もりけん語録
テーマ:「この世とあの世」
書き込み期間:2005/05/30〜2005/06/12
要旨:
あの世で肉体を持たない存在に、運命変更は可能なのでしょうか。
この世には物質があります。しかしあの世のエネルギーは物質に変われません。この世では物質を使ってあの世の運命を変えることも出来ます。しかし逆は無理なのではないでしょうか。だとすれば、肉体を持って物質に囲まれているこの三次元こそ最大の実験場です。何とか生きているうちに解明したいです。
そもそもあの世では、運が良いとか悪いという概念もなく、運命変更の必要すらなさそうな気がします。それにあの世には、この世ほどシビアな時間感覚もありません。ということは、あの世の存在は皆ワダチのままということになります。
ただ、五行と十二支の変化はあの世にもあると考えられます。生まれ変わりの村の調査では死んだ後も魂は走り続けたという証言もあり、もしあの世に五行の流れがなければ一切の動きが消えてしまうはずだからです。

もう一つの問題があります。あの世に「外側」の要素はあるのでしょうか。あの世は心の中で思ったことが現実化する世界のようです。私もあの世の世界に体脱して家を造ったことがありました。しかし内側の意識で作り出した物は、外側の要素にはなりません。
つまり、内側と外側の境目が曖昧で、全体として一つなのがあの世なのかも知れません。運命は外側からしか変えられないとすれば、やはりあの世での運命変更は難しいのではないかと思います。
こう考えると、三次元の私達があの世の存在と決定的に違うのは、強い意識と物質をもって外側の世界にアクセスし、運命変更という形でのリアクションを受けられる点であると言えそうです。そしてこの世とあの世との大きな差は、運命の問題にありそうな気がします。

あの世はどうやって生まれたのかと考えていて、大きなインスピレーションを得ました。それは、この世はあの世から生まれたのかも知れない、それどころか宇宙の誕生以前からあの世があったのかも知れない・・という仮説です。つまりあの世がベースとなって、この世は何度も輪廻を繰り返しているという考え方です。
あの世は何でもありで、問いは360度に渡って広がっているかも知れません。そこから、分科会のような様々なイベントを起こすために、この世が作られたのかも知れません。
また、リセットすること無しに延々と運営され続けていているのがあの世で、リセットするシステムをこの世に作ったのではないか・・という仮説も考えました。

この世は運命を変えることが出来る唯一の世界だというのが、ここまでの仮説です。ですが、個としての分離が運命変更の条件でありながら、個に固執すると運命が変わらないようになっているようです。「この世とあの世と運命はどうなっているのか」という真理の探究が、結果的に私達の生き方や世界を変えることに繋がれば面白いと思います。
しかし、現状では分かっていない問題だらけです。まず、あの世(ひいてはこの時空)はいつ誕生したのか、誰が計画したのか。あの世からどうやって宇宙の誕生(ビッグバン)を起こすことが出来たのか、運命の筋書きを書いたのは誰なのか、神がいるとすればどうして生み出されたのか・・・。
知らなければならない事は、まだまだ山積みされています。
目次
○ 体脱は運命を好転させるか
○ 肉体を持たない存在に、運命変更は可能なのでしょうか
○ なぜ肉体がないと運命変更できないのか?
○ 何でもあり
○ この世はあの世から生まれたのかも・・
○ あの世の誕生
○ アンナコトやコンナコト
○ リセット
○ 我々三次元の存在意義など、どこかに棚上げして議論しないといけないのです
○ テーマ
○ ビール万歳
○ あの世では「外側」に原因の要素はあるか?
○ あの世の大きさ
○ 誰が作ったの?
○ 双方向
体脱は運命を好転させるか

今、日本でも体脱がはやり始めました。モンロー研を出た「先駆者達」が、活躍を始めたからです(笑)。
彼らによれば、ガイドから情報を貰い、愛に目覚めて、運命が好転するそうです。しかし本当にそうなのでしょうか・・。
私の考えでは、ガイドは、「外側」にはならないのではないかと思うのです。ここでいう「外側」とは、運命を変えることが出来るという意味です。
だって私や「先駆者達」を見て、「体脱して、だからどうした?」と思いませんか?(笑)
体脱をして、億万長者になるノウハウをゲットして、会社を興して大富豪になった人を、私は知りません(笑)。銀座のクラブでガイドの有難い話をして、ホステスからモテまくった人を、私は知りません(笑)。
うーん・・私の定義の「運命好転」は、そこまで入らないといけません。
私が億万長者になり、女からモテまくっている(冗談)のは、体脱がキーではありません。何かが違う・・。
何かを変えれば、体脱でも億万長者になれるかも知れません。それに気づいたとき、その手法を教えるために、10万円で講演会を開きます(笑)。これなら高くないでしょう(笑)。
肉体を持たない存在に、運命変更は可能なのでしょうか

