テーマ:「場と人間」
要旨:
空港のチェックインカウンターで、チケットが切られた瞬間列んでいない人達が入り口に押し寄せ、それに続いて列んでいたアメリカ人達が列を崩して入り口に殺到した、という光景を見ました。この一瞬の出来事から、「場が変われば人間は変わる」というインスピレーションを得ました。
自国ではルールを守り紳士的に振る舞うアメリカ人も、場が変わると列を崩して殺到する行動に出るのです。人は今いる場のルールに従って動きます。
場の状態が上がれば、人間は善に生きるようになって良い世の中が来るのでしょうか。
しかし良い場の中にいて、自分が良い人間であることに何の疑問もなく生きるのは偽善であり、可能性を狭められていると言えないでしょうか。
私が触れた道教と密教の教えは、善と悪がなければならない、争いをしないと涅槃に行けないというものでした。これは善も悪も同等に見る思想です。
悟りとは、善も悪も同等で、あらゆる存在に価値の差はないと知ることではないかと思います。それは聖職者と殺人者を同等に見られるということでもあります。
輪廻転生の目的の一つは、場を変えることにあると考えられます。一つの場しか経験できないと、善と悪の両方を見るチャンスが減るからです。
何をしてもしなくても同等なら、私達の生きる価値とは何でしょうか。
相対的には何をしても特別な価値はないとも言えるのですが、人が何をしてもどんな運命を背負っていても、そこには絶対的な価値があると私は思います。
場によって変わってしまう人間は弱くて、場が変わっても自分を貫く人間は強いと、多くの人が思っているのではないでしょうか。
例えば、アウシュビッツ収容所の過酷な状況の中で自分の食料を分け与え、他人の身代わりになって自分の命を差し出したコルベ神父のような人は、真の善人だと思うのではないでしょうか。
場には、周囲の環境による客観的な場と、個人的な信念や感情による主観的な場とがあります。
コルベ神父の場合は、神の存在と、いかなる時にも奉仕行為をするという信念が主観的な場となっていました。場によって変わらなかったのではなく、主観的な場に従っていたということなのです。
しかし、そうして自分の中に常に変わらないものを持つことに価値があるでしょうか。私はそうは思いません。
場によって変化しない自分を作ってしまったら、環境が変わっても生まれ変わっても違う場を経験することが出来なくなり、人生を味わうことが出来なくなってしまうからです。
私は、全てが趣味だと思えば同等ということが分かり易いと思っています。
私がHPに書き込みをするのも講演をするのも趣味です。不思議研究も仕事も趣味でやっています。
この人生を選んで地球に生まれてきたのも趣味なのです。さらに言えば、コルベ神父の奉仕行為も趣味なのです。
しかし、趣味だからランクが低いとは思いません。むしろその逆です。
趣味だからこそ、真剣で手を抜かないのです。そして趣味でやることは楽しみそのもので、そこには嫉妬も見返りの期待もなく、これほど強いものはありません。しかも、誰のどんな趣味も、高くも低くも評価できません。
悟りは完全な人間にしか降りてこないと思っていましたが、不完全な人間にも起こり得るのではないかと思うようになりました。だって、完全な人間も不完全な人間も同等なのですから。
目次
○場と人間1(2000/10/23)
○場と人間2(2000/10/24)
○場と人間3(2000/10/26)
○場と人間4(2000/10/26)
○場と人間5(2000/10/28)
○場と人間6(2000/10/28)
○「場と人間」再開のために(2000/10/31)
場と人間1(2000/10/23)

