もりけん語録
テーマ:「逃避と成長」
書き込み期間:2000/11/07〜2000/12/10
要旨:
成長とは何でしょうか。例えば、原始人と比べて私達現代人が精神的に成長したものを何か持っているのでしょうか。
場が変わっただけだとすれば、人間的には何も成長していないことになります。
中国紀行で訪れた生まれ変わりの村の人は前世の記憶を持っていましたが、普通の人は前世を忘れて生まれてきます。
生まれ変わるときにリセットクリアーをするのは、記憶というよりも価値観を消すことが目的ではないかと考えました。
そこで、リセットクリアーの瞬間こそが、成長の最大の瞬間ではないかというインスピレーションが湧いたのです。
これの意味するところは、ゼロが最大でそれ以外は全てマイナスだということです。
プラスの価値を持つものが何かあるでしょうか。愛や創造がそれでしょうか。
しかし何をしたとしても、ある価値観が付着するという意味では、マイナスにしかならないのです。
それでも私達がエデンを出て行くために、このマイナスが必要なのです。私達は逃避することなしにエデンを出続けることは出来ないのです。
ですから逃避は神が作ったとも言えます。逃避もマイナスも、何も悪いことではありません。大事なのは、それを逃避あるいはマイナスだと認識することだと思います。
それは成長などないという認識をすることです。胎児が最良の状態だと認識することです。
私達はどこから来てどこに向かっているのか・・一言で言えば、無から空に向かっているのです。
無が宇宙の始まりの状態だとすれば、空とは、全ての経験と価値観が中和されてゼロになった状態です。
ですので、一方の価値観に偏ってはならないのです。これが神にとっての成長だとすれば、私達が目指している成長は、その逆をやっていることになるのです。
つまり宇宙はゼロからゼロへの移行を行っているのです。それはパーフェクトからパーフェクトへの移行とも言えるかも知れません。

私は、神=私という仮説を持っています。すなわち、神が私達人間を作ったのだとしたら、それは我々自身が我々自身を作ったということです。
私の人生を振り返ってみると、ずっと決まったレールの上を通ってきました。そこから逃れられたことはないのです。
そして私が狭いルートしか通っていないのと同様に、神もまた狭いルートしか通っていないのです。
私も他の全ての人達も、そして神も、道を外れることが出来ないのです。それ以上の生き方が出来ない状態なのです。だから、いつも限界を生きているということです。
これは言い換えれば、逃避の限界の位置とも言えます。常にこれ以上逃避するわけにはいかないギリギリの状態に私達はいるのです。
逃避を逃避と認めていればまだ良いです。それを成長という意識で覆い隠さない方が良いと思うのです。
では、限界を突破する方法はあるのでしょうか。それはエゴに徹する瞬間を維持することだと思います。
普段の我々は社会のルールから外れないようにエゴを抑えて生きています。それでも、社会のルールが消えて自分のエゴが顔を出す瞬間というのがあります。
その瞬間を捉えて否定しないことです。この瞬間こそが成長と呼べるものではないでしょうか。
限界突破が起こるのは、どんな価値観にも縛られず、感情のおもむくままに行動できた時ではないかと思います。
エゴは否定されるべきものとして見られますが、エゴを信頼できてこそ、自分も人も神も信じられるのではないでしょうか。
世間一般ではエゴをなくすことを成長と呼んでいますが、実は逆なのです。
人々が成長を目指さなくなると、世界は悪い方向に向かうでしょうか。私は逆だと思います。
自分や世界を変えようとすることこそが、争いを引き起こしているのだと思います。変えたいという欲求の裏には、それを否定している部分があるからです。
価値観を飛び越えたところに、肯定があるのだと思います。世間の価値判断で感情を抑えることなく「私はこう思う」と言えることが、自分も世界も肯定することに繋がります。

歴史の中で、神(時空)は進歩しているのでしょうか。
私達の人間性、愛と憎しみ、善と悪、成長と逃避などの要素は、昔も今も何も変わってはいないでしょう。
それでも、中心からの距離は増えているのです。それに伴ってバランスを取るのが難しくなってきます。その結果、より動的になっていきます。
これは、善も悪もより拡大し、人間社会がリスクの大きい方に進化していることを意味します。離婚や不倫や凶悪犯罪が増加の傾向にあるのも、生命の進化にとっては必然なのです。
そうして神が欲しているのは何かといえば、エネルギーの循環なのです。より大きな回転を生み出し多くのエネルギーを循環させるために、中心からの距離を遠ざけているのです。
そうすることによって、生命エネルギーが生み出されます。生命とは、自ら変化を生み出せるもののことです。
中心(自然)から離れれば離れるほど、魂の自由度は広がっていきます。自然が自分から離れても、自分の中に自然を感じられるようになります。
私達がエデンを出続けているのは、エデンを対極のものとして知り、それを内在化させるためではないかと思います。
同じく道教の還童功は、大人になった人が対極の子供を内在化させることであると考えられます。
男と女、善と悪・・全ての価値を対極として自分に内在すると知った時、外界のものは全て対等になるのです。
成長を内在化させるためには逃避が必要なのです。その究極の目的は神を内在化させるため、すなわち我々自身が神になるためではないか・・。
私はこう思いました。
目次
○ 逃避の現象(嘘の思考、あるいは言い訳)
○ 勝ち続けるということ
○ 本当のプライドと嘘のプライド
○ 成長とは何か
○ パーフェクト
○ リセット・クリアー
○ 逃避と成長の狭間
○ 下條さんの実験
○ 原始時代と現代
○ この世に「成長」はあるのでしょうか?
○ この世に成長はない
○ 成長という要素があるのではないかという幻想のもと、歴史はマイナスに振れている
○ 空間系と時間系
○ 仏陀の場合
○ 無から空へ
○ 神と近くなる
○ 空
○ 神の視点と人生相談
○ 神も限界を生きている
○ 三次元の肉体は不自由か?
○ 限界突破
○ そっち系
○ ハマる
○ 一瞬ですべて無くなる
○ あるがままで完全
○ 反転
○ 次なる考察
○ 私の成長
○ 悪は悪か?
○ 天地宮さんとの会話から
○ したい事の善悪
○ 重力
○ ルーシュ(非論理書き込み)
○ 生命と愛
○ 生きること
○ プリズムの光
○ ボーダレス
○ 不老不死
逃避の現象(嘘の思考、あるいは言い訳)

愛を説く人がよく言います。「これはあなたのために言っているのですよ」
でも、これは本当でしょうか・・。
子供に「学校に毎日行きたいですか?」と訊けば「行きたいです」と答えるでしょう。
これは本当でしょうか・・・。
彼は行くように期待されていることを知っています。だから行きたくないという気持ちを抑圧しているのではないでしょうか・・・。
「あなたはやりたい事をやっていますか?」と訊かれた時、「はい、やっています」と答えられますか?
「三次元ではやらなければならないことが沢山ある。やりたい事ばかりやっては生きていけない」と言い訳をしていませんか?
これらは皆、逃避ではないでしょうか?

質問です。逃避しても、あるがままで良いのですか?逃避しても、神と一体ですか?
私は、成長は悪魔が作り、逃避は神が作ったのではないかと思います。
だから、逃避を持ってして、神を引きずり出したいのです。
逃避の構造は神の構造かも知れないので、しっかりと見つめてみたいと思うのです。
肌色部屋に「現代の若者はなぜ殺人をしなくなったか?」という記事をアップしました。統計的に見て、若者の殺人数は激減していたのです。
でも私は、何の疑いも無しにマスコミを信じてしまい、若者の殺人数が激増しているとばかり思っていました。自分の本にそんなことを書かなくて良かったと思います。
世論に流されてしまう私、これも逃避です。大概の価値観は、外から作られたものだと思うのです。

逃避ということを意識できればまだ良い状態だと思うのです。普通は意識下に追いやられます。それだけでなく、合理化されます。「期待に応えて学校に行くのは良い事だ」と。
大人になっても同じです。波風を立てないようにすることは、大人のやること。大きな器になれば、許容範囲も大きくなる。
自分と違う意見に反論をしない(出来ない)。嫌なヤツの前で席を立てない。
これは何のためにやるのでしょうか?孤立しないためだというのが私の意見です。
自信がないからではなく、孤立したくないからだと・・・
そしてこれらの処理は自動的に行われると思うのです。
勝ち続けるということ

この話題は、今回の中国でしました。夜の二時頃、酒がたっぷりと入っている時でした。
私は導師に言われたことがありました。「森田さんがそんなに敵を作るのなら、もう勝ち続けるしかありません。」
これは、導師の弟子を通じて知り合った日本人(私より10歳も上)と会った時、彼との意見の相違が起こり、私は一歩も引かず、激論になってしまいました。
彼は「なる」の世界を教えようとする組織のリーダーでした。
私はさらに翌日、自分の意見を彼にファックスしました。それをしなければ良かったのです。でも私は引くことが嫌だったのです。
飲んだ相手から翌日、反論のファックスが来るなんて、滅多にあるものではないと思います。しかし私は、あれは酒の席の出来事だと済ませることをしたくなかったのです。
その事が導師に伝わり、上の言葉が出たのです。
自分の意見を主張していくと、こういうことが起こるのはあると思います。
しかし自分を偽って、次回、握手を交わすよりもずっと良いと思うのです。
導師の言った「勝ち続ける」とは「引けない」という意味なのです。
「なる」の世界のリーダーは、私に弁解(反論?)のファックスを返してきました。
でも、それを英訳して導師にも送りました。それでもって、その酒の席の出来事は、国際問題化したのです(笑)。
導師来日の時、会おうとする彼に、私は実力行使で阻止です(笑)。
だって我々は来日費用を全て負担し、それは結局伝授会の費用でまかなっているからです。
人間関係で丸く収めようとする人が、真実の追究を出来るものでしょうか?
丸く収めようとすることは、私にとっては逃避としか思えないのです。
みなさん、いかがですか?
本当のプライドと嘘のプライド

私が議論する時には、腹が煮え立つという感じなのではなく、言いたいことをパッパッと放り出していくような感じなのです。
放り出さないといられないのです。結構正直に出します。
出さないとダメなのです。ですから、止めようがなくて、コントロールも不可能です。
でも気が付くと、目の前には激怒した相手がいます(笑)。
頭から湯気を出し、「こんな失礼なヤツはいない。出て行け」と言われます(笑)。
私は相手がそんなに怒ることなど、全く計算に入れていません。
私の場合、理屈は全く考えていない状態で言ってしまいます。「そういうのは、嫌いだ」という感じです。
「何故?」と訊かれても、即座には返答に困ります。でも、なぜか即座に理由を訊かれることがありません(笑)。
私は何か事を起こす時も同じです。何故かと考えるのは「私は何のために生きているのか?」という問いを考える時だけです。
ですので、HPに書き込みする時しか、考えていません。だって三次元の生活は、脊髄の反射神経だけで生きていますから(笑)。

でも怒る人と怒らない人がいます。このHPでも出ていく人と、出ていかない人がいます。
怒らない人、あるいは出ていかない人は、本当のプライドがあるのではないかと思います。その瞬間に、尊敬してしまいます。
怒る人、あるいは出ていく人は、嘘のプライドがあるのではないかと思います。その差は何でしょうか?
私が嘘のプライドを持っていると、結構大変です。能力を持っている人には「あなたは私のグルです」と言ってひれ伏し、能力が無い人に対してはバカにするでしょう。
その区分けをやるのが不思議研究の仕事になってしまいます。
嘘のプライドを持っている人は、たぶん劣等感の裏返しなのではないでしょうか・・。
城の中が貧弱なので、城壁をがっちり作るようなものだと思います。
本当のプライドがある人は、城壁は要らないのかも知れません。
ですから、プライドには逃避もあれば成長もあると思うのです。
本当のプライドとは、弱さをそのまま出せる人かも知れません。
成長とは何か

