もりけん語録
テーマ:「メインコーナー2005.01」
書き込み期間:2005/01/01〜2005/02/02
要旨:
今月、文庫本『「私は結果」原因の世界への旅』が出版されます。「私は結果」という題名には相当インパクトがあると思っています。
しかし、私達は長い間「私は原因」という概念で生きてきました。「私は原因」はさらに「私は手段」「私は目的」に分けられます。
「私は手段」とは、「あなたが変わって世界を変える」と言って、自分を手段として社会や世界を変えようとします。
「私は目的」は、自分の幸せを追って人生を良くする路線で、願望実現もこの一つです。
どちらも正当化されますが、これらは自分だけが拡大されて周りが見えない視点になります。逆に「私は結果」となると、自分が豆粒の様に小さくなって全体が見渡せる視点になります。
「私は結果」だということは、物(人)を所有することも、出来事の詳細な筋書きも、全て結果として決まっているということです。
時空の方で所有権の移転が行われた結果として物が人の手に渡るのであり、時空の方で詳細なディテールに至るまでシナリオが書かれた結果として恋愛などの顛末が決まるのです。
時空の決め事というのも「仮説」です。仮説を作っては壊す試みをやっているのが時空ではないかと思います。

伊勢神宮の和尚さんから私のところに書簡が送られてきているのですが、それには自力と他力について書かれています。
親鸞聖人が始めた浄土真宗は他力思想を説き、個のカルマを全面否定しているのです。これには私も驚きました。
親鸞は鎌倉時代、苦しみを抱えている人々に対して「現実は変えようがない」と言い、偽りの夢や希望を持たせる教えは一切説かなかったそうです。
そして和尚は、浄土真宗の限界を知りながらも真実を追い求めようとし、実名で自分の考えを公表する意志をもって私に書簡を送ってきている人です。

和尚の書簡とHPでのレスをきっかけに、「全体は本当にあるのか」という問題提起が出てきました。全体も結果である可能性は考えられないかと思ったのです。
そうだとすれば、自力でも他力でも大きな違いはなくなり、「他力こそが本当の行である」とも言い切れなくなります。もし全体が行を行えるとすれば、全体はカルマを残すことになります。
理論上は、有限の閉鎖系であっても五次元は成り立ちます。そうであれば、全体はあることになります。それでも、「全体はない」という可能性も捨て切れません。
しかし、個しかなくても全体があるような構成というのも考えられそうです。例えばインターネットなどはそういう構成だと言えます。
またメダカの集団は、個々が意志を持っていなくとも、単純なルールだけで全体としてまとまりのある動きをするようになっています。
個も全体も無くても、それらが存在するかの様に駆動するような仕組みになっているのが、時空のシステムなのかも知れません。

親鸞は真宗の教えを商人達にも伝え、商売を奨励してきたそうです。
現代でも、商人が他力思想を理解したときには、大きな流れに乗って国を動かせる位置に立てるのではないかと私は思います。
真宗的生き方とは真実を追求する生き方だといいます。それは様々な場面に通じるものではないかと思いました。
私は手帳が真っ白の状態を作るために分刻みのスケジューリングをするのも、本流の中央部に移動して流れに向かって泳ぐように「仕事を追う」スタンスをとっているのも、真宗的生き方に通じているかも知れません。
私は中学の頃まで感情の少ない子供だったのが、高校に入って下位の問いを持ってからは感情を大切にするようになりました。これも真宗的生き方に通じるかも知れません。
「他力の行」はどんな場面でも語れるものでなければなりません。またそうであってこそ真宗と言えるのではないでしょうか。
時空の川幅はとても広いと思います。私は人間の価値判断を超えた向こう側の世界が見たいです。
目次
○ 「その先」1
○ 「その先」2
○ 「その先」・・最近の世相感
○ 自分へのご褒美
○ 「私は手段」「私は目的」「私は結果」
○ あんたは平社員
○ 疑問文禁止の会社
○ 人は必要とされたい
○ 「経済価値」と「飯の種」
○ 時空所有論
○ 芽のアンケートと仮説
○ 時空の調査と生き方の変化
○ 自力から他力へ
○ 和尚の書簡
○ 同窓会と人生
○ 和尚さんからのメール1
○ 「全体」って本当にあるの?1
○ 「全体」って本当にあるの?2
○ 身近なところの法則性・・それはシンプル・イズ・ベスト
○ 五行のメダカは時間と空間を超える
○ 次の話題への架け橋としての書き込み
○ 「今、幸せなのに・・・」
○ 『不思議の友』1
○ 『不思議の友』2
○ 神坂さんの『不思議の友』の感想文
○ 手帳を真っ白にすること
○ 商人が「他力」を理解すると、すごい
○ 他力的生き方と感情
○ 和尚さんからのメール2
○ スープと価値観
○ 人生に「プラス」は無い
○ 和尚さんからのメール3
○ 時空快感プレイ
○ 和尚さんからのメール4
○ 「それは、違うと思います」「これを待っていたんだ」
○ 和尚さんからのメール5
「その先」1

今日はタイプの違う二人の甥と話しました。一人をA、もう一人をBとします。
Aは現在25歳であり、5歳年上と結婚して子供も二人いますが、今月独立する予定です。とりあえず、雑貨のフランチャイズを始めるそうです。
Bは30歳で独身です。彼は三年前に広告代理業を始めて、三期連続の黒字経営です。南青山に事務所を構えています。
どちらも私の影響を強く受けていると言っています。
Aは自分をラッキーだと思っているタイプです。Bはそんなこと、どうでも良いです。
Aはお金を儲けることに興味があります。とりあえず、会社の経費で毎年ハワイに行きたいと言っています(笑)。
Bは、お金儲けだけでは気が済まず、自分の文章を残そうとしています。東京の地下鉄の駅に置かれている新聞は、その大半を彼が書いています。
先日Bは、六本木ヒルズで行われたIT産業の、連絡会議に出たそうです。楽天だのヤフーだのの偉い人が出席しました。
出席者の言動を見て、金儲けのレベルが全然違うと思ったそうです。
でもBは言いました。「彼らには『その先』が無い・・」

「その先」・・この単語は、昨夜書き込んだばかりでした。
「私は「主婦」の私ごときなんて思ったことないです」という書き込みをした人がいました。では訊きます。主婦の先は、何ですか?
昨夜の書き込みの主要部分をもう一度書きます。
**********************
願望を紙に書くとか、強く思い続けるとか、手段は様々ですが、一様に共通点があります。
それは・・・その先が無いのです(笑)。
(笑)という文字を付けましたが、笑いどころではありません。
***********************
自分は「主婦」の私ごときなんて思ったことはない・・では、その先は?
自分は××と思ったとことはない・・では、その先は?
家族でハワイに行き、ビーチでごろりとする(笑)・・とても素晴らしい「先」だと思います。
既に二人の子供もいながら、25才で独立して商売を始めるAは、それなりにリスクを賭けています。自分を常にラッキーだと思える彼は、たぶん達成すると思います。
さて、「その先は何か?」という問いは、実は大変に大きな問いだと思います。もちろんこれは下位の問いではないかも知れません。
しかしみなさんは、この問いにどのように答えますか?あなたの「その先」は、何でしょうか?
「その先」2

甥のA君は、ハワイでのんびりして、それで満足するタイプです。
25歳にして「俺ほどの人材をサラリーマンにしておくのは、もったいない」と強言しています(笑)。
しかし、既に辞めようと決心している今の会社で、適当に仕事をしているわけではなく、今日から既に会社に出ています(出ているのは一番年下の彼だけ)。
宝石店に勤める彼には、顧客が沢山付きました。あるお客がダイヤの指輪の修理を依頼してきました。しかしそれを紛失しました。
途方に暮れた彼は、トイレでコインを振り、私に依頼してきました。私の判断は「上司のポケットにある」でした。
そして・・本当にそうだったのでした。ケースにしまったのに、何故・・
あんなに良い性格のA君がなぜ嫌がらせをされたのか、不明です。
独立の話は、外から舞い込みしました。それに乗って、受け身的に独立するのです(笑)。
「ケンちゃんおじさんだって、あんなに楽して儲けている」これが口癖だそうです(笑)。

話はB君に移ります。
B君は、完璧に私がターゲットです(笑)。私が独立した27歳が、彼のタイムリミットでした。勤めていた広告代理店に辞表を出したのは、私と同じ年でした。
でも私を追う彼は、今年一つのハードルがあります。私は30歳で結婚しているからです(笑)。彼は今、29.5歳です。
「どうしても今年中に相手を見つける」と宣言しました(笑)。
今回彼は、自分の成果を私に披露しました。
サッカーの中田英寿や、ライブドアの佐藤社長や、筑紫哲也にインタビューした記事を見せてくれました。セックスボランティアに関する取材記事も面白かったです。
しかし、どう見たって問いは上位です。その部分を突っ込みました。
彼は言いました。「ケンさんから、それを言われたかったんです」・・と(笑)。
インターネットによる表現は、今後どう変わるか・・という話になりました。
私は「もりけん生放送」を見せました。興味深げに見ていました。
でも「僕のホームページも見て下さい」と言って出した画面には・・ある事件が起こってから、どのくらいの時間が経っているかが、秒刻みで表示されていました。
刻々と、過去に流れていく時間・・・うーん・・・面白い・・
もしもこれをパクるとすれば、生放送からどのくらい時間が経っているかを表示させるだけでも、面白いです。
あらゆる事は、どんどん「過去化」される・・。

さて、ここからがメインの話です。「その先」とは何でしょうか?
「その先」が本当に「先」であれば、たぶんいくら待っても来ないと思います。
願望を持った瞬間、「その先」は消え失せます。神社でお賽銭を投げて、願掛けをした瞬間に、消え失せます・・紙に願望を書いた瞬間に、消え失せます・・。
もちろん願望を持つ人は「その先」などに興味がないから、消えても問題ではありません。
しかし私の経験によれば、「その先」が「先」ではなく「今」になった時、願望すらも実現される。しかし本人は、実現されたとも思わない・・。
「その先」というのは「今」にしか、ないと思います。
「その先」・・最近の世相感

「その先」というテーマに関連して、最近の世相感を書きたいと思います。
21世紀に入り、大きな変化があったと思います。それは、「精神世界」の減衰です。
逆に言えば、世紀末までは精神世界の全盛期でした。自分を変えなれば生き残れない・・と本に書く人が多かったです。あなたが変わって、世界を変えるのだ・・と。
つまり「その先」は、世界変革なのです(笑)。
ある人が「こういう「爆発するような喜び」ってもっと社会の中に沢山つくりだせないんでしょうかね?大きく社会が変わると思うんですが・・」という書き込みをしていましたが、社会が変わるというのも「その先」なのです。 自分は手段であり、その結果は、社会とか宇宙なのです。
この傾向は、次第に少なくなりました。その代わり、今度は自分が目的化されてきたと思います。昨今ベストセラーになる本は、大抵その路線をいっています。
「自分」というものが、手段から目的に変わったのです。
この変化は、私としては良い変化だと思います。手段よりも目的の方がよっぽどマシだからです。
なぜなら、「私は手段」から「私は結果」に移行するのは、並大抵ではありません。
ところが「私は目的」から「私は結果」への移行は、それほど多くのステップを必要としません。
「私は目的」を一言で言えば、自分の幸せを追うのが人生だということです。言い換えれば願望実現と同じです。

ここ数日間で、このHPの流れが少し変わりました。願望実現派には出て行ってもらいました。シフトする時は、必ず別れがあります。
二年ほど前、サトルエネルギーという団体に絶縁状を突き付けました。あれがないと、今の私はありません。「私は手段」などと言う団体に、いつまでも迎合していられません。
ここ数日は、「私は目的」がターゲットとなりました。
六爻占術をやっている多くの人は、年運を振ったと思います。そして悪い部分に変更をかけ、人生を良くしようとするはずです。
でもそれだけでは「私は目的」と、何ら変わることが無いことを知っておいて下さい。
願望実現派を批判しながら自分ではセコセコと運命を良くする(笑)。
別に批判しているわけではありませんよ・・「自分が良い状態」であることは、「前提」だからです。
さて、私の抱負を言います。
今年は、自分の幸せのためにだけ、私に接近して来る人を切ります。つまり三次元の幸せ(財、呂、地、法)だけの関係を絶ちます。仙人の世界からの脱出です(笑)。
自分へのご褒美

自分にご褒美をあげる人がいます(笑)。私はそれをしません。
例えばイチローが「安打を××本打ったら、自分にご褒美をあげよう」などと思うでしょうか?(笑)
もしも記者会見でそんなことを言ったら、かなり白けると思います。
「やっぱり記録が問題なのかい?」「そんなに一位を取りたいかい?」
イチローのご褒美は、打った瞬間に精算されなければなりません。
幼稚園児に報酬(ご褒美)を上げると絵が下手になるという実験のことは、下条さんのコーナーの時にも話しました。
事柄は、分断されてはオシマイなのです。
ご褒美という概念は、願望実現にも通じます。どちらも結果への執着があるからです。
自分は結果のくせに、結果に執着・・・ループ状態です(笑)

