もりけん語録
テーマ:「盲師派推命占術2005.11」
書き込み期間:2005/09/30/2005/11/01〜2005/11/25
要旨:
盲師派推命占術のテキストには、相性占いは載らないそうです。運命は決まっているので、相手の選択をする相性占いは無意味だというのです。私はこれを聞いて凄いと思いました。相性占いが盛んな一般の四柱推命は、やはり「意識は原因説」に基づいているのかも知れません。
ところでトラさんの運勢は、命式だけを見ればあまり良くありません。ところが、大運(10年ごとに来る自分に関する運の流れ)と流年(歴史を流れる時間)を重ね合わせると、何十年にわたって抜群に良い運命になるのです。 さらに、トラさん・ダンさんの命式に私の命式を重ね合わせると、お互いが出会うことで吉に転じる運勢であることが出ています。まるで互いに踏み台を差し出し合っているかの様な相互作用が起こっているのです。
本人の命式だけを単体で見ても、本当の運の良し悪しは判断できないのです。

盲目の人には文字が読めません。しかし、文字を使わずに伝達していったことが、革命的な的中率を誇る占術に発展した要因の一つではないかと思います。
文字によって情報が固定されないため、中間の人による斬新なアイデアの入る余地が生まれ、伝える人と伝えられる人との間で問い直しの起こる場面が増えるからです。
口述の世界は、浮遊して足が地に着かない状態だと思いました。そのためか、盲師が発見した事の中には、目明きの四柱推命師には考えも付かないほど、ぶっ飛んでいるものが多いです。理屈も体系も飛び越えているような感じがするのです。
それは、理論的な整合性よりも実際に当たるかどうかを重視し、微弱なサインを拾っていったからではないかと思います。また、モノの見方の違いもあるのではないかと思います。
私達は、部分を切り出して比較したり拡大解釈するようなことを、よくやります。しかし、もともと見ることの出来ない盲師は、最初から全体を捉える見方が出来ました。
盲師派推命占術には主(自分)と賓(自分以外)の概念がありますが、主よりも賓の方に注目します。それは、自分の外側が運命を決定しているというモノの見方です。
盲目であるということは、最初から不安と不自由のどん底にあるという状態です。それ故に、100%決まっている世界に身を委ね、「私以外の全てが原因」の視点を持つに至ったのではないでしょうか・・。

ダンさんは、目明きとして盲師派推命占術を伝授された、最初の人です。
盲師派推命占術は、盲目の人にしか教えてはならないという掟があります。目明きを弟子にすることは掟を破ることになります。
しかしダンさんの命式には、盲師派推命占術を会得する運命が出ていたのです。
それを知った盲師は、命式に従いダンさんに盲師派推命占術の全てを伝授し、命式通りの寿命で息を引き取ったのでした。
そしてダンさんが受け継いだ盲師派推命占術は、ダンさんを通じて私とトラさんにも伝わり、日本でテキストが公開されようとしています。
その後の中国紀行で、ダンさんの師匠である盲師の墓を訪れました。墓標も名もない墓でした。そこで私達はスタートラインに立ったのを感じました。
盲師は、こうなることを全て知っていたのでしょうか・・。盲師派を伝え残してこの世を去った彼は、世界を変えるきっかけになるかも知れません
目次
○ 「結婚の相手を選択するのは無意味です」
○ 盲師はダンさんの命式に自分が掟を破ることが出ていたのを知って何て思ったか・・
○ 命式だけでは、一次元足りない
○ 盲師派推命占術は浮遊したネットワークの産物
○ 削ぎ落とすだけでは、事は済みません
○ 盲師が発見したことは、ぶっ飛んでいることが多い
○ 「踏み台の交互差し出し合い関係」と「意図」
○ 「モノの見方」と盲師派推命占術
○ 盲師は、全体を見た
○ 主と賓は、世界の見方を大きく変える
○ 美人になることも決まっていた(笑)、でも地域差も関係していた
○ 都会に出た盲師、そして名もない彼の墓
○ 「回答不能」
「結婚の相手を選択するのは無意味です」

 盲師派推命占術のテキストが次々に届いていますが、そこに四柱推命特有の「お互いの誕生日による相性占い」が見当たりません。「それはいつ届くのですか?」とトラさんに質問したら、次の返事が来ました。
「ダンさんから電話が入りました。盲師派推命占術のテキストには、結婚の相性を判断するのを書きません。盲師派の四柱推命では運命が決まっていると思っているので、結婚の相手を選択するのは無意味です。誰と結婚するのも縁のことです。」
 ほえ〜
 言われてみればそうです。誰かとの相性を占っても、その人と一緒になるかどうかというのは、選択の余地が無いのです。
 一般の人はこの点をずいぶんと誤解していると思います。占うことで選択の余地は広がるのだ・・と。
 なぜなら日本の四柱推命のサイトなどでは、お互いの生年月日を入れて占う「相性占い」が盛んだからです。
 ところで盲師派推命占術テキストの後半は、恋愛・結婚の説明で占められます。
 結婚できない命式集・・婚姻が良くない命式集・・再婚する命式集・・(笑)
 婚姻が良くない命式の例の中に、ダイアナが載っていました。  
 個人の恋愛運は載っているのに、二人の相性判断は載らないのです。
 それはたぶん、誰と結婚するかは決まっているし、誰と結婚しても個人の運命は変わらないのだと思います。
 私は盲師派が「無意味です」とまで言い切ったのは、さすがだと思いました。引いていないと思いました。
 日本の四柱推命は何を考えているのでしょうか・・やはり「意識は原因説」なのでしょうか・・。
盲師はダンさんの命式に自分が掟を破ることが出ていたのを知って何て思ったか・・

