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「『生まれ変わりの村@』が出来るまで」(1)

 つまり、あの世に関する情報は、世界中で皆無に等しいのではないかと思います。
(生まれ変わりの本)

 みんなあの世に行くんです。人ごとじゃあ済まされません。
(生まれ変わりの本)

 つまり「世界を変えよう」などという運動をする必要は全くないということです。世界は自動詞でしか動かないと思うからです。
(説得する必要はない)

「カルマ」とか「試練」という言葉は四億年早い・・。なぜなら「カルマ」とか「試練」という言葉は、自由を取り戻してからの話だからです。
(説得する必要はない)

 つまり今度の本は、360度の可能性を持っているのです(笑)。誰にだって聞けるし、どんな質問も出来るし、どんな答え方も出来る・・。
(360度の可能性を持った本)

 今回の本は『生まれ変わりの村』としては第一作で、それは問いかけで終わるのです。既存の常識に対してどこまで問いかけられるかが、この本を書く私の力量になります。
(360度の可能性を持った本)

 大概の人は、「人生を全うすれば良い」と思っています。これも、あの世を勝手に解釈していると思います。
(あの世は自分の思想の隠れ蓑)

 生まれ変わりの村の情報は「カルマが無い」とか言われていますが、そうとも言い切れないと思います。カルマが無いことを証明するのは非常に難しいはずです。カルマですら、間接的かも知れないからです。
(「生まれ変わりの村」の情報から出る360度の可能性)

 生まれる直前に魂が入るとは、私もビックリしたことの一つです(笑)。
(『前世を記憶する子どもたち』イアン・スティーヴンソン著・・2)

「『生まれ変わりの村@』が出来るまで」(2)

 生まれ変わりの村に向かう時は、いつも問いを考えています。どういう問いをすればもっと情報が引き出せるのか・・を。
(旅行記・・1)

 生まれ変わりの村のデータは、我々個人が死とどう対処するかという問題が一番興味あると思いますが・・だって人はみんないつかは死ぬのだし・・。
 しかし本当の問題は、生死を含めた全体のシステムだと思います。
(自殺)

 とにかく、知ることからでしか始まりません。暗い本になっても仕方はないのです。
(暗くなることへの反応)

 そうです。アメリカは、精神分析が進んでいるために、そちらの切り口から輪廻転生に迫っているのです。
(輪廻転生本の大半はアメリカのデータ・・1)

 実力が無いことは分かっています。だから数で勝負をしているのです。それは今も変わりません。
(実力の無さ)

 多くの情報を知っていると、どうなるでしょうか?あの世で、受け身にしか行動出来なかったのが、少しは変わるのではないでしょうか?
 あの世が変わるというのは、おそらく今まで一度も経験したことがなかったと思います。
(あの世が変わる?)

 人は、データになんか興味は無いのです。人は解釈に興味があるのです。
(出版社側の理)

 ところで、時空に善悪の概念が無いのは、本当にすごいことだと思います。カルマが存在しなかったというのは、本当にすごいことだと思います。
 カルマの存在を置かないで時空を考えた時、その存在の意味が、本当に分からなくなります。
(善悪の概念)

 だって全ては宇宙の始まりから決まっていれば、過去世も全て決まっています。そこで何をしようと、その人に責任はありません。
 なのでカルマという考え方は、「私は原因」から出てくると思います。
(「私は結果」とカルマ論)

「偶然」というのがキーだと思います。未来からの信号も、実は偶然性の中に潜んでいると思います。
 計画的に推し進めるあらゆる事は、過去に関係していると思います。
(偶然性)

 引き寄せる側が意識の世界だとすれば、引き寄せられる側は無意識の世界です。
 偶然とは、無意識の世界なのだと思います。それが意識を超えるものを引き出します。
(引き寄せるか引き寄せられるか)

 生まれる前に課題を決めるとか言いますが、それもなんてつまらないことだと思います。
 そういう行為はただ、限定するだけだと思います。限定されたものを超えるのは、偶然でしかないと思います。
(限定を解除するのは偶然)

 言い換えれば、法則性の中にありながら偶然に近付けているのが、生まれ変わりのシステムだと思うのです。
(乱数表・・1)

 つまり乱数表の如く生まれ変わらせるのは、人を自然のシステムとして扱おうとしているのだと思います。それが人によっては、面白くないのです。
 だから勝手な解釈をして、安心したがるのだと思います。
(乱数表・・2)

「『生まれ変わりの村@』が出来るまで」(4)

でも最後は、担当者の「イケるかも知れない」が会議に影響を与えたと思います。
(河出書房がOKしました)

 ということは、本というのは全て「意図」で書かれていたものばかりだったのです。その「意図」を出来るだけ抜いた原稿が目の前に置かれていたのです。
(「これは今までには無いパターンだ」)

