 私はこれだけのことをしているのだから・・というのは積み上げ感でしょう。ああでいてほしい、こうでいてほしい・・というのも積み上げ感でしょう。
 逆に、あるがままで良いというのは喪失感だと思います。
 喪失ってとても魅力があります。私ももっと喪失したくなりました(笑)。

スカートの一線

 女性物とは言え、今まではパンツスーツでした。
 パンツスーツならどんな色のものでも全く周囲を気にせず、何の抵抗もなく着られるようになりました。
 でもスカートは別です。スカートへの一線は本当に大きいです。
 スカートは禁断の地です。スカートを履いた男性はどこか「おかしい人」です。
 私の中にもこういう図式がありました。
 一度スカートをはいて外に出たことがあります。同窓会と小樽講演です。
 でもあれは非日常でした。明日から、私は日常生活でスカートを履きます。
 でもスカートの下にはタイツを履く事にします。
 ノーメイクで、しかもジェンダー(精神的性)は男性として会社の中で働かないといけないからです。
 どうして人は、こうも不自由なのでしょうか・・。
 タイツではなくパンストにすればいいじゃないですか・・。そしてパンプス(ヒール)を履けばいいじゃないですか・・。
 しかし私には孤立に耐える勇気がないのです。
 接客をしている時、「森田さん、それどうしたんですか?」この質問にどう答えればいいのでしょう・・。
「似合うでしょ?」(笑)でも相手は「なんか、気持ち悪いなぁ・・」
 このあと通常通り、仕事の話が出来るのでしょうか?
 アイデンティティ・・それは孤立したくないという一点から形成されたような気がします。アイデンティティというのは「守備」なのです。なんか、そんな気がしてきました。
 でも明日はドキドキしています。
 もしも明日スカートの一線を突破することが出来たら、会社での生活のとほとんどをスカートに変える予定です。

アイデンティティは守備

 私は長いこと・・いえ、生まれてこのかた、自分というアイデンティティは確固たるものだと思い、それが「死んでなくなるのはとても嫌」でした。
 この表現を借りても分かる通り、アイデンティティは失うのが怖いのです。
 昨日の書き込みでは「喪失」と書きました。喪失とは失うことです。
 あぁぁぁぁ・・・、私達がやってきたことは、逆なんです・・。
 世界は広いのに、私達は城壁を作り、中に城を築きました。それがアイデンティティです。それが普遍の自己です。その城に立て篭もって、篭城戦をしていました。
 ちょっと外に出ては、逃げ戻りました。自分のアイデンティティにです。
 何かをする時に立ちはだかる壁は、アイデンティティなのです。しかも城を強固にすることを成長だと思ってきました。どんな外敵にも負けない強い城(自己)を作ろうとしてきました。
 なんてことでしょう・・・。それは単に守るためだったのです。
 喪失していくことは、すごいことなのです。だって城を失うのです。自分としての拠り所を無くすのです。
 でもそこには、すごく広い世界が待っていそうです。
 神は喪失させるために、わざわざアイデンティティを作った・・本当にそうとしか考えられません。

影に隠れるという意味でのアイデンティティ防御

 アイデンティティは城だと書きました。
 強靭な自己と言う考え方はアイデンティティを守りの状態にさせます。
 しかしもう一つの方向性があります。誰かの影に隠れて出て行くことです。
 これは強靭な自己とは逆の雰囲気を持ちます。でも私は共通性を感じます。
 それは両方とも防具を持たない生身の体で外に出て行っていないからです。
 前者は城の中に入ったまま「わたしはこう思う・・」と言っています。
 そこに聞こえるのは可愛い私を守る言い訳です。
「本当の私はそんなんじゃない。誤解しないで・・」と言っています。
 後者は、人の後ろに付いて行き、自分ではNOと言えません。守ろうとするアイデンティティが優先されます。
 結局アイデンティティとは何でしょうか?
 アイデンティティがある限り、人は無防備で出て行けないのではないでしょうか。
 逆に無防備で出て行くと、アイデンティティは喪失するのではないでしょうか。
 導師は生徒の答えを聞いて、言いました。
「たとえ合っていても、自信を持って答えないとそれは間違いと同じです」・・と。
 下の一連のスカートファッションですが、私には超えられない一線があります。
 私は三着のワンピースを持っています。そのうちの二着は腰がくびれています。
 下の写真を見ても分かる通り、今日着たのは腰のくびれはありません。
 だからお化粧をしないで、男性の状態のまま着ることが出来るのです。
 会社からりんごちゃんのお部屋まで歩いて7分です。駅前を通りますが、ちょっと変だな・・という目線を送ったのは二、三人しかいません。
 日常でのスカート生活第一歩には違いないですが、私はまだ自分を守るための盾を持ったままです。
 本来、私が誰でもなければ腰がくびれたワンピースを着ることが出来ます。それが出来ないのは、やはり男性というアイデンティティに縛られているからです。
 でもそれはしようがありません。私は一生かかって男になろうとしていたからです。
 それらを喪失することが本来の成長だと気が付いてきたのはつい最近からです。

リスク

 何かの行動をする時、必ずリスクが伴います。
 株式投資などの経済の世界では失うものをリスクと言います。得るものよりもリスクは小さくなくてはなりません。
 私の会社でも同じです。失うもの(リスク)を最小にすることが仕事です。
 でも、精神世界にもこれを持ち込んではいないでしょうか?
 精神世界では得るもの、学んだものを重要視します。だから経験が大事だとされます。経験から何かを得なさいと言われます。
 しかし一連のアイデンティティの流れからすれば、ひょっとすると逆ではないでしょうか・・。
 スカートを履いて外出することに、何の意味があるのでしょうか?リスクしか無いのではないでしょうか?
 社長が変な趣味だからあそこに仕事を頼もう・・ 社長が変な趣味だからあそこにお金を貸そう・・そういう人はいないでしょう。
 三次元的には失うことしかない行為かも知れません。
 でも私が得たいものもあるのです。喪失ということを得たいのです。つまり失いたいのです。ですからリスクそのものが目的になってしまったのです。
 こんな馬鹿な行為によって失うことが出来なかったとき、それが私にとって本当のリスクになるのです。
 でも失うことの快感はかなりあります。自然でいい・・あるがままでいい・・
 女性服を着た時、最初は性的興奮すらも感じました。でも今はそれもなくなり、逆にそれ以上の快感に包まれつつあります。

