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「場と人間」
 場が違えば自分達も列を崩す人間なのです。
 それを出さないようにして生きただけでは、やはり偽善ではないでしょうか?
 醜いものを隠して作られた愛は、本物の愛でしょうか?
(場と人間1)

 場が違えば自分も変わる・・すなわち自分は場によって美しくも醜くもなれるということを認識することは、とても大切だと思いました。
 つまり場を高めたところで、アセンションにはならないのです。
(場と人間1)

 上の書き込みによれば、人間が素晴らしい存在になるには素晴らしい場が必要なのです。
 しかしです。そういう時に何の疑問も感じることなく、自分は素晴らしいと思える世界は、どんなものでしょうか?
(場と人間1)

「悟りとは、その時、列んでいる人も列んでいない人も、同等だと見ること」にあるような気がするのです。
 人が成長したかどうかは、列ぶ列ばないなどということでは判断できないのです。
(場と人間2)

 私達が輪廻転生をするのは、場を変えることが目的です。
 だって魂は同じなのですから、別の経験をするためには、場を変えるしかないのです。それは肉体という場も含めての話です。
(場と人間2)

 あなたが良いことをするのは、往々にして場の価値観に従っている場合が多いのです。
 それを「良いことをした」などという言い訳をしているのです。
(場と人間3)

 私達は数多くの困難を背負っています。それは他人と比べられるものではありません。あなたの苦や困難は、あなただけが分かるものです。
 しかしそこにはすごい価値があるのです。
(場と人間3)

 新しい場に入ったのに古いままの自分では、つまらなくはないですか?
 変わらない人間=素晴らしい人間という図式は、もう捨てた方が良いと思うのです。  
(場と人間4)

 主観的場は、できるだけ小さい方が良いというのが私の意見です。そうすれば、客観的場を堪能することが出来ます。
 場合に応じて良くも悪くもなったりして、いいではないでしょうか?
(場と人間4)

 趣味でやっていると手を抜いていると思うでしょうか?仕事をバカにしていると思うでしょうか?
 でも、趣味ほど強いものはありません。それを楽しむためなら、三度の飯さえ抜けます。
(場と人間5)

 人は全て同等だというものの考え方は、趣味という視点からだと分かり易くはないでしょうか・・。
 コルベ神父は趣味でパンを与えたのです。人が趣味でやっている事は、高くも低くも評価できません。
(場と人間5)

 価値というものが相対的なものだとすれば、我々は何をしても同等なのです。これ自体がすごい概念です。
 時空こそ、どこから来てどこに行こうとしているのでしょうか?
(場と人間6)

 悟りというのは、完全な人間になれなければ降りてこないと思っていました。
 しかし不完全な人間にも起こり得るのではないかと思うようになりました。
 なぜなら、完全な人間(いないと思うけど)と不完全な人間も、同等だからです。
(場と人間6)

 成長すると、人は冷静になるのでしょうか?私は冷静になった人生なんて、送りたくありません。
(「場と人間」再開のために)
「神田さんセミナー」
 陽は過去、陰は未来・・これは六爻占術の世界です。
 さて・・・、陽は破壊、陰は蘇生・・これは今日のテーマです。
(陰陽と蘇生)

 あの世の魂との会話は、陰の世界です。それを生き返らせるのは、陽の力だと思います。
 陰は、女性でもあります。蘇生する超能力者に、男性がいません。
(陰陽と蘇生)

 今まで人類の歴史は、陽を優先してきました。それが自然の破壊を生みました。
 でも陰に切り替わったら、どうでしょうか・・蘇生が始まると思いませんか?
(陰陽と蘇生)

 ところが女装すると、どうでしょうか・・私は問いの中に放り込まれるのです。
 なぜ私は女装するのか・・なぜ私は男に生まれたのか・・なぜ世界は陰陽に分離されているのか・・
 女装する前は、女装の理由を自分で答えられたつもりでした。でも一歩街に出ると、私はその答を全て失うのです。
(陰陽相冲と女装の意味)

 私は誰?ここはどこ?自由って何?問いの嵐の中に、私は入ります。
 それは、自問自答です。自分で原因を作り、自分で問いの世界に入るからです。
 しかし、不安定になればなるほど、私はインスピレーションを受けやすくなります。
(陰陽相冲と女装の意味)

 聖書によれば、神は自分に似せて人間を造ったと言われています。
 いえ、私はそう思いません。神自身として、その分身を造ったに違いありません。まるで鏡を見るように・・・。
(自己冲・・鏡を使うの巻)

 私は私を「評価」するために鏡を見ているのではないのです。
 たぶん私は、一人でいながら、自意識を誘発しているのです。それが「冲」なのです。
(自己冲・・鏡を使うの巻)

 同一人物の中で陰陽が変わると、どうなるでしょうか・・。視点が移動します。感じ方が移動します。
(外の陰陽、内の陰陽)

「星も結果」・・この言葉を言いましたが、これが最も言いたかったところです。
「占星術は木星がどうの・・土星がどうの・・と言いますが、惑星すら原因ではないと思います。原因とリンクした結果だと思います。惑星の向こう側にある原因の世界にアクセスしたいものです。」
(神田さんの講演会にて)
 
「船井総研本物研究会」
 私は貨幣経済を批判する気など、全くありません。むしろお金儲けを肯定しています。  しかも、私が今まで研究(何を?)してきた成果によれば、お金儲けと人格(私には無い)は反比例しないのです。 (マーケット(市場)は生き物)

 実は個人に対する質問「あなたは誰ですか?」の質問に対しても、この答はかなり良いと思っています。「私は環境適応人だ」・・・と。  つまり、××をするため・・という主体性を取り去るのです。 (マーケット(市場)は生き物)

 目標というのは、毎日作り換える方が良いと思います。  つまり、そんなものはない方がいいのです。ない方が会社は伸びるのです。 (目標は持たない方がいい)

 自分は環境適応している生き物だと思わなければ生き残れません。  人間が万物の長になったのは、その汎用性にあったのではないかと思います。  つまり頭を使って環境に適応していったからです。 (環境適応業)

 私は今まで「選択の幅」という信念に縛られていたのです。
 選択肢とは、理由付けのことだと思います。
「選択をしない」というのは、理由付けをしないということにもなります。
(選択はすべてエゴか?)

 この無言の目的には、エゴはないのではないかとさえ思います。
 誰が何と言おうと、エゴだと罵ろうが、私はこれをやりたいからです。
 言うなれば、自分は誰かという疑問・・そういう神への挑戦がしたいのです。
(限定された個人の時空)

 彼はその施工式の日に「生きた」ということが大事ではないでしょうか?
 彼は理由なき直感に生きることが出来たのです。それがどういう結果になろうが・・・
(限定された個人の時空)

 選択という行為は、比較対照できるとき、生じるものだと思います。
 比較対照できないとき・・それを選択の余地はないと言うのではないでしょうか?
 ビジョンを先に作ると、そこから抜けることが難しくなります。
(選択の余地)

 時間が空間の手段にならない時は、「私」は主体になると思います。
 自我のレベルから「私」をコントロールするのではなく、私は時間の流れに沿って感じる存在になります。
(時間と空間と選択肢)

 一度でいいから「自分を正直に話す講演会」というのをやってみたくなりました。
 しかし、それでも意識したら、出来そうにありません。
 自分を正直に出している時って、やはり時間の流れに乗った時ではないでしょうか。
(新幹線の中からの報告)

 時間系の中に突入すると、すべてはオートマチックです。自動調整を始めます。
 必要ならば嘘もつきます。必要ならば、仕事を引き延ばします。
 しかし、そこにはエゴがありません。
(私達はどこに向かっているのか?)

