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「下條さん講演会2001.11」
 講演会のテーマは「変身願望」でした。神話や童話やアニメから、世の中あらゆるところに変身願望が渦巻いています。この世は「奴」の変身願望かも知れません。
(下條さんの講演会)

 フェチという言葉がありますが、それは隠れた部分に焦点を当て、それを愛することです。これはお風呂に入って別の部分の身体感覚を呼び起こすのにも似ています。
 これを聴いていて私は思いました。自己という感覚は「境界」に生じるものかも知れません。
(下條さんの講演会)

 つまり日常生活の中でも、この現象が潜在意識の下で起こっているのです。だから「好き」に理由はないそうです。突き詰めれば、たまたま起こった目の物理的現象なのです。
(下條さんの講演会)

 何度となく「自己のアイデンティティ」という単語が出ました。アイデンティティとは、いったいどこにあるのか・・・
 感情も意思も自分のものでない自己・・人を好きになったりするのも、自分の感情ではない・・
(下條さんに会った感想)

 しかしもしもそこに何らかの感情が発生したとしたら、それは両者の狭間が作り出したものなのです。したがってそれは両者の「狭間」のものなのです。
 その感情に縛られなければ、その感情は浮いたままどこかに行ってしまい、また別の感情のエネルギーになるのでしょう・・。
(下條さんに会った感想)

 講演会でも、自分という情報ほど少ないものはない・・ということが何度も出ました。
 自分は、逆さメガネの向こう側の自分にさえなれる・・
 ということは、生まれ変わりの村で自分の名前を覚えていないことと関係あると思いました。
(逆さメガネ)

 私は下條さんに自己紹介するとき「オカルト研究者です」と言いました。
 これは卑下ではありません。既に私が全開になったサインです。
 何だっていいのです。「女好きです」でも「女装好きです」でもいいんです。
(タダの講演会)
「下條さん講演会2003.11」
 でも心理学の実験において分かったことは、自分の心を知る前に、他者の心なのだそうです。
 つまり他者の心という概念が出来ないと、自分の心という概念も出来ないのだそうです。
(下條さんの講演会)

「自分の中にすべてがある」上記の実験では、順序は逆のようです。
 自分のすべてを知るには、世界全体を知る必要がありそうです。
(下條さんの講演会)

 株や為替や天気の予測などは経験則がものを言います。
 だからそれが当たったかと言って、未来方程式が関係しているとは限りません。
 しかしベイズの定理の場合は違います。経験則は何の役にも立ちません。
 そういう分野で六爻占術はやってみるべきだと思いました。
(講演会で出た問題)

 科学とは権威の世界だと思います。だから私は「何故」の方に興味があります。
 ベイズの定理が崩れる日、それは人類が初めて未来を手にする時です。確率から抜け出す日なのです。
(講演会で出た問題)

 六爻占術では、遠隔で場を取れます。「現場」に行く必要はないのです。
 私も時々書きます。「事件は現場で起こっている」・・と。
 しかし現場は時空全体かも知れません。
 本当の現場に乗り込んだとき、それは奴の居場所かも知れません・・
(現場は時空全体)
「下條さん講演会2004.11」
 ノイズが脳に出るのは、人間だけだそうです。意味不明の脳波が、まるでノイズのように出るのです。ノイズの中から、突然、「決断」を意味する脳波パルスが飛び出すそうです。
(ノイズ)

 今回の私の書き込みで(これからするのも含めて)、「決まっている」ことに焦点を当てるのではなく、「どうやって決めているか(時空が)」に焦点が当たると思うのです。
 これはとても大事な問いなのです。
(坂井さんの研究発表)

 裏切りをして相手から大金をせしめようとする人は、ほとんど前頭葉が働いていないのです。
 逆に、協調の札を出すときが多く、相手と出来れば協調関係に入りたい(実はこれがお互いに一番儲かる)人は、前頭葉がフルに活動しているのです。
(前頭葉と囚人のジレンマ)

 動物に比べて人間は残虐だと言います。古代人よりも現代人の方が残虐だとも言います。
 しかし前頭葉の発達によって淘汰されずに生き残った人類は、まだ成長過程にあるのかも知れません。前頭葉をもっと使うようになったとき、平和が訪れるかも知れません。
(前頭葉と囚人のジレンマ)

 生まれ変わりの村の人たちはどうでしょうか・・・
 彼らは死んで肉体から離れても、頭が存在するのと同じように考え、全てを記憶しています。あの世ので生活、生まれ変わるまでの事を克明にレポートしています。
(脳は不要?)

