もりけん語録
テーマ:「問いを問う(1)」
書き込み期間:2006/02/15〜2006/03/13
要旨:
齋藤孝氏の『質問力』という本を読みました。
そこには、カーナビの質問をし続ける子供に「今、おまえに許される質問はたった1つだ。さあ、それは何でしょう」と著者が問う場面が書かれていました。
質問者は相手の興味に合わせた質問をするべきだというのが著者の言い分です。
本の中にはいくつかの表が載っています。自分が聞きたくて相手も話したい質問はストライクゾーン、相手は興味がないのに自分の興味だけで質問するのは子供ゾーン、自分は興味が無くても相手の喜びそうな質問をするのは大人ゾーン、といった具合にです。
齋藤氏のスタンスは、私のスタンスと全く逆だと思いました。一言で言えば、意識の力でコントロールするか、ハンドルを手放しているかの差です。
ストライクゾーンはお互いにとって既知の領域です。私はむしろ、ストライクゾーンを外れたところに生きた対談があるのではないかと思います。
ところで私には、分かっていることなど何もないという感覚があります。「なぜ私は存在するのか」といった「存在の前提」について、何の答えも得ていないからです。
齋藤氏の本に書かれていることは、上位の世界で場を盛り上げて上手く立ち回るための方法論です。言い換えれば、いかにして大人として振る舞い、孤独を忘れ、根源的な問いから遠ざかるかです。
彼は「終わった」という感覚を持っているのでしょうか・・。それどころか「終わった」ことにすら気付いていないと思いました。

さて、神(時空)は大人でしょうか、それとも子供でしょうか。
一般的に宗教や精神世界で説かれるのは、大人の神です。私のイメージする神も大人でした。何でも知っている神、全てを創り出した神・・・
大人の神という世界観の中でレベルの概念が生まれ、「いかに成長するか」「いかに神のレベルに近付くか」が問われてきました。
しかし私が一番知りたいのは「神の性質」だったのです。
下位の問いに目覚めた16歳から今までにかけて、私の中での神が大人から子供に変遷しました。「私は誰?」を問うている神に・・です。
私達は神に内面を試され、内面を変える努力をしなければ神に認められないと思ってきました。そして、内面を変えれば運命は変えられると考えてきました。
しかし私は調査を続けていく中で「私は結果」の仮説に辿り着き、「内面は原因ではない」という発見に繋がりました。
大人の神から子供の神への変遷、そして「内面が問題ではなかった」という発見は、大変なパラダイムだと思っています。

原因と結果の仕組みについて考えました。
「私」とは、原因でしょうか、結果でしょうか・・。方程式で言えば、代入される数値(入力)の側でしょうか、それとも計算結果(出力)の側でしょうか。
ここで、原因と結果が交錯する現象として、センサーフィードバックが思い浮かびました。エアコンは、センサーが感知する部屋の温度に応じて出力を上げたり下げたりします。
部屋の温度を上げる機能はエアコンの側にありますが、部屋の温度がエアコンの出力に反映するという意味では、部屋の側が原因になります。「結果が原因を変える」現象が、そこには見られるのです。
このように、時空と私達の関係においても、問いという形でフィードバックを返している可能性も考えられます。
フィードバックは、一対一の関係性に限りません。環境問題における人間・地球・植物の間では、酸素と二酸化炭素を巡ったフィードバック現象が見られます。
さらに五行を見ると、そこには間接的なフィードバックが働いていると思いました。相生関係と相剋関係が共に間接性を維持するために、最小限必要な数が5なのです。
間接的なフィードバックという現象は、私が講演会で発表した「自分以外のすべて原因で、私も自分以外のすべて原因」の仮説にも通じると思いました。
目次
○ 「今、おまえに許される質問はたった1つだ」
○ 意識の力を抜くこと
○ 「子供ゾーン」
○ 「具体的かつ本質的」VS「存在の前提」
○ 経験世界に沿え!
○ 自分は興味がなくても、相手が感心を持っていれば、質問して相手を盛り上げる
○ 終わったことすら気付いていない
○ 具体的でないゾーンは答える側の自由度を上げる
○ 神はオトナかコドモか?
○ 「精神レベルを上げろ」
○ 神がオトナだったとき
○ 神は自由をお作りになった
○ 「何か、とんでもない勘違いをしているのかも・・」
○ 大きな勘違い、「内面ではなかった」
○ 調査への反発
○ 調査への反発は、問いが問題
○ どっちつかずで、両方アリ
○ 問いの方向性が変わる
○ ストライクゾーンを外す
○ 問いの相手が人間ではない
○ 原因と結果の交錯・・y=f(x)
○ センサーフィードバック
○ 地球系大気における植物の役割
○ 目隠しで食べさせ合う
○ いよいよ五行に切り込む
「今、おまえに許される質問はたった1つだ」

 講演会感想コーナーに、以下の書き込みがありました。
「第二部は編集者の質問がつまらなかったです(ごめんなさい)。『質問力』の齋藤孝だったらどんな質問をするだろうかなんて思ってしまいました。」
 おそらく『質問力(筑摩書房)』には、この人が目指すところのスタンスが書いてあるのだろうと思い、本を買って読みました。
 齋藤氏のスタンスを端的に現している箇所があったので、それを紹介します。

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 たまたま最近買った中古車にはカーナビがついていて、小学校6年生になる息子はいたく興味を覚えたらしい。カーナビの質問を延々と私にしてくるのだ。だがそもそも私は機械音痴だし、カーナビに興味もない。
 私の興味や関心とまったく関係なく質問をし続けて平気な感性に、私はついに耐えられなくなった。そこで私は息子に向かってこう宣言した。「おまえが生まれてから10年あまり、あらゆる質問に耐えてきたが、今日を限りに耐えるのをやめた」
 質問とは相手の状況、相手の興味、関心を推しはかり、自分の興味や関心とすりあわせてするものである。自分の一方的な興味だけで聞く質問は、相手にとって苦痛以外のなにものでもない。
 さらに私は息子に言った。「今、おまえに許される質問はたった1つだ。さあ、それは何でしょう」。
 息子はさすがにカーナビとは言わなかった。しばらく考えていたが、「本を読めっていうことと関係ある?」と聞いてきた。というのは私が始終「本を読め」と言っているからだ。
 しかしそれは私が常に言っていることであって、今この車の中で必要とされている質問ではない。
 たった1つ許されている質問とは「今日の塾ではいったいどんなことをやるつもりなのか」ということだ。
 私の頭の中はこれからやる塾の授業のことでいっぱいである。今日は何をしようか頭の中で授業のことが高速で回転しているわけだ。なおかつ息子はその塾に参加するために車に乗っているのである。
 2人が一緒にいるのは親子だからということもあるが、塾に行くためであって、その文脈を理解すれば塾に関わる話をするのが当たり前である。その質問をしてくれれば、私は塾のメニューについて語りながら、自分の頭を整理することができただろう。
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 これを読んで、私は齋藤氏の子供でなくて良かったと思いました。なので、私の父の話をします(笑)。
 私の生まれた所は東京都西多摩郡日の出村です(笑)。60人の同級生の中で大学に行ったのは3人だけでした。
 自分の息子を大学に行かせない親は、私の父に訊きました。「大学なんか行ったって金がかかるだけで、飯を食うのにはプラスにはならないよ。」
 父は答えました。「山が高くなるには、裾野が広くなけりゃならない。大学で何したっていいんですよ。何も期待していない。意識して山を高くすることなんかしなくていい。裾野が広くなりゃいいんだ。」
 私が学業(電子工学)とは全く関係ない「下位の問い」の世界に入れたのも、父のこの一言が影響したかも知れないです。
 私はどんなにつまらない映画(笑)からも下位の問いへ繋げ、面白さを見出してしまう傾向があるかも知れません(笑)。
 カーナビの話は講演会でもやります。時空調査の基本的スタンスがあるからです。なので彼ら親子にとっても、塾の問いへのヒントが隠されているかも知れません。
 しかし父親は言いました。
「今、おまえに許される質問はたった1つだ。さあ、それは何でしょう」
 このセンテンスはすごいと思いました。360度開かれた問いを、たった一つに絞ってしまうのですから・・。
 しかも「おまえが生まれてから10年あまり、あらゆる質問に耐えてきたが」と言われた子供は、何を感じたでしょうか・・。
 今日から「問いを問う」ということをテーマに書きたいと思います。
意識の力を抜くこと