弱さと強さは表裏一体

 自己という城を出て行くというシーンは、ドラクエなどで城下町を出て行くところを連想させます。
 城下町の中には敵はいませんでした。城下町の中で武器を買い、防具を揃えて外に出ます。
 一歩外に出るとヒットポイントと称されるエネルギーが無くなるまでは生きていられます。それが無くなりそうになると慌てて城に逃げ戻ります。
 アイテムの中には一気に空を飛んで帰れるものまであります。しかしそれが無いとき、遠くに出かけて強い敵と戦うのは非常に危険です。
 導師は女性なのにとても力強さを感じます。しかし黒鳥の湖では違いました。
 ニューハーフのダンサーたちが異様なノリを見せ始めると、それをとても怖がり始めたのです。
 私の後ろに隠れてそっと見ていました。それはまるで少女でした。
 ハリセンを叩く人がくると、私の背中にしがみ付きました。それは五歳の少女でした。
 その弱さ故に、彼女は仙道のエネルギーを修練をしたのではないでしょうか。
 そのエネルギーは彼女の決断力となって現れ、精神的な強さとなりました。
 導師は一人で城を出ることが出来ます。それは主体的な世界の話です。
 が、観客として抵抗できない立場の黒鳥の湖では、怖かったのです。
 
 私達はむしろ逆です。
 黒鳥の湖では何があっても、せいぜいハリセンで叩かれることくらいだと知っています。
 いえ、知っているのではなく、意味不明な信頼を置いてしまっています。それは私達が大人だからではないでしょうか?
 もしも五歳の子供なら、あそこで泣き出してしまうかも知れません。
 私達はアイデンティティという鎧を身に付けています。
 ショーで怖がる導師でしたが、彼女はお墓の中での長期の修行には耐えました。それはおそらく自然の方が信じられるからではないでしょうか・・。
 アイデンティティというものをすべて取り去った後、何が残るか・・それは強さと弱さなのかも知れません。
 お蔭様はいつも見ていてくれます。だから私も、出来るだけ城を出たいと思います。
 そこで遭遇する自分には、言い訳が利かないのです。言い訳をした瞬間、城に戻ってしまうからです。
 おまけに誰も歩いたことのない道です。善も悪も転がっている道です。時々悪も拾ってしまいます。
 それでも前に進んでいく時、道連れとなるのは本当の自分ではないでしょうか?
 本当の自分とは、道連れなのです。きっと・・矛盾しているようですが・・。

外部と内部

 人は経験しないで生きることは出来ません。マーケットの中で生きていれば尚更です。
 仕事の事、人間関係の事・・こうすべき、ああすべき・・ということを自動的に積み重ねていきます。
 そしてまずいことを経験すれば、それが起こらないような方向に持っていこうとしました。それが一般的には成長と呼ばれました。
 それらの取捨選択の基準となるものは何でしょうか?
 私は、97%の基準は「外部」であると思います。内部の基準はたったの3%です。
 外部の基準が多いというのからすれば、あながちミーム論も嘘ではないと思います。
 喪失するというのは、この外部の基準によって作られた城から出るということだと思います。そこから出ることは内部にその基準を移すと言うことだと思います。
 ああ、アイデンティティの97%は外部の代物だったのです。何てことでしょうか・・
 私は私だと思い続けてきた事は、そのほとんどが外部なのです。
 偉そうに「私はこう思う」と言ってみても、それは気を付けないとほとんど外部だったのです。
 ただしこれは否定されるとは限りません。
「アイデンティティは人と人との間に作られる。人格は対人関係の数だけある」と言ったのは中井教授でした。
 私達は相手によって影響を受けるのは当然なのです。相手が巨大化したものが社会と言う「外部」なのです。



 今日は口紅も付け、正規の女装のスタイルに近付いています。しかしどう見ても男性です。
 ファンデーションやらを全然していないのが原因で、男性としての雰囲気を残していると思います。
 この格好で駅前のスクランブル交差点を渡り、高島屋の通りを歩いてりんごの部屋まで来ました。
 やはり通常よりは人の目に留まるようです。女性よりも男性の方が私を見ます。
 女性の方が許容範囲が広いのかも知れません。
 女性服を買う時、試着を断られたのは二度ありますが、二回とも男性の店員です。
 女性服の店では女性の店員が多いにも関わらず、女性の店員には一度も断られたことはありません。
 男性が女性の格好をしにくいというのは、やはり「外部」の価値観だと思います。
 男性服を着ることにより、自分はおかしな人間ではなく、信用に値するのだということをアピールしているのではないでしょうか?
 しかしそれにより得るものはたくさんあります(第一女性服では仕事そのものを失いそうです)。
 ここで再び得るものと失うものの話をしましょう。
 導師が来る少し前まで、「このコーナーはつまらない」という意見がありました。Eメールでも、たくさん頂きました。
「最近、骨のある書き込みがないからつまらない」というような・・。
 しかしそれは得ることに焦点が当たっていたからではないでしょうか・・。
 私は単に「スカートが履けないのはどうしてでしょうか」という問いかけから、このコーナーをスタートしました。
 スカートなんか履く気が無い人には、全く関係ないコーナーでした。
 女装など特殊なコーナーでやればいいと思っていた人も多いのではないでしょうか。
 得るものだけを得ていればいい・・。気付きを得たい・・。しかし失うことも大切だと思います。
 その中には良い事も失った方がいいという意味があります。良い事というのは通常、外部のものだと思うからです。
 
 ところで自分というアイデンティティは、自分の魂そのものだと思ってきました。
 善悪の判断を身に付け、一生懸命に磨いていくための・・。
 しかし本当にそうでしょうか?魂とアイデンティティは同じものでしょうか?
 私は別物だと思います。
 極論を言えば、アイデンティティを全てぶち壊した後に残るのが、魂だと思います。
 ところが私達は経験を魂に付加できると思ってきました。
 その魂はどこにあるかと言えば、城の中の宝物殿でした。城の中(外部の価値観、あるいは人の後)でせっせと磨いていました。
 でも本当の魂は、城の外に出て初めて手に入れることの出来るアイテムではないでしょうか。
 本当の魂に出会うためには、アイデンティティというタマネギの皮を脱ぎ捨てないといけないと思います。
 その一歩は、「失うことは得ること以上に大切だ」と思うことだと思います。みなさん、たくさん失っていますか?
 幸せや楽しさばかりが生きていることじゃないと思います。
 城を出るというのも、そういうことだと思います。善悪の判断をあまり持ち込まない方が良いと思います。