 今回の中国紀行では、知人をサンプルとして、何人かの命式についてダンさんの判断を聞きました。判断の仕方を私が勉強するためです。その時聞いただけではサッパリ分からないので、ビデオに撮り、それを再生して勉強しました。
 そして今日、ダンさんの命式をダンさんが説明してくれるところを見ました。凄いことを喋っていました。
 自分が盲師派推命占術に会うべきことは、命式に出ていたのです。「目が見えない先生から、すぐれた思想を教わる」・・と。 
 ダンさんは盲師に出会ったとき、その近くに泊まり込んで何日も通いました。「盲師派推命占術を私に伝授してくれ」・・と。
 しかし盲師は断ります。「目明きには教えてはいけない掟がある」・・と。
 でも数日後に弟子入りを許されます。おそらく目明きでは最初の弟子だったと思います。
 で・・なぜ盲師は折れたのか・・
 その理由の一つが、ダンさんの命式を計算したときではないかと思います。
「うう・・こいつは盲師派推命占術を会得することが命式に出ておる・・。しかも教える相手は、このわしじゃ・・」
 でもこれを知った時、盲師はどう思ったでしょうか・・。
 掟は最優先されるでしょうか・・それとも命式が最優先されるでしょうか・・。
 訪ねてきた人の命式には、盲師派推命占術をゲットすることが出ています。もしも盲師が断れば、彼は命式通りに生きることが出来ません。しかし掟を破るという「悪事」をしなければなりません。
 サンプルの中に、将来離婚するという人のがありました。私は訊きました。「どっちが悪くて離婚するのでしょうか?」
 トラさんが答えました。「どっちが悪いということはないでしょう・・・。運命でそうなっているのです。」
 ダンさんは弟子にされるまで何度も通い、自分の考えなどを述べたとテキストには書いてありますが、それは単なる「入学儀式」みたいなものだったかも知れません。
 ダンさんが盲師の前に現れたとき、盲師は「とうとう来たか・・」と細く微笑んだような気がします。
 なぜなら、ダンさんが説明してくれたことは、盲師から教わった手法だと思うからです。
 盲師はある日、ダンさんに言ったはずです。「お前が来ることは分かっていたのだよ。命式のここがな、盲目を表し、ここがその思想を表し・・・。」
 そしてダンさんに全て伝え終わると、命式通りに死んでいったのです。
命式だけでは、一次元足りない

 今日はトラさんの命式の話です。
 トラさんの命式は、ちょっと見、あまり良くありません。財が墓に入っているからです。
 ダンさんが説明を始めましたが、トラさんの命式については悪い事ばかり言いました。
 私は少し唖然としました。「えっ、トラさんの命式って、良くなかったの」・・と呟きました。
 ところで命式というのは、生まれた日で決まりです。一生涯、その命式は変化することはありません。だからトラさんの命式があまり良くないと言われているとき、私は死ぬまでそれが続くと思いました。
 ダンさんは大運と流年(るねん)の説明を始めました。
 大運とは10年ごとに来る自分に関する運の流れです。十干と十二支で表現されます。流年とは歴史を流れる時間です。例えば今年は酉年です。そして大運と流年を命式上に重ね合わせていきます。
 するとどうでしょうか・・トラさんの場合、何十年もの間、墓が壊されるのです。
 これはどういうことを意味するでしょうか・・
 盲師派推命占術では、「制御されている方が吉」です。墓は制御を意味します。しかし墓から出ないと活躍できません。トラさんのはまさに、バッチリ制御されて、しかも墓から解放されるという運命なのです。
 命式が三次元だとすれば、大運や流年はもうひとつの次元(四次元)です。
 四次元まで加えたとき、トラさんの命式は抜群の命式に変わったのです。
 うーん・・すごいと思いました。
 逆のケースもあります。それはテキストに書いてあります。命式が抜群に良いのに、年の巡り合わせが悪いケースです。天才の命式なのに、凡人で終わります。
 命式というのは、オーケストラの演奏者のようなものです。誕生日に結成されますが、前に立つ指揮者によって演奏する音楽さえ違います。指揮者は演奏が始まると、各演奏家に指示を出します。ここでバイオリンが入り、そこでシンバルが打たれる・とか。
 トラさんの場合、オーケストラは普通でした(笑)。しかし指揮棒を持って立ったのは、超天才指揮者だったのです。
 一般的には下の図のようなイメージです。命式は大運と流年で、変化するイメージです。(この図はトラさんの命式とは関係ありません)