 昨日の書き込みについてコメントをします。
『質問力』は全部で190ページあります。その本の中で、実体験が書かれたのは昨日の部分だけです。あとは全て他人の本からの引用です。つまり他人の対談部分を抽出して、ここがどうだの、あそこがどうだの・・と批評しています。実体験の部分ですら、対談の実体験ではありません。
 アマゾンの評価の中に「さすが大学教授だ。人のふんどしで相撲を取っている」という皮肉を書いている人がいますが、その通りです。おそらく彼は、大会場でインタビューをした経験など皆無だと思います。
 質問とか問いは、そういうものでしょうか?対談の当事者になることと、対談集を読んで後から批判することは、全く違うと思います。
 例えば、講演会に第二部でされた質問は、打ち合わせゼロでした。

 さて、齋藤氏はカーナビの質問をされて窮地に陥りました。私も窮地に陥ることがあります。それは「もりけん生放送」で、リアルタイムの質問に答えている時です。
 画面に出てくる質問を反射的に読んでいるので、読み終わってから答えに窮する時があるのです。最近では中国から行ったときでした。
「中国での場と日本の場とでは、どう違いますか?」というような質問だったと思います。私はすぐに答えが出ませんでした。なので「答えられません」と答えました。
 そして時が経ち、パフォーマンス講演会が開催されることになりました。
 スライドの中に入り込むことは、場を持ってきやすいと思いました。あの問いがずっと引っかかっていて、その結果としてパフォーマンス講演会があったとも言えます。
 答えることが出来ない問いというのは、非常に重要なのです。だからこそ、「勝手にしやがれ」が生まれたのです。これも一つの「答えられない部類の答え」なのです。

 さて、齋藤氏が自分のインタビュー経験を綴った本であれば、そこには成功談があろうが失敗談があろうが、面白く読めたと思います。失敗が成功に繋がった例とか、たくさん出てくるはずです。
 講演会の第二部は、対談という場の流れに乗っているとき、お互いがハンドルを手放していないといけません。私などは何を答えたかすら、忘れています。たぶんそこでは「力(ちから)」などは抜けていると思います。
 しかし齋藤氏の本は『質問力』という題名からして、力が入りすぎているような気がします。力でコントロールしようとする対談など、ちっとも面白くないと思います。何故かと言えば、意識でコントロールするからだと思います。
 私と編集者のやりとりに、「間」というものが、ほとんどありませんでした。さらに私は第二部のとき、時間の感覚が飛んでいました。半分は無意識の世界に入っていました。

 齋藤氏は、子供をねじ伏せました。彼の意識で・・です。彼の「力」でです。
 私は深夜の「独り言」の最中に、娘からの介入を頻繁に受けます。それを私は受け入れます。齋藤氏なら、「今私が何をしているのか、理解できないのか?」などと言いそうです。
 おそらく齋藤氏には、人生を含めた全ての事は、問いへの答えである・・などということは、夢にも思わないでしょう。読んでいる本にバッタが飛んでくれば、「今やっている事に対して邪魔だ」と言って、捕まえて殺してしまうでしょう。
『質問力』・・考えてみれば、すごいタイトルの本です。「一番大切なのは力を抜くことです」と言いたくなります。
「子供ゾーン」

 下の表は『質問力』に載っているものです。


 縦軸のプラス方向が「自分は聞きたい」、マイナス方向は「自分は聞きたくない」です。横軸は右側のプラス方向が「相手が話したい、答えたい」で、マイナス方向が「相手は話したくない、答えたくない」です。
「自分は聞きたいが、相手は答えたくない」というゾーンを彼は「子供ゾーン」と名付けています。それで、例のカーナビの話が出てきたわけなのです。
 さて、例のカーナビが出てくる前の文章です。
「『テレビは誰が発明したか』と聞かれてもわかるわけはないし、興味もない。これは自己中心的な質問と言ってもよい。最近、私はこのゾーンにぴったりと当てはまる経験をした。たまたま買った中古車にはカーナビがついていて・・」
 こうして前々回長々と紹介したストーリーに入るのです。
 しかし・・です。テレビは誰が発明したかという質問は、そんなに自己中心的でしょうか?そんなに「子供ゾーン」の質問でしょうか・・。
 昔ラジオで「子供電話相談室」というのをやっていました。私はあれが大好きでした。何しろ私が聞いてみたい質問ばかり出てきたからです。
「今、猿を飼っているのですが、いつ人間になるでしょうか?」・・とか(笑)。
「テレビは誰が発明したか」という質問は、猿に関する質問よりずっと「オトナ」だと思います。
 大学で私が取ったゼミの先生は、テレビアンテナの研究をやって、世界的に有名なりました。その先生がテレビについて語り始めた日には、質問者は家に帰してもらえません(笑)。

 もしかして、「子供ゾーン」は質問を受ける側にも当てはまらないでしょうか?
 技術的なことは知らなくても、関連する話(答え)をいくらでもすることは出来ます。
 例えば私が質問を受ける側だったとしましょう。私にとって「子供ゾーン」の質問とは、いったい何に当たるでしょうか?
 私は上位の質問に対しても、かなりイケる方だと思っています。神田さんとも対談する予定でしたから・・。もしも実現していれば、かなり面白い対談になったはずです。
 こうして考えると、「子供ゾーン」を成立させる原因の少なくても50%は、質問をされる側にあると思います。
 しかし齋藤氏は「いや、質問をされる側は無実だ。なぜなら質問者はそれをも察知しないといけないからだ」と答えるかも知れません。
 しかし、答える側のバカさ加減を暴露するためにも、「子供ゾーン」の質問は、一発してみるのが良いと思います(笑)。
 テレビついても何も言えず、カーナビについても何も言えないとき「あなた、何年オトナをやってんの?」という暗黙の答えが、質問する側に湧き上がるからです(笑)。
 本当に成熟した大人(笑)は、「子供ゾーン」にむしろ「答え甲斐」を感じるはずです。
 もっと言えば、聴衆を前にした対談では、「ストライクゾーン」の受け答えが一番ドキドキしない領域になりそうな気がします。おそらくそれは、既知の領域だからです。
 ストライクゾーンを外れたとき、初めて対談が「生きて」くると思います。
「具体的かつ本質的」VS「存在の前提」