アイデンティティと演技

 ある人が紹介してくれたHPの情報は、大変に参考になりました。抜粋は問題があるかも知れませんが、ちょっと使わせてもらいます。
「ズボンは自由の象徴、スカートは不自由の象徴だと筆者は言う。習慣に疑問を抱き、その不自由さを明確に感じとれるのはその習慣の中にいない人であり、スカートをはいてみた男性が実に頼りない装いで無防備な形態だと感想をいっている。もともと服装は階級差別の重要な手段として機能しており、それが一番後まで残っているのが男女の服装の区別である。無防備ということは、一面では敵対する意志はありませんという服従の表示であり、他面では媚態、誘いのポーズであると筆者は言っている。」
・・中略・・
男たちがズボンという服装の便利さを発見し、着用し始めたとき、女にそれを禁じ、スカートにしばりつけたのは、スカートの持つ機能が女をコントロールするのに適していたためであり、スカートは性差別、性支配の有力な道具になったのだと筆者は述べている。」
 私がここで疑問を出したいのは、男が女にスカートを履かせたのでしょうか?私にはそういう視点はありません。
 ジェンダー(精神的性)関係の本を読むと、社会を批判しているものが多いです。女装者は男性を批判しているものが多いです。
 しかし対極としての性がそうさせているのでしょうか?責任は対極の性にあるのでしょうか?私はそう考えていません。
 責任は神にあるのです。
 言い過ぎかも知れませんが、責任を取れるのは神しかいません。
 私達が責任を取れるのだという半分思い上がった考え方が、「成長」とか「反省」の概念を作ったのだと思います。
 だから神が女性にスカートを履かせたのです。そうでなかったら、私は何もわざわざスカートなんて履かないのです。
 事の始まりは、神がこの世にオスとメスを作ったことから始まりました。
 そして聖書ではあたかもリンゴを食べたのは神以外の存在(蛇と人間)だとされていますが、とんでもありません。神が人間にリンゴを食べさせたのです。
 宇宙誕生の瞬間から、リンゴを食べることは始まっていたのです。
 私はどうしても神の意図が知りたいのです。
 リンゴを食べてしまった男としての私だけでは、直線は一本しか引けないのです。
 擬似的でもいいから、一方の側の女性から線を出し、その交点を知りたいのです。
 そこには男と女に分離する以前の私がいるかも知れません。 
 
 スカートというものがあって良かったです。スカートが無ければ、擬似的な女性になることは出来ません。
 お化粧があって良かったです。お化粧が無いと、擬似的な女性になれません。
 それで女性特有のアイデンティティを演出できるからです。
 今日は何人かに声を掛けられました。
 まずはりんごちゃんのお部屋の管理人の女性です。「あら、綺麗じゃない・・」
 次は私の会社の同じビルの人です。「おや、どうしたんですか、それ・・(半分絶句)・・でもなかなか似合いますよ(汗)。」
 次は写真屋の店長(この間の時は不在だった)です。「見たかったんだよそれ・・やっぱ女はスカートでなけりゃ。」
 普段はこんなに声を掛けられません。これは私としての外面的なアイデンティティが変化しているのです。
 もしもスカートという「女性としてのアイデンティティの表現方法」が無いと、これほどではありません。私は内面が男でありながら、外面が女を装えたのです。
 初対面の人はたぶん混乱します。「こいつのアイデンティティは何なのだろう・・。内面は男なのだろうか、女なのだろうか・・ゲイなのかホモなのか・・」
 外見はアイデンティティの重要な要素です。いえ・・「外見は」と書きましたが、外見以外にアイデンティティってあるのでしょうか?ひょっとして無いのではないでしょうか?
 これは外見的な見てくれだけを言っているのではありません。
 人は誤解を恐れます。言い方を変えれば、良く見られたいのです。
 誉められたい、評価されたい、好かれたい・・こういう気持ちは私にも充分にあります。
 これがアイデンティティの重要な要素だと思います。
 アイデンティティというのは、演技者としての私なのです。違うでしょうか?
 だから「女装しても女になれない」と男を演じている人から言われても、ピンと来ないのです。同様に女を演じている人から言われてもピンと来ません。
 でも、演じていない人はいないのです。
 男が女にスカートを履かせたと言っても、結構女性はスカートを楽しんでいますよね・・。楽しくないと、続かない・・。

カット・アンド・トライ

 昨日からお化粧を始めました。今までの女装は誰かの手を借りてお化粧していたのですが、昨日から全て自分で始めました。
 昨日はファンデーションを塗りませんでした。今日はファンデーションを付けましたが、口紅は付けません。要するにその時の気分なのです。
 私はお化粧の本質的意味というのは、内面の輝きを助長させるものだと思います。
 今日はファンデーションを付けないでウキウキしたい・・今日は口紅を付けないでウキウキしたい・・
 スカートもそうなんです。ウキウキしたいんてす。ワクワクではありません。
(ワクワクという表現には未来に生きるようなものを感じるのです。ウキウキはその場限りの感覚があります。)
 私は一月の始めに『初めてのお化粧』というビデオを作りました。自分がお化粧を勉強したかったからです。
 数度見て情報を頭に入れ、もう見ません。毎日、基礎化粧品も使っています。
 ですが、一番大事なのは内面の表現だと思います。私は私の方法でお化粧したい・・
 それに対して色々な情報をくれるのは実に有難い、ウキウキしながらそれを見ます。
 ただ、目標が定まってしまうのは嫌なのです。神がグロテスクな顔をしていれば、それもやってみたい。でもウキウキ感が、最も神を内部に感じるのです。
 