さて、問題です。 私達が何も持たずに原始時代にタイムスリップしたとしましょう。そこにはマンモスと戦っている原始人がいます。
いえいえ、闘争好きなクロマニヨン(西洋人の原型)ではなく、穏便なネアンデルタール(東洋人の原型)だとしましょう。彼らは農耕をしています。
私達は、精神的な意味で彼らよりも成長したと言えるものを持っているでしょうか?
マンモスとの戦いでも結構です。農耕でも結構です。もちろん原始時代を知らないので、推測です。
この議論は「場と人間」の続きでもあります。場が変わると、アメリカ人は列ぶのをやめました。
原始時代と現代は、場が変わっただけではないでしょうか?だとすると、何も成長してはいない・・。
人間が360度の可能性を持つのなら、それを成長と言うのなら、一般的な意味での成長・・すなわち、短所を減らし長所を伸ばすというのは、成長の逆ではないでしょうか?
さて、成長とはいったい何でしょう?あなたは成長したいですか?それは何故ですか?そしてどこに向かいたいのですか?
パーフェクト

私のような気付きに出会った人はいるのでしょうか?
価値観に差はないという気付き・・殺人と愛は同じだという気付き・・それでも生きる意味はあるという気付き・・
もしもいれば、その人の本を読んでみたいのです・
全ての価値観は同等だと思った瞬間、「宇宙はなんて深淵なんだろう。私が今まで知っていたのは、ほんの少しだったのかも知れない」と思いました。
深淵の彼方には、暗い闇と明るい光の両方が存在していたのです。
しかし、それを言葉に言い表すことが出来ません。ですのでこのコーナーになったのです。しかし元々このコーナーは計画されていました。
私は「逃避」を肯定したかったのです。しかし、今はその向こう側が知りたいです。
「成長」とは、我々が常識的に考えていた事ではなく、全く新しいファクターのような気がするのです。
私達は神だと思います。神はパーフェクトだと思います。では、原始時代もパーフェクトであったはずです。
パーフェクトからパーフェクトに向かう必要は、あるのでしょうか?
神は完全だという考え方があります。我々は神であることを忘れているので、不完全だと言われます。
不完全な我々が神であることを思い出し、完全に向かうのが人生であり、歴史であるとする考え方があります。それはそれで完結しています。
しかし元々、我々が何をしようともパーフェクトなら・・つまり「あるがまま」で良いのなら、神の意図は何でしょうか?
リセット・クリアー

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
私達には、色々なサインが訪れます。
こうしないほうがいい・・
ああしないほうがいい・・
そうすべきだ・・・・・・
このサインのエネルギーが大きかったとき、私はあまり信用しないことにしています。
まえがきで述べたとおり、エネルギーが大きいということは過去に関係しているからです。
私たちは過去の情報に基づいて行動するときが多いです。そうすれば安心だからでしょう。
違う方向に行こうとしたとき、過去からのサインが出ます。
「このあいだそれをやって失敗したじゃないか。学んで成長したいんなら、それをしてはダメだよ」
こうやって人は成長します。
こうやって成功の確率を上げます。
そして・・人は可能性を狭めます。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
これは『「不思議の友」4』に書いたあとがきの一部です。この考え方でいくと、成長は成長でないような気がします。

中国紀行で、「生まれ変わりの村」の取材がありました。
新しく生まれ変わろうとして、オンドルの所に潜んでいた魂・・それから後は何もかも忘れて生まれ変わる・・。
ひょっとすると、このリセットクリアーの瞬間が、成長の最大の瞬間のような気がしました。
過去世で出来ないことをするという考え方がありますが、現世でも「出来ないこと」はたくさんあると思います。
それをやるのと、過去世の宿題をやるのと、どちらを優先するのでしょうか?
生まれ変わる瞬間のリセットクリアーの目的は、「記憶を消すこと」ではなく「価値観を消すこと」ではないかというインスピレーションが湧きました。
強い価値観を持てば持つほど、生存の確率を減らすのではないでしょうか?だからコルベ神父は死んでしまった・・・
要は、「神にとっての成長とは何か?」です。
リセットクリアーが成長そのものだというのは、非常に微弱な信号です。だから、今のところ理由がありません。
神の最大の行事・・それはリセットクリアー・・しかしそれは私達自身がやっている可能性が多いかも・・・
原始時代から今まで、精神的な成長がないとすれば、何のための歴史でしょうか?
パーフェクトからパーフェクト・・意味無いジャンと思うのですが、でも、その裏には大変な意味が隠れているような気がするのです。

「私は誰か?」「私はどこから来て、どこに向かっているか?」
この問いは、神そのものを問うているような気がします。
ですので今回の問いは、その第一段というわけです。答は出ないかも知れません。
でも、私はやってみたくてしようがなかったのです。
何かがパーフェクトになるとそれ以降変化が起こらないというのは、誤解なのではないでしょうか?
実は、「場と人間」を書き始めたとき、「エデンから出ていくのが人間の成長」だという仮説が崩壊したのです。
私達はどの時代に生まれても、全く同じなのではないかと思い始めたのです。
だとすると、時間系の成長論は意味がないことになってしまう・・
だから「これから21世紀になり、素晴らしい世の中が来る」と言ったころで、「意味ないじゃん」なのです。原始時代と同じなんじゃあ・・
逃避と成長の狭間

神の意図は、身の回りにヒントだらけだと思うのです。
特殊な状況でしか巡り会えない神なら、それはきっと神じゃない・・。
だって、誰でもが経験するような空港での出来事が、私をこの話題に引きずり込んだのです。
このコーナーに書き込むということそのものが、逃避と成長の狭間に生きることではないでしょうか?私ですらそうですから、みなさんはもっとでしょう。
見ているだけの人、書き込んだけど色々言われて見るだけになった人、それでも書き込み続ける人・・あなたは、いったいどちらですか?
捨てることが怖いのですか?得ることが怖いのですか?何もないことが怖いのですか?それとも書いた後の結果が怖いのですか?

11月11日のオフ会で私は、
●成長などということが一つでもあったら、教えて欲しい。
●成長などというものは、一つも無いのではないか・・
●従って人間がやること、すべてが逃避だ
●良くてゼロ
●成長という要素があるのではないかという幻想のもと、歴史はマイナスに振れている。
●しかし逃避は神が作ったもの。
ということを述べました。
神の視点に立ったと推定して・・あるいは人類の視点に立って・・「これが成長だ」と思えることが一つでもあれば、挙げて下さい。
なぜかと言うと、人類がその方向に行けば、間違いなく成長していけると思うからです。
下條さんの実験

私の家内がある心理学者の講演会に行きました。その心理学者は家内の高校の同級生でした。家内は彼のことを下條君と呼んでいます。
さて下條さんの書いた本に、とても面白い実験のことが書いてありました。
幼稚園児を三つのグループに分けます。そしてお絵かきをさせます。
Aというグループは管理者が何もしません。
Bというグループはうまく絵を書けた人を、管理者が誉めます。
Cというグループはうまく絵を書けた人に飴をあたえます。
最も出来の良かったのは、Aでした。BとCは良くなかったのです。
BとCは園児が管理者の目を気にしていました。誰かが誉められるとその絵を真似するようになりました。BとCには外部から価値観が持ち込まれたのです。
この実験は、「誉めるという行為は、被験者の自由度を狭くする」と言っているようです。
さらに、社会の価値観は、我々の自由度を減らしていると言えそうです。
現在我々の社会は、与える愛や芸術を高く評価する傾向にあります。思ったことをくじけずに実現することを良しとする傾向にあります。
だから、「君は毎日学校に行きたいですか?」と訊かれると、遊びたいという欲求を封じ込め抑圧し「はい、行きたいです」と答えるようになります。
上手に抑圧できない子供が登校拒否となり、社会からはみ出します。
原始時代と現代

縄文式の時代はとても人間性が豊かだったと言われています。争い事も少なかったと言われています。
では、私たちは原始時代から今までにかけて、精神的に成長したのでしょうか?
源氏物語は、現代とほぼ変わらない恋愛観があったことを知らせてくれます。原始時代の壁画には生命を感じさせてくれるものがあります。俳句にしても、浮世絵にしてもしかりです。
5000年前には、愛という言葉はありませんでした。縦穴住居に住む人達は、愛そのものの中で生きていた可能性があります。愛という言葉は、それが無くなってきたから出てきたのかも知れません。
5000年前に道教は誕生しました。だから道教には愛という単語がありません。
さて、原始時代から現代にかけて、我々は精神的に成長したと言えるでしょうか?
もしも「昔の方が良かった」あるいは「精神的には同じだ」と言う人にとっては、今あるあなたの「成長」って、何なのですか?
5000年かかって成し得なかった「成長」を、あなたの一生で成し遂げるとでも言うのですか?
個人は勝手です。しかし他の人に向かって言えるでしょうか?「社会はこうあるべきだ」・・・と。
この世に「成長」はあるのでしょうか?

もしも「これが成長だ」というものがあったとしましょう。だとすれば、その方向に向かっていけば良いはずです。
少しでもプラスの方向に浮き出るものがあれば、教えて下さい。
愛ですか?創造ですか?芸術ですか?
その方向に向かって行こうとしたとき、下條さんの実験の場は、社会そのものになると思うのです。まさにそれが今いる私たちの社会だと思いませんか?
私は「愛」が「殺人」を作り出しているとも言えると思うのです。なぜなら、目標が作られたとたん、それはエゴになるからです。
折しも、昨年の11月11日には「明け方の気づき」という題名でここに書き込んでいます。何度か書き込みましたが、再度入れます。
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<明け方の気付き>
今日の明け方、色々な考えが展開されました。かいつまんで書きます
●エゴとは何でしょうか
エゴは目標です。目標がある限り、それはエゴなのです。愛の世界を実現しようとかいう目標もエゴなのです。これは金儲けをしようというのと、まったく同じです。同じだということを認識する必要があります。どちらも、あなたの世界を実現しようとしているだけだからです。客観的価値など、存在しません。あなたを離れたとたん、それは平等な価値観になるはずだからです。愛の世界の実現、地球環境を良くしようという組織を作ったとたん、それはとてつもないエゴの集団になります。このことに自覚があれば偽善者ではありません。しかしそれによってエゴがなくなるという集団は、エゴイストであるだけでなく、偽善者でもあります。
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さあ、この世に成長はあるのでしょうか?
この世に成長はない

私はこの気付きに出会ったとき、かなり呆然としました。この世に成長がないとすれば、逃避しかないのです。
私達は何をしても、逃避(これからはマイナスという表現を使いますが、一般的なマイナスとはちょっと違いますので注意して下さい)なのです。
つまり何をしても「マイナス」なのです。
何故かと言うと、何をしてもその結果としてそこに「価値観」というタマネギの皮を付与するだけだからです。「愛は価値がある」という価値観も、タマネギの皮です。
ではタマネギの皮は、いつ取れるのでしょうか?
道教には還童功というのがありますが、それはちゃんとやれば正解だと思います。しかし、何もしていない我々が、口先で言ってもしようがないのです。道教には道教なりのエネルギー修練があるのです。
何にもしていない我々がタマネギの皮を取る行為は、生まれ変わる時の「過去世リセットクリアー」しかないのです。
リセットクリアーは、記憶を取るのが目的ではないのでしょう。人が一生かかって付けてしまった価値観というタマネギの皮を取るのです。
人の一生は、タマネギの皮を付けるだけだと言いました。だとすると、どこに「プラス」があるのですか?何をしたってそれはくっつくのです。
夫婦になって配偶者だけを愛しても、タマネギの皮は付くのです。不倫をしても付くのです。私はそこに、優劣など存在しないと思います。
ですので不倫をしようがしまいが、同等にマイナスなのです。
くどいようですが、一般的な意味でのマイナスではありません。マイナスを「良くないこと」だと捉えるのは、それもタマネギです。

