もりけん語録
テーマ:「仙道修行1999.12」
書き込み期間:1999/11/30〜1999/12/21
要旨:
今度の香港での修行は、「天人合一」の修行です。これはまだ弟子達の中で誰も教わったことのないものですが、トランプ占いで全てが一回で集結したことにより、伝授が決まったのです。
修行内容は、主に胎児に還るポーズと瞑想です。意識や大人の心を手放して胎児以前に還らないと、天人合一は出来ないようなのです。
瞑想中に、一つのインスピレーションが降りました。人は生まれてから成長するにつれて劣等感が芽生え、理想の自分に近付こうとします。それは自由が怖いからです。
成長するにつれて身に付けてきたものを脱ぎ捨てるために、胎児以前に戻る修行があるのではないかと思います。胎児以前に戻ると、思考も感情も切り離されます。思考や感情もまた自分の本質ではなく、道具にすぎなかったのです。

そうして自分の殻がどんどん削ぎ落とされていく中で、行動規範書というものも脱ぎ捨てられました。それは生まれてからの経験から学んで身に付けた、より有利な方向を選択するための行動の指針です。それに基づいて未来を決めていくのです。
しかしこれは、自由から逃避する行為だと思います。行動規範書がなければ、360°の可能性が開けた状態になります。こうなると、無意識の領域に入ります。そうなれるには、無意識と時空への信頼感が必要なのです。
信頼感を持つためには、目標を無くすことです。目標は劣等感と優越感、理想の自分を作り出すからです。気付いて成長しようとすることも目標にあたります。
しかし三次元に生きる私達は、現実に行動規範書を無くすことは無理です。それでも規範書から自由になる方法はあります。書き込まれている内容と逆のことを新たに書き込めば良いのです。劣等感を持っていれば、「私達は完全だ」と書き加えれば良いのです。自分を変えることは大変ですが、書を書き換えてしまうことはすぐに出来ます。

導師と一緒に瞑想している最中、私は初めて無の世界を体験しました。その中で私はただ、これでいい・・無いがままでいい・・と感じていました。
そこから戻ってきた時に得たインスピレーションは、意志を持つと自由は消え去るということでした。天人合一の世界に意志はありません。
そして無の世界から帰ってきた時、不思議探検の旅をやめている自分がいたのでした。
私は今までずっと、世界中を飛び回って不思議な現象を追い続けてきました。いつでもやめられることを言っていながら、やめていない自分がいました。360°の可能性の前では「不思議研究をする自分」さえ狭い世界なのだと気付きました。
あらゆる行為は、他の目的のためにあるわけではないのです。「楽しむための人生」でさえありません。私達は生きるために生きるのです。そして、一杯のコーヒーを飲む時間は、ただコーヒーを飲むためだけにあるのです。
と言っても、私は本当に不思議研究をやめるわけではありません。ただ、そこに無という視点が加わったことで、見かけ上はあまり変わらなくても、私は今までにも増してやりたいようにやっていき、本当に自分の道を歩けそうな気がするのです。
目次
○ コンビニと道教(1999/11/30)
○ 時空はコンビニ(1999/11/30)
○ 〜からの自由(1999/12/02)
○ 明日から香港入り(1999/12/02)
○ 初日(1999/12/03)
○ 最初の修行(1999/12/04)
○ 終功基本ポーズ(1999/12/05)
○ 劣等感(1999/12/06)
○ 瞑想(1999/12/06)
○ 劣等感2(1999/12/07)
○ 感情は道具(1999/12/08)
○ 行動規範書(1999/12/08)
○ 私達は完全(1999/12/09)
○ 道教の有名人達(1999/12/09)
○ 自由と行動規範書(1999/12/09)
○ エナジー修練(1999/12/09)
○ 無の世界(1999/12/10)
○ いろいろ(1999/12/11)
○ 天人合一達成パーティー(1999/12/12)
○ ××について(副題:無について)(1999/12/13)
○ ポジティブとネガティブ(1999/12/14)
○ エネルギーのない気付き(1999/12/14)
○ エネルギーのリリース(1999/12/14)
○ 無の体験(1999/12/14)
○ 孫さん登場(1999/12/14)
○ 神棚について(1999/12/14)
○ 感謝する心(1999/12/15)
○ 私の愛おしい私、私の愛おしい世界(時空)(1999/12/16)
○ 風水逸話(1999/12/16)
○ 宗教と科学(1999/12/16)
○ 得たものと失ったもの(1999/12/17)
○ 女性(1999/12/18)
○ 変わったかも・・・(1999/12/19)
○ エネルギーの重要性(1999/12/20)
○ 念写のエネルギー(1999/12/20)
○ 知ること(1999/12/21)
コンビニと道教(1999/11/30)

コンビニには個性がありません。
私達は個性を持てと言われ続けてきました。あなたは、この世でたった一人の掛け替えのない人なのよ、と言われてきました。
あなたにしか出来ないことをやりなさいと言われてきました。
そんなあなたが、街を通り過ぎます。個性的なブティックが並んでいます。
「あなたの趣味を決めてから入ってね」という無言のメッセージが聞こえてきます。
「目的を決めて人生を生きなさい」という、いつものメッセージと同じです。
でもあなたは、ふとコンビニを見つけます。そこには個性がありません。
全ての目的があるということは、目的が決まっていないことと同じです。
あなたは、何か安心感を覚えます。演出した何物をも感じません。
人は中和をするために、コンビニに行きます。個性というものの、中和を・・
人は元々コントンとしています。
宇宙創生の神、コントンに五官を付け個性化したら、7日間で死んでしまいました。
コントンは、個性のないコンビニに似ています。道教の神髄は、コンビニにあります。
時空はコンビニ(1999/11/30)

コンビニには360°の可能性があります。これは個性が無いことの裏返しです。
私は東京では唯二だった村の出身です。東京都西多摩郡日の出村です。
その村には中学は二つしかありません。1学年60人、全校180人でした。
私はその中学で、一度も一番になったことは、ありません。もちろん、中学に限らず、私は学校で一番になったことはありません。
でもわざわざ中学のことを書くのは、理由があります。それは高校受験を前にして、担任の先生が進路指導のための家庭訪問に来たのです。私は隣の部屋で偶然その会話を聞いてしまいました。
先生は言いました。「健君は、もっと勉強すれば一番になるし、高校も一番のところに行けますよ。健君は、クラブ活動などの勉強以外のところに興味があるように見えます。」
その時父が言いました。「山が高くなるには裾野が広くなければいけないでしょう。今は裾野を広げることが大事です。一番になる必要はないでしょう。なればそれで終わりです。」
担任は「それは、そうですが・・・若いときしか勉強できないし・・」などと、歯切れの悪い応戦をしていました。
その頃私は科学天文部というのを勝手に作り、夜、生徒(女生徒もたくさんいた)を集めて、活動(何の?)をしたりしていました。
家に帰るとアマチュア無線に呆けていました。
結局私は十何校の高校の、真ん中くらいのところに行きました。
三年の頃、学園紛争なるものが勃発し、私はスト派になり、毎日授業ボイコットの活動を続けました。
半年ほど経った頃、父が言いました。「社会に対する気付きが、俺より早いな・・しかし、勉強よりもこういう事の方が大切なんだ・・。」
父の自慢のような話になりましたが、父が亡くなったとき、私が彼に言った最初の言葉が、「あの、山の話をありがとう」でした。

山を高くすることは、専門分野を伸ばすことです。個性化を意味します。
デパートは、当時、非個性化で始まったと思います。ところが時代が個性化に向かい始めました。そこでデパートも個性を出すようになります。
そして「違いが分かる男のコーヒー」・・の時代になります。世の中が細分化を始めます。
しかしある時、突如として登場したのがコンビニでした。
コンビニには突出した部分がありません。山の裾野だけで成り立っているように思います。
可能性だけの世界・・コンビニ。360°の世界・・・コンビニ。
私は恥ずかしい事があると、コンビニに行きます。恥ずかしい事とは、自分の個性の飛び出た部分です。それを感じた時、コンビニに行くとホッとします。
すると、たった一分でも、まるで二時間も瞑想したような効果があります。
私は体外離脱したとき、喋るドアと遭遇しました。そしてドアに言われました。
「子供の頃には360°の可能性があったでしょう」と。
今、父が生きていたら言うでしょうか。「もう裾野は終わった。そろそろ山を高くする時期だ」と。
いえ、言わないような気がします。「お前は一生、裾野でいいんだ。」たぶん、こう言うでしょう。

私はものの見方を転換するのが好きです。それは裾野の、もう一方の側を作ることなのです。
裾野を広げ、色々な位置に望遠鏡を置いて見ます。すると別の世界が見えるのです。
でも、そこには大事な共通点があることに気が付きました。どこの位置から宇宙を見ても、信頼という文字が見えるのです。時空は信頼できるのです。
この宇宙は・・・いえ、時空は、大きなコンビニなのです。
時空のコンビニも、360°の可能性があります。時空のコンビニも、24時間、開いています。そして時空のコンビニにも個性はありません。どんな人でも受け入れます。
三次元のコンビニ、時空のコンビニ・・とくれば、次は何でしょうか?
そう、今度は私達自身がコンビニになる番です。
個性を捨てましょう。子供に戻りましょう。殻を脱ぎ捨てても、大丈夫です。時空は信頼できるからです。
あなたがコンビニになれば、人はサンダル履きであなたを訪れるようになります。24時間・・。
しかし、本当にコンビニになったとき、あなたの店の中央には、大きなダイヤモンドが出現するような気がしてなりません。
コンビニの中央にはダイヤモンドがある・・・それが私達人間・・そんな気がします。
〜からの自由(1999/12/02)

親からら逃げたい人はいると思います。束縛から逃れたい人はいると思います。
しかしそこから逃れて、〜からの自由は得られるのでしょうか?
つまり、向き合う姿勢そのもの・・かな、と思ったりしました。
だとすると、〜からの自由と、〜への自由は、同時達成かも知れません。
ひょっとすると、向き合う姿勢だけなのかも知れません。
私は介入することが好きです。きっと世界の主人公でいたいのです。
組織の中で脇役であっても、主人公でいたいのです。
それは、リーダーシップを取るのとは違うのですが・・。
ここには親の仕事を継ぎ、親と共に暮らしている人もいるでしょう。
でも、向き合い方ではないかと書いたのは、自分が主人公になっていれば良いのです。きっと・・。
その姿は、親の言うことを聞いている状態なのです。あなたの耳で・・あなたの感覚で・・。
決して物理的に壊す必要は、ないと思います。