 下の表も「質問力」に載っていました。


 齋藤氏は「いい質問とは具体的かつ本質的というものである。たとえば『あなたにとって生きるとはどういうことですか?』とか『人生でもっとも大切なものは何ですか?』とか不毛の対話である。これはインタビュアの『質問力』のなさと考えたほうがいい」と書いています。
 ところで下位の問いというのは、具体的にはなりにくいです。宇宙が生まれる前の話など、具体的にしようがありません。
 齋藤氏にとって私は、不毛の問い(対話)をしているようなものです(笑)。
 齋藤氏の視点からすれば、講演会第二部のことを「編集者の質問がつまらなかったです(ごめんなさい)。『質問力』の齋藤孝だったらどんな質問をするだろうかなんて思ってしまいました」と書かれても当然です。
 でも、もしもインタビュアが齋藤氏なら、次の展開になったかも知れません
齋藤「今、あなたはどこにいますか?」
森田「ここがどこだかわかりません。」
齋藤「読売ホールに決まっているでしょ?」
森田「私が誰すらわからないのに、ここがどこと答えることが出来ません」
齋藤「あなたは自分が誰かもわかっていないのですか?」
森田「はい、わかりません。なので具体的な質問をいくらされても、私には答えることが出来ません。」
齋藤「・・・」
 しかし世の中で成功するためには、具体的な問いとの勝負です。それを上位の問いと言います。「どうすれば売り上げが上がるか、どうすれば成功するか」これらの問いは、「ここはどこ、私は誰」の上に来るものです。
 下位の問いとは「存在の前提」です。齋藤氏は、「存在の前提」は問うなと言っているのです。それはおそらく、問うても答えなど出てきやしないと思っているからでしょう・・。
 今回の講演会は「存在の前提」に斬り込んだ、稀な講演会だったかも知れません。
経験世界に沿え!

 下の図も、「質問力」に載っていました。


   齋藤氏は次のように書いています。
「カーナビの質問は、今現在の文脈にも沿っていないし、相手の経験世界にも沿っていない。では本に関する質問はどうだろうか。読書については私が延々とやってきたことだから、過去の経験には沿っているが、今、塾に向かう車中にあるという現在の文脈には沿っていない。では『今ここでたったひとつ許される質問は何か』と聞かれたら、今現在の文脈にも沿い、私の過去の経験世界にも沿う問いを考えればいいわけだ。座標軸で言えば右上のゾーンに入る質問を考えればいい。」
 齋藤氏によれば、問いは「過去」から離脱してはイケナイことらしい。過去に経験していないことを訊くのは、不謹慎だというわけです。
 私は自分の考えを毎日ホームページに書いています。講演会で編集者が、私の書き込みしたことを質問することは「私の過去」に当たります。齋藤氏によれば「ストライクゾーン」です(笑)。
 しかし一度書いたようなことを聞いて、聴衆は面白いでしょうか?いえ、それ以前に、質問する側と答える側も、面白いでしょうか?ちっとも面白くないと思います。
 ここがとても重要だと思います。
 カーナビの質問に対しては、息子さんは目を輝かせていました。でも本に関する事とか塾に関しての事は、げんなりでしょう(笑)。
 齋藤氏には、「快の原則」というのが全く欠けていると思います。
 いえ、質問者は快を感じてはならないと言っている風にも感じます(逆に質問をされた側を喜ばせろという風に取れます)。

 ところで、孫さんセミナーは三日間続きます。そこで行われる「ミニミニ講演会」は私にとって過酷です(笑)。なぜなら同じ事を言いたくないからです。
 三日間と言えば、次回のパフォーマンス講演会も、三日連続行われるかも知れません。
 普通なら、同じ事をやります。しかし私は何かを変えたくなります。
 だから、例の生き方のアドバイスに関して「昨日は『勝手にしやがれ』などと失礼なことを言いました(ぺこり)。なので昨夜は一晩かかって考えてました。なので今日は、バッチリ明快に答えてみましょう」なとど言って、答えてしまうかも知れません(笑)。
 何が起こるか分からない方が面白いと思います。
 経験世界だけをやっていたって、ちっとも面白くないからです。質問する人もされる人も、生きているのです。面白くなきゃ、つまんないでしょ(当たり前(笑))。
『質問力』という本は、パロディではないかと思えてきました(笑)。
 書いてあることの逆をやれば良いと・・・(笑)表は全て、ひっくり返せ・・と(笑)。
自分は興味がなくても、相手が感心を持っていれば、質問して相手を盛り上げる

 今回が『質問力』からの抜粋の最後になります。下の表も『質問力』に載っていたものです。


 齋藤氏は書いています。
「右下ゾーンの『自分はすでにわかっているが、他の人も知りたいだろう』は、配慮のきいた質問になる。自分は興味がなくても、相手が感心を持っていれば、質問して相手を盛り上げる。まさに『大人ゾーン』と言うことができる。これができるかできないかで、社会生活に差がつく。」
 ちなみに最後のセンテンスは、太字で書かれています。
 このやりとりって、「やらせ」に近くないでしょうか?しかも「私は相手と観客のためにやってんだぞ」という意識が見え見えです。
 さらに自分は興味が無くても質問するという態度で、本当に場を盛り上げることが可能でしょうか?
 彼はたぶんそうやって、自分を曲げて生きているのです。でなければ、息子にもあんなこと(自分をねじ曲げろということ)は言いません。
 彼にとって、この世で生きるということは、いったい何なのでしょうか・・。
 そういう問い自体が不毛の問いらしいので、いくら相手にしても、何も生まれそうにありません。

 社長が得意分野を訊かれて、ウハウハ答えているマンガです(笑)。こうすると質問者も得をすると・・


 齋藤氏はこのマンガの下に、次のように書いています。
「例えば自分はゴルフはまったく興味がないのに、上司がゴルフ好きだから『部長、最近、ゴルフのほうはどうですか』と聞く。あるいは人の息子のことなどまったく興味ないのに『お子さんはお元気ですか』と聞くケースも同様だ。『どうですか?奥様は?お孫さんは?』というふうな話の振り方をすると、相手が喜ぶ。そこから話が盛り上がるから、『質問力』として使える方法である。」
終わったことすら気付いていない

