もりけん語録
テーマ:「パフォーマンス講演会2006.01(前編)」
要旨:
今回のパフォーマンス講演会では、私自身がスライドに入り込むという、初の試みをしました。すると、それまでの分離感が解消され、スライドがとても生き生きとしたものになったのです。それだけでなく、私自身も観察者から体験者に近付きました。

最初のシーンでは、次のようなフレーズが出ました。
「宇宙が誕生する以前、私たちも何らかの形で存在していたのかも知れません。」
「そして気がつくと、地球に生まれていました。」
宇宙の全てが最初から存在していたとすれば、神と私達は作り作られた関係ではなく、同等の関係であるかも知れません。
「気がつくと生まれていた」・・そこには何の計画も目的も感じられず、偶然も必然も超えています。
続いて、今までの講演で出していた「私はみなしご」のスライドに、私自身が入り込みます。この「みなしご感覚」こそが、私の探求の根底を成しているといっても過言ではありません。私は魂の本当の親を知りません。それを知らないままで、三次元の仕事のみに埋没したり人に生き方を説いたりすることが出来ません。

初めてスライドの合成をやってみて気付いたのは、本物の場を持ってきているということでした。私自身も「場」の中から喋り、聴衆も「場」そのものの中にいる体験を味わえたと思います。
中国紀行の動画も本物の場を持ってきたと思います。もう一つの大きな要因は、スライドから動画への切り替えに少しの間(ま)も作らなかったところにあります。そのため、観客も場から抜けてしまう隙がなかったのです。
これが出来たのは、スタッフ全員が事前に作られた台本を元に進行していたからです。

講演会場での演出は、スタッフ全員が完璧にタイミングを合わせていないと成功しません。
リハーサルの中で印象的だったことがあります。照射のタイミングについてスタッフ同士でのやりとりの後、照明さんが「セットしました」と言いました。「セット」とは、コンピュータのパラメータ設定のことです。照明も音響も全てセットされていました。コンピュータの自動制御によって動くので、本番では間違えようがありません。
コンマ何秒の精密さでセットされた演出です。アドリブの余地は一切ありません。その中では、講師の私すらパーツの一つと化しました。
私もスタッフも全てがパーツでした。そこでは誰ひとり即興の自由はありません。
そうして作られた舞台の上で、「自由」をテーマに語りました。
目次
○ 講演者の感想1
○ スライドに入り込む
○ 「こういう神なら、私は降りない」
○ 「そして気がつくと、地球に生まれていました」
○ 「私はみなしご」
○ 本物の「場」を持ってきたパフォーマンス講演会
○ 動画も本物の「場」を持ってきた
○ 照明さんがひとり斗出する「自由」もありませんでした
講演者の感想1

<逆転>
「さあ、行くぞ」
 自分に言い聞かせてのスタートでした。クロマキーの後ろから前に回り込む私・・。
 いつもは私にライトが当たっています。だから客席が見えません。しかし今回は逆でした。光が当たって、全員が浮かび上がっていました。
「結果が原因を変える」・・逆転現象は、スタートした瞬間から始まっていました。

<一人発ち>
>もりけんさんが一人発ち(立ち)した節目の講演会
「亀レス」コーナーに入っていた一節ですが、あの時は「そうじゃない」とレスしましたが、今日バイクに乗っている時、「そうだよ」と気づきました(笑)。
 私が今まで出た講演会は、一人発ちしていませんでしたね。主催者という大きな存在があり、その下でやっていました。その主催者の意にそぐわなくて、追い出されました。まさにハイアラキーでした。
 今回はみんなが同列でした。これはメインコーナーでも話題になっています。同列になると、どんなに素晴らしいことが起こるのか・・。
 今回、最後に主催者の締めの言葉もありません。ましてや主催者のボスの単独講演もありません。全員が一気に終わりました。
 しかし逆に、今までの概念の「一人発ち」ならば、私が主役(ボス)になるところです。しかしそうはなりませんでした。
 一人発ちって、何でしょう・・。

  <スライドの文字が大きかった>
 今回はスライドの文字を出来るだけ大きくしました。
 今までは、展開が早いと文字を読む事すら出来なかったと思います。でも伝えたい事は最小限にして文字を大きくしたのです。
 これは講演者にとってもプラスに働きました。早口で喋る必要性が減ったからです。