 私はテスターなのです。私は私自身を試験台として使い、「神とは何だ?」という問いを発しているのです。
 そのテスターとしての私が微弱信号を出しました。「いい加減仮説は、正しいかも知れない・・・」と。
(私達はどこに向かっているのか?)

 神の意図として、元々こんなにいい加減な知的生命体として計画したのでしょうか?
 これって、私の常識をかなり覆したのです。
 だとすれば、いったい何に向かって輪廻転生をするのでしょうか?
(神の意図)

 時間的な方法は、まさに中井氏が言う方法です。もっと分裂しろと・・瞬間瞬間、前の自分は捨てて、新しい自分に身を任せろと・・
 そうするとき、魂を磨くどころではありません。だって魂がどんどん入れ替わるのですから(笑)。
(エデンからの脱出)

 エデンにいる限り、創造力はないと思います。受動的にしろ、能動的にしろ・・・
 そして創造力のアンテナを宇宙に開く方法が、中井氏の基準ではないでしょうか。
(エデンからの脱出)

 おばあさんは、私を愛していたわけではありません。  しかしこの二人は、愛の中にあったと思います。愛とは、状態だと思います。
 愛を生きるのに、ステージやレベルが必要なのでしょうか?
(愛を生きる)

 中井氏の基準は、一言で言えば「柔軟性」あるいは「汎用性」ではないでしょうか。
「こうあるべきだ」というものを取り去ったもののように思えます。
「私は誰でもない」を別な形で言っているような気がします。
(あの世の構造が変わる)

 しかし私達は時間系を生きるとき、反省の余地はありません。唯一無二の人世を生き切っているからです。
 とすれば、臨死体験者の経験する人世のパノラマとはいったい何でしょうか?
(人世のパノラマ)

 しかし時間系に生きるとき、そこには選択という概念がありません。選択がないから、責任もありません。
 強いて言えば、自分とお陰様が同時に選択し、同時に責任を取ってしまって(完了形)いるのです。それは未来に持ち越されません。
(両親を選んで生まれてくるのか?)

 例えば死と生を両方選ぶことが出来れば・・あの世とこの世を行き来できるとすれば・・
 私達はこの肉体を自由に着たり、捨てたりすることが出来るようになります。
(両親を選んで生まれてくるのか?)

 みなさんは、自分の仕事を好きだからやっているのでしょうか?
 そんなことはないと思います。強いて言えば、理由なく・・ではないでしょうか?
(好きだから・・したいから・・・)

 自分というものを客体視せず、感じるままの主体の流れとなれば、好きとか嫌いとか悲しいとか嬉しいとかは、分析できなくなると思うのです。
(好きだから・・したいから・・・)

 ノッてくると時間系に入ります。もう「俺はこれでいいか?」なんて考えません。ブチ切れています。
 なぜ常に、その状態に入れないのでしょうか?それは「怖い」のです。恐怖心です。
 何がって・・一言でいうと、孤独が怖いのです。皆と一体になれない孤独が怖いのです。
(なぜ空間系と時間系が両方とも必要か?)

 私は全体論に興味があるのです。「私達はどこから来て、どこに行くのか?」という設問は、全体論なのです。
 そして「私」が何者か解ることがその一歩だと思っています。
(概念が変える、成長させる)

 なぜ空間系(意識型成長系)と時間系(無意識型成長系)が存在するのでしょうか?
 私は空間系を、保険だと思っているのです。孤独感に対する保険です。
 今を生きるとか言っても、人は保険が欲しいのです。
(しかし、成長・・・)

 人は(神は)、永遠にエデンを出続けるのです。その旅が時空の歴史だと思います。
 神は、決してループしてはいないと思います。前進しているのです。
 そしてエデンを出るには、保険が必要なのです。
 保険(後退)と出る行為(前進)を行き来しつつ、エデンを出続けるのです。
(しかし、成長・・・)

 つまりです・・エゴが無ければ、私たちは生きてはいけないということです。
 だから、エゴを無くせと言うほどエゴな発言はないのです。
(神も保険をかけていたというこの話題)
「フナイオープンワールド2000」
 人間の生き方は、それこそ360度選択可能です。ブッダは苦のない生き方を教えたと言われます。キリストは愛のある生き方を教えたと言われます。
 しかし・・やはり一番面白いのは、「面白い生き方」なのではないでしょうか・・
(ブチ切れたい・・)

 このHPを訪れる人は、みんな大きい人です。FOWに来る人も、みんな大きい人です。
 六千円もの料金を払い、講演者がブチ切れないで、いったい何でしょうか・・。
 大きい人小さい人、関係無くしてみんな思っています。私は誰だと・・。
(ブチ切れたい・・)

 私は私に常に問いたい。Who are you?
 そして、お前は生きることより、成長する方が大切なのか?・・・と。
(ブチ切れる)

「私達は肉体以上の存在である」モンローさんはこれを答えとして言ってはいません。問いとして言っているのです。
 つまり、彼女はそれを疑問文として問い続けているのです。
(成功ほどの失敗は無い)

 しかし、今は意味付けが先行していく・・人はモンロー研に生き方や気付きを求めていくようになる・・
 それでもモンロー研は、世界とは何か、私とは何かを問い続けます。
(生き方と気付き)

 私のもくろみの中には、「聴衆の皆さんに何かを与えよう」などという気は、さらさらありませんでした。私は「得たかった」のです。
(FOWのもくろみ)

「今の人間はHuman Doingをやっている人が多いです。それは有為に当たるのではないでしょうか?これからはHuman beingにならなければなりません。それは無為に通じると思うのです。」
(モンローさんとの再会、孫さんとの再会)

 あなたは、もっと「答」が欲しかったですか?どうすれば色々な関門をクリアーすることができるのか・・そういう答を知りたかったですか?
 そういう人には、とても残念な講演でした。モンローさんは答を言わなかったからです。
(FOW本番)

 一時間半もの時間をかけて私が伝えたかったのは、あの一言なのです。
「生きることそのものよりも、成長が大事ですか?」
 私はあの一言を心から言うことが出来ました。
(FOW本番)

 世の中の講演会の多くは、答としての何かを与えようとします。それはともすると方向性です。問題解決の仕方・・夢の実現の仕方・・
 しかし、モンローさんの講演会は淡々と問いを発するのみでした。私はああいうスタンスの講演会にしびれてしまうのです。まるで滝の下にいるような感じになります。
(ホテル横浜での講演会)

 いつか知らないうちに発生しているもの・・それが「場」なのだと思います。
 自分のためだけではなく、相手のためだけではなく・・
(大阪オフ会)

 天目は孫さんが言うところの「宇宙のインフォメーションセンター」に繋がる窓なのです。その天目の開き方を孫さんは知っているのです。
 おまけに相手の天目が開いているかどうかを見ることが出来ます。
(孫さん能力開発研究会)

 スピリットとコンタクトできたり、オーラが見えたり、スプーンが曲げられたり・・。彼女はそういうものとは無縁だと思っていました。
 モンロー研ではそういう事を自慢するようなことは、一切ありませんでした。
(モンローさん帰国)

「伊勢神宮」
 伊勢神宮に行くことは、「明」のエネルギーを得ることなのです。
 だから神主さんが六爻占術を買い、運命改善に使ったとしても、何ら矛盾はないのです。
(伊勢神宮本殿の隣の空き地は、すごいエネルギー)

 トラさんは、運命改善をいくらやっても大過にはならないと言いました。だから天照大神の「明」のエネルギーいくら受けても、良い事しか起こらないと思います。
(伊勢神宮本殿の隣の空き地は、すごいエネルギー)

 金局の三合局は、天照大神のご神体である金属の鏡に、多大なエネルギーを与えていると思います。それが60年かかって時間的な三合局を作るとは、凄いとしか言いようがありません。
(伊勢神宮の、三合局によるエネルギーアップ)