「リセットクリアーが最大の成長だ」と書いたのは、これが理由です。
私達は一生かかってマイナスになり(さらにくどいですが普通のマイナスではありません)、リセットクリアーでゼロになるのです。
では趣味で生きるのはどうでしょうか?趣味には価値観の入り込む余地が、比較的少ないです。それでもプラスにはなりません。限りなくゼロに近いマイナスなのです。
逆にあなたが成長しようとすればするほど、そこにはタマネギの皮が付着します。そう思っただけで付着します。なぜなら、そこには目標が発生するからです。
でも、何をしてもマイナスだと思った時、なんか楽になりませんか?私は楽になりました。
何故か言うと、私はずっとプラスのものを求め、追求してきたからです。最大値はプラスではなく、ゼロだったのです。
リセットクリアーがかかった瞬間はゼロです。その時が一生の中でもっとも「成長した瞬間」だったのです。
文導師が導いてくれた天人合一の世界は、胎児の世界でした。その意味がやっと分かりかけてきました。
成長という要素があるのではないかという幻想のもと、歴史はマイナスに振れている

私は社会を論じるのが好きではありません。社会を論じると、すぐに正義が芽を吹くからです。でも、ちょっとだけ書きましょう。
またまたくどいですが、マイナスは一般的なマイナスではないですからね・・。でも今回、その意味を書きたいと思います。
私達は時折ビジョンというものを要求されます。住み良い社会・・誰でもが幸福になれる社会・・こういうビジョンに向かって、我々は社会を成長させようとします。
社会が良くなれば幸せになると思っています。そしてルールをたくさん作ります。
××するのは良くない・・○○するのも良くない・・極めつけは、殺人は良くない・・
簡単なところでは、人に迷惑をかけるのはよくないというルール(法律ではない)があります。
おぎゃあと生まれ、せっかく最良の状態にいるのに、外からの価値観が植え付けられます。そのとたん、人はどんどんマイナス状態になります。
ゼロからマイナスへ(くどいですが・・マイナスは・・)
しかし私達にはマイナスが必要なのです。何故でしょうか?
それは我々が、エデンを出つつあるからです。
エデンからの距離は、おそらく原始時代よりも大きいでしょう。
私達はマイナスという保険がないと、生きていけなくなっているのです。
エデンからこんなに出たからには、逃避をしないとやっていけないのです。
ですから逃避は神が作ったとさえ、言えます。
神が「こっちにおいで」と言っているのです。ですから逃避には、何も悪いことはありません。
したがってマイナスにも、何も悪いことはないのです。
我々がした方が良いのは、それをマイナスだと認識することだと思います。成長などないということを認識することです。胎児が最良の状態だったことを認識することです。
ですので、神と共にマイナスはあるのです。それはまさにお陰様の神様なのです。
(文章を読めば分かりますが、私は殺人を肯定しているわけではありません。)
空間系と時間系

道教はタオのやり方で、そのほとんどを解決することが出来るのです。
タオのやり方とは、時間系に乗ることです。瞬間を生きることです。
笑いなどはこれに当たります。美味しいコーヒーを、何もかも忘れて飲むのも、これに当たります。
このHPでは、別名「ワダチに乗って生きる」とも言います。
しかし、道教が起こったのは5000年前です。縦穴住居の時代です。
その後、おそらく前頭葉の発達から、色々な事を「思考」する必要が出たのではないでしょうか・・。
そして2000年前に仏陀やキリストが出現します。彼らはエデンを出て、左脳で苦労する我々に涅槃の世界に行くやり方を示します。
私は今回の中国で密教に触れ、その一端を知ることが出来ました。仏教が道教と違う点は、空間系を解決しようとした点にあると思います。
タオだの還童功だの天人合一で解決できない問題・・それは前頭葉が生む「苦」です。
それを私は、価値観の問題だと気付いたのです。ですのでこの気付きは仏陀やキリストとはあまり関係はありません。
関係はないのですが、どこかで関係しているはずです。だって密教に出会わなかったら気付かなかったからです。

神の視点には立てないという人もいます。全体視点には、個である我々は立てないと言われます。
しかし仏陀が悟った2000年前は、我々とあまり大差がない時代でしょう。
私は仏陀の悟りは、究極の状態(変性意識状態)にならなくても得られるのではないかとさえ思っています。
さて、マイナスがどうのこうのという問題は、空間系なのです。それは時間系では解決できなかった問題の対処法です。
なぜなら我々は、瞬間にばかり生きていられないからです。三次元で生活する限りは、多くの悩みを持ちます。
笑い終わった後、冷静になった時の状態を今回は論じています。
仏陀の場合

『さとりとは何か?』という本を読みました。その本には色々な聖者、賢者の「さとり」が書かれているのです。それによると、さとりは人によってみんな違うのです。
でも、仏陀が最初に書いてありました。仏陀は菩提樹の下で悟った後、最初に言った詩があるのです。
「この夜における、欲望の対象から得られる幸福も、天に属する幸福も、渇愛を滅ぼすことによる幸福の16分の1にも値しない」
「重い荷物をひとたび捨てたなら、人は別の重荷を再び受けるべきではない。重荷を受けることは苦であれ、重荷を捨てることが楽である」
「すべての渇愛を捨てれば、すべての束縛を滅ぼし、すべての執着を理解するので、人は再びこの世に生まれることはないであろう」
これは、私の書いたことと、それほど遠からず・・と思うのですが・・・。
「重荷」は価値観のことではないでしょうか?
渇愛とは、愛に対する熱望であり、愛の評価を高く置く状態ではないでしょうか?
とは言え、こういう文章にとらわれることも、タマネギの皮の一枚になるような気がします。
しかし16分の1という数字はどこから出てきたのでしょうか・・とてもデジタル的な感じがします(笑)。
無から空へ

私達はどこから来て、どこに向かっているのか・・この命題に対する一つの仮説が降りてきました。
それは一言で言ってしまうと、無から空に向かっているのです。
宇宙に始まりがあるとすれば、それは無なのでしょう。
エネルギーという見地に立った無ではなくて、経験がないという意味での無です。
エネルギーは最初から最後までずっと充満していると考えられるからです。
ですからエネルギーというのは経験を生むための必要条件なのです。
宇宙が誕生し生成を始めると、片寄った価値観が誕生して、それに沿った経験が積み重ねられます。
愛は良くて、殺人はいけない・・これは大変に片寄っています。
しかし、神は空に向かっているのです。
ある人生で愛に生きたとすれば、次の世は殺人を犯す可能性があります。
コルベ神父は、次の世はナチの側にとって変わる必要さえありそうです。
なぜなら、全ての経験が中和されて「空」にならないといけないからです。
場の影響をも受けないような強烈な価値観を貫いた人は、その逆を経験して中和をさせないといけないのです。
宇宙(神)は円が好きです。

さて、私が「成長は無い」という価値観を持つと、それはタマネギの皮になるでしょうか?
以前、行動規範書という単語が初めて登場したころに書いたことかありました。
「相反する要素は打ち消し合う」
プラスのタマネギの皮はマイナスのタマネギの皮でキャンセル(中和)されるのです。
宇宙は片寄った成長はしていないのです。これを成長と呼べるでしょうか?
成長とは、ある一方の価値観に向かっていくことを言っている場合が多いからです。
フォーカス35での情報によれば、私は過去500回も輪廻したらしいのです。それは中和をさせることが必要だったのではないでしょうか・・。
仏陀は渇愛を捨てなさいと言います。中庸が良いといいます。これは空の一つの表現かも知れません。
磁石に喩えれば、無とは磁石が何もない状態です。空とは、NとSが同程度あり、バランスのとれた状態です。ここで言うNとSの量が経験なのです。
NとSの量がどんなに多くても、バランスさえとれていれば空の状態なのです。
神の目指すところを涅槃としましょう。涅槃に達するためには、両方の経験をする必要があるのです。
しかし仏陀、そして密教の人達は生きながらにして涅槃に行けると言いました。
それは価値観をゼロにすることではないでしょうか?価値観をゼロにするためには、成長という概念はあってはならないのです。成長という概念には、突出するものが必要だからです。

私達は何度も輪廻します。そのたびにガチガチの価値観(例えば愛は素晴らしいだとか、殺人はいけないだとか)を持ちます。
しかしある日死んだ時、偶然にも今まで蓄積された価値観と相殺するような状態になった時、人は涅槃に行くのではないでしょうか?
もう一つの方法があります。
それは、過去世がどんなにガチガチでも、その現世の生の中で全ての価値観は同一であるという境地に至った時ではないでしょうか。
この時は過去を問わず、涅槃すると思うのです。
私はある事を理解することは、経験することと同じなのではないかと思います。
でなければ、仏陀も弟子達に同じ悟りを伝達できなかったはずです。
その一つのヒントは、キリストのそれです。
例えば殺人は悪いことですが、殺人者の身になって涙を流せるという状態は、既に殺人者の側の「極」(SとNの極)が設定されたのと同じだと思うのです。
神は我々を通じて、そういった空の状態に近付きたいのです。それが神にとっての成長なのでしょう。
しかし空とはゼロです。無もゼロです。
ゼロからゼロへの移行を行っているのが宇宙そのものなのかも知れません。
それが我々の目から見ると、パーフェクトからパーフェクトへの移行をしているように見えるのです。
神と近くなる

「場と人間」から始まった一連の書き込みは、私にとって別の視点からの見方を与えてくれました。
最大値がゼロでプラスが無いという発想も、最初は予期せぬものでした。
リセットクリアーが最大の成長だというのが、微弱な信号として出てきたからです。
道教は大変に分かり易かったです。そして『不思議の科学3』では色々な気付きを書きました。
しかしです・・それはタオという道教の世界から大きく外れることはありませんでした。
今回の視点は、ほとんど無の世界からやってきたような気がします。
頼れるのは自分のインスピレーションだけというのを経験したのは、初めてかも知れません。
そういう意味では、今回の気付きは、結果を問わず・・なのです。
山はどこから登っても上に着きます。空間系という別の登り口から登っても、やはりタオに近い位置に行くことが出来ました。
しかしタオはさすがです。分かり易いです。でもしようがありません。
私のインスピレーションは、まだ二、三日しか経っていないのですから・・。
なぜ神は空を目指すのか・・という問いに答えることは、まず無理でしょう。
私は次回、別の登り口から登ったときに攻めてみようと思います。

神を引きずり出してくるという意気込みで始めたこのコーナー・・。
私は「神とお茶したい」と書いた時点で、神を許していました。
神を許すなどというのは、おかしな表現かも知れません。しかし・・
みなさんは、経験がないでしょうか?「私だけ何故こんな目に・・」こう思う瞬間は、神を許してはいません。
神は一般的な意味で言うところの「成長」は目指していないと思った瞬間、私は神と近くなりました。
もしも成長を目指していたら、私は次の輪廻では、辞退を申し入れようと思いました。
だって、目標に向かっての成長なんて、全然ドキドキワクワクしないじゃないですか・・。
もちろん、神はいません。だって私自身ですから・・。
私は今、ビールを飲んでいます。これから神と乾杯です。


