もりけん語録
テーマ:「LAST QUESTION(メインコーナー2004.12)」
書き込み期間:2004/11/30〜2004/12/31
要旨:
HPには時々、私を批判する書き込みが入ることがありますが、私はそれで反省して自分を変えることはありません。その理由の一つは、私がいつも欠点を認めなさいと言っていて自分の欠点も認めていること、もう一つは、「私は結果」であるなら欠点もまた結果にすぎないからです。
気に入らない人は容赦なく斬ります。自分も相手も変えようがないからです。欠点を直そうとするよりも、その欠点で快を感じ、欠点を背負ったまま刀を抜いた方が良いと思っています。
欠点を欠点と思わないということは、長所もまた同じです。個に固執しなければ、欠点を認めることも出来ます。それと同時に、際立っていた長所も消えていくはずです。
人は変われるものでしょうか。私も自分を変えようと思ったことがあります。それは、正直になろうとしたことです。しかしある時期に、人は変われないと悟って諦めました。
それでも私は、今でも嘘をつきたくないと思っています。特に時空と五次元の本質に対してです。不思議研究所を興したのも、自分に嘘をつきたくないためだったかも知れません。

『仕事の思想』という本に、「物わかりの良い人間になってはいけない」ということが書いてありました。
物わかりが良くないと言えば、このHPもそうです。手厳しい突っ込みも入れるし、軋轢も起こします。しかし人々がみな去っていって閑散とすることがありません。
もし器を大きくして多くの人を受け入れようというスタンスでやっていたら、逆に人は去っていく気がします。内心では何を考えているのか解らなくなってくるからです。
そうだとすると、正直さはやはり大事かも知れません。
私が体外離脱をして行ったフォーカス35は、全ての人達が解り合っている世界でした。では何故この世はそうではないのでしょうか。
あの世は「合」の世界で、この世は「冲」の世界だと言えます。この世では男と女に分かれて地域や言語の違いが生まれたのも、人々が互いにぶつかり合い、冲するためではないかと思います。

「ユーザの立場」という視点から、なぜ満足の多い人と不満の多い人がいるのかについて考えました。不思議研究所は、自分で満足を見出そうとしない客は切ります。おそらく、神のとっている方式もそうだと思います。
電圧測定器には、電圧の高さに応じてレンジを調整し、メーターの針を適切な位置に振れさせる機能があります。
満足を感じやすい人は、レンジ調整の上手な人だと言えます。と言っても人間側から調整できる範囲には限度があるので、人間側と時空側の両方で調整が可能になっていて、抵抗ゼロ(快が最大)の状態を生み出せる仕組みになっているというのが私の仮説です。
満足を感じやすい人は、ゼロ点調整が出来る人でもあります。それは後に残さないということです。「こうすれば良かった」と言って過去の波動に合っていたり、過去の栄冠をひきずっていたりすると、プラスかマイナスにバイアスがかかった状態になり、電圧を受信しても満足を感じることが出来なくなります。
時空が発信する電圧は、もとから満足や幸せを与える性質を持っているわけではないというのが私の仮説です。電圧を受信した時、自分のテスターが内部発信というパーツを用いて、自分で満足や幸せを作り出しているのです。それには「差」を取り出す作業が必要になります。
個の感じ方に違いがあるのは、差の取り方によるものだと考えられます。
快を測定するセンサーの基準は一定ではないかも知れません。外側が何も変わらなくても、測定器が変われば、もっと多くの快を感じられるようになります。
測定器が変化するとは、言い換えれば座標が変化するということです。それはXY座標において「1,1」から「10,10」の位置へ瞬時にワープするようなものです。本人の努力を全く必要とせずにです。

孫さんの蘇生も六爻占術の運命変更も、座標のずれによって起こる現象かも知れません。 私にとって2004年最大の出来事は、「もりけん生放送」を始めたことでした。それはリアルタイムで問いと答えの応酬をするという、従来のメディアにはなかった形でした。同じ目線から喋るスタイルで、しかもリアルタイムで双方向の通信をやってみたかったのです。
ちょうど『不思議の科学』文庫版(『私は結果、原因の世界への旅』)のポップを作成していた時期でもあったので、「もりけん生放送」の初回も「私は結果」というテーマを取り上げました。
生放送では、「本当に原因はあるのでしょうか?」という内容をアドリブで語りました。宇宙をなぜ作ったのか、それを作った本人(神)は分かっているのかと。原因というのは、どこまでいっても分からないのではないか・・というのがその日の気付きになりました。
目次
○ 報酬
○ 『働くということ(実社会との出会い)』黒井千次著・・・やっぱり「問い」が決め手
○ 人から必要とされる人間になってはいけない
○ 何もしない日々
○ 欠点を直すな
○ 長所も捨てなさい
○ 人は変われるか
○ 一点から攻めまくることの大事さ
○ 「生きているさん」
○ 「物わかりの良い人間」になってはいけない
○ あの世は「合」で、この世は「冲」
○ 光速以上の世界は、パルスの世界に通じている
○ 経過時間ゼロということ
○ 私は結果
○ 私は結果2
○ 本当に原因はあるのでしょうか?
○ 諦め
○ ユーザの立場
○ 「ユーザーの立場」から「時空の快」への斬り込み
○ 「ユーザーの立場」から「個人の快」への斬り込み
○ 時空の快は「勝手に満足型」
○ 測定器の方が変化する
○ 座標が変化するということ
○ クリスマスと座標崩壊
○ 順序が逆
○ 「神の性質」・・・性質は捨てる方向にあるのか
○ 2004年という年
○ 2005年という年に向かって
報酬

船井総研の三上さん(現:湖西市市長)に初めてあったとき、彼が自著をプレゼントしてくれました。
それを帰りの新幹線で読んだ私は、翌日、痛烈な批判を書いて、ファックスしたのです。
その本には、こういうことが書いてありました。
あるスーパーの経営者は、千円札を沢山ポケットにねじ込んでいて、良い社員がいると千円をその場であげるという話です。
私はこのスーパーは、これ以上成長しないか、もしくは潰れると書きました。
コンサルタント会社の三上さんが、これを気付かないとまずいよ・・と。
初対面の相手にこんなファックスを送れば、その後の交際はないと思いました。
しかし全く逆で、彼はすごい気付きに出会ったという返事をくれました。
ところで、報酬はこういう形であげてはいけないのです。
経営者にとって、お金をどういう風に上げるかで、その後の会社の未来が決まります。

目的も一つの報酬かも知れません。
外的報酬(外から与えられたもの)はしばしば結果を下げ、内的報酬(外からでないもの)は結果を上げることが多いです。
私はフェルルにご褒美をあげたことがありません。一度でもご褒美をあげれば、次から「期待」が始まります。期待が始まると、行為が純粋でなくなります。
犬も 「今に生きる」のは大変です(笑)。フェルルは期待していないとすれば、行動の動機は何でしょうか・・。たぶんフェルルにも分からないでしょう・・
ということは、動機なんか無い方が良いかも知れません。動機・・それは原因ではなく、結果という言葉が合うかも・・
『働くということ(実社会との出会い)』黒井千次著・・・やっぱり「問い」が決め手

この本は娘が学校の課題のために買った本で、リビングにあったので私も読んでしまったのです。
この本は、サラリーマンについて書いています。
要は「適当に仕事をするんじゃないよ」・・みたいな感じで書いています(笑)。
世の中の若者たちが、ちゃんとした就職もせずに、一時しのぎのアルバイトをしていることを批判しています。
労働とは、そんなものではない・・と。仕事で自己表現しろとまで言っています。
だからあとがきは自分の書いた小説の題名を挙げた後、「もしも興味をお持ちの方にあわせて読んでいただくことが出来れば、望外の幸せである。文学はぼくにとって本質的な自己表現の場に他ならないのだから」と書いています。これがこの本の最後の文章です。
ところで私の娘は、ファーストフードでアルバイトをしたことがあります。
マニュアルに沿った笑顔を作り、客に対応しました。ある意味、「自己表現」の対極の仕事をしました。
駅前でビラ配りまでしました。もちろん、マニュアル通りの笑顔で・・・(笑)
しかも一時的なアルバイトです。
この生き方を著者が知ったら、彼は「まだ高校生だし、いいんじゃない」とか言うでしょうか・・。
ではその父親はどうでしょうか・・。
株で二億も稼いで、毎日昼間はりんごの部屋で過ごします(笑)。
しかも、別に暇だからといって、小説を書くわけではありません(笑)。
彼にとっては「創造的」かつ「自己表現的」な仕事でないと、ランクが低いのです。

さてここからが本論です。本文の最後は次のセンテンスで終わっています。
「働くということは生きるということであり、生きるとは、人間とはなにかを考え続けることに他ならない。」
私はモンロー研究所でフォーカス27に行ったとき、ドアに遭遇しました。ドアは「あなたは誰ですか?」と訊いてきました。
この話をアメリカ人たちにすると、それは「LAST QUESTION」だと言われました。
この意味には、「重要な」というニュアンスもあると思いますが、私には「多くの問題を解決した上での最後の質問」と解釈されます。
つまり日常生活には出て来ないで、何かあらたまった時に考えるというような・・。
ところが私にとっては「FIRST QUESTION」なのです。これを解決しないと、先に進めないからです。
さて黒井氏の最後の文章ですが、私なら次のように書きます。
「『人間とはなにか』を考え続けることが生きることであり、生きることのひとつが、働くということに他ならない。」
つまり私にとっては彼の「LAST QUESTION」が「FIRST QUESTION」なのです。
だから私のセンテンスによれば「人間とはなにかを考え続けること」が最初に来るので、仕事は何でも良いのです。別に、仕事をしていなくたって良いのです。
しかし彼の視点に立てば、「自己表現」できるような仕事に就かないと、まるで「生きていない」ようです。
それは何が原因かと言えば、彼の問いは「働くということ」が最初に来ているからです。
やはり、問いが決め手だと思いました。