 この気付きはひょっとすると、悟りというものがどういうものであるかを知るきっかけになるかも知れません。まず問題提起をしましょう。 
[質問1]一番最初に書いたアメリカ人の行動の部分を読んで、もしもあなたがアメリカ人だったとしたら、もともと列んでいなくて殺到した人達をどう評価しますか?
 たぶんあまり良い評価はしないのではないでしょうか?
 だってみんな列んでいるのに、列に割り込む人がいたら、いい気持ちはしないでしょう?
状況変化:あなたがアメリカに行ったとします。そこで銀行のキャッシュコーナーのような所に行きました。列がありました。あなたは列びますか?
 当然列びますよね・・。だって列ばなければ非難されます。状況は日本だって同じでしょう。
 次にあなたが中国に来て、例のアメリカ人の列の後ろに列んだとします。アメリカ人の列が崩れ前に殺到したとき、あなたは列んだままですか?
 たぶんほぼ99%の人は前に殺到するでしょう。
 アメリカに行ったあなたをテレビカメラが写していて、それを客観的に見られたとすれば、「あなたは成長したね」と言われるかも知れません。
 中国に行ったあなたを見ると、「あなたの成長もこの程度ですか?」と言われそうです。
[質問2]一番最初に書いたアメリカ人の行動の部分を読んで、もしもあなたがアメリカ人だったとしたら、もともと列んでいなくて殺到した人達をどう評価しますか?
 質問2は質問1と同じです。でも、もしかすると評価は変わったと思います。さほど悪くなくなったのではないでしょうか?
 成長度数というものがあるとすれば、それは場によって変わります。
 これはあのアメリカ人とて同じです。
 しかし彼らは「オーマイゴッド」と言い、明らかに嫌悪の顔をしました。
 でも彼がもし単身で中国に派遣されたら、列に列んでなどいられないと思います。
 西洋人は東洋人を野蛮だと思っていると言われます。殺到する東洋人たちを見て、きっと野蛮だと思ったかも知れません。
 
 さて本論に入ります。
「悟りとは、その時、列んで列んでいる人も列んでいない人も、同等だと見ること」にあるような気がするのです。
 人が成長したかどうかは、列ぶ列ばないなどということでは判断できないのです。
 だって人の行動は場によって変わるのですから・・。変わらなかったら、多分生きていけないでしょう。
 同等ですから、殺到する人に哀れみの気持ちさえも持たないのです。哀れみの気持ちを持てば、それは同等ではありません(可哀相だと思う気持ちは、彼らを下に見ています)。
 人の成長は、外に出た行動では判断できないのです。成長とは表面に出ない、とても深い内部の出来事なのです(これに関しては別途に議論したいと思います)。
 さて、悟った人は列から殺到しないでしょうか?
私はすると思います。悟った人ほどすると思います。
 だって列に列ぶことは、列ばないことと同等なのですから・・・。
 彼は、自己の内部における悪という存在を、善と同等なものとして見られるようになっているのですから・・。
 場と人間・・このテーマは相当深いと思います。
 私達が輪廻転生をするのは、場を変えることが目的です。
 だって魂は同じなのですから、別の経験をするためには、場を変えるしかないのです。それは肉体という場も含めての話です。
「今回は日本に生まれてそこの場で経験しよう」などと思ったのでしょう。
 しかし、悟った人は輪廻をしないと言われます。何故でしょうか?
 それはおそらく、自己の内部の善と悪を全て見ることが出来たからではないでしょうか・・。
 自分が列ぶのは、単に日本やアメリカに生まれたからだということを知っているのです。それは場が原因だということを知っているのです。
 同じ魂でも、中国に生まれれば列ばないということを知っているのです。それらは成長とは無関係だということを知っているのです。
 つまり知ってしまえば、わざわざ日本やアメリカや中国に「生まれてみる」必要がなくなってしまったのです。
 かく言う私も、想像で書いているだけです。私が悟ったなどと言うわけではありません。
 自分の内部の善と悪をすべて知ったとしても、私は「これがすべてか?」などという問いを発すると思うからです。
 ただ、悟りというのがこの仮説だとすれば、場はどこでも良いのです。場というものは、魂の本質的な成長、あるいは幸せとは関係ないのです。
 ところが場が一つしかないとすると、悟るのは難しいと思います。
 例えば前述のアメリカ人は惜しいことをしました。
「オーマイゴッド」と言う言葉を、走り出す自分にも向けなければいけなかったのです。
 アメリカしか国が無ければ、彼は走り出す自分を経験することはありませんでした。
 男女差別、人種差別、色々な不平等が充満しているこの世界ですが、均一化すると、対極の存在が同等だということに気付くチャンスが減ります。
 密教と道教には、善と悪を対等に考えるようなところがあります。やはり悟りというのは、その辺にあるような気がします。
 
