もりけん語録
テーマ:「孫さんセミナー2005.07」
書き込み期間:2005/07/05〜2005/07/11
要旨:
孫さんがセミナーのために来日しました。孫さんは私のことを道教的だと言いました。自分でもそう思います。孫さんと共に数日を過ごしましたが、私は孫さんの行動とセミナーの流れに、とても道教的なものを感じたのです。
道教的であるとはどういうことでしょうか・・。例えば私が主宰する孫さんセミナーでは、参加者に個人の主体性を持たせていません。参加者も私も、周囲が原因の世界となって創り出される状態にしているのです。
セミナー後にディズニーランドへ連れて行ったときの孫さんも、まさに周囲から創られている状態を演じていました。孫さんの中には、主観と客観の分離がありません。だから主体的に何かを感じるのではなく、対象そのものの中に入ってしまうのです。
孫さんは私(森田)の勧めるものには全部乗ると言って、怖がっていたスペースマウンテンにも笑顔で向かっていって、乗りました。完全に私の創り出す流れに身を委ねていました。
ところで孫さんは、自分が能力を発揮するだけではなく、相手の能力を引き出すことの出来る人です。これが出来る人は少ないです。そして能力が引き出されやすいのは、自分を解放して孫さんの創り出す流れに身を委ねることの出来る人です。
自分も人も乗れるのが、道教的ということだと思います。

道教的と感じたエピソードはまだあります。誘導瞑想中、孫さんは片手に豆を持ったままで参加者をヒーリングして回りました。普通はヒーリングに集中するために豆を置いていくでしょうが、孫さんはそうしませんでした。 最終的には誘導瞑想の時間中に豆から芽が出ることはなかったのですが、常に動きの中にある孫さんの能力を感じさせました。孫さんは瞑想とヒーリングとの間に区切りをつけてはいないのです。切れ目がなければ、成功か失敗かの区切りもつけようがありません。
参加者から磁気刻印を取るときの孫さんも、まさに動きの中にありました。なんと一個の磁気黒板に三人分の刻印を続けて取ったのです。取れるときに取るというスタンスです。瞬間に乗っているのです。
磁気刻印の出た人に話を聞くと、自分では何もしていないと言う人と、自分で出したように語る人とがいます。意外なことに、自力で出そうとしている人ほど、孫さんが一生懸命エネルギーを入れなければならず、自分の力ではないと思っている人にはほとんど力を貸す必要がありません。そして他力的な人の方が、その後も継続的に参加をしています。
道教的であることと他力的であることは、密接に結び付いているようです。
目次
○ 道教的
○ 道教的2
○ 道教的生き方3・・・私に従う孫さん(笑)
○ 道教的4・・・区切りがないこと
○ 仏教と道教・・そのフィーリングの違い
○ 道教的・・三人まとめて磁気刻印
○ 道教的は他力的
道教的

 初日に夕食を食べている時、孫さんは言いました。「森田さんは道教的です」・・と(笑)。
 はい、私は自分でもそう思っています(笑)。
 しかし孫さんは、私以上に道教的だと思います。それをディズニーランドのエピソードから書きたいと思います。
 海賊船に乗った時です。最初、船が上に登ってその後下に落下して、ドブンと落ちる場面があります。孫さんは船の一番前に乗っていました。
 登り始めた時、孫さんは座席から降りて、船の甲板の下に潜ってしまったのです。
 甲板の下に潜ったからといって、事態が解決しないことは明白です(笑)。むしろ、悪くなると思います。
 スペースマウンテンでは、最初から最後まで目をつぶったままでした(笑)。目をつぶったからといって、事態が解決しないことは明白です(笑)。
 事態が解決しないどころか、事態から逃げているとさえ、思います。
 ですが、イッツァ・スモールワールドのことを話すと、孫さんのことを少しは理解できると思います。
 船が動き出すと、多くのキャラクター達が踊っているのが見えてきます。
 その一つ一つ(ひとりひとり)に手を振り始めたのです。


 そして人形の動きが単調であることに気づくと、孫さんは同じ踊りを始めたのです(笑)。


 これのどこが道教的ですって?(笑)
 私達の多くは、主観世界と客観世界を持っています。その二つは分離しているのが普通だと思います。
 分離しているとは、「楽しい」、「悲しい」を、主観的なものとして感じることです。
「当たり前でしょう・・それのどこが変なのですか?」という反論も来そうです。
 別に反論する気はありません。ただ「主観的なものとして感じる」・・という表現は、客体と自分が分離しているということを意味すると思います。
 孫さんはおそらく、主観的なものとして感じていないのです。
 花を美しいと思えば、孫さんは花の中に入ってしまうのです。「自己」が感じているわけではないのです。
 流れに乗ったとき、孫さんは自分の目で判断して、危険を回避するようなことは得意ではないのです。
 だから甲板の下に隠れ、目をつぶり、人形に手を振り、人形と一緒に踊れるのです。