父は東京に帰って来てから、私の渡す給与(会社を手伝っていた)の一部をチマチマと貯めていました。健に返すんだ・・と言って。
でも私は、そんなことをされても、ちっとも嬉しくないと言いました。それが分かったのでしょうか・・・。
逝く一年前、父と母は三回の海外旅行をしました。夫婦とも、生まれて初めての海外です。なんと、それはウイーンエリザベス号による旅です。ニューヨークにまで行きました。
だから、お葬式の写真は、外人の船長と写る、蝶ネクタイの大変粋な写真でした。
父も、〜からの自由を得たのでしょうか。

この手の話しが苦手なのは、どうも苦労話になる可能性があるからでしょうね。
私は事件の真っ最中であっても、ほとんど苦労を感じなかったどころか、楽しくてしようがありませんでした。
一緒に対応していた弁護士からも「君は、何だか、とても楽しそうだ。不幸な事件のような気がしなくなる」と言われていました。
でも、財産が物理的にゼロになるのは、私にとっては、やはり大きかったです。何故って、自分自らでは、ゼロにはしないでしょうから・・。
新興宗教の教祖を批判しても、批判する人がその人のささやかな財産を守ろうとしていれば、もうそれで同罪だと思います。
ローンが残っていようがいまいが・・通帳の残高が10円であっても、それを守ろうとすれば、100億円の人と変わらないと思います。
とは言え、私だって守ろうとしますよ。10円以上、100億円未満ではありますが・・。
明日から香港入り(1999/12/02)

導師はあれ以来(前回の香港巡り以来)、まだ香港にいるのです。
前回の私の報告を読んでいた方はご存じと思いますが、私は道教修行の次のステップに入れそうなのです。それがうまく行けば、明日からの香港でです。
弟子を通じ、導師から先ほどEメールが入りました。「まぁ、とにかくおいで・・」とのことです。
しかし「ちゃんと、修行は続けてましたよね??」「はっはい・・・」という感じで、イマイチ歯切れは悪いですが・・(とりあえず、続けてはいたのですぅ・・)
でも、「ええええ、これがあのシンデンシェン(森田健)か? エネルギーレベルがまったく落ちているじゃないですか。」「ハイ、ちょっと落ちているかも・・・」
というわけで、とにかく会ってみるまでは展開が分かりません・・
明日は、新宿発7時ごろの成田エキスプレス。それでとにかく香港に向かいます。旅程は約2週間です。
初日(1999/12/03)

ホテルの部屋に入り、5分もしないうちに、導師と弟子がやって来ました。携帯に電話する必要もありませんでした。
まずは日本からのおみやげとして、着物の生地をプレゼントしました。
彼女は日本の着物の生地で道教の服を作りたいと言っていたからです。これは大変に喜ばれました。
この写真は、その時の模様です。黒い道教服の上から生地を当てようとしています。


写真で、窓の外が見えるでしょうか。テラスになっています。今日は早速そこに出て、修練を行いました。以前、時空の旅に行った時に行った修行です。


さて、この写真は、導師のマンションから撮ったものです。ふーーーう、なんて夜景が綺麗なんでしょうか・・。
私は、こういう高層マンションで、これから約一週間、次のステップと言われているコースに入ります。
今日は簡単な導入部に続いて、明日からのオリエンテーション(笑)がありました。
な、なんと、一日9時間も修練をやるそうです。ぐえーーーー・・。
ところで、なんの修行かというと・・・「天人合一」の修行です。
まだ弟子の中で、誰もこれを教わったことはないのです。部外者(道教に入っていない)の私が最初だそうです。
前回の時トランプの占いをやったことは書きました。
そのトランプの最中、導師は「天人合一」という言葉を連呼していました。
つまり、トランプを天に見立てて、私にそれを伝授しても良いかを聞いていたのです。
そして見事に(単に偶然に)トランプは、全て一回で集結しました。
導師はその時「シンデンシェン(森田さん)はなんて運が強い人なのでしょう。弟子の誰にも教えていないものを、あなたに教えても良いという許可が出ました」と言いました。
時空の旅の時も一週間の合宿でしたが、一日の修練は9時間もやりませんでした。
ホテルと導師のマンションは、歩いて2分です。場所は両方使うそうです。
時空の旅は山の中でした。そして今回は大都会の真ん中です。場所など問わないのです。
さて、明日から、どうなるのでしょうか・・・。
でも、今回はエネルギーに関する修行が中心なので、観念の世界の反転は無いかも知れません。
まぁ、読んでいるみなさんも、「ふーーん、天人合一などというバカげた修行は、そんなものなのか・・」という軽い気持ちでいて下さい。ではでは・・。
最初の修行(1999/12/04)





上は、まさにエネルギー修行の最中・・・下は、寝ているところ・・(笑)
寝ているところの写真は、どこかで見たことはありませんか?
そうです、孫さんの第五の指導霊の寝ている姿です。
この手の置き方には、全て意味があります。体の形は太極図なのです。
この姿勢でずっと寝ます。それだけで仙人になれると言われています。
孫さんの指導霊は言いました。「修行はこうやってするものだ」と。
それは、単に寝ることではなかったのです。これは胎児の格好なのです。還童功を通り過ぎ、いよいよ胎児に戻りつつあります。
一つ一つがここにきて、一つになっていく予感があります。
昼間、一つだけ引っかかった修行がありました。やっとそれをクリアーして、夕食のための小休止にこぎ着けました。とてもハードです。
夜は19時半から瞑想修行です。




夜は、胎児に還るという修行がメインでした。上は、上向きのポーズで胎児をイメージする方法です。下は、下向きのポーズで、まさに胎児そのものになります。
今晩、初めて天人合一の手法が明らかになりました。還るのです、胎児に・・・。
虚無の世界に帰ったとき初めて天人合一すると、教えてくれました。
そして胎児ポーズを沢山とった後、瞑想がありました。
全て導師と背と背を合わせた形で行いました。陰と陽のエネルギーの合体なのだそうです。
最後に導師は言いました。「シンデンシェン、すごいエネルギーです。私はたくさんいただきました。ありがとう」と。
その後、しばらく話がありました。大人から子供へは還童功によって行うが、子供から胎児は、この天人合一によって帰るのだと・・。
この胎児に帰るという手法は、どの本にも書いていないそうです。直接伝授しかないのだそうです。
私は初期のミニミニツアーは、この胎児バック法を使っていましたが、それもまんざら、間違っていたわけではなさそうです。
次回は、融合型になるのでしょうか・・。胎児バック法は、大変に興味が生まれました。
天人合一は、胎児以前に還らないとダメみたいです。
今の自分そのもので・・つまり意識がそのままで・・・つまり大人の心そのままでは・・・合一できないらしいのです。
ただ、この点を本に書いてないのは、理屈を越えないとダメだからだそうです。
どうも、そのための9時間修行みたいです。今日は体を動かす修練ばかり・・体が痛い・・。
終功基本ポーズ(1999/12/05)



今回の行われている一連の修練の最後は、写真のポーズで終わることが多いです。
これは集めた気を、指から発射して、鼻を通して頭部に入れるという目的です。
時間はほんの2、3秒です。
さて、今回の修行は道教のものではないと言われました。仙功というらしいです。
だから、まず日本には文献はないと言われました。中国でさえ無いらしいです。
仙功・・つまり、仙道の修練です。
チャイルドからベイビーに還り、最後はベイビーも通り過ぎて、精子と卵子が合体した直後、いえ、直前の状態に還ることだそうです。それが混沌であり、虚無らしいです。
その状態に遊ぶことが出来ないと、天人合一は出来ないようです。
昼間はずっとエネルギー修行が続いています。私の体はホカホカまんじゅうのような状態です。
そう言えば、一つの変化がありました。人体から出る気が見えるようになったのです。
正確には見えるのではなく、感じるという方が正しいです。凝視すると見えなくなってしまうからです。
導師は10時に来て、18時までいます。そしてまた、20時に来て0時までいます。
中国語から英語への通訳には弟子を取っ替え引っ替え連れてきます。同じ弟子を連れて来ないのは、その弟子に伝授しないためです。
ふーーう、やはり、かなりの秘密主義です。私が前日の質問をしたら、えらく怒られました。
つまりその弟子には、その技は教えてはいけないことになっているらしいです。時というものと偶然というものの、両方がなければならないと言います。
昼間はエネルギー修行・・そして夜は瞑想修行。昼間の成果がしっかりと瞑想にも現れるらしい・・ですが、私はまだ、瞑想では大した成果がありません。
インスピレーションがないからです。まぁ、ゆっくり待つとしましょう・・。
今晩あたり、何かのインスピレーションでも来るのでしょうか・・。
劣等感(1999/12/06)

昨日の瞑想は、なかなかのものがありました。光が上から照射していました。
玉が一つ落ちてきました。瞑想後に玉からメッセージが出てきました。寝ぼけた頭ですから、解読が間違っているかもしれません。しかし、そうでもないかも知れません。
劣等感がいけない・・・当たり前ですね・・。どのくらいいけないかというと、相当いけない。
劣等感は正義感を生み出し、怒りを生み出し、不安を生み出し、孤独を生み出し、嫉妬を生み出します。
私達は胎児から成長するにつれ、劣等感を成長させてきました。
劣等感とは何でしょうか。それは理想の自分と今の自分との距離です。
自由とは、自然からの距離だと書いたことがありました。
しかし自由は本当は怖いものです。だから、自然から離れた分の埋め合わせをしたいのです。
今の自分ではダメなので、理想の自分を作り上げます。その理想の自分と今の自分の距離が劣等感です。
生まれ変わるのは、自分を理想に近付けるためだと、言い訳を作ります。
愛を、他の人や他の惑星の人が言っていることだと、言い訳を作ります。
これらは全て劣等感が原因です。そうい意味では、今の地球は劣等感でいっぱいなのかも知れません。