あの世の連中は、仕事しないで済みます。仕事は肉体があるから・・・
黒井氏は、仕事上の一体感が忘れられないと書いています。
しかし私の会社はここ数年、飲み会をやったことがありません。一体感や横の繋がりなど、関係ありません。
私は飲み会というのが、会社以外でも好きではありません。疑似的仲良し・・です(笑)。
典型的な、自由からの逃走に思えます。一体感て、好きじゃないんです。
「存在」をどう取り扱うか・・だと思います。黒井氏はたぶん、「存在」を問わない・・
生まれてしまったのだから「生きること」を考えよう・・だと思います。ポジティブで、確かに説得力はありますが・・
人から必要とされる人間になってはいけない

もりけんドットコムのために、過去の書き込みを整理しています。ちょうど2001年2月の「シンセン紀行」のところに、今メインで話題になっていることが出てきました。
まずはそれを載せます。といっても「語録」です。
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[語録]
役割の中にある時、人は安定しています。人の役に立っている時、生き甲斐を感じます。
役割というのは、社会が要求すると同時に自分もそれを求めているのだと思います。役割の中での安定感をです。
(役割)

人生に意味や目的が生じるのは、生が限られているという幻想があるからではないでしょうか。
人が神であるとすれば、やはり役割はないと思うのです。
(役割)

為すことは意味を見出すことです。役割を見出すことです。
為す、すなわち「決める」ことは、役割を決めることです。
老子は言いました。「人から必要とされる人間になってはいけない」・・と。
(役割と道教)

通常、物の価値はマーケットとは関係なく決まっていると思いますよね。
ところが簿記の世界では違いました。値引きをするとそのモノの価値は下がるのです。これは私にとって大発見でした。
(役割と需要と供給)

役割という需要が低くなったとき、すなわち老子が言うところの「役に立たない人間になりなさい」になったとき、生きがいは外の尺度では計れなくなります。
この境地に達したとき、値引きをしても初めて価値は落ちなくなるのではないでしょうか。
(役割と需要と供給)
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語録は以上です。やはりヒットは「人から必要とされる人間になってはいけない」というフレーズでしょう(笑)。

私達人間は役に立つ事は価値があり、役に立たない事は価値がない・・と思っています。
そして、社会に役立つことがその人の価値でもあったりします。
「役割」という単語も、精神世界ではよく出てきます。漢字の組み合わせから言えば、「役割」とは「役」を「割った」のですよね・・・
「役」とは辞書で引くと「責任を持った仕事」と出てきます。神のような上位の存在がいたとき、神の大仕事が「役」なのでしょう。それを個人に割り振ることが、「割」の方でしょう。
つまり神の大仕事を割り振られることが「役割」なのです。
だとすると・・「役割」という概念を認める人は、上位の神という概念を認めることだと思います。逆に役割を無視する人は、そういう神の概念を無視する人です。
しかし「人から必要とされる人間になってはいけない」というのは、役割という概念とも違います。
社会的・相対的価値観から脱皮せよ・・ということでもあります。たぶん、結果的には必要とされてもいいのです。本人がその意識を持つな・・ということだろうと思います。
ところで「必要とされる」という言葉は、経済用語では「需要」を連想させます。
不思議研究所は需要があるから活動しているのでしょうか?
そうではないと思います。そんなもの(不思議研究所)は世の中に無くたって、誰も困りません。
ということは、「供給」が先なのです。供給が需要を作り出してしまっているのです。
私は世の中から必要とされて、やっているのではないのです。
さらに言えば、世の中から必要とされて、下位の問いを持ったわけではありません。
「必要とされる」とか「自分の役割」とかいうフレーズは、魔性の響きがありますね・・(笑)
何もしない日々

富士通で私が辞表を出したのは2月14日・・でも実際に辞めることが出来たのは、4月30日でした。
世の中は同時にゴールデンウイークに突入していました。その期間中は良かったのです。
しかし休みが明けた5月6日、世の中が再び動き出したとき、私には行く所がありませんでした。
私は、何かをしようというビジョンがあって会社を辞めたわけではありません。いきなり辞めたので、何をして良いか分かりません。
当時、アパートに住んでいました。お昼にサンダル履きで食事に出ました。
快晴でした。太陽がさんさんと降り注いでいました。
食堂のオヤジが私に訊きました。「あれ、休み?」「辞めたんです。」「えー、じゃあ、これからどうするの?」「何も考えずに辞めたので、どうするかこれから考えます。」
それで会話はとぎれました。
それ以来、ことあるごとに訊かれました「どうしたの?」「これからどうするの?」
ちょっと前までバリバリ仕事をしていた私なのに、その時の私は、180度違っていました。
生彩がないのです・・(笑)人の目を気にしているのです・・・(笑)
まさかこんな風になるとは、思ってもいませんでした。
あの日、景色がセピア色に染まった時、外に飛び出して辞表を書いた私は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか・・・。

実はこのとき、7億円の借金問題は、まだほとんど片付いていませんでした。
時々その手の強面(こわもて)が脅しに来ていました。しばらくしたらまた来ました。
「あんたの会社、丸の内にあるんだってな・・。金返さんと宣伝カーで乗り込むぜ。」
「その会社、辞めたんです。だから好きなように乗り込んで下さい。」
「えっ?なんでまた?あんた、将来有望だったろ?」
「どうして辞めたのだか、私にも分かりません・・。もう私には失う物は何もありません。どうぞご自由に・・」

「・・・・」 借金自体は私のものではありません。だから私が脅される筋合いはありません。
でも私がちゃんとした企業に勤めていたから、彼らは「脅かし甲斐」があったのです。
しかしそれで、彼らは来なくなりました。
「まいったな・・どうしよう」・・やくざからも見放された時、呟いた言葉です(笑)。
翌日も翌日も、サンダル履きで食事に出ました。やる事は、それしかありませんでしたから(笑)。
小学校から会社員を経てそこを辞めるまで、やる事がバッサリと消えたのは、これが初めてでした。
何もしない日々・・・でも私は、360度、開けていました。私の将来を規定するものは、何もありませんでした。
夜、神に対して呟きました。「神よ、あなたは何かやる事があって存在しているのですか?」
そして会社を興して10年後、私は「何もしない部屋」を借ります。
神にはやること(使命)があるのか・・、そして私の使命もあるのか・・。
「ライフオデッセイ」が終わったころ、私は自分の刀を抜きました。
「暴いてやる・・ヤツの魂胆を・・」
しかし辿り着いた先はなんと、私は「結果」だったのです。「問い」に対する・・
だから、「やること」など、あるわけないのです。
欠点を直すな

本日、偶然にも以下の書き込みがありました。
>私はモリケン、不思議研究やってます。「ここはメイン。疑問文は禁止です」って言うじゃなぁ〜い。でも、「くるみさんは、今までそういう状態のとき、どうでしたか?」ってそれも疑問文!残念〜!
>私の書きこみは貴方の自尊心を傷つけたのでしょうか?それとも貴方を讃美する内容じゃなきゃ書きこみは、受けつけませんということなのですか?
>信じられない! そうですかわかりました。つまらないとここは書きこみ禁止になるのですね。もりけんという人はもっと懐の大きい人かと思っていました。残念です

書き込みの引用は以上です。

私は事あるごとに、欠点を認めなさいと言っています。だから私の欠点は、もちろん認めています。ですので反省は、ほとんどしません。
その理由の一つは「私は結果」であるということです。だから、欠点も結果なのです。
私は講演会の講師をする身であったり、本を書いたりする身であったりします。そうすると「先生」などと呼ばれたりします(笑)。
「先生」は精神性も高く、懐の大きい人でなければならない・・という勝手な尺度で見られるときが多いです。
だから「先生」のうちの一部は、そういう人を演じている場合もあります(笑)。
だから地が出ると(バレると)大変です(笑)
今日私が引用した人は、私の著書は読んでいないのでしょう。読んだかも知れません。しかし理解していないのです。
私は欠点を直すな、自分を認めろ・・としか、書いていません。
結果である自分は、欠点を直したって、時間の無駄です。それよりも、その欠点で快を感じた方が良いのです。

私は楽しく時空の解明が出来る方が良いのです。それは
>貴方を讃美する内容じゃなきゃ書きこみは、受けつけませんということなのですか?
という批判をそのまま受ける形かも知れません。
賛美ばかりでも飽きますが(笑)、批判ばかりされていたのでは楽しくないからです。
私は自分を変える気はありません。だから気に入らない人は、斬るだけです。相手だって、自分を変えようが無いからです。だから斬るのなら早いうちが良いのです。
そして容赦なく斬ること・・
だから、欠点を背負ったまま、刀を抜くしかないのです。
欠陥を直そうとしたなら、そこでスキが出来てズタズタに斬られます。人は人の欠点を指摘するのが大好きだからです。
「懐が大きくない」、「器が小さい」・・こういうことを真に受けてはいけません。それを指摘する人は、自分が否定されただけなのです。そういうことを言う人と、仲良くならなくて良かったと思わないといけません。
全肯定・・これは言うほど簡単ではありません。みなさんも自己嫌悪に陥ったことは多々あるはずです。でもそれは本来ならば、嫌悪に陥る必要はないのです。
だって、私もあなたも、結果なのですから・・・
長所も捨てなさい

欠点のあとは、長所です(笑)。
みなさんは自分の長所を挙げれば、それなりに出ると思います。
さて、そういう長所に焦点を当てるべきでしょうか?もしもそうなら、おかしくはないですか?
だって欠点を変えないのに(欠点を認めたのに)、なぜ長所に焦点が当てられないといけないのでしょうか・・。
一方を無視するのなら、他方も無視しないといけません。
というか、欠点を認めてしまうと、自動的に長所も姿を消していくと思いませんか?
長所がきらびやかに輝いていた頃は、欠点も際立っていたはずです(笑)。
欠点があるから、長所で頑張ろうとしてきたのだと思います。
欠点を認めるというのは、個に固執しなくなることだと思います。
とすれば、長所とて同じです。個への固執を手放せば、長所も消えていくはずなのです。