体脱をして上の世界(と言われる世界)に行くと、「ガイド」だの「存在」がいます。
彼らは運命変更が可能なのでしょうか・・。
彼らはエネルギー体ということですが、通常私達の世界にあるエネルギーとは違います。
私達の世界にあるエネルギーは物質に変わることが出来ます。
しかし彼らのエネルギーは、物質に変わることは出来ないような気がします。
なのでエネルギーと呼べるかどうかも疑問です。
六爻占術では運命変更に物質を使います。物質に色を付けたりもします。
五行の色を想像しただけでは運命変更は出来ません。
「ガイド」だの「存在」が五行を出してきたとしても、それは想像上の五行だと思います。なので何の効力もないと思います。
彼らは私達の内面に語りかけてきて、「変わりなさい」とか言います。しかし内面を変えて運命が変わることはありません。
肉体を持つ私達は「結果」ですが、それでも置物を動かし、まるでチェスのように運命を変更することが出来ます。
彼らも置物を動かしたいのだろうと推察します。でもあちらの世界からこちらの世界の物を動かすことは出来ません。
六爻占術のテキストの中に、あの世の世界の運命を変える話が出てきます。それは軒先に桃の木を吊すことでした。
こちらからはあちらを変えることができます。しかし逆は無理だと思いました。
こうなるとガイドや存在って、一体何?って、思います。エラソーに先生ぶって・・。
運命の1%も変更することは出来ないのに、世界をこの手に握っているような表現を使います。

釈迦やキリストはあの世に行って、宇宙銀河組織の中核に入り、地球の運命についての計画を立てるトップにいると言われていますが、とんでもない話です。
しかも体脱経験者に限って、人生の目的は、解脱をして輪廻から抜け出すのだと、力説します。解脱をして、いったいどうするのでしょうか・・
以前、芥川龍之介の蜘蛛の糸という話を出しました。極楽から釈迦が、蜘蛛の糸を垂らすという話です。
ひょっとすると逆ではないかという気がしてきました。
解脱をして行く場所は、無臭・無音・無光のアイソレーションタンクのような所だと思いました。
そこで釈迦は待っているかも知れません。この三次元から糸を垂らしてくれるのを(笑)。
実際に糸を垂らしたらどうでしょうか・・。解脱者がいっぱいいて、釈迦のあとから登ってこようとします(笑)。
釈迦は叫びます。「これは俺の糸だぁぁぁ!テメーら、降りろ!」
しかし不思議に糸は切れません。私達はそういう面を持った釈迦を歓迎するからです(笑)。
今回の問題提起は、我ながらとても面白い視点だと思います(笑)。

私が死んだとき、私が入った棺桶にはコインと六爻占術のテキストと十二支と発動台を入れて欲しいです(笑)。向こうから運命変更の実験をやってみたいです。効き目抜群で地球が無くなったら、ごめんなさい(笑)
スープの前でも当然振ります(笑)。しかし来世の一生運を振って、冴えない卦だったら落ち込みますね(笑)。
でもこれは不可能ではないかというのが今回の書き込みです。
釈迦やキリストは運命を解明できないまま解脱してしまいました(笑)。私は幸運にもあと何十年かは生きられる肉体を持っています。
アイテムも沢山揃ってきました。何とか解明したいです。
肉体を持っている今こそ、最大の実験場なのです。
なぜ肉体がないと運命変更できないのか?