劣等感は未来から来ます。まだ実現していない「理想の自分」という未来からです。
胎児以前に戻るという修行は、その部分をキャンセルする行為なのではないかと思いました。
気のエネルギーアップと瞑想が一体化されているのは、そのことを「気」が教えてくれるようにしているのかも知れません。
「思考」は別のものを教えようとします。なぜなら、「思考」は本当の自分自身ではないからです。「思考」は自分自身から離れた「外」の行為だからです。
思考はいつ生まれたのでしょうか?胎児以降です。
こういう風に書くと、人間そのものを否定するでしょうか?
では、そういう人には質問します。いったい誰が、「思考は自分のものだ」と決めたのでしょうか?
思考はノミやトンカチと同じ、道具だったのです。
生まれた時から自動車に乗っていたら、自動車そのものが自分の身体の一部だと思うかも知れません。
生まれた時から肉体を身につけていると、肉体が自分だと思うかも知れません。
同じように、思考も自分だと思ってきました。思考は自動車でした。いえ、正確に言えば、思考がハンドルだったのです。
胎児以前に戻る行為・・天人合一・・それは本質と道具を切り離すこと・・。
劣等感から解放されると、人は気が付いたら愛の中・・なんてことになるかも知れません。
胎児以前に劣等感はあったのでしょうか?たぶん、ないですよね。
輪廻は欠点を再修正するためだという人以外は・・。しかしそれも思考が作りだした結果・・だと思います。
あなたの「気」は、そんなことを教えていますか?
道教では宇宙が誕生する以前のことを「一気」と言います。そして「一気」から「道(タオ)」が生まれ、道から万物が生まれます。
胎児以前・・それは宇宙の胎児以前でもあります。一気・・それは混沌とも言い、虚無とも言います。
玉からのインスピレーションでした。
瞑想(1999/12/06)

瞑想は、導師と背と背を合わせて行います。それを最低でも一時間・・。
結局、なぜ私しかこの修行が出来ないか、理由が分かりました。トランプ占いの他にです。
一時間以上の瞑想が出来るのは、弟子の中では誰もいなかったのです。部外者の私を除いて・・。
弟子達は15分が限度です。それでよく弟子をやっているかと思えば、やはり瞑想以外の伝授にも魅力が沢山あるからです。
導師は私と瞑想した後、「シンデンシェン、エネルギーをたくさんありがとう」と言いながら、鏡に向かってお肌ツヤツヤのマッサージを始めます。
というわけで、私は導師の良き瞑想フレンドとなったのです。
さて、瞑想セッションは一日に三回あります。6時から、17時から、22時からです。
導師と背中を合わせているために、微動だに出来ません。完璧に垂直不動の瞑想ポーズです。でも気が付くと、時空に飛び出していることが多いのです。
その瞑想中に気が付いたことがありました。瞑想状態を通過する感情と、通過できない感情です。
通過できないものには、不安、焦燥、焦り・・等があります。いわゆる未来から来るものは、全部通過できません(この通過できないという意味は、瞑想で消すことが出来るという意味です)。
しかし、喜び、悲しみ、怒りは通過できます。これは現在の感情だったのです。
劣等感2(1999/12/07)

『不思議の科学3』がここで出来つつある気配を感じています・・。
どうしても越えることが出来ないと思った、「なる→ある」へ。
しかし、劣等感を持ったままの「ある」じゃあ、いけないんだと分かりました。
劣等感を持ったままだと、「なる」状態の「ある」だから・・・。
脱出方法は、この旅で掴めそう・・それが『不思議の科学3』の骨子になると思います。
劣等感が消えれば、この地球は素晴らしいものになります。
劣等感がなくなれば地球は素晴らしくなるのに、他の惑星の存在達は、なぜ劣等感を植え付けようとするのでしょうか???
劣等感は優越感を作り出します。両方無くなれば、素晴らしいのに・・。
両方とも、「気付き」で無くなるものじゃない。「気付き」は思考の一部だから・・・思考で気付いても、ますます強くするだけ・・。
もともと、気付きなんてあってはいけないのです。何を気付いたかすらも分からない・・そんな状態でないと・・。
感情は道具(1999/12/08)

昨日は、タコチュポーズをインプットしたりしてPCをいじっている時に導師が帰ってきました。
怒られました(笑)。タコチュとPCにではなく、胎児ポーズでお昼寝をしていなかったことです。
あの寝技は、昼食後、毎日1時間ほどしていたのです。そしてそれは重要な修行だったのです。結局午後の8時頃から1時間ほどやらされました。
PCは基本的に禁止されています。右脳体験に集中するというのが理由みたいですが、導師がいない今は、知ったことではありません(導師は毎朝1時間ほど家に帰ります)。
さて、昨夜から瞑想方法が変わりました。
道教瞑想は、片手を丹田に付けて、もう一方の手を足の平に付けます。しかし昨夜は、丹田に付ける手をサイドに持っていき、背中合わせになりながら、導師と手を繋ぐのです。
つまり導師が手をとって、未知の世界を案内するというスタイルです。
私は瞑想中にトリップした時、リングがたくさん現れました。そのリングは大きい輪から小さな輪の順で並んでいました。
私はエネルギーの状態でそこに飛び込みます。するとリングは突然、もっと小さくなり、私のエネルギーの一部を切り取りました。
何が切り取られたかと言うと、「思考」という皮でした。次に「常識」という皮でした。次々に余計な皮が切り取られます。
そして最後の一番小さな輪に飛び込んだ時、なんと「感情」という皮が切り取られてしまったのです。
モンロー研の報告で「フォーカスの上部にいる存在は感情が薄い」と書いたことがありました。まさにその状態かもしれません。
最後は私の意識だけが虚無の世界に向かって飛び続けました。
感情は道具だったのです。つまり感情とは、意識という感覚で感じる対象なのです。
ある事象を見て嬉しいか悲しいかは、その人が感じる感じ方にしか過ぎませんでした。
同じものを見ても、ある人は楽しいと見て、ある人は悲しいと見るのです。
だとすれば、より楽しい方が良いのです。道具なのですから、楽しい方に使った方がいいに決まっています。
しかし時には被害者意識に陥り、悲しいヒロインを演じるためには、悲しみという道具も必要なのかも知れません。
行動規範書(1999/12/08)

私はエネルギー体になり、リングを通り抜けていく時に、バッサバッサと自分の殻を脱がされました。
その時、行動規範書というものも脱がされました。それには、私の48年間の経験が全て書いてありました。
私達は自分が行動すべき規範を書いた辞書のようなものを持っています。新しいことに出くわした時、それを調べ、最も有利な方向を選択します。
それが書いてある書を、行動規範書と名付けます(以下、書と略す箇所もあります)。
私は瞑想上の体験として、行動規範書を削ぎ落とす作業をしました。
実は、この行動規範書に劣等感のことが書いてあるのです。あなたの不得意な部分はここですよ・・と書いてあります。
そして行動規範書を参考にして、私達は行動を起こします。
これを読んでいるみなさんは、行動規範書って、あるかも知れないと思いませんか?
過去のあらゆる自分の行動とその結果が入っています。人は経験を積めば積むほど、行動規範書が分厚くなります。
ある事象に出くわすと、この書を紐解きます。そして自分に最も有利な方向を選択します。
行動規範書は過去の記録です。過去の記録をもとに、実は決めるのはその人の「未来」なのです。ちょうど過去から接線を出し、そのまま未来に引くように・・。
この行為は私たちの内部にある利己的なDNAが、生き残るためにやっているのではないでしょうか。未来は不確定です。だからこそ生存に危機があってはならずと・・。

さてこの行為は、一般的な精神世界では素晴らしいとされている行為です。経験を積み、自分で未来を選択するのですから・・。
「気付き」はその都度、行動規範書に書き込めば良いのです。その中には欠点を直すというページもありますから。
しかし、私はそう考えません。私はこの書を、時空のリングに引っかけて脱ぎ去ったのです。
「ああ、気持ちがいい・・」これは喩えようもない快感でした。家の引っ越しで、要らない荷物を全て捨てたような気分でした。
行動規範書こそ、自由からの逃避方法だと思います。
反対に規範書がないとどうでしょうか。瞬間瞬間、360°の可能性が生じています。
どこに行くか分かりません。これこそ、ワダチの世界です。
しかし書を放棄するためには、何が必要でしょうか。
まず、自分の無意識を信頼しないといけません。書から判断していたのは思考でした。意識の世界でした。自分の思考で選択をしていました。
思考には思考するための判断材料が必要です。それが書でした。
しかし書を放棄し、何もデータが無くなると、思考は何を元に判断して良いか判りません。だから思考の出番はこれで終わりです。あとは無意識の領域です。
必要事項はまだあります。時空を信頼しないといけません。今までのデータの代わりになるものです。どんな方向に飛び込んでも間違いはない・・という信頼感です。
無意識への信頼感と時空への信頼感・・この二つを獲得するには、どうすれば良いでしょうか?
目標を無くせば良いのです。
目標が劣等感を作り出し、優越感を作り出します。目標とは理想の自分です。
だから気付いて成長しようという考え方は、まさに逆をやっていると思います。

ところで前回、導師は「道教の人は山の頂上に登ってはいけません」と言い、中腹で昼食を食べました。これには深い訳がありました。
頂上という概念そのものを持ってはいけない・・・だったのです。
頂上という概念は目標を意味します。目標ができた途端に劣等感が生まれます。自分はまだ不完全だという・・・。
書から未来の目標を作り出す思考の行為と似ています。必要なのは方向性だけです。山を散歩するという方向性・・。
ところで老子は、牛に乗っている絵が多いです。その絵の老子は手綱を持っていません。
持っているとすればそれは間違った絵です。老子は牛の背に乗って、牛の行くままに旅をしたのです。
この牛が老子の無意識なのです。まさにワダチです。自動車よりも牛の方が、比喩として適切です。
ここまで読んで、いったい我々の自由意志はどうなってしまったんだ・・と思う人も多いと思います。
手を離すところには自由はない・・・しかし本当にそうでしょうか??
動物は書だけで生きています。それも天がもともと作った書に、自分の経験を加味したものです。だから動物は過去に生きています。
しかし人間は未来に生きています。しかしそれは悲しいことです。未来に生きるという意味は、せっかくの360°開けた未来を、閉じているのです。
書を手放し、無意識を信頼し、時空を信頼したらどうなるでしょうか?
未来が削ぎ落とされます。「今」にしか生きられなくなります。
書は全ての生き物が持っています。それがDNAの指令だと思うのです。