6年前にハワイに行く飛行機で、私の隣はある会社(中小企業)の社長でした。
彼はナポレオンヒルの教材を買い、願望実現をしました。そして自社ビルを持つまでの過程を私に話しました。
そして、今は、家族でハワイ旅行だと言いました。「これが自分へのご褒美なんだよ・・」と付け足しました(笑)。
私はパソコンを打っていました。彼は訊きました。
「ここまで来て、仕事かい・・。忙しいねぇ。何をしてんだい?」
「本を書いているのです(『不思議の科学』でした)。」
「えっ、だって社長だと言ったじゃない?あなた、本なんか書けるの?まだ出版社なんて決まっていないんでしょ?これから売り込むんでしょ?」
「出版社は決まっていまいすよ・・」
「どうやったらそういうこと出来るの?」
「ん〜、私に聞かないで、ナポレオンなんとかで、やりゃいいじゃない・・」(笑)

ハワイのホテルに着きました。まだ朝でした。
私達は手荷物入れに水着を入れていました。なぜなら、混んでいるお盆シーズンだと、チェックインが15時だからです。
私たちは着替えてプールで泳ぎ、プールサイドのカフェに上がりました。すると飛行機で隣だったナポレオン氏が、電話で怒っています。
彼らの水着はスーツケースの中でした。でもそれはホテルの荷物配送係が預かりました。
巨大なホテルなので、部屋に届くまで、客は手にすることが出来ません。
しかし、私が逆の立場でも、あそこまで怒らないと思います(笑)。彼はカンカンでした。
ご褒美の旅行の始まりのシーンでした・・・。
私はプールサイドの椅子に腰掛けると、本の続きを書き始めました。ご褒美は、海の風で十分でした。
事柄は、分断されてはオシマイなのです。
私が本を書くくだりを入れたのは、私にとってはどこが仕事場でも関係ないのです。
もっと言えば、下位の問いには、場所と時間が関係なくなるのです。
しかしナポレオン氏にとって、ハワイはご褒美バカンスにしかならないのです。
彼は、たぶん本を書きたかったのだと思います(笑)。だから異様に興味を示しました。
そしてナポレオンヒルの教材を使えば、本を書いて出版するところまではいくような気がします。願望実現系の本なら、簡単に書くことが出来るからです。
しかし、本の内容はどうでしょうか?願望実現の決定的欠陥は、そこにあると思っています。
自社ビルを持っても、数億の年収を持っても、彼は私の「執筆活動」に嫉妬した・・。
それはおそらく彼の到達できない地点だから・・
しかし、願望を捨てれば、いつでも私の書くような本が書けることを、彼は知らない・・。
「私は手段」「私は目的」「私は結果」

表記の三つのフレーズは、昨夜出てきたものです。
うーん・・見るからにすごい(笑)。精神世界は、この三つで分類できそうです。
「私は手段」は、人を駆り立てることが出来ます。
大きな目的のための手段になることは、その目的を正当化すれば、あとは「何故それに向かわないんだ?」と責め立てれば良いからです。
そしてその手段になることが幸せなのだという筋書きになるのが普通です。
地球を救おう・・社会を良くしよう・・・みんな「私は手段」です。
しかし世紀末を境に、「私は手段」が減りました。その後に台頭してきたのが「私は目的」です。
「私は目的」は、まさに今話題になっている「願望実現」です。自分を目的化して、自分に付随するものをアップしようとします。
幸せなお金持ちになる・・・余裕ある人生を送る・・
しかしそれは財などにとどまらず、精神分野にも言えます。
愛が溢れる自分になる・・・器の大きな人間になる・・・
とにかく自分に関することをアップさせようというのが「私は目的」です。
これも正当化されます。だって教育はそのためにあるのですから・・。
そして「私は手段」と「私は目的」がジョイントしたのが、一般的な宗教かも知れません。
「私は手段」も「私は目的」も、はっきり言ってウンザリです(笑)。
何を根拠にそんなことが言えるのかと訊けば、彼らに理由などありません。理由を訊くこと自体が嫌がられます。
カメラをズームアップしてしまったような状態です。周りが見えないのです。
『私は結果』という本が今月出ますが、内容よりも題名にインパクトがあると思います。
カメラのレンズが一気に引き、自分が豆粒のような感じになるからです。
あんたは平社員

「私は手段」、「私は目的」の共通項がありました。それは「私は原因」です。
自分を手段にして、自分以外の何かのためにする時、自分はそれを作り出せる「原因」になれなければなりません。
また、自分の器を大きくしたり、自分の精神性をアップしたりするような時も、自分は自分で変われる・・という「原因」になれなければなりません。
「私は手段」では、素材が外の世界となります。「私は目的」では、素材が自分自身となります。
素材をこねて、変形させる原動力になれるのは、「その原因になれる自分」です。
手段か目的かというのは、大差のない概念です。だって「私は原因」で括ることが出来るからです。
「私は原因」・・この概念が長いこと歴史に君臨してきました。
歴史を変えるには、あなたが変わらなければならない・・・。
自分を責めるのが、人類の歴史でした。その世界観では、外の世界が「結果」でした。それを当たり前のように信じてきました。
「私は手段」、「私は目的」から「私は結果」の間にある壁は、相当高いです。概念としては、ほぼひっくり返ります。

会社の組織で言えば、「原因」は社長に近いです。社長が色々と策を練るからです。
いわゆる会社の原因を作り出します。そしてそれをするのは末端の社員ですから、命令系統で言えば、社員は「結果」です。
つまり原因から結果への反転は、社長から平社員への降格を意味しています。格下げされるのは誰だって嫌なはずです。
でも社員になってホッとすることもあります。責任が無くなるからです。
しかし、ここから出発する世界は、すごいかも知れません。だって、社長はいないかも知れないからです。
社長がいない世界は・・りんごの部屋で一人遊びにふける私の会社のようです(笑)。
冗談はさておいて・・・、社長がいない世界は、全存在が対等な世界かも知れません。
疑問文禁止の会社

昨日、ある人が次の書き込みをしました。
『わたしは今まで、自分が原因だと思ってやってきました。売り上げ上がんなきゃ私がダメ、問題起これば私。社員がそうじしないのはわたしがダメ。これは一見カッコイイですが、大変なことになってました。誰も何も考えなくなってました。もともとリモコンロボットなので、考えても意味不明なのかもしれませんが、なんていうか・・すっかり依存体質だったです。依存はなにで分かるかというと、疑問文です。電話かかってくる内容は疑問文、メールくるのも疑問文、口を開けば疑問文。そして、全部答えを出すのは私、なので失敗しても私。なんだかある日突然もう、いやだ、と思いました。なんでだれも何にもかにも私に聞くんだよ。全部分かるわけねーだろと思いました。そして、私はこのHPでなんでこんなにがんばってるんだ、(?)と思いました。(汗)疑問文禁止だったからです。。。多分。
聞きたいことは山ほどあるけど、聞けないし、仮説だし。だからといって依存してないかというと難しいですけど。
そして、全員に疑問禁止メールを打ちました。』

ここメインコーナーは疑問文禁止ですが、会社での普段の私も、疑問文禁止です。
いえ、禁止どころか、社長がいないのですから、疑問のぶつけようがありません。
しかも社内にいる時は社長は女装だったりして、社員は疑問詞だらけですが・・(笑)。

私がなぜ疑問文禁止の生活を送っているか、分かりました。疑問文というのは大抵、上位の問いなのです。その問いに答えていると、前頭葉が上位に占領されてくるのです(笑)。
私の妻も、私が考えている時は話しかけるのをやめるくらいです。
先日もビデオの設定がおかしくて、私を呼びました。私は何も喋らずに「考えている中」のサインを出しました。妻も何も喋らずに「分かった」のサインを出しました(笑)。
私は黙ったまま、ビデオの設定を変えました。
なぜ黙ったままかというと、メインメモリに浮遊しているからです。
こうして考えると、何もしない部屋がいかに大切かが分かります。
会社の組織がハイアラキー(枝分かれ構造)なのは、問いと答えの構造だと思いました。
下の人は上の人に問いを発して、答えを求めるのです。
もしも上の人がいなければ、自分で考えるか、他の人に聞くしかありません。そういう会社は、いやがおうでも活性化すると思います。
さて、このHPを会社に例えれば、私は社長に近い存在かも知れません。普通の会社でも、社長には問いが集まってきます。つまり「答え」を提供するのが社長の仕事です。
このHPは「なぜ疑問文禁止なのか?」と思った人は多いと思います。
もしもそのルールを撤廃して私が問いに答えるようになると、答えているとき私はメインメモリに浮遊できません。
そして答える側に回れば回るほど、私は問いを発する場面が少なくなります。
問いが減れば、私の概念で言うところの「成長」(変化とも言い換えられます)が止まります。
宗教の教祖になると答えることが多くなり、成長が止まるのだと思います。答えの世界に入ると、変化が少なくなるからです。
ということは、時空は私たちに問いを発していません。そして、私たちが問いを発しても、簡単には答えないわけです。
疑問文禁止の会社と同じです(笑)。うーん・・面白いことに気づきました。
人は必要とされたい

私は大学で電気工学を学びました。妻は文系です。
ビデオが不具合を起こした時、それは私の専門です。その時を逃したら、私の存在価値は無いと言っても良いくらいです(笑)。
私が直したのを見て娘は「やっぱりパパはすごいね」とは言いません。直せて当たり前だからです。でも満足げに見ています(笑)。
だから私は、直し方を絶対に教えません(笑)。それは私の領域だからです。
もしも文系のパパならば「ビデオくらい直せないの?やっぱり電気屋さんを呼ばなくちゃダメかしらね・・。でも森田さんの旦那さんは自分で直すのよ」と言われるかも知れません。
だから私が直しているのを見て妻は「ああ私はこの人と結婚して良かった」と思うかも知れないし、娘は「このパパを選んで生またのは、間違った選択ではなかったんだわ」と思うかも知れません。
あはははは・・(笑)。でもこの話は、笑い事ではありません。
なぜなら、答えを出す人は、その内部のノウハウを公開したがらないからです。
上司に聞いた時、その答えを得ても、何故そうなのかを教える上司は少ないかも知れません。なぜなら上司は、そのノウハウで、上司たり得るからです。
上司が知っているのは、「答えを出す方程式」なのです。彼は経験からその「方程式」を得たからです。タダで部下に教えるほどバカではありません。

人が知らないことは、人から必要とされます。そして、必要とされたとき、人は幸せを感じます。
これがあるから、権限委譲を出来ないのかも知れません。全ての権限を委譲すれば、自分は誰からも必要とされなくなるからです。
会社で疑問文禁止令を出した後、対面するのは孤独感かも知れません。
逆に言えば、孤独になりたくなくてビデオの直し方を教えないのであり、孤独になりたくなくて会社の意志決定のノウハウを公開しないのかも知れません。
人は必要とされたい・・だから答えたい・・でも答えを出す「方程式」は教えない・・のだと思います。
生き方の本が売れるのは、よりよく生きるための「方程式」が書いてあるかも知れないと思うからです。
金儲けの本が売れるのは、ガッポリ儲ける「方程式」が書いてあるかも知れないと思うからです。
それらの方程式を経験則と呼びました。
しかしその方程式が全く役に立たなくなる時が、目前に迫っています。上司に聞かずに「未来則」に聞く方が良いからです。
「経済価値」と「飯の種」

以前にも書いたことがありますが、富士通を辞めてから会社を興すまでの間に、簿記学校に通いました。そのとき、「値引きの処理」というのを勉強しました。
値引きをすると、資産勘定から減らすのです。
これを見て私は先生に言いました。「値引きをするとモノの価値が減るんですね・・」
先生は答えました。「モノの価値は同じですよ」
このやりとりを聞いていた生徒の一人が言いました。
「森田さんは頭がいいなぁ(笑)。確かにモノの価値は減ると思います・・」
このやりとりは決着しませんでしたが、私はそのとき真理を得たと思ったのです(笑)。
芸術作品が経済マーケットを通った時、私は猿以下とは言いません・・という書き込みをしたことがありました。それはまさに上記のことと関係します。
芸術作品とて、値引きされれば価値は減るのです。だから、いい訳など利くはずはありません。
「飯の種」とはまさに、経済マーケットの話です。
私は会社の経営をしながら下位の問いをしています。最近は、下位の問いから派生した物の中から、経済マーケットに出せる物は出しています。
「六爻占術」という商品は、下位しょうか?上位でしょうか?
切り口では両方になれるのです。だから私は、それを売りながら下位の問いを実行しています。
売る方法としてファックスDMなどを使います。それは完璧に上位です。