 神道は一言で言えば「ファージー」なのだそうです。誰でも、どんな宗教の人でもが、訪れることが出来ます。
 信じている人にも信じていない人にも御利益があるとすれば、それは「内側(内面)」を問わない「エネルギー」でしょう。
(伊勢神宮の、三合局によるエネルギーアップ)

 さて、神道には戒律がありません。徳を上げないと地獄に堕ちる・・なんて、言いません(笑)。戒律が無いというのは、「他力」を思わせます。
 だって自分を変えることによって運命を変更するのではないからです。
(科学のメスにも耐えられる伊勢神宮)

 しかし天武天皇の取った行動は、常に「諦め」と「運命変更」が同時に流れています。天照大神と対等な態度を取っているとさえ言えると思います。
 私は神社で願掛けをしません。時空を解明したい者が、どうして願掛け出来ましょうか・・。
(神仏に助けを求める人(願掛けする人)は自力的)

 宗教の信者を問い詰めていくと(笑)、「釈迦はこう言った」と言ってくる人が多いです。
 これは一見「他力」に見えます。だって他人任せにしているでしょう?(笑)
 しかし本当は「自力」ではないかと思ったのです。
(教祖(キリストや釈迦等)の言葉を借りることも、「自力」の拡大ではないか)

 つまり、人の言葉を使って喋るとき、「自力」を拡大しているのです。
 では、親鸞の言う「他力」を布教させるのはどうすれば良いでしょうか・・。
 簡単です。「私は結果」を知らせるだけです(笑)。

(教祖(キリストや釈迦等)の言葉を借りることも、「自力」の拡大ではないか)
「時空ネットワーク論」
 時空が私という肉体を使って、勝手に問いを発し、勝手に運命を変えただけ・・
 つまり私というのは、マシンと同じです。
(問いって何?・・という問い1)

 下條さんの研究によれば、自発的なパルスは存在しないそうです。自由は幻想だと言います。だとすれば、励起パルスを選別することすら矛盾します。
(問いって何?・・という問い1)

 人間の脳は90%以上が使われていないと言われています。その部分が、「問い」を司るのかも知れません。
(問いって何?・・という問い2)

 励起パルスにしても、誰が受信できるかは、もともと決まっているという可能性が強そうです。だったら何故、運命変更したルートが年運に現れてこないのでしょうか?
 運命変更が決まっているとすれば、それらも全て年運に表れないといけません。しかしそうでないときの方が多いのです。
(問いって何?・・という問い3)

 さて、私は運命変更はちゃんと「変更」しているのではないか・・と、いう感触を持っています。
 運命の変更が「外側」に置いたグッズで行われるというのが、私にとっては「ちゃんと変更しているんだ」というイメージにさせられる要因です。
(問いって何?・・という問い4)

 ネットワークが組まれるようになると、「外側」が自分達に影響を与えるように思われます。しかしネットワークの世界では、何が外側なのか、よく分かりません。
 ネットーワークに組み込まれたものは、全部内側と考えるのが妥当です。
(問いって何?・・という問い5)

 おそらく人類の歴史において、変化を与えない問いが繰り返されてきたのです。それはおそらく、「私は原因」という前提のもとにされた問いだと思います。
 ところが「私は結果」という前提のもとになされる問いは、その問いからして、ネットワークに影響を与えるような気がしてなりません。
(問いって何?・・という問い5)

 願望を持ち上位の問いを投げかける世界は、ディスクの側のネットワークだと思います。
 しかしSFCの側は、メインメモリのような気がします。リアルタイムな「今」を、ネットワークとして勝負している・・。
(慶応大学の入学式から学ぶもの(笑))

 この視点からすれば、ネットワーク型の企業で働く人間は、自分の行動する内容が、「外」から決まるのです。幾つかの行動指針を考え付いたとして、その最適値を選ぶのは、「外からの情報」だからです。
 自分がこれをしたいからではなく、全体にとってこれが必要だから、それを選ぶのです。
(ネットワーク的会社経営の視点から)

 しかし今回ネットワークという概念が登場して、個とは別格に全体というものがあるという概念がなくなりつつあるような気がします。
 つまり全体とは、単に個がネットワークされたものであるという概念に変わったわけです。
(我々は情報ネットワークの投影にすぎない)

 このような情報ネットワークが時空ではないでしょうか・・・。
 そして私達の「個」は、その投影というわけです。
 ネットの情報が書き換えられれば、こちらの「個」が変わるのです。
(我々は情報ネットワークの投影にすぎない)

 つまり「外部」によって「動かされている」のが、コンビニです。
 もちろんコンビニには「本部」という「サーバー」が存在します。しかし本部のサーバーが単に方程式だけで動いているとすれば、時空と似ていると思います。
(時空のネットワーク・・・コンビニとの関係)

 時間と空間を遠くから眺めれば、多くの事が打ち消し合っていると思います。
 なぜ一方だけに偏らないのか・・・それはたぶん、方向性が生まれるからだと思います。
 方向性が分かると、何故いけないのか・・・ユーザーに飽きられるから(笑)。
(ネットワークに中心点はない)

 電波の発信点を調べようとしても、あらゆる方向から電波が来ていて、一体どこから発射されているのか、分からないような状態です。
 原因の世界を調べようとしても、同じことが起こるでしょう。
 原因の世界も結果の世界も、同じネットワーク上の出来事かも知れないからです。
(ネットワークに中心点はない)

 横田基地で肉眼で周りを見渡しても、敵機は見えません(笑)。
 しかし一瞬でも問い(進行波)を発射すれば、ハノイからミグ戦闘機が10機飛び立ったことが、横田基地で分かります。
 でも一回の問いは、断片の情報に過ぎません。全貌を掴むのには、360度に向かって問いを発しないとダメなのです。
(ネットワーク探査とレーダー)

 それは当たっていたのです。見えない敵・・それは「ネットワーク」だったのです。
 ベトナムは「戦場」という「点」を提供していただけに過ぎなかったのです。ソビエトと中国から、軍事物資がいくらでも運び込まれていたのです。
(見えない敵、それは「ネットワーク」)

 いくら個が強くても、ネットワークにはかなわない・・そう思いました。
(見えない敵、それは「ネットワーク」)

 場を取ると言えば、どこかの領域から場を引っ張ってくるようなイメージがありましたが、ネットワークに繋がることだと思いました。
(二つのネットワーク)

 ネットワークには二種類あるのです、結果と原因の・・・。
 そして原因のネットワークは、長い間ぶっちぎられていたのです。
(二つのネットワーク)

 半二重通信方式は、電気通信の世界では一番初歩的で幼稚な方式です。
 時空のシステムは、元々そういうシステムなのでしょうか・・それとも、初期段階なのでしょうか・・。
(全二重通信方式か、半二重通信方式か・・・)

 未来の情報には論理性がありません。だから突然割り込むしかないのです。
 意識が基本的に半二重なのは、割り込み等が嫌いなのだと思います。論理的に思考していくときは、物の順序というものがあるからです。
(全二重通信バリバリの世界)

 つまり向こう側(無意識の側)は、全二重バリバリの世界だと思います。だって何かあれば、わざわざ知らせてくれるのですから・・(笑)。
 そして個人的な運命変更も受け入れてくれるからです。
(全二重通信バリバリの世界)

 メインメモリに浮遊しているとき割り込みが入ると、浮遊していたデータはパーになります。つまり考えに集中する時は、割り込みが入ってはならないのです。
 だから、りんごの部屋が必要なのです。
 うーん・・、半二重も使い道があるのです(笑)。
(半二重のススメ)