「空」などと書きましたが、私は「空」が嫌いです(笑)。
「空」に括弧をつけることもやめましょう。空などというものは、どこかのお偉いさんに任せておきましょう。
私は別の言葉を作りたいのです。だって空には躍動感がありません。
NとSのバランスのとれた状態は、ものすごくキワドイ状態なのです。
不倫がばれそうでばれない状態なのです(笑)。不正がばれそうでばれない状態なのです(笑)。私の嘘がばれそうでばれない状態なのです(笑)。
キワドイ状態・・。神は、そのキワドイ状態を、まるで綱渡りのように渡っているのが、「空」なのです。
だから、ジジイが悟った顔をして「無と空の違いじゃよ」などとぬかすべきセリフなのではないのです。
まさに、皿を一枚バリバリと平らげて「空じゃ・・」と血だらけの口で言うセリフなのです(笑)。
自転車はこいでいないと倒れます。そのバランスが、空なのです。
だから、成長もクソも無いのです。遠くを見る余裕なんて、無いのです。
神の視点と人生相談

このコーナーに何度か「ここは人生相談のコーナーではありません」と書いたことがあります。
さて、なぜ私はそんなことを書いたのか・・・。自問自答してみた結果、あることに気が付きました。
私は自分の生き方にはほとんど興味はありません。どこに興味があるかと言うと、「神の視点」なのです。
「私は誰か?」「私たちはどこから来て、どこに向かっているか?」
この設問は、自分の生き方を問うためのものではないのです。神を探し出すためのフレーズなのです。神という単語が分かりにくければ、時空でもOKです。
精神世界をやっている人・・・つまり自分を見つめて自分の生き方を上昇させようと考えている人達の総称を、ここでは精神Aとしましょう。
神に興味ある人の総称を神Bとしましょう。
精神Aは、例えば雑誌『アネモネ』なんかを読んで、「ふんふん」と考えたりするタイプです。自分のブロック外しとかに興味があります。チャネリングにも結構興味があったりもします。
神Bは、チャネリングの内容にはさほど興味はなくて、チャネリングしてくる相手に興味があったりします。しかしチャネルしてくる存在は言います。
「誰が言っているかではなく、何を言っているかが問題なのです」・・と。
サイババも同じ様なことを言っています。
神Bは、結構疑うのも好きです。チャネルしてくる存在が「指導症候群マスター領域」だったりすることを突き止めます。

このコーナーは、神Bのコーナーです。
精神Aと神Bは混ざり合うでしょうか?最初は難しいと思います。
なぜなら、精神Aは成長を目指し、神はBは目指さないからです。
しかし神Bも結果としての成長ならば、あるかも知れません。
さて、私は神Bの視点を持っているわけですが、その手法として主観的に見るということをしています。
神Bは心理学とか宇宙理論、そして宗教学になります。本来は客観的にする領域です。
でも私の職業は不思議研究所でありまして、趣味でやっているので、ほとんど制約を受けません。
何をやろうと自分の勝手です。ですので主観的に行っています。このHPも主観的に運営しています。
でも、精神Aの人達も大勢参加している様子です。それは神Bから派生してくる生き方に興味があるからでしょう。
神Bが投げかける疑問は、精神Aが真実だと信じてきたことを覆す可能性を持っているからです。
神も限界を生きている

人間とか動物とか植物とか鉱物とか、この時空に存在する全てのもの以外には何も存在しないとすれば、我々は神だということになります。
キリスト教では、我々は神に似せて作られたと書いてありますが、そうではなく、我々自身が我々自身を作ったということになります。
宇宙に存在する全ての物理方程式も、我々が作ったということになります。
この考え方は、いつか場を変えて議論したいテーマでもあります。しかし、ここでは逃避と成長に焦点を当てます。
人は全て逃避しかしないと書きました。しかしこの議論も、ここではペンディングさせても良いのです。
今は、「神も狭いルートしか通っていない」ということについて書きたいと思います。

神=私という前提ですので、「私は狭いルートしか通っていない」と書き換えることが出来ます。
狭いルート・・これは車で言えば、普通車に喩えられます。
4WDは、道なき道を走ることが出来ます。自由度は非常に大きいです。
しかし普通車は違います。あらかじめ作られた道路しか、走れません。道からはみ出すと、車はガタガタになり壊れてしまいます。
あなたは自由ですか?
私は自由です。しかし、私は普通車です。だから不自由なのと結果的には同じなのです。
私は大卒の道しか歩めませんでした。富士通に入社する道しか歩めませんでした。会社が軌道に乗るまでは、不思議研究は出来ませんでした。
私はリミットを突破できません。突破したことなど、ないのです。私は、私のレールから、逃れられないのです。私は道を外れることが出来ません。
この感覚は、みなさんにはありますか?この感覚があるから、私は次のことが言えるのです。「神は、レールから逃れられない」・・・と。
私やあなた達は、いつも限界を生きています。これ以上の生き方が出来ないのです。
だから神だって、いつも限界を生きているのです。
お互いに限界を生きているのに、何を神に期待できるでしょう・・。
三次元の肉体は不自由か?

「神は(私は)レールから逃れられない」と書きました。これについては、以外に反応が少ないですねぇ。
やはり「私たちは自由だから、そうは思わない」という人が多いのでしょう。
さて、今朝は精神の肉体と精神の話です。
人はよく言います。「この三次元の世界に生まれたのは、肉体という制約をわざわざ経験したくて来たのだ」・・と。
しかし、そういうあなたは、肉体が無くなれば自由になるのでしょうか・・。
人はレールから外れることが出来ない・・
これは何故かというと、逃避の限界という場所に生きているからです。
「ああ、これ以上逃避できない。これ以上逃避すると私はダメになってしまう・・」
人は常にこういう状態なのです。
私たちが成長と呼ぶ領域も、逃避なのです。逃避を逃避と呼べば、まだ良い方です。成長などという偽善的な言葉で隠さないからです。
「俺は、これ以上逃避できない・・」人生とはすべて「逃げ」です。

しかしです。神ですら逃げている(保険をかけている)のですから、立場は同じです。これが私達の精神の領域です。
なのに私達は「肉体が制約だ」などと、肉体を理由にします。「苦労するのは肉体を維持するためだ」などと、うそぶきます。
とんでもないです。
私達の精神の方が、よっぽど不自由なのです。言い換えれば、精神が肉体を制限しているのです。精神が変われば、肉体も変わるでしょう。
運命はあるのか・・未来は変わるのか・・占いは当たるか・・
とんでもないのです。運命があるとしても、我々が自分自身につけている制約のほうが、よっぽど大きいでしょう。
ではどうすれば良いのでしょうか?私は逃避を逃避として認識することだと思うのです。成長意識では、限界を突破できないと思うのです。
限界突破

限界を突破したくはないですか?今までのあなたから、新しいあなたに・・
以下の文章は私の主観です。もちろん今までも主観でしたが、もっと主観で書きます。
限界を突破する方法を一言で言えば、エゴに徹する瞬間をそのまま維持するのです。
私達はいつも外のルールで動いています。なぜ外のルールで動いているかと言えば、逃避したいからです。保険が欲しいからです。
外のルールで動いているとすれば、安心です。社会も認めてくれます。この保険のメカニズムは、時代と共に増えています。人を型にはめようとするのが、歴史の進歩です。
列に列びなさい・・個人的な怒りは抑えなさい・・思ったことは最後までやりなさい。約束を守りなさい。人の迷惑をかけることはやめなさい。
この世界を守るために歴史は進歩しています。社会は「本来のあなたでいい」などとは一言も言いません。なぜなら、人間はエゴのかたまりだからです。
本来の私で生きるということは、エゴ丸出しで生きることです。
人は言い訳をして生きています。「言い訳」が社会との適合です。自分が納得し、相手も納得します。

具体的な例です。みんなが集まるHPでは、多くの意見を認め、大きな器でやっていくことが良しとされます。でも、私は時々それをしません。
「そういうのが嫌いだから・・」という理由のみで、地雷を爆発させます。
隣のコーナーで怒りが話題になっています。怒って謝ったとか、怒って後悔したとかの話が出ています。
怒りがいけないというのは、社会から見た価値観ではないでしょうか?マイナスな感情は、何故いけないのでしょうか?
さて、みなさんの側から、どうして地雷は仕掛けられないのでしょうか?
私のかけた地雷に怒る人はいます。それは単なる反応でしかありません。それは限界突破をしてはいません。
相手の道理が100%通っている時、怒れるかどうかが分かれ道だと思います。
それはエゴでしかないのです。だから価値があると思います。
あるがままの自分を認めなさいと言う人でも、エゴが100%ではダメだと言う人がいます。それは矛盾です。
あるがままとは、エゴしかないという状態です。しかし、普通は抑制しているのです。

人類の歴史と共に、エゴは発展しています。
当たり前です。エデンからどんどん抜け出しているのですから・・。
だからルールは厳しくなります。だから突如として理解不可能な凶悪犯罪が出てきます。
当たり前です。それは歴史の必然なのです。
私が「神はこんなに楽しい自分を作ってくれて感謝です」と言うのは、エゴをエゴとして出す機能(笑)を、少しだけ付けてくれているからです。
神は私ですから、私が付けたのですが・・。
社会のルールが消え、自分のエゴがパックリと顔を出す瞬間があると思うのです。その瞬間を捉えることです。そしてそれを社会のルールで否定しないことです。
この瞬間を、私は成長と呼んでいます。つまり一般的な成長の概念とは反対なのです。エゴというマイナス感情を抑えることが、逆に逃避なのです。
限界突破は、全ての価値判断が去り、自分の感情のおもむくままに行動できたときにしか、起こらないと思います。
でも、言っておきたいのは、レールの上でもこれは起こるのです。
限界を突破した時、電車は新幹線に変わり、さらに飛行機に変身して飛び出すかも知れません。
限界突破は、エクスタシーです。
そっち系

正直に言いましょう。いわゆる「愛を説く人」や「自己を磨く人」に、愛を感じないときが多いのです。
講演会に呼ばれるとき、その主催者が「愛を説く側」(そっち系とします)だとします。
先方は時折勉強会などをしています。神との対話とか読んで・・・。
そういう所に限って、愛がないのです。
不思議ジャンパーなんか着ている人に指示したりしています(笑)。こちらがドキドキしてしまいます。
「彼はスタッフじゃないです」と言うと、「紛らわしいのを着ないでほしいね。あれじゃ誰だって間違えるでしょ」なんて言われたり・・。
それでも不思議ジャンパーを着た人は、楽しそうに手伝っているのですが・・・。
私は結構突っ込みを入れたりするのですが、そっち系の人はすぐに謝ってきます。
謝ってもらうために突っ込んでいるのではないのだけれど・・・。
心底、突っ込み合いをしたいだけなのです。
この相反する現象がなぜ起こるのか、ちょっと考えてみました。
それはたぶん、そっち系の「ねばならない」、「なるべきだ」では、もたないのです。
でも、そっち系の人は「なるべきだ」で、頑張ろうとします。自分が頑張れないのは、自分が悪いのだと思っています。
そんなことは無いのです。誰だって「もたない」のです。
もつためには、自分のエゴに帰った方が良いと思うのです。
聴衆を集めて「素晴らしい話を聞かせて頂きました。勉強させてもらいました。ありがとうございました」と言われるために開くのではなく、講演会ビジネスをやっているんだという本音に帰った方が良いと思うのです。
そっち系の人が主催者だと、私はこれでもか・・と下ネタで責めたくなります。
そっち系の人にとっては、これが限界突破かも知れません。