 銀河駆動装置の実験も似たような感じがします。これを発案した神坂氏というのは、小学校しか出ていません。
 彼は試行錯誤を繰り返しながら実験をしてきました。一般的な意味で言うところの科学的手法というのが彼にはありません。試行錯誤のみです。
 試行錯誤には目標がありません。彼は実に楽しそうです。ウキウキしています。
 私達はたぶん、神自身です。すると神も試行錯誤だと思いませんか?
 私達が悩み、私達が喜び・・それは神の計画ではないのです。神も試行錯誤なのです。
 神が試行錯誤しているのに、どうして私達を罰することなど出来ましょうか・・。
 試行錯誤は人生そのものだと思います。お城を出で何かを感じ、お城に戻って何かを感じ・・その連続なのです。
 でもそこに目標を作ったり、そのための義務感のような要素が入ったらウキウキしません。
 試行錯誤の世界・・電気の分野では「カット・アンド・トライ」と言います。
 コイルなどを組み立てるとき、切ってはトライし、切ってはトライし・・・ということです。計算によって最初からピッタリのコイルを作ることは出来ますが、そうではないやり方です。
 私はカット・アンド・トライが大好きです。ちょっと切る度にウキウキするからです。
 神だって試行錯誤です。ですから、私達だって間違えれば戻ればいいのです。
「あっ、間違えた。じゃあ、今度はこの部分をちょん切ろう」でいいんです。
 アイデンティティを付けたり捨てたりする作業も、これに似ていると思います。螺旋構造にも似ていると思います。行きつ戻りつ・・・です。

りんごちゃん日記

 今日は初めて遠出をしました。電車に乗ってトコトコと・・。
 黒の半袖サマーセーターにワンビース。お化粧はファンデーションとアイポイントと口紅。口紅は肌色とほぼ同じ色ですが、光沢のあるタイプです。
 でも、顔はどう見ても男です。
 さて二時間の外出でしたが、じっと見てきたのは電車で前に座っていたオジサンと、エレベータで一緒になったオジサンだけです。
 通行人が何人か見てきましたが、彼らとて10秒あれば私のことなど忘れるのではないでしょうか?ところがこの10秒が、通常は耐えられないわけです。
 でも10秒は、やはり、たったの10秒です。
 そのうちに人の視線も気にならなくなり、新緑が萌える歩道をスカートを閃かせながら、しかもヒールの音を心地よく立てながら楽しんで歩くりんごちゃんがいました。
 途中、素敵なワンピースが飾ってある店があったので、二着も買ってしまいました。一着5000円です。まあまあ安いでしょう?
 
 ところで「りんごアイデンティティ」の登場以来、私の体に変化が起こりました。
 まず足が小さくなりました。私はずっと25.5センチだったのですが、女性ものの靴を履くようになってから24.5に落ちました。最近はそれでも大きいときがあります。
 次は体が痩せました。最初買った女性物の服は15号でした。LLLに当たります。
 しかし一ヶ月ほどで13号になり、今では11号が私のサイズとなりました。11号だと通常の女性物店に数多く置いてあります。
 ウエストサイズで言うと、76センチが67センチになってしまったのです。
 これは何をしたわけではありません。アイデンティティは肉体を変化させる可能性もありそうです。
 次は顔が変わってきました。輪郭がゴツくなくなり、皺も減り始めています。もちろん基礎化粧をしているのも原因の一つでしょう。
 とは言え、これ以上女性化を進行させる気はありません。私が呼び出したいのは女性性であって、女性そのものになりたいのではありません。
 今の季節はりんごちゃんにとって、とても良いです。コートが必要な冬ではなく、かと言って肌を露出させる夏でもなく・・
 日常でスカートを履き始めたのは今週の月曜日でした。今日は金曜日です。とうとう一週間スカートを履き続けました。とても、とても、楽しかったです。

体重と体脂肪率の変化

 今朝、体重と体脂肪率を計ってみました。我が家の体重計はメモリーまで付いていまして、過去までずっと記憶しています。
 私の体重は四捨五入すると、ずっと60Kgでした。59.7前後を行ったり来たり・・
 それが今朝は56.2Kgでした。今までこれほど痩せたことはありません。
 では体脂肪率はどうでしょうか・・。17.3%でした。これは長いこと19%台だったので、2%ほど減りました。
 しかしです・・。60Kgに対して17.3%だと「あなたは痩せすぎです」というメッセージが体重計に表示されていました。しかし今日は「標準です」と出ました。
 歴代、この表示が出たのは初めてです。56.2Kgに17.3は標準なのです。
 体重計から「標準です」と言われたのは、私の登録が男性モードになっている時でした。今、もう一人の人格「りんごアイデンティティ」を女性として登録しました。
 すると・・「30歳以上なら痩せすぎ。30歳以下なら標準」という結果が出ました。
 もちろん生年月日も登録するので、年は体重計にはバレています(笑)。
 ですので「30歳以上のあなたは痩せすぎです」ということになります。
 ですが・・「30歳以下の女性なら標準」という点に満足しました。この数値は30歳以下ならギリギリセーフなのです。
 う〜ん。女性としても標準・・しかも30歳以下なら・・なんか、嬉しい。
 きゃっほ〜・・アイデンティティの変化は、ダイエットに効果があるのでしょうか?
 私は太った人が好きですが、自分が太っているのは嫌いなのです(自分勝手)。だからずっと痩せたいと思っていました。
 一月の頃、女装をしようと思い始めた頃、自分のサイズの服や靴が売っていないのでガッカリしました。LLサイズ向けの店でしか買えませんでした。
 女性サイズで15号というサイズは普通の店にはかなかな無いのです。靴もそうです。25.0が普通の店に揃っているサイズの上限でした。
 しかしある時期、「お客様なら11号でも大丈夫です。試してみませんか?」「無理ですよ。ファスナーが壊れたら大変です」「でも、一回だけ・・」と言われて試着してみたら、11号(ウエストサイズ67センチ)がピッタリだったのです。
 同じ時期に靴も24.5がピッタリとサイズになりました。こうなると、普通のお店で買うことが出来ます。
 通販などで買うとき、LL、L、M、Sの表示のときはMを買っています。選択肢という点ではここ二、三ヶ月でとても広がりを見せました。この原因は何でしょうか?
 特に何もしていません。今までと同じ食生活、同じ修練生活をしています。変わったのは服装だけなのです。しかも変化したのは、たった一ヶ月の短い期間のようです。
 聞きかじりの情報ですが・・先日、テレビで脳内物質の話をやっていました。
 恋をするとβエンドルフィンというのが分泌されるそうです。それは食欲を満たす作用もあるのだそうです。だから恋をすると自然にダイエットするのだと言っていました。
 このβエンドルフィンは恋でなくても出るらしいのです。
 テレビでは倦怠期に入った夫婦が出てきて、バンジージャンに挑戦します。バンジージャンプのようなドキドキする体験は、やはり、βエンドルフィンを出すらしいです。
(ただ、このような体験では、βエンドルフィンはせいぜい一週間しかもたないと、テレビでは言っていました。)
 つまりドキドキ・ウキウキすると、それは恋をしているのと同じ状態になり、食欲を自動的に抑えると言うのです。
 私は朝食と昼食は自分で作ります。その量は、10%ほど減っているような気がします。たったの10%ですが、持続すると大きいのかも知れませんね。
 女装が原因となりβエンドルフィンを出し、その結果ダイエット出来た・・のかも知れません。
 女性でも、超ミニ→ドキドキ→減量、という手もあります。実際、ミニは足を細くするということもテレビで言っていました。