私のことを振り返ると、やはりそうだと思いました。
会社を作るときなど、自分の長所ができるだけ反映するようなものを考えました。
しかしよく考えてみれば、長所というのは、自分の過去の遺産なのです。
それで将来の会社設計をしたところで、未来が過去の私の遺産に合うという報償はありません。
めまぐるしく変わる会社の環境に、私は自分の長所など、どうでも良くなってきたのです。
そして一見短所だと思える領域で、私は大活躍をしました。
自分って、いったい何?自分にはどういう型をはめればいいの?
経営者でありながら、自分のことがわからなくなりました。
これは行き詰まった状態しょうか?
そんなことはなかったのです。そこから大きく飛躍が始まったりしました。
何故でしょうか・・・それは問いが下位に移行したからだと思います。
自分の欠点はこうだ、長所はこうだ、だとすればどういう経営方法が良いのか?・・という、ずっと長い間してきたこの問いは、上位なのです。だから、ろくなセレンディピティがないのです。
しかし、長所も短所も不明確になり、自分って一体何?状態になったとき、問いが落ちたのです。
だから・・長所も捨てなさい、と言いたい(笑)。
人は変われるか

欠点、長所のあとは、「人は変われるか」・・です。
元々変われないのに、欠点や長所を論じても始まりませんから・・。
みなさんは自分を変えようかと思ったことはあるでしょうか?
かく言う私も、あります。何だと思いますか?(笑)
正直になりたい・・でした。
誕生日を迎えるたびに、新年を迎えるたびに「今年こそは正直になろう」と決心したのです。
だって自分のことを振り返ると、嘘ばかりついてきたのですから・・・
意識してつく嘘のほかに、無意識につく嘘もあります。
その場をうまく収めるために、やんわりとした嘘をつくこともあります。
本当にやりたい事をやらないで、嘘の人生を送る場合もあります。
とにかく自分の人生は、嘘で固められていると思ったのです。
でもそれは、自分を見つめることで出た結果としては、注目に値すると思います(笑)。
欠点を直そうとする人は多いですが、それは願望実現系が多いと思います。引っ込み思案を直そうだとか、できるだけ怒るのをやめよう・・だとか。
嘘をつくのをやめようというのは、どちらかといえば、願望実現系ではないと思います。
私は自分が許せなかっただけなのです。
しかしある時期に、諦めました。人は変われない・・と。
さらに言えば、嘘をつかなければ、たぶん、生きていけないと思ったからです。
それでも私は、今でも基本時には「嘘をつきたくない」と思っています。それは言葉の嘘ではありません。
私の三次元の行動が、私の五次元の本質に、嘘をつきたくないということです。
不思議研究所を発案して、それを実行に移したのも、自分に嘘をつきたくないからです。
とすると私は、変われもしないのに、変わろうとしているのかも知れません。

ホテルニューオータニでの講演会の時です。
私は神戸大学教授、中井教授の「精神健康の基準」を話しました。
その中の一つに「嘘がつけること」がありました。
講演後、質疑応答があり、その最初に、ある女性が立ち上がって言いました。
「森田さんはここで講演をする以上、みんなに影響力を持っています。その人が嘘を付けとは何事ですか?撤回して下さい!」
その後の展開は忘れましたが、とにかく凄い剣幕でした。
しかし、彼女は自分が嘘つきであることを知っているのでしょうか・・。
そして壇上の本人が、ずっと長いこと、嘘について悩んできたことを、彼女は知ってたのでしょうか・・。
私は言う事とやる事が違います。
本質的には、嘘はつきたくないのです。もちろん時空に対して・・ですが。
一点から攻めまくることの大事さ

変な表題ですね・・。
私の時空調査は、電波の発信源を捉えることに喩えられています。電波の発信点を捉えるには、いろいろな方向から探った方がいいと・・
さて一昨日からは、「欠点」「長所」「人は変われるか」というテーマが続いています。
「そんなことは、元々決まっているでしょう?だって生まれた時間で欠点も長所も決まるのですから・・」と言う人は多いです。
しかしそういう人は、色々な方向から探っていないのです。
ある方向の探査を、別の探査からの仮説で解釈しただけなのです。
今回のテーマは「人は変われるか?」でした。
「全体の業の一員だっていいじゃない」というのも、別の視点からの「仮解決」なのです。
人はずっと「仮解決」で生きてきました。一時的な安定を得たいから・・
「生きているさん」

昨夜「生きている」というタイトルの書き込みがありました。
「全体の業の一員だっていいじゃない。あなたのからだも私のからだも生きている。ひとつひとつの細胞は生きていますよ。人生という運命がわだちにはまって流れているとしても、家族と一緒に笑うひととき、恋するときめき、子供の成長を見守るとき、楽しいときも、嬉しいとき、辛いとき、悲しいとき、そのすべてが幻想だとしても、いいじゃない。私は忘れられない。青い大空に漂う雲や流れる風、揺れる花、木漏れ日、降るように輝く星、指にとまったトンボ、家族とほおばったスイカ」
今日は、この書き込みに関連して書かせてもらいます。
私は過去に同じ事をずいぶんと言われましたので、総称して「生きているさん」と呼ばせてもらいます。
私は16歳の時、「時空はどうなっているのか?」「私とは何か?」という問いを持ちました。そして今までその問いから外れたことはありません。
私は学生時代は放送研究会という所にいて、ラジオドラマなどを作り、みんなで批評会などをやっていました。
そのテーマも、16歳の時に持った問いと同じです。それを下位の問いと名付けました。
『運命を変える未来からの情報』にはこんな一節も書きました。
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結婚する直前に、妻の友達からこんなことを言われました。
「もりけんさん(私のあだ名)、三十路もあとわずかで、しかも結婚するというのに、神とか時空とか考えるのはそろそろやめたら?地球上での幸せを追求したほうがいいわよ」
そうなのです。まったく実益の無いことを、私はずっと問い続けてきたのです。
しかし運命はもっと皮肉でした。そんなアドバイスに反して、順調なサラリーマン生活から逸脱し、伸び盛りの会社を方向転換させ、結局その問いの中に戻ってきたのです。
私とは何か、時空の仕組みはどうなっているのか・・問いそのものが大きいので、不思議研究所の具体的な研究対象は何でも良かったのです。
犬も歩けば棒に当たる・・です。
だって「私とは何か?」という質問は、どんな現象にも関係すると思うからです。広範囲な不思議現象を求めたのは、それまで学校で勉強したことでは答を出すことができなかったからです。
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さて、ここからが本論です。
「生きているさん」は次のように書きました。しつこいですが、もう一度載せます。
「家族と一緒に笑うひととき、恋するときめき、子供の成長を見守るとき、楽しいときも、嬉しいとき、辛いとき、悲しいとき、そのすべてが幻想だとしても、いいじゃない。私は忘れられない。青い大空に漂う雲や流れる風、揺れる花、木漏れ日、降るように輝く星、指にとまったトンボ、家族とほおばったスイカ」
さて、これが私には欠けていると思いますか?
ところが、私がこういうことを感じる力は、おそらく「生きているさん」以上だと思っています。なぜなら、それは「前提」だからです。
私には前提がたくさんあります。億万長者、幸せ、自然を感じる力・・これらはすべて「前提」なのです。
もしも満たされていないと、私は下位の問いに向かっていません。
私が16歳からずっと下位の問いを続けていられるのも、「前提」が満たされているからなのです。
私はHPの世界では、とてもシビアに問います。スキが無いです。スキがある人を斬ります。でも、それができるのは、三次元でとても充実しているからなのです。
私は三次元で怒ったことがありません。それは不満や悩みが非常に少ないからです。
「生きているさん」はたぶんここの書き込みを読んで、「書き込んでいる人達は、なんて悩みの多い人達なんだろう、もっと大らかに生きればいいのに」と思ったに違いありません。
それが原因で「生きている」というタイトルの書き込みをしたのでしょう。

でも私の察するところ、ここにいつも書き込んでいる人達の方が、三次元では大らかに生きていると思います。
なぜなら、ここで皆さんが論じていることは「個人的な悩み」ではないからです。
ここが重要な点です。「個人的な悩み」ではないのです。
でも「生きているさん」は、わざわざメインテーマから外れた事を書き込んできました。
たぶん「生きているさん」にとっては、「個人的な悩み」なのです。書き込んだ内容が、私のように「前提」ではなかったからです。「前提」ならば、わざわざ書き込みません。
ここに参加している人達は、やはりすごいと思います。だって私が書き込んだ内容に、長文でレスをするからです。
しつこいですが、それは「個人的な悩み」ではないはずです。だって数時間前に私が書き込んだ事に対して、レスしているからです。
言ってしまえば、ゲームのようなものです。(個人の悩みがあるとすれば、ゲーム攻略の手段なのです。)
これだけ真剣にゲームに参加できるのは、三次元の世界では多くの「前提」を持っているからなのです。三次元の世界では満足して生きているからです。
それでなければ、もっと個人的な悩みで精一杯のはずなのです。
逆に、ここを読むだけでレスしない人は、たぶん、個人の悩みが多いのです。
そういう人は、こんなところにレスするどころではないのです。
これ以上問題を増やしたくないから・・・
でもここに書き込みする人は、わざわざ問題を増やしたいのです(笑)。三次元での問題は「前提」だからです。
だから「生きているさん」がレスをこのまま継続すれば、やっぱり本当に「生きているさん」なんだと思いますが・・・。
でもレスが途切れるとすれば、「指にとまったトンボ、家族とほおばったスイカ」などをわざわざ強調しなければならない世界に戻ったのだと解釈します。