<ハンドマイクからピンマイクに>
 私はずっとハンドマイクを使っていました。あれだと、アグレッシブになります。マシンガントークになります(笑)。
 しかし今回は、ピンマイクになり、両手が開きました。それと同時に声をかける対象が広がり、喋りがゆっくりになりました。

<多彩なスライドのバック>
 今回のスライドのバックは多彩でした。特に宇宙空間の画像が多かったです。
 ほとんどはNASAが撮った実際の画像です。
 内容ともマッチさせるために、非常に多くの画像を買い、その中から厳選しました。
 下の二つなどは、対比がよく現れていると思います。



スライドに入り込む

 F0Wが終わった一ヶ月後、編集者との間で「DVDブックをまた出そうよ」という話が盛り上がりました。当時、演出が下に見られていたこともあり(笑)、「演出大好き講演会」という仮題が付けられました。そして詳細は中国から帰ってからとなりました。
 中国冬紀行から帰ったのが12月11日、その翌日に、編集者と会いました。そしてその数日後には演出のスタッフのみなさんとも会いました。
 ところで、かつての私の希望は、「スライドと私の間に分離感があったので、それを何とかしたいです。私自身がスライドの中に入り込めないでしょうか?」というものでした。
 それに対してスタッフの皆さんからは「テレビや映画のように画面に縦横無尽に入り込むには、一億円を超える機材が必要です。テレビ局のスタジオにはそれがあります。でも森田さんが入り込む位置が固定であれば、パソコンを使った合成システムが、最近開発されています」という返事がきました。
 おお、これはイケそう・・ということでゴーとなったわけです。
 今までの講演会では、スライドが死んでいました(笑)。それは過去の写真だったり、説明の補助だったりしたからです。私はそれを指差して、あんなことがありました、こんなことがありました・・と説明するだけでした。
 でも私がスライドにリアルタイムに入り込んだらどうでしょうか・・・。死んでいたスクリーンが、ビビッドな(生き生きとする)ものとして蘇るはずです。
「生き生き」は今回のテーマの一つでもありました。 
 それと同時に「服装プロジェクト」がスタートしました。
 私は「時をかける少女」のケンソゴルの服装が良いと思いました。


 これを元に、幾つかのデザインが作られました。






 そして投票の結果(笑)、これに決まりました。


 鶯谷の生地屋さんで、生地を選びました。




 その生地を持って、仕立屋さんと靴屋さんに走ります。靴屋さんはフルオーダーです。


 そしてまず、服が出来上がりました。
(仕立屋さんにて)


 会社に帰り、お化粧して写真を撮り直しました。


 そして、パソコンの合成ではめ込んでみました。「おお、これはいい・・」
(この時点ではピンクのブーツがまだ出来ていません)


 演劇は三次元だけで勝負しています。映画は二次元だけで勝負しています。もしもそれが対等になり、ネットワークで結ばれたら・・そうです、講演会のテーマそのものではないですか・・。
 もう一つあります。「観察者」か「体験者」かという問題です。
 スライドが写り、それを遠くから説明するのは簡単です。「距離」を置けるからです。それを「観察者」と言います。
 しかしスライドの中に入り込むというのは、一体化することです。スライドは外から観察していたものではなくなります。これを「体験者」と言います。
 実は、これで没になったスライドもありました。準備テストの段階で私が入り込んだときに、何となく違和感を感じるのです。
 私が入り込むだけで、「口先だけのスライド」はそぎ落とされたのです。
 こうして、「スライドの場に入り込む講演会」の準備がスタートしたのでした。
「こういう神なら、私は降りない」

 これからパフォーマンス講演会の書き込みが続きますが、実際の舞台にはどういう映像が出たかは、ここにはほとんど出しません。それはDVDを買ってのお楽しみだからです(笑)。ここは私が準備のために作った画像で説明します。
 次のスライドはこれでした。舞台に出たとき、私は太陽コロナの中に埋め込まれました。その瞬間、スライドの上部に文章を出しました。