盲師派推命占術は浮遊したネットワークの産物

 ダンさんは、目明きとして盲師派推命占術に触れた、世界で最初の人間です。そしてそれをテキストに書きました。その中で、特徴的だと思われる部分を抜粋します。

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第二節 盲師派の運命判断法の特徴

盲師派の体系では運命判断が人生を述べるのです。それでは運命判断は何を通して人生を述べるのでしょうか。この点を理解するのは盲目の師匠が人生を述べる道具を知らなければなりません。盲師派の運命判断法はみな口伝です。文字として世間に少しも残っていません。ですから、以前になかった概念を作って始めてこの体系を理解できるようになります。
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 今日のテーマは、これです。文字と口伝の違いです。
 ダンさんが書いているように、盲師派には文字が存在しませんでした。しかし文字がなかったことが、革命的に当たる占いに昇華した原因の一つなのではないかと思います。ですからまず「文字」を考えてみます。
 文字は固定させます。本人が死んだ後でもずっと残ります。
 過去に偉い占い師が出て、それを本に書きました。それが「目明きの四柱推命」でした(笑)。その本が一度世間に認められれば、判断の基本形として定着します。
 でもいつか若者が出て、微弱な問いを発します。「この方法よりも私の方法が良いのではないか。」
 でもそれを話しても、世間は取り合ってくれません。力がある人なら自力で本を出せますが、田舎の若者にはそれは無理です。そして斬新的な方法は捨てられます。
 目明きの師匠は弟子に、高名な人の本を差し出すだけだったかも知れません。問い返すことをせずに・・。
 でも文字がなければどうでしょうか・・。
 喋ることなら誰だって出来ます。本を書く金がない人でも喋ることは出来ます。
 すると、過去から言い伝えられたことと、若者が言ったことは、同格になる可能性が大きいです。
 さらに・・・人から人に言い伝えられていく段階で、中間の人の「斬新なアイディア」がどんどん入る可能性があります。
 しかし有名な人の本が手元にあれば、問い返す若者は少ないはずです。
 でも口述で伝えられたことは、また人に伝えるとき、問い返す人がいるはずです。だって完全に理解して自分のものにしなければ、それを人に教えることは難しいからです。
 こうして考えると、盲師派推命占術は一人の盲師だけが作ったものではないと思います。「盲師ネットワーク」が盲師派推命占術を作ったのです。

 さて、このHPはどうでしょうか・・。確かに書き込みには、文字を使います。しかしどんどんスクロールして下に流れていきます。
 他のHPでは一週間に一度、ホストが何かを書いてアップして終わりです。
 この差が、目明きと盲師の違いに近いと思いました。
 ここは文字を使いますが、すぐにレスが入ります。
 私は次の書き込みを準備するのは、アップする時間である23時に、できるだけ近い時間に行います。なぜなら、書きたい事がレスで変わるからです。
 私は浮遊感を大事にします(メインメモリに漂うとも言います(笑))。
 そして盲師だって浮遊していたはずです。文字すら無いからです。人は浮遊したとき、問いを問い直すと思います。
 足が地に着かない状態・・それが口述の世界だと思いました。
削ぎ落とすだけでは、事は済みません

 まずは盲師派推命占術のテキストの抜粋です。

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伝統的な四柱推命では神殺(しんさつ)という手法が主なもので、種類も非常に多かったのです。天乙貴人とか、天徳貴人とか、月徳とか、陰陽差錯とか、亡神とか、少なくとも三十種類以上ありますが、実は実際にはあまり当たりません。盲師派に神殺といえば、よく当たる物をだけを使って、五つしかありません。その五つとは・・
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 こういう記述がテキストには、他にも沢山あります。つまり余計なものを削ぎ落としていったのが、盲師派推命占術と言えると思います。
 実際、テキストには「盲師派推命占術は今世間に流行っている四柱推命より簡単である」と書いてあります。
 最初の抜粋に戻れば、30以上あったものが5つに減っています。83%もの要素が削ぎ落とされたのです。半分以上がバッサリ切られたのです。
 しかし盲師派推命占術が始まった当初、おそらくそれは30以上あったと思います。でも口述なので、喋るだけでも面倒です(笑)。弟子に伝えるとき、やはり当たる部分から順に教えていくはずです。
 そして半分くらい喋ったところで「これから以後を教えても、大した役には立たないな」と思い、「一休みしてから続きを教えよう」などと言い、弟子とお茶を飲んでしばらく休みます(笑)。
 そして休んだ後は、次に当たる部分(大きな章)から喋り始めます。
 こうしてバッサリ削ぎ落とされました・・・。
 しかし書物は蓄積が可能です。とりあえず全部書いておこうとします。でも本には「これはあまり当たらないからね」などと但し書きは書きません。カッコ悪いからです(笑)。
 つまり情報の優劣(当たる要素か当たらない要素か)が記述されないまま広がりました。
 こうして目明きは、30個以上を全て覚えなければなりませんでした。
 しかも世の中には次の「法則」があります。「多く知っている奴の方がエライ」
 こうして知識の豊富な人の周りに、弟子が集まるようになりました。
 これと同じ事は、私達の世界にもあります。人生をカルマで解釈する人は、何も解釈しない人よりもエラそうです(笑)。
 何も解釈しない人は、その部分の解釈に何の言葉も持ちません。だから言葉巧みに答えを喋る人に、人は集まります。
 
 今日夕食の時、私は妻に言いました。「僕がいま履修しているネットワーク社会論の課題が、過疎地でブロードバンドを引く方法なんだけど、それがまだ浮かばない。」
 すると妻は言いました。「その問題って二三日前からずっと言っていることよねぇ。そうやって結論を出さないまま持ちこたえることが、よく出来るわね(笑)。」
 普通なら早いとこ、白黒つけてしまうというのです。
 でも、盲師は捨てた25個を完全に捨てているでしょうか・・そうは思いません。
 なぜならお客の中には「目明きの××先生は、もっと難しい単語を使って説明していたよ。例えば天乙貴人とか、天徳貴人とか、月徳とか、陰陽差錯とか、亡神とか言っていたなぁ」と言う人もいたはずです(笑)。
 盲師は、もちろんぐらついたと思います(笑)。で・・、盲師も問題意識としては、取り入れたはずです。でも結論を出さずに、浮遊させ続けたと思います。
 人生は確かに、カルマで決定されているかも知れません。しかしカルマでは無いという解釈も可能です。
 だとしたら、私達は着地してはいけないのです。
 おそらく盲師は、取り上げた5個についてさえ、確実性をもって見てはいないと思います。
 事は、削ぎ落とすだけでは済みません。しかし世の中は、削ぎ落とすことすら出来ないことが多いのです。
盲師が発見したことは、ぶっ飛んでいることが多い