 キャリアを持っている生き方は、信念を持って生きるようなものだと思います。目標を作って、そこに邁進していく生き方でもあります。だから「ブレイク」を嫌うと思います。
 この場合のブレイクは、原因の世界からのブレイクです。
 しかし結果の世界からのブレイクは、意外に歓迎しているような気がしてなりません。
(キャリア)

 時空は通信を簡略化して送っているのです。簡略化せずにもっとダイレクトに送れば良いのに、きっと何かの理由があるのだと思います。
 その理由の一つは、「三個のコインを六回振ること」で伝達できる・・ことだと思います。
(時空からの通信は簡略化している)

 だとすれば、六爻占術はどんな超能力よりも上回っていると思います。解凍すれば、原因の世界の側の情報が復元されるからです。
(時空からの通信は簡略化している)

 しかし電源を入れていないトランシーバーがネットから切り離されているように、「私は原因」だと思っている人は、電源が入っていないのと同じではないでしょうか・・。
 つまりそういう人は時空のネットから切り離されている・・。
(時空のネットワークは「固定的」ではなく「浮遊的」ではないか)

 しかし、時空はたぶん、ハムのようなネットワークだと思います。
 そうなると、プライバシーを優先したい人は、時空のネットから切り離されて、結局損をするような気がします。やっぱり儲かるのは、露出症の人・・(笑)。
(プライバシー)

 さて、書き換えるのは何でしょうか・・最初に提出したレポートです。
 これは六爻占術でいえば最初の卦です。運命を変更するのはこの最初の卦で行われます。
 とてもよく似ていると思います。
 しかも他の人のレポート(外側)が「原因」で変化しています。
(ネットに公開されるレポートは、運命変更システムと似ている)

 昨日は、動画の話をしました。私達の人生は、動画です。
 動画の中のストーリーをどこで変えることが出来るかと言えば、初期設定でしか出来ないのです。初期設定で変えたら、あとは惰性で動くのです(笑)。
(一生運でも、卦は一個しかない理由)

 つまり動画が要所要所での書き換えが出来ないようになっているのは、このためではないでしょうか・・。一本化しないと面倒だからです。
 だから一生運でも、卦は一つなのです。
(一生運でも、卦は一個しかない理由)

 運命に変更をかけるときは常に最初の卦に対して行えというのは、基本的なオリジナリティは失わずにいろということです。
 さらに言えば、元のレポート(オリジナリティ)からどれだけ距離があるかを常に意識していないと、運命の変更は無理だということです。
(卦が一つでの運命変更)

 それは、最初の卦が基準である限り、運命を変更したとき、悪い方向に行く可能性が非常に少ないということです。
 つまり原神だの用神だのを強めていれば、どんどんシフトアップされるということです。
(卦が一つでの運命変更)

 こう考えると「情報」というのは、運命を変える大きなキーです。コイン三枚を振り、紙とボールペンで卦を書くだけです。ここから出てくる「情報」だけで命が救えるのです。
(ネットワークにおいて運命を変える一つの要素は「情報」)

 人は少しでも「未来情報」を知りたいのです。だから移動体通信では、ネットワーク化してお互いに情報交換することで、一種の「未来情報」を交換しているのです。
(ネットワークにおいて運命を変える一つの要素は「情報」)

 いきなり意表を突いたストップ高にするという時空のプログラムに、他の事項が付随されたと思います。
 原因の世界がデジタルだとしたとき、結果の世界に落とすにはアナログ的に「ならす」必要があると思うのです。
(時空は、「不連続」を「連続化するソフト」を動かしているのではないか・・)

 考えてみればテレポーテーションは、不連続のまま三次元に現象化してしまったのだと思います。孫さんの蘇生も、不連続に近いです。
 これらは「連続化するソフト」を通していないのかも知れません。
(時空は、「不連続」を「連続化するソフト」を動かしているのではないか・・)

 四季の変化の世界では、10度だった気温が次の瞬間に20度になることはありません。
 でも十二支の変化は、それが「アリ」なのです。だからデジタル的だと思うのです。
(十二支の変化と四季の変化)

 何故こんな話を出したかと言えば、六爻占術はデジタル的な原因の世界をそのまま記述したのではないかと思うからです。
 そして盲師派推命占術は、結果への展開を出来るだけ記述したのではないでしょうか・・。
(十二支の変化と四季の変化)

 彼にとっての「信号波」を取り出すのは、目が見えないからこそ可能でした。
 京房も散歩の途中に昼寝をしている時、六爻占術が降りました。
 私は、結果の世界でいくら統計をとっても分からないと思っています。
(結果の世界を積み重ねても、原因の世界は見えないのではないでしょうか)

 そうだとすれば、盲師派推命占術には「中間帯」というルールによってできる、沢山のビット数が存在することになります。
 だから運命変更には適さないのではないでしょうか・・・。ビット数が多いと、何がキーか分からないからです。
(六爻占術は、着ている服を全部脱がせる占術)

 18ビットにまで素っ裸にしたシステムを、私は知りません。誰がそこまで人生を単純化できるでしょうか・・。
 しかし、余計なものを全て剥ぎ取ったとき、そこに「原因の世界」が姿を現しました。
(六爻占術は、着ている服を全部脱がせる占術)

 つまり18ビット以外の情報は、すべて「飾り」だからです。
 あなたの運命の本質は18ビットであり、それを現象化する際に、「みんなが共通に使うルール」で装飾していただけなのです。
(六爻占術に「科学」が残っていたら、それはまだ削ぎ落とし切れていない・・)

 Bに行くルートをバッサリと切ってしまうのです。するとEに変更せざるを得ません。
 従来通るべき道を切断するのが運命変更かも知れません・・・。
(運命を「インターネット網的視点」で考察する)

 問いを発すると、そのレーダーに一瞬だけ、行き先と周囲の情報が映ります。それを見て、行き先を変更したい場合は、どうするのでしょうか・・・。
 なんと、自分のエンジンでは出来ないのです(笑)。
(全ての人は他人のために存在している)

 極論すれば、私という存在は、他の人の運命を決定・変化させるために存在しているのです。
 だから、エゴを持った人など、誰もいません。全ての人は、他人のために存在しているのです。自分のエンジンは、他人のためのエンジンなのです。
(全ての人は他人のために存在している)

 インターネットの話でミサイルでピンポイント爆破をしても、ネットワーク全体は影響を受けません。
 これが運命にも当てはまるとすれば、一人が運命変更しても、ネットワークには影響がありません。
(運命を「インターネット網的視点」で考察する)

 豆自身では、絶対に蘇生することは無理なのです。自分にエンジンが付いていても、それは運命を変える道具にはならないのです。
 それは孫さんとて同様です。孫さんは今のところ、自分自身を蘇生することが出来ません。
(お互いがお互いに勝とうとしている世界では、蘇生は起こらない)

 私達がネットワークで繋がれているのは、自分は常に「他人のため」なのです。
 これが本当だとすれば、時空は凄いものを作りました・・。
 お互いがお互いに勝とうとしている世界では、蘇生は起こらない・・のです。
(お互いがお互いに勝とうとしている世界では、蘇生は起こらない)

 溺れた人や病気の人は、周囲を剋している存在だと思います。それと直接交わることは、剋される関係に飛び込むことです。
 例えば五行では、金は木を剋します。しかし間に水が入れば金→水→木となって、連続相生します。
(人は他人のためだけに「存在」する・・しかし他人のために「行為」してはいけない)

 私は思うのです。矛盾は「剋」かも知れないと・・。でもその間に別の因子が入れば連続相生すると・・。
(「OR方式」と「AND方式」)

 実際、孫さんの蘇生はそうです。自分のエネルギーを使っているわけではありません。彼女はエネルギーの元に指示をしているだけなのです。
 力と力の関係ではなく、「スイッチオン」という「情報による指示」が介在しているのです。これで念力と作用反作用におけるANDとORが両方成立したのです。
(「OR方式」と「AND方式」)