   ところで私が私を道教的だと思うのは、孫さんセミナーの流れそのものに関してです。
 別の主催者がやれば、全く違うセミナーになると思います。例えば・・
・沈教授の出番をもっと少なくして(失礼)、孫さんだけのセミナーとする
・昼休みは参加者にまかせて、個人で、ゆっくりと取らせる(あるいは自由に食べに行かせる)
・懇親会は、雑談会にする
・それ以外のことは、行わない
 以上の方法は、参加者の「自主性」あるいは「主体性」を重んじています。
 しかし私の流れに、それはありません。
 自由に質問することも、自由に食べに行くことも許されません。
 ここまで人をロボットのように扱ってよいものでしょうか・・
 しかし・・参加者には「自己」など、無いのです(笑)。
 セミナーにおいて、私が参加者の「外側」であり、「原因の世界」です。
 でも私だって、参加者から創り出されています。
 ミニミニ講演会を抜け出して、中野ブロードウエイにある出来の悪い(笑)メイド喫茶に行くことは許されません。
 参加者が創り出した究極の姿を私は演じているに過ぎないのです。孫さんとて同じです。
 ディズニーランドの設計者は、海賊船の甲板の下に潜り込む客がいたら、感動しないでしょうか・・・。
 イッツァ・スモールワールドで人形に手を振り、人形と同じ踊りをする客がいたら、感動しないでしょうか・・・。
 私は主催者として手抜き無しです(笑)。孫さんも客として手抜き無しです(笑)
「ああ、楽しかった」・・この言葉は、孫さんにはありません。
道教的2

 ディズニーランドの近くには沢山のホテルがありますが、そこには泊まりません。なぜかと言えば、和式の旅館に泊まりたかったからです。
 でも、私は諦めていました。ディズニーランドの近くには和式の旅館は、一軒しかなかったからです。しかも値段は10,000円・・
 通常孫さんを連れて行く所は一泊2万円以上のところが普通です。今まで孫さんを連れて行って泊まった旅館で、最低価格が12,000円でした。しかもそれは地方でした。
 今回は首都圏です。首都圏で10,000円・・二食付き・・
 カーナビから声が流れました。「目的地周辺です」
 フロントグラスの前を見ると、ボロボロの旅館が見えました。ゲッ・・
 部屋に通されると、そこは窓のない部屋でした。孫さん達は既に諦めて(笑)、ダイヤモンドゲームに興じています。
 夕食の時間が来たので、ゾロゾロと夕食の部屋に行きました。ん?なんか、ちょっと豪華・・(笑)
。  すると、あの世の住人のような無表情系美人の女中さんが、お通しを持ってきました(笑)。 
 ん? 意外と美味しいじゃん・・。
 そしてあの世の美人は、次に手ながエビのお刺身を持ってきました。
 おおお、カメラ持って来れば良かった・・。
 とにかく素晴らしくビューティフルな盛り合わせなのです。
 エビの頭と胴が切り離されて、四人ひと皿で、美しく盛られています。
 しかも、おおおお、食べると美味しい・・
 孫さんは沈教授と通訳からエビの頭をもらうと三人分を、バリバリと食べ始めました。
 その後、お豆腐料理、エビのすり身の天ぷら、鯨の肉、イカのお刺身、ホーロー焼き、大きなお椀のみそ汁(具だくさんで超美味しい)・・などなどが出てきたのです。
 あの世の美人は言いました。「この部屋の隣に、切り株のお風呂があります。良かったらどうぞ・・」
 さっそく孫さん達と見に行きました。孫さんは言いました。「これはすごいエネルギーが出ています。」
 これで宿泊費も入れて、10000円・・や、安い・・