う〜ん、なぜだろう?(笑) これが分かると、時空にはなぜ肉体を持ったこの三次元があるのか、その理由になりそうです。
六爻占術で運命変更をするためには五行が必要です。五行は十二支という物体と、色や音、時間などに存在しています。
体脱してこの世を離れると、まず物体が消滅します。そして場所と時間が曖昧になります。
生まれ変わりの村の情報でも同様でした。あの世に一泊したら、この世では9年経っていました。
また、あの世に行くと、感情が希薄になります。あの世では物を食べることがありません(あの世で飲み食いする最初で最後のものが、「スープ」なのです)。
これらから考えると、あの世には五行が無い様子です。
あっ、でも大切な問いを忘れていました。
あの世では運が良いとか悪いとかの概念は、あるのでしょうか・・
死ぬことはないので(笑)、食べる必要がありません。生殖もする必要がないので、異性にモテる必要もありません(なんか寂しい人生だ(笑))。
つまり食欲、性欲、睡眠欲は全て満たされていると思います。欲が無ければ、運も無いと思いませんか?
ということは、運命変更の必要など無いのだと思います。そういう思考すら浮かばないと思います。

先ほど三大欲を書いている時、変換を間違えて「浴」という字が出てきました。
あの世では日光浴が出来ません(笑)。太陽が無いからです。
あの世では地球の自転と公転は関係なさそうです。と言うことは、占った月日の十二支と五行が出ません。
えー、じゃあ、私が死んで六爻占術を持っていっても、月日からの生剋が分からないじゃないか・・。
月の変化は一分一秒まで厳密に決まります。そんなシビアな時間感覚は、あの世にはありません。
これらの理由だけで全面否定はしたくないですが、それでもあの世での運命変更は、可能性としては非常に低そうです。
と言うことは、死んでから生まれるまでは、ワダチのままなんですね・・。
天使やガイドも、ワダチのままなんですね・・偉そうなところも、もともとワダチのままなのです。何だかとても可哀想に思えてきました(笑)。
しかもこの世の行いを判定する高級霊もいるといいます(笑)。高級霊もワダチのまま(笑)。
もう「(笑)」どころではないです。どう考えても、「自由」を問わなかったとしか考えようがありません。
となると、私が六爻占術以前からこだわってきた自由という問題は、とても奥が深そうです。
何でもあり

最近、深夜の私の書き込み(独り言)で、私が所属していた放送研究会が取り上げられていました。
四年生になって私は会長になりました。そのとき私が一年の時に会長をしていた人から電話がありました。「もりけん、お前のサークル論を聞かせてくれ。」
私は自分の方針を喋りました。すると彼は言いました。「それって何でもアリじゃん・・。別に放研でやる必然性はないじゃん。」
世の中の多くのサークルは、やる事が決まっています。あるジャンルに特化していくことがサークルだと思います。しかし私は、それを取り外してしまいました。
勝手に分科会を作り、そこだけで活動していても良いという風にしたのです。
だから私は「宗教研究会」を作りました。もちろんそれは三ヶ月で解散して、次は「自由研究会」みたいなものも作りました。
サークル活動に参加するというのは、そのサークルのメインのイベントに出るというのが基本です。でもそれを壊しました。何故でしょうか・・。
実はその時は気づかなかったのですが、「何でもあり」の状態は、問いで一杯の世界だと思うのです。私は潜在的に、その状態を作り出していたようです。
何でもあり・・は、ORの状態でもあります。
サークルの中でメインイベントがあると、人は問いを発しなくなると思います。「何故これをやるのか?」・・は、「サークルの上の人が立案したから」・・が、答えになるからです。
ましてやそれが体育会系のように外で体を動かすタイプだと、そこに充実感を感じて、「何故」が出にくくなると思います。体育会系の人、気分が悪くなったかも知れません(笑)。
体育会ではなくても、何かをしてみてその経験を通じて何かを問うというサークルもありそうです。それでも、最初の問いは希薄になると思います。何故それをするか・・という。

一昨夜からあの世の話になっています。あの世は、「何でもあり」の世界かも知れません。
私が死んで、フォーカス27で放研のようなサークル活動が出来るかも知れません。
そうだとすれば、問いは360度に渡って広がる可能性もあると思います。
時空の最初というのは、とんでもなく広い、問いの世界だったろうと思います。
人間は何かの刺激に反応しているだけ・・という説もあります。しかし時空の最初は、外側の刺激すら無いのですから・・。
私の場合、確かに放研という枠はありました。でも内部の活動は出来るだけ「何でもあり」にしました。その結果、下位の問いが充実して議論されました。
今私は昼間、りんごの部屋にいます。刺激がとても少ないです。だからといって下位の問いが少なくなるかといえば、違います。かえって多くなっていると思います。
下位についていえば、「刺激」とか「問い」というのが別物のような気がするのです。
時空がビックバンを起こす時、「刺激」とか「問い」がゼロだったかも知れないというのは、はなはだ端折った考え方のように思えてきました。
放研という枠が宇宙だとすれば、その中で起こっている数々のことは、分科会に相当すると思います。だとすると、枠には方向性があってはまずいのです。
何故まずいかって?分かりません(笑)。
ただ私が一年時には、放研そのものが方向性や必然性に囚われていたために、分科会のようなものを作ることは不可能だったからです。
人は何のために生きるのか・・そこに答えを見出したら、分科会は出来ません。
この世はあの世から生まれたのかも・・