ところで神はDNAを持っているのでしょうか?
人間だけが書を手放すことができます。それは自由に向かっているからではないでしょうか?書を手放した時、ひょっとすると神と一体化するのではないでしょうか?
それを道教では天人合一と言うのかも知れません。
中国語で今日のことを今天、明日は明天といいます。つまり天には時間という意味がありそうです。天人合一は時間との合一かも知れません。
しかし、書を無くすことは大変です。だって今までの苦労が水の泡です。今まで気付いた事柄を、全部捨てるのです。
だからせめても、書には、こういう考えもあるんだという逆説情報をインプットしておく・・それだけでも随分と違うと思います。
本当に書を捨てたら、それは一種、悟りの境地だと思います。
三次元で生きる私達は、それなりに安全性も必要です。思考を使って安全な未来を選択しなくてはなりません。なぜなら、自由は怖いからです。
瞑想で書を捨て私だって、瞑想から戻った時には、しっかりと書も私の懐の中に戻っていました。
私達は完全(1999/12/09)

書を捨てる必要はありません。そこに書き込めば良いのです。「私達は完全だ」と・・。
でも、いずれは捨てる世の中が来ると思います。だって、そうでないと不老不死は訪れないですから・・。
書は、年を取るためにあるのですから・・。経験を書くためにあるのですから・・。
不老不死になり、1000歳を越えても分厚い書を持っていたら、笑っちゃいますよね。
導師が次のステップだと言って今回の体験をさせているのは、書への気付きと、書を捨て去ることへの誘いかも知れません。
あらゆる欠点は思考が作り出したものだと思います。特に今回は強烈にそう思いました。
それを直すためだとか言って、気付きだ何だと苦労している・・。
人間は「変わりたくない」という性質を持っているのです・・きっと。
変わりたくないという努力を外せばいい。人が偉そうな事を言おうが、俺は俺だと思えばいい。
今の自分を好きになる・・これを思った瞬間、行動規範書は吹き飛ぶようにも思えます。
だって、そんな過去の記録にこだわるよりも、大好きな自分の魂に聞けばいいのですから・・。
道教の有名人達(1999/12/09)

道教の有名人達に、立派な人など、一人もいません。有名人とは、道観の中央に鎮座する連中です。
大ボスのコントンは、顔を書いたら死んじゃったし・・。つまり理想の生き方という顔を書いたら・・です。
右にいる老子は「努力しちゃあ、いかん」と言います。
左のリトンビンは、大酒のみの仙人で、おまけに寝技修行法を開発した人です。
ナンバーツウのホウソという人は、なんと、あの房中術の開発者です。
道教の中に入り、「気付き」だとか「成長」だとか言った途端に、酒を喰らい、ネエちゃんをはべらせた彼らから「修行が足りん」と言われるでしょう。
悪ガキに戻って、初めて「おぬしもなかなかやるわい」と言われるのです。
自由と行動規範書(1999/12/09)

私には次の前提があります。「人間は自由に向かっている。」
行動規範書は自由には合わないでしょう。行動規範書は、自由から逃れるためにあるのですから。
書は大きく分けると二つあります。自分以外の体験が書かれたコーナーと、自分の体験が書かれたコーナーです。
自分以外の体験が書かれたコーナーには、
・ルールを破ってはいけない
・社会には理由抜きに悪いことがありますから、それを犯してはいけない
・一つのことが出来ないのに、別のものにコロコロ手を出すな
などがあります。人や社会が教えた書です。
自分の体験が書かれたコーナーには、
・むやみに女性に手を出すな。相手は自分をなかなか好きにはならない
・頑張れば、道は開ける
などと書いてあります。
私は悟るという行為は、この書を捨てることにあるのではないかと思います。しかし悟ったと言われる人が「地球を大事にせよ」などと言うのは、どうしてでしょうか?
悟っていないからですよね。「地球を大事にせよ」というのは、書に書き込むべき項目です。悟って書は無くなっているはずなのに、おかしいですね。
そういう人はよく「地球を大事にしないと××になる」などと脅かします。悟った人は未来は無いはずなのに・・。
悟った人が問題にするのは、「今、ここ」です。今、ここにある「苦」です。
未来に目が行くと、今を規定し始めます。今を楽しむことが出来ません。
通常、人は書をもとに引き出し線を作ります。そして未来に向かって線を出します。 過去の軌跡が存在するから、まるで台風の進路予想図の様に、それはある角度を示します。例えば左右30°があなたの選択範囲です。すると残りの330°は範囲外です。
その角度は、あなたが子供の頃は、もっと広くはなかったでしょうか?
「大きくなったら何になりたい?」
この質問には、大きな可能性を持って答えていました。なれそうにないものも、対象に入っていました。しかし、今はどうでしょうか?
さて、今は・・実は、もっと広くする方法があります。
もしも書がなくなると、過去からの引き出し線が無くなります。
あるのは今というポイントだけです。点の周りには無限の線が引けます。

さて、私は書を無くさないと言いました。つまり悟ってはいません。
しかし、一つ発見したことがあるのです。それは書に反対のことを書くと、相反することは全て消えていくのです。
一人で「私は完全だ。私は私が愛しい」と言ってみて下さい。書からは不完全という項目は消えたはずです。自分自身を悔やむ気持ちは消えたはずです。
「何者にもならなくていいんだ」と言ってみて下さい。すると理想の私という項目が消えたはずです。
「成長するということは、不自由に向かうことなんだ」と言ってみて下さい。成長が消えたはずです。
自分の過去が今の性格を作っているのでしょうか?
だったら、性格を変えるのは大変です。しかし書を書き換えてしまえば・・そう、性格なんてすぐに変わります。
でも、私もりけんはこの性格が好きなので、ことさら変えようと思いません。たとえ悟ったって変えようと思いません。だって変えることに興味はありませんから・・。
私自身、今までは「感情は自分のもの」だと思ってきました。だから今の感情を表に現すことがリリースだと思ってきました。しかし怒りを表すことは、リリースでしょうか?
感情は道具です。怒りは悲しみに変化し、愛に変化しそうだと思いました。私の中の正義感が変化しそうだからです。
点と線で、一つの自由を、感情の変化でもう一つの自由を手にすることが出来ると思います。
せっかく作ってきた書ですから、それを消す作業も楽しいかも知れません。消すという気付きを楽しむことが出来そうです。
エナジー修練(1999/12/09)



相変わらずのエナジーアップ修練が続いています。こういうことに興味のある方には楽しいと思いますが、私にはイマイチでした。しかし、一つのことに気づきました。
道教では宇宙の根本を「一気」と呼んでいます。つまり人格的な神ではなく、エナジーそのものなのです。
ですから、エナジーのアップなくしては天人合一は出来ないらしいのです。
今晩からは、もっとエナジーに基点を置いた修行に切り替わると言われました。何が起こるのでしょうか??

天人合一は虚無の世界との合一だと、導師は漢字で書きました。その時、規範書は無いはずです。
さてその時、利己的な遺伝子はどうなるのでしょうか?つまり遺伝子そのものも、一つの規範を持っているはずですから・・
とは言え、例えば自殺のような行為は、DNAの「生存せよ」に反しているのか、いないのか・・。
天人合一はDNAに反するのか、反しないのか・・・。
無の世界(1999/12/10)

とても大げさな表題ですが・・初めて体験しました。手放すことの素晴らしさ・・
何故、怖かったのだろう・・。何故、嫌だったのだろう・・。
事の始まりは、ベランダでした。ベランダで他愛もない話をして、簡単なエネルギー修行をして、前触れもなく瞑想に入りました。
導師とは背中合わせになって瞑想をしますが、今回からは両手を握り合っての瞑想です。エネルギーの流れが来るのがわかります。そして無い世界に入ってしまいました。
説明するのは、非常に難しいです。無いものは無いとしか言いようがありません。
上から光りが降りて、私はそれに吸い上げられたのです。そして無い世界に・・。
左脳を働かせて、分析し、言葉にしようとしました。でも、それは出来ません。
私が感じたことは、「これでいい」ただ、これだけでした。これでいい・・無いがままでいい・・。
無いという世界を、ずっと怖がっていました。動物に戻るのは嫌でした。でも、それは動物の世界ではありませんでした。
エデンに戻ったのでしょうか?いえ、エデンとは違います。
私はしっかりとした感覚を保持しています。しっかりどころか、こんなに研ぎ澄まされた、澄んだ感覚は初めてでした。いったいどこだったのでしょうか?

戻ってきた時、頭に浮かんだ事がありました。
自由意志という言葉があります。自由という単語と意志という単語は、正反対の単語だったのだと思いました。意志を持った途端に、自由は消え去るのです。
不自由意志・・が正確です。自由とは、有の世界にはありません。
天人合一・・それは胎児以前への退行です。そこに意志はありません。しかし自由はありました。
自分の視力が上がったのが分かります。くっきりと見えます。六次元の旅から帰った以後もそうでした。私の視力は上がりました。それがまた上がりました。
そう、私は中学まで2.0だったのが、最近は0.5にまで落ちていたのです。
導師は少しだけ用事で外出です。もっと書きたいけれど、読み返しをしないで、ここで送信します。
瞑想中に「私は誰でもない」「私には何も無い」と思うだけで、無への入り口に行けるみたいです。
「私には何もない」から目覚めた時、全てのものが新鮮ではないですか?
「なる」「ある」は存在していることが前提です。すると劣等感を取り去るのは、結構大変です。しかし、「無い」から始まれば・・。
いろいろ(1999/12/11)

まず、視力の件です。六次元の時のことをある人に言いましたら、「人間はちょっとの間でも、完全にリラックスすると視力が上がってしまうそうだよ。たぶん、森田さんはほんの数分かも知れないけれど、完全にリラックスしたんだ」と言われました。
そうそう、一日三回の瞑想を導師と背向かいで行っていますが、奇妙な事も起こります。
一つは、私の前にあった冷蔵庫の中の缶ビールが一つ、吹き飛んでしまいました。
二つ目は、隣の部屋のベッドルームにあるテレビが自動的に点きました。いずれも瞑想を始めて10分ほどした時です。
最初の頃は暖房が入っていました。そのうち冷房に切り替わり、昨夜は冷房を最大にしても、体が真っ赤になります。
この瞑想を一ヶ月続けると、離れた所に置いたコップの水を、お湯に出来るそうです。
エナジー修行は、個人技から導師とペアの形に変わりました。一見、必殺技のショーのように見えるかも知れません。
でも、とにかく導師はカッコイイのです。私はへっぴり腰で・・・。
ところで「仙人秘法」とかいうマニュアルまであるのですよ。ちゃんと印刷物になっています。ちょっとしか見せてくれないですが、エネルギーの循環図などが書いてあります。
こんなマニュアルを読むと、それがまた規範書を増やすのでしょうか・・だから凡人にはあまり見せてくれないのでしょうか??
天人合一達成パーティー(1999/12/12)