 私は「グレイ化」していたから、下位の問いを考えられたのです。普通はAかBかのどちらかに持っていこうとします。
 一般的な「成長」といのは、そういうことだと思っています。AかBに片を付ける行為が「成長」なのです。言い換えれば「わかった風なことを言う」ことです。
(グレイゾーンを保持する)

 私とは、私以外の部分の空洞なのです。つまり、無いのです。
(ANDでもなくORでもなく)

 私が変わるためには外側が変わらなければならないのは、上の図を見れば一目瞭然です。
 無いものはそれ自身では変えようがないし、「私」について責任の取りようもありません。
(ANDでもなくORでもなく)

 繋ぐための一つの条件として、「私は誰でもない」という概念が必要なのだと思います。
「私」にモノが一杯詰まっていたら、線も繋げません。
(ANDでもなくORでもなく)

「私」というのは小さな肉体には留まっていない様子です。だとすると、「私」は向こう側の世界に広がることが出来そうです。向こう側の世界とは、私にとっての「原因の世界」です。
(向こう側に拡大する「私」)

 今までの「全国ネット」はまるでハイアラキー(縦割り)の神のシステムのようでした。
 しかし新しい「ネット」は全てが平等のネットワークです。
(地方局の逆襲(笑))

 これが正しいとすれば、18枚のコインは運命という時間系の流れを、一気に空間系に持ってきているのです。
 運命の流れは、地上波デジタル放送のように、デジタルの流れかも知れません。
(時間系と空間系)

 さて、運命変更は置物を使う時が多いです。これは空間を使います。なのでこれが運命の流れの世界に行ったときは「空間→時間」変換をしているのかも知れないと思いました。
(時間系と空間系)
「FOW2005」
 ではなぜ差が出たのでしょうか・・。それは観察者と体験者の違いだと思いました。
体脱して行く人は、観察者なのです。非文明国に短期旅行に行くようなものです。
(モンロー研究所と生まれ変わりの村の差・・「地獄のような場所」をどう考えるか)

しかし生まれ変わりの人達は、向こうでは意外に会っていないのです。「あの世には知っている人がいなくて寂しかった」と言った人もいました。
これは意識のパワーが少ないのだと思います。あの世では皆、ぼーとしているのです(笑)。
体脱と生まれ変わりは、やはり違うのです。
(体脱&臨死体験と生まれ変わりの村の差をどう考えるか・・ソウルメイトと人生のやり直し)

体脱は、実際にやってみれば分かりますが、対象物がハッキリと見えないときの方が多いのです。それは魚銀レンズのような感じになるからです。つまり360度の世界が同時に見える感じなのです。しかもピントも合っていないような時が多いです。
(体脱&臨死体験と生まれ変わりの村の差をどう考えるか・・来世を計画する)

モンロー研究所では文句を言うヤツはほとんどいません。それは体脱に自信がないからです(笑)。だからボーと見えた物を「確かに見ました」などと言ってしまうのだと思います。
(生まれ変わりの村の差をどう考えるか・・来世を計画する)

最先端という言葉があります。アメリカ人は自分達を最先端だと自負していると思います。しかしこのHPの議論で言えば、「私は結果」という概念が最先端です。
その基準で言えば、アメリカは最も遅れています。さらに逆走しています(笑)。差は開くばかり(笑)。「私は結果」を最も受け入れないのが、アメリカだと思います。そこには「中国発」という先入観があるからです。どこ発だっていいじゃないの・・。
(モンロー研究所参加者にとっての「中国発」)

「私の言いたいことが無いからです」・・こんなことを言って良いのでしょうか・・。
はい、私はもともと何かが言いたくて、講演をするわけではないのです。
意図があってするわけではありません。ましてや愛ある世界を創りたくて講演するわけでは、もっとありません。
(面白い講演会になるのか?・・日々変わるプレゼン内容)

目標を目指して頑張っても、最後に宇宙はなくなります。作り出した結果は、全て消失します。
だとすれば、「途中」に何かがあるのではないでしょうか・・・。
そして手の内を明かしても楽しめるということが、「途中」なのではないでしょうか・・。
(手の内を明かすと、面白くなくなるか?)

例えば旅行を例に取れば、ガイドブックの数が多く、その地域の情報が溢れている所ほど行きたがるのです。映画を例に取れば、ストーリーが洩れてしまっているものほど、観たくなるのです。
(人は、「知らない部分」を体験したいのでしょうか?)

私もかなり詳細に自分の人生を知っています。でもやはりエキサイトして生きています。
人は、知らない部分を体験したいのでしょうか・・そこに疑問に思います。
(人は、「知らない部分」を体験したいのでしょうか?)

私の場合は、多方面からの探査で90%を占められます。
だから生き方に関する部分は、それなりに重いです。裏はいくつも取ってあるからです。
しかし今回の最後に出てくるスライドには「私の生き方」と明記してあります。
(マーケッティングから見たFOW)

やはり、「アブナイ路線」ギリギリが面白いのです(笑)。精神世界というマーケットサイドから見ても、私はその路線から攻めなければならないのです。
何故こんなことが出来るのかと言えば、「言いたいこと」が無いからです(笑)。
(マーケッティングから見たFOW)

賭をしない人間は、もちろん用意を周到にやります。
賭をしない人間は、運命の解明に向いているかもしれません。
ドキドキワクワクするよりも、予定通りに進む方に喜びを感じるからです(笑)。
(賭をしない人間が、FOWを明日に控えて・・・)

たぶん知らなかった人はドキドキしようがないと思います。だって一分半を「ビックリして」終わるだけですから・・。
しかし「ドキドキ」というのは、知っていたからこそ出たのだと思いました。
(筋書きのある講演会・・・導入部)

私はリークすることで、自分を追い込んでいました。それで緊張感を久々に体験していた・・とも言えます。
どっしりと構えて、悠々と壇上に向かう・・こういう人間を人は目指しているのでしょうか・・。生きることよりも、成長が大事なのでしょうか・・。
(筋書きのある講演会・・・導入部)

時空は今まで、手の内を知られませんでした。だから何を起こそうが勝手でした(笑)。
しかし今、運命が明かされつつあります。
それは、裏方にいた私達と同じ状態ではないでしょうか・・。
(筋書きのある講演会・・・導入部)

私はスケジュールをガチガチに作りました。それを参加者の一部も知っていました。
もともと知っている事に「我を忘れる」のは、ちょっと異質なのです。私は「今」に生きているのではなく、「講演会全体」に生きていたのです。
(あらかじめ決められた時間の流れに乗るということ)

イチかバチかを生きるヒーローは「自由」を感じさせます。ギリギリで危機を突破するヒーローは「自由」を感じさせます。賭をするヒーローは「自由」を感じさせます。
しかし私は賭をする男ではありません。そして賭をする男よりも自由に迫りつつあると思っています。
(用意周到で賭をしない男の事後報告(笑))

さて、「私」はスライドという外部から「同期」を取られていました。これと同じく、私たちの人生も、同期を取られていると思いました。
なぜなら、「出会い」は1秒もの誤差さえあってはならないからです。交通事故などは0.01秒の世界です。それが原因で結婚した夫婦だっているはずです。
(同期)

そう言えば、シンクロすることは「同期が取れる」とも言われます。あちらの世界とこちらの世界の同期が取れるのです。
そして運命変更とは、同期をずらすこと・・と言い換えることが出来るかも知れません。
(同期)

さて、みなさんの答えに、私はとても新鮮なものを感じました。答えが人によって全然違ったからです。でも観た講演会はみんな一緒のはずでした。しかもそれは直前に観たものです。
これが「個」かと思いました。全く同じものを見ても、「個」によってバラバラになるのです。60億の人が見れば、60億の見方が生じるのです。
(休憩時間のインタビュー)