 場と人間についての書き込みを長々としましたが、ここまで浮かんだのはアメリカ人が殺到する一瞬でした。長々と書いたのは、その一瞬を文字にしただけです。
 ですので論理的な整合性はありません。
 さて今回の旅ですが、「ちょっと不思議で面白い人はいないか・・」という人を中国全土から募集して、それを旅しながら会って経験しています。
 私の趣味は協力者に伝えてあります。私の趣味とは「私とは誰か?」ということを考える趣味です(笑)。ですので宗教関係も入ってきています。
 しかし私は今まで何度も中国に来ました。なのに密教というファクターに出会ったのは今回が初めてなのです。
 協力者達も、当人達に会うまでは密教だということを知りませんでした。
 ですが一度密教に出会うと、次から次へと芋づる式に出てきます。
 精神世界の人なら、「そういう時期に当たっている」と言うかも知れません。
 アメリカ人の列が崩れた一瞬ですが、私はおそらく密教や道教に接していなければ、あの気付きは無かったと思います。
 だって列に列ばずに殺到する方が悪いに決まっていますから・・。
 ルール化が進んだ国は、果たして「進んでいる」のでしょうか?それとも混沌の方が進んでいるのでしょうか?
 宇宙の初めは混沌だったと言われています。では、私たちはどこに向かっているのでしょうか・・・。

場と人間2(2000/10/24)

 前回の「場と人間シリーズ」では、「悟りとは、その時、列んでいる人も列んでいない人も、同等だと見ることにあるような気がするのです」と書きました。
 密教では争いをする人の方が(実際の壁画では殺人になっているのですが、これはあまりに誤解を生むので、私が勝手に「争い」に書き換えています)極楽に行けるとされています。
 何故だということが、やっと閃きました。率先して良いことをする人は、「良いことは悪いことよりも価値がある」と思っているのです。
 みなさんの中で、そう思っている人はいませんか?きっと多くの人がそうだと思います。
 でも良いことは「良い」という価値観を持っているから、密教では娯楽失格になるのです。
 それは列を崩した人達を考えれば分かります。
 あなたが良いことをするのは、往々にして場の価値観に従っている場合が多いのです。
 それを「良いことをした」などという言い訳をしているのです。
 さて、全ての価値は同等であるとしたとき、私達自身の存在価値はあるのでしょうか・・。
 何故こんな問いをしたかと言えば、何をしても同じなら、何もしなくても良いとも言えるからです。
「生きる価値は無い」と言ったのは、EOという人でした(確か関連HPもあります)。
 でも、価値は本当に無いのでしょうか?
 
 私はある密教寺で質問しました。
「宇宙は誰が作ったのでしょうか? キリスト教なら神が作ったと答えてくれます。しかし仏教は神がいません。どうか教えて下さい。」
 答えが返ってきました。
「仏教では、宇宙を始まりも終わりもないと考えています。循環をしています。それが答です。」
 初めから存在していたのです。これは哲学的に「だから存在していない」などとこじつけることも出来ますが、私は存在している方を支持したいです。
 とすると、私達の行動は全て価値があることになるのです。相対的な価値は無いのですが、絶対的な価値はあるのではないかと思います。これは経験的にそう考えるとしか、言いようがありません。
 相対的な価値というものは、色眼鏡です。それを外さないと、中身が見えてきません。
 これはちょうど「いのちの世界」の図に似ています。信念体系領域が邪魔をして、フォーカス35の光がそのまま届かないのと同じです。
 あなたが何をしようと、そこには価値はありません(相対的な意味です)。
 あなたが何をしようと、そこには価値はあります(絶対的な意味です)。 
 ですので、あなたが良いことをしても、それは良いことではありません。
 そして運命がどう転ぼうと、そこには絶対的な価値があると思います。
 私達は数多くの困難を背負っています。それは他人と比べられるものではありません。あなたの苦や困難は、あなただけが分かるものです。
 しかしそこにはすごい価値があるのです。
 列に並ぶ者も列に並ばない者も、表面的な善悪は場によって決定されていますが、人間の本質は絶対的な価値を持つのです。
 浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えるだけで、殺人鬼でさえ極楽に行けると言います。
 それは人間の魂というものに、絶対的な価値を置いているからこそ言えることなのです。
 みなさんの中で一度くらい死のうとした人はいるのではないでしょうか・・。
 それでもその人は、絶対的な価値を持っているのです。
 今どんな悩み事にぶつかっている人も、絶対的な価値を持っているのです。
 どんな失敗も、成功と同じくらいの価値を持つのです。
 どんなに不幸でも、それはかけがえのない価値を持つのです。
 あと二時間で私の誕生日が来ます。この歳になって初めて仏教の本質に触れ始めたような気がします。
 そして何だか、列に割って入る人も、少しだけ愛おしく思えました(笑)。