だからこの三次元は、上位のためにあると言っても過言ではないと思います。なぜなら常に「飯の種」がついて回るからです。
いわゆる高次元の存在たちは、エラソーなことを言います。言えて当たり前です。彼らには「飯の種」というファクターが欠落しているからです。
「人から必要とされる」というのは、「需要」です。「求められる」ことです。その状態を作りたくて、世の中の人は躍起になっています。
確かに下位の問いは重要です。でもそれを持ったからには、上位の問いを下位の問いで考えることが出来ます。
金融マーケットの仕組みとして時空も考えてみたいと言っていた人がいましたが、それもアリだと思います。
それは何故かと言えば、運命変更が決まるポイントは、需要と供給の接点そのものになるような気がするからです(あくまでも「気がする」程度ですが・・)。
未来則を知った者がばかりマーケットの中に増えれば、未来の幸運をゲットするのもやはり需要と供給の関係になると思うからです。
今は六爻占術をやっていない人が多いので、逆に彼らが「未来則に関しては無知なマス」を形成しています。でもそれは、今だけの話かも知れません。
「飯の種」や「経済価値」が高次元に押し寄せる日も、近いかも知れません(笑)。
時空所有論

昨日は、経済における需要と供給について考えてきました。今日は「所有」について考えます。
実は肌色部屋で、孫さんが出した芽は誰のものか・・という議論がありました。
そのとき以下の意見を入れた人がいて、その人の承諾を得たので、その意見をここに出します。時空を解明するための大きな一歩になると思うからです。
『豆は誰のものでないと思います。豆は、独立して、そこに存在しているのだと思います。そして、同時に、時空全体におよぶ・・運命の轍につながれて、存在しているのだと思います。そもそも所有とはいったいなんでしょうか?所有という概念は、人類が「作り出した」ものなのではないでしょうか・・』
私はこの表現はおかしいと思いました。
スーパーの二階に行けば、500円くらいで植物の種が売っているときがあります。それを買って芽を出した場合、その芽は「私のです」とは言えないでしょうか?
あの豆は孫さんが中国から持ってきました。そしてセミナーが行われる前日、孫さんが自分のパワーを入れた水に入れて、スタンバイ状態にまでしました。
所有関係から言えば、やはり孫さんのだと思います。
しかし世の中には、そういう風に考えない人がいます。上記の書き込みのような考え方です。
「所有」は人間が作り出したもので、それとは関係なく事象は存在する・・と。
こういう考えに対しては、「この人、カッコつけている」などと反論するのが普通ですが、それではわざわざメインコーナーに出す話題ではありません。

ここからがメインの本論です。
六爻占術の宿題をやっているとよく遭遇しますが、たとえば家などを買ったケースです。私の判断として「この人は家を買いましたが、ローンを払っている最中なので、まだ自分の物にはなっていません」とトラさんに送ると「森田さん、正解です」などと返事が来ます(笑)。
つまり、物の所有権が卦に出るのです。
男女の占いも同様です。「相手には既に付き合っている人がいます」とか「結婚証明書が空亡なので同棲中です」などという答えが出てきます。
つまり、広い意味での男女の所有関係(笑)が卦に出てくるのです。
だとすれば「所有」というのは、人間が作り出した概念ではないのです。
浮気をしたからそれが卦に出るわけではないのです。卦に出ているから、浮気をせざるを得ないのです。
時空が物とあなたの「所有関係」を作ったから、物が自分の所に来るのです。
つまり資本主義社会の貨幣売買も、すべて時空側がエネルギーとして先に取引した結果、この世の物質が付いてくるのです。
だから所有という概念は、人間が作り出したわけではないのです。
もちろん豆は、独立してそこに存在するわけではありません。だから芽が誰の物でもないというのは、時空の捉え方がまだまだ「正義感的」なのです。
なのに「私は結果」とか「宇宙の始まりからすべて決まっていた」などと、よく言えるものだと思います。

さて、もう少し深く入ります。
物を所有するということは、「正義感的」な人の言うように、どう考えても人間俗世間の出来事です。
地球の表面の一部を売り買いして、それがローンがあろうがなかろうが、時空の知ったことではないと思います。
しかしローンが残っていると、父母が応爻に来たりします(土地がまだ自分の物ではないという卦です)。
お金を全額支払い、登記所で抵当権抹消をすれば、世爻(自分のところ)に来るのです。
でもその土地に、物理的な何かの変化があったわけではありません。
私は入札で土地を手に入れましたが、あれから今までずっと更地のままです。なのに卦では、所有権が変わったことが出ているのです。
しかし、前後の変化と言えば、更地でフェルルが遊んでいるかどうかの違いしか、ありません(桃の木も植えましたが)。
お金の支払いは経済の問題ですが、抵当権抹消と所有権移転は法律の問題です。
法律は、人間が作ったものではなかったのでしょうか?
もうここまで書いて分かったと思いますが、あらゆる事はすべて「結果」なのです。
芽は独立に存在しているとか、所有は人間の作り出した概念・・などと言っている場合ではないのです。
時空の解明は、何も特殊な世界の出来事ではありません。
あなたがハーゲンダッツ一つ買えるのも、時空で所有権の移転が行われた結果なのです。
ハーゲンダッツは確かにお金のやりとりがあります。
しかし浮気はどこで、卦に出るのでしょうか?キスをした時でしょうか?それともエッチした時でしょうか?
所有ということを一つとってみても、とても不思議です。
大学で「時空所有論」という科目が、そのうち出来るかも知れません(笑)。それはいったい何の学部に出来るのか、想像もつきませんが・・。
芽のアンケートと仮説

芽のアンケートで、全部に「無回答」と書くことも可能です。
だって、芽を食べていない人にとっては、実際にその場になってみないとわからないからです。
さて、時空はどうでしょうか?すべてに回答を書いていると思います。
昨日は「所有」という概念について考えました。
物を買うとき、時空の側で所有関係が移るから、私達に物が来るのです。
ではお金を払うとか、物を包装紙に包んで手渡されるとかも、時空が決めることでしょうか?
はい、そうです。
お金を払うという行為は、卦の専門用語で言えば、「兄弟」に出てくるのです。
家を買う契約が出来るか出来ないかを占うとき、「兄弟」が発動していないと買えません・・・とか、判断するのです。
つまりお金の出費から、家を買えるかを判断するのです。
包装紙も卦に出ます。
テキストには射覆といって、密閉されたものの中に入っているものを占うことが載っています。そこには「紙に包まれたもの」という情報が出ていたと思います。
つまり、シナリオは極めて詳細に書かれているのです。
ある人がキスをしようとします。「君が好きだったんだ」とか言いながら、相手の顔を見つめます。ドキドキしながらも、彼は彼女に口を近づけていきます。二人は「もうダメだ的」に目をつむります。
そして、唇が触れ合い・・・暖かい唇を感じます。でも、少し離れます・・ちょっとまた目が合います。でもそれもつかの間、今度は激しく求め合います。
キスシーンのシナリオも、すべて時空が書いているのです。だからあなたに、何の責任もありません。
俳優が浮気の役をやったとして、誰が咎めるでしょうか?・・それと同じです。

さて、これには異論があるかも知れません。
つまり時空は大筋を書くけれど、細かい部分は、人間のアドリブに任せる・・とか。
だって卦には、キスシーンの詳細は出てきません。
しかしみなさんも経験があると思いますが、人はディテールにこだわります。「大筋」よりも「詳細」がすべてを決定する時の方が多いです。
なぜ彼と別れたいかと聞けば「彼の食べ方が許せないの」・・とか(笑)。
時空にとって、「食べ方」はアドリブのはずでした。でもそれが原因で宇宙の流れが変わっては困ります。
つまり極めて詳細にシナリオは書かれているのです。
さて最初に書いた、孫さんセミナーの芽の件で言えば、時空はあらかじめアンケートに答えています。
「その時になってみなけれれば分からない」・・などというスタンスを取っていません。
私は「仮説」というものを考えるのが好きです。仮説とアンケートは似ていると思います。
だから「その時になってみないと分からない」・・というのは、仮説ではないのです。
と言うと、時空の書くシナリオも「仮説」だと思います。そして時空は仮説を作り、それを壊すのも好きなのです。
時空の調査と生き方の変化

今日は時空の調査編ではなく、時空の調査と生き方について書きます。でも、あくまで個人的な話です。
私は不思議研究所を始める前は、「時空はここまでやるのか」と思っていませんでした。
テレポーテーションやスプーン曲げはあっても許せました。
しかし、蘇生までやるのか・・と。さらに運命が決まっていたとは・・・
開いた口が塞がりません・・それは、今でもです。
私はそれまで個人成長説はアリだと思っていました。空を悟って、いつかは輪廻を卒業するのだと思っていました。とんでもなかったです。
願望実現もアリだと思っていました。でもそれは、本当にアリでした。各種、実験済みです。
しかしそれをやればやるほど、私は本質から遠ざかることも分かりました。
うんにゃ〜・・もう対処のしようがない・・というのが今の心境です。
何に対する対処かといえば、「生き方」に対する対処です。
精神世界やビジネス界の多くの人(本を書く人)は、生き方を語ります。最初から最後まで生き方論です。
私の本を読んでいない人なら、まだ許せます(笑)。私の本を読んだ後、なぜ「自分が主体の生き方」を語れるのかぁぁぁぁ?
そうなのです。私は時空の調査を進めるうちに生き方が変わったと言えば、主体性というものに対する変化が大きいのです。
一言で言えば、「もう、どうにでもしてくれ」です(笑)。
もしも私の調査が正しければ、今後世界は、どえらいことになると思います。
自力から他力へ

伊勢神宮の神主さんと和尚さんから書簡が来たことは言いましたが、今、まとめている最中です。そこでのキーワードは・・
自力から他力へ
さて、伊勢神宮になぜ「他力」というキーワードが出てきたかと言えば、伊勢神宮の数々の催し物を定めた天武天皇が、道教を取り入れていたからです。
道教には、「無為自然」という思想があり、それは他力を意味します。自力は、「有意」です。
天武天皇は六爻占術的エネルギー配置を重視して、それはもう凄いです。
もう一人は和尚さんでした。和尚さんは、親鸞聖人が始めた浄土真宗の和尚です。
浄土真宗は自力ではなく、他力だと言います。
五木寛之は「大河の一滴」とか「他力」という本を書きましたが、やはり浄土真宗の蓮如というお坊さんの教えを元に書いています。
昨夜は、「もしも私の調査が正しければ、今後、世界は、どえらいことになると思います」と書きました。でも訂正します。
どえらいことにはなりません。だって、昔から他力思想の宗教はあったのですから・・・
ただ、私は思います・・それは宗教だったから、世界を変えなかったのかも知れない・・と。宗教には「証拠」が少ないからです。

さて、私は他力思想があるのは道教しか知りませんでした。
でも今回、浄土真宗の和尚の書簡を読むと、浄土真宗は道教を超えているかも知れません。
道教は無為自然と言いますが、どこかにまだ「個」を感じます。「個」のカルマを全面否定するところまではいっていないような気がします。
ところが浄土真宗は、個のカルマを全面否定しています。ビックリしました。仏教でカルマを否定していたのです。
考えてみれば当たり前です。他力なのに、個のカルマなんてあるわけありません。
だからもう、仏教を超えています。親鸞も法然も、どえらい奴です。
ところが書簡を送った和尚さんは、親鸞をただのおっさんにしないといけないと言っています。真実は、それぞれが自分たちで見つけるものだからだそうです。
なのに私達は、個人のカルマ論をそのまま鵜呑みにして今まで来ました。

キリスト教は、神の下に我々がいます。
でも他力思想とは、違います。キリスト教の場合には、自力が基本なのです。自分で運命を変えたりして、その行動がロクでもないと(笑)、上から指導されます。
実は、個のカルマもこれと似ています。審判するのがあの世の霊的存在に変わっただけです。
浄土真宗では、悪人も極楽に行けます。当たり前です、他力なのですから・・・。
他力と「私は結果」は、同じだと思いました。
ここまで良くできた浄土真宗でありながら、なぜ世の中にはさしての影響を与えられていないか(失礼)・・・、それはたぶん証拠に欠けるからだと思います。
私は証拠探しをやっています。
もしも証拠が見つかった時、道教と浄土真宗はさらに浮上すると思います。だってそのときの生き方に最も近いのは、この二つだからです。
今書簡が舞い込んだのは、偶然ではないでしょう(結果なのだから、当たり前)。
もしくは、私の問いの結果なのでしょうか・・。
和尚の書簡