私には、一人でほおばった苺・・の方が忘れられません。
我が家は農家で、苺を出荷していたからです。収穫の最中に、商品としての苺を、一人でほおばったのです。
生きていることが素晴らしいなどと、思えませんでした。
生きるというのは、プラスとマイナスの接点だと思います。賛美、賞賛の領域を超えています。
>全体の業の一員だっていいじゃない
申し訳ありませんが、私は「よくない」のです。
なぜなら、私は時空から「問われて」いるからです。それを無視して「全体の業の一員だっていいじゃない」には、なれません。
なぜなら・・私は「もっと生きたい」からです。
「家族のスイカ」の向こう側にあるもっと大きな「生」に、感付いているからです。
もう一つ、言っておきたい事があります 。
「生きる」ということに、「私は忘れられない」というフレーズは、無いのです。
「物わかりの良い人間」になってはいけない

『仕事の思想(田坂広志)PHP文庫』という本を読みました。以下に、抜粋を載せます。
彼は色々な会社に「企画」を売る仕事(シンクタンクという)をしています。場面はある顧客に、企画を売り込みに行くところです。
**************************
自分なりに自信のあった企画でした。
少し睡眠不足とはいえ、それなりに熱の入ったプレゼンができたと思いました。
ですから、プレゼンが終わった後、期待を込めて部長さんの顔を見ました。
「なかなか良くできた企画ではないですか」
その声を期待していたのです。
ところが、その部長さんの開口一番の声は、私の予想をまったく裏切ったものでした。
「何ですか、この企画は!こちらは、こんなものを要求しているのではない!」
そのあとのことは、恥ずかしいことに、あまり覚えていません。
ただその部長さんが、提出した私の企画書に対して、実に厳しい表情で、耳をふさぎたくなるような手厳しい意見を、次々と述べたことだけが記憶に残っています。
そのあとは、みじめな心境でした。
(中略)
そしてあれから20年近い歳月を経て、今、思うことがあります。
それは「厳しい顧客こそが、優しい顧客である」ということです。
この部長さんは「厳しい顧客」ではなく、実は「優しい顧客」であったということです。
なぜならこの部長さんは、私の自己満足と自己幻想を打ち壊し、その現実の姿を見せつけてくれることによって、私というひとりの若いビジネスマンの成長を支えてくれたからです。

そして本当に「厳しい顧客」とは、実はまったく逆のタイプの顧客であることが分かってきました。それはどういった顧客でしょうか・・
「黙って去る顧客」です。
例えば、さきほどの例で言えば、こちらが提出した企画書の説明を聞いて、それが納得できないものであっても、あまり文句を言わない顧客です。
ただ「なるほど、こんな感じですかねぇ・・」などと言って口ごもる。
そして「まあ、少し考えさせて下さい」と曖昧に締めくくるのです。
しかし、しばらくして「あの企画、いかがでしょうか」とお伺いをたてても、「残念ながら、予算のやりくりがうまくいかなくてねえ」などと言って、うまく断ってくる顧客です。
こちらの出した企画については少しも納得していない。
いろいろな不満や問題を感じている。しかしそれらを決して言おうとはしない。
実はこうした「黙って去る顧客」こそが、世の中で最も多いのです。
それは当然でしょう。
顧客の立場からすれば、わざわざ嫌われてまで厳しいことを言う必要はないからです。

最近は「物わかりの良いマネージャー」が目につきます。
こうしたマネジャーは、部下が仕事についての意見を申し立てたとき、「なるほど、ほるほど」と言って、部下の意見を良く聞いてくれたりします。
しかし、では、本心からその部下の意見に賛同しているかと言えば、内心では、部下の意見とはかなり違った意見を持っています。
ではなぜ、その違った意見を部下に伝えて、議論しないかと言うと、無意識に部下と衝突をすることを怖れているからです。
したがって、こうした「物わかりの良い」マネジャーは、よく見ていると、表面的には部下の前に座ってその意見を聞いていますが、内面的には、決して部下の気持ちと正対していません。
***********************

実はこれを読んで、このHPから、なぜ人がどんどん去っていかないか、分かりました(笑)。
だって私は手厳しいです。容赦なく突っ込みを入れます。HP全体が戦々恐々とする時期もあります。罵声が飛び交います(笑)。
もっとお気楽に楽しめるHPは、他に沢山あります。
しかし、なのに、何故みんなここを去っていかないのか・・ここが閑散としないのか・・
私は先日、「もっと大きな器の人だと思いました」というレスを受けました。
確かにその通りです。このHPの中の行動で見る限り、私の器は「小さい」のです。
でも「大きい器」は、怏々(おうおう)として、「物わかりの良いマネージャー」になりかねません。そういうHPも多いです(笑)。
できるだけ軋轢(あつれき)を少なくして、多くの人を「受け入れよう」という・・・。
私はその逆です。
でも、もしも私が「物わかりの良いマネージャー」だったら、逆に人は去っていくような気がします。
「もりけんは多くの人を受け入れるけど、内心は何を考えているか分からない」・・と。
そうなると、やはり「正直」というのは、大事なファクターかも知れません。
さて、みなさんは「物わかりの良い人間」にはなっていないでしょうか・・・。
「物わかりの良い人間」を目指していないでしょうか・・・。
軋轢を起こさないことを、目指してはいないでしょうか・・・。
あの世は「合」で、この世は「冲」

フォーカス35に行ったとき、私と関係のあった人達が私を取り囲んでいました。そして、私にエネルギーを送っていました。
こいつだけは許さないぞと決心した人もいましたが、彼も私にエネルギーを送っていました。上の世界では、すべてが解り合っていたのでした。
というくだりが旧『不思議の科学』、新『私は結果、原因の世界へ』には書いてあります。
今日は文庫本のゲラが上がってきたので読んでいたのですが、表記の部分に引っかかりました。
今、ここメインコーナーでは、もの分かりが良くなってはいけない・・というテーマで進んでいたからです(笑)。
さて、なぜ上の世界は分かり合っているのでしょうか・・それはたぶん、ビックバンの前が、その状態だったからだと思います。ビックバンの前は、すべてが「合」されていたのです。
そこに宇宙が誕生するための「冲」の刺激が発生しました。ビックバンというトリガー(引き金)です。
とすれば、「冲」の世界を作りたくて宇宙ができたのではないでしょうか・・・
あの世は物質的な世界ではありません。だから冲が難しいのです。
あの世で冲が難しいのは、生まれ変わりの村の証言でもそうです。あの世で喧嘩ばかりしてきたという話を聞いたことがありません(笑)。あの世での喧嘩の恨みを持って、この世に誕生した人は、たぶんいません(笑)。
たぶんあの世は、一時的な「合」状態に入るのです。
でもこの世は違います。男と女に分かれて、それがお互いに冲しあうように、この世(物質界)を作ったのです。

さて、一般的な精神世界では、もの分かりが良くなる方向を目指していると思います。すべての人が分かり合える世界を目指していると思います。
でも今回の書き込みの仮説が正しければ、全く逆なのです。
人と人とが意見を違え、ぶつかり合い、冲し合うためにあるのだと思います。
地域差や言語の違いが生まれたのも、冲のためだと思います。
聖書によれば、言語の違いは、神の怒りが原因でした。
バベルの塔を作り、神に近づこうとした人間に、神はそんなことはするなと言い、怒って言葉の違いを作りました。
でも私の仮説が正しければ、神は怒ったわけではなく(笑)、わざわざ言語の違いを作ったのです。
さて、そう考えると、スープも冲のためだと思います。
年を取ると、人生はこうだ・・と、分かった風なことを言う人が多くなります。それは「合」です。
スープを飲んでいないと、「赤ちゃんじじい」で生まれてきますので、それも「合」の原因になります。現世が過去世の情報と合するのです。
となると、スープを飲まないで生まれるときは、「冲」の世界を自らの中に持てるか・・・が問題となるのではないでしょうか・・・。
光速以上の世界は、パルスの世界に通じている

「絶対零度」という単語から、一つの問題が浮かびました。それは光速の問題です。
アーサー・クラークのSF小説に、極寒の惑星で生息する生物の話が出てきます。彼らは電子回路だけの生物です。
でも星の温度が絶対零度に近いので、計算がメチャ速いのです。だから頭がすごく良いのです。
私が富士通にいるとき、ジョゼンソン素子の研究が盛んでした。それは絶対零度に近くまで冷やした素子を使うのです。すると光速並で計算するのです。
ジョゼンソン素子はジョゼンソンが発見(発明)して、彼はノーベル賞を取りました。
でもその後不思議な世界にのめり込み、彼は今「オカルト科学者」と呼ばれています(笑)。

さて、話を一気に四次元と五次元に飛躍させます。
我々が生息する四次元は、最高速が光速です。
しかしコインを投げて、問われた未来をコインの結果に乗せてくれる原因の世界は、光速以下とは思えません。
光速以下だと、多くの人の問いに答えるのに、たくさんの待ち時間が生じそうです。
たぶん向こうの世界は、計算にかかる時間はゼロかも知れません。
だとすると、我々の生息する四次元は、わざわざスピードに制限をつけているのだと思います。
何のためかと言えば、運命の波動を乗せるためだと思います。
時間が間延びして、有限でないと、運命の波動すら、乗らないからです。
でも向こうの世界は、「瞬時」が可能だと思います。「瞬時」は、パルスの世界です。
なぜパルスだったのか・・・ああ、やっと道が開けそうです。
経過時間ゼロということ