上は、天人合一を祝ってパーティーが開かれたところ、下はパーティーの後、夜景で有名なビクトリアピークに行ったところです。
天人合一など、ろくに達成したわけではないのに、パーティーを開いてしまうところが道教のスゴいところでしょうか・・。何だか、本当にバッチリと達成した気になります。
左にいるちょっと太った人がマイケル君です。瞑想が15分しか出来ず、六次元の旅の時はグーグー寝ていて、それでも108日の修行をして煩悩を取った(冗談です、道教には煩悩の考えは無い)人です。
正面にいる人は導師の旦那さんです。京本正樹に似ているのですが、みなさんはどう思いますか?
このパーティーの後、ビクトリアピークに行ったのですが、隣のでテレビドラマの撮影をやっていました。キスシーンの撮影でした。
その後ホテルに戻り、0時から1:30まで修行、さらになんと、4:30〜6:10まで修行でした。
おいおい、天人合一パーティーは、単に騒ぎたかっただけなのか・・。
私のプログラムはまだまだ続くのでした・・。

(天人合一の修行を途中で放棄して北京に来たのではないかというメールを頂いたりしましたが、私は香港での修行は全て完了しています。手書きの修了証書までもらいました。もともと13日ということで、導師は全てのプログラムが作ってあったのです)。
××について(副題:無について)(1999/12/13)

今、北京に向かう機内です。無について書こうと思います。
不思議研究所を始めて6年ほど経つでしょうか・・。私は次々に不思議な現象に遭遇してきました。とてもラッキーだったと思います。
フィリピンでは体内から何かを「出す」のではなく、何かを「入れる」ことによって解明に一歩近付きました。
次はモンロー研に行き、やっと体外離脱を体験しました。そして中国に行き、テレポーテーションと蘇生に遭遇しました。
ここに至るまで、私はどちらかと言えば、次から次へとトピックを追ってきました。
今は道教の修行です。
導師という人は、本当に自分勝手です。教えたくない人には絶対に教えないし、教える人には、徹底的に教えます。
しかし「森田さんが本に書く場合、私のことは書かないで下さい。道教の体験ならOKです」と言っていますので、どうも彼女には有名になりたいという欲求はほとんど無い様子です。
シンセン市の宗教委員長に任命されても、「会議になんか出るのは、まっぴらだわ」と言って断っています。
目の見えない子供達がいる施設に行った時のこと、彼女はたまたま親しくなった一人の子供にヒーリングをして、目が見えるようにしてしまいました。
それを知った学長が生徒を集め並ばせると「私は皆の治療など、やる気はないです。さっきの子には、たまたま自分の力を試してみたくなっただけです」と言い、殺到する子供達を尻目に、自分は窓から逃亡しました。
これは自分さえ良ければいいという、エゴイズムでしょうか?
私にこれほど関わってくれるのも、彼女の興味でしかありません。なぜなら、一時間以上瞑想できる弟子が誰もいなかったからです。
彼女は瞑想を使って教えるという効果を見てみたいのです。
香港人や中国人は畳の習慣がなかったがために、あぐらがかけず、15分以上の瞑想が出来なかったのです。笑ってしまいます、道教の弟子が瞑想できないなんて・・。
さて、その彼女が私に天人合一などという大それたことを伝授しようとしました。
出来たのでしょうか、出来ないのでしょうか。私には全く分かりません。だってこれが出来ればOKだという指標が無いのですから・・。
とは言え、私はほんの少しだけれど、無の世界を体験したような気がします。しかし、あくまで「気がする」だけです。
そしてその無の世界とやらから帰った時、まず不思議研究をやめている自分がいました。
フィリピン調査から中国調査にいたる軌跡は、本当にドラマックだったと思います。その後の私の調査に期待を寄せる人も多いかも知れません。
しかし、これでお終いです。不思議探検の旅は・・・。
その真の理由を書くことは出来ないのかも知れませんが、機内では時間があるので挑戦してみます。しかしあくまで左脳の通訳です。少しは違っているかも知れません。

いつでもやめられること・・こう自分で書いておきながら、やめていない自分がいました。
360°の可能性・・自分で書いておきながら、可能性を狭めている自分がいました。
不思議研究をする自分・・これはなんと、狭いのでしょうか。
目標や目的を持つべきではないと言っておきながら・・この有り様ですから。
人は生きるために食べるのでしょうか?食べるために生きるのでしょうか?
そして私は不思議研究をやるために生きているのでしょうか?
ある行為というものが、他の目的であるはずは・・ありませんでした。
私達は、生きるために生きるのです。食べるために食べるのです。
この瞬間は、他の時間のためにあるのではありませんでした。
人生は楽しむためにあるのでしょうか?
もしも楽しんでいなければ、その人は人生を楽しんでいないのでしょうか?悲しい時には人生を楽しんでいないのでしょうか?
人生は前世のカルマを克服するためにあるのでしょうか?
生まれる時に、何かしらのビジョンを持っていたのでしょうか?
これらの問いはすべて、人生は何かのための手段なのかという問いでもあります。
とは言え、流れはあると思います。自由に向かっているという流れです。
川の水は海に向かって流れているのではありません。「海へ」という目的はありません。
流れるという行為は、海に向かうという手段ではありません。しかし流れは・・あります。ただ、下に向かうという行為として・・。
それが人間の場合、自由ではないかと思うのです。
とは言え、××のために・・という目的を持ってしまうと、もう自由から離れてしまいそうです。だって手放すことしか、自由になれないのでしょうから・・
手綱を持っている限り、自由にはなれそうにありません。自由意志・・それは自由の逆の言葉でした。

私がこの瞑想(無の瞑想)から醒めた時、導師は言いました。「シンデンシェンの顔が子供になっている」と。
私達は三次元の生活で、自由を手に入れることは出来るでしょうか?
実は私も自由ではありませんでした。不思議を研究しようという意志を持っていたからです。自由意志と言われるものを使って、そのように「決めて」いたからです。
職業選択で得られる自由など、ほんの些細なものでしょう。
不思議なことを研究していると言うと、人は私のことを自由だと言います。
しかし、食べて寝て、ウンチをして、コーヒーを飲んで、・・これらの行為は、私がサラリーマンをしていた時と、ほとんど変わりません。
おまけに私には目標&目的がありました。不思議を研究するという・・。
コーヒーを飲みながら、したたかにもその計画にふけっていました。私は外から見た、「一見自由に見える生活」に酔っていたのです。自由だという錯覚に陥っていただけなのです。
もちろん、まだまだ抜け切れてはいません。
コーヒータイムは手段ではありませんでした。一瞬でも良いですから、コーヒーを飲むために生きている・・そんな瞬間が味わえたら、素晴らしいと思います。
無を表現するのは大変です。こう書きながらも、「べきである」ような感じになってしまいます。××の瞬間は素晴らしいなどと書いてしまうからです。

感情も思考も道具だと書きました。やはり自分のものと言うモノを持ってしまうと、自由の状態にはなれないと思います。
人生は喜びのためにあるという表現は、道具のために人生はあると言っているようなものです。だからフォーカスの高い世界では感情は薄いのかも知れません。
とは言え、私も「だから三次元では感情は大切だ」などと言ってきました。
でも、どっぷりと感情に浸りながらコーヒーを飲んだら、コーヒーを飲むための人生になるのでしょうか?
劣等感について書いたことがありました。
もしもコーヒーを飲む瞬間がコーヒーのための人生になった時、そこには劣等感はあるのでしょうか?無いですよね。未来に対する目標が無いのですから・・。
私達はこういう時間をできるだけ増やしていった方がいい、そう思います。
道教の大ボス、老子が言った言葉・・為さずして為す。これは未来に対する目標を持つな・・という意味でもあります。理想の自分を持つなという意味でもあります。
「私は誰でもない」、「私には何もない」・・こう思うことは、手放すことだと思うのです。
コーヒーを飲むための人生に行動規範書は必要でしょうか?それを紐解くと、「時間を有効に使え」などと出てきそうです。
規範書も捨てるわけにはいかないと思いますので、「ただ、飲め」そう書き直したいものです。

よく、好きなことをした方が良いとも言われます。私もそう言ってきました。
ところで、誰かが「好きなことをしなさい」と言われたとします。
その人は「うーーん」と考え込みます。好きなことなど、「ハイこれです」といった風に見つかるものではないから考えます。そこで、とりあえずその人はコーヒーを飲みます。
コーヒーを飲む時コーヒーを飲むために生きていれば、その人は、好きなことの真っ直中にいるのですが・・その人には気付きません。
なぜなら、コーヒーを飲む時間を、好きなことを考え出すために費やしているからです。
ひょっとするとこれは、大変な転換かも知れません。
なぜならコーヒーブレイクは、仕事の効率を上げるだめにあるのではなく、仕事がコーヒーブレイクのためにあるのかも知れないのですから・・。
私は不思議研究をやめます。さて、コーヒーブレイクとしましょう。
ポジティブとネガティブ(1999/12/14)

「××について(副題:無について)」という題名の書き込みは、私にとって、最近稀な気付きです。何度か自分自身でも読み返してみましたが、かなり正確に表現されています。
「ある」から「ない」へ・・・。これを表現した文章です。
あるがまでは、あるがままにはなれません。ないがままで、初めてあるがままになれそうです。
私はこれでやっと、自分の道を歩けそうです。私から何かを期待していたみなさん、もう、期待外れしか期待できないかも知れません。
 まず誤解を避けるために言っておきたいのですが、私の不思議研究は、このまま続けます。そのスタンスが少し、派手でなくなると思うのです。
 私はやりたいようにしか、やっていかないと思います。そういう意味では、みなさんも、みなさんが関わり合いたいように、ここに関われば良いと思うのです。
 おそらくそれは、今までと少しも変わらないと思います(笑)。
 ただ、無という視点が加わるというだけのこと(結構これが大きかったりもして・・)です。
 ところで、世間一般はポジティブを良しとしてきました。私はそれに反抗し、ネガティブだって良いんだと反論してきました。
私のどす黒魂も、導師からもらった黒いローブも、それを言うための材料としてはピッタリでした(もちろんこれからも言いますが・・)。
 世間では、善も悪もないという人がいます。ところがよく聞いていると、愛だけは善だったりします。
 私の「無」の体験の中には、本当に善悪がありませんでした。つまりポジティブとネガティブもないのです。
 善悪やポジティブ・ネガティブは、未来を考える中で生まれるものだと思うからです。
 無と空の状態の違いを説明するとき、空はプラスとマイナスが両方存在していて、バランスがとれた状態だと言う人もいます。
ゼロ地場は全くのゼロではなく、NとSの両方がバランスして存在することだと引き合いに出したりもします。しかしこれも違うと思うのです。