昨夜は、「あの世は何でもあり」だと書きました。それを持って一日浮遊したら、とても面白い仮説に達しました。
あの世が何でもありなら、この世は分科会なのです。しかしこの仮説は唐突に生まれたのではありません。ちょっと思考の過程を書いてみます。
あの世は運命のワダチそのものだという話が展開されていました。そして五行も無いかも知れない・・と。
さて、運命が決まっているとすれば、開始時の「18ビット」の情報があるということになりそうです。そうだとすれば、運命の流れは十二支と五行の変化に乗っていると考えるのが妥当です。
そうなると、あの世にも十二支と五行の変化がある・・・のか?
信じがたいですが、そうだと思います。なぜなら、あの世でも「動き」があるからです。「動き」というのは、五行の変化を伴っていると思うからです。
そうなのです・・。18ビットという初期設定とその後の五行の変化がないと、世界は動いていかないと思うからです。
生まれ変わりの村の人に、こういう事例がありました。
紅衛兵に追われて崖から落ち、死にました。でも魂は走り続けました。死んだことを認識せずに・・・。
もしもあの世に五行の流れがなければ、物語はそこで停止してしまうはずです。
河原を走り続けたときの五行の変化は、地球上のリズム(十二支の回転)だと思われます。
しかし魂が上の世界に上がっていった人の一日が、地上では9年という年月が経っている例がありました。これで計算すれば、あの世は地上の2000倍も回転数が遅いです。

問題を拡散する方向に進めます(実はこれが私の思考法の特徴のひとつだと思っています(笑))。
もう一つ疑問があります。死ぬのが先か、生まれるのが先か・・という問題です(笑)。
今の通常の世界観だと、死ぬのが後です。だからあの世はこの世より、後に出来ました(笑)。
本当でしょうか?(これも私の思考法の一つです(笑))
ビックバン以前にも、あの世はあったかも知れないと思いませんか?全ての魂がビックバン以後に誕生したという仮説を取る必要もないと思います。
今まで何回も宇宙は誕生しましたが、あの世は1回・・・(笑)。
だって考えてもみて下さい。いずれ宇宙は消滅するかも知れませんが、三次元宇宙の消滅と同時に、あの世が無くなっても困ります(笑)。宇宙の消滅と共に死んだ魂の行き場がありません。
この仮説には、若干の根拠もあります。フォーカス35辺りには、別の宇宙から来たという存在がいるからです。
孫さんのマスターの一人である宇宙人マスターも、確かそうだったと思います。「この宇宙」ではない・・と言っています。スペースシャトルをどんなに速くしても、行けないと言っています。
だとすれば、あの世という広大な空間(?)の中に、いくつもの宇宙があるという仮説が浮かんでも良いと思います。だとすれば、一個や二個消滅したって、屁でもありません(笑)。別の宇宙に行って、生まれれば良いのです。
こうして考えると、この世(この宇宙)は、あの世での問いの結果かも知れません。

話を戻します。
もしもそうだとすれば、十二支や五行は、この世でもあの世でも同等に通用しないといけません。そんなの、解明できるでしょうか・・(泣)。
そしてもしもこの仮説が少しでも正しい可能性があるとすれば、ビックバンよりも先に、あの世の誕生を考えた方が良さそうです。
ひょっとしてこれは、とても大きな視点移動かも知れません。
夜の独り言でサークルの話をしたのも、まんざら無駄ではなかったようです。
あの世の誕生