場と人間3(2000/10/26)

 前回の「場と人間シリーズ」では、「悟りとは、その時、列んでいる人も列んでいない人も、同等だと見ることにあるような気がするのです」と書きました。
 密教では争いをする人の方が(実際の壁画では殺人になっているのですが、これはあまりに誤解を生むので、私が勝手に「争い」に書き換えています)極楽に行けるとされています。
 何故だということが、やっと閃きました。率先して良いことをする人は、「良いことは悪いことよりも価値がある」と思っているのです。
 みなさんの中で、そう思っている人はいませんか?きっと多くの人がそうだと思います。
 でも良いことは「良い」という価値観を持っているから、密教では娯楽失格になるのです。
 それは列を崩した人達を考えれば分かります。
 あなたが良いことをするのは、往々にして場の価値観に従っている場合が多いのです。
 それを「良いことをした」などという言い訳をしているのです。
 さて、全ての価値は同等であるとしたとき、私達自身の存在価値はあるのでしょうか・・。
 何故こんな問いをしたかと言えば、何をしても同じなら、何もしなくても良いとも言えるからです。
「生きる価値は無い」と言ったのは、EOという人でした(確か関連HPもあります)。
 でも、価値は本当に無いのでしょうか?
 
 私はある密教寺で質問しました。
「宇宙は誰が作ったのでしょうか? キリスト教なら神が作ったと答えてくれます。しかし仏教は神がいません。どうか教えて下さい。」
 答えが返ってきました。
「仏教では、宇宙を始まりも終わりもないと考えています。循環をしています。それが答です。」
 初めから存在していたのです。これは哲学的に「だから存在していない」などとこじつけることも出来ますが、私は存在している方を支持したいです。
 とすると、私達の行動は全て価値があることになるのです。相対的な価値は無いのですが、絶対的な価値はあるのではないかと思います。これは経験的にそう考えるとしか、言いようがありません。
 相対的な価値というものは、色眼鏡です。それを外さないと、中身が見えてきません。
 これはちょうど「いのちの世界」の図に似ています。信念体系領域が邪魔をして、フォーカス35の光がそのまま届かないのと同じです。
 あなたが何をしようと、そこには価値はありません(相対的な意味です)。
 あなたが何をしようと、そこには価値はあります(絶対的な意味です)。 
 ですので、あなたが良いことをしても、それは良いことではありません。
 そして運命がどう転ぼうと、そこには絶対的な価値があると思います。
 私達は数多くの困難を背負っています。それは他人と比べられるものではありません。あなたの苦や困難は、あなただけが分かるものです。
 しかしそこにはすごい価値があるのです。
 列に並ぶ者も列に並ばない者も、表面的な善悪は場によって決定されていますが、人間の本質は絶対的な価値を持つのです。
 浄土宗は南無阿弥陀仏と唱えるだけで、殺人鬼でさえ極楽に行けると言います。
 それは人間の魂というものに、絶対的な価値を置いているからこそ言えることなのです。
 みなさんの中で一度くらい死のうとした人はいるのではないでしょうか・・。
 それでもその人は、絶対的な価値を持っているのです。
 今どんな悩み事にぶつかっている人も、絶対的な価値を持っているのです。
 どんな失敗も、成功と同じくらいの価値を持つのです。
 どんなに不幸でも、それはかけがえのない価値を持つのです。
 あと二時間で私の誕生日が来ます。この歳になって初めて仏教の本質に触れ始めたような気がします。
 そして何だか、列に割って入る人も、少しだけ愛おしく思えました(笑)。