凡人を50として、そこからどれだけ離れているか(優秀か優秀でないか)を判断する基準として偏差値が使われます。
偏差値70と言えば、とても良いほうです。
私が突然偏差値を思い付いたのは、「そっち系」の人は偏差値を追っている気がしたのです。
「そっち系」という言い方がまずければ、「なること」を追求している人と言いましょう。「なること」から「あること」へというテーマは、『不思議の科学2』で書いています。
さて、人格の向上を目指したり、成長を目指したりすると、「どれだけ成長しているか」ということが気になると思います。
前世はこれくらいだったから、現世はもっと伸ばそう・・とか。
アミ本(「アミ・小さな宇宙人」徳間書店)には、成長度というものが登場して、点数が付けられます。
Aさんは500点、Bさんは700点といった具合です。お魚さんは80点くらいです。
これなどは、偏差値として表すことができます。成長度を愛の度数とも書いてありますので、愛の偏差値を作ることも出来ます。
いや、本当にアミ本は凄いことをしていると思います。これを信用している人は、まさに偏差値の世界に生きていると思います。
ハマる

妻が「ハマる」ということをテーマにした講演会を聞きに行ってきました。
講演者は心理学者です。その話を聞いたので、アップします。
マウス(コンピュータのマウスではなくてネズミ君のこと)に快楽を誘発する物質を与えるという実験です。コカイン、覚醒剤、アルコール、ニコチンをです。
その中ではコカインがダントツ一位。でも、面白いのはその後からです。
レバーを3時間もギッタンギッタンしないとコカインが落ちてこないようにします。
でも、マウス君はレバーをギッタンギッタン押し続けます。コカインが欲しいからです。
で、コカインの量を調整して、一瞬だけ快楽が走るようにします。なんと「一瞬」が短ければ短いほど、マウス君は頑張るのです。
う〜ん。快楽が長続きすると、あまり欲しくは無くなるのです。
次に、コカインを与えるのをやめます。それでも押し続けます。
心理学者はこの時「渇望」ということに気が付きました。マウス君の原動力は「渇望」だったのです。この「渇望」は、結果である「快楽」とは切り離されているのです。
一瞬ですべて無くなる

タマネギの皮というのは、一瞬で全部無くなる性質を持っていると思います。タオに生きるような時です。
エゴに生きると言うと、とても聞こえは悪いですが、自分のエゴを信頼できないで、どうして自分を、そして人を、そして神を信じられるでしょうか?
エゴを信頼した時って、タマネギは無くなるどころか、その中核をなす「自分自身」も無くなっていると思うのです。
エゴというものを私がどう定義しているかと言えば、「精神世界の目標とか目指すもの」をエゴと言っているのです。
つまり成長しようと思ったとたん、エゴになるのです。
これは世間で言うところのエゴの定義の逆ではないでしょうか?エゴを無くそうと思った瞬間に、初めてエゴが出てくるのです。
さて、昨日から書き込んでいる文章にエゴという単語が出てきていますが、これは世間一般的な意味でのエゴです。間違えないようにお願いします。
これから書き込む内容も、世間一般的な意味でのエゴです。
普通、エゴは否定されます。でも、人間に備わっているものは何であれ神からの贈り物であり、不要な物は何一つないと思いませんか?
神を信じるということは、自分自身を信じることだと思いませんか?
自分自身を信じるということは、エゴも含む、すべてを信じることだと思いませんか?
しかし人は思います。自分自身の中に否定されるものが存在すると・・。
本当は否定されるものなど、ひとかけらも無いのにです。否定し、それを消そうとすることを人生の目的とします。
なんて愚かなことでしょうか・・・。自分を否定することが自分の人生なんて・・。
エゴはいけないという人に訊きたいです。なぜエゴはいけないのですか?
あるがままで完全

ある方から次のようなメールが来ました。本人にも承諾を取りましたので、ここに紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私の弟から森田氏の本を紹介され、すぐ書店に行きました。
買うのを忘れ本屋でいっきに読んでしまいました。それくらい心を引き付けられました。
私は今、○○○という宗教団体に籍をおいています。
今まで神についてとか、自分の生まれて来た意味、約束について学んできました。ブッダの因縁果報、イエスの愛について自分なりに理解したつもりでした。
しかし、森田氏の本を読んで少し考えが変わりました。
○○○の師である×××氏が云われる事は精神と現象を融合しなければならないと。そのためには、まず私が変わり、その変わった私が世界と結び直さなければならない。
私が変わる事は、確かにまわりは変わります。しかし、森田氏が云われるようにそこにはエゴが在るように想います。確かに人は生まれたからには、魂は向上しなければならない。
悟る事とは何事にもとらわれない事、本来の自分に出会う事。大人になる為今まで得た物を全て捨てなければならない。素にならなければならない。童の様に。
森田氏が到達された様に私は私であって私でない。私は誰でもない。個人は宇宙の一部であり全体である。フォーカス70での森田氏の想い、悟り・・
私は少し解った様に想いました。天上の指導者は少し押し付けている気がします。愛についても。これからも宜しくお願いいたします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この人とは別の方ですが、最近私のところに×××氏の本を送ってくる人がいたので、何冊か読んでいました。
とても文章がうまいので、本当に感動してしまいました(それについては代筆だという意見もありましたが、ここではその議論は置いておきましょう)
×××氏は言います。「今あなたが不幸に感じているのは周囲がいけないのではなくて、あなたに原因があるのです。あなたが変われば周囲も変わります。」
そして被害者意識から脱却して、自分自身がこの宇宙の主人公であることを思い出すことですと言います。確かにこの通りだと思います。
メールを送ってきた方は××氏を「天上の指導者」だと言いますが、私の方が「天上」なのではないかと思ってしまったほどです(笑)。
だって私は、悪をも肯定したいと思っているのですから・・。

本論に入ります。
この手法で行くと、何か問題が起こったとき常に「自分に原因があるのだ」と考えてしまう点に問題があると思います。
本当のエゴは、精神的な目標が出来たときだと書きました。精神的な目標が出来た瞬間に、否定すべき自分が出てきます。「これを直さなきゃいけない」・・・と。
ここがエゴの出発点だと思います。エゴは成長しようという概念から生まれたのだと思います。
だから、私は自分の欠点など、直す気はありません。欠点を欠点とすら思いません。
私が時々「すみません」と書き込むのは、自分がすまなくて言っているセリフではありません。この場が相手に合わなくて言っているセリフなのです。
さて、そうすると成長は無くなるのでしょうか?
私も長いこと成長論派でした。意識で自分をコントロールしようとしました。
しかし、その時代には世界に飛び出すことが出来ませんでした。
フィリピンでは何度か発信器をお腹に入れてもらいましたが、あれは私から成長意識がなくなってきたから出来たのだと思っています。
成長意識というのは、どこかで恐怖心を作ります。その恐怖心がエゴを作るのです。
成長意識が少なくなり、本来の自分に帰るということは、なんて気持ちが良いことでしょうか・・。
この気持ちの良さというのは、結果的に見ればやはり成長だと思うのです。
成長をしていこうとすれば、エゴが発生し、ストレスが出ると思うのです。
(ここで言っているエゴは、一般的な定義ではなく私の定義のエゴです。つまり成長意識から出るエゴのことです)

妻が行った「ハマるということ」の講演会で、渇望という単語が出ました。
うちのフェルルの訓練士さんは昔言いました。
「犬を訓練させるとき、良くできたといってご褒美(特に食べ物)を与える方法を私はとっていません。ご褒美を与えると訓練のスピードは上がりますが、犬にとっての本来の喜びが減ってしまいます」
(でもお客さんが来たときはやってもよいのだそうです。それが日常にならなければ)
結果に喜びを見出すのが、願望実現型でしょう。犬は最後の結果を求めて、「渇望」の状態になります。過程では、いつも自分は渇いていると感じています。
コカインという快楽を経験したマウスは、それが与えられるという結果を求めて、3時間もレバーを押し続け、努力をします。
彼は幼稚園児の実験もしました。それはここにも書きました。ご褒美の無いグループが、最も良い絵を書いたのです。
ご褒美・・それは誉められることであり、賞が与えられることです。それは結果です。
結果を求める・・すなわち目標を求めると、「渇望」が生まれるのではないでしょうか?
渇望・・いつも渇いた状態・・。
先日のオフ会で仏陀の一節を読みました。
「この世における、欲望の対象から得られる幸福も、天に属する幸福も、渇愛を滅ぼすことによる幸福の16分の1にも値しない。」
精神世界の目標が出来た瞬間に、渇いた状態が生まれるのだと思います。それを滅ぼすことは天に属する幸福よりも上だと言うのです。

さて、誰もが「このままで良い」と思うと、世界は平和でなくなるのでしょうか?
私は逆だと思います。
「自分を変えたい欲求」と「世界を変えたい欲求」が争いを引き起こすのだと思います。
何故かと言うと、変えたい欲求が出た瞬間、自分を否定し、世界を否定する部分が顔を出すからです。
おまけに変えたい欲求には限度というものがありません。まさに無限の「渇」状態だと思うのです。
この逃避と成長というコーナーでは、成長(プラス)などというものは、元々無かったと言いました。すべてはマイナスだと言いました。
マイナスだと、あなたは否定しますか?プラスになろうとしますか?
自分を変えたり世界を変えたりすることの方が、自分を肯定したり世界を肯定したりするよりも、ずっと楽だと思います。
私は自分を肯定するタイプですが、それでも悩む瞬間はあります。
地雷を落とした時、「俺ってなんて心が狭いんだろう」などと思います(苦笑)。
次の瞬間に「心には狭いも広いも無いんだ。感じた瞬間を大事にしよう」と思い、納得するのです。
しかし本来自分を肯定するということは、価値観を飛び越えたことだと思います。(だから私も、いちいち理屈をこねて納得しなくても良いのですが・・・。まだ修行が足りません)。
従って自分を肯定したり世界を肯定したりすることは、相手を表面的に肯定することではないのです。
「私はこう思う」という一言が出ることが、自分を肯定し、世界を肯定することだと思うのです。
それを「広い心が良い」、「感情的になるのは悪い」、「冷静になるのが良い」という価値観を持ち込んでしまうと、本来の自分・・すなわち「感情的になった自分」を押さえてしまいます。
一般的には悪いと言われている部分も、大切な自分自身だと思うのです。
それで相手と関係が切れたって、いいじゃないですか・・。フォーカス35ではすべてが繋がっているのですから・・。人は、あるがままで完全だと思います。
そこに世間の目から見た欠点がどれほどあろうとも・・です。
もっとスケベに戻ろうじゃないですか(違うって?)もっとワルに戻ろうじゃありませんか。

この書き込みは、私の内部ではツボを突いています。
ハウツーだからランクが低いという考え方そのものに、価値観を持ち込んでいました。
渇いた状態ということも、新しい視点として加わってました。
ところで中国から帰国後、仏陀の本を何冊か読んだのですが、仏陀さえも、ほぼ100%ハウツーなのですね。
彼は根源の「理由」を考えることをパスしています。しかし仏陀とて仏陀です。
また今日から出直しをするわけですが、どうも同じ位置から出直しはしていないような気もします。
とは言え、しばらく考え中です。
反転

私の描いた「いのちの世界」によれば、上の世界には次元がありました。
信念体系領域は4次元、指導症候群は4.5次元、全体の世界が6次元といった具合にです。
私たちの実体と称するものは上の世界にあり、それが原因を作り、私たちはこの三次元の世界に結果として生まれ、経験を積み、再び実体の世界に帰る。
その経験を自らが評価して、実体のレベルを上げる。
この概念を、私は『不思議の科学』シリーズに書きました。
これでいくと、魂が評価される側は、向こうの世界です。
成長ということを考えてみれば、向こう側での次元上昇が成長ということになりそうです。
この世界はテンポラリィ(一時的な)領域です。小型のUFOに乗って、この三次元に降りてきているようなものです。
輪廻転生は、上の世界が主体で、この三次元は単に作業場(経験場)です。
さて、本当にそうでしょうか?
私はものごとの考え方をひっくり返して見るのが好きです。で、ひっくり返して見ました。これから以下は、ひっくり返した世界の説明に入ります。