 今日から、時空の話に入ります。
 この世の中に分かっている事が、何かあるでしょうか?
 私は、分かっている事など、何もないと思っています。それは「存在の前提」が全て不明だからです。
 なぜ私は存在するのか・・私はなぜ私なのか・・。これらが分からないのに、他の事が分かっても、それは分かったことにはならないと思います。
 齋藤氏のように上手く質問して場を盛り上げて、それがいったい何だと言うのでしょうか・・。
 私は大学を卒業して就職したとき「終わった」と思いました。どうあがいたって、もう無理だ・・。真理を追究することなど、もう無理だ・・。
 しかも「存在の前提」が分からないのに、食うために働かされるのです。8時間を食うために働けば、「存在の前提」などを考えなくても時を過ごせるでしょう・・。
 そういう世界に入らなければいけないのだ・・・そう思いました。
(だからせめて、個性のある場所で働くのはやめようと思いました。夢も希望もありませんでした。でも、それがなければ挫折もありません。当時、ほとんど諦めの境地でした。下位の問いを諦めるという・・)
 齋藤氏の本は、そういう世界(上位の世界)での生き方を書いた本でした。
 いかにして大人として振る舞うか・・。いかにして孤独を忘れるか・・。いかにして根源的な問いを忘れるか・・。
 こう言っては大変に失礼ですが、彼は終わったことにすら、気付いていないと思いました。
(私は今だって、かなり「終わって」います。いったい何が分かったって言うのでしょうか・・。このHPでは「私は結果」が大流行していますが、その証拠すら掴んでいません。)
具体的でないゾーンは答える側の自由度を上げる

 パフォーマンス講演会のDVD作製のための試写会をやりました。その感想が今日の書き込みです。
 初めて観客席側から見ました。まず最初の場面・・あれじゃあ拍手出来ません(笑)。
 目つぶし光線から始まってクロマキーに入り込むまでが、凄すぎです(笑)。あそこで拍手すれば、流れが途切れます。というわけで、今回は拍手がなくて正解でした(笑)。
 その後の流れも凄すぎです。自分で言うなって(笑)。
 画面の中に入って喋るって、見ていても、とても楽しいです。しかもダイレクトに文字を指差したりもしています(私自身は文字がない所を指差しているのですが、合成した結果はバッチリでした)。
 そしてトンネルを飛ぶシーンは、想像以上でした。私は飛ぶシーンをいままで静止画の写真でしか確認していませんでしたが、実際に動画で見ると、バッチリ決まっていました。
 今日来たスタッフからも言われました。「随分練習したんでしょ?それでなければ画面とあれだけ合いませんよ・・。」
 左右に飛ぶ姿が、画面とバッチリ合っているのです。しかも後半は腕とかも浮遊させて動かして、それがトンネルの画像に合っているのです。画面に釘付けです(笑)。
 そして、男装になった後半もバッチリです。
 スライドがとても良く出来ていて、しかもいつもより喋りが遅くて、理解しやすいです。
 割れんばかりの拍手を尻目に、最後はスタコラと舞台裏に退散(笑)。
 さて、第二部に突入しました。
 第二部は・・・「えっ、私はこんなことを喋っていたの?」というシーンばかりでした。
 編集者が問いを出すたびに、今日の私は「えー、こんな質問にどう答えるのだろう」というものばかりでした。
 でもあの時の壇上の私は、イッていました(笑)。間髪を入れずに答えています。しかもそれがかなり核心を突いた答えなのです。
 今日観ている自分は「ふ〜ん、いい答えするなあ」と関心するばかり(笑)。

 ここで気づきました。編集者は、ストライクゾーンを投げていないのです。つまり齋藤氏の表で言えば、具体的ではないゾーンに投げています。それが良かったのです。
 もしもストライクゾーンを狙い、具体的な質問をすれば、話題はどんどん狭くなるところでした。
 対談が進むにつれて、観客の反応も良くなっています。最初は椅子の背にもたれていたのが、次第に前のめりになる様子です。爆笑も拍手も、瞬間に起こるようになりました。
 こういう対談も珍しいと思います。長い時間話していれば、観客もだれてくるのが当たり前だからです。でもそうではありませんでした。
 具体的ではないゾーンというのは、外したゾーンなのです。それは逆に、答える側の自由度を上げているのです。
 実際のところ、不思議研究所で行われている「問いと答えの応酬」もこれと同様だと思いました。編集者はブロードの(広い)ゾーンの玉を投げてきているのです。そこでいつもと違う答えが発生できるのです。
 但し、これを講演会で行うのは非常に危険です。だって新しいものが出ないかも知れないのですから・・。その時は焦点のずれた対談になってしまいます。
 でも講演会の当日、私はイッていました。だから何を答えたか、覚えていないのです(笑)。
 逆に言えば、意識でひねり出した答えではありませんでした。

 さて、試写会が終わって、全員放心状態でした(笑)。そして誰となく言いました。
「これって、何度も観てくれるDVDになりそうですね。」
 ところで講演会の前までクロマキー合成は、スタッフ業界では評判が悪かったらしいです。「そんなことやって、どうすんの」・・と(笑)。
 ところが終わってから数日すると、業界内の評判が一転したそうです。問い合わせがひっきりなしに入るそうです。既に伝説化されつつあるそうです(笑)。
神はオトナかコドモか?

 時空は齋藤氏のような人(大人)でしょうか、それとも齋藤氏の息子(子供)のようでしょうか・・。これによって問いは変わります。
 なのでここ数回の書き込みは、オトナの問いとコドモの問いを比較することになると思います。
 私は16歳の時から今までにかけて、時空(あるいは神)に対するイメージが大きく変わりました。神が、オトナからコドモに変化したのです。
(実はこのフレーズは、凄いと思っています。なので簡単に同調して欲しくないような(笑))
 寝たきり老人であっても、心はコドモ・・(笑)。
 しかしはじめの頃、神は何でも知っているオトナでした。もしもそうだとすれば、私たちは常に「教えられる」存在でした。先生と生徒、あるいは親と子です。
 私は就職をするとき「終わった」という感覚を持ちました。神は何でも知っている・・しかし私達は何も知らない・・。
 そんな世界で、何を求めて、上へ上へと、登ろうとするのでしょうか・・。終わるしかないと思いました。
 終わらない人達は、オトナの神の世界観の中で、上の世界に君臨する神と一体になり、優越感、あるいは満足感を感じるために生きるのでしょうか・・。
 しかし講演会で下のイラストを出しました。イラストの女の子が神であり、私でもあります。
 今日は単に、問題提起です。


「精神レベルを上げろ」

 一般的精神世界では「レベル」という概念が存在します。「程度が低い」とか「人格が高い」とかも言われます。そして精神レベルを上げるのが、そっち系のセミナーの目的の一つでもあります。
 アセンションも、レベルと非常に関係しています。一定のレベルに達していない人の足切りをするのがそれだからです。
 さて、レベルはなぜ存在するのでしょうか・・それは神が「オトナ」だからだと思いました。
 オトナの神は私達から見れば、最終ラウンドそのもののレベルです。成長し切った姿です。その状態を100として、ゼロから等分していったのが「レベル」だと思います。
 ところがもしも神がコドモ、あるいは赤ちゃんだったらどうでしょうか・・・。私達と同じく、何も知らない存在だったらどうでしょうか・・・。当然そのレベルは、我々と同じです。
 そこに物差し(スケール)を持ってくることが出来ません。だってこれからどういう風に「成長」していくか、不明だからです。
 一般的精神世界の講演会では、聴衆への「アドバイス」が盛んです。
 こう生きろ、ああ生きろ・・人を裁くな、こだわるな・・
 勝手にしろなどどは、絶対に言いません(笑)。
 だって神に近づくためにはレベルを上げないといけないからです。
 彼らにとっての問いは、「どうやったらそこに近づけるか」でした。それはまるでハウツーです。神をテーマにした講演会であっても、まるで上位でした。
 しかし私はこれでした。