場と人間4(2000/10/26)

 今までのは、飛行場での一瞬の閃きを文章にしました。そういうのって私にとって意外に真理を突いている時が多いのです。
 でもこれからは思考の末に生み出したものです。ですのでゴダコダ書きます(笑)。
 では続きを始めましょう。人は場に合わせると書きました。
 さて、多くの人が誤解している事があると思います。
 場に合わせる人間は自己中心的な人が多く、生き方としては弱いというものです。
 逆に場が変わっても自分を変える必要のない人間は、何に対しても恐れず、自分自身を貫ける人間、つまり強いというものです。
 こういう誤解があるのではないかと思うのです。
 私は全て対等だと書きました。だとすれば、両者は対等でなければならないはずです。
 場とは何でしょうか?場とは客観的に存在するものでしょうか?
 違うと思います。人によって場は違うのです。
 例えばアメリカ人の列の中にあなたがいたとして、隣には恋い焦がれている女性がいたとします。
 列が崩れる瞬間にあなたは彼女から「列を崩すのは良くないわ、あなた、止めて。」
 こう言われたら、ひょっとするとカッコ付けて「おいみんな、彼らは彼らで先に行かせればいいじゃないか。ここは我々の意地を見せようではないか」と叫ぶかも知れません。
 あなたの場と、みんなの場は違うのです。
 
 さて、ドイツの強制収容所ではもっと悲惨な状況がありました。
 アウシュビッツ強制収容所と、コルベ神父の話です。
 アウシュビッツでは、大勢のユダヤ人達が強制収容され、強制労働をさせて働けなくなった人達は虐殺されました。
 一人が支給される食糧は、一日にたったのパン一個です。
 囚人の中には弱っている人や病気の人もいましたが、そんな人に自分の食糧を分けてやる人などおらず、それどころか人の食糧を奪う囚人さえいました。そしてそれを責め咎める人もまた誰一人いません。
 無理もありません。この極限状態、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際の状況で、他人を思いやる余裕など、ないのが当たり前です。まさしく「場のルールに従った」というやつです。
 ところがそんな中で、コルベ神父だけは、病人に自分の食糧を分け与えるということをしていたといいます。
 極限の状況の中に入れられても、そうなる以前と全く変わらず奉仕行為を続けたと・・・。
 場が変わっても人間は変わらなかったという一例かも知れません。
 もう一つ、こんな出来事もあったと伝えられています。
 アウシュビッツでは、脱走を図った人は捕まって殺されるばかりか、本人とは関係ない他の囚人達10名が任意に選ばれ、見せしめに殺されることになっていました。
ある日脱走者が現れ、殺される為に任意に選ばれた10人のうち一人が、「女房と子供を残して死にたくない」と泣き叫びました。
 そこで神父は、「私が身代わりになりますからその替わりその人は助けてあげて下さい。自分は聖職者だから妻も子供もいません」と申し出て、身代わりとして殺されます。
 助けられた人は、後に収容所から囚人達が解放された後まで生き延びたといいます。
自分を犠牲にして死んだ人の一例です。
 