孫さんのマスター(指導霊)の話は知ってますよね。彼女には五人のマスターがいます。
そのマスターはそれぞれがコミニュケーションをとれません。しかし孫さんは全員とコミニュケーションをとることが出来ます。
私がモンロー研で体外離脱をした時も、同様でした。
私は一度体脱をすると、普通に暮らすこの三次元の人間とはコミニュケーションが取れません。霊とはコミュニケーションがとれるのにです。
向こう側の世界は、同じ波動を持った人達が集まります。つまり同じ領域には、同じ波動の人達しかいません。
信念体系領域には、そういう人しかいません。フォーカス27には、信念をもった人はいません。つまり同類ばかりがウヨウヨしているのです。
これが本当の世界でしょうか?そこに何かの面白さがあるでしょうか?
そんな世界に行くために、経験を積んでいるのでしょうか?
となると、この世界を実体と考えてみてはどうでしょうか?向こう側が投影の世界なのです。
成長とは、この視点の移動にあるのではないでしょうか?
この世界は、愛で満たされた人を殺すことも出来ます。向こうの世界では出来ません。
だって愛に満たされた人と、殺人者は同じ領域に同居できないのです。出会うことすら出来ないのです。
それは愛に満たされた人が成長したからでしょうか?
いえ、違うのかも知れません。この世界が実体だとすれば、分離された向こうの世界は、心の投影なのではないでしょうか?
私達の価値観から分離が消えたとき、向こう側の世界の分離も消えるのではないでしょうか?それが本当の成長ではないでしょうか?
次なる考察

「反転」の書き込みは、空間でした。向こうとこっちの空間の見方を反転すること・・・。
でも今考えているのは、時間の反転・・つまり、成長と言うからには、過去から未来という時間軸での変化が必要です。
しかし、時間の矢は、反転する可能性もあります。その場合・・
私達は「成長」に関して、大きな前提があります。それは成長した「結果」というものです。
「成長したわね・・」この台詞は結果に対して言われます。結果の状態を・・です。
「成長した・・」という過去形・・。
私たちはそんな、結果としての未来永劫に向かっているのでしょうか?
ふと、これを書いている今、バカバカしいと思いました。
「結果」としての「点」に何の意味があるでしょうか?死ぬ時悔いのない死に方をして、何の意味があるでしょうか?結果としての成長をして、何の意味があるでしょうか?
時間への考察をするとき、過去から未来への全時間帯を全部換算してはいけないでしょうか?
何を言いたいかと言えば、過程が大事だと言うことです。でも、過程は常に「不完全」です。
神はパーフェクト?いえ、神こそアン・パーフェクトなのかも知れません。
神が不完全なのに、人間がどうして完全になれましょう・・。
神様、何が欲しいのですか?私達の「完全性」ですか?私達の「悟り」ですか?
だとすると、あなたの趣味は、あんまり面白くなさそうだ・・。
私の成長

私にとっての成長とは、何なのでしょうか?ちょっと考えてみました。
それはたぶん、自分の感覚が信じられたときではないでしょうか・・。
自分の感覚というのは、通常、抑圧されているのではないかと思います。抑圧させるように仕向けられてきたからです。
自分の感覚を信じる時、そこには外部の価値観の侵入が無いような気がします。ある意味、殺人と愛が同等になるのです。
自分の中にはドロドロとした欲望や、成長したいという欲求や、嫉妬や、向上心があります。相反するものが同居しています。
そこに大きな要素が加わります。外部の価値観です。××はいけない・・○○は良い・・この要素が、意外に大きいのです。
私自身を振り返ると、端から見ると、本当に奇妙な行動をとるときがあります。でも私はその時、自分の感覚を信じているのです。
この兆候が出始めたのは、エデンを出てからです。それ以前の私は、本当に受け身的でした。出始めてから、衰えるということがありません。
私は自分を作るということが出来ません。愛を作り出すということなんて、考えてだけでも嫌です。
経営者として外からアドバイスをする人がいますが、私はそういうものを聞いたこともありません。いくら人から聞いても、自分を変えることなど不可能だと思うからです。
今、私達が議論しているこのコーナーも、おそらく先駆者はいないでしょう。
ここに本の知識などを持ち込む人は、たぶんナンセンスでしょう。
私達は裸の勝負をしないといけないのです。使うのは、インスピレーションだけです。
自分を信じましょう。このコーナーの議論の過程そのものが成長なのかも知れません。
悪は悪か?

ぶり返すようですが、この問題を討議したくなりました。悪は悪か?
悪である根拠は、やはり「自分がされたくない」という一点に絞られるような気がするのです。
それは神の視点から見ても、悪なのでしょうか?・・というのがここのテーマです。
ナチの話が出ていますが、自分たちに害がある、無いという視点で言えば、「関係ない」。だから悪ではない。
ナチが悪だとすると、他国への内政干渉も悪ではない・・(もちろん)
泥棒は悪?私有財産の方が悪ではないでしょうか?
校則は、破れば悪でしょうか?
絶対悪と純粋善、これが存在すれば、「成長」ということもあり得るような気もします。
性悪説と性善説、本当に、どちらでしょうか?自分の内面を見つめると、欲のかたまりにしか見えません。
内面が欲のかたまりでも、私は自分を信じています。自分が神であることを・・
だから性悪説と性善説なんて、自分にとってはどうでも良いのです。
私が個人的に問題にしているのは、神の性悪説と性善説なのです。神はどちら?
ひょっとすると、高次元は悪で、この三次元は善かも知れません。高次元は悪で、この三次元は善だから、Hバンドが存在しているのかも知れません。
しかし、我々ほとんどの人は、高次元を悪だとは思っていない・・
仙人・仙女達は、Hバンドの領域を全く通っていないように思えます。
『不思議の科学V』に船井さんが解説していますが、まさに「陰」の領域からダイレクトに上の領域に通じているような・・・。
天地宮さんとの会話から

天地宮さんと会い、色々と話しました。彼女は小さい頃、こんなことがありました。
あるお菓子屋に行くと、くじが置いてありました。彼女がそのくじを引くと、一等が出ました。
すると店のおばさんが言いました。「一等はね、あたしが抜いといたんだよ。あるわけないんだよ。変なものを出さないでくれ。」
何日か後にまた同じ店に行きました。今度もくじがありました。
しかし一等とか二等とかではなく、当たり外れだけのくじになっていました。
天地宮さんが引くと、どんどん当たりが出ます。とうとう9回続けて当たりが出ました。
すると店のおばさんは言いました。「当たり券はね、6枚しか入れていないんだよ。あんたはうちの店を潰す気かい。」
この後から天地宮さんのこの能力が無くなりました。
天地宮さんは霊が見え、高次元の存在とも話すことが出来ます。ある時、こんなシーンを見せられました。
エネルギーの兵隊さんたちが天地宮さんの周りを回って、こう言ったのです。
「あなたは私達が守ります。もう何も心配はありません。」
天地宮さんは反射的にこう言いました(テレパシーで)。
「何から守るんだい。守るということは、外の敵にガードを作るということだよ。それに私にゃ、守るべきものなんてないんだよ。とっとと別の所に行っとくれ」
また、あるときはこういう存在が現れました。「あなたは能力が高い。わしが人の病気を治す力を与えよう。」
彼女は反射的に答えました。
「私が病気を治す力を持つと言うことは、対極に病気を作り出してしまうんだよ。病気が悪だとは思わないけれど、それを利用して自分の善を積む気はしないね。」
この話の中で、守るということで次の話も出ました。
守護霊というのがありますが、あれはおかしいのではないかということ・・。
神社の神様が守ってくれたとすれば、それは他に、別の敵を作り出したと同じこと・・。
守るという神様は、もう一度出直してきた方がいいんじゃないか・・。
こういう視点は大変に面白いと思いました。

さて、これからが本題です。
私は「いのちの世界」を出し、三次元と高次元についての話題に切り替えました。
天地宮さんは言いました。
「私たちはやっとこの三次元に降り立ったんです。この三次元は全ての人と繋がることが出来ます。高次元はそれが出来ません。同じ波動の存在しか出会うことはありません。私たちは待ちに待ってこの次元に到達したんです。もっと生きることを謳歌しないでどうするのでしょう。」
この後、生きることを謳歌するにはどうすれば良いかという話になりました。
まず善悪の基準を、世間の基準ではなく自分の基準に戻すのが良いのではないかという話が出ました。
私が逃避の話をすると、そろそろ逃避から脱出したらいいんじゃないかと・・。
逃避からの脱出の一つの方法として、基準の奪還があるのです。
わざわざ多種雑多な三次元に生まれたのに、多種雑多さがなくなるようなルールに則っているのはどうかしていると・・。
天地宮さんは私との講演会をやりたいのです。そういう意向を持っています。その理由について、彼女は言いました。
「私はみんなに言っているんだよ。森田さんはそのうち話さなくなるかも知れないって・・。森田さんは自分の興味で動いているから、その興味の中に“人に話すこと”がなくなったら、話さなくなるんだよ。だから話すうちに、うんと聞いておく必要があるんだよ・・って。」
最後に天地宮さんは訊きました。「森田さんは今、何に興味があるのですか?」
私はしばらく考えて・・「何も考えないことに興味があります」と答えました。
すると彼女も「私と同じじゃないか・・」
したい事の善悪

自分に対して、して欲しくないことが悪であるという考え方は、大変に素晴らしいと思います。
この社会は多数決で成り立っていますから、それを投票し集計した結果が社会悪となるわけです。
私はドラッグをことさら悪いとは思わないのですが、私のような考え方の人はマイナーなので、多数決で排除されてしまうのです。
社会悪が、普通に「悪」と呼ばれているものです。これで「悪」の成り立ちが分かったわけです。
さて、同じ手法で考えると、善とは何でしょうか?善とは自分にして欲しい事なのです。
愛・・慈悲・・協力・・などです。
こう考えると、善も悪も、とてもエゴ的ではないでしょうか?