お風呂


フロント付近で


部屋の外で


車の前で


 さて、ここまでの書き込みのどこに「道教的」なものを感じたのでしょうか・・(笑)。
 それはエビの頭を食べる部分です。
 日本式料理の最初に出たメニューをバリバリとお腹一杯食べることは、致命的です(笑)。
 日本式料理は後からどんどん出ることは、孫さんも知っています。なのに孫さんは、人の分まで食べてしまったのです。
 あの有名な「肉まん八個事件」を思わせます。
 あれを『不思議の友』に書いたとき、「孫さんの内面が見えるような事件でしたね。これで孫さんの素性がすべて分かりました。孫さんは周りの人のことなどどうでも良いのです。エゴに満ちた人です。そのうち超能力も無くなるでしょう・・」という感想文を送ってきた人がいました。
 しかしその人の意に反して、孫さんの超能力は増え続けています(その後、念写と物質化が加わりました)。
 一般的に私達は、周囲に気を遣うように教育されています。しかしどんなに気を遣っても、豆とコミュケーションすることは出来ません。何か、変ではないでしょうか?
 バスは何度も停車します。もしも肉まんが食べたければ、自分で走って買ってくれば良いのです。
 エゴだと指摘する生き方のほうが、よほどエゴだと思います。周囲に気を遣って生きるのは、その本人にとって、何かが欲しいからではないでしょうか?
道教的生き方3・・・私に従う孫さん(笑)



 これはスペースマウンテンに向かうときの写真です。笑顔です(笑)。
「ジェットコースター系は絶対に乗らない」と言っていた孫さんが・・です(笑)。
 なぜ乗る羽目になったかと言えば、「森田さんが勧めるものは全部乗る」というスタンスが優先されたからです。
 そのために、海賊船では甲板の下に潜り(笑)、スペースマウンテンでは終始目を閉じたままでした(笑)。

 さて、セミナーでは私の指示が最優先されます。1分でも持ち時間が過ぎると、私から注意されます。
 私も講演会の講師などをしますが、主催者からここまでされたら、頭に来るかも知れません(笑)。
 しかし孫さん達にそれが無いのは、私も孫さんも道教的生き方だからだと思っています。
 セミナーとか懇親会とかりんごと話そうの会を通じて、私から何度か注意された人がいました。その人は道教系の修行を何年もやり、認定のようなものをもらったと言っていました。
(石井先生の話で盛り上がっているとき、私だって同じような治療はできると周りの人に言っていました。)
 しかし私には、その人が道教的生き方をしているとは感じられませんでした。
 なぜなら、その人が作るスケジュールに、私は乗りたくないと思うからです。
 その人はいつも「個」を自慢し、自分の「個」を他と差別化しようとしていました。それは、とても疲れそうです。
「この人のスケジュールなら、手放しで乗ってもいい」・・孫さんからこう思われる私は大変に光栄です(笑)。
 道教的生き方とは何かという問いをしたとき、アバウトに生きれば良いと思う人は多いはずです。
 ですが孫さんは、喋る内容を全て文章化しています(笑)。それを棒読みするのが道教的かと訊かれれば、そうだと答えるしかありません。
 だってセミナーで午前の講義は、彼女の得意分野ではないからです。
 中級で言えば、その本領は、最後の瞑想タイムに集約されます。そのとき彼女は、「今自分はこれで良いか?」などという疑問は、一切無くなります。
 磁気黒板にだけ焦点が当たります。

 自分の能力を自慢する人(自己完結系気功師等)は沢山います。でも磁気黒板に刻印させることが出来る人は、本当に少ないはずです。なぜならそれは、相手の能力を引き出すことにあるからです。
 能力が引き出されることはどういうことかと言えば、「引き出されるべき能力」が「引き出されてもいい」と了承することだと思います。
 参加者の中でうまくいく人は、次のような思える人だと思います。
「孫さんに乗っていけば大丈夫だ。何を引き出されてもOKだ。どんどんやってくれ、私は私を解放するから」・・と。
 それは孫さんが、道教的だからだと思います。
「道教的」とは自分だけが乗るものではなく、人も乗れるものだからです。
 だから「道教的」というキーワードは「リーダーシップ」を超えたものだと思います。
「道教的」を理解することは、会社組織の経営、家庭生活、友人関係、一人の生活、それら全てに影響を及ぼすものだと思います。
道教的4・・・区切りがないこと