 さて、話を場の問題に戻しましょう。
 恋い焦がれている彼女の存在で、場は変わりました。コルベ神父の場合はどうでしょうか?
 コルベ神父には、神の存在があります。神の存在が彼の場を変えたのです。
 場とは、「その時の客観的な状況+主観的な状況」だと思います。
(もちろん純粋な客観状況などないのですが、それでも考えやすくするためにエイヤと客観という言葉を書きました。)
 最初に殺到した人の風景が客観的状況で、恋い焦がれている彼女の存在が主観的状況とでもしましょう。
 コルベ神父には神がいました。これは喩えは悪いですが、恋い焦がれている彼女が常にいる主観的状況なのです。
 彼女がいるから、神父は孤独ではありません。死さえも怖くないのです。
 日本でも踏み絵を踏まないで張り付けになる切支丹がいました。彼らはコルベ神父よりも、もっと状況は悪かったのです。踏み絵を踏まなくて、誰が助かるわけではありません。
 でも、彼らには「常に」神がいるのです。だから状況変化に対応せず、「常に」行動は決まっているのです。
 私達の場というものの中には、そういう「常に」変わらないものがあると思います。
 しかし、それが価値あるものだと思いますか?私は思いません。
 むしろ、悪いとさえ評価されても文句はないと思います。
 私は今中国に来ていますが、「中華料理は食べない」という信念を持っていたり、「中華は嫌いだ」という嗜好を持っていたとすれば、本当の中国を堪能することは出来ません。
 信念体系は、人生の味わいを薄くすると思います。
 場によって変化しない自分だとすれば、いったい何のために輪廻をしてこの世に誕生したのでしょうか?
 コルベ神父は今度輪廻して地球に降りてくるときは、元は神父であった記憶をリセットクリアーされなければならないと思います。
 でないと彼は、新しい場に過去の信念を持ち込むことになるからです。
 コルベ神父は変わらなかった(意志を貫いた)わけではありません。彼は変わることの出来ないほどのガチガチで硬い場を、自ら作ってしまっただけです。
 それに従っただけなのです。
 みなさん、環境が変わっても自分が変わらない人というのは、やはり評価が高いですか?
 遠藤周作氏の書く小説は、裏切り者をテーマにするのが多いです。ユダのような存在を描きます。
 信念を貫けなかった人間に、私達は私たち自身を投影します。
 しかし、信念を貫けないのはダメな人間であるということを教育されてきました。
 自分がコロコロ変わることに罪悪感がありました。
 でも遠藤氏の小説などを読むと、裏切る人間が最もすごい「生」を生きたような気がします。
 そして、裏切られる人間は裏切る人間を意外にも許すことで、彼と同じほどの「生」を生きているような気がします。
 小説を読んで主人公に共感するのは、私達がそれと同じ面を持っているからでしょう。
 映画を見て主人公の視点からドキドキ出来るのは、それと同じ面を持っているからでしょう。
 俳優か迫真の演技を出来るのは、それと同じ面を持っているからでしょう。
 新しい場に入ったのに古いままの自分では、つまらなくはないですか?
 変わらない人間=素晴らしい人間という図式は、もう捨てた方が良いと思うのです。  
 
 ここで終わると、いつもの古いパターンです(笑)。続けます。
 場とは、「その時の客観的な状況+主観的な状況」だと書きました。
 主観的な状況というヤツが、往々にして信念なのです。
 コルベ神父で言えば、「パンを分け与えなさい」と言ったキリストの言葉です。
 それらはどんどん大きくなります。大きくなり、客観的な状況が少しくらい変わっても、その人にとっての場は変わらないのと同じことになります。
 今日会ったオババに付いているマスターは、「ボクが生きていた時は、肉体の感覚(楽しい、辛い、美味しい、悲しい)を味わうために生きていた」と言っています。
 その人にとっての場が変わらないとすれば、人生を味わうことがどれほど出来るのでしょうか?
 主観的場は、できるだけ小さい方が良いというのが私の意見です。そうすれば、客観的場を堪能することが出来ます。
 場合に応じて良くも悪くもなったりして、いいではないでしょうか?
 良いことばかりすると極楽に行けないという浄土宗の考えは、そこにあるのではないでしょうか?
 客観的場は、逃げようにも逃げられません。しかし主観的場は、無くすことが出来ます。
 無くなれば、評価しようもありません。無いものは、無いのです。
 しかしその時、絶対的価値が出現しないとも限りません。
 