 まずはテキストの抜粋です
「古来よりの四柱推命には××という説はありません。それは盲師派にしかありません。××は二つの地支で成立して全部で二組あります。」
 これだけです(笑)。「××」は、テキストで読んで下さい。こういうのがほんの幾つか出てきます。
 しかし、これを知っているかどうかで、当たる確率に天地の差が出ます。
師派推命占術のエキスは、ここにあると言っても過言ではありません。
 盲師は、不要なものだけを捨てていたわけではないのです。しかし目明きの四柱推命師には、考えも付きませんでした。その理由を、次に考察しました。
 盲師が発見したことを覚えるのはとても易しいです。だってほんの少しだからです。でもとても難しいです。なぜ難しいかといえば、「飛んでいる」からです(笑)。
 それはどういうことでしょうか・・。
 四柱推命の「体系」には、やはり「体系」を感じるのです(笑)。結構「理屈的」なのです。例えば五行の説明で、水が木を生じるようにです。金が木を剋するようにです。
 理屈で説明できそうなのが、従来の四柱推命の体系です。
 しかし盲師が発見したことは、私に言わせれば「飛んでいる」のです(笑)。
 映画『コンタクト』を観た人はいると思います。宇宙人から送られた設計図のそれぞれのピースが、どうしてもはまりません。それは二次元に書かれた設計図ではなく、三次元を使って書いたものだったのです。
 盲師が発見した要素には、そういうものを感じるのです。
 でも私達には『コンタクト』のように、ピースをはめることが出来ません。だから丸暗記するしかありません。
 でも安心して下さい。盲師が発見したエキスはほんの少しです(笑)。それを丸暗記するだけです。それを知れば、当たる確率を随分と上げることができるのです。

 さて、盲師がなぜこれを発見できたのか、それが不思議です。
 相冲や相合や墓・・そういった概念からぶっ飛んでいます。何故その十二支が二つ揃うだけで命式が制御されてしまうのか、理屈は全く分かりません。
 しかし盲師は思いました。「貧乏人で終わるはずだった彼がなぜ富豪になったのか・・やはりあの二つの十二支か・・。そう言えば、あの十二支は昔から盲師の間で噂となっていたなぁ。ひとつ、それを拾ってみるか。整合性が付かないけど・・。」
 盲師は、非常に微弱なサインを拾ったのだと思います。
 それは従来の「体系」とは合わなくてもいい・・。とにかく当たるかどうかが重要だ・・こう思ったと思います。
 テキストの中に「この説は盲師派にしかありません」という文字が出てくるたびに、何か感動します。それがぶっ飛んでいたりすると、「盲師は別の次元が見えていたのではないか」・・などと想像します。
「踏み台の交互差し出し合い関係」と「意図」

 今日は少し、盲師派推命占術そのものからは外れます。
 トラさんのダンさんの命式については、数日前に少しばかりの解説を入れました。
 トラさんは大運と流年が重ね合わされることで、抜群の運命になるということ・・。
 ダンさんは盲師に出会い、新しい思想を得ることが、命式そのものにも出ていたということ・・。
 ところでトラさんとダンさんの命式に、私の命式を重ね合わせるとどうでしょうか・・。
「踏み台の交互差し出し合い状況」が出ていたのです(笑)。
 トラさんの命式は大運と流年によって墓が解けることで大吉に転じますが、その時期は私との出会いとほぼ同じなのです。
 ところでダンさんは、来年から世に出ることが、命式と大運の組み合わせに出ています。それはおそらく、ダンさんの書いた盲師派推命占術のテキストが日本で出るからだと思います。 
 そして私の運はどうでしょうか・・。盲師派推命占術によれば、トラさんとダンさんに会うとき、私の運も新しい運(吉に転じる運)に突入するしたことが出ていたのです。
 2001年に私が株で大儲けすることも命式には出ています。
 でもその翌年は、トラさんの運がさらに開けることが、トラさんの命式には出ているのです。六爻占術のテキストが日本で発売になったことです。
 各自の命式を見る限り、運は自分に閉じているように感じますが、三人のを合わせるとお互いが影響を及ぼし合っているのです。
 トラさんとダンさんが私に対して踏み台を用意し、それに登り、私は一歩踏み出します。今度は私がそれよりも高い踏み台を用意して、トラさんとダンさんの前に差し出します。そして彼らがさらに一歩踏み出します。何だか、こういう感じなのです。
 運の良い人の近くにいると自分も運が良くなります、だからできるだけ運の良い人と付き合いましょう・・と言う人がいます。もしもこの考え方でいったとき、私とトラさんとダンさんは、こういう運の上がり方をしたでしょうか?
 孫さんは自分の誕生時間を知りません。だから命式を作ることが出来ないのですが、おそらく私との縁ではやはり、「踏み台の交互差し出し合い」が発生していると思います。
 運の良い人の近くにいろというのは、HPをロムするようなものだと思います。おそらく「踏み台の交互差し出し合い」は発生しないと思います。
 そういう人は、相手に差し出されることを期待するのです。で、運が上がらないと「あの人は大したことない」などと言います(笑)。
 