昨日は、この世はあの世から生まれたのではないかと書きました。
つまりこの仮説は、あの世がベースになっているという考え方です。
あの世はたった一回だけ存在して、それをベースにこの世は何度も輪廻する・・。
この世で起こったことのデータは、あの世で保存されれば、次のこの世のパラメータとして使えます。
この宇宙は無から生じたのではなく、あの世から生じた・・。
この仮説は、私のインスピレーションの中でもトップテンに入ると思います。
ではあの世は、なぜ、いつ、生じたのでしょうか・・。
これに関しては推察できるデータもなく、全く当てずっぽうですが、私の考えを書いてみます。
あの世は、データー格納庫であり、データリをセットする場所なのです。つまり初期化機能がついたディスクです(笑)。
演算を実行するのは、この世です。この世は、プログラムが実際に走る場所です。CPUが走るのは、この世です。従って、あの世で演算することは、あまり無いのです。
こうして考えると、あの世がドカーンと、派手なビックバン(笑)で出来たとは考えにくいです。あの世は、誰にも分からないように、ひっそりと作られた(笑)。
ではいつ作られたのでしょうか・・・。それはたぶん、時空誕生と同時に・・です。
では時空はいつ誕生したか・・私の考えによれば・・始まりは無かった・・と書きたいですが、実を言えば、想像もつきません(笑)。
アンナコトやコンナコト

昨日は、あの世は時空と共に作られて、あの世は時空そのものではないか・・という仮説を書きました。
では時空は何故、派手なビックバンを行ったのでしょうか。あの世だけで、事を済ますことは出来なかったのでしょうか・・。
はい。それは、アンナコトもコンナコトも出来ず、事を済ますことが出来なかったのです(笑)。
あの世で殺人なんて、聞いたこともないです。あの世で不倫なんて、聞いたこともないです。
時空はきっと面白くなかったのです、あの世だけでは・・。
ところでこんな風に考えられるのも、たぶんこの世の人間だけです。
この世とあの世・・うーん・・向こうから考えれば、こちらはあの世(笑)。
しかしビックバン前からあの世があったかどうか・・そういう問いに、出会ったことがありませんでした。きっと誰しもが死の世界だという固定概念があったからだと思います。
こちらが生で、あちらが死・・。死は生の後に来るので、あの世はこの世のあとに出来た・・。
ところが分科会という単語が出て事態が変わりました。こちらが分科会だとすれば、あちらは放研・・。
分科会は出たり消えたりしますが、放研は無くなりません(今でもあります(笑))。
放研を何でもありにしたから、分科会が出来たのです。
放研には方向性がありません。しかし分科会には方向性があります。
なんでもありの放研で分科会が無いとすれば、面白くありません。だってイベントが無くなるのですから・・。
こうして考えると、あの世はやはり、何でもありの世界だと思います。だから、面白くないのです。不倫とかのイベントが無いので(笑)。
ところで釈迦のように悟ると、二度と生まれないらしいです。永遠に死んでいるなんて、信じられません(笑)。アンナコトやコンナコトも、出来ないのです(笑)。
リセット

あの世は始まりも終わりもなさそうだという仮説が出て以来、ここの書き込みの量(一人が書き込みする長さ)も減っています(笑)。
それはそうです。捉えどころが無いからです。
しかし特徴の断片くらいは、迫ってみたいです。
富士通にいるときは、大型コンピュータをやっていました。
大型コンピュータで、「休み無し運転」を設計するのはとても大変だし、実行するとコストもかかります。一週間に一度でも止まる時間があると楽です。そこでリセット処理が出来るからです。
パソコンでも同様だと思います。リセットすること無しに使い続けている人はいないと思います。リセットしたときに余計なプログラムを停止させたり、一時ファイルなどの不要ファイルを処理することが出来るからです。
ところがあの世はどうも、リセットすることなしに運営されているようです。
とすると、あの世には余計なプログラムが延々と走り続けているかも知れません。一時ファイルなどの不要ファイルが、どこかに溜まっているかも知れません。
そいつらは、時空が終わるまでリセットされそうもありません。
こうして考えると、あの世とこの世の大きな違いは、「リセット」にあると思います。
宇宙そのものもビックバンで始まり、おそらく終わりがあります。生物にはわざわざ「死」があります。リセットするためでしょう。あの世の奈何橋にあるスープも、リセットのためです。
我々はリセット(死)を延ばそうと努力するわけですが、リセット(死)はわざわざ作られたわけです。
しかし・・リセットを作ることは、あの世そのものでは無理だったのか・・
全く分からないまま、今日の書き込みを終わります。
我々三次元の存在意義など、どこかに棚上げして議論しないといけないのです