携帯電話の電波は光速で伝わります。しかし振幅のワンサイクルで、数センチしか進みません。
人間はその波動に、多くの情報を乗せているのです。
もっと光が速く進んでくれれば、もっと沢山の情報を乗せることが出来ます。
しかし光速は、一秒間に30万キロメートル以上を飛ぶことができず、人間がそれを利用するとき、大きな壁となります。
運命は仮に決まっていて、四次元の時間軸上に確定したものとして形成されているとします。
それがいつ決まったかと言えば、私の仮説によれば、ビックバンの時です。
DVDには、ビックバンからの波動が、時間の終わりでぶつかって反射するところが出ています。

さて、あの波動が光速で伝わったらどうでしょうか・・終点に辿り着くには、何年かかるでしょうか・・
ああ、でも、この問いに答えるのは、今のところ不可能です。
なぜなら、時間軸上に波動が乗るということは誰も実験していないし、時間軸上に波動が乗るとすれば、その波動の「経過時間」はどこから持ってくればいいか・・という問題にぶつかるからです。
そこで私は、もう一つの時間軸を考え出したわけです。それが五次元です。
そして終点に辿り着くのは、たぶん瞬間に近い数字だと思います。
運命を変更したときも、その波及効果は、時間の果てまで、瞬間に計算されていると思います。
私が「瞬間」ということを調査上体験する時があります。それは、テレポーテーションの実験です。孫さんは密閉されたビンの中から、オルゴールをテレポートさせました。
しかし、通常の時間の流れの中で(言い換えれば光速以下で)、ガラスの壁面を通過したとは、考えにくいのです。
だとすると、経過時間はゼロなのでしょうか・・・。しかし経過時間がゼロなのに、物が移動するわけはありません。
でも私の仮説では、経過時間はゼロなのです。だからテレポーテーションのことを、「瞬間物質移動」というのです。
もしもそうだとすれば、経過時間がゼロでも、この四次元の世界を変えることが可能なのです。これってすごい気付き(発見)です。
経過時間ゼロ・・それはこちら側の世界から見れば、パルスの世界です。
私は結果

最初のもりけん生放送のテーマが決まりました。「私は結果」です。
このテーマは再三ここで議論されていますが、何度やってもやり足りません。
さて、『不思議の科学』は『私は結果、原因の世界への旅』という題で文庫版になりますが、書店で平台展示用に、ポップを作成することになったそうです。
平積みの本の所に旗のように立っている10×15cmくらいのCM用の厚紙です。
そこに書かれる文章の案は、以下です。

「私が私である原因は、別世界にあった!自分一人を責めることはなかった!」

やはりこうやって見ると、このセンテンスには迫力があります。
今までこういう生き方は、否定されるべきものでした。
他に責任をなすり付ける生き方を、責任転嫁と言いました。
学校のホームルームでこんなことを言えば、クラス全員と担任からも非難されました(笑)。
こんな本が平台に乗れば、頭の固い人は、世も末だと思うでしょうか・・。
ところでこの題が決まるのでに、幾つかの候補が出ました。

体外離脱――原因の世界へ
体外離脱――生死の境界を超える
原因の世界から生死の秘密が見えた
生死を超えて世界の原因へ
生死を超えた世界へ
死後の世界からこの世が見えた
死を超えたいのちの世界

どれもそれなりに良いタイトルとなりそうですが、「主体は自分である」という視点を超えていません。
ある人が通りすがりに本屋さんに入ってこれを見ても、「まあ、そんな世界もあるだろう・・。でも自分には関係なさそうだ」と思う人が多いと思います。
しかし、「私は結果」は違います。
通りすがりの人だって、それなりに悩みは持っています。
そして、平台に立っている厚紙には、「あなたのせいではない」と書いてあります。(笑)
自分に関係ないわけはありません。
だって、責任転嫁できる理由が書いてありそうな本だからです(笑)。
さて、私は自分の意志で生まれた記憶を持っていません。生んでくれと頼んだわけでもありません。気が付いたら「誕生させられて」いました。
なのにずっと、お前に原因があると言われてきました。
私のせいじゃないと叫びたいときも、何度もありました。
しかし、それが許される世の中ではありませんでした。
ところが真理を追究していく過程で、「私は結果」という概念にぶつかりました。もしも私が従来の価値観に毒されていれば、それを出すことが出来ませんでした。
「私は結果」・・この言葉は、ひょっとすると世の中をひっくり返すかもしれません。
「もりけん生放送」の初回は、やはりこれを取り上げます。
「私は結果」は、過渡期に過ぎません。
なぜ過渡期に過ぎないのか・・それは、原因の世界が究明されていないからです。
しかし私の勘では、たとえ究明されたとしても、「私は結果」が崩されることはないと思います。
なぜなら「個」が「発信点」として再浮上することは、たぶん無いと思うからです。
私は結果2

ポップ(平積みの本の所に旗のように立っている10×15cmくらいのCM用の厚紙)の裏には次のように書かれます。

「私は原因の世界の現れ!生死を超えた世界があった!」

この下には次のように書かれます。

いま、期待の著者
不思議研究所所長・森田健
「私は結果」原因の世界への旅
定価:780円(税込)
講談社+α文庫
森田健の本好評既刊
運命の決定とその変更の秘訣が明かされる!
『運命を変える未来からの情報』定価:1575円(税込)
『DVDブック森田健の「見るだけで運命が変わる!」』価格:3990円(税込)』
(ポップには私の写真が入るそうです)

さて、「私は結果」という概念が出て、私の生き方は何か変わったでしょうか・・・。
変わりましたよ・・。
どこが変わったかは、「もりけん生放送」で喋ります(笑)。
ところでみなさんは、この概念で、何か変わりましたか?
本当に原因はあるのでしょうか?

「私は結果」というフレーズに対して、「じゃあ、原因の世界に興味が出てきました」という書き込みも、ありました。
ところで今日は、もりけん生放送の最初の日でした。放送内容は、計画された部分もあれば、アドリブもありました。そのアドリブも始めから結果だと思うと、笑えます(笑)。
さて、放送の最後の部分は、「原因」についてアドリブ(笑)で語りました。
「最終的には宇宙をなぜ作ったか、分からなければならない」・・と言いました。
そして、それは宇宙を作った本人(神)は、分かっているのか・・ということまで言いました。
もしかしたら、分かっていないのではないか・・原因というのは、どこまでいっても分からないのではないか・・これが今日の気付きでした(私はアドリブで喋っているつもりなので、今日の気付きだと思っています(笑))。
「なぜ宇宙なんか作ったのよ?」という問いに答えられなければ、「なぜあんな女と浮気したのよ?」という問いにも答えられません(笑)。
本当に原因はあるのでしょうか・・・
諦め

「中国諦め紀行2000.10」のまとめをやりました。そこで出てきたのが次の「語録」でした。
*************************
[語録]
「そうだ、諦めてかかれば何だって楽しいんだ・・」そう思うようになりました。
今回も全く同じです。これから始まる中国紀行に対して「何かを得よう」とか思えば、あなたは失敗するでしょう。
(「中国諦め紀行」を始めるにあたって)

「諦めないで最後まで頑張れ」これはビジョンがある場合のみ、有効なセリフです。
元々なければ、頑張りようもありません(笑)。
いえ、逆にこうも言えます。「頑張れば頑張るだけ、可能性が狭まる・・」
(何故「諦め」か?)

いつ諦めるのでしょうか?それは結果が出る直前に諦めるのです。
それまでの努力とこれから起こる結果とは、全く関係ないと思わなければなりません。
良い結果が出れば「ラッキー」なだけです。運が悪くても、諦めているから元々です。
(諦めの瞬間)

期待や願望を満たしたとき、何か淋しいものを感じるのは、やはり枠組みから出ていないからなのではないでしょうか・・・。
私達が無限大のものに共振できるのは「ある瞬間」でしかないと思いますが、それはやはり枠組みを越えた時ではないでしょうか?
(枠組みを越える)

諦めと見返りは、比例するのです。求めれば求めるほど、与えられないのです。逆に諦めれば諦めるほど、与えられるのです。
だから、諦めるということは至難の技です。
(枠組みを越える)
****************************

さて、私の会社経営と、不思議研究は「諦めの原則」で成り立っているといっても過言ではありません。
私は会社経営に関して、願望を持ったことはほとんどありません。
もしも願望を持てば、もちろん会社は発展するでしょう。しかし、それで終わると思います。つまり、普通の社長で・・です。
なぜなら、願望で「ゴール」を設定したからです。
ゴールを設定しなければ、突き抜けることが出来ます。それが「諦めること」だと思います。
あるとき私の会社は、大きな転機を迎えようとしたときがありました。
大手の会社が、提携を申し入れてきました。資本を渡すわけではないので、私の自由は保障されます。しかし私は断りました。
相手の人は言いました。「森田さんは王道を歩かないのですか?」
私は答えました。「王道なんて、つまらなそう・・」
相手は呟きました。「馬鹿な選択をしたことが、そのうち分かりますよ・・」
私は何も答えませんでした。
その10年後、なんと相手の会社は倒産してしまいました。
そのとき私はといえば、不思議研究で初めて中国に足を踏み入れていました。そしてトラさんがノックしてきました。
もしも私があのとき会社経営としてのゴールを狙ったら、提携した可能性は十分にあります。
「つまらなそうだ」と言ってやめる社長がどこにいるでしょうか・・・。会社は儲かるかどうか・・なのですから。
「諦め」は、あらゆる事に通じるはずです。
ユーザの立場

ある人が先日投稿した文章の中に、以下のセンテンスがありました。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
しかし、会社というのは、仕事さえきっちりこなしていれば、人間関係がどんなにドライであっても、どんなに表面的であっても、関係ないので、ある意味楽です。
今の職場はとてもアットホームで、人間関係もよいですが、飲み会は最低限しかなく、一体感はありません。
その代わり、「ユーザの立場」「ユーザ重視」という言葉はよく飛び交っています。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
会社はお客に物を売って、お金を得ています。だから「ユーザーの立場」というのは、とても重要です。
さて、不思議研究所はどういう商売をやっているでしょうか?それは殿様商売です(笑)。
どのくらい「殿様」かと言えば、「自分で満足を見出すお客」しか相手にしません。それ以外のお客は切ります。
面倒な事を言ってくるお客は、それで終わりです。会報誌『不思議の友』を送るのを中止するからです。
でも大企業でこういう商売をすれば、社会問題になるかも知れません。人は平等に扱われたいからです。