 盲師派推命占術のテキストの値段を幾らにするかで、ダンさんがコインを振りました。金額を変えて何度も振りました。
 その時、判断のキーになったのは、お互いの財運が上がることではなく、卦が六合卦になったことでした。共同作業ということにキーを置いたのです。
 コインを振るということは、未来を知り、未来を変更できるということです。でも三人がやったのは、縁を重視しようということでした。それは時空が仕組んだ縁を肯定しようとするものです。
 六合卦というのは、世爻と応爻も相合します。世爻はダンさんトラさん私とすれば、応爻はテキストを買った人です。その人達とも相合関係に入ろうという意味です。
 盲師派でも、踏み台をお互いに差し出し合うというのは、ずっと行われてきたことだと思います。
 そして命式を見て驚くのは、日本で生まれた私と、中国の山西省で生まれたトラさんダンさんとは、それそれが生まれた瞬間から、お互いの出会いは決まっていたということです。そして「踏み台の交互差し出し合い状況」になるということも・・です。
 運を求める人は、今後も運の良い人の近くに行きますか?そしてその考え方を支持しますか?そんなの何か、下心見え見えじゃないですか・・(笑)。
 そういう人は意外に嫉妬が多いから、最後に相手の踏み台を外してくるかも知れません(笑)。
 トラさんとダンさんはこれから30年にも渡り、良い運が続きます。もしかすると私の縁も続くのかも知れません。
 そして今年会った面相占術師は、私を指して「生涯の友に会った」と言いました。
 私は彼の命式を知りません。しかし彼は面相から私の縁を読んだはずです。
 一体これからどんな運が待っているのでしょうか・・。
 
「運の良い人の近くに行こう」なんて、私にはとてもつまらなそうに感じます。だって最初トラさんとダンさんに会ったとき、私は怖くてドアを閉めてしまったからです(笑)。
 やはり意図がないとき、踏み台関係が生じるのだと思いました。
 そして私が中国で会った盲目の占い師にも、意図がとても少ないように感じました。
 彼らは自分を防備することは出来ません。日本人に初めて会うという人も多かったです。私がトンカチを持っているとも限りません(笑)。座頭市ならいざ知らず、彼らは無防備でした。
 彼らは受け身で生きるしかないように見えました。人生のことを聞きに来たお客に答えるのみでした。しかも来る人は、大概運の悪い人です(笑)。
 私が黙って座ったら、私の座った方向をトラさんに伝えた盲師がいました。トラさんが伝えた私の誕生日から、その日に自分のところに来て、どの方向に座るということも、決まっていたからです。
 占いが終わり、トラさん達は車に戻りました。私はセブンスターをあげながら、彼の手を握りました。すると彼が中国語で何かを言いながら私の手を離しませんでした。
 その時初めて意図のようなものを感じました(笑)。また来ておくれよ・・というようなことを言っていたからです(もちろんこれが意図そのものに当たるとは思えませんが・・)。
「モノの見方」と盲師派推命占術

 今日のテキスト抜粋はとても長いです。覚悟して読んで下さい(笑)。

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第六章 盲師派の四柱推命の体系について
 
第一節 盲師派の四柱推命と伝統的な四柱推命との区別
 
 中国ではずっと昔から伝統派と盲師派との四柱推命術が並存してきました。伝統派は主に用神と格局(命式のルール分類)、その基本的な考えは日主(六爻占術で言うところの世爻。六爻占術を知らない人は「自分自身」だと思って下さい)のバランスを把握して用神と忌神を見つけます。つまり日主の盛衰を非常に重要な地位につけたのです。
 そうすると、四柱推命中に多くのものを漏らしたのです。たとえば、「象」というものです。伝統派の四柱推命法では細かくて具体的なことを命式から判断するのが難しいです。
 これは伝統派の四柱推命法がまったく間違っているというわけではありません。部分的に運命を指摘することもできます。が、運命の解釈に一番正しい方法ではありません。
 私自身の経歴から見れば深い感想があります。
 もともと私も伝統派の四柱推命法を習いました。同時に古代から残されたすべての四柱推命に関する本も読みました。しかし、実際に他人の運命を判断した時、いつも盲目の師匠に負けたのです。
 彼は相談者を驚かせるほど運命を細かく判断できます。しかし、そういうふうに判断した根拠、理由はそのときの私は命式からどうしても見つけることができませんでした。盲師の師匠に教わってから初めてその原因がわかったのです。
 以前に習った四柱推命法はとても皮相的なもので、体系も間違って、もともとの方法を更新しなければなりません。
 盲師派の四柱推命法は伝統的なものと違って、日主の盛衰や用神などを捨てて格局もほとんど使いません。もちろん捨てるといえば適当ではないかもしれません。盲師派の体系に日主の盛衰や用神の概念などはありません。これがこの体系の著しい特徴です。
 それでは日主の盛衰や用神を見なくても運命を判断できるか、これが四柱推命の本質に触れる問題です。四柱推命の本質とは何でしょうか。四柱推命の本質は人生を述べることにあります。
 四柱推命は人生の道理と同じで、人生の縮図と再現です。日主の盛衰はすべてのものを説明できないし、命式の持ち主の能力の強さ、体の状況を表すこともできません。命式の持ち主の運命ルールを解釈することもできません。実際の人生の指導に何の役にも立ちません。
 単に命式から用神や忌神を見つけるのは四柱推命に対する理解を教条化にならせてしまって、豊富多彩の運命を把握するチャンスをなくしたのです。人生は複雑で変化しているのです。
 決まった用神で運命を判断する方法は頼りものになれません。盲師派の運命判断法を理解するのは次に少しずつ紹介させてもらいます。
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 抜粋は以上です。
 
 前回までは「盲師は多くを捨て、ほんの少しのことを付け加えました」ということを書きました。しかしそれだけで、革命的な占いに転じるでしょうか?
 ダンさんは、古代から残された全ての四柱推命に関する本を読んだそうです。しかし盲師の判断を理解することが出来なかったのです。普通、こんなことがあるのでしょうか?
 中国四千年の目明きの情報では、全く太刀打ち出来なかったのです。
 盲師派と目明き派は使う命式が違うのでしょうか・・同じです。使う陰陽五行が違うのでしょうか・・同じです。
 盲師派と目明き派は全く同じ道具を使っています。なのに盲師派推命占術は、ダンさんさえ理解できないくらの「違い」を発生させたのでしょうか・・。それは「モノの見方」なのです。
 再びカルマ論を出します(笑)。カルマ論で考えれば、今の私達がこの私達で存在しているのは、過去が原因です。
 子供の病気や災難まで「親のあんたのカルマだよ」と言い出す奴もいます。しかしそれで説明する気になれば、出来てしまうのです。
 そういうことを信じる人は、未来を良くしたければ、今の行いを良くするしか方法はありません。これも一つの「モノの見方」なのです。
 しかしカルマ派が「私は結果説」を取り入れることは、とても難しいです。しかも「私は結果説」そのものがまだ世に出ていなかったどうでしょうか・・。思考の逆転は、ほぼ不可能ですね・・。盲師派は、それをやったのです。