 ぶっちゃけて言えば、全く無の状態からの「引き金」となるべきパルスが発見されていないのです。
 もしもそのパルスが発見されれば、それこそが、「自由意志の引き金(パルス)」だと言えそうです。
(前頭葉のトリガーは無い)

「科学」と「不思議」は、もはやラップ寸前です。
 科学でここまで分かっていながら(分かっていないと言った方が正解)、自由意志を言い続けている人類なのです。
(前頭葉のトリガーは無い)

 欲望が少ないときは、主体的自由も少ないです。それは鬱状態と言います。欲望が増えるに従って主体的自由が増えます。欲望さえあれば、何でもデキルというわけです(笑)。
 そしてあるところで下降を始めます。それは中毒になった状態です。
(主体的自由の定義)

 欲望を持っていない人は、いないでしょう・・。それもみんな適度な範囲に入っている人ばかりだと思います。
 なのにトリガーが無いというのは、優秀なエンジンはあるのに、バッテリーが無いようなものです。
(主体的自由の定義)

 日本はどちらかと言えば、個よりも全体を重要視します。「なる」よりも「ある」を大事にします。
 個性的に生きるよりも、自然と一体になる方を重要視します。あるがままの方を大切にします。
(下條さんの考え方)

「私が彼女に抱きつく」から「私が彼女に抱きついた」を差し引いても、何も残らない・・
「私が物を盗む」から「私が物を盗んだ」を差し引いても、何も残らない・・
 人は、「通過点」に過ぎないようです・・。
(「私が手を上げる」から「私の手が上がる」の差)

 今のあなたから、あなたの身体を引いたら、ゼロなのです。自由意志や意識は存在しないのです。ゼロでないとき、それがあなたの幻想なのです。
 と言うことは、逆もゼロですよね・・行為をした後から、する前を引いても、ゼロ。
(「私が手を上げる」から「私の手が上がる」の差)

 最初の入力が脳内で発生すれば「ここが自由意志だ」と言えますが、それが無いのです。
 つまり全ての入力は外から入るのです。
(自由意志はリアルな幻想である)

 それにしても、科学のサイドから六爻占術と同じ結論が出てくるとは驚きです。
 でも科学のサイドから「運命は決まっている」ということが出るでしょうか?
 現状では、出ないような気がします。
(自由意志はリアルな幻想である)

 少しの差を、気持ち悪いと思うのが人間なのです。でも大きく掛け離れると、今度は「圏外」に入ってしまうのです。
(ファイナルファンタジーの失敗)

 親近性の逆は新奇性です。新奇性とは一言で言えば「名前が無いもの」なのです。
 定義されていないもの・・それを人は、嫌いになるどころか、排除しようとします。
 しかし、稀に新奇性を好む人がいます。自分から不安定の世界に飛び込む人です。
(新奇性と親近性)

「快」とは、それだけで完結する「報酬」のことだと・・定義されました。そういう「単独完結」するものは、人間の体では少ないそうです。
 しかも「快」は不明なのだそうです。脳内モルヒネだとか、ドーパミンなど、出ている暇はないのだそうです。なのに何故、「快」を感じるのか・・。
(快って何?)
 
「下條さん講演会2006.11」
 
 種が増えすぎたからとか、食っていけないからとか・・の理由ではないのです。前カレの子供がいると気分が悪いから、殺すのです。
 自然界は、同じ種を殺すことは、一般的なのです。
(子供「なぜ人を殺しちゃいけないの?」、母「同じ種を殺したりするのは人間だけだからよ・・」)

食べられる赤ちゃんチンパンジーはその時、何らかの快感を感じているのではないでしょうか? 同様に食べる側の大人チンパンジーも快感を感じているのではないでしょうか?
(快)

 生命体は、快感がキーとなって、行動を決めているのです(決めるのは無意識です)。理性はお手上げなのです。
(理性はお手上げ)

 本来人間は、「善」しか出来ない・・ということになります(笑)。それを「悪」と決めつけるのは、周囲なのです。
(悪は善である)

 つまり、想定できる未来に関して対処しているだけのです。しかし想定するのは「今」がしている行為です。
 ということは、人間とて全て「利今主義」で生きているというのです。
(利今主義)

 つまり「今」から見て「想定」できる未来ではなく、ほぼ正確な未来を知っているがために、未来の視点から今を見るようなことが出来るのではないかと思います。
(利今主義)

 悪は「〜してはいけない」というような言葉で書くことが出来ます。しかし善はどうでしょうか?言葉で明文化することが出来ないのです。
(悪はむき出し、善は抽象的)

 条件が整えば誰でもが犯罪者に豹変するとすれば、これは「私は原因」ではありません。「私は結果」なのです。
(いつ誰が、犯罪者になるのか)

 これを拡大解釈していけば、全ての感情は外からの産物だと言えそうです。つまり人は、外応に反応して動いているだけだ・・と。
 これをさらに拡大解釈していけば、殺人は本人の責任ではなくなります。なので、もっと深い議論が必要なのです。
(殺人を認めると、商売を失う人が多い)

 ところが私達は、毎日「自由に選択して」生きているように感じています。
 下條さんは自由意志は幻想だと言いますが、もしもこの世が幻想ならば、それが本質と言えるのかも知れません。
(「幻想があまりにも強いので、自由意志を無視することが出来ないのです」)