 オープニングのこの一枚の画像が、講演会の流れを決定するものでした。
 コロナの中に座り込んだ私は、胎児を意味しているつもりです。コロナは子宮です。
 そして出た文字は
「宇宙が誕生する以前、私たちも何らかの形で存在していたのかも知れません。」
 これは私達が神と同等の関係であることを暗示しています。
 宇宙の全ては神によって「作られた」のではなく、神そのものとして最初から存在していたかも知れない・・と。
 その後、講演会の中で聞こえる「オギャア、オギャア」
 誕生した瞬間に鏡に向かって「私は誰?」を問う神の映像・・
 そういうものの前兆が、この最初のシーンでした。
 もちろん聴衆はそんなことに気づくはずもないでしょう・・。
 でもこれは「パフォーマンス講演会」です。言葉だけで理屈責めをする講演会ではありません。右脳の片隅に、言葉にならない間隔で、他の事柄とリンクさせる事項として残れば良いと思いました。
 私は事前にパソコン上で何度もスライドを点検することになりましたが、いつもこの画像で止めていました。それを見ながら呟いていました。
「こういう神なら、私は降りない」・・と。
「そして気がつくと、地球に生まれていました」

 次のスライドはこれでした。


(これは準備のための試作画面であり、実際のものではありません)

 ゴチャゴチャとしか見えませんが、これはパワーポイントの「アニメーション」を使っているからです。この中で私が立ち上がりながら、バックの画面は太陽のコロナから砂漠に変わっていきます。
 最後は次の文字で止まります。「そして気がつくと、地球に生まれていました。」
 実を言えば、最初の一人芝居にはもっと長い台本が書かれていました。しかし、スライドと一体化する試行錯誤の中で、次第に削ぎ落とされていったのです。私が喋る言葉を全て、簡略な文章でスライド上に書くためです。
 オープニングは拍手が入るかも知れません。遅く来た客が席を探してウロウロするかも知れません。言葉だけで伝えようとすれば、最初の部分を聞き逃してしまう人もいそうです。
 なので一人芝居で喋るセンテンスは出来るだけ短くして、それをスライド上にも載せることになりました。
 砂漠をバックにして私が立ち上がったときに書かれた言葉は、しつこいですが(笑)、これです。
「そして気がつくと、地球に生まれていました。」
 この一行の意味合いは、大変に大きいです。
 誰だってそうではないでしょうか・・。「気がつくと」・・です。
 これに反して一般的精神世界は違います。「計画して」・・です。彼らはなんと、計画して地球に生まれたのです。
 地球を程度の悪い星だと言う人もいます。愛の度数が低い星だという人もいます。そういう星を良くするために、わざわざ来たという人までいます。
 でも私は、「計画した証拠」を見つけることが出来ません。証拠として出てきたものは、逆のものばかりです。
 大変にしつこいですが、センテンスをもう一度書きます。
「そして気がつくと、地球に生まれていました。」
 ここに私は、偶然も必然も感じることは出来ません。なぜなら偶然と言えば、他に必然があるからです。必然と言えば、他に偶然があるからです。
 偶然や必然を超えてしまっているのが、「気がつくと」ということだと思います。
「私はみなしご」

 今までの講演会では次の画面を出していました。



 で、今回は私自身が合成されて、スライドに入り込みます。その試作として、パソコンで合成します。
 まずは社内で撮影しました。(ピンクのブーツはまだ出来ていません)



 これをイラストの画像にはめ込みました。



 編集者やスタッフとはオンラインでも会議をしますが、そのときは「当日はこの場面で、こんなに笑った顔はしません」などと入れていました(笑)。
 さて、このスライドのシーンでは「私は本当の親を知りません」というフレーズも喋ります。だから「私はみなしご」なのです。
 世の中には、三次元の仕事にだけ邁進できる人がいます。人に生き方を教える人もいます。六爻占術で、運だけを上げようとする人もいます。
 よくそんなことが出来ると思います。自分はみなしごでは、ないのでしょうか・・。
 みなしご感覚が、私の不思議研究の根底を成していると言っても良いです。
 ところでこのスライドに入り込んだとき、最後に後ろを向いて、文字を指差しながら言いました。「私たちはみなしごではないのでしょうか?」
 喋りの台詞では「私たち」というフレーズを使うので、スライドの文字も「私たち」にすべきか、何度も悩みました。実際に、そういうスライドも作りました。