 以前、「会社は環境適応業であった方が良い」と書きました。
 それは臨機応変に変わらないと、生存の確率を減らすと思うのです。
 コルベ神父と私達は同等です。しかしそれは個人の問題です。
 会社は人がいます。社長がカッコ良く信念を貫いてばかりいてはいけません。
 コルベ神父とて、家族がいたら、愛する恋人がいたら、話は別でしょう。
 でも、一連の書き込みで私が言いたいのは、コルベ神父をこき下ろすことではありません。人は皆、同等ではないかということです。
 愛は状態だと書きました。私自身は、コルベ神父に別段、愛を感じません。
 愛は、もっと崇高なものだと思います(この意味は難しい)。
 パンを分け与えた神父と盗んだ人は、同等なのです。
 おそらく盗んだ人の魂がコルベ神父に入れば、やはり人に分け与える人になると思います。コルベ神父の魂が盗人に入れば、やはり盗むはずです。
 でなければ輪廻の「場を変える」という目的が果たせません。

場と人間5(2000/10/28)

  
 人間がすべて対等で、価値観も全て対等なら、どうして私はこういう意見を書き込んでいるのでしょうか?どうして講演会で、みんなの前で喋るのでしょうか?
 価値観もすべて対等なら、そんな事をする必要はないでしょう?
 それは私が趣味の発表をしているのです。価値観が同じだと人生さえも趣味になると思うのです。
 趣味には楽しむという以外の目的はありません。趣味と実益が一緒になっいる人は、結果として実益に繋がっているのです。決して実益が一番最初の目的ではないでしょう。
 趣味だからこそ、私は命を懸けて(笑)発表します。
 この人生を選んで地球に降りてきたのも、趣味なのです(笑)。趣味だからこそ、手を抜くことが出来ないのです。手を抜かずに他人と接するのです。
 趣味だとルールは出来ません。あったとしても、それは他人のルールではないでしょう。
 だって趣味とは、あくまでも個人的なものですから・・・。
 もしも趣味以外の何かだとすれば、そこには外からの壮大な目的というものが生まれそうです。
 でも、今地球全体はその方向に向かっているような気がします。個人のルールよりも、外からのルールを探そうとしています。
 そこに同調した存在達が、メッセージを送ります。彼ら存在たちは私たちに外からの目標を教えようとします。
 でも、私達は趣味で地球にいるのです。余計なお世話というものです。私達の趣味を邪魔しないで欲しいものです。
 私は趣味でバイクに乗り、趣味でペットを飼い、趣味でアマチュア無線をやり、趣味で不思議研究所をやっています。さらに趣味で仕事をしています。
 趣味でやっていると手を抜いていると思うでしょうか?仕事をバカにしていると思うでしょうか?
 でも、趣味ほど強いものはありません。それを楽しむためなら、三度の飯さえ抜けます。
 でも、同じ趣味の人のことは気になります。
 例えば格好いいバイクに乗っている人を見ると、早速その機種の性能やらを調べたりします。
 でもそこにはなぜか、嫉妬はありません。何故でしょうね・・・。
 さらに趣味をしている時に、見返りは全く期待しません。趣味を語る時は、目が輝きます。
 趣味で人を愛したらどんなに素晴らしいでしょうか・・・だって見返りは期待しそうもありませんから・・・。
 
 さて、趣味であることのマイナス点はあるのでしょうか?私は無いと思います。
 人は全て同等だというものの考え方は、趣味という視点からだと分かり易くはないでしょうか・・。
 コルベ神父は趣味でパンを与えたのです。人が趣味でやっている事は、高くも低くも評価できません。
 私が別の趣味の人に対して理解困難な時が多いようにです。私は趣味で蛇などを飼っている人の気持ちが、どうしても分かりません(笑)。
 輪廻をする際、「今度はこんな趣味を選んでみよう」と言って、地球に転生してくるのです。
 しかしこの「趣味」という言葉は、相当誤解を生むような気がします。趣味とは「遊び半分」というイメージも付きまとっているからです。
 私は昔アマチュア無線をしていると、親から「そんな趣味ばかりしていないで、勉強しろ」と言われたことがありました。期末テストの最中などです。
 趣味は、勉強や仕事よりも一段下というイメージが作られました。
「趣味は、やる事をやってからにしろ」とも言われました。
 私が社会に出てホッとしたのは、これを言われなくなったからです。独立しないと趣味は大手を振って出来ないのです。
 そういう気風があるので、「人生は趣味だ」などと言うと、「人生をなめんじゃねぇ」などと言われそうです。
「それは森田さんだから言えるのよ」などと言われそうです。
 苦労話をする人に「それは趣味でやっているんでしょ」などと言うと、怒られそうです。
 でも趣味のランクが低いと思っている人にとっては、人生は仕事なのでしょうか?
 前世のカルマを解消したりするための仕事なのでしょうか?幸せになるための仕事なのでしょうか?