 神の性質・・・です。
 だって神の性質を知らないで、「近づく」も「一体になる」も、あり得ないでしょう(笑)。
神がオトナだったとき

 神がオトナだったとき、問いはどうなるでしょうか・・・
 神はオトナで全知全能だとすれば、全てを知っていて、未来永劫までお見通しということです。私達が問えば何でも教えてくれます。
 でも神が知らない事を質問したらどうでしょうか?齋藤氏のように怒り出すでしょうか?(笑)いえ、それは起こり得ません。
 なぜなら、私達自身が神の被創造物だからです。ということは、私達の問いも全て「被創造物」です。作られたものです。
 問いも決められ、答えも決められ・・・この世界観の中で「レベル」を上げようとか、全くバカみたいです。
 神が先にあり、我々が後から作られた・・。この世界観で私たち人間の生き方を構築するのは大変です。上に君臨する「神」に近づくしか、残された道はなさそうです。
 しかしそれとて、「神」が選んだ人しか、対象にはなれません。だって全ての運命は決められているからです。なので、「選ばれる」というのが精神世界では大流行です。
 そして、この世界観にだめ押しをしたのが、運命は決まっているという事実でした。
 チベットで私の前に立ちはだかったのが、実は「オトナの神」だったのです。
 私はそのとき、神という言葉を密閉したまま、時空という言葉に逃げていました。
神は自由をお作りになった

 全てを創り出したという神・・
 私が行った大学では外人の神父が教授をやっていたので、とっておきの質問をしました。
「悲惨な戦争や残虐な災害も、神が創り出しているのでしょうか?」
「ミスターモリタ、ソレハチガイマス。カミハ、ジユウヲモ、オツクリニナリマシタ。センソウヤサイガイハ、ジユウノシルシデス。」
 なるほど、自由だから戦争や災害があるのか・・私は納得しました。
 その後大学では自由についての議論に突っ込みを入れ、エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』などにもハマりますが、それは今回、脇に置いておきます。
 今日は「自由」の中身についてではなく、全体像のなかの自由について考えます。
「ジユウヲモ、オツクリニナリマシタ」と言う言葉で私が連想するのは、牧場です。柵に取り囲まれ、その中だけが自由です。
 作られた自由・・。
 中の生き物は柵を越えることが出来ません・・外の世界を見たくても、見ることが出来ません。
 しかしフェルルは飼い犬ですが、外の世界に行くことが出来ます。昨日は湘南までドライブしました。そのときフェルルはずっと外を見ていました。

  外を見ているフェルル








逆サイドの窓も気になるフェルル


  外を見すぎて、首が疲れたフェルル(笑)


 車から降りると、それは大変です。フェルルは新しい土地を少しでも探索しようと、リードを引っ張ります。飼い主は引っ張り回されます。飼い主に自由はありません(笑)。
 しかし「作られた自由」の世界観の中では、我々はフェルル以下です。外の世界を見に行くことも出来ないからです。
 一般的精神世界では、これを次のように解釈しました。
「作られたにせよ、自由の牧場は他の惑星(例えばプレアディス)とか、他の次元に幾つもあるのだ。転生して、だんだん素晴らしい牧場に行くのだ。最後のステージの牧場では争いもなくなるのだ。」
 牧場をステップアップできるかは、今の牧場で「善い行い」が出来るかどうか・・です。それを神に審査・判定してもらい、次のステージ(牧場)に上がるのです。
 この世界観の中での問いは「どうしたら次のステップ(牧場)に上がれるか」です。もしくは「神に気に入られるにはどうすれば良いか」です。
「作られた自由」という世界観は、オトナの神と自由の矛盾を解決してくれるのです。
「何か、とんでもない勘違いをしているのかも・・」

 チベットでは、運命は決まっていることに愕然としました。でもそのとき、私の隣に乗っていたトラさんはつぶやきました。
「一定の範囲内なら、変えることもできます」
 なんだよ、一定の範囲かよ・・(ぶつぶつ)
 その数年後、私の前に盲師派推命占術が現れました。それによれば、運命は「おぎゃあ」と一発泣いた時間で決まっていたと・・。
 バカ口開けて泣いた瞬間に、「カチッ」と運命のスイッチがONになった感じです。
 そして、バカ口開けたまま(笑)、バカな人生を歩み出すロボット・・
 ロボットのくせに、「人を裁くな、さばくのはサバだけにしろ」などと、エラソーなことを言う奴もいます。
 でもあるロボットの夫婦に、子供が出来ないことが分かりました。
 ロボット産婦人科の先生は、「あなたたち、ロボットだからセックスなんてしてはいけません。回路が壊れます」などとは言いません。
「回路に不備があるので、エッチしても無理です。あなたが完成されてこの世に送り出されたとき、バカ口あけて泣いた時間が問題なのです。それを恨みなさい」と言いました。
 ロボットではなく、牧場で飼われている牛さんにも言い換えることが出来ます。「牛さん、あなたがバカ口あけて泣いた時間で、このことは全て決まっていたのです。家畜は家畜らしく、諦めなさい。」
「モウ〜、やだぁぁぁぁ」
 そう叫んだむすめ牛は、親戚のおじさん牛に相談しました。もりけんと名乗る牛は、コインを振ると、おもむろに言いました。
「羊さんを生け贄にしなさい・・いや、最近はおもちゃでも可というデータが、中国の山西省の牧場にいるトラさん牛からも来ています・・。牧場の売店で売っている羊の携帯ストラップを付けなさい。」
 むすめ牛は、もりけん牛に昔、スケートを教わったことがありました(どうでもよい話(笑))。
 そして三ヶ月後、むすめ牛は妊娠してしまったのです!!
 山西省にはもう一匹の牛がいました。盲目の牛から盲師派推命占術を伝授されたダンさん牛です。メガネをかけた牛です。その牛にデータを送ると、「バカ口あけて泣いた日から換算すれば、その子供は生まれる運命にはありませんでした。生まれてはいけない子供でした。運命が変更されました」という返事が来ました。
 牧場には夕日が沈みかけ、星が見えてきました。
 この事実を知った牛たちが、空を見上げながらつぶやきました。
「俺たち牛は、何か、とんでもない勘違いをしているのかも・・」
 時を同じくして、ロボット星でも空を見上げていました。
「俺たちはロボットは、何か、とんでもない勘違いをしているのかも・・」