さて、ここからがメインテーマです。
なぜ人には、不満を持つ人と不満を持たない人がいるのでしょうか・・。
私はどちらかと言うと、不満が多い方ではありません。だから三次元ではあまり怒らないのです。不満というのは、快ではありません。
人は快の原則で生きているのに、不満が多いというのは、その原則に反しています。
もしも神がいたとして、私たちが神から作られたのなら、私達は「客」と思っても良いと思います。
だとすれば、神は「ユーザーの立場」として我々を考えても良さそうです。我々を満足させるようなシステムに、どんどん移行すべきだと思います、
でもそれは大企業の考え方です。
私の会社ならば、「自分で満足を見いだすお客」しか相手にしません(笑)。
神はどちらでしょうか?後者ではないかと思います。
なぜなら、私がそういう方式をとっているからです(笑)。
不満や満足は、感情の問題でもあります。六爻占術では吉凶は出ますが、不満や満足といった感情の問題はなかなか出せないと思います。
とすれば、起こる事は一つでも、受け取り方が変わるのです。

六爻占術で占って欲しいと言われ、まだ初段が誕生していないからダメだと答えました。
すると相手は「そういうサービスができたら、その時点で知らせて欲しい」と言いました。・・というメモ書きが私の机に・・
私は一言「この人は切れ・・」
なぜなら、対等ではないから・・
しかも、このお客は、たぶん、満足を自分で見つけられない人だから・・
文句を言う客、怒る客の言うことを「ニーズ」だと思って、まともに聞いてはいけません。
やる事はたった一つ・・彼らを切ること。そして勝手に満足する客を残すことです。
そんな事をすれば、会社の成長は止まるとでも思いますか?
客を切れない経営者は、そのうちマーケット全体から切られます。

一つ頭に浮かんだことがあります。
それは、私は空間的な商品ではなく、時間的な商品を売っているのではないかということです。
孫さんセミナーは、次回、芽が出るとは限りません。ノベルティは、後から売りません。
ノベルティをあとから欲しいと言ってきて、断られると怒る人がいます。そういう人は、「切られる」ギリギリの線です(笑)。
この人には、「時間」が商品の一つだということを理解できません。「いつも」均一なサービスを期待しているのです。
『不思議の友』は、タダだから送らなければ良いのです。つまりこちらに主導権があります。
HPは、最近拒否機能が充実してきました。キー一つで、ロムすら出来なくすることが出来ます。オープンコーナーを・・です。
つまり切るのは簡単であり、こちらに主導権があります。
だから、客は「選ばれている」のです。
客がうちを選んでいるのではありません。だって比較する対象が他にありますか?
もしも私が普通の商品を売っていても、それは可能だと思います。たぶん、誰も発行できないような会報誌を出すと思うから・・
世間の会社は大抵、逆をやります。客から、選ばれようとします。
「ユーザーの立場」から「時空の快」への斬り込み

私の会社は「勝手に満足してくれる客を集めるのであって、満足しない客は切る」という方針だということは書きました。
さて、人にはちょっとのことで満足するタイプの人と、なかなか満足しない人がいます。
ちょっとのことで満足する人は、それだけで幸せです。なかなか満足しない人は、いつも不満があります。
私は前者です。ちょっとのことで満足するタイプです。
来るもの拒まず満足していくので、次々にそれが来ます。連鎖反応が起こるのです。
さてここからがメインの話になります。
時空は「快の原則」で我々人間を作ったと思われます。
なのに、現状に不満を持つ人間がこれだけ多いのは、何故でしょうか・・。
そもそも、時空はどういう原則で、「快センサー」を作ったのでしょうか・・。
まずは、この三次元での電気の話をします。
電圧を測るとき、テスターというセンサー(測定器)を使います。
電圧が高ければ、レンジを下げます。電圧が低ければ、レンジを上げます。
そうやって、メーターが適当な位置で止まるように調整します。
問題はこれからです。電気の話から精神の話になります。
たとえば目盛りが「8」のところが、最も大きな「快」を感じるとします。
「10」が良いとは限りません。愛撫だって強くされると感じなくなるでしょう?
テスターの針を「8」の位置に持って行く方法は二つあります。
一つは、供給する電圧側で調整することです。もう一つは、テスターのレンジを調整することです。

さて、問題を一歩深くします。人間側から考えてみます。
少しのことで満足を感じる人は、テスターの側のレンジ調整が上手なのです。
どんな電圧が入力されても、一瞬でレンジを調整して、「8」の位置に合わせます。
こういう人はどんな事にでも面白さを見出す人で、セックスなどでも感じやすいタイプなのではないでしょうか・・(笑)。
不満の多い人は、自分のテスターのレンジはいじらずに、外の電圧に不満をぶつけます。
「俺の満足する電圧を与えてくれ」・・と。
こういう顧客を相手にすれば、商売は発展しません。快の連鎖が起こりにくいからです。
満足しやすい人は快の連鎖が起こり、成功しやすいのです。
これはたぶん、イチローのヒッティング・ポイント(彼のヒッティング・ポイントは普通のバッターの約2倍あるといわれている)の広さという例がわかりやすいです。
自分にピッタリのコースの球が来るのを待つのではなく、かなり外れたコースでもヒットが打てるように、自分の側を柔軟にするのです。
小さなヒット(満足)を繰り返せる人は、シーズンが終わってみれば、他の打者(人)を大きく引き離してしまうのです。
スポーツもビジネスも、我々の普通の生活も、同じ原則だと思います。

さて、問題をもう一歩深くします。今度は、時空の側から考えます。
「快」を「与える電圧」と「テスター」に喩えれば、与える側(電圧側)と与えられる側(テスター側)の両方で調整可能なのです。
単純に考えれば、一方を固定すればいいじゃないか・・とも思います。
しかし私とて、SMルームで縄でギリギリ縛られて、熱いローソクを間隔を置かずに垂らされたら、テスターのレンジの範囲を超えると思います。
人間側の微調整は、それほど広くないと思います。
だから時空は、一方だけを固定することをしなかった・・
もう一つの理由です。
電気の世界では、発信器とアンテナをマッチングさせるとき、コイルとコンデンサを使います。その両方に、微調整のつまみがあります。
これは時空のシステムに似ています。
一方を少し動かし、もう一方を調整するというやり方を繰り返していくと(これをカットアンドトライと言います)、最後には抵抗値がほぼゼロの点が出てきます。
そうすると、発信器の波動は、抵抗ゼロの経路を通り、すべてアンテナから発射されます。これぞ、「快」が最大になった状態です。
となると、与える側と与えられる側の両者で可変可能なのは、快の最大値を得るため・・だと、言えそうです。
「ユーザーの立場」から「個人の快」への斬り込み

今回は「ユーザーの立場」に関連して、個人の快について書こうと思います。
ちょっとした満足(快)が、なぜ大きなものへと繋がるのか・・
逆に、不満を持つ者がなぜ小さく終わるのか・・
それは、「後に残すか、残さないか」だと思います。
人は、満足した事は、とりあえずそれで終わります。しかし不満な者は、後に残します。
「こうすれば良かった、ああすれば良かった」「こうなりたかった、ああなりたかった」
つまり不満な人は、未来に向かうとき、過去の波動に合ってしまうのです。
願望実現も同様だと思います。書いた紙は、過去のものです。
それに合ったように未来はフィルタリングされると思いますが、それ以上にはなりません。もっとも本人がそれを望んでいるのだから、しようがありません。
ところが「満足」は、そろばんで言うところの「ご破算」にするのだと思います。「ご破算」とは、ゼロにすることです。
ゼロになった人は、テスターの針がゼロです。ゼロだと、ちょっとの変化を受信した時、針は敏感に振れます。
しかし不満を持って後に残した人は、針がマイナスで振れています(笑)。
信号をだいぶ入力しないとゼロまで戻りません。
しかも「8」まで持って行ったとき、なぜか、満足しません。
それは本当の「8」ではないからです。ゼロ点調整ができていないのが原因です。
つまり「満足」というものの効能は、ゼロ点調整にあると言っても過言ではないと思います。

イチローはバッターボックスに立った時、ゼロだと思います。
しかし「ここで打てば通算×安打で、俺は首位に・・」などと考えた瞬間、針はプラスに振れます。過去の栄冠が底上げされるのです。
でもゼロだと、テスターのレンジは一杯に上げることが出来ます。つまり非常に高感度のテスターにすることが出来るのです。その時、微弱な信号でも針が振れます。
しかしプラスであれマイナスであれ、バイアスのかかったテスターはレンジを上げることが出来ません。だって既にメーターが振れてしまっているからです。
小さな事でも満足を繰り返せる人は常にゼロ点状態であり、テスターのレンジは最大感度にセットしておけるのです。
だから次に来た些細(ささい)な信号でも、ビンビン振れるのです。
時空の快は「勝手に満足型」

今回は「ユーザの立場」に関連して、「時空の快」について書こうと思います。
時空が個のテスターに関与するのは「電圧」でした。では、その電圧とは何でしょうか?
ここでちょっとした仮説を出します。それは、そんな電圧は、無いのではないかと思うのです。
「そんな電圧」というのは、満足、あるいは幸せを作り出す電圧のことです。
つまり、外から与えられる「満足電圧」とか「幸せ電圧」は、無いのではないかと思います。
その理由を、私の趣味のことから、仮説として出してみたいと思います。
無線通信の話をします。
無線はある時まで、搬送波に信号を乗せて飛ばしていました。
しかし私が中学生の頃から(ずいぶん昔の話だ(笑))、搬送波を使わなくなりました。
げっ・・、搬送波が無くて、どうやって飛ばすのか・・
それはなんと、受け取る側の受信機の中で、搬送波を作り出すのです。
まさに結果の世界と原因の逆転です。
これならば、途中経路で減衰しようがありません。元々無いのだから・・
これで、小さな無線機で海外と通信できるようになったのです。