一歩進めましょう。
自分にして欲しい事を善、自分にして欲しくない事を悪だとすれば、次の場合も出てきます。そう、「自分がしたい事」です。
善と悪の裏には、自分のエゴが隠れていましたが、「自分がしたい事」は、モロ出しです。モロ出しのエゴです。
自分にして欲しい事も、たくさんあります。自分にして欲しくない事も、たくさんあります。
でも、本当の動機が裏に隠れているので(表は善と悪という言葉で取り繕っているので)、いくらでも出せるのです。
しかし・・自分がしたい事・・・は、実は・・これをよ〜く考えると、とても面白いことに気付きます。
自分にして欲しい事は、自分が出来ない事が多いのです。例えばそれは、滅私奉公だったり・・です。
しかし、自分にして欲しくない事は、自分がやりたい事が多いと思います。男女間の事を考えれば、よく分かります。
でも人は本当は、やりたい事をやりたくないのではないでしょうか?
「やりたい」などと言うのは、嘘です。本当にやりたければ、もうやっているはずです。
悪というものが出てきたのは、自分がされたくないからではなく、自分が本当はしたいのに、したくないからではないでしょうか・・・
言っている意味が分かりますか?これは自由と逃避の問題でもあります。
原始時代に善悪があったでしょうか?
エデンから抜け出るに従って、人はその自由が怖くて、善悪というブレーキをかけたのではないでしょうか?
だから善悪も保険なのです。
しかし神が本当に自由だとすれば・・つまり、されたくない事も、されたい事も、したい事も同等だとすれば、神に善悪は無いのです。
しかし私達はこのような神にはなれません。だとすると、悪を超越するには、悪魔の助けが必要なのです。
逃避は神、成長は悪魔・・

自分が本当にやりたい事・・これが分かっている人は、このHPの中にもいないのではないでしょうか・・。私ですら、分かりません。
このコーナーは神とは何かということをテーマに進んでいまして、私は「神の意図」という書き込みをしました。
神の意図が分からないで、自分の本当の意図は分からないのではないでしょうか?だって神は、私達自身ですから・・。
とは言え、神の意図なんて、分かるものでしょうか?答を出したとしても、その先にはまた次の答が出るような気がします。人は一生悩み続けるのかも知れません。
ところで私は「すべてはうまくいっている」と思うのが好きです。自分自身は、何も変える必要がないと思います。
重力

ベッドの中で、重力について考えていました。
(時間に関係なく私はよくベッドに入ります。リラックスするので・・)
重力はなぜ存在するのでしょうか・・
もしも私が地球クラスの惑星をグルグル回すとしたら、どれだけ大変でしょうか?
惑星にワイヤー縛り付け、ブン回さなければなりません。バケツをブン回すのさえ、勢いをつけるとかなり大変です。
ましてや惑星です。その作業を重力はやっています。
それにはエネルギーの消費はないのでしょうか?エネルギーの消費があれば、惑星の質量は減るはずです。でも、そんな話は聞いたことがありません。
人工衛星も一旦軌道に乗ればエネルギーは要りません。だから惑星が回るのもエナジー消費ゼロです。
でも誰かが負担していると思いませんか?神でしょうか?
何のためにそんな大事業を・・・何のために・・・

時々、受信機のことが頭をよぎります。そして私は、ラジカセかも知れないな・・と思いました。
つまり受動的に受信するだけでなく、カセットを入れて自分で音を出すことも可能です。
まあでも、この書き込みのテーマはそれではありません。電池を問いたいのです。
人間の場合、電池は神でしょうか?これは重力の問題とも絡んできます。
電池はエネルギーです。宇宙のエネルギーは、元々ありました。
私たちはそのエネルギーを何らかの形に変換して、生きるために使っています。これが無くなったら、アウトです。
もちろん重力が無ければ地球は軌道を離れ、太陽エネルギーは極端に減り、我々は死にます。そういう素材を神は提供しています。
つまり神は、我々を食べさせてくれているのです。この神は、お陰様的です。
食べさせると、何か言うでしょうか?「誰のおかげで食えていると思っているんだ・・」と、どこかのオヤジのように言うでしょうか?
「もっと勉強しろ(学びなさい)」と言うでしょうか?
鉱石ラジオからすれば、電波は情報と同時にエネルギーも送っているのですね。
同様に念力もなんですけど・・(孫さんは離れたところにあるおはじきを動かせる)
これって、エネルギー保存の法則はどうなっているのでしょうか・・

神の意図とは、私の仮説では、崩壊と再生を繰り返すのみ・・。
神の定義なんて、どうでもいいんです。なぜなら、神の定義は最後だと思っているのです。
「私たちはどこから来て、どこにいくのか?」この解答を得るために、神の意図を探しているのです。
なんなら、「時空」という言葉に変えましょう(でも神って単語、私は好きです)。
ルーシュ(非論理書き込み)

歴史の中で人間は、進歩しているのでしょうか・・いえ、時空は進歩しているのでしょうか・・・いえ、とどのつまりは、神は進歩しているのでしょうか・・。
今まで多くの視点から議論してきました。愛と嫉妬・・場と人間・・コルベ神父・・悪・・
経験を積んで、賢者になるという人もいました。このままですべてOKだと言う人もいました。
時空の進歩・・これは私達の想像を絶するものだと思います。それでも絶しないで、想像してみました。
私達の人間性のようなものは、大昔から変わっていないのです。だったら、歴史の意味はないじゃん・・と思うかも知れません。
しかし・・しかしです。人間性の要素は変わっていなくても、中心からの距離が増えているのではないかと思うのです。
私の意味が分かりますか?(だからこの題は「非論理」です・・)
愛とか憎しみの要素は昔も今も、変わってはいないのです。そういう要素は、普遍なのです。しかし、中心からの距離が増えているのです・・(非論理だから質問には答えません)
だからバランスを取るのが難しくなってきているのです。さらに、バランスを取るためには動かないといけないのです。
地球の公転が止まれば、地球はバランスを崩し、宇宙に放り出されます。運動(リリース)の中にしか、バランスはないのです。

そして神は何を欲しているか・・
愛・・?チッチッチッ、甘い、甘い・・時空はそんなに甘くはないのです。
神が欲しているのは、おそらくエネルギーの循環なのです。
だから怒りでも憎しみでも良いのです。愛と同等なのです。循環さえすれば良いのです。
私達が使う貨幣は造幣局が印刷します。それをいくら持っていても、経済は上昇しません。売り買いの循環があってこそ、貨幣の意味が出てくるのです。
神の世界では、貨幣はエネルギーにあたります。エネルギーは神が作りました。造幣局のように・・。
しかしエネルギーは溜め込むばかりでは、使われない貯金と同じです。
エネルギーをより多く循環させるためには、どうすればよいでしょうか・・
そうです。回転する周囲を中心から遠ざけることです。エデンから出るのも、これに当たります。社会のルールが沢山出来るのも、これに当たります。
エネルギーを循環させると、何が出来るのでしょうか・・。本当のルーシュが出来るのです。

神の世界ては善と悪は無いと言われます。ではなぜ善と悪を作ったのでしょうか?
それはルーシュを作るためです。とは言え、単に最初のルーシュとしてです。
最高に生産させる状態は、タオの状態でしょう。ワダチに乗っている時、ルーシュの生産高は最高に達します。
輪廻の中で、私達は何をしているのでしょうか?個人の経験の蓄積ですか?
それはまるで積み立て貯金です。ルーシュの原料にはなりますが、ルーシュの生産にはなりません。
宇宙はもっと動的なのです。
たぶん、ルーシュは生命エネルギーなのです。ルーシュは時間系の中の、一種のエネルギーなのです。
気は空間系だと思うので、時間系の高次元エナジーは、ルーシュとでも呼ぶしかないのです。
だから、高次のルーシュ(生命エナジー)を操作できる仙人は不老不死なのです。
彼らがタオに生きるのは、ルーシュが時間系の中に存在するのを知っているからです。
私の「いのちの世界」という図には、時間系が書き込まれていません。彼らはそこにいるのてす。
孫さんがエナジーの回転をやり蘇生するのは、回転は加速度運動だからです。加速度運動は時間系への操作です。
生命と愛

生命は状態だと書きました。愛も同じです。
つまり、ある場所で切ってみて「ねえ、生き生きしてる?」「愛している?」という質問は、たぶん空間的で無意味なのです。
間違ったルーシュという概念は、空間の愛から生じるものだと思います。
ある事柄が善か悪かは、時空の始めから終わりまでを見てみないと分かりません。
それが状態という意味でしょう。一時悪であった事が、ある時善に変わるのです。
それが循環を起こし、生命エネルギーを生みます。
広い意味では、輪廻も循環です。生命エネルギーを生むのだと思います。
一方たけが認められた価値観・・それは回転が起こりにくいのです。それは直線上を進むような感じです。
ものすごく大回りをして、本人自身が気付かないくらいの大回りで一回を終わります。でも、加速度の変化は、たったの一回・・。
だから、「あれも、これも」で良いのです。
この「循環系」に至るまで、私はやじろべいが頭を離れませんでした。
やじろべいは中心があり、バランスがとれています。しかし、やじろべいの手が伸びるほど安定します。
この感覚は、やはり空間系なのです。空間系は、左右のバランスが大事です。
時間系は自転車みたいです。走っていないとダメなのです。疲れますか?
でも、時間系の中で美味しいコーヒーを飲むのは、まさにその絶頂です。生き生きとすることは、決して激しく動き回ることではありません。

神はなぜ生命に興味があるのでしょうか?
それは「自分で変化を生み出すことができるから」だと思います。自己創造力なのです。
ですから、各自が違うのは当たり前です。私達は「生命」というものの現れなのです。
価値に囚われると、一つのフォーカス番号が与えられます。しかし時間系に入ると、フォーカスは無くなるか、もしくは無限大になるのではないでしょうか・・。
昔、全国に仏像を作って歩いていた僧がいました(名は忘れました)。
ある時、富士山が噴火しそうになりました。彼はその時、裾野にいました。
村人を集めると彼は言いました。「皆の衆、女を抱ける者は、今晩一斉に抱け。男女の作り出すエネルギーは富士山の噴火に匹敵する。」
そして富士山は噴火しませんでした。噴火したのは、男性のあそこでした(笑)。
しかし、チベット密教や道教で男女の交わりを修行に使うのは、やはり生命エネルギーに関係するからではないでしょうか?あれはたぶん循環なのです。

昔は、神のコマ(駒)も、小さかったのです。転がってもリスクが少ないように・・
でも、「おお、もう少し大きくしてみよう」ということになり、だんだん大きいコマになりました。
恋愛が過激になり、離婚も増えたのは、そのためでしょう。凶悪犯罪が増えたのも、そのためでしょう。
私達はリスクが大きい方に進化しているのです。でも、生命の進化から見れば当然です。
我々の肉体が死のうが生きようが交換とか循環がキーだとすれば、死ぬことくらい屁のカッパなのです。
そんなことより、人間をもっとエデンから出してリスクを背負わせたいのです。そうすれば、もっと大きなコマに出来るからです。それが神の進化です。
ですから見かけ上は、善も悪も拡大しているはずです。
リスクが大きくなるから、回避も大きくなるのです。人はリスクに向かおうなんて、誰も思っていない。でも、潜在的などこかで欲している・・(もちろん回避も・・)
生きること

人間はおぎゃあと生まれたとき、無限の可能性を持っていました。いえ、持っていたのではないかと仮定します。
そして教育によって可能性は狭められました。なぜ狭められたのか、それは人生への保険が必要だからです。
成長しなさい・・良い事をしなさい・・これらは保険です。
これをやっている限り、人は咎められることはありません。安全に生きていけます。
親は社会の最小単位です。親は最低限の保険を教えます。「人に迷惑をかける人間になるな・・」
でも、保険だけでは生きていけない人がいます。良い事・・成長・・迷惑をかけない・・そういう一連の社会的価値観を突破したくなります。
突破できるか、できないか・・とにかく人の人生は、この板挟みではないでしょうか?
突破してもまた戻りたくなります。「さみしい」と言って、恋人に甘えたくなります。
善と悪を自分のバロメータで考えようとしても、だれも賛成してくれなければ、尻込みをしたくなります。
どんなに偉そうな・・悟ったことを言う人だって、この板挟みなのです。
原始時代もそうでした。「これ以上危険を冒すと、マンモスにやられる」「××を殺すと、祟りがある」そういうリスクと戦ってきました。
リスクを侵すことも無意識なら、リスクから回避することも無意識でした。

前回、中心からの距離が拡大していると言いました。神が拡大させているのでしょうか?
違います。我々人間なのです。
神はどこにいるのでしょうか・・
神は草の陰です。物理方程式を作ったのも神です。神は基盤を作りました。
神に意識はないと思います。私達にはあるのです。ですから私達は神なのです。
私達人間は唯一意識を持った存在です。意識はエネルギーです。生命エネルギーです。私達の意識は拡大をしているのです。
方向は?方向は、全方向なのです。
全方向?善のみではないのです。悪のみでもないのです。愛のみでもないのです。憎しみのみでもないのです。
全方向・・そうです。可能性を、そのまま拡大しているのです。
しかし、社会も枠を持っています。その枠を突破した時、不安になります。何かにすがり付きたくなります。
何にすがれば良いのでしょうか?ある価値観でしょうか・・・
でも、全方向の中は一つだけの価値観はありません。あるのは「生きること」という価値観だけです。「生きること」の価値観に戻るため、私達には還童功が必要なのです。
プリズムの光