大きな勘違い、「内面ではなかった」

 神がこの世を支配し、さらに自由をお与えになった世界観のときは、内面が問題でした。戦争を引き起こすのもすべて内面の結果だとされたからです。
 私達はこの世界に放り込まれ、神からまるでテストをされているようでした。「こんなレベルではダメだ」といつも否定されているようでした。
 そして内面が変わったとき、運命は変わるとされてきました。
 そのために、一般的精神世界では「自分を変えるセミナー」が大流行でした。とにかく自分を変えなければ、何も変わらないと思わされてきたからです。
 今回のこの「内面ではない」という発見は、私の不思議探求の中で、トップに位置するものの一つだと思います。
 だって世の中は、全て「内面が原因」として考えられてきたからです。
 教育もそうでした。世の中を渡っていくための「自分」を作るのが教育だったからです。
 司法制度もそうでした。責任の所在を追求するのが司法の役割でした。
 ほとんど全てと言っても良い科学者も、「内面が原因」として世界を捉えています。
 でも内面は原因ではなく、逆に結果であったことなど、調査を始めたときの私ですら想像できませんでした。
 それでもまだ、証拠に乏しいです。まだほんのヨチヨチ歩きの仮説なのです。
 しかし「内面ではない」という発見は、人類史上としても稀に見るパラダイムだと思います。
調査への反発

 先日私宛に送られてきた一通のファックスを紹介します。
「占いをする者は生死には触れてはならない。人としての領域を超えてはならない。人はこの世で為すべき使命を持って生まれてくる。大きな使命を果たすためには、大きな受難を超えていかねばならないこともある。だから目の前の苦しみから容易に逃れてはならない。それは見えない世界に仕組まれたものだから。自分の魂の格を向上したときにだけ、苦しみを回避することができる。」
 この手の反発は多いです。私が株で大儲けしたときもそうでした。「モリケンもそこまで落ちたか」、「お前は私利私欲のために調査していたのか」、「お金は地道に働いて得るものだ」・・とか。 
(でもこの人達の大半は、「不思議の友」をタダでもらっています(笑))。
 中には「そのうち天罰が下る」などというものもあります(笑)。

 さて、最初のファックスに戻ります。
 六爻占術を使って運命を変えるのは、苦しみから逃れたいからするのです。病気治療もしかり、妊娠もしかり、金運もしかり・・
 金運を上げるのは、貧乏という苦しみから逃れるためにするのです(笑)。
 しかしファックスの人は、「目の前の苦しみから容易に逃れてはならない」と言っています。
 私なんか、運命が変更されたことで目の前が明るくなったのに、ファックスの人は「こういうことが頻繁に起こるようになれば、世も末だ」と思っているのです。
「人はこの世で為すべき使命を持って生まれてくる。大きな使命を果たすためには、大きな受難を超えていかねばならないこともある」・・この論理は「生まれる前に全てを決めてきた」という視点に似ています。今現在苦労している人に、とても共感を与えるからです。
 そして「決めてきた苦労」の向こうには、希望が待っていると思わせたいからです。
 むすめ牛は簡単に問題を解決してはいけないのです。苦しみを乗り越えてこそ、次のステージ(牧場)に進めるのです。簡単に解決すれば、魂の格の向上が無くなるからです。だからこそ、それを回避してはならないのです。

 さて、私の調査への反発は、なぜ起こるのでしょうか・・。これを書くとさらなる反発を招くかも知れませんが(笑)、書いてみます。
 まず一つは、嫉妬ではないかと思います。コインを振るだけで2億円近い利益を手にして、コインを振るだけで不妊の夫婦に子供が出来て・・。
 こんなイージーな人生は、もしも私が第三者なら嫉妬しそうです(笑)。
 次は、反発をする人の現状が、たぶん良くない状況なのです。自分はこんなに苦労しているのにモリケンは何だ・・・と。
 次は、今まで「蓄積してきた苦労」が、バカみたいにパーになるからだと思います。だってそうでしょ。その人たちは未来のために(あるいは魂の格を上げるため)わざわざ苦労を回避しないでやってきたからです。
 次は、ファックスを送ってきたような人ではないですが、「内面は原因」だと言い続けてきた人です。いわゆる「生き方を教える先生たち」です。
 何十年も言い続けてきて、方向転換が出来なくなってしまった人達です。
「こだわらない」とかいいながら、自説にこだわり続ける人達です。
 この手の人は、単に自説を変えるだけでは済みません。「自分を手本にしなさい」と言ってきたので、方向転換そのものが自己否定に当たるからです。だから変更不能なのです。そして私ヘ反発を強めます。

 何と言っても最大の反発は「おまえのやっていることは世の中を悪くする」ということです。
 そりゃあそうです。「自分に責任は無い」「反省するな」「勝手にしやがれ」と言っているのですから・・・(笑)
 内面が原因ではなく、いくら善行を積んでも魂の格が上がらないとすれば、人間グレるしかありません(笑)。
 もしも「私は結果」が社会に浸透すれば、司法制度も変わるでしょう。
 世の中で悪い事をした人も、みんな無実になります。それどころか被害者が加害者となりそうです(笑)。だって犯人の「外側」にいたのは、被害者なのですから・・。
 また、人の上に立ち人を先導する立場の人が、私の考えを受け入れるでしょうか・・。
 それは万が一にも無いです。彼らは大義名分が欲しいからです。「世の中を良くする」・・という。
 政治家の中で「世の中など知った事ではない」と言う人はいません。「みなさんのために働いているのです」と言います。
 セミナーの講師もそうです。「世の中など知った事ではない」とは言いません。「自分を変えて、世の中を良くしよう」と言います。
 私の一大仮説である「内面は原因ではない」というのは、ちょっと考えるに、世の中を悪くするのです。
 これも、私の調査に反発を感じる動機の一つだと思います。
調査への反発は、問いが問題

 なぜ調査への反発が起こるかといえば、問いが違うからだと思います。
 いきなり話は飛びますが、私がセックスの仕方を知ったのは「HOW TO SEX」という本でした(笑)。
 しかしその本には、方法しか書いてありません(笑)。「なぜそんなことをするか」というような時空の謎に関係することには迫っていません(笑)。
(たぶん時空の謎系に迫ると、興奮も収まり、萎えてしまうからなのでしょう(笑))。
 調査への反発を感じる多くの人は、「HOW TO GET 魂の格」という問いなのだと思います。もしくは「HOW TO GET 良い世の中」です。
 いえ、やはり正直に書かせてもらいます。彼らはそんなこと、マジで考えてはいないような気がします。人の前でそういう振りをしているだけだと思います。
 なぜかと言えば、普段は「無意識」に従い、反射的に行動しているだけだからです。
 朝、渋滞する道(苦労)をわざわざ選びません(笑)。お昼に自分が不得意の食事(試練)を、わざわざ選びません(笑)。本当は苦労や試練など、避けたいのです。
 でもなぜか彼らには、苦労や試練が降ってきてしまうのです(笑)。

 ところで、私は思います。
 本当に魂の格を上げたいのなら、私の調査にも興味を示すはずです。
 本当に良い世の中にしたいのなら、私の調査にも興味を示すはずです。
 全く矛盾するデータが出てしまっているからです。
 重大問題のはずです。反発どころの話ではありません。
「人としての領域を超えてはならない」などと言っている場合ではありません。
 だから、問いは重要です。
 問いとは・・上位の言葉を使えば、生き方そのものだと思います。
 私は彼らの問いに「WHY(なぜ)」を感じることが出来ません。「HOW」しか感じません。
 でも彼らの問いの中に「WHY」が出た瞬間、「魂の格」も「良い世の中」も吹き飛ぶような気がします。だってそれどころの話ではないからです。
 だから、やはり「生き方」が問題だと思います。でも生き方は結果です。問い・・の。
 だから彼らの「生き方」が変わることはありません。
どっちつかずで、両方アリ