 話は数十秒前に戻ります。
 コロナの中に登場したとき、拍手が来ると思っていました。FOWの時も、開始の拍手は話題になったからです。だから5秒くらいはあの大好きなポーズ(笑)で待てるかと思いました。
 でも拍手はありませんでした。そのとき思いました。
「私はこれを、一人でやるのか」・・と。
 たぶん私に気を遣った人が多かったのだと思います。それはきっと、親切心でしょう。でもそういう人は、「介入」をどう考えますか?
「介入」というのは、ある意味エゴです。自分を出さないでいることは良いとされます。
 でも「私はみなしご」を探求していく過程では、世界に介入しないといけないでしょう・・。
 私にとっては中国紀行も、大いなる介入です。でも現地では、さらなる介入をしてくれる紹介者達がいます。
 講演会では、衣装を全て特注品で作り、54歳のおじさんが太陽のコロナに入り込む・・。
 拍手が無くシーンとした空気に、私は「肯定されていないのではないか」という気持ちすら起こりました。たった一人の拍手でも、どんなに勇気づけられたことでしょうか・・。
 場を乱さないことが親切なのか・・それとも介入することが親切なのか・・
 スライドは結局、「私はみなしご」になりました。
 さて、「私はみなしご」だとすれば、視点はどうなるのでしょうか・・
 たぶんそこには「定点」が無いはずです。自分が存在するという理由が無いからです。
本物の「場」を持ってきたパフォーマンス講演会

 今まで説明に使った画像は、私のパソコン上で合成したものでした。講演会では実際にどのように出たのか、それをお見せしたいと思います。
 開始と共に、正面から強い光が出ました。これをスタッフ達は「目くらまし光線」と呼びました(笑)それが出た瞬間、私は舞台の上に出ました。



 私の後ろには、青い色の布のようなものが配置されています。これを専門用語では「クロマキー」と言うそうです。この講演会は、クロマキー合成を使った、おそらく日本では最初の講演会だったのではないでしょうか・・・。



 そしてスクリーンで、私はコロナの中に合成されていました。



 スライドの中にどんどん合成される私です







   スライドの中に入り込むというのは、私自身にとっても未体験ゾーンでした。スライドの中で手を伸ばせば、文字を直接指さすことが出来ました。
「場」を引き寄せるというのは、こういうことかも知れません。
 今までは砂漠の絵を使って説明するとき、スライドの外にいる私は、砂漠の中にいる雰囲気にはなれませんでした。しかしスクリーンを見れば、私が砂漠の中に立っています。
 そして上には「私はみなしご」と書かれています。
 私は本当に砂漠にいる雰囲気になりました。
 講演会というのは、過去の写真を使い、それをスクリーンの外から説明するものが多かったです。それでどのくらい「場」が伝わるでしょうか?
 しかし今回は、まさに「場」の中から喋っているのです・・・これって実況中継そのものです。
 聴衆が欲しいもの、それは論理的な説明よりも、言葉を超えた「場」なのではないでしょうか・・。
 私は太陽に行ったことがありません。でも太陽を映し出し、そこに入り込むことで、太陽の「場」を持ってきたと思います。もちろん砂漠の「場」も持ってきたと思います。
 そしてこの書き込みに使った最後の写真は、太陽系の中での私でした。
 講演会ではそこで、方程式の話をしました。私は高校時代、先生が黒板に方程式を書いているとき、目の前が宇宙空間になったという話です。
 でもその風景そのものの中に入って、状況を説明することが出来るなど、それまで考えたこともありませんでした。
 パフォーマンス講演会は単なる「演出」でしょうか・・・。
 とんでもありません。おそらく本物の「場」を持ってきてしまったと思います。
動画も本物の「場」を持ってきた

 今回のパフォーマンス講演会は、70分の中で動画(ビデオ)が4回も流れました。
 まずはタダ酒おじさんです(笑)。彼のことは中国冬紀行のなかで文章として紹介しましたが、どんな風に酒を出しているのか、分からなかったと思います。
 講演会でこのビデオを流しました。しかしほんの数秒です(笑)。それでも会場は大爆笑でした。まさかあんな風に振動しながら出しているとは・・(笑)。

(タダ酒おじさん)


 次は恍惚の女性です。これは一分以上流したと思います。
 彼女は字の間違いを指摘したり、私の生まれ故郷を描写したり、私がバイクで事故を起こした場面を説明していました。かなりリアルでした。
 あれを見た人達は「な、何だ・・ちっとも恍惚状態じゃないじゃないか」と思ったに違いありません。あの部屋で一番大声を出していたのが、恍惚の女性だったからです(笑)。

(恍惚の女性)


 そして例の面相師です。中国から行った『もりけん生放送』では真面目なインタビューの場面しか流しませんでした。
 実は、彼のインタビューが終わった後も、録画のためのビデオは回しっぱなしでした。
 終わったと思った面相師は、リラックスして秘話を話し始めました。それが男女関係の話で・・(笑)。

(面相師)