プリズムを通した光は、多くの色に分光します。
さて、ローリー・モンローさんは2000年9月にホテル横浜で講演をしました。
そのビデオを売る許可がやっとおりたので、この間もう一度見てみました。
そのとき気が付いたのです。彼女はとても良い示唆をしていました。まさにこのプリズムの話です。
「もしも涅槃やニルヴァーナがあるとすれば、そのプリズムの光に同調させれば良い」という話です。
これは上位のフォーカスレベルをプリズムの分光に喩えている話です。とても理解しやすいです。
さて、私はさらに考えました。「おおもとの光は、どこなんだろう」・・と。
それこそ、この三次元だと思いませんか?この三次元には、全ての価値が集まっています。
愛を○とし、嫉妬を●とした場合、愛だけでは透明にはなりません。透明になるためには、全ての価値が必要なのです。
全体が拡大するのは、このためです。神は透明なまま、拡大を続けているのです。

さて、フォーカスの高い世界を我々は高次元と呼んでいます。高次元は・・果たして本当に高次元だったのでしょうか?
まず死後の世界を考えます。我々はいつも向こうの世界を基点として考えています。こっちは単に出張先です。
しかしですよ、向こうの世界はこっちに来るための準備の場所とも考えられます。
次に光のプリズムを考えてみましょう。
『不思議の科学1』では、フィルターという概念を書きました。向こうに透明な光源があると書きました。
そして信念体系領域にフィルターがあると、そのフィルターの色がこの世界に降りてくると書きました。
でも、プリズムの概念だったらどうでしょうか?
光源はこちら側です。分光した先は、向こう側です。
そして向こうはフォーカスの色別になります。これでも話は合うような感じなのです。
逆にも言えます。あらゆる色が降りてきたとき、私たちの世界は透明な光になります。
ということは、あらゆる価値観を同時に持っているのと同じです。この世界が愛だけだとダメな理由はここにあります。神は、あらゆる価値観をこの世界に作ったのです。

保険で成り立っているフォーカスレベルがあります。フォーカス23〜26です。
特定の信念は、この三次元では保険にあたります。
しかしです。フォーカス23の存在達は、「命」を守るためには、やっていません。
命はとっくの昔に無いからです。
フォーカスの高い存在達の世界では、保険という概念はあるのでしょうか・・
無いと思います。保険は「生命」が無いと出てこないのです。
つまり要素が一方だけの世界では、「生命」は生命力を帯びないのです。
これはちょっとした発見かも知れません。
ボーダレス

私たちのこの三次元は、私とあなた、物と物などははっきりと分かれています。
でも、これからは境がハッキリしなくなるような気がします。
子供の時代から今までにかけて行われたことは、分離をするということでした。
男は男らしく、女は女らしく・・
自分の専門分野をハッキリと決め、役割を認識してそれに向かっていく。
より個性的になり、自分でしか出来ない事をする・・人に取って代わられるような仕事はするな・・。
リリースせよ・・他者と合一せよ・・自然と合一せよ・・
分離があるからこそ、合一したくなります。
NとS、プラスとマイナス、男と女
ところで唐突ですが、オナニー(ひとりエッチ)をするのは、人間と一部の猿だけではないでしょうか・・オナニーは性の分離を、自分で克服しているのです。
チベット密教では各派に共通する有名な逸話があります。
釈迦が菩提樹の下で瞑想していました。すると多くの仏が舞い降りてきて釈迦に言いました。
「おまえさん、チッチッチッ・・。そんな瞑想ではブッダとなることはかなわないだろう。」
仏達は、最勝明天女という女神を召喚して、性的比喩のパートナーとして与えました。
そして女神と合体した瞑想(妄想)によって悟りを得たというのです。
とんでもない話ですが、これはチベット密教では最も有名で、かつ基本的なものなのです。
こういう瞑想をしている人はいませんか?いるでしょう。私もそうです。
「それは妄想100%だ」と言って悩んでいませんか?
いえ、チベット密教では、それでなくては悟れないのです。
さてこの話は、ブッダが実際の女性と交わったとはされていません。この女神は内なる女性とも呼ばれています。
ある意味、手を使わずに妄想のみでイッてしまったわけです。夢精の瞑想版です。
これはボーダレス・・すなわち「境がなくなる」ということだと思うのです。

チベット密教では、出世間法という手法でも瞑想します。自分を宇宙大にまで拡大するのです。これも境が無くなることです。
境が無くなると、ことさら合一に向かって努力する必要もなくなります。時間の流れに身を置くと、空間的分離感が消滅します。
ワダチに沿って今を生きるとき、魂は拡散しています。偏在しています。自分の殻は無くなっています。これは私の六次元体験でもあります。
性に関して大事なことは、対極の性を自分の中に見出すことではないでしょうか。
社会で大事なことは、悪を自分の中に見いだすことではないでしょうか。
還童功・・それは差異の無かった時代に戻ることではないでしょうか。
フォーカスは各層に分かれています。それは私達三次元の人間が、上下格差を作っているからかも知れません。
全てが同等になったとき、あらゆるフォーカスレベルがこの三次元に集約されるかも知れません。
私達はエデンを出つつあります。それは一見、個の分離に見えます。人は孤独に向かっているかのようです。
しかし自然から離れれば離れるほど、魂の自由度は広がっているはずです。出てきた自然を、まるで対極のように考えることも出来ます。すると、自分自身の中に自然を感じることが出来ます。
チベット密教のニンマ派では、生命を意識と風(ルン)に分けています。風(ルン)は内在する自然なのではないでしょうか。
すべては自分に内在すると思った瞬間、外界のものは対等になるのではないでしょうか?許す心、慈悲の心・・これかも知れません。
ですので、釈迦の女神逸話もまんざら捨てたものではありません。
私達が数多くの輪廻を経験するのも、それらの経験を内在化させるのが目的だとすれば、納得できそうです。
ボーダレスの時代・・時間の中に生きる仙人・仙女たちは、早くもボーダレスの世界に入ったのではないでしょうか・・。
女装・・これも一つのボーダレスかも知れません。

意識は個であり、無意識は全体に通じているのかも知れません。この二つをボーダレスにするには、どうすれば良いのでしょうか?それは通信を行うことだと思います。
意識は左脳に対応されています。無意識は右脳に対応されています。
意識には客観性があります。無意識は主観性だけでしょう。
私は考える時、左右の目が激しく行ったり来たりすると言われます。私に限らずインスピレーションを得ようとして考えている時は、その現象が起こります。
これは意識と無意識が交信をしている時だと思います。意識で考えた事を無意識に降ろし、無意識でのインスピレーションを意識に上げる・・。
人間の神経は左右が交差していますから、目が左に行っている時は右脳の番です。
一方だとどうなるでしょうか。左脳のみだと、論理ガチガチになりそうです。右脳のみだと、感情的100%になりそうです。
人が時間系に生きるとき、必ず両方の通信が行われているのではないでしょうか。
右脳だけだと、時間は自分の時間のみです。左脳だけだと、時間は客観的な時間のみです。
両方の時間が合わさった時、ワダチ現象が起こるのではないでしょうか・・
ボーダレスという単語は、これからの私のキーワードになる可能性を秘めています。
もっと自由に・・
不老不死

以前、女装をした仙人(八仙)の話題を出したことがありました。あれはどう思いましたか?
やはり男は男らしくした方がいい、女性になろうなんて邪道だ・・と思ったでしょうか?
私は思いません。
孫さんは蘇生が出来ます。孫さんには五人の指導霊が付いています。彼らのうち、三人は男性です。ツンカバ、ウルトラマン、寝たきり仙人です。
孫さんも普段は女性ですが、超能力に入るときは男性ではないかと思うくらい、バシッとします。中性に近くなるような感じです。
文導師は、中に男性の魂が入っているのではないかと思うときがあります。男性の弟子達を従えて、バシッとしたリーダーシップを取ります。
彼女は視力回復という技が得意です。私もその恩恵をこうむりました。
かたや張宝勝という人がいました。彼は中国一だと言われていますが、生命の蘇生は出来ません。
それは彼の中の女性が芽を出していないのではないかと思います。彼はギンギンの男性なのです。
さて、上記のオカマ仙人(笑)に話を戻します。
彼は笛を吹いていました。笛を吹くと、花が開花します。その花を食べると、病気が治るのです。まさに孫さんのやる事とそっくりです。
彼はもちろん趣味で女装をしているのでしょうが、女装と花の促進開花が関係しているような気がしたのです。
今のところ、男には子供が産めません。蘇生という状態を作り出すのは、生命にアクセスする必要があります。その外部での結合はセックスです。
しかし一人の人間が蘇生を起こすには、自分の中の対極の性を引き出す必要があるのかも知れないと思いました。釈迦が女神を召喚されたようにです。

さて、対極はどこにあるのでしょうか・・。自分の中にあるのでしょうか・・。
私はユングの言うところの、原型の中にあるような気がします。
原型とは集合無意識に近いです。時空に張られた通信線を使い、原型にコンタクトして、対極にアクセスするのです。
だから、普通には内在ではなく、外在だと思います。
孫さんは天目を通じて宇宙のインフォメーションセンターにアクセスすると言います。そこでピーナッツの魂と会話をします。
どこで声がすると言うと、頭の中に直接入ってくるような感じだと言います。
この時点で外在が内在になったのではないでしょうか・・。
ユングは超能力の世界では因果関係が崩れているのではないかと言っています。まだ起こっていない未来から、予知夢のかたちで通信が来たりするからです。
このときも、外在は内在化しているのです。
内在化とは、オンライン回線が開かれる感じです。単体のパソコンがオンライン化され、広大なインターネットの世界に接続されるような感じです。
まるで自分が拡大されたような感じです。
チベット密教の出世間法も、ここに理由があるのかも知れません。
どこまで拡大するのかと言えば、対極までです。対極の性が自分の中に内在化されると、おそらく蘇生するのです。
女装の仙人の衣装は、アンテナカップラーのような役割を果たすのではないでしょうか。よりマッチングを取りやすくするための・・・。

さて、対極を知るためには何が必要でしょうか。
第一には、”分離”が必要だと思います。分離していなければ、対極さえ存在しません。
還童功は「子供のままではダメだ。一度出ていった者が戻ってきて、初めて意義がある」と言います。子供のままではだめなのは、対極すら知らないからです。
エデンから離れつつあるのは、エデンを対極として知るためにあるのです。対極としての内在化をするためにあるのです。そのまま戻るために、エデンはあるのではないのです。
成長を内在化させるためには逃避が必要なのです。
では何故そのような事をしているのでしょうか・・。
その究極的な目的は、“神を内在化させるため”ではないでしょうか。
要するに我々自身が神になるためです。
そのためにも、我々は一見、神から遠ざかっているように見えるのです。
そして対極のもののとの合一は、おそらくもの凄い蘇生エネルギー(生命エネルギー)を生むのです。神もたぶん、生きるために、生きているのです。
我々自身が神を内在化させたとき、この三次元は蘇生エネルギーで満たされるのです。
そして名実ともに不老不死が訪れるのではないでしょうか・・。
そのとき全てのボーダーが内在化され、この三次元があの世でもあり、この世でもあるという状態になるのです。たぶん・・・
書き込み期間:2000/11/07〜2000/12/10