浄土真宗の和尚の書簡の一部を掲載します。これで和尚のスタンス、浄土真宗スタンスが分かると思うからです。
************************
親鸞は結論として「この時空について常に沙汰(さた)するな。時空に義などないからだ。だから義なき義を生きる以外にないのだ」と言っています。
人間はずっと時空に翻弄され、なされるがままでした。時空の好きなようにされっぱなしでした。
「時空の好き勝手な仕打ちをそのまま受け入れろ、耐えよ!運命・宿命であると言うのなら、それはそれで認め、決して夢見るではない。変な夢を見させないのが本当の宗教だ。仏様・神様に幸福をお願いし、頼むという夢見る心から醒め、目覚めて不幸を正視し、背負って生きよ!」という義なき義とする真宗の生き方の決意表明−それが「南無阿弥陀仏」という念仏なのです。
しかし念仏をいくら称えてみたところで、時空と感応道交した気分にさせられた気になるくらいがせいぜいです。念仏では時空の働きを全く教えてくれません。決意表明のようなものですから、そういう事を教えてくれる役割を持たないのは当然です。−鎌倉時代の昔は、これしかなかったと思います。
昔は、念仏は生きた言葉として生きた働きをして人々の心を癒したはずです。
しかし今や・・(つづく)
*************************
ここまで言い切る和尚は、相当の覚悟だと思います。だって浄土真宗の限界を書き、自分はその「次」にいるのですから・・。

みなさんはこれに賛同すると思います。「和尚もここまで来たか」と言う人もいると思います。
しかしです。みなさんに訊きたいです。私に出会う前に、和尚の状態になっていたでしょうか?
みなさんは自力がほとんどだったのではないでしょうか・・・。
自力から概念としての他力に入り、そして六爻占術で運命変更だと騒いでいます(失礼)。
運命変更があることにより、自力をそのまま続けていないでしょうか?
和尚の書簡の「しかし今や・・(つづく)」には、いよいよ六爻占術との出会いが出てきます。でも我々のように、他力の期間が短かったわけではないのです。
私は、この和尚の考えに、簡単に乗って欲しくないような気持ちです。
和尚は私よりも半年だけ年下です。52年もの長い間、親鸞が言う他力の世界にいたのです。「自力なんかで夢見ちゃいけない」と言い続けてきたのです。
ところが私達は願望実現の世界にいました。六爻占術を、未だ願望実現の一つの手段として捉えている人も多いはずです。
六爻占術という部屋があるとすれば、和尚は我々とは別のドアから入ったような気がします。
和尚が六爻占術に出会ったのは、新刊本以後でした。このHPに前からいる人は、六爻占術では先輩に当たります。しかし先輩風を吹かすことが出来るでしょうか?
和尚は六爻占術抜きに、「私は結果」に生き、それを人に伝えてきたのです。
いえそれ以前に、親鸞は、救いを求める人に何て言っていたのでしょうか・・
念仏一つ唱えて往生できるのはいいですが、この世の苦しみから解放されたいという人も多かったはずです。
カルマの法則を肯定できたとすれば「今を頑張って生きれば来世では報われます」
もしくは「これは生まれる前に選んできた苦労なのです」と言えました。
でも彼にはそれが言えなかったはずです。
苦しむ人々を前に「現実は変えようがありません。希望など持たないことです」としか言えなかったと思います。だって真実は、そうなのですから・・・
真実を曲げて、甘い夢を見させるのが宗教だったはずです。これでは逆です。
「私は結果」を生きた親鸞、そして破門されたとしても真実を追い求めたい和尚・・

恥ずかしながら、和尚の私への評価です。
*******************
突然の言い出し方に聞こえるかも知れませんが、森田氏は現代「真宗」を生きるトップ的存在です−理由は非常に簡単明瞭です。なぜならば、現代において「真宗の宗」として生きているからです。
それを聞いて森田さんは「エー!?そんな、真宗の教えなど知りませんよ!?それに念仏(孫さんの指輪をして唱える呪文とは違います)についても・・」と言われるかも知れません。

*******************
『不思議の友』に名前を出して良いかという問いに対する和尚の返事を、もう一度載せたくなりました。
「私は、現代における真の真宗人でありたいです、何も名前を隠すいわれはありません。自分の意見には、堂々と名前を出すべきです。真宗は法然宗でも親鸞宗でもなく、真実を宗(むね)とする生き方の教えです。私は真実を宗として生きていきたい。ここで私が名前を伏せることは、真宗者である宗教生命を絶たれます。だから名前を隠してはいけません。名前を出さなくてはなりません。」
同窓会と人生

昨日は同窓会でした。この写真のメンバーは、30年前に同じクラスで学んでいました。
電気電子工学科なので、将来はどこかの電気会社に就職するのが夢でした。文系のように、就職先がバラエティの富むことは無いのです。
就職稼働もみんな焦ったりはしませんでした。指定校として指定してくる会社が多いので、掲示板に貼られた会社のリストから、適当に選べば良かったのです。
私もそうでした。富士通からは二人の募集が来ていたので、私は応募しました(さして理由はありません。人生を諦めて応募したのです)。
学内選考が通れば、ほとんど合格できるのです。どこの会社に行こうが、関係なかったです。
つまり行った先の会社で配属されるのは、普通、エンジニア部門(職人)の職場なのです。
ソニーなどに決まろうものなら「あいつはやりたい仕事が出来るのだろうか?」などと言われたりしました。
適当な中堅どころの会社ならば、電気の腕を振るえます。しかし逆に、大手は組織が細分されているので、敬遠されました。
(私が富士通で総合企画室などという部署に行ったのは、新入社員教育のときに、毎日書かされた作文で頑張ったのが原因ですが・・)
結局みんな、どこかに就職しました。その後、独立する人も出てきました。
同窓会は毎年開かれていたので、そういう人はちょっとしたヒーロー扱いも受けました。
でも時が経ち、その「社長」も普通の人の扱いに変わりました(笑)。だって独立したからとは言え、別にさして楽しそうでもないからです(笑)。

今このメインコーナーでは、他力と自力が話題になっています。
独立することは自力でしょうか?サラリーマンでいることは、他力でしょうか?
そういう事とは全く関係ないというのが、昨日持った私の感想です。
大手の電機メーカーで窓際にやられても、自分独自のプロジェクトを計画して億の単位の受注を取り、社内に旋風を巻き起こしている人もいました。
しかし彼が二年前に振ったコインには、それが出ていました。つまり彼とて、運命の流れの中なのです。
自力であるように見えても、阿弥陀如来の他力の流れに乗っているのです。
運命を変更したとしても、四次元の時間の流れによる、流れ着く先が少し変わるだけです。それがいったい何だと言うのでしょうか ・・。
これは少し暴言に聞こえますか?でも同窓会の写真を見ると、誰が幸せで誰が不幸せか、分からないでしょう・・・
30年の月日は、私を含めて、同級生を何も変えなかったような気がします。
私はと言えば、OL服ですが、あまりにもしっくりとはまりすぎています(笑)。外見的にはとても大きな変化に見えますが、これも30年の月日に「織り込まれている」ような気がします。
みんな、平均寿命から言えばこれから先、まだ30年は生きるでしょう。そして毎年、こうやって集まるでしょう。

和尚の書簡をまとめていて気づいてきたのですが、他力というのは、「覚醒していること」と言うのも一つの要素らしいのです。
「善人」は、覚醒していないから「善人」と呼ばれるのです。
覚醒・・それは存在そのものを問うことのようです。
私の場合、小中高は、同窓会をやったことがほとんどありません。高校は、私が幹事をやっても良いと思っていますが、なかなか行動に移せません。
同窓会は「過去」だと言う人もいますが、今回出てみて、そんなことはないと感じました。
存在そのものを問うには、同窓会はとても良い場所です。人生を感じられるからです。
人間性を高めることが人生でしょうか・・個人のカルマを解消することが人生でしょうか・・
クラス会に出ると、みんな、何も変わっちゃいないと思うのです。なのにあなたは、何を変えようと言うのでしょうか・・・
和尚の文章をもう一度載せます
************************
親鸞は結論として「この時空について常に沙汰(さた)するな。時空に義などないからだ。だから義なき義を生きる以外にないのだ」と言っています。
人間はずっと時空に翻弄され、なされるがままでした。時空の好きなようにされっぱなしでした。
「時空の好き勝手な仕打ちをそのまま受け入れろ、耐えよ!運命・宿命であると言うのなら、それはそれで認め、決して夢見るではない。変な夢を見させないのが本当の宗教だ。仏様・神様に幸福をお願いし、頼むという夢見る心から醒め、目覚めて不幸を正視し、背負って生きよ!」という義なき義とする真宗の生き方の決意表明−それが「南無阿弥陀仏」という念仏なのです。
しかし念仏をいくら称えてみたところで、時空と感応道交した気分にさせられた気になるくらいがせいぜいです。念仏では時空の働きを全く教えてくれません。決意表明のようなものですから、そういう事を教えてくれる役割を持たないのは当然です。−鎌倉時代の昔は、これしかなかったと思います。

**************************
現代でも、同じではないかと思いました・・・。
和尚さんからのメール

実は、和尚からメールが来ました。次のことが書いてありました。
******************************
「南無阿弥陀仏」という念仏とは何か?
「念仏が行なのです」。
私が念仏を称える行為は、たかだか自力の行に止まるのみであって、つまり他力の行にはなり得ない。他力の行こそが本当の行です。
本当の行が出来るは、人間ではなくて、人間の意志を一切受け入れてくれない他力を教える時空だけです。
行、即ち修行について人間は、自力無効ですから、人間には行が出来ない。行が出来るのは時空だけです。その時空のしている行を「念仏」と言うのです。
「念仏とは時空のしている行を言うのです」。
時空のしている行を、人間が行じるなんてあり得ません。だから、自力無効です。他力しか、行は成立し得ません。
そういう訳で「念仏そのものが行」と言うのです。念仏という行は、私が念仏を称える行為ではありません。そんなものは自力の行にしか過ぎず、他力という真実の行にはなり得ないからです。
だから、こう言えます。
私が念仏を称えようと称えまいと、たとえ、念仏について全く知らなかったとしても、現に私がここに生きている事実そのものが「念仏が行だ」と言う内実を意味している。あるいは「南無阿弥陀仏」とは、私たちが阿弥陀という言葉の世界に現に生きている事実を意味している。

********************************
以上です。

ここに書いてあることは、DVDブック「見るだけで運命が変わる」の特別付録2に書いた内容と、非常によく似ています。
「他力の行こそが本当の行です」・・というセンテンスは、面白い表現です。しかも「人間の意志を一切受け入れてくれない他力を教える時空だけです」と続きます。
素晴らしい・・・他力には人間の意志が入らず、行を行うのは、他力であると・・・
だとすれば、人間の意志は、どこにも反映されないことになります。これは現在、私が辿り着いた仮説そのものです。
親鸞は何歳でこの説に辿り着いたか知りませんが、大したものです(自分と比較するなって?(笑))
しかしですよ・・「時空のしている行を、人間が行じるなんてあり得ません」とまで書かれると、「時空よ、勝手に行をして何が楽しいんだよ?」と訊きたくなります。
しかしどんなに頑張っても、今のところ人間の意志の走り込む余地はないと思います。
道教では「無為自然」と言い、ワダチに乗り、ハンドルを離せと言いました。これも真理に近いと思います。
どいつもこいつも、意志を否定する人達ばかり・・(笑)。
なのに、全世界的に、意志路線まっしぐらです・・。
実を言えば、浄土真宗にも、道教にも言いたいことがあります。そんなに他力にならきゃ、ならないのか?(笑)
現状においては、自力も他力も、私には同じに感じます。なぜなら、どちらも「大きな他力」の流れに乗っているだけだと思うからです。
私は、そちら(大きな流れの方)が知りたいです。
「全体」って本当にあるの?1

昨日から今日にかけての下記のレスに刺激されて、今回の書き込みをすることにしました。
>一細胞(一臓器)であっても、全体へ影響を及ぼすこともあるということですよね・・