   これらのビデオは、秘蔵でした。DVDの講演会が企画されてなければ、『もりけん生放送』でタダで流してしまうところでした(笑)。でも大画面とステレオ音響で聴くと、最高に良いと思います。
 さて、こういった動画は、情報量が大変に多いです。なので本物の「場」を持ってくると思います。でも、それだけが原因ではありませんでした。
 スライドから動画に切り替わるとき、一瞬の間もありませんでした。終わればすぐにスライドに切り替わっていました。間髪を入れない画面の切り替えは、見ていて気持ちの良いものでした。
 普通の講演会ではこうはいきません。講師が「ではビデオをお願いします」などと言ってから数秒経って出れば、早い方です(笑)。
 今回の講演会で何故早かったかといえば、全てのスタッフが私のスライドを元に作った台本を持っていたからです。全くストレスを感じさせずに進行したと思います。
 つまり観ている観客にとって、「場」から抜けてしまうような間(ま)は、生じなかったと思います。
(動画ビデオは、細かい「間」もカットされています。ですので非常に凝縮された映像です。)
照明さんがひとり斗出する「自由」もありませんでした

 まずは照明や音響がどのような効果を果たしていたか、写真でご覧下さい。
 開演前は会場の中は暗く、霧がたちこめていて、青い光がくるくる踊っていました。
 ゆっくりとした音楽が流れていて、外の喧騒とは全然違ったゾーンができていました。






 私が登場する数秒間は、まさに照明だけが「命」でした(笑)
















 第一部が終わり、第二部との休憩中の開場の天井・・またまた青い光が交錯してとても綺麗でした。幻想的な音楽も流れていました。


 さて準備に先立ってスタッフの名簿表をいただいたとき、とても驚いたことがありました。それは
カメラ収録・・田中映像カンパニー
証明・・ライトエージェンシー
音響・・音響制作エンタープライズ
美術・・(有)舞台美術
 といった具合に、会社が全部違うのです。
 スタッフは息が合っていないと出来ないので、同じ会社の人だと思っていたのです。ところが普段はみんな、バラバラなのです。
 さらに会場で位置につく場所は、みんな違います。照明隊は客席の横の上でした。私を撮るカメラチームは、一階の奥でした。音響さん達は2階席でした。クロマキー合成隊は舞台の裏でした。
 リハーサルは当日の14時から始まりました。男装・女装の両方でリハーサルするので、私の着替えの時間も入れれば、正味2時間くらいしか出来ません。ということは一場面1回、2回の時が多かったです。
 しかし・・です。リハーサルではみんな失敗していました。照明の切り替えが早かったり、効果音の音量が少なかったり・・。
 でも印象に残っていることがあります。それは「介入」です。
 客席横上からこんな声がしました。「今のシーン、照射を一秒遅らせれば良いですか?」
 客席真ん中の舞台監督のような人が「そうだね・・0.7秒かな・・」と言います。
 照明さんから「了解です。もう一度お願いします。」
 その部分だけ再度リハーサルして・・照明さんが「セットしました」と言いました。
 私は「セット」の意味がサッパリ分かりませんでした。しかし本番が始まってから気づきます。私の目の前にある照明器具が、目にも止まらぬ速さで180度の回転をしたりしていました。照明はコンピュータで動いていたのです。
 照明さんはパラメータを「セット」していたのです。だから本番では間違えようがありません。ちなみに照明さんは、女性でした。
 音響が入るタイミングも、音量もすべて「セット」されていきました。開始前の音楽には時々潜水艦のソナー音が混入されました。あれも「セット」されていたのです。
 自由を賛美する人達は、ジャズの即興演奏に素晴らしさを感じます(笑)。自然は作り物でないから・・などと言う人もいます。
 しかし今回は、コンマ何秒の世界まで「セット」されました。私すら、パーツの一つです。
 普通の講演会では私の胸にはバラが付けられ、いかにも講師という感じです。スタッフの人も私に対しては「先生」と呼びます。しかし・・・
 初対面のスタッフがとても多いのに、彼らは私を「先生」とは呼びませんでした。彼らと同じ「苗字」で呼ばれました。講師とて、もはや主役ではないという暗黙の了解が発生していたようです。
 全てがパーツとなり、一人だけ「即興演奏」する「自由」はありませんでした。照明さんがひとり斗出(としゅつ)する「自由」もありませんでした。
 しかし講演会のテーマは、「自由」でした。