アイデンティティと魂

 この関係をイコールだと思っている人は多いのではないでしょうか・・。私もそのくちでした。
 でもアイデンティティのことを考えるようになり、さらに今までの体験を重ね合わせると、どうも違うような気がします。
 アイデンティティというのは「誤解」であるとすれば、魂の方が「真実」に近いような気がします。
 アイデンティティと魂がイコールだと、アイデンティティを磨くことが魂を磨くことだと考えます。
 しかしアイデンティティがいつもやっていることは、お城を築くことです。言い換えると、言い訳をしています。
 他の人、あるいは他の考え方に追従するにも関わらず、それは正義と化します。言い訳は正義を作る作業だからです。
 アイデンティティにこだわる人は、自分のイメージが重要です。誤解されていないか・・もっと良く見て欲しい・・
 自己同一性・・そんなものはあるのでしょうか?
 指導症候群のマスター達もアイデンティティでがんじがらめでした。自分のアイデンティティの方が上だと思ってきました。
 
 アイデンティティと自分についての悩みは、なんか関係ありそうな気がします。
 自分についての悩みというのは、「あの時ああいう行動を取ったのは良かったんだろうか・・」「この性格を直したいんだけど、どうすれば変われるのだろうか・・」といったような悩みです。
 つまり方向性が自分を向いている悩みです。外の問題を打開しようというような悩みではありません。
 方向性が自分を向いた時、アイデンティティを経験しているのではないでしょうか?
 私はこの手の悩みをあまり持ちません。となると、アイデンティティを経験するときは結構少ないと言えそうです。
 自分は他の人に役立っているのだろうか・・こういう考えもしたことはありません。
 他の人に役立つかどうか・・ということも、アイデンティティとの対面なのではないでしょうか?
 導師は言いました。「不満ではなく、快楽に生きて・・」これはまさに上記の事を言っているような気もします。

ミームとアイデンティティ(本論編)

『ミームマシンとしての私(スーザンブラックモア著、草思社)』上下巻を読みました。
 これは大変に示唆に富んでいる本です。私の意見も加えてかなり詳しく紹介したいと思います。
 ミームという単語を最初に使ったのは、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という本でした。文化的な自己複製子で、模倣に相当するギリシャ語の mimeme をもじって名付けられています.
 例えばメロディ、思想、キャッチフレーズ、ファッション、壺の作り方などがそれです。
 脳から脳へ飛び移ることによって受け入れられ、世界中に増殖する科学思想もそうです。宗教などもそうです。
 これらは全て脳の中に蓄えられ、模倣によって伝えられます。
 しかし著者はこの「模倣」という単語を広い意味で使っています。
 あなたが人の話を聞き、その人の骨子を覚えていて、他の人に話すとき、それも広い意味の模倣です。話している言葉は、全て模倣です。
 それがまるで遺伝子のようにコピーされるので、ミームは自己複製子なのです。
 しかしミームは伝わるときに間違いなく変異を起こします。物語が二度まったく同じように語られることはないし、二つの建造物が絶対的に同じということはないし、あらゆる会話は独特だからです。
 ミームは常に不完全な形でしか伝わりません。ミームは淘汰もあります。あるミールは伝わらず、別のミームは有名になるという感じです。
 新しいミームはどこからくるのか?それは古いものの異変や組み合わせを通じて現れます。発明、歌、芸術作品、科学理論にも同じことが言えます。
 ミームが自己複製子、すなわち遺伝子と同じ働きをするとすれば、それは「利己的」です。
 ミームは人間の幸福のために働くのではありません。ミーム自身をできるだけ正確に、できるだけ多く(広く)、できるだけ長期間に渡り行き渡らせるのが目的です。ミームにとって、人は宿なのです。
 瞑想をしたことがある人はいると思います。瞑想を始めると雑念が次から次へと出てきます。これはミームの仕業であると言われています。
 私達の脳は、ミームが住処を見つけようとして競争状態なのです。瞑想によってこの雑念を取り払うことは、一種の雑草取りなのです。
 最良の模倣者を模倣せよ・・これはおそらくDNAが持っている指示と同じかも知れません。最高の技術を持った人を真似ることにより、その人は同じ技術をすぐに修得できます。
 言語機能がなぜ発達したか・・著者によれば、それはなんと・・噂話をするためなんですって・・
 原始時代に他の動物を捕獲したり食べ物を貯蔵したりするのには、言語はさほど必要ないのだそうです。同じ様な事は、他の動物が非言語の鳴き声等を使ってやっているのです。
 で、人間はと言えば・・かなりの時間を噂話のために使っています。いえ、その実際のデータがどうというのではありません。
 噂話なんて、言語の能力の無駄使いだと思っていました。しかし、それが言語の目的それそのものだったのです。
 ミームが広がるためには女性にとって子供は少ない方が良いのです。子供が多いと家にいて子育てをしなければならず、外に出てミームの伝染に晒されることが少なくなるからです。
 しかし子供があまり少なくなりすぎても問題です。宿主である人間の数そのものが減るからです。ですから出生率の低下はあるところで止まるはずです。
 ミームと「憧れの人」はどういう関係にあるでしょうか・・
 誰を憧れるかは、「最良の模倣者あるいは最良のミームの使用者ないし普及者」ということで決まります。
 現代社会では環境の変化が著しいです。その変化について行ける人でないといけません。
 過去の規範に縛られず、新しいファッションをどんどん取り入れることのできる人が生き残ります。どんなミームも受け付けることのできる人でなければなりません。
 狩猟採取社会では、最高の道具を作る、一番素敵な歌を唄う、もっとも素敵な衣装やボディーペインティングを身につけている、あるいは魔力や治癒力をもっているとみせかけることなどが含まれます。
 さて、人格とミームはどういう関係にあるのでしょうか・・。例えば人のために尽くす人間のミームは広がるのでしょうか?
 人のために本当に尽くす人間の話と、利己的な人間の話と、あなたはどちらの話を聞きたいでしょうか?人のために本当に尽くす人間でしょう。
 そういう人は、自分のミームすなわち自己複製子を人に伝達することが出来るのです。
 そういう人は、自分の話を聞いてもらおうと努力をする必要はありません。そういう人の周りには自然に人が集まり、ミームは自動的に伝わるのです。
 