 前回の蘇生編の時、孫さんは豆から芽を出しました。誘導瞑想中に出したのです。
 だから、今回も狙っていたのではないかと思います。
 でもいかんせん、一人で瞑想している時間はゼロです。孫さんは常に喋っています。
 しかし今回は、誘導瞑想中に芽が出ることはありませんでした。
 そして、参加者をヒーリングする時がやってきました。
 その時、孫さんは、豆を持ったままヒーリングを始めたのです。
 片手がグーの状態ですから、グーとパーの手で、ヒーリングします。
 そして参加者の持っていると豆とコップに入った豆までヒーリング始めました。
「おお、道教的だ」・・私はそう思いました。
 道教的・・それは「動きの中にある」というのが私の感触です。
 セミナーに出席し、沈教授のビデオを見た人ならマレーシアでの蘇生風景を見ていると思います。あれはほとんどダンスでした。
 しかしセミナー中はヒーリングに集中しているので、孫さんはトランス状態には入れません。だから最終的には芽が出ませんでした。
 それでもこれ(この書き込み)を伝えることには、とても意味があると思います。
 普通の人なら(たとえ能力のある気功師であっても)豆は置いていくはずです。ヒーリングに集中するのには豆は邪魔だからです。しかも名札を取ったりするので、もっと邪魔になります。
 だから名札を取り始めた時、不思議研の所員が孫さんの後ろに付いて、名札を回収する役目をしました。そこまでしても、孫さんは豆を持っていたかったのです。 
 それは孫さんにとって、ここまでが瞑想、ここからがヒーリングといった境目が無いことを意味すると思うのです。

 しかし私達は、ケジメを付けて生きています。それがまるで良いことだと言わんばかりに・・。
「ダメなことは後には引きずるな」・・こう言って人は、前を見て生きようとします。
 しかし孫さんはそうではありませんでした。
 蘇生というとんでもないテーマを与えられたとき(沈教授から)、孫さんはその後、引くことがありませんでした。その態度がマスターを呼び寄せ、蘇生に成功させます。
 もちろんヒーリング中に芽を出すことはありませんでした。しかし一瞬の何かが訪れれば、それに賭けようとしていました。
 いえ、孫さんはもっとすごい事を狙っていたような気がします。孫さんが芽を出した瞬間、その周りの参加者の豆からも芽が出る・・ということを(それは叶いませんでしたが)。
 彼女は「動き」というものに、自分の能力を乗せてしまう能力があるのです。
 以前の旅行でコンビニに立ち寄ったとき、孫さんはカキピーを買ったことがありました。その晩、それを使って芽を出しました。
 コンビニに寄った時点から、彼女の蘇生は始まっていたのです。
 ということは、どこに切れ目があるかさえ、分からないのです。
 確かに蘇生セミナーでは芽が出ませんでした。しかし道教的に言えば、それがどうしたというのでしょうか・・。
 切れ目がないのに、成功した、失敗したと言えるのでしょうか・・。
 それが言えてしまう人は、三次元の区切りに、あまりにも縛られていると思います
仏教と道教・・そのフィーリングの違い

 仏教と道教の違いを、私がどんな風に感じているかを書きたいと思います。それは自転車に喩えることが出来ます。
 自転車の「ゆっくり走る競争」で、たまに完全停止してしまう人がいます。それはバイクでも同様です。止まったままバランスを取ってしまうのです。
 これが私の中での、仏教のイメージです。
 道教はどういうイメージかといえば、自転車が単に走っている状態です。ただそれだけです。
 ところが普通の人は、自転車を止めてバランスを取ろうとします。空になろうとか、無になろうというのがこれに当たります。
 走り始めてしまえば、自分をどう見るかなど、興味はなくなると思います。
 なのにある時点、ある時点・・で区切りをつけて、自分を振り返り、評価しようとします。
 孫さんの瞑想は、無になって自己の内部に入る瞑想ではありません。常に何かを行っていないといけません。一言で言えば「動的」なのです。
 反対に仏教は「静的」だと思います。例えば、仏像には静寂な世界を感じます。
 しかし道教の寺には、酒をぶら下げたリトンビンや、オカマになった仙人などがいます(笑)。美女をはべらせて、楽しそうに宴会をしている絵などが描いてあります。

道館にあった絵


道館にあった絵


無関係の写真(笑)