「内面は原因ではない」と相手に言ったとき意外に説得力が無いのは(笑)、相手は次のように言うからだと思います。
「そりゃあ内面は全ての原因ではないですよ・・。生まれた場所や育った環境に影響されるのが当たり前だからですよ。でもいくらそれに影響されるからと言って、外側が全ての原因だと言い切るのは行き過ぎでしょう?」
 世の中の大半の人は、こう考えています。
 日本では占い師だって同様です。占星術をやっているくせに「あなたの生き方が・・」とか言い始めます。 
 実を言えば、私だって同様でした。人のことは言えません・・。
 フリーダムという言葉を初めて日本に持ってきて「自由」と訳した福沢諭吉とて同様でした。「自由」は「自分に理由がある」と書きますから・・。 
「どっちつかずで、両方アリ」・・この考え方は、私がソッチ系の講師なら、こんなに便利な概念はありません。時と場合において、適当に使い分け出来るからです。

 しかし10年ほど前は、そうではありませんでした。
「全ては自分が作り出している」という考え方を持つ講師が多かったと思います。
 この概念によれば、この世は「自分」が全て作りだし、「自分」が変わることによってしか、環境も変わらない・・と。
 自分の波動が周りを引き寄せている・・と言う人もいました。
 病気になるのは全てその人の生き方が原因だ・・と言う人もいました。
 しかしなぜか、次第に減ってきたのです。それは世紀末を境だと思います。あの時期に、「自分だけが原因」が最高潮に達していました。
 しかし世紀末では何も起きず(笑)、今は中庸派が主流となりました。
 精神的な世界にも、ちゃんと流行があるのです(笑)。
「どっちつかずで、両方アリ」が今の流行です。
 だとすれば、問いはHOWしか無いと思いませんか?
 だってどっちつかずだと、根本原理に突っ込む気力が無くなりますから(笑)。
 それに対して「自分」にとどめを刺そうとしているのが私の仮説・・すなわち「私は結果」だと思います。 
 たとえ病気になったとしても、自分の原因はゼロだ・・と。
問いの方向性が変わる

「あなたが全てを作り出している」という趣旨の講演会を、テープで聴いたことがありました。最後に質疑応答がありました。主婦が質問しました。
主婦「夫が地方に転勤することになりました。私たち家族もついて行かなければなりません。これも『私』が作り出した結果なのでしょうか?」
講師「そうです。」
主婦「でも転勤を言われたのは夫であり、私ではありません。それがなぜ『私』が作り出した結果なのでしょうか・・」
講師「全てはあなたが作り出しているからです。」
主婦「でも・・私が夫の会社にどうしろと言うのですか・・。(しばし沈黙)・・。とにかく私がすべてを作り出しているのですね。」
講師「そうです。」
主婦「わかりました・・・」
講師「次の質問をどうぞ。」

 ところで私の仮説によれば、この議論は全く逆転します。
『私』は何も作り出せず、『私』は環境から作り出されている・・と。
「私」が全てを作り出しているとしたとき、問いが向かう先は「私」しかありません。「私」の内部に全ての原因があるからです。
 しかし「私」は環境から作り出されているとすれば、問いが向かう先は環境の側です。
 長いこと「自分を見つめろ」と言われてきましたが、逆転しました。見つめるべきは、環境の方なのです。
 問いの方向性が変わるということは、結構重要なポイントです。内面から外面に向かうからです。内部との対話から、外部との対話に変わります。
 そして夫の転勤が妻が「作り出した」ものでもなく、夫が「作り出した」ものでもなく、会社が「作り出した」ものでもないとすれば・・・ここで初めて時空との対話が始まるような気がします。
 そして、原因が自分以外の全てだとすれば・・・。
 本当にこの仮説は、飛んでいると思います(自分で言うな(笑))。
ストライクゾーンを外す

 昨日は以下のフレーズで終わりました。
『夫の転勤が妻が「作り出した」ものでもなく、夫が「作り出した」ものでもなく、会社が「作り出した」ものでもないとすれば・・・ここで初めて時空との対話が始まるような気がします。』
 さて、ここで発生する問いは、抽象的にならざるを得ないと思います。例えば・・
「『私』が何も作り出していないとすれば、『私』って誰?」
 この問いは、齋藤氏が言うところのストライクゾーンを完璧に外しています。
 でも逆に言えば、下位の問いとは、ストライクゾーンを外すところから始まる・・とも言えます。なぜならストライクゾーンは「HOW」であり、外れたゾーンが「WHY」だと思うからです。
「HOW」はゴールに向かってどんどん突き進みます。「WHY」はスタートラインにどんどん戻ります。
 だとすれば、下位の問いがメインである講演会の第二部では、ストライクゾーンの問いの応酬などあり得ないのではないでしょうか・・。
 私自身、問いと言えば「WHY」を持っている傾向が強いと思います。何が起こっても「WHY」を手放したくないと思っています。
 するとどうなるかと言えば、意外にも「HOW的な問い」すらも解決する現象が起こったりします。
 そして「WHY」の問いを持っていると、あらゆるものが答えと化します。これは「HOW」の問いでは起こらない現象です。

 一昨日書いた以下の会話は、「HOW」の代表例です。
主婦「夫が地方に転勤することになりました。私たち家族もついて行かなければなりません。これも『私』が作り出した結果なのでしょうか?」
講師「そうです。」
 この会話からは、下位の問いに関する何の発展性も得られないと思います。
 しかし問いは「ストライクゾーン」に入っています。
 なぜなら、具体的でありかつ、そこにいた聴衆も聞きたい事項だと思うからです。
 でもストライクゾーンにある限り、ゴールに向かう思考パターンから抜けることはありません。
 ということは、やはり「外す」しかないのです。
問いの相手が人間ではない

 通常、問いの相手は人間です(笑)。
 しかしトラさんの世界では、バッタや雷雨が問いの相手になってしまいました。だって人間以外の側からどんどん答えが来るからです。
 このことはトラさんの弟子ですら、信じてもらうのに時間がかかりました。
「バッタが飛んだ軌跡が明日の株価??そんなバカな」
 コインを振るという行為も同様です。
 六爻占術に出会ったとき最も高い難関は、この「コインを振る」という行為でした(笑)。あまりにも非科学的で、私にも相当の抵抗がありました(笑)。
 その理由の一つが、「問う先」だと思います。
 コインを振って問う先は、いったい誰なのでしょうか?
 魂の「レベル」や「格」にこだわる人は、自分に起こった出来事を「自分を導いてくれているためにあるのだ」と解釈するようです。
 でもこれは、基本的に、問いと答えでの関係ではありません。親が子供を導くように、一方通行で勝手にされているだけです。
 誰が導くのでしょうか・・たぶん「神に似た存在」です。
 この視点からすれば、コインを振るという行為は神に訊いているわけなのです。