 ここで私、りんごの体験に移ります。まだ私が船井さんと出会う前の話です。
 私が『不思議エネルギーの世界3』を執筆し終わった時でした。船井さんの本を何気なしに読んでいました。その時、次の一節に出くわしたのです。
「人を批判しない方が良いです。直すべきところがあっても、その人が気付くまでじっと待ちましょう。」この一言は衝撃でした。
『不思議エネルギーの世界3』を読めば分かりますが、かなり批判をしています。サイババ批判、アガスティアの葉の批判・・
 しかし書き上がった原稿はそんなものではありませんでした。私は他を批判することによって自分を確立しようとしていました。そのことに気付いたのです。
 私は人の意見で自分の原稿を書き変えたことはありません。ましてや本の一言が私を変えたことなどありませんでした。
 ですがこの時、私は自分の原稿を出して、批判部分の書き換えをやったのです。
 私は今でも人の批判をする方です。それでもずいぶんと少なくなりました。
 ある日、船井さんの主宰する講演会に講師として出たことがあります。その日の帰り、船井さんは言いました。「森田さんはまだまだこだわる人ですねえ・・」
 私は「はい」と答えました。
 はいと答えたのは、このままでいいと思っていたのです。人の批判や、ものごとへのこだわりが皆無になることはない思っていたからです。
 そして数ヶ月が過ぎ、私は中国紀行の報告に船井さんを訪れました。そのとき船井さんは言いました。「森田さんはこだわったままで良いですよ。いや、森田さんにはこだわってもらわないと困る」。 
 人の長所を引き出し、それを伸ばす船井さん。
 彼が講演会などでは常に「批判はしないほうが良いですね、こだわらない人間になりましょう」と言っていますが、私にはそれを曲げました。
 いえ、曲げたと言うより、彼は彼のやり方で私を肯定し、伸ばそうとしたのです。
 人は説得して変わるものではありません。魅力的な人物であれば、自然と相手に伝わるのです。
 従って良い人に接していければ、自然と自分の中にその人の複製子が入り込みます。良い情報に接していれば、自然と自分の中に良いミームが蓄積されます。
 では私達は単にミームに宿を貸しているだけに過ぎないのでしょうか?私達にとって主体性とは何でしょうか?私達はどう生きれば良いのでしょうか?
 本の最後の章で、著者はこの問題と格闘しています。
 以下、本の抜粋をそのまま載せます。ですので、ですます体ではなくなります。
 本の抜粋ですが、抜き出した個所は私がビビッと感じた部分のみです。本の中で連続した文章になっているわけではありません。その点を了解の上で読んでください。