 ところでこのHPでは、「モノの見方」ということが、一つの追究するテーマのようになっています。私の講演会でも、「モノの見方」を逆転するというのをやります。
 それがいかに重要かは、盲師派推命占術に対するダンさんの見解を見れば明らかです。
 全く同じ素材であっても、見方を変えると、真実に接近出来るのです。
「素」でやる講演会と「演出」でやる講演会は、どちらが「モノの見方」に変化を与えるでしょうか?
 男だけでいるのと、女装して街に出るのと、どちらが「モノの見方」に変化を与えるでしょうか?
 自分は完全であると思ってみることと思ってみないことと、どちらが「モノの見方」に変化を与えるでしょうか?
 こののち説明していきますが、目明きと盲師は、モノの見方が180度違っていたのです。
 それにしてもダンさん、従来の四柱推命を「命式の持ち主の運命ルールを解釈することもできません。実際の人生の指導に何の役にも立ちません」と言い切ることの凄さ・・。自分が長いことかけて追究してきた事なのに・・(笑)。
盲師は、全体を見た

 まずはテキストの抜粋です。

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 盲師派の体系はなぜ伝統的な用神を使う理論を捨てるのか、それは、用神が盲師派の四柱推命にあまり確定できないものだからです。いや正確に言えば盲師派の四柱推命法には用神という概念はありません。ですから、用神が何か、それを定義する必要はありません。
 たとえで理屈を述べさせてもらいましょう。
 たとえば水を飲むことです。コップを持って水を飲んだら、このことが完成になります。それでは手が用神か、水が用神でしょうか。
 手と水は相剋のものです。ですから用神を手と水のどちらに定義しても不適当です。ですから、盲師派の体系は用神や忌神などの概念を使いません。
 もし用神や忌神の概念を捨てると、かえって四柱推命に対する認識がもっと簡単になってきます。
 われわれは手でコップを持って水を飲む全部の過程を命式の効用と称します。
 この過程に参加したすべてのものを効用神と呼ぶことにします。
 手で持たれた水を制御される神と理解すればもっと適すると思います。
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 抜粋は以上です。
 最初これを読んだとき、唸りました(笑)。難解だったからです。
 用神を捨てるというのは、部分を切り出して人生を見るのではなく、全体を見ろということだと思います。
 昨日アップしたものを、再び出しましょう。

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「四柱推命の本質とは何でしょうか。四柱推命の本質は人生を述べることにあります。 
 四柱推命は人生の道理と同じで、人生の縮図と再現です。日主の盛衰はすべてのものを説明できないし、命式の持ち主の能力の強さ、体の状況を表すこともできません。命式の持ち主の運命ルールを解釈することもできません。実際の人生の指導に何の役にも立ちません。
 単に命式から用神や忌神を見つけるのは四柱推命に対する理解を教条化にならせてしまって、豊富多彩の運命を把握するチャンスをなくしたのです。人生は複雑で変化しているのです。
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   さて、全体を見るということほど、難しいことはないと思います。
 例えばある男女が付き合っていたとしましょう。彼女は彼に訊きます。「私のどこが好き?」彼は答えます。「そうだな、よく気が付くことかな・・。」
 理由は何でも良いです。とりあえず女性は頷きます。彼は自分の長所を言ってくれるからです。
 でもそのうち不安になります。「私より気が付く女性が現れたらどうしよう・・。それだけじゃなく、私がだらしない女になったらどうしよう。」
 部分を指摘したとき、その占いが外れるのは、この例を見ても分かると思います。
 部分というのは、拡大された理由付けだと思うからです。
 彼が彼女を好きなのは、もっとトータル的なことだと思います。それを問い詰めていった結果が「用神」という概念だと思います。
 盲師派推命占術では相性占いは無意味だと言います。しかし従来の四柱推命にはそれがありました。なぜなら、部分を取り出して比較することが可能だからです。
 それを比較してどうしようというのでしょうか・・。先ほどのカップルの二の舞になるだけです。
 盲師はコップの上げ下げを見ることは出来ません。最後に口に入る水だけが問題になるのだと思いました。
主と賓は、世界の見方を大きく変える

 いつものようにテキストの抜粋です。

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賓主の概念

この概念は盲師派の運命判断に特別の意義を持っています。賓主はどれが自分のものか、どれが他人のものかと教えてくれるのです。
実際にわたしたちの人生も同じです。わたしたちが、外部世界で発生したすべてのことに触れることで、わたしたちの人生と運命が構築されたのです。
賓主は次元を分ける概念です。命式には日主はわれで、ほかの干支が他人になり、われが直面する賓になります。そしてほかの干支がみな自分の特定の意味を持つようになります。
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 以上です。
 賓主の考え方というのは、六爻占術を初めとする他の占いにもあります。六爻占術では主を世爻と言い、賓を応爻と言います。
 わざわざ賓主の概念を出すのは、もちろんダンさんは言いたい事があるわけです。
 既に推測がつく方は多いと思いますが、盲師派推命占術では賓に注目します。対する目明きは、主に注目しました。賓とは自分の外側にあるものです。自分の外側のものを観察することで、自分の運命を知るのです。 
「主」に注目することは、どこかで「私は原因」に縛られているような気がします。主が生じられていれば、それで元気が出て(笑)、困難を乗り越えられるような・・(笑)。
 もちろんこんなに単純ではないにしろ、注目するのは、やはりそこに「原因」があるからだと思います。
 でも盲師は主ではなく、賓を見ました。ということは、「原因」は賓にあるということです。
 自分の運命は、自分以外のものが決定している・・100%決まっているとすれば、必然的にこうなるような気がします。