 神に問いかけてデジタルな答えを得ることなど、私が行った大学では考えられませんでした。神は祈る対象でしかなかったからです。
 イエスですら、最後は嘆きます。「神よ、なぜ我を見捨てたもうや・・」
 そして、クリスチャンだった遠藤周作は「沈黙」という小説の中で、神はなぜ黙っているのかということを書き綴ります。
 六爻占術のファックスDMを送ると、今でもクリスチャンから次の反論が来ます。「神を冒涜している」・・と。
 そうなのです。我々は、まるで相手が人間のように問いかけるようになったのです。
 この変遷に関して、我々はまだ入り口に立っただけです。
 問いへの答えが来ることが「当然」のように記述される昨今ですが、ゴールに走り出してしまってはいけません。それはすぐに「HOW」に変貌します。
 常にスタートラインに戻り、「WHY」という問いを持つべきです。
原因と結果の交錯・・y=f(x)

 y=f(x)という式があったとします。fは株価を示す式で、xは時間です。
 ここにx=「明日」と入れて答えを待ったら、バッタが飛んできました(笑)。
 ボールを投げたとき、それが2秒後にどこを飛んでいるかは、物理の運動方程式を使えば出てきます。それと同じことが株価の世界であったのです。
 パフォーマンス講演会で、神はネットワークだと言いました。神は別途に存在しているわけではないと思うからです。
 窓を開けて星を仰ぎながら、お祈りをする対象としての神様ではないのです。
 しかし神と言えば擬人化する傾向にあります。「神は人間を自分に似せて作った」などとも言うからです。証拠も無しに、よくこんなことが言えると思います。
 私の神の「性質」の一つは「方程式」です。変数に数値を代入すれば答えてくれるような・・です。
 こういう可能性だって捨て切れません。だと言って、これが真理とは限りません。
 でも可能性としてあるとすれば、考えてみるのも面白いです。
 問いは、数値を代入すること・・そして答えとしてバッタさんが飛んでくる・・(笑)
 魂の格に、関係しそうもありません(笑)。

 y=f(x)
 この式が意味するものの一つに、原因と結果という概念があります。それは入力と出力という言葉にも言い換えられます。
 この式では、原因が「x」で、結果が「y」です。入力が「x」で、出力が「y」だからです。
 でも何か、おかしくないでしょうか・・。
 そうです。「私は結果」という可能性の方が大だとすれば、「x」という原因になれるのは変です。私たち自身が「y」という結果の世界を生きているはずだからです。
 このジレンマが、今いる私達の最大の問題と言っても差し支えありません。
「私は誰」という問いから来る「私」とは、原因なのか結果なのか・・。
センサーフィードバック

 昨日は次のフレーズで終わりました。
『そうです。「私は結果」という可能性の方が大だとすれば、xという原因になれるのは変です。私たち自身がyという結果の世界を生きているはずだからです。このジレンマが、今いる私たちの最大の問題と言っても差し支えありません。』
 原因と結果が交錯するような現象は無いかと考えてみました。
 エアコンがそれだと思いました。エアコンにはセンサーが付いています。
 暖房という機能から考えれば、部屋の温度を上げる「原因」は、エアコンの側にあります。部屋は「結果」になります。
 しかし部屋にはセンサーが付いていて、暖かくなりすぎるとエアコンの出力を小さくします。これは部屋の側が「原因」となるわけです。
 言い換えれば「フィードバック」の概念です。
 時空と私達の関係も、同じだという可能性がありそうです。
 時空から私達に向けて沢山のもの(情報)が来ているのだと思いますが(それが「場」かも知れませんが)、それを受信しっぱなしなのではなく、まるでセンサーのように察知して、フィードバックを返しているのかも知れません。
 この「フィードバック」が「問い」だという可能性も高いと思います。
地球系大気における植物の役割

 運命は決まっているようです。
 その原理を知ろうとするとき、この「センサーフィードバック」は、波動のグラフと同じくらい「効く」と思います。
 そしてセンサーフィードバックだとしたら、次の仮説が生きてきます。
「結果が原因を変える」
 部屋に置かれたセンサーは、結果を測定しています。そして温度が高くなりすぎるとエアコンに向かって命令します。「もう、やめろ」・・と。
 エアコンは部屋の温度を「支配」するはずでした。しかし以上から言えば、エアコンがセンサーに「支配」されていると言えそうです。

 地球上では今、二酸化炭素が増えて温暖化現象が起こっています。人間が諸悪の「原因」だと言って、エコロジーを訴える団体があります。でもどれほどの効果があるでしょうか・・。
 衛星から地球を撮った写真を年代順に並べて観察すると、アマゾンのジャングル地帯などの木が、以前よりも沢山生い茂っているそうです。二酸化炭素が増えて、木々が喜んでいるのです。木々にとっては二酸化炭素が食料なのですから・・。
 太古の昔、大気は窒素と二酸化炭素ばかりでした。動物はまだ陸に上がれませんでした。
 植物が最初に陸に上がりました。そして光合成を繰り返して酸素ができ、動物が陸に上がりました。この地球で大気の主導権を取っているのは植物だと思います。
 それが今、再び動き出したのです。これも一つのセンサーフィードバックだと思います。
 地球上の動植物は、太陽や水の「結果」だと思ってきました。「私達は生かされている」・・とも言い換えられました。
 しかし生かしているのは、植物をも含めた我々側かも知れません。
 人間だって「悪玉」だけではなさそうです。だって人間が二酸化炭素を排出しなければ、植物だって息絶えてしまうからです。

 結果と原因が交錯する世界・・
 運命の決定を考察するとき、センサーフィードバックという概念は、意外にイケるのではないかと思い始めました。
目隠しで食べさせ合う



 フィードバックとは、一対一の関係だけではないと思いました。
 人間が二酸化炭素(CO2)を放出すると木々は喜びます。エサが増えるから(笑)。モリモリ取り入れて、酸素を「ペッ」と吐き出します(笑)。
 すると地球の温度は適正化され、地球も人間も喜びます。
 そして人間は反省せずに、また酸素を二酸化炭素に変えます(笑)。
 講演会で目隠ししながら食べさせ合っているスライドがありました。あれはまさに、第三者が介入するからだと思います。



 この考え方の延長に五行があるのではないかと思いました。
いよいよ五行に切り込む





   これは有名な、五行の生剋関係の図です。
 これと「目隠しをして、長い箸で食べさせ合う図」は、大いに関係がありそうです。
 五行は何故「五つ」なのか、その理由の一つが「間接的なフィードバック」だということだと思いました。
 数が二つ、すなわち一対一だと、フィードバックは直接的になります。
 三つだと、図に書けば分かりますが、生じる関係のみなら間接性は維持できますが、剋が入ると「生じるものから剋される」という関係が発生して、全てを「間接的」で処理できなくなくなります。四つでも同様です。
 間接性が維持できるのは、五個しかないのです。
 つまり世界は、「間接的にフィードバック」させようという関係性(笑)があるようです。
 エアコンの例では、本体とセンサーの一対一でした。
 環境問題になって初めて「間接的」に発展できました。
 環境問題さん、ありがとう。
書き込み期間:2006/02/15〜2006/03/13