>金融市場では、予測をはずしたストラテジストや大損したディーラーのことを、「彼がマーケットを愛するほど、マーケットは彼を愛してはくれなかった」と表現することがあります。
ところでこのレスの契機になったのは、「本当の行が出来るは、人間ではなくて、人間の意志を一切受け入れてくれない他力を教える時空だけです」という和尚のセンテンスでした。
最初に問題点を掘り出したのは、一つ目のレスでした。部分と全体という問題です。
臓器は部分ですが、身体という全体との関わり合いはどういう関係にあるのか・・。
次は二つ目のレスです。彼という一個人は部分ですが、マーケットとの関わり合いはどういう関係にあるのか・・。
ところで臓器の問題をそのまま念仏の問題に持って行くには、ひとつの難所があります。それは、臓器には「目的」があるという点です。
心臓には心臓の目的を果たしてもらわないとなりません。心臓が「個」を持って、勝手に動かれたら困ります。
我々は部分だとしても、その部分が目的を持たないとどうでしょうか・・・。
目的が無ければ、部分が個を持とうが持つまいが、知ったことではないでしょうか?
しかし実際のところ、個を持とうが持つまいが、運命という流れに流されているので、個は無いも同然です。
むしろ夢を見させないために、個の概念は捨てたほうがよいとさえ、思います。
しかしここで一つの問いが発生します。
「全体」は、「結果」ではないとでも言うのでしょうか?
全体も結果ならば、自力だろうが他力だろうが、関係ありません。
さて、もう一つのセンテンスではどうでしょうか?
金融ディーラーの彼は個を持っているようですが、マーケットが巨大すぎて、呑み込まれてしまったわけです。
しかし彼という個も、マーケットも、運命という流れに流されています。「彼」も「マーケット」も、両方とも結果だからです。

さて、ここからが本論です。両者には共通項がありました。部分と全体という区分けです。
親鸞によれば、部分から全体への行はありません。全体から部分への行のみです。
ここで、大きな問いが発生します。「全体」は、本当に存在するのでしょうか?
全体というものが存在するための一つの条件は、「閉鎖システム」であることが必要だと思います。
どこまでも解放されたシステムは、全体と呼べるでしょうか?
変な例を出します。
私の精子は私の体内にあるときは、私の身体を形成する一部なので、身体という全体に属しています。でも発射されてしまうと(笑)、それは身体には属しません。
精子を含めた全体像は、どうなるのでしょうか?
四次元の時空は閉鎖時空です。でも五次元が無限なら、「全体」はどこまで拡大されるのでしょうか?
境目がないのに、全体という表現はアリでしょうか?
もしもそれを勝手に全体呼ぶのなら、あなたがまだ知らない領域に対して、失礼ではないでしょうか?
しかし今回の私の書き込みは曖昧です。
でも、もしもこの仮説が有効ならば、「他力の行こそが本当の行です」と言い切ることも出来ないと思うのです。
言い換えれば、部分はあるけれど、全体はあるのだろうか?・・というのが、この書き込みの問題提起なのです。
(今回の書き込みは、今までの私の仮説も、大きく崩していると思います。)
「全体」って本当にあるの?2

「本当の行が出来るは、人間ではなくて、人間の意志を一切受け入れてくれない他力を教える時空だけです。他力しか、行は成立し得ません。」という和尚のセンテンスと、「一細胞(一臓器)であっても、全体へ影響を及ぼすこともあるということですよね」という書き込みが今回の問題提起でした。
一細胞(一臓器)というセンテンスから、部分と全体というフレーズも抽出されました。そして個をとりあえず部分、時空を全体と仮定しました。
さて、私には一つの仮説があります。行が出来るということは、カルマを残すということです。
私が言うカルマは、一般的なマイナスの意味を持っていません。私が言うカルマには善も悪もありません。
以前、個にカルマが無いと言いましたが、それは何故かと言えば「私は結果」だからです。行のできない我々は、カルマすら残すことは出来ません。
ところが全体側が行を行えるとすれば、全体側はカルマを残すのです。
さて、私には全体側がカルマを残そうが、残すまいが、知ったことではありません。そのシステムそのものに興味があるからです。

突然ですが、次元の話に移ります。私の仮説はどんどん変化しますので、ご注意下さい。
『運命を変える未来からの情報』における「5次元」には、厚みがあるのでしょうか?
えっ、それは無限だと書いてあるじゃない?・・と反論する人もいると思います。
でも『運命を変える未来からの情報』は、既に去年の本です(笑)。
ティッシュの箱に、厚いダンボールを切ったのを入れたら何枚入るでしょうか?
10枚くらいかも知れません。
しかしティッシュペーパーなら、今私の部屋にあるのは、320枚入っています。
ではもっともっと薄くすると、どうでしょうか?限りなくゼロにすると、どうでしょうか?
五次元の厚みは有限であっても、四次元の厚みが無限に薄ければ、無限に入ります。
それはつまり、運命変更を、無限大のチョイスで行えることを意味します。
だから『運命を変える未来からの情報』に書かれている次元の図は、元々おかしいのです(笑)。
さて、ここまでで、五次元までが有限でも、何ら差し支えないことが分かりました。それなら、閉鎖系と言えそうです。
ならば、「全体」は有りそうです。
ところが私はそれでも「全体は無いかも知れない」と疑っているのです。
ここで言う「全体」とは、「行を出来る存在」です。自力であれ他力であれ、「力」という文字が入ります。
力はF=maです。力=質量×加速度です。車を加速する時にはアクセルを踏みます。それです。小舟で言えば、オールです。
我々(個)はオールを持てませんが、全体は持てます。これって、本当でしょうか?

話を最初に戻します。臓器と身体は、部分と全体の比喩でした。
この比喩でいけば、部分は行を行えません。だから個がぶっ飛びます。
しかし身体は狭い意味での行を行えますので、全体はまだぶっ飛んでいません(笑)。
ところで今議論の的の「全体」とは、時空そのものに近いです。それが人間の身体のように、脳の命令系統で動いているでしょうか?
時空に脳は無いというのが私の仮説です。とすれば、身体のように行をすることが出来るでしょうか?出来ないと思います。
「全体」とは、ある一つのまとまった存在であるはずですが、私にはその「まとまり」は無いように思えてきました。もはや有限や無限の問題を超えています。
個も全体もぶっ飛んだ時、その破片が問題だと思います。破片そのものに生命が宿っているとすれば・・・
個しか存在しなくても、あたかも全体があるように構成出来るかも知れません。
例えばインターネットに、「全体」があるでしょうか?個しか無くても、全体があるような構成になっているのではないですか・・。
でも、時空のシステムはさらに華麗かも知れません。
個が無くても全体が無くても、両方が駆動するような仕組みになっているかも知れないからです。
虚数と虚数をかけたら実数(何故かマイナスの数値)になるようなものかも知れません。
身近なところの法則性・・それはシンプル・イズ・ベスト

今回の書き込みは、「OSのないパソコン」のレスと、「メダカの集団遊泳を方程式化することは意外と難しいらしいですが、シミュレーションするだけなら、単純な3つのルール(1.みんなの動く方向へ動く。2.近づきすぎると離れる。3.離れすぎると近づく)を与えるだけで、群れが一体となって方向転換するなど、あたかも全体としてのまとまりがあるかのような動きを見せるそうです。3つのルールだけでこれだけのことがシミュレーションできてしまうということは、メダカがどんなに統一行動を見せようと、そこに群知能のようなものはないといっていいのではないかと思いました」というレスが契機になっています。
高校時代に物理の法則に神を感じた時(笑)、法則には一つの前提があることにも感動しました。
それは私の身の回りにある法則が、アンドロメダでも、シリウスでも、プレアデスでも、はたまた宇宙の果てでも、通用することです。
いえ、正確に言えば「通用すると推定されます」ですが、「推定されます」が省略されています。
メダカを全く知らない異次元星人がメダカを見た時、メダカは何らかの上位のシステムからの指示を受けて動いていると思うかも知れません。
この例は最近私が持った「全体像」(笑)に、とても近いモノがあります。
「全体の業」というとき、上位のシステムの何かが働くような感じを受けます。
しかしそれは、私達の身の回りの法則が、外から見ると全体としての「行」に見えるのだと思います。メダカの集団のように・・。

神坂さんは全体像を見るのがとてもうまいと思います。個々の法則を認識した上で、視点を宇宙大に拡大するのです。そして出来たのが銀河運動装置です。
この視点を持たないと、身の回りの法則を知っていても、真理は掴めません。
地動説が良い例です。重力と遠心力の法則が分かっていても、天動説と地動説が両方成り立つのです。
但し、天動説による方程式を作るのは、並大抵ではありません。木星と土星に至っては、地上から見ると、動きが戻ったりするのですから・・。
それを見てガリレオは地動説を言い出しました。
さらに重要なことは、地動説なら方程式がシンプルになるのです。真実に近づくほど、シンプルになるのです。

盲師派推命占術のテキストの一部が届きました。ダンさんは四柱推命のプロの占い師です。彼は十代から勉強を続けています。でも自分の当たる確率に満足できませんでした。
そしてある日、盲師に出会います。彼に盲師派推命占術を教えてもらいました。
今まで自分のやってきた四柱推命よりも、当たる確率は格段に上がりました。
しかし・・・です。なんと、ルールは、よりシンプルになっていたのです。
テキストには、「命式だけでこんな精確な断言を下せるのは、感服するよりほかありません。理論的には今世間に流行っている四柱推命術とは違っています。世間に今流行っている方法より簡単である同時に(以下省略)」と書いてあります。
ダンさんはおそらく、自分がやってきたことの上に、積み重ねようとしたと思います。
でもやることは、シンプルにすることだったのです。
もちろんそれだけではありません。シンプルにした分、新しいルールも付加されます。
でも全体的な感想は「前よりも簡単になった」と書いてあります。

メダカのルールも、星の運行のルールも、運命のルールも、「関係性」にあると思います。
存在する物体(あるいは生き物)の関係性を記述したのが、物理の方程式であり、占いのルールではないでしょうか・・五行しかり、十二支しかり・・
(親鸞の言う「行」も、「関係性」ではないでしょうか・・。関係性だとすれば、やはり他力になると思います。)
ある人も私がこれをアップする直前に、次のように書いています。
「比較する他者という相対の存在があることによってのみ可能になるのだと思います。例えば、生死、善悪、男女、老若等々あらゆる事を認識する為には他者という相対の存在が不可欠です。但し、いきなり個(破片という自分)と比較する全体(他者)という図式は相対の存在ではないので成り立ちません。」
つまり身の回りにある法則を知り、それを時空大で見れば、「全体」の動きが見られるのではないかと思います。
メダカで言えば、身の回りの法則はたった三つだけ・・。
「私達はどこから来てどこに行くか」・・という壮大な問いは、身近な法則性を知り、カメラを引けば、もしかすると、知れるのではないでしょうか・・。
五行のメダカは時間と空間を超える

メダカは目で見ているのか気になりました。すると次の書き込みをしてくれました。
「メダカには光を受容する器官がいくつかあるそうです。代表はもちろん眼ですが、松果体(脳)やウロコにも光を感じる器官があるようです。メダカは魚の中で一番視覚が良いとされていて、視覚からの情報が大きいみたいです。メダカには風景を一定に保って泳ぐ「視覚運動反応」があるそうですが、これは、メダカ以外の魚にもあるそうです。」
つまりメダカとて、超常感覚ではなく、五感(もちろん研ぎ澄まされた五感)を使っているようです。
五感を使う限りは、時間と空間に制限が生じます。やはりメダカは自分の周囲の情報に反応するしか、方法はないと思います。
だから、AメダカとBメダカとCメダカが並んでいた場合、AメダカはBメダカの影響を受けますが、Cメダカの影響はほとんど受けないでしょう。

さて、私達が問題にしている「運命」に関することではどうでしょうか・・。五行は、時間と空間を超えていると思いませんか?
AさんとBさんとCさんが並んでいた場合、AさんはCさんの影響だってもろに受けると思います。
「応爻」はどんなに遠くても、「世爻」との五行関係に入ります。
つまり五行の世界は、メダカのように、隣同士の関係ではなくなるのです。
Aメダカの進行方向逆転したら、全く別の場所にいるZメダカ(Aと相合している(笑))が逆転したりすることも起こり得ると思います。
だとすれば一見、統制が取れていないように見えます。
だから我々は、自分達が「自由」だと誤解しているのかも知れません。
三次元の世界では、こういうことは起こりません。
池に小石を投げ入れれば、その波紋は中心から周囲に拡大します。電波は、発信点から遠くに向かって次第に伝わります。重力は距離の二乗に反比例しますので、近い物ほど影響を受けます。
だからこれらに規則性を見つけるのは、比較的簡単でした。
ところが五行は、時間と空間を超えて影響します。
規則性を見出すためには、我々側も、時間と空間を超えた視点から観察しなければなりません。
そうだとしても、メダカの例のように、「関係性」によって「全体の行」があるような動きをしているのだと推定されます。それは今回の議論の収穫だと思います。
次の話題への架け橋としての書き込み

今日は過去の書き込みを整理していました。
数年前に、モンロー研究所所長であるローリー・モンローさんと、孫さんが船井オープンワールドで同時に講演したことがありました。
その前後の書き込みから、面白いものを拾いました。まずは、孫さんの言った言葉です。
***************************
精密な波動は荒い波動を包含しています。
蘇生の際に私が働きかけるのは、精密な波動の側です。それが変化をすると荒い波動の側が変化をするのです。
****************************
荒い波動というのは物質に近い側だと思います。
孫さんのセンテンスによれば、荒い波動ほど「結果」に近くて、精密な波動ほど「原因」に近いのだと思います。
だから波動の世界でも、原因系と結果系がありそうです。蘇生は、一気に物質に降りるのではなさそうです。