 演出をする効果はもう一つあります。それは私の無意識層を引き出してくれるのです。
 真面目に話していると、それは左脳の世界であり、それで終わります。しかし何かしらの演出をすれば、それが引き金になって無意識層が顔を出すのです。
(演出・・講演スローガン・・使命)

 つまり使命とは、360度の可能性を狭めるのです。だから使命は、真理の探究には向かないのです。
(演出・・講演スローガン・・使命)

 私の講演会は、問いかけと仮説が中心です。そうだとすれば、「演出」も「問いと仮説」と一体なのです。
(演出から自由になるには・・)

 演出からスタートした私の講演会は、演出から脱する道に辿り着くのです。
 運命から自由になるには、運命の世界に入らなければならないと言いました。
 今日のテーマでは、次のセンテンスを言いたいです。
 演出から自由になるには、演出の世界に入らなければならない・・
(演出から自由になるには・・)

 仮説連続ぶち壊し浮遊作戦・・
 私の講演会では、お客を固定して帰したくないのです。その状態が「下位状態」だからです。それが私の真の問いかけだからです。
(地に足が着かない講演会)

 時空の自由は、スターウオーズのデススターに開いた直径15センチほどの穴に命中させるくらいの芸当なのです。しかもそれを撃つのは、Xウイング機並の高速宇宙船から撃たないとダメなのです。それは極めて不安定な世界なのです。
(地に足が着かない講演会)

 つまり「私が現場で体験したこと」をそのまま観客も体験できるような感覚に近づけるのです。つまり講演者の口以外を使えば、体験はより直接的になってくるのです。私の口から喋ると、より間接的なのです。
(講演者の肉体から離れる講演会は、実際の人生そのものと似ている)

「演出」には一般的に「素」から遠ざけるような感覚があります。しかし「素」から一番遠ざけているのが「素」で喋ることかも知れません。なぜなら生データを出さずに、結論を出す行為だからです。
(講演者の肉体から離れる講演会は、実際の人生そのものと似ている)

 オープニングから不安定が始まりました。そして中身に入っても、不安定さは解消されません。それはあらゆるところで「理由」を言わなかったからだと思います。
(「理由」を言わない講演会)

 こうして考えると、時空が存在する理由が分かった瞬間、時空が小さくなってしまうような気がします。それは個人とて同様だと思います。存在理由を言った途端、「私」はとても狭いものになると思います。
(「理由」を言わない講演会)

 もしも私が、最初から意図を持っていたとしましょう。すると着ていく服は、その意図で決まります。しかし私の場合、着ていく服で意図が決まったのです(笑)。逆なのです。
(意図が無いと、広がりを見せる人生)

 もしも私が死ぬとき、有終の美を飾る死に方をするでしょうか・・しないと思います。
 途中でぽっくり、もしくは苦しんで(笑)死ぬのです。何の結論も出さずに・・。
(「あと一分」)

 さて、この振動は何なのでしょうか・・。もしかするとアセンションかも知れません(笑)。この振動が原因で、カルマだとのと言っている人はふるい落とされるのです(笑)。冗談ではなく、マジにそんな感じがします。
 この振動は、講演中に多発された「問い」の連射が原因ではないかと思います。
(振動)

 私が下位の問いにこだわるのは、問いを持った状態がとても「生きている状態」ではないかということです。根源的な問いには、答えは無いかも知れません。しかしそれでも問いを発するのは、私が振動するからです。安定から、不安定なります。
(振動は「生きている状態」ではないでしょうか)

 確かに私は、開かれた自由が欲しいです。でもやっている事は、逆なような気がします。
「開かれた自由」と「生」とは、正比例しないような気がしてきました。
(制御と振動)

 もうプログラム通りだとしか、言いようがありません。
 あの日、こうしなければ良かった・・あの日、ああしとけば良かった・・そんなの、全く無意味です(笑)。カルマが入る余地すらありません。
(遡ってみれば・・)

 自分の自発性がゼロではないかという研究を続ける人は、自分で言うのも何ですが、「自分の生き方」などというものを捨てないと出来ないと思います。
(「無いものを証明するのは難しい」・・しかしその課程で「得られるもの」は)

「ないもの」を伝えるとき、自分の中の輝かしいもの・・自分の中の醜いもの・・そんなものは、問題外になってしまうのです。この行為は、一見自己否定に繋がると思います。  でもよく考えてみれば、否定しようとする自己すら無いのですから、否定しようもなくなるのです。だから自己否定という言葉は、「私は原因」に立っているのです。
(「無いものを証明するのは難しい」・・しかしその課程で「得られるもの」は)

「ない」ものに向かうとき、一番のネックは恐怖心だと思うのです。私はハンドルを手放せと言いますが、そのときのネックも恐怖心だと思います。
 恐怖心は孤独感とも似ていると思います。
(恐怖心)

 そうなのです。「ない」ものに向かうことは、一種「ダメになる」「落ちる」ことに通じているのです。
(恐怖心)

 アイデンティティを統一するというのは、人生の課題のように言われてきました。しかし考えてみれば、こんなに窮屈な考え方はありません。それは「いつも同じ反応をしなさい」「過去の自分から大きく外れないようにしなさい」と言っているようなものだからです。
(「誕生日 なんで私は 私なの」・・アイデンティティの崩壊)

 道教ではそれを「無為自然」と言います。孫さんはそれを「自然に任せなさい」と言います。これはアイデンティティなどというものにしがみ付くのはやめなさい・・と言っているようなものだと思いませんか?
(「誕生日 なんで私は 私なの」・・アイデンティティの崩壊)

 だからスカートをあまり履かない女性は履いてみて下さい(笑)。周囲の視線に対してセンシティブになるはずだと思うからです。すると今まで聞こえなかった音が聞こえ、見えなかった景色が見えてくると思います。それこそアイデンティティの変化だと思うのです。
(SMも、たまには逆転を・・続アイデンティティ)

 だとしたら、私は逆に「好みから外せ」と言いたいです。好みとは正反対のものを頼んでみる・・これは一つの「アイデンティティの崩壊」だと思います。
「自己は出来るだけ不統一にする」・・これが私の、時空探査の方法でもあります(笑)。
(SMも、たまには逆転を・・続アイデンティティ)

 だから、極めているものなど、ありません。私はいつもアマチュアです。アマチュアだから、全力でやります。それしか自分の「売り」は無いのです。
(私はアマチュア、時空もアマチュア)

 私はいつも、戻れない場所で問いを発します。すると時空は、答えをくれます。私が安全圏で問いを発すれば、時空は何も答えません。それは糸電話に似ています。たるんでいると、通話が出来なくなるのです。
(私はアマチュア、時空もアマチュア

 しかし時空こそ、アマだと思います。プロ的な部分が少しでも出れば、リセットをかけていると思います。そしていつもスタートラインに立っているのです。
(私はアマチュア、時空もアマチュア)

「パフォーマンス講演会2006.01(前編)」
 でも私がスライドにリアルタイムに入り込んだらどうでしょうか・・・。死んでいたスクリーンが、ビビッドな(生き生きとする)ものとして蘇るはずです。
「生き生き」は今回のテーマの一つでもありました。 
(スライドに入り込む)

 スライドが写り、それを遠くから説明するのは簡単です。「距離」を置けるからです。それを「観察者」と言います。
 しかしスライドの中に入り込むというのは、一体化することです。スライドは外から観察していたものではなくなります。これを「体験者」と言います。
(スライドに入り込む)

「宇宙が誕生する以前、私たちも何らかの形で存在していたのかも知れません。」
 これは私達が神と同等の関係であることを暗示しています。
 宇宙の全ては神によって「作られた」のではなく、神そのものとして最初から存在していたかも知れない・・と。
(「こういう神なら、私は降りない」)