 さて、盲師がこういう考え方に至ったとき、ふっと快感のようなものが襲ってきたのではないかと思います。決まっていれば、安全だからです。
 目が見えないということは、不安のどん底だと思います。でも100%決まった世界に身を委ねられれば、安心感が覆ってきます。
 もちろん盲師派推命占術を使っても10%は外します。しかし盲師はそこに「自由」を見ようとしたのではなく、「不自由」を見て安心したのではないでしょうか・・。
 盲目は不自由です。しかし目明きとて、自分達と同じように100%決まった運命を歩んでいるとすれば・・
 自由を謳歌しているような目明きが、かえって哀れむ存在にすら見えたと思います。
 目明きは「主」にこだわりました。10%外れることですら、それを縮小しようとする気にはならなかったのではないかと思います。だから相性占いをすることが出来たのです。そこには「私は原因」の影があります。
 私は崖からジャンプするイラストを出しますが、盲師は生まれながらに、既に崖の底にいたと思います。そして崖の上で、まだまだ上によじ登ろうとする目明き達を感じたのではないでしょうか・・。相性占いなどで「選択」しながら(笑)。
美人になることも決まっていた(笑)、でも地域差も関係していた

 ダンさんは言いました。「美人かどうかは、誕生日と時間をみれば分かるんですよ」
「えー、それって遺伝子とかじゃないんですか?」
「はい、森田さんの命式によれば、これがこうして、そこがこうなって(笑)・・ほら、俳優にもなれるような外見なのですよ(もちろんお世辞です)。」(笑)
「あはは・・しかし、私と同じ日の同じ時間に生まれた人は、みんな同じ顔なのかなあ?」
「そんなことはありません。地域差があります。」
「えー、それは初めて聞く情報です。」
「例えば金運を考えた場合、命式の中には金運に対して効能を果たす五行があります。その五行の方向に生まれた人は、逆の方向の人よりもお金持ちになったりします。」
 ここでトラさんが挟みました。
「そうです。だから命式を知ることによって多少の運命改善が出来ます。つまり効能が強くなる方向に引っ越すとかすれば、運命が改善できるのです。」
 やはりそうでした。盲師派推命占術の運命改善も「空間系」で行えるのです。

   さて、話を「顔」に戻します(笑)。
 ダンさんは言いました。「先ほど判断した船井さんの命式ですが(実は船井さんの一生を調べた)、ここがああしてこうなって(笑)、頭髪に問題が出るのです。トラさんの命式を見ても同様です。地肌が表出するという情報が出ています(笑)。しかも痩せているか太っているかは、ここを見れば分かります。」(笑)
 ああああ・・。頭髪に問題がある人は、誕生日が悪かったのです(笑)。
 あぁぁぁぁぁ。ダイエット出来ない人は、誕生日が悪かったのです(笑)。
 私は興奮して、美に関する情報を色々聞き出しました。
 例えば、まん丸でチャーミングな目というのも、誕生日の情報から出てきます。
 と言うことは、面相から命式を逆算することも可能だと思いました。
 おおぉぉぉぉぉ。面相師の解明に一歩近づいた気がします。
 ニキビが出やすい顔とかも、全部誕生日から割り出せます。
 誕生日は運命だけを作り出していたわけではありません。顔を含めた、私達の肉体も作り出していたのです。ということは、私達はあらかじめ出来ていた肉体に入ったわけではないのです。肉体すら、魂が入った瞬間(誕生の瞬間)に決定されたのです。
 だから誕生日を操作すれば、顔さえ変わるのです。
 
 ところで昨日ダンさんは昼間、私のホテルにいました。ダンさんの顧客で、奥さんの出産が近い人がいました。で、いつ帝王切開で生んだらよいかダンさんに訊こうとしました。
 でもダンさんは私のために携帯を切っていて連絡が出来ませんでした。すると奥さんの陣痛が始まってしまい、命式の計算も出来ないまま、自然分娩で生まれてしまったそうです。
 ダンさんは私に言いました。「これって親の運がそのまま子供に出ちゃったね。」でもそれが悪い運とは限りません。
 トラさん、ダンさんの周辺では、本当に面白い事が起こっているのです。
 しっかり計算して生まれたダンさんの顧客達の娘は、みんな美人かも知れません(笑)。
 明日はダンさんが盲師派の師匠に会った村に出かけます。
 私は昨日買った赤いダウンジャケットを着て出かけられるのが嬉しいです(笑)。
都会に出た盲師、そして名もない彼の墓