さて、受信機内部ではどうやっているかと言えば、搬送波に当たるものを「内部発信」というパーツで作り出しているのです。
これが今議論している「幸せ電圧」に当たるのではないかと思います。つまり自分で作っているのです。
自分で作って、それを自分のテスターで測っているのです。
外からだと思っていた「幸せ電圧」は、実は自家製なのです(笑)。
しかし、作れば良いというものではありません。搬送波と信号は、微妙なズレが必要なのです。
どうしてかと言うと、信号は本当の信号ではなく、周波数を一万倍にも上げているのです。だから空中を飛ぶのです。
しかし受信機に辿り着くと、スピーカーなどで聞こえる低周波に落とさなければなりません。
それは、搬送波と外から飛んできた信号の「差」として取り出すのです。
アマチュア無線の世界では、受信機のスイッチを入れると、まず「モガモガ」といった、まるで宇宙人の声が聞こえてきます。
そこに、内部発信の搬送波を作って混ぜ合わせます。すると「差」が取り出されます。
(差を取り出すパーツをクリスタルフィルタ(水晶フィルタ)と言います)
そして、差を微妙に変えるダイヤルを回すと、あるところでちゃんとした人間の英語の声になります。
差を間違えると、ドナルドダックの声になります。

大自然は、満足や幸せには関係ない波動を出しているだけです。
木々が緑が輝いているのは、何も人間を幸せにするためではありません。
木々の波動を受けて、人は「差」を取り出すのです(作り出すと言っても良いかも知りません)。
太陽は勝手に輝いているのだ・・・と言ったのは神坂さんでした。人のために輝いてやろうなどと、思ってはいないのだと・・。
つまりキーは、「内部発信」と、「差」だと思います。
内部発信器のスイッチを入れない者は、受信することが出来ません。
でもそれだけでもダメです。差を作り出さないと・・
これはそのまま、時空のと快に通じるような気がしてなりません。
個の感じ方に差が生じるのは、まさに「差」の取り方にあると思います。
つまりテスターを振らせる「電圧」は内部で発生させたものだというのが、私の仮説です。
だから「勝手に満足する顧客」の方が、時空の理に近いのです。
測定器の方が変化する

「ユーザーの立場」からの切り込みが続きます。
さて、不思議研は「勝手に満足する客」を集め、そうでない客は切ります。
勝手に満足する客というのは、自分で幸せ電圧を作り出しているのではないかという仮説を、前回書きました。ここで疑問が生まれます。
だとすれば、時空は「快」の全てを、人間に委ねていることになるからです。
しかし時空は不思議研のように、勝手に満足しない人間を切りはしません。
ということは、人間を含めた時空の変化があるとすれば、勝手に満足しない人が勝手に満足する人に変わっていく方向です。
精神世界の「人は変われる」のような流れになりましたが(笑)、これも視点移動の一つだと思って読んでください。
勝手に満足しない人が勝手に満足する人に変わっていく方向ということは、言い換えれば、センサーの変化なのです。うーん・・・
理科系の世界では、センサーは測定器とも言い換えられ、測定器内部の基準そのものは変わることがありません。
測定器の基準が変わると、データが変わっていなくても、変わっているように測定されるからです。
しかし時空は、まさにそれではないでしょうか・・
今後時空(人間の外側の時空)は何一つ変化しないかも知れません。しかしセンサー(快の測定器)が変われば、もっと多くの快を感じられるようになります。
理系の人にとっては、測定器が変わることは「何を基準にしていいのか、わからなくなるじゃないか」という風になるはずです。
でもひょっとすると、快が増大するということは、こういうことかも知れないと思いました。
つまり「基準」が変わるのです。周囲は、何も変わらず・・
センサーは一定だと思っていた仮説が、ここでひっくり返りました。

P.S.
精神世界風に言えば、勝手に満足する客は進化した人類かも知れません(笑)。勝手に満足しない客が不思議研から切られるとすれば、そのうち自然淘汰されます(笑)。だって八卦鏡すら買えなくなるのですから・・・。
だとすれば私は、客選びで人類の進化に貢献していることになります(笑)。
座標が変化するということ

昨夜は「測定器の方が変化する」と書きました。
これは別の言葉で言えば、「座標が変化する」ということなのです。
例えばXY座標において「1,1」という点があったとすれば、座標が変化(移動)すれば「10,10」にも、なる可能性があります。
普通、「1,1」から「10,10」になることは、10倍の努力を必要とします。
いえ、面積が成果だとすれば、100倍の努力を必要とします。
ところが座標が変化(移動)することで、本人は全く努力無く、100倍の成果を得られます。
今まで報告された多くの事例(私の株とか、ウサギ八匹の事例)から見ても、それは言えるのではないでしょうか・・
ところがその「原因」を追究していく過程で、我々の思考の中では、座標軸は固定されたままでした。
過去から未来までの「時間線」は、固定したまま考えました。
今回テーマの一つとして出た「勝手に満足する客」は、自分をずらすのではなく、自分はそのままで、座標をずらしたのではないでしょうか・・・。
座標をずらす・・宇宙戦艦ヤマトで言えば、「ワープ」にも似ています。瞬間的に、AからBに移動するからです。座標側が動いてくれれば、自分は止まったまま、それができます。
いえ、今回の一連の書き込みからすれば、動くのは両方かも知れません。
たとえそうだとしても、座標が動くという視点は、非常に斬新だと思います。たとえこれが真実ではないとしてでも・・です。

ロバート・モンローさんが体脱から帰ってみると、ベッドに自分の肉体が無い(汗)という事件に遭遇したときがあるそうです。それは一日前のベッドに戻ってしまったらしいのです。
それはひょっとすると、座標のずれかも知れません。
孫さんの蘇生も、座標のずれかも知れません。
結婚式の日取りを変えて、浮気の男を愛妻家に変えたのも、座標のずれかも知れません。
常識に囚われることとか、他人の目を気にすることとかは、座標が固定されているような気がします。
しかし、勝手に満足する客や、求めていないことに幸せを感じられる人は、その瞬間に座標を変化させているのかも知れません。
これが出来るとすれば、自分を全く変えなくても、いくらでも快を感じたり、幸せになったりすることが出来ると思います。
みなさんが私の書き込みにレスをするのも、座標の変化だと思いました。
自分の座標に固執していれば、私の視点に立ったレスが出来ません。
宗教を持つと、座標が固定化されるのですね・・。
座標が浮遊することに耐えられないから、宗教に入るのかも知れません。
上位の問いは、固定的のような気がします。
クリスマスと座標崩壊

昔、私はクリスマスが好きでした。
私が大学生の頃、クリスマスは家庭で過ごすものでした。
デパートの外でクリスマスケーキを売るアルバイトをしたことがありました。飛ぶように売れました。
大きなケーキをみんな買って帰ったのです。そういう景色って、今は無いですね。
当時、神にとても興味があったので、クリスマスは大事でした。
この世を支配しているのは、神かも知れない・・だから、キリストの誕生日は意味があるかも知れない。
ミサに出るクリスチャンの女生徒が清楚で、神聖に見えました(笑)。
あれから30年が経ちました(ゲッ)。
今の私には、神の存在を問うことが無くなりました。なぜなら、神を含めた存在全体を問うようになったからです。
だって神が宇宙を作ったとしても、神は誰が作ったのか・・という問いが残るので、神を問うことは、下位ではなく中位なのです。
クリスマスの意義はどんどん低下して、今は首の皮一枚で繋がっています(笑)。
ところで、幸福の測定器をクリスマスイブに合わせている人は、今日何かのイベントがないと、幸福を感じません(笑)。
しかしクリスマスをどう過ごそうが、誰もあなたのことを見てはいません(笑)。
四次元の、固定された時間軸に刻まれた「クリスマスイブ」という日・・。その点をどう通過するかなど、誰も知ったことではありません。

さて、ここからが本題です。
『運命を変える未来からの情報』を読んだ人の中で反論をしてくるのは、クリスチャンだけです。
「聖書にはそういうことは書いていません」「聖書をよく読みなさい」
地球上にどのくらいのクリスチャンがいるか知りません。でも聖書が無くなったら、彼らはどうして良いかわかりません。座標を浮遊させた世界に入ることが出来ないからです。
聖書は、座標なのです。
座標があると何が良いかと言えば、まず、下位の問いを持たないで済みます。そうすると、人は安定します。
人はどこから来て=神が作ってくれた、どこに向かっているか=神と共に
このように下位の問いに答えてくれているので、自分は上位の問いのみに集中できます。
こうして西欧は、アプリケーション(工業とか)に力を入れて、発展してきました。
でも考えてみれば、ユングが言ったとおり、彼らは自分たちが支配した国に、精神を侵されたのです。
それがキリスト教でした。攻めていった国の宗教に侵されたのです。
でも、さらにユングは予言しています。次は、東洋に侵されると・・・。
それ(東洋)は神の概念が無い国々です。
神の概念の下に、これほど長い間生きてきた西欧が、神の無い概念に侵される・・・
「私は誰でもない」と言う、のっぺらぼうに侵される感じです。
いったいこれからどうなるでしょうか・・
日本は、神の概念が無い(薄い)からこそ、今夜、カップルでヤリまくれるのです(笑)。
神が無い概念・・それは座標軸が無い概念とも言え、勝手に満足する人間達の概念のことだと思います。
勝手に満足する人が増えることは、歴史が変わる一つの象徴であり、神のシステムが崩れていくことだと思うのです。
メリークリスマス・・・。何でも表面的に祝ってしまう日本は、元々崩れているのです(笑)。
順序が逆