 佐佐木康二さんが面白い計算をしています。
 三次元では、最高のスピードは光速であり、それに近づけるためには無限大のエネルギーが必要です。私達は高次元でも同じではないかと思っています。
ところが佐佐木さんの計算によると、三次元以上では、最低スピードが光速で、最高スピードが無限です。
そして無限のスピードを得るためには、エネルギーをゼロにしないといけないそうなのです。高次元では、エネルギーを加えれば加えるほど、スピードは落ちると言うのです。
 ポジティブという考え方は、どうも、エネルギーをどんどん加えている状態のような気がします。
エネルギーのない気付き(1999/12/14)

ある時、自己変革セミナーに出ました。
その中では、人生に関わるようなゲームが行われていました。選択の実習もありました。
それに関して、色々な人が色々な体験発表をしていました。涙を流しながら「私の人生は間違っていた」と言う人も多かったです。
そういう人は、みんなの賛同を得られて、拍手の中で着席しました。
その中に、こんな発表をした人がいました。
「昨日セミナーが終わってからの帰り道、地下鉄の壁に落書きがあるのを発見したんです。ずっと同じ駅を利用していながら、私は気付きませんでした。でも昨日は、ああ、こんな所に落書きがあったんだ・・と気付きました。」
その人の後には、また涙涙の発表があり、その人のことはみんなすぐに忘れてしまいました。
私が今回ちょっとした無の体験をした夜、あの発表をした人のことが思い出されました。
ひょっとするとあの人は、同じ様な体験をしたのかも知れないと・・。
涙の体験を発表する人は、どっぶりと自分に浸っていますが、それはセミナーが終わってからも持続するものでしょうか・・。
きっとまた別の感情の支配下にあるような気がするのです。
大袈裟な気付きをしながらも、何も変わりはしないかも知れません。
しかし落書きを発見した彼は、その時リリースをしたような・・。
エネルギーのリリース(1999/12/14)

今回の導師の瞑想法は、少し違っていました。
最初は同じです。それは道教の基本瞑想で、エネルギーを体内に入れるのが目的です。
しかし、天人合一の瞑想の最後は違いました。親指と中指を付けて、リリースのポーズに入るのです。それまで溜めたエネルギーを静かに放射するのです。
今回、導師からヒーリングを受けましたが、やはり、私からエネルギーを出すことが多いのです。そう言えば、孫さんも、相手からエネルギーを出す動作を必ず入れてますよね。
もしもあなたがヒーラーなら、相手のエネルギーを出してあげるということをすると良いかもしれません。
出すという行為の中で、私は時空と繋がったような気がするのです。その時初めて頭がカラッポになり、無というものを体験できたような・・・。
これはエネルギーのリリースかも知れません。
無の体験(1999/12/14)

無の体験などというと、普通はドロドロとした世界を想像します。食を断ち、俗世間から離れ、瞑想を続け、煩悩を無くすことによってのみ、得られるものだと思いがちです。
しかし今回の道教での体験は、やはり常識に反するものでした。
大都会の真ん中で行われたのです。導師は終了後、すぐにシンセンに帰りました。でも何故、わざわざ香港にいる時を指定したのでしょうか?
「それ」はどこにでもあるもの・・と言いたかったのかも知れません。
ある意味では、仏教は道教の競争相手です。導師は時々、道教と仏教の違いを語る時があります。その最大の差は、無の体験にあったのかも知れません。
自分の魂の内部に入り、欲望を見つめ、それを客観視することによって無は体験できる・・そんな先入観に対し、コーヒー一杯の中に・・・地下鉄の落書きの中に・・・無という気付きは潜んでいました。
だから、そこに難しい話しなど、必要なかったのです。「えっ、一体どこに無が?」
でも私達の周りには、常に「それ」はあるのです。
人によっては、仏陀などの覚者を引き合いに出すでしょう。本で読んだ無の世界は、そんなものではないと・・。
しかし、一般の人間が触れることの出来ない無など、どこに価値がありましょうか?神様は、そんな特別な人にだけ用意したのでしょうか?
誰もヒーローのいない道教だからこそ・・・神を置かない道教だからこそ・・房中術を開発したのがナンバーツーの仙人であるところの道教だからこそ・・説得力を持つのかも知れません。
無の体験など、すぐ出来ます。だって、美味しくコーヒーを飲めばいいのです。
孫さん登場(1999/12/14)

孫さんに、みなさんから依頼のあった風水を見てもらいました。
孫さんは本当にすごいです。彼女は嘘を言いません。しかし、その人の未来まで、ちゃんと見ています。その人のために、ちゃんとしたコメントをします。ゴマすりは一切ありません。
ところで今回、一つ話題に上ったことがありました。「どうして日本人はこんなに神棚を祭ったり、仏壇を作ったりするのですか?」と質問してきたのです。
私は「日本人は一つの宗教を持ちません。だから逆に色々な宗教がOKなのです」と答えました。
すると「森田さんがどう思っても、私の天目はNOと言っています。つまり一家に複数の高次元の存在を祀るものではありません。」
私は恐る恐る「あの、私の自宅には仏様も神棚も何も無いのですが・・もちろん、会社にも・・。」
孫さんは言いました。「ない方がマシです。むしろ、ない人の方を神様は守ります。そういうものです。先日も、あるヒーラーの所に依頼されて行ってきました。その治療院にお客の入りが少なくなったと言うのです。私が見るとすぐに分かりました。観音様を祀ったのです。ヒーラー関係の場所にはこういうのが多いですよね。しかし効果は逆の場合が多いのです。神様を祀ることによって、その人は大切なものを失いました。そして安易なものを手に入れました。神様は偶像や象徴を飾ることによって得られるものではありません。どこにでもいるのに、なぜ祀らなくてはいけないのでしょうか?その観音様は値段が高かったのですが、撤去させました。するとお客さんが増えました。」
もしも神棚を作ったら、毎日メンテナンスをしないとダメだそうです。しないと逆の効果の方が大きいそうです。私のように外をウロチョロする人は、絶対に神棚を作ってはいけないと言われました。
神棚について(1999/12/14)

神棚のある人へのアドバイスです。御札(おふだ)でも、神棚と同じです。
まず、他の高次元の存在を祀っていなければOKです。事務所に神棚だけなら問題はありません。
お願い事は出来るだけ減らし、メンテナンス(お茶をあげたり、掃除したり)をちゃんとやることです。特に金銭関係のお願いはやめた方が良いと強調していました。
「自分の想いが実現しますように・・」が良いとのことです。
自宅で仏壇と神棚の両方がある人は出来るだけ両者を離し、神棚に関しては奥まった所に位置をずらした方が良いそうです。
ところで孫さんが今回念写したものの中に、サイババがいます。サイババですら、孫さんにとっては、ただのお友達です。孫さんは神にお祈りするということはありません。
天人合一することはあっても、天の下に人が来ることはないのです。神棚に対する彼女の意見も、そこら辺から来ているのかも知れません。
感謝する心(1999/12/15)

感謝の心を持って生きなさい。精神世界の人は、このフレーズをよく言います。しかし、これで良いのでしょうか?
孫さんが瞑想法を教えている時、私も真似をしていました。そして最後に合掌ポーズでおじぎをしました。その時、孫さんは言いました。
「森田さん、おじぎをしてはいけません。私達は宇宙と対等です。」
孫さんと京都、奈良を回っている時、色々な寺を訪問しました。そこには仏像や観音様がたくさんありました。しかし孫さんは、一度として両手を合わせて拝んだことはありません。
千手観音の前で両手を合わせたのは、手の間に木の実を入れて蘇生の実験をしたからです。決して拝んではいません。孫さんは仏像を、まるで観音様のような顔をしながら、見つめるだけです。願い事をしない参拝というのは、実に気持ちが良いものです。
導師と道教の寺周りをしている時、導師もやはり願い事をしてはいけないと言いました。願い事やお祈りは、「未来」だからです。
そして、感謝もしてはいけないと言われました。時空に対する感謝は、自分の行動の価値をずっと下げると言うのです。
あなたに良い事があったのは、あなたが引き起こした結果でもあり、相手が引き起こした結果でもあります。
もしもそこに時空が関係してくれば、私達は時空の「手段」になるのです。全てが目的として完結するためには、時空に対する感謝があってはならないのです。
私達は、生きるために生きているのです。生かされているのではありません。
生かされているという言葉も、精神世界では良く言われます。
しかし導師は感謝をしない人でしょうか?
導師は、大勢と一緒にお昼をおごられた時、中国人の中でたった一人「シェーシェー」と言った人なのです。この人ほど、人に感謝をする人も珍しいです。
「時空にお礼を言うなんて、本人にとても失礼です。」これが彼女のスタンスです。

あなたが今生きているのも、時空のお陰ではありません。主人公はあなたなのてす。
お店にお客さんがたくさん来てくれるのは、時空のお陰ではありません。お客さんが原因であり、あなたが原因です。
神棚に向かってお礼を言うのは、お客さんにとても失礼です。
無だの天人合一だのに感心していながら神棚に手を合わせるのは、道教に失礼ではありませんか?(すみません、過激になってきて・・)。
無の書き込みをした後、孤独感の話が出ました。その通り、道教はとても孤独だと思います。窮地に立たされても、神頼みは出来ないからです。コントンに何を頼むと言うのでしょうか?
なのに私達はどこかで神頼みをします。孫さんは観音様を祀った人に言いました。
「あなたは大切なものを失い、安易なものを手に入れました」と。
私達は新興宗教の批判をします。しかし、本当に彼らを批判できる立場にいるのでしょうか?
誰でも自由は怖いものです。だから依存したくなります。失った大切なものとは、自由のことです。手に入れた安易なものとは、依存心のことです。
本当に私達がアセンションしたいなら、依存心を自由な心に切り替えるのが先決です。
なのに一般的精神世界では、感謝するという心を大切にせよと言います。
感謝は、その人の前で、しっかりと表現すれば良いのです。そこに時空もくっつけたければ、「お陰様で・・」と言えば良いのです。
相手のいないところで高次元の存在に感謝するのは、もう既に自由の大半を手放しています。
神棚などない方が良いという孫さんの助言は、実は物理的な風水の問題ではないのです。日本人の依存心へのメッセージなのです。
私達は時空の下にいるのではないのです。時空そのものの中にいるのです。そして自由に向かっているのだと思うのです。
私の愛おしい私、私の愛おしい世界(時空)(1999/12/16)