あの世が「終わりの無い世」だという概念に変わって以来、私を含めてここに書き込みする人の焦点がぼやけています(笑)。これはいったい何故でしょうか・・・。
(もちろん私の書き込みがぼやけているのが最大の原因ですが。)
私が新しい概念を出すと、いつもなら「目から鱗が落ちた」などの書き込みもあります(笑)。
私は6月3日の昼間思い付いたのですが、物凄く興奮していました。あの日はわざわざ思考の順序まで書きました。今ざっとあの日のレスを見直してきましたが、意外にみなさん冷静です。その理由を考えてみました。
あの世がこの世の付属物で、この世が消滅すると共にあの世も消滅してくれれば、とても考えやすかったのです。
宇宙消滅とビックバンの間には、何も無かった・・こうして考えることが出来れば、この世を基点として思考できるからだと思います。
基点が向こう側(あの世の側)に行くと、とても困ります。なぜならあの世というのは、その存在すら証明されていないからです。
それに気分的な要素もあります。あの世がエラソーで頭に来るのです(笑)。
実はこの要素が最も大きいと思います。
私が「世界を変える中核になるのは日本なのです」と言うと、けっこうウケます(笑)。
自分が今所属している領域を、人は応援したくなります。
だから「あの世&この世システム」を考察するとき、ここがネックです。
我々三次元の存在意義など、どこかに棚上げして議論しないといけないのです。
三次元の肉体を持ったのは「人生を体験するため」だとかの三次元肯定論を少し棚上げしたいと思います。
棚上げしても、出口が見える議論にならないかも知れませんが。
テーマ

最近、仕事をしました(当たり前(笑))。
テーマが決まっている仕事は非常にやりやすいです。ここへの投稿も、テーマが決まっていると書きやすいと思います。
最近やっつけた仕事は、やはりテーマが決まっています。孫さんの蘇生です。つまり『不思議の科学U』の文庫化の仕事です。
ところが『幸せになりたければ読まないで』は、ほとんど進行しません。なぜかと言えばテーマが無いのです。
上位の問いから下位に切り込むのですが、下にいけばいくほどテーマがぼやけます。
今扱っているあの世の話も、似ていると思います。テーマがぼけてくるのです。
それはあの世は、始まりも終わりもなさそうだ・・というのが原因の一つです。
もしも人生が永遠に続くのなら、同様の問題が発生しそうです。自分も親も、敵も味方も、誰も死なないのです。一体どういう生き方をすれば良いのでしょうか・・・。
死に方についての本がたくさん出るかも知れません(笑)。
死ななければ永遠です。そういう人生に、テーマとか目的が出来るでしょうか・・。
でもこの問題は、かなり深い下位の問題だと思います。なぜなら、時空自身がそうだと思うからです。
『幸せになりたければ読まないで』に難航しているのは、やはり良いテーマだからだと思いました(笑)。
ビール万歳

学生時代に北アフリカまで陸路で行ったことがあります。そのとき車内で『ヨーロッパの合理主義(岩波新書)』という本を読みました。
その本の中で、合理主義の定義として、次のように書かれていました。
「あるビール会社の社長が死ぬとき、ビール万歳と言って死んだそうである。これが合理主義である。ヨーロッパの合理主義はこれと同じである。その合理主義を生んだのはキリスト教であり、キリスト教の合理主義の基本がここにある。」
ビール万歳と言って死ねる社長はとても幸せだと思います。この社長は「ビール」という分科会に参加するために生まれたのです。
キリスト教も、根源的な問いは全て神にすり替えているので、とても合理的になれるのだと思います。
そしてビール万歳と言って死ねる人生を、直接的ではないですが、精神世界&ビジネス界の多くの人も言っていると思います。
つまりこの世に何か生き甲斐を見つけ、それを邁進するというものです。
その生き甲斐は「上質」であればあるほど良く、それをゲットするためにそれらの本では多くの提案がなされています。
しかし・・そんな事をするために、わざわざこの世を作ったのでしょうか・・。
この手の本をよむたびに、いつも思いました(この著者に、そういった視点はないのか・・ということも含めて)。

「ビール万歳」と言って死ぬのが合理主義なら、「ここはどこだったのか?私は誰だったのか?」と言って死ぬのは非合理主義なのでしょう。
「合理」を辞書で引いたら「もっともらしく理由付けをすること」と書いてありました。「らしく」という単語が付くのですね(笑)
ということは、合理的に生きるというのは「もっともらしく生きること」なのです(笑)。
ところで私は、この世は合理的で、あの世は非合理的のようなイメージがあります。
この世に存在するものは、みんな「もっともらしく」見えるからです。さらに、あの世はもっともらしく見えません(笑)。
何故この世が誕生したのか・・。「ビール万歳」的生き方をするためなのか・・・。
もしそうだとすれば、時空と付き合う気になれません・・。