ある人が亀レスコーナーに「宗教を体験して思うこと・・」という書き込みをしていました。その中に以下のフレーズがありました。
>ウサギ8匹で救われたお父さんは、何の徳も積まずにこの教団が言うところの「奇跡」を得ました。彼らはこれを邪道とでも言うのだろうか・・。
さて、『運命を変える未来からの情報』に対する反論の中に、次の言葉を言ってきた人がいました。
「森田さん、順序が違います。結果を変えても変わりません。ものごとはすべて原因を直すことが先です。ウサギ八匹で救われたお父さんは、順序が違うので、もっと不幸になるでしょう。」
ファックスDMに対する反論のほとんどが、同じことを言ってきます。
徳を積まないで幸せにはなれない・・と。もしも徳を積まないで幸せになれば、もっと不幸になる・・と。
しかし、ウサギ8匹で救われた家族は、あれから7年ほど経っていると思いますが、幸せに暮らしています。

それでも「順序が逆」とは、うまい表現だと思います。今までの価値観念からすれば、確かに順序が逆だからです。
全ての原因は過去の自分にありました。だからそれらを精算しないといけなかったのです。
原因は、前世にまで遡ることもありました。そうなると、「それって本当に自分の事かい?」と言いたくなるような事まで言われたりしました。
自分を責め続けて2000年・・(笑)。その間、宗教もそれに荷担してきました。
宗教というのはどうも、人間を責めるためにあるのかも知れません(笑)。
さて、順序が逆だと、何がいけないのでしょうか?
それによって悪がはびこるのでしょうか?そうとも思えません。
だって病気も治り、幸せになってしまえば、人をいじめる気もなくなります。
金運が上がってしまえば、盗む気もなくなります。
もしかすると悪の根本的な原因は、自分を責めることにあったのではないでしょうか・・・。
だって「あんたが原因」と言われ続ければ、誰だってメゲます。
そして、もしも私の提案する「順序」が正しいとすれば、今までの人類の方が「順序」が逆だったのです。
だったら「順序が逆だ」などと言っている場合ではないのです。ちゃんと考えてみなければなりません。
世間の言ってきたことを鵜呑みにせずに・・
「神の性質」・・・性質は捨てる方向にあるのか

私は「神の性質」に興味がありました。だからそればかり考えていました。
でも、幸いなことに、身の回りのあらゆるところに神の性質は現れていました。
神は自分の性質の全てを、隠すところ無く出しているのです。
方程式が発見されていく過程は、神の性質が発見されていく過程でもありました。
しかし普通の科学者は思いました。
「性質があるとはいえ、まさか未来まで性質の中には入れていまい・・」
そのまさか・・でした。
神は、過去から未来までの時間の流れの全てを「性質」として、作り置いたのです。
私はこれから何かを発見するでしょうか・・・
発見するとすれば、それはやはり「性質」でしょうか・・・
いえ、そうでないかも知れません。
なぜなら神は、自分の性質を捨てたくてしようがないかも知れないからです。
私は神の性質を知ることで、物理が大変に得意でした。
「距離の二乗に反比例する」と覚えなくても、「不安定」と覚えれば良かったからです(笑)。
しかし、もしも神は性質を捨てる方向にあるのなら、私のアプローチは、そのまま通用しません。
2004年という年

今年は年運の通りだったと思います。
「明」で底上げしたのですが、吉凶のカーブは元旦に振った卦の通りでした。
小さな事故(指の怪我)も、卦の通りでした。
つまり元旦に出した「シュミレーション」の通りの人生を歩んだのです(笑)。
じゃあ、何でシュミレーションだけで終わりにしないのか・・(笑)。
私は好奇心旺盛ですが、別に決まったレールの上でも良いのです。
指外科の待合室で、何もしないでいても良いのです。時空の秘密を考えられるからです。
同様に、あらかじめ決まったことが起こっても良いのです。その間に、時空の秘密が考えられるからです。
さて、私にとって今年の最大のイベントは、「もりけん生放送」だったと思います。
新刊本やDVDブックは、メディアとしては新しいものではありません。サイン会とか講演会も、従来の延長です。
しかし「もりけん生放送」は、従来のメディアにはありませんでした。
ホームページで問いを集め、放送でそれに答え、さらに放送でみなさんに問いを返します。まさに問いと答えの応酬のシステムでした。

作家は、書斎でコツコツと書くのが仕事でした。結果として出来た文章だけが勝負どころでした。しかし「生放送」は、多くの要素が表現として使われます。
「テーマとしての内容」は、もちろん重要です。
でも意外に「喋り方」、「表情」、「動作」、「雰囲気」などが「内容」と同程度に重要なものになったと思います。
私が考えていることを文字にして読むのと、同じ目線の位置からの喋りで聞くのとでは、違うと思います。
しかも参加者は、私にリアルタイムでメッセージを送ることが出来ます。
初放送の成功(笑)をきっかけにして、生放送用の専用サーバーまで設置することになりました。私が生放送にかける意気込みが分かると思います(笑)。
専用サーバーが入れば、肌色部屋以外の人でもリアルタイムで見ることができるようになります。
オープンになるとはいえ、私の考え方を宣伝するのが目的ではありません。自分の考えを表出することで、自分が冲されたいのです。そして新しい考えに気付きたいのです。
それは第一回の生放送で言った「鏡を使った冲」にも似ています。
インターネットの中には、一方的に喋る動画があるサイトは、沢山あります。でもインタラクティブ(双方向)ではありませんでした。
双方向であるかないかは、重要なキーだと思います。おそらく時空と個は、双方向だからです。

さて、みなさんは今年一年、どんな年だったでしょうか?
どんなことが最重要イベントだったでしょうか?
2005年という年に向かって

もうすぐ2005年がやってきます。
巷では「一年の計は元旦にあり」などと言い、一年間の抱負などを述べることがあります。
ところで昨日、ある人が良い書き込みをしていました。
「昨年の秋に、仲間内でビジネス関係のセミナーがありました。その時、最後に、一年後に自分がなっているであろう姿を、色紙に書きました。そのセミナーを私は、とてもいい加減な気持ちで出席しました。お付き合いの気持ちで。みんなはとても真面目に色紙に取り組んでいました。私は、なかばどうでもいいや、という気持ちが強かったせいもあり、なかなか書くことができませんでした。」
こういうセミナーにありがちな「ビジョン作り」です。
私は今そういう羽目になったら、その場でセミナー室を出るか、なぜ書かないかを表明すると思います。
世の中には「成功本」(笑)というジャンルがあると思います。どうすれば「幸せなお金持ちになれるか」を書いた本です。
その中の多くは、プラス思考に生き、成功したイメージを持ちなさい・・というものです。
そしてその大半は、著者自身がゴールに達したかのように書いてあります。
つまり「こうすれば俺のようになれるぞ」と書いてあるのです。
願望を紙に書くとか強く思い続けるとか、手段は様々ですが、一様に共通点があります。
それは・・・その先が無いのです(笑)。
(笑)という文字を付けましたが、笑いどころではありません。
ある人が亀レスコーナーに、『「私」病が治るとき』という書き込みをしていました。
富豪になったら、「私」病が治ったというのです。
そこから受ける感じは、「一つのゴールに達した」・・というイメージです。
しかし、私から見れば、貧乏だろうが富豪だろうが、同じように見えます。いえ、同じなのです。
私は不思議研究所を始めたとき、会社は黒字ギリギリでした。
今年の中国紀行でダンさんの盲師派四柱推命を受けたとき、その時期のことを「会社を維持させるのに精一杯の時期でした」と言われました。
実際にそうでした。私がわけも分からない不思議調査を始めれば、経費だけが加算されるはずでした。それでも下位の問いには勝てませんでした。
お金が貯まったら好きな事をやろう・・という人がいます。でもそれが理由である限り、その時期は来ないと思います。

さて、ここからがメインのテーマです。
今、私は億万長者になりました(笑)。株で儲けた金で、一等地に100坪の土地まで持っています。本の印税だけで年間、一千万円近くあります。
会社からの収入だって、おそらく並ではないのに・・です。書く気になれば、成功本も書く立場にあると思います。
しかし、そういう気は起こりません。それどころか世の成功本の著者に、問いすら発したいです。
実際、神田さんのセミナーでは冒頭に質問しました(その会に参加するには「既に成功した経営者」という条件が付いていたからです)。
「あなた達は何のためにお金を儲けをしているのですか?」
さて、私が億万長者になることで、時空の真理を得たでしょうか?
もっと言えば、億万長者になることが、時空の真理と何の関係があるでしょうか?
私とサラリーマンは、時空の真理の前に、何が違うでしょうか?
私と主婦は、時空の真理の前に、何が違うでしょうか?
何も違わないと思います。だから成功本など、書けるわけがありません。
「一年後に自分がなっているであろう姿」は、自分が三次元で目標とする姿だと思います。
それをイメージして、それになって、いったい何だと言うのでしょうか?
真理の前に、そのイメージが、何だというのでしょうか・・・
地球上の全員がスタートラインにすら、立っていないのに・・です。
自分がゴールに達したような本など書くのは、猿以下も甚だしいです。
2005年を、どういう年にしたいか・・・2005年に、自分はどうなりたいか・・
年初ですから、様々な思いが浮かんでくると思います。
年運の通りに生きるか・・年運を変えて生きるか・・
六爻占術をやっている人にとっては、これも重要な問題です。
しかし、これらは全て三次元の問題であり、上位の問いだと思います。
私は自分に起こることは、サンプルであり、データだと思うようになりました(笑)
貧乏も富豪も、データです(笑)。

みなさんは、2005年に何を期待しますか?
2005年をどのように生きたいと思いますか?
書き込み期間:2004/11/30〜2004/12/31