今回の中国旅行も、今日が最後です。私の気付き(笑)の書き込みも、これが最後です。
その締めくくりは、表題に書いたことです。
人は自分を好きにならないといけません。だから、理想の自分などからバイバイした方がいいのです。理想の自分や他の人との比較から生じる劣等感は、ない方がいいのです。
自分を好きになる、あるいは自分を愛する時には、現状の全ての自分を認めないといけません。
そして私の愛おしい世界にするためには、世界に対して依存の気持ちを持たない方が良いのです。
依存関係には愛は少ないのです。お互いに平等の関係に入って、初めて愛の関係に入れます。
私の愛おしい私、私の愛おしい世界・・この表現は、自由ということを言っている別の表現です。
もしも時空がとても大きな力を持っていて、我々はそれにひれ伏して依存するだけだと、私の愛おしい世界という表現にはならないでしょう。
しかし、今までの精神世界はまるで逆でした。親が子供を見るような姿勢でした。
子は出来るだけ良い子になって、時空から気に入られようとしました。それを成長という言葉で呼びました。

そうではないよと教えてくれたのは、導師の天人合一でした。
大人になろうなろうとするこは、依存関係を増やすことでした。綺麗事を言い、正義感を丸出しにして、愛だの成長だと言ってきました。
しかし本当に天と合一するには、子供にバックする必要があったのです。
理性を放棄せよ、思考を放棄せよ、これではまるで子供です。しかし、それが瞬間を生きることに繋がるのです。
でも、子供は天人合一の世界にいるのでしょうか?いません。戻って来ないといけないのです。一度出て行き、再度戻らないといけないのです。
もしも子供でOKなら、導師は子供を集めて、成長しないような仙人塾でも作るのでしょう。しかし、それではダメなのです。何故でしょうか?
子供は、自然から抜け出していないからです。エデンの中にいるからです。
一度出た人間が、孤独感を抱えたまま戻らないといけないのです。
ですので、一般的な精神世界を通過することは必要だと思うのです。
ブッダが悟りを求めて何年も彷徨ったように、我々も、ある過程が必要だと思うのです。
ひょっとすると道教は、これからやっと芽を出す哲学かも知れません。
私が道教を宗教だと思えないのは、崇拝すべきヒーローがいないからです。コントンを拝んでも始まりません。そのヒーローがいないという点が、普及できない理由なのかも知れません。
あと、マニュアルがないのです。教典がない宗教だから困ったものです。「俺は道教に入ったぞ」と威張ってみても、かなり迫力に欠けそうです。
だって誓いを立てるべき神的存在もいないのですから・・。おまけに15分以上瞑想ができなくてもOKなのですから・・・。

さて、その道教では天人合一ということを目指します。天は上にあるのではなく、自分と合一のものだと思うことです。それには子供に帰るというバックする行為が必要でした。
そして最後には、天に対する感謝の心まで否定されました。
例えば30世紀に人間が本当に自由になっているとすれば、神社仏閣は無くなっているのでしょうか。そして同時に不老不死の世の中になり、お寺も無くなっているのでしょうか。
依存する心を持ったまま精神世界で成長し続けても、依存の鎧を厚くするだけのような気がするのです。
とは言え、現在、真に自由な人は誰もいないでしょう・・。
今回孫さんは、導師に少しばかりの嫉妬心を出したのです。私の前で美しいレインボーブリッジの念写をした時、「ほーら、私の方が本物でしょ、森田さんがハマっているシンセンの人より・・」こう言ったのです。
私はこの瞬間、ホッとしました。逆に孫さんに愛を感じたほどです。
人類全体は自由に向かっていると思います。それは孫さんとて同じなのです。
手放したくても手放せない・・我々はそういうジレンマの中で生きています。
中国人は中国人で、手放せない何かがあるはずです。私達が神棚を手放せないように・・。 でも、手に入れることを目標とするのではなく、手放すことが一歩近付くことだという情報は、とても大きいと思います。
孫さんが嫉妬しても(笑)、私にとっては道教の体験は、大変に素晴らしいものでした。
風水逸話(1999/12/16)

今回、孫さんには風水をやってもらいました。
孫さんが他の風水師と違うのは、直接にエネルギーの流れが見える点です。だから入り口に水槽を置けなどとは言いません。
まず、邪気を防ぐ方法の一番の決め手は、部屋の入り口を入った向かいに鏡を置くことです。
その家の住人が疲れ果てて、邪気を沢山背負って帰ったとします。しかし、邪気の粗い周波数は部屋に入った途端、鏡に反射して外に出るのだそうです。
鏡は大きいものの必要はありません。私の家は風水的には完璧でしたが、たまたま偶然に、全ての部屋の入り口を入ったところに鏡があったのです。
次は、仏壇と神棚です。
仏壇と神棚が同じ部屋の場合は、出来れば離した方がベターだそうです。
神棚はなくても良いそうです(ない方が良いとさえ言います)。昨日、撤去の仕方を聞きました。するとしばらく目を瞑り、「火で燃やす方法があるでしょう」と言いました。
私はトンカチで壊せばいいと言ったのですが、やはり孫さんはお見通しでした。ちなみに私はトンカチで壊しています。
なおかつ神社に行けば「オマエの好きなようにはさせないぞ」と呟き、可愛くない参拝者になっています。
私の場合、例の7億円事件で、家はブルドーザーで壊されました。その時、神棚だけ生き残っていたのです。壊す側も、神棚を壊しにくかったのでしょう。
他の物はすべて壊されたのに、なぜオマエだけが生き残っているのか、オマエが先に壊されるべきだったと呟きながら、私はトンカチで、神棚を粉々に叩き割りました。
それから半年後です。心の声が聞こえ、一秒で会社を辞めたのは・・。

私は孫さんの後ろから、彼女と同じ写真を見ながら、私もエネルギーを見るようにしています。
「あっ、この置物はやばいな」と思い、孫さんも「これの位置を変えるとお金が入るようになります」とか回答すると、私も嬉しくなります。
ところが孫さんのことですから、とんでもないものが見える時があります。
家の下に断層があり、そこからマイナスエネルギーが入ってきているというケースもあるのです。これの対処法が凄いのです。
孫さんがパワーを入れた隕石を埋めると良いのだそうです。隕石はどんな物でも、とても波動が高いのだそうです。
『天空の城ラピュタ』というアニメがありましたが、あそこで飛行石というのが出てきたと思います。女の子が崖から落ちた時、身につけていた飛行石が浮上して身を守ってくれました。
あの時、凄いオーラが出ていたと思います。そのくらいのオーラが出るのだそうです。
出口王仁三郎が隕石を手に入れた時、「これでどんな病気も治せるようになる」と言ったそうですが、そういうパワーもあるそうです。
実は私も孫さんから隕石を貰っています。「私が森田さんのためにパワーを入れました。これは森田さんを守ります」と。でも私のことだから、もちろん身に付けてなどいません。
とは言え、家の断層から出る邪気を防ぐ隕石などを孫さんから頂いたら、いいですね。新興宗教なら、100万円はするでしょう・・ね。
宗教と科学(1999/12/16)

「このHPは宗教関係ですか?」という質問がメールで来ます。最近特に道教関係が多いからでしょう。そんな質問に対して、「はい、もちろん宗教です」と答えます。
それっきり、その人からの返事はありません。きっとHPを去ったのです。
宗教ではまずいのでしょうか?
感謝についてという書き込みをしたとき、我々日本人はみんな依存心を持っていると言いました。新興宗教を批判できる立場にいるかと、書きました。
さて、これを読んでいるあなたは宗教からはフリーですか?
フリーだと答える人は、自分の見つめ方が足りません。「××のために」「未来のために」・・自分自身が他のものの手段になっているケースがいかに多いか、それを知ったら・・。
今この瞬間を、この瞬間のためにだけいられる人が、宗教からもフリーです。
そういう意味では、道教は矛盾する宗教なのです。手放すことを教えるので、それが成熟された時には、道教という教えさえ手放しているはずだからです。
「私は宗教からフリーだ」・・こう言える人間は、きっと否宗教という鎧を付けているのです。そういう意味では宗教と科学の境など、ありはしないのです。
「森田さんは科学的だ」・・冗談じゃあないです。科学的か宗教的かの境はないのですから・・。
よく、精神世界のパンフやHPの端っこに「ここは宗教とは関係ありません」などと書いてあるところがありますが、宗教と関係ない事柄などが、この世界に存在するのでしょうか?同じように科学と関係ない事項なども、存在しないでしょう。
コーヒーを飲む瞬間をコーヒーのためだけに使ったら、そこには宗教も科学も存在し、さらに、宗教も科学も存在しないのですから・・。
得たものと失ったもの(1999/12/17)

今回の旅行で得たものは何だったのでしょうか?失ったものは、何だったのでしょうか。
人は得ることをプラスと考え、失うことをマイナスと考えます。そして差し引きがマイナスだと損をしたと考えます。
精神世界でも同じです。「あの経験は得るところが多かった」などと言います。
通常、私達は得るために生きています。心の損益計算書はプラスでないといけません。
しかし、今回の旅行を通じて得たものは、失うことの意味でした。つまり、失うことを知るために行ってきたような気がします。
道教の修行中、「無」すなわち、全てを失った状態を垣間見ました。あるがままから、ないがままへ・・・
私達は常に「真っ直中」に生きています。朝起きてウンチをする時も、朝食を摂る時も、電車を待っている間も・・常に真っ直中にいます。
ただ、私達には未来のことが心配でなりません。「あの問題をどうするか・・、早く電車が来ないか・・今日あの人に会ったら何と言おうか・・」
思考が私達の頭を支配します。そしてマイナスに落ち込むという感情に支配されて、なかなか抜け出せなくなります。
私はあるがままに生きなさいと、『不思議の科学2』では言ってきました。しかし、それだけでは良くないのではないかというのが、今回の旅の気付きです。
あるがままから、ないがままへ・・
ないがままという状態になると、「真っ直中」だったことに気付きます。いえ、気付きそうです。私だって、いつも真っ直中ではないからです。どうして真っ直中でないかと言えば、依存しているからです。
電車が遅れることが分かり、イライラし始めます。もうそこで依存が始まります。自分が遅刻するのは、外部のせいだと・・。
極論を言えば、計画を持たなければ遅刻はないのです(とは言え、計画を持たないなどということはあり得ません。対処方法は、すぐに計画変更することと、諦めることでしょう)。