道教的・・三人まとめて磁気刻印

 瞑想中にエネルギーの循環の良い人は、磁気黒板を当てると刻印されます。
 最終セッションで、孫さんは目をエネルギーモードにして、みんなの中を回ります。
 ある一角で孫さんは立ち止まりました。孫さんは、そこに座っていた三人のエネルギーを交互に見ているようでした。
 まず一人の人の頭上に磁気黒板をかざしました。それは、このHPでも書き込みをしている人でした。
 頭から黒板を離すと、孫さんは表面を確認しました。「出来た」・・という表情をしました。
 次の一瞬、こちらを見ました。講師席には未使用の磁気黒板が数枚あります。たぶんそれが積んであるのを見たのだと思います。しかし孫さんは、取りに来ませんでした。
 その時、孫さんの取った手は・・なんと、最初の人に当てた磁気黒板を、次の人に当てたのです。しかもその人の胸に当てています。
 中丹田という胸のチャクラから、エネルギーが出ていたのです。
 孫さんは磁気黒板を離すと、また「出来た」という表情をしました。
 再び講師席を見ました。でもそれは一瞬で、また同じ黒板を、なんとそのすぐ近くの人に当てました。
 合計三個の刻印が出来ました。
 磁気黒板はそんなに大きくはありません。間違えば前の人のを上書きしてしまいそうです。
 そういうリスクがありながら、孫さんは講師席に戻り、新しいのを取りに来ることをしませんでした。
 私は、道教的だと思いました・・・。
 普通なら、完全を狙うはずです。だって一個に三人の刻印なんて、失礼です(笑)。
 せっかく修練を積んできたのに、三人で一つとは・・(笑)。
 さらに、記念写真は仲良く三人で写ることになります。
 しかし孫さんのスタンスは違いました。
 磁気反応は、取れるときに、取る。手ながエビも、食べるときに、食べる(笑)。
 これらは全て、道教的だと思います。
 もしも講師席に戻っていたら、他の二人の刻印を取り損なったかも知れません。
 あのとき講師席に戻らなければ・・もしもこういう後悔があるとすれば、それは完全を狙ったからに他なりません。 


道教的は他力的





 この二人は磁気反応が出た中で、一つの共通点がありました。それは懇親会でその時の様子を喋ったとき、「私は何もしていません。孫さんが出してくれたのです」と言ったのです。それは事実と違いました。
 磁気反応の黒板を持った孫さんはその時、後ろの方にいました。ハッと気が付いたような顔をすると、風のように飛んできました。そして磁気黒板を頭にかざしました。
 孫さんは他の人にするような、エネルギーを入れるような動作は何もしませんでした。
 磁気黒板を離すと、そこには刻印が残っていました。このHPに書き込みをしている人のものでした。二人ともが、同じような状況でした。
 そう言えば前回、別のある人も似たような状況でした。始まって数分も経たないのに刻印が出来ていました。彼女は、磁気黒板を当てられていたことも定かではないようなことを言っていました。
 これらに共通することは「私の力ではない」・・という台詞です。言い換えれば「他力」です。
 しかし観察していた私が見る限り、孫さんは力を貸していません。

 ところが逆のケースもあります。孫さんが必死でエネルギーを注入して、やっと刻印できるような状況です。そういう人がスピーチすると、色々と語ります(笑)。
 2年ほど前ですが、周りに人を集めて、刻印の仕方をレクチャーした人もいました。まるで自力で出したように語っていました。
 しかし自力を唱える人は、その後何か問題を起こします(笑)。そしてセミナーに参加できなくなります(笑)。
 刻印の仕方をレクチャーした人は、問題を起こしたわけではなく、勝手に来なくなりました。たぶん次のセミナーが怖かったからではないかと推察します。
 彼はヒーラーのようでした。孫さんと磁気黒板を挟んで撮った写真を、部屋に飾ってあるかも知れません(笑)。
 こんな風に磁気黒板のセミナーは、刻印できた人が来なくなるという点では、有名です(笑)。
 ところが他力的な人は、かなりの確率で参加を続けます。
「道教的」と「他力的」は、とても似ているのではないかと思いました。
「道教的」と「他力的」な人は、懇親会にもりんごと話そうの会にも出てきます。磁気黒板が目的化されていないからだと思います。

 私がもしも、超能力を得るということに目的があって孫さんを呼んでいたらどうでしょうか・・。
 お昼のミニミニ講演会は、当然ありません。夜のりんごの会もありません。
 そして孫さんとの旅行のとき、海賊船もスペースマウンテンも無いでしょう。
 早く旅館に行って、二人で瞑想なんてしているかも知れません(笑)。
 もちろんそういう時間を持つときもあります。
 例えば孫さんに物質化が開花したときでした。それを目の当たりに体験するために、私と孫さんは瞑想しました。そして私のケースに薬が出現しました。
 自身の能力開花が目的なら、これで終わりです。ですが私はここがスタートです。
 ゴールを意識する人は、「自力」で出そうとします。だって孫さんに「他力的」に出してもらっても、それは本物のゴールではないからです。
 スタートラインに立てる人は、他力でも充分です。それで孫さんのエネルギーの通過を経験できるからです。
 でも皮肉にも、結果は逆だったのです。
 他力だと思っている人には、孫さんは何もしません。
 自力だと思っている人に、孫さんは必死でエネルギーを入れます。だってそうしないと出ないから(笑)。
 他力と道教・・密接に結び付いていると思いました。
書き込み期間:2005/07/05〜2005/07/11