私は何なのか?
 もし私があなたは誰ですかと問えば、あなたはあなたの名前、あなたの職業、あなたのほかの人間との関係(職業とか)をもって答えにする。
 こうした自己描写のすべてはあなたの言語の習熟、他人との相互関係、そしてあなたが暮らしている会話の世界から生まれる。
 これらはどれも特定の状況では有益であるが、私たちが探し求めている内なる自己のたぐいを描写することはない。
 それらは持続する意識的な実体については何も描写しない。それらはたえず変化し続ける社会的な動物に貼るラベルにすぎない。
 それらはあなたがどこにいて、誰と一緒にいるかによって決まる。そのような構成物がどのように作られるかについては、私たちはたくさんのことを見つけることができるが、このやり方では意識的な自己は見つからない。
 内なる「私」はとてもとらえどころがないもののように見える。
 私たちは自分自身のことを(誤って)「私たちの」生活をコントロールしている自己として描きたいという途方もなく大きな願望を持っているように見える。
 ブッダは僧たちに「行為もその結果も存在するが、それを行った人物は存在しない」と言った。
 彼は、私たちは自己について誤った考えをもっているがゆえにより多くの物質的なものや地位あるいは権力を得たときに幸福になれると考えるのだと教えた。
 ミームそれ自体はほかの人間に由来するものであり、私たちがコミュニケーションをすればさらに多くの人に入り続けるだろう。私たちはこうしたすべての自己複製子(ミーム)の一時的な集合体なのである。
「私」はこの自己複合体の中にうまく入り込むことに成功したすべてのミームの産物である。
 意識は何の力も持たない。自由意志の観念を発明する必要もない。自由意志はそれを「持つ」自己と同様に、錯覚である。このような思考は恐ろしいもののように思えるかも知れないが、それが真実なのだと私は言いたい。
 自己は行為の開始者ではなく、意識を「もって」はおらず、熟考したことを「おこなう」ことはない。私の身体の内部にあって体と意識を制御する内なる自己という観念には何の真実もない。これが誤りであるからには、私の意識的な自己が自由意志を持つという観念もまた偽りである。
 私は意識が何事もなし得ないことを強調したい。
 進化論についての真の要点は、それを方向付けるものを誰も必要としないことであり、なかでも意識的な方向付けをもっとも必要としないのである。
 意識を持っている限り、どのようにして私たちは偉大な音楽、心を奮い立たせる大聖堂、魂を揺さぶる詩、驚くほど美しい絵を作ることができるのだ?――と人々は問うだろう。
 この創造性の見方は、自己との意識についての誤りの理論だ。
 もしあなたが、頭の中に住んで作戦を指揮している「あなた」を信じているのなら、創造的行為は「あなた」がなした事項のとりわけうまい実例とみなすことができる。
 しかしすでに見たように、自己についてのこの見方は支持を得られない。
 内部で仕事をしている者など存在しない・・一塊のミームのほかには。
(私りんごは、ここで感動しました)
 しかし創造性に関するかぎり、自己は益よりも害をなすことが多い。なぜなら、創造的な行為は無我の状態、あるいは自己意識が消滅して自己が邪魔にならなくなったように思えたときに出現することが多いからである。
 芸術家、作家、ランナーたちは、自然に体が動き、自己意識がないときがベストの状態であるとしばしば言う。従って自己は、意識的な創造性に影響を与えはするけれども、それを開始させるものではない。
 それなら、私は何をしているのか? 
 私はあたかも選択を迫られている−−私の科学的な理解に照らし合わせて私はどのような生き方をすべきか決めなければならない−−かのように感じている。
 もし選択の余地がないなら、どのように私は選べばいいのだ?
 いかにして「私」はまるで私が存在しないかのように生きることができ、いったい誰がそのように選択するのだろう。
(ここで著者は私りんごが天人合一のときにやった瞑想と同じ方法を推薦しています。外の音に集中して自分と外部を一体化させるという方法です。二ページにも渡ってますのでカットします。)
 もし私が自由意志を持ち、意識的で故意の選択を行う「私」が内部に存在しないと心から信じるのであれば、私は何をどうするかをどのように決めるのだろう?
 答は、ミーム学的な見方を信じ、遺伝子とミームの淘汰が行動を決定するだろうし、それにかかわる余分な「私」の必要はないということを受け入れることである。
 正直に生きるためには、私はその道から脱出し、おのずから決断がなされるようにまかさなければならない。
 私は家に帰るのに、メインロードの道路と、楽しいけれど時間のかかる通りの二つのルートのどちらかを使うことにしていた。
 交差点にさしかかったとき、私はしばしば優柔不断に悩まされた。
 どうすれば私は最良の決断ができるのだろうか
 どちらを私はいちばん喜ぶだろうか
 どれが最善だろうか
 ある日私は突然「私」が決めなくてもいいのだということに気がついた。
 信号が変わり、足がアクセルを踏み、手がギアをチェンジする。そして・・
 私がどちらの道を行こうともそれでいいのだ。
 時間がたつにつれ、ますます私は、決断とはこういうものだと気付くようになった。
 それほど多くの決断をあるがままに任せることは、大きな自由の感覚をもたらしてくれる。
 欲望、希望はもっと扱いが難しい。
 私は高齢まで生き、金持ちで有名になることを願っている(著者は正直だ)。こうした希望や欲望は幸福であり続けたいという観念だ。
 もしも自己がなければ、存在しない誰かのために物事を期待したり願ったりしても無意味である。こういったものはすべて、今ではなく、別の瞬間のものである。
 人生は本当は希望なしでも可能なのである。
 ここでひとつの恐るべき思考が頭を持ち上げる。もし私がこのたぐいの真理を持って生きれば−−その行為に対して責任を持つ自己なしに−−道徳はどうなるのだ?
 しかし私は決して楽しみだけのために略奪等を始めたりはしない。
 その代わりに、罪の意識、恥、困惑、自信喪失、そして失敗への怖れなどが薄れていき、私は予想とは逆に、よりよき隣人になっていく。
 もし邪魔になる神話的な自己についての感心がなければ、別の人物が何を必要としているとか、あるいは与えられた状況下でどうふるまうかを理解するのは容易である。
 おそらく真の道徳性の大部分は、何か偉大で高貴な行為を引き受けることよりもむしろ、単純に私たちがふつうにしている有害な行為、つまり自己という偽りの感覚をもつことに由来する有害な行為をすべて止めることであろう。 