 ここに私は、偶然も必然も感じることは出来ません。なぜなら偶然と言えば、他に必然があるからです。必然と言えば、他に偶然があるからです。
 偶然や必然を超えてしまっているのが、「気がつくと」ということだと思います。
(「こういう神なら、私は降りない」)

 世の中には、三次元の仕事にだけ邁進できる人がいます。人に生き方を教える人もいます。六爻占術で、運だけを上げようとする人もいます。
 よくそんなことが出来ると思います。自分はみなしごでは、ないのでしょうか・・。
 みなしご感覚が、私の不思議研究の根底を成していると言っても良いです。
(「私はみなしご」)

「介入」というのは、ある意味エゴです。自分を出さないでいることは良いとされます。
 でも「私はみなしご」を探求していく過程では、世界に介入しないといけないでしょう・・。
(「私はみなしご」)

 聴衆が欲しいもの、それは論理的な説明よりも、言葉を超えた「場」なのではないでしょうか・・。
(本物の「場」を持ってきたパフォーマンス講演会)

 パフォーマンス講演会は単なる「演出」でしょうか・・・。
 とんでもありません。おそらく本物の「場」を持ってきてしまったと思います。
(本物の「場」を持ってきたパフォーマンス講演会)

 今回の講演会で何故早かったかといえば、全てのスタッフが私のスライドを元に作った台本を持っていたからです。全くストレスを感じさせずに進行したと思います。
 つまり観ている観客にとって、「場」から抜けてしまうような間(ま)は、生じなかったと思います。
(動画も本物の「場」を持ってきた)

 自由を賛美する人達は、ジャズの即興演奏に素晴らしさを感じます(笑)。自然は作り物でないから・・などと言う人もいます。
 しかし今回は、コンマ何秒の世界まで「セット」されました。私すら、パーツの一つです。
(照明さんがひとり斗出する「自由」もありませんでした)

「問いを問う(1)」
「今、おまえに許される質問はたった1つだ。さあ、それは何でしょう」
このセンテンスはすごいと思いました。360度開かれた問いを、たった一つに絞ってしまうのですから・・。
(「今、おまえに許される質問はたった1つだ」)

答えることが出来ない問いというのは、非常に重要なのです。だからこそ、「勝手にしやがれ」が生まれたのです。これも一つの「答えられない部類の答え」なのです。
(意識の力を抜くこと)

もっと言えば、聴衆を前にした対談では、「ストライクゾーン」の受け答えが一番ドキドキしない領域になりそうな気がします。おそらくそれは、既知の領域だからです。
ストライクゾーンを外れたとき、初めて対談が「生きて」くると思います。
(「子供ゾーン」)

私は、分かっている事など、何もないと思っています。それは「存在の前提」が全て不明だからです。
なぜ私は存在するのか・・私はなぜ私なのか・・。これらが分からないのに、他の事が分かっても、それは分かったことにはならないと思います。
(終わったことすら気付いていない)

具体的ではないゾーンというのは、外したゾーンなのです。それは逆に、答える側の自由度を上げているのです。
(具体的でないゾーンは答える側の自由度を上げる)

ところがもしも神がコドモ、あるいは赤ちゃんだったらどうでしょうか・・・。私達と同じく、何も知らない存在だったらどうでしょうか・・・。当然そのレベルは、我々と同じです。
(「精神レベルを上げろ」)

なぜなら、私達自身が神の被創造物だからです。ということは、私達の問いも全て「被創造物」です。作られたものです。
問いも決められ、答えも決められ・・・この世界観の中で「レベル」を上げようとか、全くバカみたいです。
(神がオトナだったとき)

「ジユウヲモ、オツクリニナリマシタ」と言う言葉で私が連想するのは、牧場です。柵に取り囲まれ、その中だけが自由です。
作られた自由・・。
(神は自由をお作りになった)

今回のこの「内面ではない」という発見は、私の不思議探求の中で、トップに位置するものの一つだと思います。
だって世の中は、全て「内面が原因」として考えられてきたからです。
(大きな勘違い、「内面ではなかった」)

私の一大仮説である「内面は原因ではない」というのは、ちょっと考えるに、世の中を悪くするのです。
これも、私の調査に反発を感じる動機の一つだと思います。
(調査への反発)

本当に魂の格を上げたいのなら、私の調査にも興味を示すはずです。
本当に良い世の中にしたいのなら、私の調査にも興味を示すはずです。
全く矛盾するデータが出てしまっているからです。
重大問題のはずです。反発どころの話ではありません。
(調査への反発は、問いが問題)

精神的な世界にも、ちゃんと流行があるのです(笑)。
「どっちつかずで、両方アリ」が今の流行です。
だとすれば、問いはHOWしか無いと思いませんか?
(どっちつかずで、両方アリ)

長いこと「自分を見つめろ」と言われてきましたが、逆転しました。見つめるべきは、環境の方なのです。
問いの方向性が変わるということは、結構重要なポイントです。内面から外面に向かうからです。内部との対話から、外部との対話に変わります。
(問いの方向性が変わる)

でも逆に言えば、下位の問いとは、ストライクゾーンを外すところから始まる・・とも言えます。なぜならストライクゾーンは「HOW」であり、外れたゾーンが「WHY」だと思うからです。
(ストライクゾーンを外す)

問いへの答えが来ることが「当然」のように記述される昨今ですが、ゴールに走り出してしまってはいけません。それはすぐに「HOW」に変貌します。
常にスタートラインに戻り、「WHY」という問いを持つべきです。
(問いの相手が人間ではない)

そうです。「私は結果」という可能性の方が大だとすれば、「x」という原因になれるのは変です。私たち自身が「y」という結果の世界を生きているはずだからです。
このジレンマが、今いる私達の最大の問題と言っても差し支えありません。
(原因と結果の交錯・・y=f(x))

時空から私達に向けて沢山のもの(情報)が来ているのだと思いますが(それが「場」かも知れませんが)、それを受信しっぱなしなのではなく、まるでセンサーのように察知して、フィードバックを返しているのかも知れません。
この「フィードバック」が「問い」だという可能性も高いと思います。
(センサーフィードバック)

地球上の動植物は、太陽や水の「結果」だと思ってきました。「私達は生かされている」・・とも言い換えられました。
しかし生かしているのは、植物をも含めた我々側かも知れません。
(地球系大気における植物の役割)

講演会で目隠ししながら食べさせ合っているスライドがありました。あれはまさに、第三者が介入するからだと思います。
(目隠しで食べさせ合う)

間接性が維持できるのは、五個しかないのです。
つまり世界は、「間接的にフィードバック」させようという関係性(笑)があるようです。
(いよいよ五行に切り込む)

「無意識のルール」
 
 約束にはプラスのイメージがあります。約束を守ることが善的行為だともされています。
 しかし本当にそうでしょうか・・。
(約束)

 お互いに合意した約束など、一つも無いですよ。約束が元々存在しないのだから、それを破るという概念を持ち出すことすら出来ません。あなたに非は、全くありません。
(約束したと勝手に思い込んでいるケース)

 でも考えてみれば、約束というのは、エゴとエゴがぶつかり合った接点のようだと思います。お互いがお互いを最大限に利用するという接点です。
(約束を勝手に強要される・・)

 一対多の暗黙の約束というのは、一対一の約束事よりも影響力が大きいのではないでしょうか。
 一対一の約束は、破ったとしてもその人との関係にヒビが入るだけです。
 しかし一対多の暗黙の約束を破ると、社会との関係にヒビが入ります。
(一対多の暗黙の約束)

 人間は本来、拘束を嫌うでしょうか?人間は本来、自由に生きたいのでしょうか?
 否・・だと思います。これは17歳の時から私がずっと追求している問題でもあります。
(人は約束を欲する)