さて、あらかじめ「決めた」何かがあるから、人はイライラします。生まれる前に人生を「決めてきた」という人もいます。おまけに援助する人、される人まで決めてきたと言う人までいます。
人の人生は手段ではありません。同じように、電車による通勤は、手段ではないのです。目的地に向かうための手段ではないのです。
今、この瞬間を100%生きるということは、通勤時間ですら目的です。
経験をするために生まれてきたという人もいます。果たしてそうなのでしょうか?もしそうなら、人生は経験というための手段です。
昔、積分というのを習ったと思います。積分とは、面積を出すことです。経験を蓄積するとは、面積を溜めていく行為のように思えます。
微分も習ったと思います。微分は、傾きを出すことでした。方向性でした。真っ直中にいる人生とは、微分のような気がするのです。
時間が過去から未来に流れているという感覚は、積分を思い出させます。過去は大事な過去として存在するからです。経験が大事だという考えも、過去から未来に流れている風です。
逆に、時間は未来から過去に流れているという概念は、真っ直中を意味します。時間は単に自分を通り過ぎていくものだからです。

さて、得るものと失うものというテーマに帰れば、得るものいうのは蓄積を意味します。失うものは、リリースを意味します。
私達は得るために生きているのでしょうか?それとも失うために生きているのでしょうか?
たぶん、どちらでもなのでしょう。生きるためにしか、生きていないのですから・・・。しかし表現としては、失うためという方がピンときます。全てを失った時点で自由になるのですから。
ところで、神棚は失えませんか?神に対する感謝の気持ちは、失えませんか?
経験は、失えませんか?行動規範書は失えませんか?
全ての失う旅、そんなのがあったら素敵です。不思議研究所が主催しましょうか?もちろん財産一切のお布施をしてもらって(冗談)。
しかし、人生そのものを「失う旅」に出来たら、もっと良いかも知れません。
これが、旅の中での最後の書き込みになります。成田エキスプレスの中で送信します。
みなさんの書き込みや応援には、とても勇気づけられました。ありがとう。
女性(1999/12/18)

道教は、発足当時から女性が導師になれる、唯一の宗教だったようです。
老子の「水のように生きなさい」という表現も実に女性的です。企てを持たず、ただひたすら、下に向かって流れ、しかも器によって自分の形を変える。
しかし、本質の水であることは変わらない。
受け身的な生き方が最も良いという道教。しかし何故か、そこには神がいません。自分が主人公でいながら、受け身的に生きるのです。
導師が使っているのは、ルナカレンダー。これって、とても女性的なカレンダーのような気がします。
変わったかも・・・(1999/12/19)

今回は、少し変わったかも知れません。
今までは色々なことに気付きながらも、変わらない自分がいました。気付きがあっても、気付きだけで完結してしまっていました。
それは日本に帰ってから、分かりました。日常に戻り、やはり変わらない自分がいたのです。
瞬間を生きるという言葉は、今まで何度も使っていました。しかし、自分自身の根の部分にまでは届いていなかったように思えます。でも、今回はちょっと違うように感じます。
焦りや焦燥・・そう言ったものから、かなり解放されています。無は、かなり自分の中に落ちたと思います。ないがままでいいと思います。
『不思議の科学2』では三次元の努力は必要だと書きましたが、やはり、努力は少ない方が良いと思います。
牛の手綱を引っ張っても、たかが知れているでしょう。手放して、のらりくらりと・・。

牛の手綱を放して、のらりくらりという表現を使いましたが・・努力は少ないほうが良いという表現をしましたが・・自分の潜在能力は、かえって増えたように感じています。
何故かというと、感覚が感覚的になってきた(笑)のです。本来の人間の底力は、手放してこそ出るような気もします。
明日から私も日本での会社生活が始まりますが、ちょっと楽しみでもあります。これからどういう風になっていくのか・・。
エネルギーの重要性(1999/12/20)

私には、エネルギーのことはよく分かりません。念力計でエネルギーを計るくらいしか方法はありません。
孫さんは、エネルギーの操作方法を知っているのです。神棚に頼っていたりすると、高次元のエネルギーの操作は出来ないと言います。ですので、できるだけ自由になることが条件だと言います。
でも、孫さんにその方法を教えたのは、高次元のに存在達でした。マスターと呼んでいます。孫さんにとって、彼らは友達です。
孫さんはマスターにお願いなどしません。相互コミュニケーションを取るだけです。
孫さんがやっている瞑想法は、エネルギーの瞑想です。
今回、導師の修行もエネルギー関係でした。ほとんどそれに明け暮れていました。
孫さんは今度、私に対して伝搬実験をやりたいと言っています。
私がポラロイドカメラを天目に当て、孫さんが私のゲートを開くという指示をするのです。するとおそらく、念写は可能だと言います。蘇生も同じだと言います。
孫さんの第二のマスター(宇宙人)は、伝搬に対してOKを出しています。
しかし私の場合、当面、孫さんがいないと念写は出来ないだろうと言いました。
私のレベルでは、単独では無理だろうと言いました。修行が足らないのです。(とは言え、私にはやる気がないのですが・・)
神棚を捨て、先入観が少なくなると、高次元の存在が助けに来ると言います。
その助けるという意味は、高次元の存在が直接に私達の運命を好転させるという意味ではないのです。
私達自身が自分の運命を好転させる能力を身に付けるということを意味します。
孫さんカードやCDは、単なる補助用品なのです。
もしも孫さんのゲート開きの指示で私の思い通りの念写が出来れば、まさに能力は伝搬をするということでしょう。カードやCDは、ゲート開きの指示に相当するわけです。
もしも蘇生がエネルギーの操作で出来るなら、神の技術を我々が利用するという意味かも知れません。
神頼みをするのではなく、あなた自身が神にチャレンジしなさい・・孫さんはこう言っているような気がします。

道教では、一気から二気(陰陽)が生まれ、二気から万物が生まれたとされています。
一気のことをコントンといいます。つまり、エネルギーを神と称しているわけです。
そして、神をコントンとする以上は、意識として認めてはいません。
道教が多くの方法でエネルギーにこだわるのは、神との一致を目指しているからかも知れません。
念写のエネルギー(1999/12/20)

念写をする時、孫さんはカメラを額に当てます。フィルムは10枚入りです。孫さんは、例えば三枚目のフィルムに念写するという意識を持てば、三枚目のみ念写します。
つまり、額そのものからエネルギーが出ているわけではありません。光に似たエネルギーが出ていれば、三枚目のみというのは出来ないでしょう。
しかし孫さんの念写は、エネルギーが無ければ不可能でしょう。フィルムには、エネルギーが当たって感光するのですから・・。
では、どこから来るのでしょうか?何か良い調査方法は、あるでしょうか?
孫さんが念写した瞬間、天目が真っ白になるそうです。それで孫さんは、フィルムに念写できたと思うそうです。これって、孫さんの単なるイメージなのでしょうか・・。
実験に意義があれば、彼女はかなりのことに挑戦してくれます。孫さん自身も分からないのです。いったい、そのエネルギーがどこから来るのか・・。
孫さんの情報は、多くの視点から公開されてきました。
一歩一歩、彼女の内面が出てきます。さらに、能力の数々も出てきます。
蘇生が地球に花を開くのは、良いことか、悪いことか、・・実は、よく分かりません。ただ、好奇心の向くままにやっています。
広がらないのは、単に、技術の問題なのか?それとも精神世界の問題なのか両方なのか・・。
私は両方だと思ってやっています。

レインボーブリッジの念写写真

(左側の黒い部分は、スキャナーが原因です。)

私は、橋の詳細が出ていることが、とてもショックというか素晴らしいと思ったのです。
知ること(1999/12/21)

今回の神棚は、特にマイナスの反響が多かったです。
まず、神棚に関する一連の書き込みをしても、孫さんに対して、ありがとうのリアクションは、ほとんど無かったと思います。
「神棚には感謝するな、その分、三次元の人間に感謝しろ。」
こう書いても同じでした。いえ、同じどころか、私のところには非難のメールが沢山きました。
森田さんは、プライバシーを侵害している・・・孫さんは日本をバカにしている・・・あなたと孫さんにはいずれ天誅が来る・・・。
でも孫さんは、中国人のヒーラーの件も話しています。治療院から観音様を取り去りなさいと・・。
中国は仏教大国です。孫さんは、決して日本をバカにしたわけではありません。
私の一連の書き込みで、みなさん、内に向かったようです。自分は、どうなんだろう・・・と。逆リリースしたようです。
孫さんという人は、ほとんど常識には縛られていない人だと思います、今回は、彼女の非常識と我々の常識がぶつかりました。
私は、プライバシーを侵害しているのでしょうか?
今回の依頼者は、この、神棚がクローズアップされたケースがほとんどでした。ほとんどと言っていいくらい多かったのです。
まだ解答書は送り返していませんが、そこには孫さん言った、たった一言「神棚を移動するか、無くしなさい」と書いてあるだけです。
風水依頼者の大半は、ここを見ていると思います。だから孫さんの回答は、物理的問題ではないことは分かると思います。
だから、依頼者以外でここを見て何かに気付いた人は、三万円を払った依頼者に感謝する必要があるかも知れません。
とは言え、書き込みをしている人は、それだけで感謝を返していると思いますが・・。
依頼者も、とても大きな問題を世の中に提起したということで、とても「与えている」と思います。
さて、神棚の問題は依存だと書きました。
壊さなかった人も、依存していなければいいんだと思うかも知れませんが、私は心底そういう風に思えないと思います。
逆に壊した人は、それで100%の自由を得たわけではないと思います。
人間が自由から逃避したいという欲求は、とても根強いと思うのです。
ですから生活は、そのままで良いと思います。形は後から付いてくるものだと思うからです。
自由から逃避し他の高次元に依存するのは良くないという、孫さんの考え方を知っただけでも大きいことだと思います。
書き込み期間:1999/11/30〜1999/12/21