この本を読んだのは、大学二年でした。合理主義という概念を非常に肯定的に書いた本でした。
だから「ビール万歳」という私の書き込みを読んで否定的に捉える人は多いと思いますが、その本を読んで「やはり生き甲斐がほしいなあ」と思う人は多いはずです。
例えば本田宗一郎や松下幸之助は、そういう生き方をしていたはずです。自分の製品に惚れ込んでいました。
ビール万歳と叫ぶ社長が作ったビールは、きっと美味しいと思います。
あの世では「外側」に原因の要素はあるか?

昨日ある人が面白い事を書き込みました。
>変更が生じることによって、それまでの単なる「永遠」が、「永遠A」と「永遠B」に分断されてしまいます。
>つまり、前と後ろが生じるのです。
永遠を分断できるという発想は面白いです。三つに分断すれば、「永遠A」と「有限B」と「永遠C」になり、中間体に有限が出現します。
ところで「永遠」という表現には「時間の流れ」が存在します。時間が無くなれば、永遠か一瞬かはどうでも良くなります。なので「あの世は永遠だ」という表現自体、もしかすると適切では無いのかも知れません。

さて、今日の話題に入ります。
『幸せになりたければ読まないで』の原稿を書いているのですが、次の一節を書きました。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
今朝の通勤途中で、見えたものを思い出すことができますか?
多くの人は、心の中に現れることを、次々と追っていたのではないでしょうか・・。
心の中に現れる風景を見ている限り、運命が変わることはありません。心の中というのは「結果」の世界だからです』
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
この文章の後には、外しか運命を変える要素にはならないということを書いています。
ところであの世は、心の中で思ったことが現実化するようです。私もあの世で自分の家を造りました。あの家は風水で見たら、どうなるのでしょうか?
今、この世に新居を造っています。設計士にお願いして、風水効果も入れてもらっています。土台に太極八卦鏡を入れ、家の色は黄色とか・・・。これがとても良い効果を出すことは、卦から判ります。
つまりこの世では、外側が原因の世界です。しかしあの世は、思っただけで家が出来るということを考えれば、内側(私の意識)が原因です。
もっとも、この世の家だって私が設計師に頼んだり大工に頼んだりして作るので、家を造るということを考えれば、内側(私の意識)が原因です。

要は、あの世で外側に原因の要素はあるか・・という問題です。これについては懐疑的です。
私は体脱してあの世に行きました。まだ肉体とのつながりは強いです。それが原因で「家を造ってみよう」などという意識を持ったのではないかと思います。
既に死んだ人は、そんな事すら考え付かないというのが私の感じです。
あの世で「主体的に生きよう」(笑)と思っている人に、会ったことがありません。
あの世で生きている人は(笑)、流れに身を任せているだけだと思います。
貧乏人があの世でも貧乏人なのは、彼らが受け身的にしか生きていない(笑)からだと思います。
うーむ・・あの世の生き甲斐本が書けそうです(笑)。
こうして考えると、この世の意義が出てきそうです。
たぶん我々は、強い意識を持っているということです。強い意識で物を作り出し、そのリアクション(運命変更)を受けられるということです。
とすると、やはり、あの世とこの世の大きな差は、「運命」の問題だと思います。
あの世の大きさ

あの世で「家」を思えば、大工さん無しで瞬間的に家が出来ます。つまり内と外がイコールで繋がれているような感じです。境目がハッキリしない・・。
ということは、あの世は全体として一つなのではないでしょうか・・。
つまり運命を変えると言っても、全体がモヤモヤと変わっていかなければならない。
それって、変わることが出来ないことですよね・・。
だって運命は外側からでしか変わらないし、内と外が繋がったあの世は、ハッキリとした外側が存在しないのですから・・・。
そうだとすれば、肉体というものでハッキリと分離した世界(この世)を作ったのは、やはり運命変更に関係がありそうです。
さて、あの世が基本だという考え方を延長していくと、あの世は巨大な大海原の様なイメージがします。三次元のこの世は、そこに浮かぶ船のようです。
しかし、三次元が全て消滅して大海原だけ残ったとき、大海原は何か楽しいでしょうか?
私が気になるのは、大海原の生き甲斐です(笑)。