次はローリー・モンロー所長の言葉です。
****************************
「今の人間はHumanDoingをやっている人が多いです。それは有為に当たるのではないでしょうか?これからはHumanbeingにならなければなりません。それは無為に通じると思うのです。」
*****************************
当時私は、仙人の世界も研究中でした。だからモンローさんからHumanDoingとHumanbeingという単語が出て、ビックリしました。
次もモンローさんの言葉です。
******************************
「私たちの人生は、私たちが何ものであるのか・・その実体へ迫る旅なのです。その実体を知るための旅なのです。いまこそ、私とは何かという実体を明らかにしましょう。モンロー研究所は長い年月に渡って研究を重ねましたが、まだ多くの疑問が残っています。人間は肉体という限界を超えた存在であるということしか分かっていません。それにどういう意味があるのか、それをどう生かすのかはあなた次第です。」
英語だと主要な部分は次のように言っていました。
「It is a journey into Self ? a journey to the essence of who we are…」
私はこれを受けて、私は次のようにスピーチしました。
「私とは誰かという問いかけを、地球の反対側の人から聞けたことに、今、とても感動しました。」
モンローさんの話の中に、こう生きなさい、ああ生きなさい・・というメッセージがあったでしょうか?人類はこういう方向に向かうべきだという啓示があったでしょうか?
それをどう生かすかはあなた次第だと言われ、あなたは答を出しますか?
もちろん答を出すことも大事です。でも、答と同時に問いを終わらせてはならないのです。v 世の中の講演会の多くは、答としての何かを与えようとします。それはともすると方向性です。問題解決の仕方・・夢の実現の仕方・・
しかし、モンローさんの講演会は淡々と問いを発するのみでした。私はああいうスタンスの講演会にしびれてしまうのです。まるで滝の下にいるような感じになります。
*******************************

『「私は結果」原因の世界への旅』という本は、モンロー研究所の体験が主です。
私は多くの仮説を出してはいますが、答えの分からないまま終わっています。
そして仮説はどんどん壊されます。私自身が自分の仮説を壊すのが好きだからです。
『「私は結果」原因の世界への旅』を昨夜オンライン受付を開始しましたが、一晩で売れた冊数としては、アマゾン創立以来だったそうです。
しかしこの人気が長続きするとは思いません(笑)。なぜなら、私のことを支持する人たちは、限られた人達だと思うからです。
なぜ世間一般に広がらないのでしょうか?
その一つの理由は、他の人は、「答え」を得たいからだと思います。具体的な生きるためのノウハウを得たいのです。それが私には不足しています。
モンロー研究所を経験した人の中で他の人がもてはやされるのは(笑)、そこに理由があると思います。
世間に広がらないもう一つの理由は、運命が決まっているなどと言っているからです(笑)。
つまり受け入れるには、障壁が高いのだと思います。
「今、幸せなのに・・・」

今日、『「不思議の友」11.3』が届きました。
この原稿は書いた段階から、何度も何度も読み直します。ゲラ刷りが上がった段階でも読み直します。出来るだけ読者の立場に立って読んでいるつもりです。
しかし、封筒に入り、クロネコのメール便で来た時は別でした。完全に読者になることが出来ました。
まず手にとって最初の思ったこと・・・それは、「今、幸せなのに」・・でした(笑)。
ページの最初が「スタートラインに立つ」でしたから、余計にそう思いました。
「何よ、私はスタートラインにも立ってないって言うの?」・・と思う人もいるはずです(笑)。
しかもその章の終わりは、自分の本の売り込みです(笑)。
「スタートラインに立ちたければ、この本を読みなさいって言うわけね・・よけいなお世話よ」(笑)
次のテーマは「上位の問いと下位の問い」です。これだって気分悪いです(笑)。下位の問いばかりでは生きていけないからです。
のんびりと幸せに過ごしている土曜日に、お節介な冊子が辿り着きました・・。
知らなければいい情報ばかりです。こんなもの、知らない方が幸せでいられます。
「今、幸せなのに・・」そう思った人は、多いはずです。
『不思議の友』1

『不思議の友』を創刊したのは1999年です。『不思議の科学』という単行本を出し、不思議調査も充実した時期に向かっている時でした。
当時、私が自由に使えるメディアはインターネットしかありませんでした。
『不思議の友』をもらった人は感じると思いますが、インターネットの書き込みとは、少し違うと思います。
『不思議の友』という印刷媒体ならば、別の側面が出せると思いました。また自分の考え方の証拠を残したいとも考えました。
でもその後が私の経営者としての腕の見せ所です(笑)。私はタダで配ろうと思ったのです。
通販を充実させて、お客が「勝手」に費用を振り込む仕組みにしました(笑)。
ところが費用どころか、その二十倍もの利益を上げるようになったのです。
年会費としてチマチマ1万円を取っている団体など、信じられません。こちらは一人から、×万円も取っている計算になるのです(笑)。
私がやることは、「勝手に満足する客」に絞り込むことだけです。文句を言う客には、次の『不思議の友』が行きません(笑)。つまり切ります。
不満を削り、満足を増やす・・まるで人の生き方だと思いませんか?(笑)

『「不思議の友」6』を出した時、「もう二度と送るな」という客がどっと出ました。私の女装が始まったからです。
『「不思議の友」8』でもそうでした。占いが始まったからです。
そうやって「勝手に満足する客」が残っていきました。
削るという行為をやると、なぜか客は増えました(笑)。現在、『不思議の友』の会員は5万人もいるのです。
一冊送料込みで300円だとしても、一回に1500万円もの費用がかります。
会員数はこれからも増え続けると思います。だってタダだから・・・
これから10万人になる日も来るかも知れません。そうなると一回の費用に3000万円もかかります。
それでも私は印刷媒体を手放すことはないと思います。
『不思議の友』2

今朝出勤して不思議研のファックス・トレイを見たら、「二度と送るな」がどっさり来て・・いませんでした(笑)。
今回は一通も来ていないばかりか、『不思議の友』の内容を絶賛するファックスが幾つかありました。
「今までの『不思議の友』は商売色が強かったけれど、今回は違いました。内容も充実していました。今後もこの線でよろしくお願いします」という感じのものです。
悪いけど、こういう人は分かっていません(笑)。
もしも今回の『不思議の友』をマーケッティング・コンサルタントに見せたら、「うーん、いまいちだ」と言われるはずです。商売に全く関係ない章が多いからです。
そしてそれを良しとする読者も、困ったものです。
商売色が少ないということを評価する人の内面には「金儲けは悪い」という価値観があると思います。
例えば単行本『運命を変える未来からの情報』の批評の中には、「この本は10万円のテキストを売りたいという商売が目的さ」というのがあります。
しかし・・です・金儲けは何か問題でしょうか?そういうメディアは次元が低いでしょうか?
そういう人って、たぶん億万長者にはなれないと思います。だってお金は本来、自動的に入りたがっているのに、自分で壁を作って拒否しているのですから・・・。

それと・・・、目的というのは一つでしょうか?
『不思議の友』はお金儲けの他にも、たくさんの目的が内在されているはずです。
「あなたは私の体が目的だったの?」と言う女性がいたとします(笑)。確かに非難された男に、その側面はアリだと思います。
でも目的というのは非常に複雑だと思います。相手の人が何を目的としているのか、それは一生かけても分からないと思います。
『不思議の友』の隠れた目的として、「記録性」があります。
私がもしも真理を発見したとき、その発表はたぶん、『不思議の友』にすると思います。
インターネットよりも『不思議の友』の方が、著作権保護に対して数段優れていると思うからです。
なぜ書籍でないかといえば、書籍の権利は出版社に属するからです。
今後も『不思議の友』は増殖を続けると思います。
さて、私が『不思議の友』以外にどんなメディアに興味を持ったかと言えば、「もりけん生放送」です。
あれこそ「今」しかないし、反射的に喋るので、私の真価も問われます(笑)。
神坂さんの『不思議の友』の感想文

今日、神坂さんから次のファックスが届きました。
「「不思議の友」11.3号、いつも教わることばかり。私にとってはみんなインスピレーションです。森田さんのお顔を拝するだけで幸せになります。信じて疑わざればそのこと成る可し。孫さんの芽、私もユックリ地震で本当に驚きました(森田の解説:前々回、孫さんが早く日本を去ったのはユックリ地震の予知をしていたからです)。時空の構成がよく分かりました。私の心にはゴールはありません。今それを外から言われて(他の人から)ビックリしました。本当にそうだったのかと。思い立ったらやってみるより方法を知りません。一生スタートです。ゴールは、馬鹿には無いようです。何卒ご教授よろしく願い申し上げます。」
うーん・・参ります・・・。
やはり、本当にスタートラインに立ち続けていた人の文章です。力んだり強調した文は、一つもありません
私は今の神坂さんの年まで生きられません。
その直前の齢になっても、「私はスタートラインだ」と言っていられるでしょうか・・。
死ぬ瞬間はどうでしょうか?一生を振り返ったりしないでしょうか?

ここで少し問題を発展させます。
あの世で一生の行いを反省させられると言われたことがありました。その考え方は、死を一つのゴールとして考えてますよね・・・。
常にスタートラインの生き方は、死のうが生きようが、関係ないはずです。
スタートラインのまま死に、スタートラインのまま閻魔大王の前に行ったとき、閻魔大王はどうするでしょうか・・・。
目の前に立った人間に「あなたは誰ですか?」と問われた大王は、どうするでしょうか?
スタートラインという概念は、年はおろか、生死をも超えなければ、本当ではないと思いました。
今日の神坂さんの文章で、私は、スタートラインのまま死んでいけそうな気がしてきました。
死ぬときくらい、楽に死にたい・・と思うでしょうか?
そうだとすれば、「スタートライン」をよく分かっていないと思います。
手帳を真っ白にすること

和尚さんから来たメールの中に
>「本当に、やり尽くしたのか?」という問いかけが「諦念」には内在しています。
というのがありました。
これと手帳を真っ白にすることは少し似ているので、この事を書こうと思いました。
神田さんの主催するセミナーの講師として出た時です。
OL服に着替えた私はロビーに行き、そこで神田さんと講演の進行について、相談しました。
(OL服でホテルのロビーなどという公共の場に現れた私に、神田さんは相当ビックリしましたが、その話は置いておきます(笑))
私は自分の作った進行表を見せました。そして説明しました。
「13:46にCDを流し、14:27にビデオを流します。OL服からチャイナ服に着替えるのは14:53です。そして男性服に替えるのは15:21です。」
言い終わると神田さんは呟きました。
「すごい・・・。××君(部下の人)もこれを見習ったほうがいいよ・・・。手帳を真っ白にできるという人は、こういう人なんだ・・」
私が講演を終わった時、神田さんが最後のスピーチをしました。そのとき喋ったのがこれでした。
「***分刻みのスケジューリングが手帳を真っ白にする***」(笑)
適当な一日を「真っ白な日」にするのは簡単です(笑)。
毎日それが出来るか・・というのは、全く別問題です。というか、別次元だとも思います。
手帳が真っ白なのは、「分刻み」で作り出したのです。積極的に作り出さなければ、真っ白にはならないのです。
真っ白な手帳は「無」なのではなく、「無色を塗り尽くした」のです。
他力と自力は同じだと書いたことがありますが、以上の現象に似ていると思いました。とても似ているけれど、違うのです。
無色を塗りつぶすのには、多くの諦めが必要です。でもそれは、積極的諦めなのです。
商人が「他力」を理解すると、すごい

今日も和尚さんからメールが来ました。メールの題名は『親鸞の教えで「商人」層は本当に勇気付けられました!』です。
********************************
真宗が与えた経済倫理については、例の書簡で、日本で成功した商人層である「近江商人」を例として書いてあります。読み返してみてください。
浄土真宗の教えの方向性は、その内容からして庶民層でした。
庶民層に理解できれば、支配層に理解できないはずはありませんが、向けられたスタートは庶民層でした。
そこで、親鸞は、その真宗の教えから当然引き出される帰結を商人層に伝え、商売を大いに奨励したのです。商人ばかりではありません、農業、工作に携わる人々に対しても同様でした。親鸞の教えは、商人たちに商売をして生活するに当たっての「生きる糧と勇気」を与えました。