 盲師派推命占術の師匠の村に行ってきました。そこは人里離れた村で、100人くらいしか住んでいない村でした。下の写真が師匠です。


 彼(師匠)はこの村にずっといたわけではありません。自分の師匠から盲師派推命占術を知るとすぐに旅に出ました。
 彼は都会を転々としながら占いをして、お金を得ました。そして自分の家に仕送りをしていました。
 数多くの人を占い、そのリアクションも受けました。彼の占いの精度はどんどん上がりました。
 彼はお客に会うと、驚かせるフレーズを三つ言ったそうです。あなたは何のために生まれてきたか・・などということです。精神世界の意味ではありません。
 トラさんには次のように言ったそうです。「あなたは国家や企業を直接動かす人にはなりません。しかしそういう人を手助けすることによって国家や企業に影響を及ぼします。」
 こういうフレーズを言った後、その人の人生を細かく判断したのだそうです。
 つまり最初にサマリーを言ってくれるのです。たぶん、その人にとって一番大事なことを言ったのだと思います。
 これを聞いたとき、彼は占いの技術にだけ長けていたわけではないと思いました。彼は「伝える能力」にも磨きをかけたのだと思います。
 でも、思いました。彼は盲目なのに、都会に出て行ったのです。きっと安宿に泊まったと思います。村で生活していれば毎日同じ環境なので、盲目でも生活しやすいはずです。
 しかし彼は、わざわざ危険な都会に出ました。たった一人で、孤独だったと思います。まるで修行僧です。釈迦は目が開いていました。しかし彼は盲目です。
 そして自分の死期を覚り、彼は村に戻りました。そのとき、ダンさんが現れました。
 ダンさんが来ない日が続くと、彼は電話をかけてきたと言います。「まだ教えていないことが沢山あるんだ、早く来てくれ」・・と。
 彼は盲師派推命占術がダンさんを通じて世界に広がることも知っていました。
 全て教え終わると、彼は命式通りに息を引き取りました。

   墓には、墓標すらありませんでした。私がこの日、彼の墓を訪れるのも、知っていたかも知れません。そしてこの書き込みを読んでいる人の中にも、盲師派推命占術を勉強する人が出ることも、知っていたかも知れません。
 全く名もない彼の墓・・・。しかし彼が世界を変えるきっかけになるかも知れません。
 私は手を合わせることをしませんでした。買ったばかりの赤いジャケットを着て、気持ちの良い青空の下、スタートラインに立ったと思ったからです。
 ダンさんもトラさんも、手を合わることはしませんでした。
 名もない墓は、墓であることも気づかずに通り過ぎる人がほとんどでしょう。


 盲師は、みんなの心を風のように通り過ぎた人だったのではないかと思いました。
 彼の最初のコメントは、その後に辛い判断があったとしても、それを乗り越えるのに充分だったと思います。
 盲師が写っていた写真は集合写真でした。彼だけが目をつむっています。写真はあの、たった一枚しかありませんでした。
 テキストが売り出されても、「難しい」とか「不親切だ」とか言う人が続出するかも知れません。しかし盲師の人生に比べれば、屁です。

 ところで、盲師の師匠の里の帰りに、師匠と同列の盲師派推命占術の盲師に会いました。彼は、盲師の師匠の師匠から伝授された人です。
 でも彼は、都会に出ませんでした。家の仕事を手伝いながら、副業で占いをしました。
 彼は、私の運勢について絶妙な判断をしました。
 私は次の辰年に運が落ち込みます。私は卯年戌月生まれです。ということは、辰年は相冲と相合が同時に発生するのです。
 今までその年を良いと判断する人は皆無でした(ダンさんとトラさん以外では)。私は出費を控えるところでした。
 しかし彼は、相冲と相合が同時に起こる判断としては、他の人が言わなかったことを言ったのです。
 この年は、2012年です。私はこの「矛盾」をこの年に経験するのです(五年もあるのです)。でも、その「矛盾」の解釈を聞けただけでも良かったです。六爻占術で言えば、連続相生として解釈したのです(盲師の弟子は)。
 盲目の彼から、「ビビるな」と言われたようなものです。2012年から、私は一歩も引けない人生に入るようです。
 彼の判断を聞いて、私は前傾姿勢を変える気はなくなりました。私の下位の問いでのジャンプは、この年にかかっていると言っても過言ではないと思います。
「回答不能」

 盲師派推命占術のテキストの件で、ダンさんに色々と質問をしました。目的は、コンピュータのソフトを作るためです。なので、あらゆる場合について聞いていきました。
 その中でダンさんが次のように答えたケースがありました。「それは盲師の師匠に教わった例にも、私が今まで占った例にもありません。なので答えることが出来ません。」
 えっ??だってあらゆる場合を想定していなければ、コンピュータソフトは出来ません。
 私はこの時、高校時代にタイムトリップしていました。あの時、目の前に「方程式」があり、それは宇宙の彼方まで適用されるものとして、私の前(イメージとしての目の前)に現れました。
 私は呟きました。「これを作ったのは誰なのだろうか・・交通ルールは誰かが作らなければ存在しない。だとすれば宇宙の彼方まで適用される方程式を作ったのは、神か・・。」
 万有引力の法則がありますが、あれは地球上だけでなく、アンドロメダでもプレアディスでも同じように適用されるという前提があります。
 しかし盲師派推命占術には、それが無かったのです。命式として一度も現れていないものは、それをどう扱うかというルールが無いのです。
 これを知ったとき、盲師派推命占術は一般の科学よりも科学的だと思いました。推定で物事を進めてはいけないのです。
 太陽の温度は常温だと言う人もいます。しかし一般の科学では、それをバカにします。
 でも盲師派推命占術では、それを「回答不能」としたのです。だって行ってみなければ分からないからです。
 実際に命式に出現して、それに対してある判断を下し、それが本当に当たったかを確認するまでは、「確定的ルール」とはならないのです。だから盲師派推命占術は、机上のルールではないのです。
 ダンさんが「私はこう思います」などと「持論」を言わなかったのも凄いと思いました。
 盲師派推命占術のソフトが発売され、誰かのパソコンに「計算不能です」と表示されたとき、それは盲師派推命占術においては、歴史が始まって初めて遭遇する命式になるのです(笑)。それがもしもあなたの命式だったら・・(笑)。
書き込み期間:2005/09/30/2005/11/01〜2005/11/25