「腹が減ったら飯を食う」・・この境地の逆を人間はやっています。それも好き好んでやっています。
「腹が減ったら飯を食う」・・こんな境地になれば、ほとんどの人は生きていけないと思います。拠り所を失うからです。
(人は約束を欲する)

 このHPでは「私は結果」が前提となりつつあります。その上に「約束、決めごと、ルール」が構築されようとしています。そうしないと多分、安心できないのだと思います。
(作り出す約束)

 私は無責任に、やりたい事をしたいです。だから手帳は真っ白です。その日は、その日思った事をしたいのです。さらに、その日した事には、責任を持ちたくありません(笑)。
(約束を破るバカと、守るバカ)

 世界を意識と無意識に分けたとき、私が信用しないのは意識の世界です。意識の世界は社会そのものだと思います。だから約束を強いてくるのだと思います。無意識の世界に支配されないように・・。
(「約束」は、無意識が顔を出すことに制限をかける)

 意識の世界だけに約束(ルール)があるわけではありません。無意識の世界にもあるのでした。それを追求しているのが、トラさんであり面相師などであります。
(無意識にも「約束(ルール)」があった)

 意識の周りを無意識が包含していたら、意識は気づくでしょうか?
 一部が接触していれば、他の部分と比較することで、違いに気づくはずです。
 でも周りの全てが無意識なら、気づかないのではないでしょうか・・。
(無意識のルールに気づけなかったワケ)

 二つの世界の接点において、何か一つでも「おかしい」と思えることがあれば、それが突破口になり、ルールが暴き出されると思います。
 しかし、矛盾点は発見されていないのです。
(無意識のルールに気づけなかったワケ)

 やはり「私は結果」的概念の特徴である「間接性」、「ネットワーク性」、「代替可能」、「一過性」などを、理解する必要があったのかも知れません。
 それを経てから、運命変更をスタートさせたかったのではないでしょうか・・。
(無意識のルールは、なぜ今まで隠してあったのか?)

 言い方を変えれば、人間は「自然」の中から次第に「出てきた」のではないでしょうか・・。なので、無意識は「自然的存在」だと思います。しかし意識は「反自然的存在」だと思います。そして「私は誰?」という問いを発するのは、その中でも特に反自然的行為だと思います。
(下位の問いが、無意識のルールを引き出したのかも)

 実は、認識すると分離するというのが私の仮説です(大した根拠はありません)。
 そしてメイドだということを認識した後、メイドとご主人は対等の関係になっていくのだと思います。
(意識と無意識が分離して、関係が対等になる)

 メイドは自分が「代替可能」であることを知っています。しかし他の人達は、そうは感じていません。「私のプロとしての技術に任せなさい」と自信満々です。 
 メイドは大した技術もないので、ただひたすらご主人を観察するだけです。
(メイドが外部の視点を獲得)

 つまりプロ達は、自分の経験の視点からモノを見ています。
 でもメイドは違います。ご主人様は、どういう意向を持つか分かりません。
 つまり経験を上回るような、360度の視点を開いていないといけません。
 この「視点」こそが、モノを言うのだと思います。決して「行動」だけではないのです。
(視点こそ、モノを言う・・)

「運命ががんじがらめなのに腹が立つ」という人もいます。しかしそれは神が気まぐれに決めている運命ではありません。あるルールに則った運命なのです。
(「ルール」には自由の香りが・・)

 団体旅行では、「人生」を自分で計画するのは不可能です。どこに行くかは、全てお任せです。なので、旅の間は別のことを考えていられます。
 実は、この点に私は「自由」を感じるのです。
(決められた中での自由)

 さあ、あなたなら、どうしますか??船の行き先の変更に一生をかけますか?どうせ生まれてきたのだから、より良い一生に変えますか?
 私はそうしません。どうせ生まれてきたのに、船の進行方法に興味を持つのは、バカバカしいです。
(運命にお任せ)

 置物がアウトプットだとすれば、外応はインプットです。その両方が、垂直方向だと思うのです。
 進行方向に向くことは、運命とガップリと組み合うことです。運命を受けて立つことです。大抵の人は、これをやっています。
(運命変更のインプット・アウトプットは、垂直方向から)

 90度ズレるとどうなるのでしょうか・・。連鎖していくことが可能になります。
 鎖(くさり)は、それぞれのパーツが90度ズレています。だから次々に噛み合って、連鎖(チェーン)を作ることが出来ます。
(90度のズレ)

「側面側」から来るズレた情報が「前面側」の運命を大きく変えるのが、今議論している問題であり、我々の運命の研究だと思います。
(「前方側」の価値と、「側面側」の価値)

 私が下位の問いを持てるようになったのは、「制御」が原因です。制御とは自分にブレーキをかけることです。
(子供には「側面」が見えるか?)

 子供には前しか見えそうにありません。それも極めて直近の前です。
 とすれば、側面が見えるのはやはり「大人」だということになります。
(やはり「大人」)

 さて、気が散るのは意識の仕業と思われるかも知れませんが、意識は五秒遅れた無意識と考えられるので、無意識のマルチタスクと考えられます。
(無意識のマルチタスク)

 いつもと同じ、メトロノームな生活です。そこにいると、一つのメリットがあります。
 側面からの割り込みが拾いやすいのです。しかも前面からの信号が少ないので、それを頭の中で浮遊させることができます。これは、前方からの信号をわざと落として、側面の信号を相対的に上げていると言えます。
(前方の信号を相対的に落とす方法)

 マルチでやる人は経験があると思いますが、もう一方の仕事からヒントを貰えることがあるということです。
 しかもシングルでやっている時よりも、スピードがアップしているはずです。
(上位同士のマルチタスク)

「主」は、ご主人様とも言い換えられると思います。「副」がメイドです。
 メイドは出過ぎてはいけません。ご主人様がいつでもホンちゃんの仕事に戻れるような状態でいなければなりません。
(息抜きに、散歩してはいけない)

 つまり、頭の切り替えるするには「何もしない状態」であってはならないのです。短期的に何かに没頭することで頭は切り替わるのです。
(コトをすることで切り替える)

「やるべきであること」を優先してやっていれば、事は円滑に運びます。
 社会を良くすることととか、人を助けることなども「やるべきであること」です。
 しかし・・です。「やるべきであること」というのは時として変化します。
(「やるべきであること」に対するブレーキ)

 一つ目は、宇宙というものを作り、具象化したということです。具象化するということは、観察され、いじられるということです。
 二つ目は、宇宙は誕生した瞬間に、宇宙の終わりまでの運命を決めてしまい、その変更という方法も作ってしまったことです。
(時空はご主人様かメイドか)

 映画『ダビンチコード』を観ましたが、イエスキリストに子供がいて、その子孫が生きているかどうか・・が焦点となっています。それが世に公開されれば大変なことになる・・と。
 しかし神がメイドだったということがバレる方が、もっと大変なことになると思います(笑)。 
(「ご主人様」でなくて良かった)

 方向性としては「脱メイド化」です。
 ところが一昨日、「神もメイドだった」という仮説を出しました。これが正しいとしたとき(別に正しくなくても良いのですが)、人間はどうなのでしょうか・・。
(両方「メイド」)

「私は誰?」を分かっていないのに、目的に向かった行動をする人が多いからです。これは「私は誰?」を意識していないのだと思います。意識していなければ無いも同然です。
 なので目的に向かってしまうという人は、ある意味、とても動物的なのだと思います。
(メイドとメイドだと、目的は存在しない)

「メイド−メイド」。これは新しい関係です。命令はどちらの側からも出ません。両者とも「待っている側」です。そして方向性を持たないので、目的が不在です。
(メイドとメイドだと、目的は存在しない)