それをもっと平易に多くの人々に伝えたのが、五木寛之が絶賛する、本願寺第八世の蓮如でした。
かくして、蓮如によって与えられた真宗が生み出した経済倫理を拠り所にして、「近江商人」が誕生しました。
「近江商人」は、蓮如の与えた生活に関するいろいろな思想を、開花させたのです。
その商人たちの目覚ましい成果を、『徳川時代の宗教』を書いた社会学者のR・N・ベラーは、M・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のプロティスタントが築き上げた経済成果とオーバーラップさせています。それ故、「近江商人」をその日本版であると評価しています。
******************************
今日の和尚さんのメールに「近江商人」の話が出ていました。
その話に入る前に昨夜入った政治批判の意見を、もう一度載せます。
>今、日本では「経済構造改革」といった自力本願が花咲いております。日本人の益々の自由を追求しています小泉政権は日本人から主体性をどしどし奪っております最中です。

私の高校時代は政治批判が花盛りでした。当時、政府のトップは佐藤首相でした。
そして学生たちは、世の中の悪は、佐藤首相が作っているという論法でした。
私は、当時からその論法は、バカじゃないか・・と思っていました(笑)。
だって政治家は選挙で選ぶんでしょ?などと言うと、「森田、それは違うんだ。彼ら(政治家)はあらゆる手を使って国民に暗示をかけているんだ。騙されてはダメだ」と反論されました。
当時行われた大阪万博ですらも、国民の目を論点からずらそうとしているのだ・・と言われました。
でも私は、万博で見たあのコンパニオンたちの、ミニスカートから伸びた太ももに、目を奪われただけでした(笑)。
政治家こそ、操られているとしか考えられません。彼らは「自力」でなんか、やっていません(笑)。
だから政治家になっても、国を動かすことなどあり得ないと思います。逆に、国から動かされているのが彼らだと思います。
政治家なんてなりたくもないし、それを批判するのは、最も無駄な時間だと思っています(笑)。

しかし商人は違います。
商人が「他力思想」を理解し、それを自分の血としたときには、流れの少ない小川から、大河に乗ることができるのではないか・・というのが私の仮説です。
だから、商人の中には、政治家よりも国を動かす人も出てくるはずです。
そういうわけで、私は商人をやっています(笑)。
「他力」を理解し、自分の血にするということは、問いが下位に流れていくということだと思います。
「近江商人」という人達を、私はよく知りません。でも金儲けオンリーで生きていたのではないような気がします。
私は現在、白紙の手帳に近い状態であり、それは現役の社長の座から、一見退いています。しかし業績は伸び、私の年収も伸びています。
それを一概に他力だとは言えませんが、多少は近いものがあると思っています。
商人にとって、親鸞の他力思想は、大いにプラスになったのではないかと思います。
他力的生き方と感情

真宗的生き方とは、真実を追究する生き方です。それは何となく分かります。私が真宗的生き方の最前線にいると言われても、「ああ、そうでしょう」などと納得も出来ます(笑)。
そしてみなさんも、真宗的生き方に近づけると思います。
しかし他力的生き方というのがあるとすれば、それがどういう生き方なのか、私自身もピンときていません。
先日、過去の書き込みを整理していたら、次の文章に出くわしました。まずはそれをご覧に入れましょう。
********************************
私は中学の頃までは、感情のとても少ない子供でした。
子供に還れと言われても、中学以前に還る気はしません。
生きることが嫌でした。早く大人になって適当に人生を終わらせたいと思っていました。
人生などというつまらないものを、なぜ過ごさなければならないのだろうと思っていました。
高校に入ってから一転してしまいました。私の生き方よりも、宇宙全体の生き方に興味が出てきてしまったのです。
すると私は感情を大切にするようになりました。だって感情でしかキャッチできない部分もあるからです。
嫌な事はしなくなり、感情が良しとするものしかやらなくなりました。
そして年月が経ち、私はその場の感情に乗れるようになりました。
何故そうなったかと言うと、私は私の生き方を振り返らなくなったからです。
感情のおもむくままに生きることが出来るようになったからです。
孫さんは私に言いました。
「森田さんといると、頭の痛いのも治ってしまいます。嫌な事も全部忘れます。森田さんは寝ている時にも微笑んでいます。一緒にいるととても幸せになります」・・・と。
(寝ているのを見られたのは、山中湖の貸別荘です)
たぶんそれは、私が感情のままにいることが出来るからだと思います。
今の私は、子供の頃よりも好きです。
********************************

さて、自力と他力の違いは『運命を変える未来からの情報』の本の内容に沿えば、オールを手放すかどうかにあると思います。
自力とは、まさに自分の力でオールを漕いでいる姿です。他力とは、オールを手放した姿です。
でも、実生活ではオールなど持っているわけではありません。だとすれば、違いは何でしょうか?
表記の過去の文章によれば、高校時代に下位の問いを持った時、私は感情を大切にするようになったと書いてあります。ちょっと考えると逆になるような気がします。
下位の問いとは、根源的な問いのことです。時空はどうなっているのか・・と考える時、感情はむしろ邪魔になりそうだし、感情的だということは人の成長という視点からすれば、逆になりそうです。
しかし私は、子供の頃よりも、感情を肯定するようになったのです。とは言え、一般的に言うところの「感情的」とも違うような気がします。
この点を考えるにあたって、下条さんの著書に出てくる「吊り橋の実験」が面白いと思います。
Aというケースの人たちは、吊り橋の途中に美人がいて、話しかけられます。
Bというケースの人たちは、吊り橋を渡り終わったところに美人がいて、話しかけられます。
この場合、恋におちいる場合が高いのはAなのです。つまりAは、恐怖心とも思えるドキドキ感を、恋のドキドキ感と間違えるのです。
もっと言ってしまえば、恐怖心も恋心も、「同じ」なのです。それを「感情の源」と呼ぶことにします。

高校時代以前の私は、上位の問いだけで生きていました。すると不満が多いのです。だから人生を嫌だと思っていました。
ところが、下位の問いに生きるようになると、不満が減ります。だってそうでょう?不満は上位の問いから発生するものだからです。
上位の問いに生きるとどうなるでしょうか?例えば「彼との関係をうまくいかせたい」とかいう問いは、上位です。
ある朝、ひょんな事から「感情の源」が湧いたとします。
前日、彼に小さな不満を持っていると、そこに「感情の源」が加わります。そうすると彼への不満が増大します。ヘタをすると一日それを持続したりします。
ところが下位の問いに生きていれば、不満はありません。だから「感情の源」は別のものに転化します。それはより楽しいものを生むかも知れません。
昔の私は、「感情的」というのがとても嫌でした。だから押し殺していました。
私が感情を表に現し、それを肯定できるようになったのは、下位の問いととても関係しているのです。
下位の問いに生きることは、真宗を生きることに繋がりました。
すると、感情を肯定して現せるということは、真宗が言うところの他力的生き方と関係しているような気がします。
和尚さんからのメール2

和尚さんからメールがきました。以下、全文です。
********************************
>下位の問いに生きることは、真宗を生きることにつながりました。
そうですね、「非常に強く堅いつながりがある」と言えます。
>すると、感情を肯定して現せるということは、真宗が言うところの他力的生き方と、関係しているような気がします。
私は、これも関係と言うより、「非常に強く堅いつながりがある」と言います。

「泣ける時には泣く」。「笑える時には笑う」。「怒る時には怒らなければならない」。「我慢の時には我慢する」。こういった感情を素直に表せる人間は、心の豊かな人間です。仏教はこういう心の豊かな人間を育てます。
ところが、例えば、自分の子どもが急に亡くなって葬式を出す時、「そうやって人前で泣いたらいけないのだ。我慢するのだ」と言う親が世の中にはいる。自分の子どもが亡くなって、その親は我慢できますか?
その時には、泣かなくてはいけない。泣いた時に初めて親としての姿がある!
それなのに、自分の子どもの死よりも、自分に対する世間の目・反応の方が大事だからなのでしょう、「人前で泣いてはいけないのだ。我慢するのだ」と平気で言える人は、その人は人間でしょうか?鬼だ。そういう人を「善人」と言うのでしょう。泣くという非常に大事な感情を押し殺して、人前で最初から終わりまで、涼しい顔した善人面を押し通す。当に善人です。
あくまで泣くべき時に限られますが、泣かなくてはならない時は、人前だろうが、誰が見ていようが、大勢の人がいようが、どんな時、場合であろうと、“大きな声で思いっきり、心行くまで泣かなくてはならない。涙を出し尽くすほど泣けば良い”-それを、心ある人ならば、誰が咎めるだろう?誰もいない。真宗は、そういう心を養います。
*******************************
スープと価値観

今、『「不思議の友」12』の原稿を作っている最中です。
『「不思議の友」11.3』を出した直後でもあり、次の『「不思議の友」12』は6月に出す予定です。なのに今から原稿を作る作業とは・・・(笑)。
しかし、これは私のスタンスです。手帳は白紙ですが、頭の中は違います。問題点を出来るだけ早く絞り出すことをやっているのです。
これは「自力」に近いものがありますが、むしろ「当然」だと思います(笑)
私は仕事に「追われる」というのがイヤなのです。仕事は「追い」たいのです。
「仕事を追う」というのは、川の流れに例えれば、みずから本流の中央部に移動するようなものだと思います。それで流れに逆らってオールを漕ぐのではなく、流れの方向に泳いでいる感覚もあります。
だから私は「仕事を追う」というようなスタイルが、とても好きなのです。

さて、『「不思議の友」12』には生まれ変わりの村が再登場します。二年ぶりです。
そこに文章を書くべく過去の書き込みを探していたら、次のフレーズにぶつかりました。
>生まれ変わる瞬間のリセット・クリアーの目的は、「記憶を消すこと」ではなく「価値観を消すこと」ではないかというインスピレーションが湧きました。

そして今日、亀レスコーナーには次のレスを入っていました。
>世の中は自分の思うとおりにならないと諦めること。そして、それにのること。そこに救いがあると思います。自分の都合や価値観に合わせるのではなく、「時空」の都合や価値観にあわせてみたらどうだろうか、と思いました。

生まれ変わりの村の情報によれば、スープを飲むか飲まないかが前世記憶のキーでした。では、スープは何を消そうとしているのでしょうか・・・
それは過去の「記憶」ではなく、「価値観」ではないでしょうか?
私達に価値観が生じるのは、物事を行った後の結果から生じる感覚です。未知のものには価値観を持ちませんから・・・。
人間の寿命が短いのは、種の生存競争に勝つためです。
環境は常に変化していきます。それに対して、ガチガチの価値観を持った人間ばかりになると、人間という種は滅びます。
だから生まれるときにリセットして、ガチガチの価値観を白紙に戻さなければなりません。
さて、過去の記憶を「情報」と「価値観」に分けたとき、情報はあった方が生存率が上がると思いませんか?これが正しいとすれば、リセットすべきは「価値観」だけなのです。
他力で生きる時、時空の価値観に乗る必要があると思います。それが出来た商人は儲かり、生存率も上がります(笑)。
もしも私たちがスープを飲まなかったとき、ガチガチの価値観は、自分で何とかしないといけません。
何とか出来ますか?(笑)
人生に「プラス」は無い

以下は過去の書き込みです。
******************************
つまり何をしても「マイナス」なのです。
何故かと言うと、何をしてもその結果としてそこに「価値観」というタマネギの皮を付与するだけだからです。「愛は価値がある」という価値観も、タマネギの皮です。
−中略−
「リセットクリアーが最大の成長だ」と書いたのは、これが理由です。
私達は一生かかってマイナスになり(さらにくどいですが普通のマイナスではありません)、リセットクリアーでゼロになるのです。
でも、何をしてもマイナスだと思った時、なんか楽になりませんか?私は楽になりました。
何故か言うと、私はずっとプラスのものを求め、追求してきたからです。最大値はプラスではなく、ゼロだったのです。
*******************************
さて、生まれた時に私たちはゼロから出発します。そして何かの行為をした時、マイナスになります。マイナスの積み重ねをするのが、人の一生です(笑)。
どんな事をしようが、マイナスなのです。
今日は『オーシャンズ12』という映画を観ましたが、どうせ生きるのなら、大泥棒でもやった方が楽しいです(笑)。
そして一生を終えてあの世に行き、スープを飲んで、ゼロに戻ります。もしもスープを飲まなければ、ゼロが加算されるだけです。
しかしマイナスにはならない行為がありそうです。それが「他力の行」ではないでしょうか・・。他力のみが、ゼロのまま維持できる・・。
もしもこれが本当なら(本当の確率は低いかも知れませんが(笑))、徳を積めば積むほど、マイナス点が加算されるのです。
この発想も、視点の移動ゲームとしては楽しいものがありそうです。
愛や徳を沢山積んだ人は、リセットすべきマイナス点は多いかも知れません。
善人が往生できるのなら、悪人はもっと出来る・・本当かも知れません。『オーシャンズ12』は大泥棒の話でした(でも最初の話の方が面白いと思います(笑))。
和尚さんからのメール3