場と人間6(2000/10/28)

今回の気付きは、私の中ではとても斬新でワクワクさせるものなのです。
 善も悪もない・・価値観は対等だ・・。
 こういう考え方はもともと精神世界にはあったと思います。
 でも言っている本人が最後には「愛こそすべてだ」などと言うので、とても白けたものです。
 神との対話という本もそうでした。神が善悪の基準を持ち出していました。
 しかし今改めてこの気付きに出会ってみると、とても奥が深いことを知ったのです。
価値というものが相対的なものだとすれば、我々は何をしても同等なのです。これ自体がすごい概念です。
 時空こそ、どこから来てどこに行こうとしているのでしょうか?
 相対的な意味からすれば、無から来て無に向かっているとしか言いようがないのです。
 しかしあらゆる事に、絶対的な価値があるのです。その価値は、他と比較にならないのです。
 悟りというのは、完全な人間になれなければ降りてこないと思っていました。
 しかし不完全な人間にも起こり得るのではないかと思うようになりました。
 なぜなら、完全な人間(いないと思うけど)と不完全な人間も、同等だからです。
 パンを与える人間も、パンを盗む人間も同等なのです。殺す人間も、殺される人間も同等なのです。
 罪であるかないかは、人間が相対的に作り出してしまいました。
 フォーカス23にいる浮かばれない霊達は、そういう人間達が作り出した価値観に縛られているのです。
 すべては同等であると思った時、彼らは上の世界に上がるのではないでしょうか?
「生きることより成長が大事でしょうか?」
これはFOWでも言いましたし、CGビデオでも言っています。
「生きること」・・それはやはり相対的ではないと思います。

「場と人間」再開のために(2000/10/31)

私達はコルベ神父と同等かということ・・私達は殺人者とも同等かということ・・
そして同等だとすれば、成長とは一体どういうことなのだということも知りたいのです。
こういう問題設定でもあります。「私達の中にコルベ神父も殺人者も存在しているのか?」
 つまり場によってそれは出てしまうかも知れないというのが私の問題提起でした。
しかし場に応じて変化しないようにするのが良いのでしょうか?という問題提起でもありました。
 みなさんのレスの中には、コルベ神父や殺人者を外部の視点から観察しているように感じられるのも多いからです。
 さらにその価値が同等だったら・・・・
 私の事を振り返って少し書きます。
 私が昔、会社を辞めたときのことは本にも書いています。理由もなく突然に辞表を出し、それを出して帰ってしまいました。
 一週間後に呼び出され(もうそれ以来、会社には行かなかったのです)「なんて常識の無いヤツだ」と怒られました。
 孫さん達を連れてある人を訪問し、その人が夕食をおごってくれていました。
 私はその人の前に一分たりとも居たくなくなり、「もう帰らせて下さい」と言ってしまいました。
するとその人は「あんたみたいな非常識な人間は初めてだ。日本語を知らないのですか? こちらがごちそうしているのに、帰らせて下さいとは何ですか?そんなに帰りたければ出て行きなさい」と怒られました。
 これは成長しているから起こるのでしょうか?それとも成長していないのでしょうか?
 私は他人の視点というのがほとんど欠如しています。人を裏切っても、自分は裏切りたくないと思います。
 こういうスタンスで生きていますので、次にどういう行動に出るか、全く保証は出来ません。こう考えていくと、あらゆることが同等だと思えてくるのです。
 成長すると、人は冷静になるのでしょうか?私は冷静になった人生なんて、送りたくありません。
 コルベ神父は、今度はパンを貰う側に転生して欲しいものです。仏陀も乞食をしましたし・・。