ここでイメージを逆転してみました。大海原から一気に「一滴の滴(しずく)」に格下げです(笑)。つまりあの世は、一滴次元(笑)ではないか・・と。
一滴次元だと物質もエネルギーも入らないでしょうが、情報は入るのではないでしょうか・・。18ビットの情報は、一滴次元に入っているのではないでしょうか・・。
う〜ん、書いていて無理を感じる(笑)・・。でもあり得る可能性があります。
だってあの世には三次元空間が無いので、一滴あれば充分だからです。いえ、一滴以下かも知れません。原子すらも存在していない世界であり、真空以下の世界だからです。
もしもこの仮説が正しければ、ガイド達は一滴の中でエラソーにしているのです(笑)。
誰が作ったの?

昨日の私の書き込みは、テーマが二つありました。一つは・・
あの世は内と外が混沌としてるので、運命変更が難しい・・なので、運命通り・・
この世は物質の世界で、内と外の境界がハッキリしているので、運命変更が可能になる。従ってこの世は、運命変更するために作られた。
もう一つは、あの世の大きさでした。
今回は前者について考えます。
一般的な精神世界では、この世は修行の場であり、魂を高める行為をして、あの世に帰る・・そして評価を受けるというものです。言い換えれば、この世は試練の場です。
しかし今回出た仮説によれば、この世は運命を変えることが出来る唯一の世界です。
そして魂を磨いたり高めたりする行為は内面的なことなので、運命変更には結び付きません。それらは、あの世でも充分出来ることです(笑)
「個」としての分離が運命変更の条件なのに、「個」にこだわろうとすれば運命は変わらない・・という、非常に微妙な世界が、この世のようです。
真理追究の結果は、やはり私達の生き方を変えていくような気がします。
それどころか、戦争なんて皆無になってしまうかも知れません。また、貧乏人もいなくなるかも知れません(笑)。
それが「この世とあの世と運命の研究」という下位の問いから生まれたとしたら、面白いです。

でも知らなければならない事は、山積みされています。
これらは誰が計画したのだという問題もあります。一滴の中にあの世だけが存在していたとすれば、そこに運命変更の余地はありません。
なのに何故ビックバンを起こせたのでしょうか・・。
運命が決まっているとすれば、その筋書きを書いたヤツは誰か・・という問題もそうです。全く分かりません。
偶然に出来たという人もいると思います。だったら最後まで偶然で行くと思いませんか?偶然から、運命は作れないと思います。
神を出して説明されても解決しません。なぜなら、その神そのものは誰が作ったのか・・・という問題も発生するからです。
今回は拡散したまま、終わります。
双方向

昨日のレスに「あの世は映画のフィルムのようではないか」とありました。
別のレスでは、「あの世はホログラムではないか」とありました。
ところでSFCの村井教授の先週の講義に、次のようなものがありました。
最近のテレビは、双方向だというのです。でも疑似双方向と本当の双方向に分かれるといいます。
例えば駅伝の中継が行われている時、画像の電波の隙間でデジタル情報を送っています。それは全ての選手に関する情報です。
画面に映るのは普通、トップグループのランナーです。自分の応援しているランナーがトップグループでないと、なかなか情報を得られません。
しかしテレビのリモコンを操作して、自分の応援するランナーを指定すると、その人に関する情報がテレビの画面上に常に文字情報として現れるのだそうです。
でもこれはリモコンとテレビの間の双方向なのです。つまり疑似双方向です。
本当の双方向は、紅白歌合戦の投票などです。
あれはそれに参加する視聴者が電話回線を通じて、放送局と結ばれています。

これらを総合すると、あの世は疑似双方向だと思いました。現状存在するデータの中から、その人に関係する(共鳴する)部分だけを切り出しているのだと思います。
だから中身を書き換えることなんて、きっと出来ないのです。
だってリモコンは、テレビにしか繋がっていないからです。
つまりネットワークが「疑似」なのではないか・・と。
対して、三次元の我々は違いそうです。ネットワークはバッチリ繋がっていて、放送局のデータを書き換えることが出来る・・・。紅白歌合戦の結果に影響を与えられるように、ドラマのストーリーを変えることが出来る・・・。
あの世で「思えば叶う」というのは、既にあるものの中から選び出されているに過ぎないと思いました。
書き込み期間:2005/05/30〜2005/06/12