 昔、万葉集が出来た頃は、作者が自筆で書き、それに表紙を付けたと思います。その全てが作家の仕事だったと思います。
 そして結構楽しいのが、後半の仕事だと思うのです。
(ブツとしての本を作る過程)

 この世は不平等です。その不平等の帳尻は、この世では合いません。
 なので「せめてあの世で帳尻を合わせたい」と思うのではないでしょうか。
(「あいつと一緒にしないでくれ」)

「『生まれ変わりの村@』が出来るまで」(5)

 そしてあらゆる解釈は、事実によってひっくり返されると思います。これは科学の基本です。
(あらゆる「解釈」は「事実」によってひっくり返される)

 宗教の入る多くの人は、死の恐怖から逃れるためだったりもします。あるいは、解脱(あの世で別の場所行く)だったりもします。
 そういうことには興味はありません。
(自己紹介が無い本)

「行ってみなければ分からない・・ということで、行ったからです」が重要です。行ってみる私に、目的はありませんでした。
(前書きの無い本)

 小学校の作文で、朝から晩まで起こった順に書いて、怒られた人はいると思います(笑)。
 今回の本がやろうとしているのは、それなのです。
(ノンフィクションであるためには)

「『生まれ変わりの村@』が出来るまで」(6)

 とにかく私は、最初は受け身的なのです。言い方を変えれば、全方向にアンテナを開いていた状態でした。
(最初は大した質問も出来なかった)

 光のシャワーやお花畑というのは、価値観が単一のような気がするのです。価値観が単一ということこそ、実は地獄だと思えるのです。
(光のシャワーもお花畑も無いあの世)

 棒で叩く管理人がいる世界こそ、癒しなのです。花など無い世界こそ、癒しなのです。
(棒で叩かれることは癒しの対極か?)

 でも考えてもみて下さい。あの世は知らない世界なのです。そこに対して、始めから計画的な質問が用意できましょうか?
 分からない世界は、問いすら分からないはずです。
(無計画に進められた調査)

 世の中の事は、起こるべくして起こっていると思います。その順序を並べ替えて起こることは、ありません。
 データとして発表するならば、起こった順も「データ」のはずです。
(それは決して「偶然」ではなかった)

 人生の窮地に陥った時、私が読むのは、この本かも知れません。だってほとんどの事例が、人生半ばで死んでいるからです(笑)。想いを達成した人など誰もいません。そして生まれ変わった人の多くは「想い」など持っていません。
(読めば読むほど癒される本)

 しかし『生まれ変わりの村@』に登場する人は、誰もそういうことは言いません。つまり「これは本当だ」とか「信じてくれ」とか「このままだと人類は危ない」とか、誰も言わないのです。淡々と、自分の体験を語るだけです。
(自己主張をしない、生まれ変わりの村の人達)

 しかし生まれ変わりの村の人達は、特異な体験をしたにも関わらず、上からものを言った風な人は誰一人いません。癒されると言った点は、ここにもあると思います。
(自己主張をしない、生まれ変わりの村の人達)

「『生まれ変わりの村@』が出来るまで」(7)

 「私は原因」の人は「世界は自分自身が創り出している」と言います。
 しかし世界を創り出せるほど、自分って大きなものでしょうか?
(「私は原因」をなぜ受け入れられたのでしょうか?)

 自分が大きくなることを欲すれば、生きることが辛くなると思います。小さくても良いのなら、ホッとします。
 少なくとも私は、自分を大きくしたいと思いません。なぜなら、自分を大きくしたって、たかが知れているからです。
(たかが知れている)

 生まれ変わりの村の人達は、こう言っては失礼かも知れませんが、凡人です。私も巻末の著者紹介では、「不思議な能力は何もなし」と書いてあります。つまり凡人です。
 凡人と凡人が出会ったのです。
(オールドタイプ)

 何が一番騙す行為かと言えば、「信じる」ということだと思います。「事実」が分かれば、「信じる」という行為は消え失せるはずです。宗教が「信じなさい」というのは「事実」が無いからです。
(「信じる」と「騙す」)

 一番多かったのは「人は何のために生きるのか、本当に分からなくなりました」というものです。つまりこれは、「生き方に対する変化はありません」に、似ているような気がしてなりません。
(読者からの手紙を読み終わって)

 それは、この本は意外にも「生(せい)」について書かれているのかも知れない・・と。
 逆に「ステージアップ派」は、「死」について書かれているのかも・・と。
 つまり、生まれ変わりの村の人は、あの世をして「生」を語ったのだ・・と。
(読者からの手紙を読み終わって)

 共通することは、「予想されたことだった」というのは一通も無いです。著者本人だってそうですから・・。
(100枚の読者ハガキを読んで)

 生まれ変わりの村の人達は、「救われたい」とか感じている様子もありません。
「信念を捨てよ」というアドバイスなど、余計なお世話というものです。
(「生まれ変わりの村の人は信念を持っている」という反論)