 
 これから私りんごの意見を述べます。
 DNAが情報であるように、ミームも情報です。情報とは何でしょうか?
 情報は大抵、過去に発生したものです。ミームが伝播するのはどういう事かというと、過去の情報が伝播するということです。
 過去の情報は私達とどういう繋がりにあるのでしょうか?過去の情報は私達のアイデンティティを形成するのに役立っていると考えます。
 私はいつ、どこで、何をした・・その総体が私です。私はあのとき何を好み、何を選択したか・・その総体が私です。
 これからいつ、どこで、何をするのかは、全く不明です。私はこれから何を好み、何を選択するかは、全く不明です。 
 しかし私達はアイデンティティを統一しようとする努力をしてしまいます。それは自分に責任を持つためだと言い訳します。でも、その責任を持とうとする自分は過去のものです。だからアイデンティティも過去に属すると思います。
 何故、人は自分を統一しようなどとするのでしょう・・
 その前に、他の情報になぜ縛られるのかを考えてみましょう。なぜ流行を追いかけるのでしょう・・。ミームの虜になるのでしょう・・。
 それは逃避のためだと思います。囲われている城から出て行くのは怖いです。そこは未知の世界だからです。
 瞬間、瞬間発生する知覚だけを頼りに進むことは、とても怖いことです。足が震えます。手が震えます。涙が出ます。
 そのとき誰かが訊きます。「あなたは誰ですか?」「私は・・」
 そのとき誰でもないって答えられますか?
 あなたはそれを言った瞬間、過去の積み上げをすべて捨てなくてはなりません。築き上げたすべての過去を捨てなくてはなりません。
 私はフォーカス27でそう答えました。でも・・・
(これから書く一行は、人にとっては不快な例かも知れませんが・・)
 なぜ私は、スカートの下にパンストを履く事が出来ないのでしょうか・・。
 私は日常生活でスカートを履き始めましたが、スカートの下はタイツであったり、スパッツであったりです。
 それは逃げなのです。私は正常な男です・・と言う逃げをしているのです。
 今までは、男としてのファッショナブルな格好をしていただけでした。
 でも先日、映画『ザ・キッズ』を見終わり、自分の子供の頃の写真を見て、私は一線を超えることが出来ました。子供の頃の写真には性差はありませんでした。
 性差というのは、おそらくミームの仕業なのです。ミーム・・すなわち逃避の世界です。
 ハッキリと男と女に分けることで、人は安心するのです。
 男だから・・女だから・・というのは、物事から逃避するための言い訳です。
 始めからミームという社会的遺伝子が存在するのではありません。人がミームを発明したのです。逃避するためです。
 パンストを履き、スカートを履き、パンプス(ヒール)を履けば、私は逃げることが出来ません。
 私を知っている人は「どうしたの?」と言うでしょう。私はその人には不連続な私として写るはずです。
 しかし私が私であるためには、どうしてもこの一線を突破したかったのです。そしてそれが出来ました。
「性差の垣根は外から作られたんだ・・」子供の私は、今の私にそう告げました。
 でも私には行動が残っています。本来、人は行動でしか変わりません。これからいったいどうなるのでしょうか・・。
 私は神でしょうか?もしも神なら、私自身が社会的性差を作ったと言えます。だとすれば、私自身でそれを壊すことも可能です。
 さて、ミームは誤った自己という意識を作り、その目的が逃避だとすれば、否定されるものなのでしょうか?そんなことはありません。人は安全地帯がないと生きていけません。
 人は自己という誤った感覚を持つことによってホッとするのです。本当は幸福なのに不幸だと認識してホッとするのです。不幸には理由があるからです。しかし幸福には理由がありません。
 理由・・それはミームです。社会的な言い訳です。理由が無い世界は、かなり怖い世界のはずです。だから人は長いこと幸福感に浸れないのだと思います。
 悟ると至福感が得られると言うのは、理由抜きの世界を持続できるからではないでしょうか・・。
 社会はあなたに「何故?」と問い続けます。あなたはその答えを事前に用意します。そうやって人は不自由になります。社会の規範に従うようになります。
 でも、逆に外に向かって「何故?」と問うことは、ミームを追い出すことだと思いませんか?神に対する何故?自然に対する何故?
 興味が外に向かった時、そこにはアイデンティティが消え失せると思います。
「世界のことをもっと知りたい」こう思った瞬間、「自分は誤解されているだろうか・・」なんてことは考えません。
 愛するとき理由はありません。ただ、あなたが好き。ただ、世界が好き。ただ、この仕事が好き。これでいいではないでしょうか・・。
 この時、ミームはアイデンティティと共に外に出ていると思います。
 私達は神に「創られた」のかも知れません。受身的な生としてのみ誕生したのだとすれば、受身的な要素を持つのは当然でしょう。
 それがDNAであったりミームであったりします。それらは私達の母親とも言えます。それらは私達を方向付けています。でも、神はそれだけなのでしょうか?
 私達は常に矛盾する二つのシステムに板挟みになっています。自由に向かうシステムと逃避するシステムです。
 自由に向かうためには城を出なければなりません。でもそこには孤独という恐怖が待っています。
 城を一歩出ては舞い戻り、また一歩出ては舞い戻り・・人はその連続だと思います。
 しかし私はこの世界の外側に神がいるとは、どうしても思えません。だから私には、「受身的な生として創られた」という感じがしません。私が私を作ってしまったのです。
 そうだとすれば、壊すことも、作る事も、従うことも、間違うことも、進むことも、戻ることも、すべてが可能だと思っています。
 だとすればあなたは「作り」ますか?でもこの本の著者は言っています。もしも意識して作ろうとすれば、それはミームの思う壺だと・・。
 ミーム・・不思議な概念です。私がミームという単語を知ったのは数年前でした。
 それ以来、いつかちゃんとした本が欲しいと思っていました。私が読んだこの本は、私を刺激するのに充分な本でした。
 ミームは人と人との繋がりで出来ます。ですからミームがミームという概念をこの本に載せて運んできてくれたのです。
 ありがとうミームちゃん。私が城に舞い戻った時は、よろしくね・・。
 でも私は常に外への一歩を踏み出していたいのです。

ミームとアイデンティティ(番外編)

 昔私が読んだミームに関する本は、ミームをどちらかというと肯定的に捉えていました。ミームを文化を蓄積するための記憶素子のように扱っていました。
 私達はDNAを血の繋がりの記憶素子として考えるフシもあります。愛し合った男女がその結果を未来に残すためにDNAがあるという風に・・。
 同様に私達が生き、創造した結果がミームという記憶素子に残る・・。文化として残すために・・。
 残るという視点から捉えれば、ミームは肯定されるわけです。世の中が良くなればなるほどそれは蓄積し、伝播する・・。
「シェルドレイクの仮説」「100匹目の猿現象」などもミームを思わせるフシがあります。
 ある一定レベルを突破するとそれはどんどん広がる。未来が良くなることを、これらの考え方に託しました。
 しかしスーザン・ブラックモアさんは違いました。
 彼女には道教や仙道の考え方すら感じられます。実際に仏陀の言葉を引用していますので、東洋思想にも触れているのでしょう。
 蓄積することや伝播することが私達の幸福に与える影響は?私とは誰か?という視点に立って、最後の章は悪戦苦闘しています。
 スーザン・ブラックモアさんは、外からものを捉えるだけでなく、自分自身の生き方として捉えている点が共感させられます。
 ミームが厄介な点は、普通に意識される情報ではなく、無意識の情報だからでしょう。無意識に操られることは自由を放棄していると思われています。
 ですが、ブラックモアさんにしても、真っ只中に行動しているとき、ミームはミームとしてやはり存在していると思います。
 つまりミームが撤退したのではなく、ミームの前に自分の魂が出た状態・・つまりミームが自分の後に控えた状態・・それが「真っ只中」ではないでしょうか・・。
 社会の中で生きる以上、ミームという無意識情報はあったほうが良いと思います。ただ、それの後ろにいたくないと、私は思うのです。
 前に出るか後ろに後退するかは、心のスイッチ一つだと思います。

 ミームは人を恍惚にさせるのが上手です。ミームは普通の論理的情報とは違います。ミームは感情に訴えかけます。「これが流行りものだよ・・」
 ミームにそう言われ、人は流行りものを取り入れます。その時、人は恍惚感を味わいます。
 その時ミームは私達に甘い蜜をプレゼントします。そうでなければ、流行ものはこれだけ伝播するでしょうか?
 それが伝播するのは城の中だけです。だから城の中には蜜がいっぱいあります。
 しかし、人はもう一つの恍惚感も知っています。城から出て行く恍惚感です。それは与えられる蜜ではありません。
 いったいどこから来るのでしょう?味はどんなでしょうか?気が付けば消えているので、よく分かりません。

書き込み期間:2001/04/03〜2001/05/05