****************************
>しかしマイナスにならない行為がありそうです。
>それが「他力の行」ではないでしょうか・・。
>他力のみが、ゼロのまま維持できる。
僕は、真にその通りだと思います。
>徳を積めば積むほど、マイナス点が加算されるのです。
だから、親鸞は「人間に善根功徳を積む事など100%あり得ない(これについては、例の書簡に書きました。また以前、もりけんさんのHPでこれについて森田さんは触れていましたね)」と言ったのだと理解しています。
従って、真宗では「善根功徳を積みなさい」とは一切言いません。
*******************************

続きです
*************************
さらに、親鸞は「善根功徳」の「善」と「徳」について言います。
雑毒雑修(ぞうどくざっしゅ)の善・虚仮(こけ)雑毒の善、雑毒の行・虚仮の行
また、「そんな善や徳は『万行の少善』であり、『万行の少善』を無量の数の如来様が嫌う」と言っています。
真に森田さんが言うように「徳を積めば積むほど、マイナス点が加算される」はずです。雑毒・雑修・虚仮なのですから。
「善人」とは、そういうところに思考が行き届かない人たちです。「ああー、良い事やった。これで今日一日の善根功徳を積んだ」などと、お目出度く物事の表面しか見ない人々なのです。深いところを見て考える思考作業を放棄・拒否している人々です。しかも、こういう人々の拒否は頑なである場合が多いのです。相手の事情も考えず自分勝手な判断だけから出た「善」で、相手はほとほと迷惑・困惑しているのに、「善人」はそれに気が付きません、気が付こうとしない。いや、気が付くのを拒否すらしているのではないか。
従って「善人」は「他人の思い・考えにまで、自分の思い・考えを及ぼす力のない人々」と言っても良いと思います。
ですから、善人は常に自分の事は棚の上に置きます。常に自分の事は横に置いています。だから、常に他人には自分の悪いところを絶対に隠し続けて、何が何でも見せまいと、自分の良いところしか見せようとしません。その自分の悪いところを隠し続ける姿に、もの凄い執念・怨念を感じ取る経験すらする事があります。背筋を寒くさせられるような「しがみつきの姿」を見せられたりします。
そういう「しがみつきに使われている力」を「自力」と言うのです。これは自力の一例であって他にもいろいろな例がありますが、「自力」と「当然の力」を混同してはいけません。
従って、他人は、その人の悪いところを見せてもらえず、善いところばかりを見せつけられますから、その人を「善人」としか言いようが無くなってしまいます。
だから「善人」と呼ぶのです。これで、なぜ「善人」と言われるのか。そのいわれを理解してもらえると思います。
よって、これは、あくまで「善人」の一例ですが、「善人とは、常に自分の事を棚に上げる人、横に置いておく人」だと考えてもらえばよいと思います。他にも「善人」のいろいろな面の例はありますが、先ずはそう考えてもらうと良いでしょう。
それならば、「善人より、悪人の方が遙かに往生し易い」のは当たり前です。
実を言いますと、私は「メチャ極重のメチャ悪人」なのです。
************************
時空快感プレイ

あの世に着くと、高級霊が、ある死にたての人間と対面していました。
高級霊「どれどれ、そなたのデータを見てみよう・・」
死にたての人間(以下「人間」)「はい、今回の生は、頑張ったと思います♪」
高級霊「げげっ・・なっなんと・・・」
人間「そんなに驚くほどの点数をゲットしたのですね♪」
高級霊「そなたは、徳を積みましたね・・・」
人間「はい♪高く、高く、積みましたぁ♪」
高級霊・・(汗)
人間「ご褒美はレベルアップでしょ?」
高級霊「ま・・マイナス15307点じゃ・・・」
人間「えっっ??」
高級霊「意識的に何かをすればマイナス点なんじゃ・・それに徳的行為だと2掛けなんじゃ・・・。どうしよう・・おーい、オババはいるか?」
オババ「はーい♪」
高級霊「またミニスカで・・(汗)、りんごの真似か」
オババ「だってりんごさんを見ていると年なんて、関係ないんだモン♪」
高級霊「ところでマイナス15307点をリセットするには、どうすればいいのじゃ?」
オババ「あら、やだ。また最低点が更新されたわ・・りんごさんの本を読んでいないのね。りんごさんの本は、マニアにはウケても、一般人にはあまり売れていないのね・・」
人間「りんごさんの本??そんなの、知りませんよ・・」
オババ「ところでマイナス15307点をリセットするには、こうよ・・」
人間「何するんですか、縛らないで下さい。さっき死んだばかりなのに・・」
オババ「私を女王様とお呼び・・ひっひっひっ・・ふっふっふっ・・」
人間「女王様、いけません・・ああ、下から見ると、女王様のスカートの中が見えます・・。あれ、もしかして男??あれ、やっぱり女??・・・あっダメです。そんなところを踏むと・・あっ・・あっ・・」
女王様「誰がここを大きくしていいと言った・・」
人間「ごめんなさい女王様・・でも・・感じて・・ぁぁぁあああ。こんなの、初めてです」
女王様「善人ぶって、こんなプレイもしたことないのかい」
人間「は・・はい、いつもノーマルでした(汗)」
女王様「じゃあ、お仕置きしなくちゃねぇぇ」
女王様のお顔が、死にたての人間に近づく・・



そして二人の唇が・・・チュウチュウ・・♪
女王様「ほーら、スープを口移しで・・ドクドク、ジュクジュク、ピチャピチャ、チュウチュウ♪」
かくして、口移しで10杯分のスープが流し込まれたのでした・・
この快感が忘れられず、彼はまた来世で、善行を積むのでした・・・


(この画像、意味不明)

さて、私の過去の書き込みです。
*********************
宇宙は片寄った成長はしていないのです。これを成長と呼べるでしょうか?
成長とは、ある一方の価値観に向かっていくことを言っている場合が多いからです。
*********************
もしも宇宙が「私は誰?」の問いかけをしていたとすれば、片寄った価値観だけに行くはずはありません。
おおもと(阿弥陀仏)があるとすれば、私はそれを時空と呼びますが、おおもとの何かを知るためには、他力しか無いでしょう・・・。
私は生き方として他力をしたいのではなく、向こう側を知りたいからでもあります。
他力に乗る私が、なぜ感情を肯定して表に出すようになったのでしょうか・・。それはそのときに限って、私が時空に乗っ取られているような快感を覚えるからです。
つまり時空女王様に、「私」を明け渡すのです。
そして、女王様の流し込むのは、スープではなく、快のエナジー・・ドクドク・・ビチャビチャ・・
それを時空快感プレイと呼びます。
和尚さんからのメール4

***************************
>この快感が忘れられず、彼はまた来世で、善行を積むのでした・・・
そう言えますね。彼はまた来世で、善行を積むでしょう。そして、彼は、そのまた来世でも、とてもではないが、この快感を忘れられないでしょう。
>「私」を明け渡す。
ここで最高の高まりを見せています。素晴らしい。
「時空快感プレイ」はクリーンヒット(別に「ホームラン」と言っても良いのですが)しました。
**************************
仏教の深い教えをあんな風に書く・・ということ自体が、ある意味では「他力の行」だと自分では思っています。
人は「こんな風に書けば、茶化してしてと受け取られないだろうか?」と、“一歩引く”のが普通ではないかと思います。しかも、あの、糸引き唇の写真・・です(笑)。
釈迦本人なら、どう反応したでしょうか?神父なら?PTA会長なら?(笑)
そういう視点が生まれると、もはや他力から脱してしまうと思います。カッコつけた自力になるのがオチです。
うーん・・そういう意味では、これを「クリーンヒット」と言う和尚も、大したものです。参りました・・(笑)
さて・・人はカッコつけたがります。
さらに・・人の落ち度を追求して、自分は何もしません。社会を批判して、自分は何もしません。
湧き上がる事は、いっぱいあるでしょうに・・・
「それは、違うと思います」「これを待っていたんだ」

今日は娘の幼稚園で一緒だった親の取引先に私のファンがいて、「レストラン クーカーニョ セルリアンタワー 東急ホテル 40階 」という所で、食事をしてきました。
ファンは、その業界ではトップの人でした。彼の話には、有名人も沢山登場しました。しかも彼は話し好きでした。ところが私は彼の話の途中に割り込んで、こう言ったのです
「それは、違うと思います。」
一瞬の沈黙がありました。彼は船井さんと同じ年くらいの人です。しかも、業界のドンです。
接待したのは、私の友人(娘の幼稚園の関係)です。友人も固唾(かたず)を飲みました(笑)。
ドンがその時言った言葉は「これを待っていたんだ」でした(笑)。
私も厳密に言えば接待する側でした。でも彼の言うことは違う・・、違うものは、違う・・(笑)。
最後に彼をタクシーに乗せてさよならした後、友人は言いました。
「『それは違う』と言うセリフが、たぶん彼の思い出に残ると思います。彼の周りにはイエスマンしかいません。しかもあのセリフをかなり年下に言われて、たぶん快感だったと思います。森田さん、ありがとうございました」
もちろん私は反射的に出た言葉なので、お礼を言われる筋合いはありません。毒舌的な私だから言えるセリフだったのでしょうか・・(笑)。
しかも、私は覚えていないのですが、二度も言ったらしいのです。

さて、和尚さんからメールが届いていました。
******************************
>釈迦本人なら、どう反応したでしょうか?神父なら?PTA会長なら?
神父やPTA会長は、おそらく顔を真っ赤にして怒るかもしれません。しかし、釈迦本人や親鸞は「時空快感プレイ」に肯定的・好意的に微笑むはずです。私は、そのように原始仏教や真宗仏教を理解しています。
「時空快感プレイ」から、真面目に「人が生きるとは、どういう営みか?」を問い詰めようとする、真剣な息遣いが聞こえてきます。
あの「糸引き唇の写真」が、真にそれを的確に象徴しています。とても良い写真です。クリーンヒット(ホームラン)と私が評価した根拠に、その写真も含まれています。
あの写真が「人間の思い・感情というものは、レンコンの切り口の様に糸を引くのであって、とても割り切れない。割り切れるのであれば、とても楽だから、その方が良いのだけれども、そうはいかない!」と、人間らしく語っている声を聞き取れます。
*******************************
うーん・・素晴らしい・・
そうか・・レンコンのように、糸を引くのか・・・(笑)
しかし・・・レンコンとキスの糸を一緒にして良いものか・・。
しかし哲学的な話であれセックスの話であれ、どんな場面を使っても「他力の行」は語られれねばならないと思います。それでなくては、真宗とは言えないと思います。
だって戒律の無いのが真宗ではなかったでしょうか・・・。
ということは、真宗は「限界」というものを置いていないと思います。限界を作り出したのは、私達の価値判断だけだと思います。
時空の川幅はとても広いと思います。私はそれを知りたいです。
>人間の思い・感情というものは、レンコンの切り口の様に糸を引くのであって、とても割り切れない
私はこういう思いに着地していれば、不思議な研究をしていません。割り切れないのは、世間一般のセリフです。
私は、その向こう側を見たい・・。
和尚さんからのメール5

********************************
レンコンの切り口は、単なる視覚上の喩えに過ぎません。レンコンの切り口とキスの糸引きとは、勿論一緒ではありません。しかし、先ずは「一緒だ」として入っても良いとは思いますよ。その訳を次に言います。
人間の思い・感情は、世間一般に「割り切れない」と認識されています。ただ、そういう認識に着地しているだけならば、宗教は生まれません。真宗も同様です。
しかし、私が真宗を話す時、最初は世間の常識から殆ど入ります。そう言う方が相手には伝わり易い、という話法上のテクニックがある事も理由の一つですが、
世間の常識を把握していないのに、真宗を理解できるはずがない。世間知らずでは、真宗は分からない。
という最大の理由があるからです。その理由についての詳細は、例の書簡に充分に述べてあります。皆さんには追々、述べていきましょう。物事には順番があり、余りいっぱい話すとかえってまずいと思います。

そういう訳で、私は真宗の話をする時は、殆どの場合先ず、「世間の一般常識あるいは世間の一般認識」に触れるところから始めます。相手は、森田さんの様な人ばかりではないのです。もっと言えば、森田さんの様な人は、めったにいないという事実は周知の通りです。尤もこれは、私についてもそう言えますが・・・(笑)。
ですから、「『割り切れない』ところの向こうには、何があるか?」を教えているから、阿弥陀如来の存在意味が確立され、世界の概念は「無量つまり無限、即ち限界がない」とされるのです。「ただ、割り切れないという認識の場だけに到着して良し」とするのならば、「無量」の概念はあり得ません。
それだからこそ
セックスの話であれ、どんな場合でも「他力の行」が語られます。
それだからこそ
真宗には、一切戒律がないのです。
それだからこそ、
真宗は「限界」を置きません。
森田さんには、以上の事を十分にご理解いただけると思います。
********************************
書き込み期間:2005/01/01〜2005/02/02